早川孝太郞「三州橫山話」 蛇の話 「引越して行つた蛇」・「群をした蛇」・「ヒバカリの塊り」・「烏蛇の恨」・「ツト蛇」・「人の血を吸ふ蛇」
[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。
以下に出る蛇の各種は、前回の記事の私の注を見られたい。]
○引越して行つた蛇 橫山の字池代(いけしろ)、柳久保と云ふ所の田の畔に、山カヾシの大きな奴が居るとは、私の祖父の若い頃からの言ひ傳へたさうですが[やぶちゃん注:ママ。『日本民俗誌大系』をみると、「だ」となっているので誤植。]、私の父なども、每年二三囘は必ず見かけたと云ひました。大蛇と云ふ程ではないが、長さが二間[やぶちゃん注:約三メートル六十四センチメートル。]程あつたと謂ひます。草刈りに行つて見た者の話には、草むらの中に長くなつてゐるので、蛇の居るまわりだけ草を刈り殘して、他の部分を刈つてゐると、蛇がいつか刈り取つた方へ引き移つてゐるので、後から殘した處を刈つたと云ひます。その蛇がこの二十年來、見えないのは、餘り軀が大きくなつたので、何處か、深山へ引越したのだらうと云ひましたが、其後、村の山口伊久と云ふが、近くの山で、藤蔓を採つてゐて見た蛇が、それだらうと云ひましたが、それ以後は、見かけた事を聞きません。
私の家の前の石垣に、每年秋の彼岸頃に姿を見せる、三疋一交《つが》ひだと云ふ山カヾシがありましたが、これが近年何處かへ引越したものか、居なくなつたさうです。大分遠方迄遊んで步くと見えて、澤を越して五六町[やぶちゃん注:約五百四十五~七百六十四メートル。]も隔つた場所に遊んでゐるのを見た事がありました。
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。
「橫山の字池代」現在の愛知県新城市横川池代(よこがわいけしろ:グーグル・マップ・データ)
「柳久保」不詳。現在、新城市海老柳久保(えびやなぎくぼ)があるが、ここは横川地区を外れた、ずっと北にあるので、ここではない。消えてしまった池代地区の小字のようである。
「長さが二間」は錯覚の類いである。ヤマカガシは最大長でも一メートル五十センチである。]
○群をした蛇 蝮《まむし》は魔虫《まむし》だから、これを殺して、桑の木(楊《やなぎ》とも云ふ)や、ウツギの木で皮を剝ぐと、其處いら、一面の蝮になると云ひます。橫山の早川定平と云ふ四十年前に亡くなつた男の話ださうですが、此男が若い時、家を壞したあとの、古木の積み重ねた下から、蝮が一ツ頭を出してゐるのを見つけて、殺して皮を剝ぐと、同じ場所にまだ一ツ頭を出してゐるので、其も殺して皮を剝ぐと、あとから後から、同じやうに一ツ宛居るのに、たうとう十三迄殺してもまだ一ツ同じやうに居るので、豪氣な男故、何程居るのかと言つて、棒切《ぼうきれ》で、其の木を持ち上げてみると、中に何百と數知れぬ蝮がゐたと謂ひます。
何等か眼のせいで、假に蝮に見えたのではなからうかと云つて、殺した蝮を串にさして、軒に吊るして置いたさうですが、何時迄たつても、蝮に變りはなかつたと謂ひます。其時何の木で皮を剝いだか聞きませんが、蝮には、斯うした話が、他にも三ツ四ツあります。
現今八十餘歲になる小野田ぎんと云ふ老婆の話ですが、此老婆が子供の頃、村の北澤と云ふ幅一間半[やぶちゃん注:約二・七三メートル。]ほどの小川の岸で、山口豐作と云ふ友達と遊んでゐると、川下から、何千と數知れぬ蝮の群が、ぞろぞろと水も見えない程登って來るのを見て恐ろしくなって、近くの家の、早川彌三郞と云ふ男を呼んで來ると、其男が棒切れを持つて、岸に這ひ上らうとする蝮を、拂落《はらひおと》としたと云ひますが、大部分は、川上へ登つて行つたさうですが、後から後から果てしなく續いて來るので、一旦家へ歸つて、再び行つて見た時は、もう一ツも居なかつたと謂ひます。
[やぶちゃん注:「桑の木」バラ目クワ科クワ属 Morus は変種や品種が多いが、本邦で一般に自生するそれは、ヤマグワMorus bombycis である。「どどめ」と呼ばれるそれを、小さな頃は裏山でとって食べたのを思い出す。美味いけれど、唇や舌が強力な紫色に染まり、習合果の粒々の間の毛が、舌にイライラしたのものだった。
「楊」キントラノオ目ヤナギ科 Salicaceaeの本邦種は三十種を越えるが、単に「やなぎ」と呼んだ場合は、ヤナギ属シダレヤナギ Salix babylonica var. babylonica を指すことが多い。
「ウツギ」ミズキ目アジサイ科ウツギ属ウツギ Deutzia crenata 。初夏に咲く「卯の花」は本種である。和名は「空木」で、幹(茎)が中空であることに由来するとされる。私が中・高を過ごしたのは富山県高岡市伏木の二上山麓で、しばしば山中を跋渉したが、この花を見つけると、人気のない山中でも心落ち着いたことを思い出す。
「北澤」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左下方の寒狹川に「北澤」と指示がある。「ひなたGPS」のこの小流れがそれである。]
○ヒバカリの磈り ヒバカリは、奇麗な赤色をした小蛇で滅多に居ない蛇ですが、これに咬まれると、その時刻が朝なれば夕方、夕方なれば朝までしか壽命がないから、それでヒバカリと云ふのださうですが、咬まれて死んだと云ふ話は聞いた事はありません。
私の母方の祖父が子供の時、八名郡山吉田村字新戶の實家の裏の畑で見たと言ふのは、ヒバカリが、一ツの大きな磈《かたまり》になつて、轉がつてゐたさうですが、一ツ轉がつては、全部の蛇が頭を上げて、あたりを見たと謂ひます。附近からは、何處から來るともなく、無數ノヒバカリが、ゾロゾロと其れに向かつて集つて來たと云ひますが、遠い所から來るやうにはなく、ふつと其所いらから、湧《わい》て來るやうに見えたさうです。家の人達が全部仕事に出たあとで、隣の子供と見て居て、何時迄も果てしがないのに、一旦家へ入つて、再び出て見た時は、もう一ツも居なかつたと謂ひます。
ヒバカリに限らず、どんな蛇でも、かうして磈になつてゐる時は、中に玉を持つてゐて其玉を人が奪つて來ると、金銀が自然に集つて來るなどゝ謂ひます。又其磈の中へカンザシを入れてやると、其玉を置いて行くとも謂ひます。
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。ヒバカリが無毒蛇であること、その誤った和名の由来は前回の私の注でも示しておいた。]
○烏蛇の恨《うらみ》 蛇が鐮首(頸を高く上ける事[やぶちゃん注:「け」はママ。「げ」の誤植。])を上げて怒つた時は、ちよつと撲《う》つても、すぐ頸が飛ぶといひます。飛んだ頸は必ずさがして殺して奥ものと謂ひます。
烏蛇は、蛇の中でも最も執念深く、又强いものださうで、これに馬の沓《くつ》を投げつけると、すぐ鐮首を上げて追ふと謂ひ、とりわけ芦毛馬《あしげうま》の沓には、怒つて果しなく追ふさうです。ある時、山吉田村の滿光寺の小坊主が、門前に遊んでゐて、烏蛇を見つけ、馬の沓を放りつけた所が、何處までも追つて來て、遂に逃げ場がなく、本堂の須彌壇《しゆみだん》の上に驅け上がつたので、蛇がすべつて登ることが出來ないでゐると、其物音を聞きつけた方丈が、此有樣を見て、掃木《はうき》を持つて來て、其蛇を拂ふと、蛇の頸が飛んで行衞が知れずなつたと云ひます。其夜から小坊主が發熱して頻りに渴きを訴へるので、寺女が水甕の水を汲んで來ては飮まして介抱してゐると、明方になつて遂に息が絕えたと謂ひます。朝になつて、其女が水甕の傍へ行くと、甕の中で何か音がするので、覗いて見ると、中に前日の蛇の頭が泳いでゐたといふ事です。
同じ村の豐田某と云ふ農夫(名前を聞きたれ共《ども》記臆せず)が、秋、山間の田で仕事をしてゐて、烏蛇を見かけ、馬の沓を放りつけると怒ると言ふ話を思ひ出して、投げつけて見ると、果して鐮首を上げて追つて來たので、素早く稻叢《いなむら》の影に隱れて待つてゐて、追つて來た蛇を鍬で打つと、矢張り頸が飛んで其行衞が知れなくなつたので、其日は仕事を中止して家へ歸つて、再び其處へは行かなかつた。ところが、翌る年の春、そんな事は忘れてしまつて、雨の降る日に、其田へ行つて春田(春、田を耕す事を春田と云ふ)をしてゐると、「何處からともなく幽かなうなり聲がすると共に、小石程のものが、咽喉の所へ飛んで來て、ぶつかつたので、簑を脫いで檢《あらた》めると、一つの蛇の頭が、簑の紐に喰付《くひつ》いてゐたと謂ひました。大方《おほかた》秋の頃殺した烏蛇の頸が、恨みを晴らしに來たのが、簑を着てゐた爲、咽喉に喰付く事が出來なかつたのだらうと云ふことでした。私の母が子供の折、本人から聞いたと謂ひました。
[やぶちゃん注:ここで早川氏が挙げた二話は、本書の中でも、近代怪談譚として自信を以って推薦出来る優れたリアルなホラーと言えるものである。
「烏蛇」は既に述べた通り、アオダイショウの異名である。
「山吉田村」現在の愛知県新城市下吉田五反田山吉田(グーグル・マップ・データ。以下同じ)附近の広域旧村名。
「滿光寺」愛知県新城市下吉田田中に現存する曹洞宗青龍山満光寺。本尊は十一面観世音菩薩。
「須彌壇」仏像を安置する台座。仏教の世界観で、その中心に聳える須彌山(しゅみせん)に象ったことが名の由来。
「方丈」もとは禅宗で寺の長老・住職を指す。後に他宗でも、かく呼ばれた。]
○ツト蛇 ツトツコとも、槌蛇《つちへび》とも謂ひます。ツトのやうな格好だとも、又槌の形をしてゐるとも、槌のやうに短かいのだとも謂ひます。蛇の頸ばかりになつたのが、死なゝいでゐて、其れに短かい尾のやうなものが生へるのだとも謂ひます。山や、澤などにゐて、非常な毒を持つたもので、これに咬まれると命はないなどゝ謂ひます。私の母の幼友《をさなとも》だちは、この蛇に咬まれて一日程患つて死んだと聞きましたが、それは澤にゐたのだと謂ひました。東鄕村出澤の鈴木戶作と云ふ木挽《こびき》の話でしたが、鳳來寺村門谷《かどや》から、東門谷と云ふ所へ行く道で、某と云ふ男が見たのは、藁を打つ槌程の大《おほき》さで、丈《たけ》が二尺ほどのものであつたと謂ひます。道の傍の山を、轉がつてゐたと云ひました。
澤などにゐるのは、蛇ではなく、鰻の頭ばかしなのがなつたのだと云ふ人もありました。
[やぶちゃん注:所謂、幻の空想の異蛇「つちのこ」である。古くから「野槌」などと呼んだ(当該ウィキによれば、鎌倉時代の仏教説話集「沙石集」には、『徳のない僧侶は深山に住む槌型の蛇に生まれ変わるとされて』おり、『生前に口だけが達者で智慧の眼も信の手も戒めの足もなかったため、野槌は口だけがあって目や手足のない姿』なのだとあるとし、「古事記」「日本書紀」に登場する『草の女神』とされる『カヤノヒメの別名に野椎神(ノヅチノカミ)があ』るとし、『記紀神話にはカヤノヒメを蛇とする記述は見られないものの、夫のオオヤマツミを蛇体とする説があることから』、『カヤノヒメも蛇体の神だと考えられている』とはある。しかし、これらを以って、上代や鎌倉まで「ツチノコ」のルーツが探れるとするのは如何なものかと私は思う。例えば、「沙石集」のそれは、所持する岩波文庫版(一九四三年刊)で示すと、『野槌(づち)といふは常にもなき獸なり。深山の中に希にありと云へり。形大にして、目鼻手足もなくして、只、口ばかりある物の人をとりて食ふと云へり。是は佛法を一向名利のために學し、勝負諍論して、或は瞋恚を起し、或は怨讎を結び、慢憍勝他等の心にて學すれば、妄執のうすらぐ事もなく、行解のおだやかなる事もなし。さるままに、口ばかりわさかしけれども、知惠のもなく、、信の手もなく、戒の足もなきゆゑに、かかるをそろしき物に生たるにこそ。』とあり、口だけの存在とあって、蛇とも言っていない。而してこれは、仏僧が架空した不心得の学僧の畜生道に落ちたもののカリカチャアに過ぎず、「つちのこ」の正統なる祖先とはとても言えないのである)、奇体な全くの未確認蛇類である。「南方熊楠 本邦に於ける動物崇崇拜(18:野槌)」の私の詳細な注を見られたい。但し、私は実在を全く信じていないので、悪しからず。
「ツトツコ」「ツト」は「苞」で、土産や携帯用の、藁などで包んだ入れ物。「野槌」は、首と短い尾以外の胴体部は、五平餅をややスマートにした形状で、全体にずんぐりむっくりして、まさにその「苞」に似ているとされたことによる。
「東鄕村出澤」横山の寒狹川の対岸の、現在の愛知県新城市出沢。
「鳳來寺村門谷から、東門谷と云ふ所へ行く道」「門谷」は鳳来寺の門前町を含む鳳来寺山の周囲の地域を指す。この附近(グーグル・マップ・データ航空写真)。「東門谷」はその南東部の山間。「ひなたGPS」の戦前の地図と、現在の国土地理院図でも地名が確認出来る。]
○人の血を吸ふ蛇 靑大將は、人家の天井にゐて、病人などの血を吸ふと謂ひます。さうした時は、病人の體から、見えるともなく、糸のやうなものが、するすると天井に昇つてゆくなどゝ謂ひます。
鳳來寺字長良の、ある家の隱居が、久しく患つてゐて格別何處が惡いと云ふのでもなく、每日炬燵にばかり這入つてゐて、だんだん衰弱して行くので、家の中が陰氣でならないからと、春の彼岸に家の大掃除をやり、九重《ここのへ》の守《おまも》りと云ふものは、靈驗があると云ふ噺を聞いて、近くの村にあるのを借りて來て祀つて置いて、其れから一ケ月程たつてから、何となく炬燵の中が氣味が惡いから、一度檢《しら》べて吳れと、老人が再三訴へて聞かないので、炬燵の檐[やぶちゃん注:ママ。『日本民俗誌大系』版の当該部を見ると、『櫓(やぐら)』となっていて誤植と判る。]を取除《とりの》けて見ると、中に靑大將の三尺程もあるのが、二つ丸くなつてゐたと云ふことでした。大掃除をした時には更にそんな物の姿は見かけなかつたと謂つて不思議がつてゐました。蛇は、二つ共裏口の方へ逃げてしまつたさうですが、病人は、其れからめきめき全快したさうです。
[やぶちゃん注:「鳳來寺字長良」前にも疑問を掲げたが、これは「長樂」の誤りではなかろうか。旧鳳来寺村には「長良」はなく、「長樂(ながら)」ならあるからである。「ひなたGPS」のこちらを見て戴くと、現在も地名として生きていることが判る。
「九重の守」サイト「奈良寺社ガイド」の「天川村」の「最強のお守り 九重守」に、『大峰山系中七十五靡(なびき)中の神仏像数基を壱巻の軸に修録した霊験あらたかなるお守りで』、『家庭内に困難・心病の極限に当たった場合、この守軸を開封すればご利益ありと伝えられ』、因みに、『一度も開封しなければ、一家が無事平穏で安泰だった証明』とある、こりゃまた、完全万能なる御守りのことらしい。]
« 「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 長柄の人柱 / 「話俗隨筆」パート~了 | トップページ | 早川孝太郞「三州橫山話」 蛇の話 「女を追ふ蛇」・「蟻に化した蛇」・「砂を吐く蛇」・「蛇の神樣」・「兩頭蛇」・「トカゲを追ふ蛇」・「蛇の苦手」 / 蛇の話~了 »