早川孝太郞「三州橫山話」 「金白(コンパク)大王」
[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]
○金白(コンパク)天王 村の中央に萬燈山と云ふ眺望のいゝ山があつて、往時は七月十五日夜、村の各戶から松火を十二把宛持ち寄つて、萬燈を焚いたと謂ひますが、現今は六月十五日に、尾張の津島神宮からお札を迎へて來て、山の裾に、檜の葉でオタチク樣と云ふ祠《ほこら》の代用見たやうなものを慥へて[やぶちゃん注:ママ。また出てきた。「拵へて」の誤植。]、其中にお札を祀つて、豆提灯などを連ねて祭りをしました。
山の頂上に、稻荷と天王を祀つた祠が並んでゐて、天王樣と呼んでゐましたが、明治の初年に、此の稻荷が一時非常に流行つた事があつたと謂ひます。現今は殆ど參詣者もなく荒廢してゐますが、近年麓に住む山口吉三郞と云ふ者が、狐を捕らうとして、罠を懸けた處が、其夜の夢に白髮の老翁が顯はれて、吾は萬燈山に住むコンパク大王なり、早々罠を取拂へよと命じて、忽然と消え失せたなどゝ謂ひました。
[やぶちゃん注:「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の中央やや右寄りの位置に『(萬燈山)』とあり、その頂上に二つの黒丸(●)があってそこに『稲荷祠』と『天王』と記されてあるのがそこ。ここを「ひなたGPS」の戦前の地図と現在の国土地理院図で示すと、位置的に見て、この246のピークの西のピークがそれであろう。グーグル・マップ・データでは、この中央附近がそこらしく感じている。「稲荷と天王を祀つた祠が並んでゐて、天王樣と呼んでゐました」とあるのは、この萬燈山の二基の異なった祠を合わせて「天王樣」と呼んでいたことを意味する。「村の各戶から松火を十二把宛持ち寄つて、萬燈を焚いたと謂」うとあって、現在は山上の祠ではそれをしないことが示されている。これは恐らく主たる理由は火の管理が防災上、問題だからであろう。
「尾張の津島神宮」愛知県津島市神明町(しんめいちょう)のここ(グーグル・マップ・データ)にある。公式サイト内の「由緒」に、古くは「津島牛頭天王社」と称し、今も一般に「津島のお天王さま」と尊称されているとある。祭神は建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと=素戔嗚尊(すさのおのみこと))で、欽明天皇元(五四〇)年の鎮座とする(因みに、私の最近では、『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 大人彌五郞』で柳田が取り上げている)。
「山の裾に、檜の葉でオタチク樣と云ふ祠の代用見たやうなものを慥へて」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の『(萬燈山)』の北西の麓部分に『ゴズ天王祠』とある。この謂いから、ここは、常時、祠が存在するのではなく、祭祀の規定日に仮の行宮を、毎回、山上ではなく、麓に作ることを意味している。但し、これは一方で先に述べた現実の防災上の意味合いでも管理し易い位置ではあるが、私は以下に示す通り、寒狭川(豊川)に近い位置に行宮がなくてはならないと推定した。このすぐ近くの麓の道をストリートビューで探したところ、ここに「金白天王(津島様)」への登り口を示す掲示板をも発見することが出来た。これによって、推定したピークが正しく「萬燈山」であることが証明された。「オタチク樣」とは、「関西大学学術リポジトリ」のこちらにある、黒田一充氏の論文「津島信仰のお仮屋」(『関西大学博物館紀要』巻十五所収・PDF)の「四 愛知県東部のお仮屋」の中で、本篇が引かれて、『このような、津島神社の神札を納めた祠を棚の上に安置し、檜葉を円錐状に覆ったものをお川社(オタチクサマ)と呼び、川の沢などに祀ることは新城市内で広く行われていたが、同市富永の』(ここ)『ように檜葉のお仮屋から銅板葺きの祠に変わるなど古い形態を残していない』とあった。黒田氏は論文の冒頭で、『代表的な夏祭りは、祇園祭や天王祭であり、関西では京都の祇園祭が有名だが、東海地方ではむしろ愛知県津島市の津島神社の津島祭の方が有名である』とされ、同神社も、実際に『木曽川下流の輪中の東岸に位置して木曽川支流の天王川に面している』とあって、この祭事が、所謂、「水神祭」であることを意味している。横山のそれも、さればこそ、祭りの本旨である水神を祀るために迎えるためには、川に近い位置に行宮(仮屋)がなくてはならないと私は思うのである。だから、「麓」なのだ。問題は、「オタチク」の語源だが、これが、判らない(「川社」を「おたちく」とは読めない)。黒田氏は木曽川東岸で「オミヨシサン」と呼ばれているとある。これは「水押・舳・船首(みよし)」を連想させる。或いは、その祭りの子ども版では「オミッコシサン」と呼ばれる所があるが、これは「オミヨシサン」が子らにとっては意味不詳である故に、子ら自身がその形状から「お神輿さん」と判り易く言い換えたと合点される。黒田氏の論文には多数の各地の仮屋の写真があるので、それらを見られたいが、ものによっては、小さな社祠か、脚付きのコンパクトな神輿のようにも見えるのである。三島市清水町戸田では、「オフクラ」(「御蔵」「御福倉」辺りか)、三重県では「オシャトウ」(これは簡明で仮屋が配される「御社頭」であろうかと思われる)とあった。「オタチク」は招聘神であるから、「御立(おたち)ち来(く)」る神「様」などを想起はした。]
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