早川孝太郞「三州橫山話」 蛇の話 「女を追ふ蛇」・「蟻に化した蛇」・「砂を吐く蛇」・「蛇の神樣」・「兩頭蛇」・「トカゲを追ふ蛇」・「蛇の苦手」 / 蛇の話~了
[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。
以下に出る蛇の各種は、前々回の記事の私の注を見られたい。
なお、これを以って「蛇の話」パートは終わっている。]
○女を追ふ蛇 女が石垣の上から小便をすると、蛇が陰部へ這入《はい》るなどゝ謂ひます。昔、ある處で、女が石垣の上から小便をして、其處を行過《ゆきす》ぎようとすると、石垣の間から蛇が頸を出して追ふので、通る事が出來ずにゐると、其處へ一人の武士が通りかゝつて、石垣の蛇のゐる穴の上に刄《かたな》を十字に擬して女を通してやると、蛇が四つに裂けながら、女の後を追つて行つたと云ふ話もあります。
[やぶちゃん注:dostoev氏のブログ『不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-』の「蛇と女(蛇が女性に侵入する時…。)」に、筆者の『高校時代に、遠野は小友町の荷沢峠で』起った、バス・ガイドの女性の陰部にマムシが侵入し、彼女は亡ったという、驚天動地の事件が記されてあった。古い説話集にも類似譚は数多ある。そちらでも紹介されてある「耳嚢 蛇穴へ入るを取出す良法の事」も私のものをリンクさせておく。]
○蟻に化した蛇 所は忘れましたが、ある家でツバメの巢へ蛇が來ては、卵をとつて仕方がないので、其蛇を殺して、土中に埋めました。處が、それから蛇は少しも來なくなりましたが、その代りに、ツバメが少しも育たないのに、不審に思つて巢を檢《あらた》めると、澤山の蟻が來て、ツバメの子をみんな食ひ殺してゐましたので、だんだん其蟻の來る道を辿つて行つて見ると、前に蛇を殺して埋めた場所へ行つてゐるので、其處を掘り返してみたら、蛇の體が蟻になつてゐたなどゝ云ふ話がありました。
○砂を吐く蛇 之も母から聞いた話ですが、ある處で、蛇が鷄の巢に來て、卵を呑んで仕方がないので、その家の若者が、卵の殼に砂を詰めて鷄の巢に置くと、蛇が其を知らずに呑んでしまつたと謂ひます。其後蛇が背戶口に出て、其砂を吐き出して置いて行つたのを、若者が知らずに踏付《ふみつ》けると、其日から足か[やぶちゃん注:ママ。「が」の誤植。]痛み出して、どんなに療治しても治らず、しまい[やぶちゃん注:ママ。]にビツコになつたと言ひます。八名郡の宇里と云ふ所にもかうした話があつた事を聞きました。
[やぶちゃん注:「八名郡の宇里」愛知県新城市富岡を中心にした旧宇利村のことと思われる。そのグーグル・マップ・データの地区を貫流する川は「宇利川」で、東方域外に「宇利城跡」も確認出来る。]
○蛇の神樣 鳳來寺村字門谷《かどや》の、里人が白岩樣と呼ぶ神樣は、お神體が蛇で、此神に願《ぐわん》を掛けた時は、お禮に白米を供へると云ひます。昔は蛇が姿を見せて其米を喰べたと云ひますが、現今は蛇の體が大きくなつた爲め、穴より外に出る事が出來なくなつて、里人にも見る事は出來ないと謂ひます。此神が、門谷の庚申堂の尼に思ひをかけて美男に化けて每夜尼の許へ通つた爲め、尼は日每に衰弱して遂に死んでしまつたなどゝ云ひました。其尼の許へ通つて來る若い男の姿を見たものはあつても、白岩樣と知るものはなかつたのを、尼が自慢に、附近の者に、話したとも謂ひます。近年此神に靈驗ありと傳へて、立派な御堂などを寄進するものがあつて、非常な繁盛をしてゐると話を聞きました。
[やぶちゃん注:「門谷」既出既注。
「白岩樣」「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)の注に、三葉の写真入りで、『門谷の鳳来寺表参道の一番奥、そこからは石段が始まる所の右方に、雲竜荘という宿屋があります』(ここ。グーグル・マップ・データ航空写真)『その雲竜荘の駐車場から、如何にも蛇が棲みそうな、苔生した大小の岩が積み重なった間にある石段をのぼって行くと、白岩大龍王のお幟が立っていました。龍になってしまってはよほどの穴でないと出て来れないと思います。その分、霊験も大きくなったと思われますので、願い事がある人は一度お参りしてはいかがでしょうか』という解説があった。何時か、行ってみたい。]
○兩頭蛇 兩頭蛇と云ふ奴は、蛇が蛇を呑んで、呑まれた奴が、呑んだ方の腹を食ひ破つて頭を出して、出來ると謂ひます。この蛇を人間が見つけた時は、中央から二つに切つてやるものだと謂ひます。
橫山の山口豐作と云ふ男が、相知刈《あひちがり》と云ふ所の山で仕事をしてゐると、傍で、縞蛇の大きな奴が、同じ大きさの山かゞしを、半分程呑みかけてゐたそう[やぶちゃん注:ママ。]ですが、一日仕事をして、夕方歸りがけに見ると、まだ全部呑み切らないでゐたさうです。蛇が仲間喰いする事は珍しくないと見えて、或年、籔坂と云ふ所を通りかゝると、丈三寸ばかりの小蛇を、同じ山カヾシが、頭から呑みかけてゐるのを實見した事がありました。又子供の頃、雨乞ひをするとて村の辨天の池の水を替へて、岸へ上つて休んでゐると、烏蛇の四尺ほどもある奴が、同じ程の縞蛇を追ひかけてゆくのを見た事がありました。
[やぶちゃん注:古いところでは、「谷の響 二の卷 十七 兩頭蛇」の私の注で、頭部の二重体奇形である双頭の蛇の話に触れてあり、最近のものでは、二〇二一年八月の、やはり二重体の絵入りで、『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 兩頭蛇』があるので、見られたい。無論、早川氏の言われる通り、蛇は、よく共食いをするので、その呑まれた蛇が、いちばんありそうなのは、腹を食い破るのではなくて、蛇の総排泄腔から頭を出した状態のものであろうか(小さな頃にぼろぼろになるまで眺めた図鑑に貪欲なヤマメが蛇を飲み込み、肛門からそれが首を出している絵を思い出す)。
「相知刈」既出の「相知の入」はここ(グーグル・マップ・データ)。「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の中央の左の上方に『字相知ノ入』とあるこの地区の内か、辺縁と推定される。]
○トカゲを追ふ蛇 私が少年の頃、村の寄木と云ふ所の道を通りかゝると、道に沿つて赤土を掘り取った跡に、靑大將が、赤土の面《おもて》に頸を突込んでをるのを見かけ、不審に思つて二三間[やぶちゃん注:約三・六四~五・四五メートル。]離れた場所から見てゐると、蛇の首から五寸許りはなれたところの土がポンと跳ね上がつて、其處から一疋の、大きなトカゲが飛び出し、道に向けて走つて來ました。蛇もあとから追つて來て、幅二間程の道を橫ぎつて、あと二尺程で、反對の側の草むらにトカゲが逃げ入るかと思ふ時、私の眼にも、トカゲが跳ね上つたと思はれましたが、そのまゝトカゲの姿が見えなくなりました。蛇も見失つたと見えて、其處に留まつて、頸を高く上げた儘頻りに胸の邊りを波打たせてゐました。私にも、トカゲが草むらの中へ這入つた樣にも思はれないので、不思議に思つてよく見ると、トカゲは體を一つ𢌞轉して、蛇の胸の下に、腹の方に頭を向けてこれも胸を波打たせて、ぢつと、すくんでゐました。蛇が今一寸程動けば腹がトカゲの頭に觸れる處です。危機一髮[やぶちゃん注:底本では、「危」がない。誤植。『日本民俗誌大系』版で補った。]とでも云ひましようか、何とも言へず此爭ひが怖ろしくなつて、そつと足を後《うしろ》に運んで逃げ歸りましたが、暫くしてから再び其處へ行つて見た時は、もう何も居ませんでした。
[やぶちゃん注:四箇所の「トカゲ」の太字は底本では傍点「﹅」。但し、「私の眼にも、トカゲが」の箇所は底本では傍点がずれて、「も、ト」の部分に振られてあったので、訂した。なお、後の「トカゲ」には傍点はない。それにしても、この観察力は民俗学者のそれというより、生物学者のそれである。最後まで見届けられなかったのは、早川少年のトカゲが襲われるかもしれない悲惨の瞬間を見られない優しさ故である。柳田國男なんぞのインキ臭い奴らの及ぶところではない。素晴らしい!
「寄木」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左下方の寒狹川右岸に『(ヨリ木)』とあるのが判る。グーグル・マップ・データ航空写真のこの中央附近と推定する。]
○蛇の苦手 人間に、ニガテと云ふ特殊な手の所有者があつて、此ニガテの者に握られると、蛇の自由が利かなくなると謂ひます。それは男にも女にもあつて、ニガテの人の子供が、必ずしも、ニガテとは定まらぬやうです。或人は、掌の筋が特別な形をしてゐるとも云ひましたが、私の實驗では、それも判然と區別はされぬやうに思はれます。現在私の記臆の中にも、女に一人、男に二人、此ニガテの所有者があります。
ナメクジの肌が觸れると蛇の體が腐るとは矢張り言ふことですが、百足は蛇の急所を知ってゐて、百足と蛇と爭ふ時は、蛇が急所を刺されて、非常な苦しみをすると云ひますが、果して急所は、どこであるか聞いた事はありません。
[やぶちゃん注:「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)には、『もしかしたらニガテ?? ◆◇マムシの掴みかた教えます◆◇』という、写真入りの伝授注がある。是非、見られたい。因みに、私は「ニガテ」の持ち主であるのかも知れない。幼稚園から小学一年の間、私は、父母が外交官であった伯父の甥っ子らを預かった関係上、練馬の大泉学園で二年半ほど過ごした。幼稚園から帰ると、友だちと一緒に近くの白子川沿いにある弁天池に遊びに行くのが常だった。周囲は田圃(半ばは休耕田であった)の広がる葦原と湿地で、水田の中にはシマヘビが鏡花好みなほど、さわに、いた。友だちと私は、その中の大物を捕るのを一番の楽しみとした。最後に首を持って垂らし、長さを競ったものだった(その後は、自然に返してやった)。一度も恐ろしいと思ったり、咬まれたことはなかった。今でも私は蛇を全く以って怖いとは思わないのである。]
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