西播怪談實記(恣意的正字化版) 櫛田村不動堂の鰐口奇瑞幷瀧川の鱗片目の事
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、但し、「巻四」の目録の読みについては、これまでと同様に総て採用することとする。歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]
○櫛田村(くしだむら)不動堂の鰐口(わにぐち)奇瑞(きずい)幷《ならびに》瀧川(たきかは)の鱗(うろくず)片目(かため)の事
佐用郡多賀村(たがむら)に善右衞門といひしもの、あり。農業のいとまには、材木を商ふて、大坂に通ふ事、久し。
爰に隣(となり)村櫛田といふ所に、靈驗(れいげん)あらたなる瀧、在。
里を離れて二十餘町、巖(いわほ)、屛風のごとく重(かさなり)、水の落(おつ)るは、千筋(ちすじ)のいとのごとくにして、凡(およそ)十丈を過(すぎ)たり。寔(まこと)に「飛瀧(ひりう)直下二千尺」ともいふべし。[やぶちゃん注:「飛瀧(ひりう)」は底本では『飛滝(ひりう)』とあって、ママ注記がある。なお、私が一貫してここで「滝」を「瀧」に書き換えている理由は、ロケーションである「櫛田」に近い瀧のある箇所は「ひなたGPS」で戦前の地図を見ると、「瀧谷」(☜)という地名表記になっていることに拠るものであり、私の趣味でそれにしている訳ではない(但し、私は「滝」は嫌いで、自分は使わないし、「瀧」が圧倒的に好みではある)のでお断りしておく。]
側(かたはら)側に、小堂を建て、聖德太子御作(おんさく)の不動の尊像を安置せり。
享保の初方(はじめかた)、鰐口を寄進するものありて、彼(かの)善右衞門に、
「此鰐口を、調(とゝのへ)くれよ。」
といふ。
善右衞門、元來、信仰の瀧なれば、共々に世話して、大坂にて八寸の鰐口を整(とゝのへ)、年號・施主の名を切(きら)せて持下(もちくだり)しが、比《ころ》しも、水無月のすゑ、
「暑(あつさ)を除(よけ)ん。」
と、明石へ、夜船(よふね)に乘(のり)けるに、摩耶(まや)の沖にて、俄(にはか)に白雨(ゆふだち)の、風に波を卷(まき)、船頭迄も、方角を失ひ、櫓(ろ)のたてばも、しどろなれば、皆、
「荷物を捨(すて)て、命を、たすからむ。」
と、船中(せんちう)、さはぎ立《たて》しが、此善右衞門も、雜物(ざうもつ)を捨(すて)て、鰐口斗《ばかり》を首(くび)に懸(かけ)、不動の眞言をくりて、[やぶちゃん注:「くりて」「繰りて」。くり返し唱えて。]
『この難を、助け給へ。』
と、一念に祈(いのり)しかば、何國(いづく)ともなく、火の、みへければ、船人(ふな《びと》)、力を得て、此火の方へ漕附(こぎつけ)しが、程なく、陸に着(つき)て上(あがり)けれども、雨、頻(しきり)に降(ふり)て、くらければ、いづこをさして行べきやうもなく、思ひわづらひけるに、鰐口より、光を放(はなち)て、道を照す事、明松(たいまつ)の如(ごとく)なれば、彌《いよいよ》、信心、肝(きも)にめいじ、乘合(のりあい)の人々も、此光(ひかり)に付(つき)て、「脇(わき)の濱」といふ所に着(つき)たるは、有難(ありがたき)事ども也。
今に、善右衞門が子孫、彼(かの)瀧を信仰する事、一方《ひとかた》ならず、六月・八月の朔日・十五日には、諸人(しよにん)、參詣して、鰐口を打《うち》ならして、諸病を祈るに、奇瑞あり。
爰(こゝ)に又、一つの不思議あり。
其瀧川の鱗(うろくず)、休堂(やすみだう)より奧は、悉(ことごとく)、片目也。
諸人、是を喰(くふ)事、なし。
休堂より川下へ成(なり)ては、世の常の鱗なり。
「不動尊、片目ゆへに、かく。」
と、いひつたへたり。
何分、休堂を堺(さかい)にて、わかちある事、不思議ならずや。
予が近所にて、直《ぢき》に見聞《けんぶん》せし趣を書つたふもの也。
[やぶちゃん注:「櫛田村」以下の多賀に東北で接する佐用町櫛田(グーグル・マップ・データ航空写真)。同地区の山中には(近くまで自動車道がある)「飛龍の滝」(同前)があるが、これが本篇で言う「瀧」である。ストリートビューに糸田仁氏の定点三百六十度写真が一箇所ある。前のサイド・パネルには多数の写真があるのだが、失礼乍ら、こちらは、どれもあまり上手く撮れていない。「不動堂」は四阿風の隙間だらけのものが滝の直ぐ前にあってそれらしく、別なこの写真では祠の前面に鰐口がある。その当時のものであるかどうかは判らないが、新しいものではないようだ。
「鰐口」仏具。私の『「和漢三才圖會」卷第十九「神祭」の内の「鰐口」』を参照されたい。図有り。
「佐用郡多賀村」現在の兵庫県佐用郡佐用町多賀(グーグル・マップ・データ)。
「材木商ふ」本書の作者も佐用村の材木商春名忠成(屋号は「那波屋」)であるから、親しい人物でもあったのかも知れない。
「二十餘町」二キロ百八十二メートル超。櫛田の町中から谷川沿いに実測すると、二・五キロメートルはある。
「摩耶(まや)の沖」現在の兵庫県神戸市灘区の六甲山地の中央に位置する標高七百二メートルの摩耶山(まやさん:グーグル・マップ・データ。西方に「明石」)見える神戸の大阪湾の沖合。
「不動の眞言」不動真言の小咒(しょうしゅ)は「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」である。
「火の、みへければ」不動明王の光背は大火炎模様が常套である。
「脇(わき)の濱」現在の兵庫県神戸市中央区脇浜(わきのはま)海岸通附近(グーグル・マップ・データ航空写真)であろう。拡大して貰うと判るが、まさに摩耶山の真南に当たる。
「不動尊、片目」トンデモ誤り。中世以降の不動明王像の一つの特徴に「天地眼」(てんちげん:右目はかっと開いて天を見渡し、左目は地に向けて半眼にしているのを、誤認したものである。「片目の魚」となると、柳田國男の領分だが、これは誤認だから、リンクさせようがちょっとない。寧ろ、総てのそこの川魚が片目というのが興味深い(通常の民俗社会の「片目の魚」は魚種が限定されるのが普通)が、特定流域のみに多数種に集中するというのは、生物学的に見て、まず、あり得ないことである(棲息域が洞穴等の特殊環境ならまだしもだが)。
「休堂」瀧へのアプローチがそれなりにあるので、途中にあった休憩のための堂であろう。ストリートビューで見たところ、ここに飛龍の瀧への道標の石らしき古いものが二つ見出せる。ここに「休堂」があったのかも知れない(グーグル・マップ・データでは、この中央の川が西から東へカクッと交差しているカーブのところ)。]
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