西播怪談實記(恣意的正字化版) / 西播怪談實記四目録・姬路櫻谷寺の住持幽靈に逢し事
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、但し、以下の「巻四」の目録の読みについては、これまでと同様に総て採用することとする。歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]
西播怪談實記四
一 姬路(ひめぢ)樓谷寺(ようこくじ)住持(ぢうじ)幽靈(ゆうれい)に逢(あひ)し事
一 殿町(とのまち)の醫師(いし)化物(ばけもの)に逢(あひ)し事
一 宍粟郡(しそうごほり)鹿(しか)が壺(つぼ)の事
一 姬路(ひめぢ)外堀(そとほり)にて人を吞(のま)んとせし鯰(なまづ)の事
一 德久村(とくさむら)小四郞を誑(たぶらかさ)んとせし狐(きつね)の事
一 段村(だんむら)火難(くはなん)の時(とき)本尊(ほんぞん)木(き)に懸(かゝり)ゐ給ふ事
一 片嶋(かたしま)村次郞右衞門と問答(もんどう)せし狐(きつね)死(しせ)し事
一 佐用(さよ)角屋(かどや)久右衞門宅にて蜘(くも)百足(むかで)を取(とり)し事
一 出合(であい)村孫次郞死(しせ)し不思議(ふしぎ)の事
一 眞盛(さねもり)村山伏(やまぶし)母(はゝ)が亡靈(ぼうれい)によつて狂(くるひ)し事
一 城(き)の山(やま)唐猫谷(からねこだに)にて山猫(やまねこ)を見し事附リ越部(こしべ)の庄(せう)といへる古跡(こせき)の事
一 赤穗郡(あかほごほり)高田(たかだ)の鄕(ごう)石(いし)に小鷹(こたか)の形(かたち)有(ある)事
○姬路櫻谷寺の住持幽靈に逢し事
姬路櫻谷寺の住持は、佐用の產なりしが、後(のち)に隱居して、「閑居(かんきよ)」と、いへり。蹴鞠(しうきく)幷《ならび》に三面(さんめん)の達者にて、其名、近鄕に鳴(なる)。折々、佐用へも見へければ、予も、心安く、かたらひける。[やぶちゃん注:「三面」不詳。識者の御教授を乞う。以下、特異的に傍点を用いた。]
ある時、雜談(ぞうだん)の次手(ついで)、咄(はなさ)れしは、
……寶永年中の事にて、我、住職たりし時、檀家の娘、十七、八なるが、久しく病の床に臥(ふし)て有(あり)けるを、折々は、問侍(といはべ)りけるに、或日、我を枕元に近付(ちかづけ)て、いふやう、
「みづから事、此度(このたび)は、迚(とて)も、本復(ほんぶく)は、得仕(ゑ《つかまつら》)ず。近き内に、死出の旅路に趣(おもむき)候べし。されば、兩親にをくれ申べき身の、かく、先立(さきだつ)事、我(わが)妄執の第一なる。」
などゝ、有增(あらまし)、事のきこへぬるは、いと哀なりき。我、いふやう、
「誰(たれ)とても、愛念の道は、さる事ながら、老少不定(ろうせうぶぢやう)の世のならひなれば、貴(たか)も、賤(いやし)きも、死の道斗《ばかり》は、力に及《およば》ず。此上は、後世(ごせ)、一通(ひととをり)に成《なり》て、臨終正念に往生をとげらるゝこそ、なき跡迄の、親への孝行とも、なるべし。」[やぶちゃん注:「後世、一通に成て」「御身自身の決められた後世(ごぜ)を正しく見据えて」の意か。]
と敎訓して、淨土の領解(りやうげ)、念比(ねんごろ)にいひ聞《きか》せ、十念を授(さづく)るに、娘も得心(とくしん)して、泪を流しけるが、それよりは、念佛、絕間(たへま)なくして、終(つい)に其曉(そのあかつき)に、むなしくなる。
かくて、翌日、我(わが)、引導して、葬(ほうぶり)、其家の佛前へ、逮夜(たいや)に參《まゐり》て、夜更(よふけ)て、立歸(たちかへる。比(ころ)しも、彌生の廿日あまり、月もまた、出《いで》やらず、町々も、寢しづまりて、ひつそとしたるに、僕(ぼく)は挑灯(てうちん)、釣(つり)ながら、
「何とやら、今夜は、恐(おそろ)しく候。御急(《お》いそぎ)なさるべし。」
と、足早(あしばや)に行(ゆく)。
我も、そゞろに急(いそぎ)しが、とある藪陰(やぶかげ)の築地(ついぢ)の本(もと)より、
「見しり給ふか。」
と、いふをみれば、髮を亂し、齒の眞白(まつしろ)なるが、
「完爾(につこ)」
と、笑ひしさまを見て、僕は、
「わつ。」
と、いふて、迯去(にげさり)ぬ。
唯(たゞ)すり違(ちがい)の言葉斗《ばかり》にて、東西へ別れしが、彼(かの)娘の幽靈なるや、又は、狐などの、『拙僧をためしてみん。』とて、かくしたるにや、今に、いぶかし。……
と聞へぬる趣を書つたふもの也。
[やぶちゃん注:「姬路櫻谷寺」「姫路市Webマップ」のこちらによれば、雲城山桜谷寺であるが、明治期に東光(とうこう)中学校(明治八(一八七五)年に現在地に移転)及び姫路高等女学校(こちらの開校は明治四三(一九一〇)年 四月一日)建設に伴って廃寺となったとある。なお、その寺の観音堂に祀られていた十一面観音菩薩像を昭和四(一九二九)年に引き受けている心光寺は浄土宗であるから、桜谷寺も浄土宗であろう(主人公の僧の語りでも念仏が出てくる)。問題はその桜谷寺のあった場所であるが、姫路高等女学校は現在の兵庫県立姫路北高等学校でここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)であるのに対して、姫路市立東光中学校はここであって、敷地が広過ぎる。取り敢えずは、後者の地にあったものと推理しておく。その根拠は、高女はずっと後の開校であることと、「ひなたGPS」の戦前の地図では、中学の方の「文」記号はあるが、高女のある形跡は全く見当たらない(野原。当初は別な場所に置かれたものかも知れない)からである。
「寶永年中」一七〇四年から一七一一年まで。
「領解(りやうげ)」仏の教えを聞いて悟ること。
「十念」ここでは浄土宗と断定したから、導師が信者に「南無阿弥陀仏」の名号を唱えて授け、仏縁を得させることを指す。
「逮夜(たいや)」「大夜」とも書き、「宿夜」(しゅくや)とも呼ぶ。「大夜」とは「大行(だいぎょう:「死」のこと)の夜」を言う。また、一昼夜を「六時」(日没(にちもつ)・初夜・中夜・後夜・晨朝(じんじょう)・日中)に分けるが、その「日没時」を指すとも言われる。「逮」の原義は「明日に及ぶ」という意味であって、仏式の葬儀では「前夜」の意味に転用され、「葬式・年忌法要の前夜」の意に転用されている。
「すり違(ちがい)の言葉」当初、相互に意思疎通が全く出来ない状態を指しているかなどと穿ってしまったが、単にすれ違いざまの一瞬の向こうからの声掛けという意であろう。]
« 早川孝太郞「三州橫山話」 「凧揚げ」・「七月十三日」・「法歌」 / 冒頭第一パート~了 | トップページ | 大手拓次譯詩集「異國の香」 STANCES(ジャン・モレアス) »