西播怪談實記(恣意的正字化版) / 赤穗郡高田の鄕石に小鷹の形有事 / 「西播怪談實記」電子化注~完遂
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。挿絵は新底本のものをトリミングして適切と思われる箇所に挿入した(底本の挿絵については国立国会図書館本の落書が激しいため、東洋大学附属図書館本が使用されている)。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。なお、底本には、最後の部分(「立寄(たちより)て、一見(いつけん)せしまゝ、」以下)の影印画像があるが、特に必要を感じないので、画像としては載せなかった。但し、電子化では底本の活字に拠らず、その画像を元に字の大きさや位置を再現した。
途中で底本が変わるハプニングがあったが、以上を以って、「西播怪談實記」の電子化注を終わる。]
○赤穗郡(あかほごほり)高田(たかだ)の鄕(ごう)石(いし)に小鷹(こたか)の形(かたち)有(ある)事
赤穗郡高田の鄕に、石、在(あり)。道の、少(ちと)、上なり。但(ただし)、西國(さいこく)の順路には、あらず。佐用郡(さよごほり)より、赤穗郡加里屋(かりや)へ行(ゆく)路(みち)なり。
此石に、小鷹の形、あり。架(ほこ)にすはりて居(い)る形にして、足組(へを)等(とう)あり。
則(すなはち)、其所(そのところ)を「小鷹」といへり。
天和(てんわ)の比(ころ)とかや、淺野内匠頭殿、刈屋(かりや)の御城主たりし時、石工(いしや)に仰付(おほせつけ)られ、彼(かの)小鷹の石を、切(きり)とらせ給ひ、御前栽(ごせんざい)へ、移(うつさ)れし、とや。
然(しかる)に、幾程(いくほど)なくて、御庭(おんには)の鷹の形は、消失(きへうせ)て、こなたの石の切口(きりくち)に、又、元のごとく、形、あらはれたり。不思議といふも、おろかなり。
以前は、小鷹の形、ありありと、みへて、直庵(ちよくあん)が筆跡も及ばれぬ勢(いきほひ)なりしが、近年(きんねん)は、少(ちと)、苔、生(をい)て、間近く寄(よら)ざれば、さだかには、見へず、とかや。
彼邊(かのへん)、往來の人は立寄(たちより)て見るべし。
予も、先年、其邊へ、まかりしかば、立寄(たちより)て、一見(いつけん)せしまゝ、其趣《そのもむき》を書《かき》つたふもの也。
西播怪談實記 四
以上前編終 後編跡より出シ申候
播陽佐用住
春名忠成集錄
寶曆四年申戌仲秋吉
書 肆 定栄堂藏
[やぶちゃん注:「赤穗郡高田の鄕」「Geoshapeリポジトリ」の「兵庫県赤穂郡高田村」で旧村域が確認出来る。現在の兵庫県赤穂(あこう)郡上郡町(かみごおりちょう)高田台(たかただい)周辺まで限定出来るか(グーグル・マップ・データ)。但し、「小鷹の石」は現存しないようである。
「架(ほこ)」この一字で「たかほこ」とも読む。「鷹槊」。鷹狩の鷹をとまらせておく木。春は梅、夏は樫、秋は檜、冬は松を用いる(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。
「足組(へを)」「攣」「綜緒」と書く。現代仮名遣では「へお」。鷹の足に附ける紐。鷹狩の際、鷹を飛ばせるまで、足に結びつけておく紐。足緒(同前)。
「赤穗郡加里屋」「苅屋」現在の赤穂城跡の近くに分布する「加里屋」「上仮屋南」「上仮屋北」「加里屋中州」等の広域地区であろう。
「天和(てんわ)」一六八一年から一六八四年まで。徳川綱吉の治世。而して後の「淺野内匠頭殿」は、かの「赤穂事件」の浅野長矩である。当該ウィキから当該年代の部分を引いておく。天和元(一六八一)年三月、『幕府より江戸神田橋御番を拝命』し、翌年三月には、『幕府より朝鮮通信使饗応役の』一『人に選ばれ、長矩は、来日した通信使の伊趾寛(通政大夫)らを』八月九日に『伊豆三島(現静岡県三島市)にて饗応した』。天和三年二月には、『霊元天皇の勅使として江戸に下向予定の花山院定誠』(かさんのいんさだのぶ)『・千種有能』(ちくさありよし)『の饗応役を拝命し』、三『月に両名が下向してくるとその饗応にあたった。このとき』、『高家・吉良義央が勅使饗応指南役として付いていたが、浅野は勅使饗応役を無事務め上げている。なお』、『この際に院使饗応役を勤めたのは菰野藩主・土方雄豊であった。雄豊の娘は後に長矩の弟・浅野長広と結婚している。この役目の折に浅野家と土方家のあいだで縁談話が持ち上がったと考えられる』。『勅使饗応役のお役目が終わった直後の』五『月に阿久里と正式に結婚。また』、『この結婚と前後する』五月には、『家老・大石良重(大石良雄の大叔父、また浅野家の親族)が江戸で死去している。大石良重は若くして筆頭家老になった大石良雄の後見人をつとめ、また幼少の藩主浅野長矩を補佐し』、二『人に代わって赤穂藩政を実質的に執ってきた老臣である』。『しかしこれによって長矩に藩政の実権が移ったとは考えにくい。長矩は依然』、『数え年で』十七『歳』『であり、国許の大石良雄も』、『すでに筆頭家老の肩書は与えられていたとはいえ、数え年で』二十五『歳にすぎない。したがって藩の実権は大石良重に次ぐ老臣・大野知房(末席家老)に自然に移っていったと考えられる』。『この年の』六月二十三日(八月十五日)に、初めて(☜)『所領の赤穂に入り、大石良雄以下』、『国許の家臣達と対面した。以降、参勤交代で』一『年交代に江戸と赤穂を行き来する』こととなった。同年(一六八四)年八月二十八日、『又従兄の稲葉正休』(まさやす)『が江戸城にて、堀田正俊に刃傷に及ぶ。正休はその場にて老中らに斬殺される。長矩、遠慮の儀を老中・戸田忠昌へ伺ったところ「然るべき」との指図あり出仕遠慮した』とある。これから考えると、本話柄が事実であるなら、教義に限定するならば、天和三年六月二十三日から天和四年二月二十一日(グレゴリオ暦一六八四年四月五日)の貞享への改元までの、赤穂在城の折りに限定出来ることになる。
「直庵」安土桃山から江戸初期にかけての絵師曽我直庵(?~慶長年間(一五九六年~一六一五年)没)のことか。当該ウィキによれば、『狩野永徳、長谷川等伯、海北友松、雲谷等顔らと並び桃山時代を代表する画人であるが、その画力に比べて史料が少なく、謎が多い絵師である』。『生い立ちや経歴は不明だが、作品の年記や着賛者の在世年代によって』、十六『世紀後期から』十七『世紀初頭に「蛇足六世」を名乗って堺で活躍した』。『水墨画や漢画の手法を取り入れた豪快な筆致で、鷹図などの鷙鳥画や花鳥画に優れた作品を残した』。『曽我二直菴は息子か、少なくとも直庵の画系を継いだことは間違いない。他に弟子とされる画人に、田村直翁がいる』とある。彼は多くの架鷹図(かようず)を描いている。但し、曽我二直菴(?~ 明暦二(一六五六)年以降没)は直庵から印章を継承しており、「直庵」と記すこともあった(法号も「直庵順蠅」)し、師と同じく架鷹図も書いているので彼を候補の一人とはなろう。
「後編跡より出シ申候」底本の「近世民間異聞怪談集成」の北条伸子氏の「解題」を見ると、本「西播怪談實記」は、同書底本の『五冊本を含め、五種の版が存在する。刊年未詳の四冊本は、五冊本の同版刷本である。また続編『世説麒麟談』四冊を加えて八冊本とするものもある』とある。調べると、「世説麒麟談」は「せせつきりんだん」と読み、宝暦一一(一七六一)年に板行されており、同じ春名忠成の作である。「国文学研究資料館」の「国書データベース」のこちらで、その「世説麒麟談」の巻三を視認出来る。ざっと見るに、文章の書き方(特に各章末部の決まり文句の評言)等も確かに正編に一致している。
「寶曆四年申戌仲秋」「仲秋」は陰暦「八月」で、グレゴリオ暦では一七五四年九月十七日から十月十五日に当たる。
「書 肆 定栄堂」大坂・定栄堂。主人は吉文字屋市兵衛。]
« 西播怪談實記(恣意的正字化版) / 城の山唐猫谷にて山猫を見し事附リ越部の庄といへる古跡の事 | トップページ | 早川孝太郞「三州橫山話」 種々な人の話 「五十里を一日に步いた男」・「無い物無しの店」・「日本三家」・「俵に入れたヒヨーソク(秉燭)」 »