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2023/03/29

佐々木喜善「聽耳草紙」 一九番 蜂のお影

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

     一九番 蜂のお影

 

 或所の立派な家に、娘が三人あつた。似合ひのよい聟が見つからなかつたので、聟探しの高札を門前に立てた。すると一人の男が、表の高札を見て來たが、俺が聟になり度いと申込んだ。其の家の主人(アルジ)は、よく來てくれた、俺の所の聟になり度いならば、先づ家の裏屋敷の森の中の御堂をよく掃除して見てくれと言つた。そこでその男は翌朝早く、大きな握飯を四つ貰つて、御堂掃除に出掛けたが、そのまゝ歸つて來なかつた。

 その次の日、また別の男が、俺が聟になりたいと言つて來たが、前の男と同じやうに、翌朝森の中の御堂掃除にやられて、そのまゝ歸つて來なかつた。

 その次の日にまた違つた男が、俺が聟になりたいと言つて來た。そして前と同じやうに握飯を四つ貰つて、翌朝早く森の中の御堂掃除にやられた。男が御堂を掃除して居ると、向うから霧のやな物がむくむくと立つて來た。男はそれに一つの握飯を半分かいて投げてやつて平氣で掃除を續けて居た。さうして居ると又霧が立つて來たから、又半分の握飯を投げて遣つた。斯《か》うして霧が立つごとに握飯の半分づつを投げてやつて、恰度握飯がみんな[やぶちゃん注:底本は「みん」。「ちくま文庫」版で補った。]無くなつてしまつた時に掃除が終つた。自分は握飯を食べないで娘の家に歸つて來た。

 其家の主人は、あゝよく御堂の掃除をしたなア。しかしそればかりでは俺の娘はお前にやられない。こんどは此藁一本を千兩に賣つて來いと言つて、藁一本(イツポン)を男に渡した。男は打藁一本手に持つて出かけた。そして水澤ノ町なら丁度寺小路のやうな所を步いてゐると、向ふから朴(ホウ)の木の葉を括《くく》りもしないで、風でも吹けば吹ツ飛ばされさうにして持つて來る人があつた。そこで男は自分の持つてゐる打藁を與へて、これで括るがよガすと敎へた。すると其人は、そのお禮に朴ノ葉を二枚くれた。

 男は貰つたその朴ノ葉を持つて、水澤ノ町なら大町の通りのやうな所へさしかゝると、向ふから味噌賣りが、

   三年味噌ア

   三年味噌ア…

 とふれながら遣つて來た。近づいて見ると味噌の入物《いれもの》には蓋もしてゐない。そこで男は持つてゐた朴ノ葉を二枚與へて、これをその味噌の上にかけて置くがよガすと敎へた。すると味噌賣りはそのお禮に三年味噌を玉にして二つくれた。

 男は貰つた味噌玉を二つ持つて步いて行くうちに日が暮れたから、或町の立派な家に泊めて貰つた。ところが其家の旦那樣が病氣で、三年味噌を食はなければ、どうしても癒らないと云つて居た。そこで男は持つてゐた三年味噌を其旦那樣にすゝめると、それを食べたお蔭で、次の朝にはすつかり快(よ)くなつた。旦那樣は大層喜んで、貴方(アンタ)のお蔭ですつかり永年の病氣が全快した。何かお禮をしたいが何が御所望だと訊かれた。男は俺は何にもいりませんと言ふと、そんだらこれでも是非取つて置いてクナさいと[やぶちゃん注:底本は『クナとさい』。誤植と断じて訂した。]言つて、千兩箱を一個男に與へた。斯うして男は、打藁一本を千兩の金にして、嫁の家に歸つた。

 娘の父親主人は、あゝお前はよくも藁一本を千兩の金にして歸つた。なかなか偉えが、もう一つの事を仕出かさなくては、俺の娘を遣られない。今度は家の後(ウシロ)の唐竹林に唐竹が何本あるか、日暮れ際《ぎは》までに算へてみろ。それが當つたら今度こそは眞實《まこと》に娘を遣ると言つた。男は唐竹林の前へ行つて立つて見たが、あんまり數が多いので呆氣《あつけ》に取られてぼんやり立つてゐると、スガリ(蜂)が飛んで來て、

   三萬三千三百三十三本

   ブンブンブン…

 と唸つた。それを聽いて男はすぐに戾つて、あの唐竹の數は、三萬三千三百三十三本御座りすと言つた。其家では村中の人達を賴んで來て、一本一本算へさしてみたら、たしかに唐竹の數はそれ丈《だけ》あつた。

 まづまづこれで三度の難題を首尾よく解いたので、最後にそれでは、三人の娘の中《うち》、どれがお前の嫁になるのだか、當てなくてはならぬと言はれた。そこで男は娘三人を座敷に並べて緣側から眺めて見たが、三人が三人とも揃つて同じやうな顏形なので、一向判斷がつかなかつた。男は當感して、まづ小便して來てからと言つて、厠へ立つて、考へて居ると、以前のスガリが飛んで來て、

   なかそだ、ブンブン

   なかそだ、ブンブン

 と唸つた。男はそれを聽いて座敷へ戾つて、中の娘がさうでありますと言つた。果して眞中に坐つている娘が嫁になる娘であつたから、男は目出度く、其家の聟になつた。

  (水澤町《みづさはちやう》邊の話。森口多里《たり》氏の御報告の分の一。)

[やぶちゃん注:「水澤ノ町」現在の岩手県奥州市水沢(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。遠野の南西四十キロ位置。

「寺小路」ここ。増長寺という寺が有意な部分を占める。

「朴(ホウ)の木の葉」モクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ節ホオノキ Magnolia obovata当該ウィキに、『ホオノキの葉は大きく、芳香があり、殺菌・抗菌作用があるため、食材を包んで、朴葉寿司、朴葉にぎり、朴葉餅(朴葉巻)などに使われる』。『乾かした若葉で』、『温かい米飯を包んだり、葉の上で肉を焼いて』、『葉の香り』も『楽しまれ』、『味噌や他の食材をのせて焼く朴葉味噌、朴葉焼きなどに』も『利用され、飛騨高山地方の郷土料理としてよく知られている』とある。

「水澤ノ町」「大町」寺小路の西南に接する奥州市水沢町大町

「三年味噌」丸三年間、木桶の中で熟成発酵させて造られた高級な味噌。

「スガリ(蜂)」蜂の俗称であるが、万葉時代の用法では、典型的な「狩り蜂」として知られるジガバチ(膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目アナバチ科ジガバチ亜科ジガバチ族 Ammophilini、或いは、その一種サトジガバチ(ヤマジガバチ) Ammophila sabulosaを狭義には指すことが多い)の古名で、同種が有意に腹部がくびれていることから、「女性の細腰」に喩えた。但し、本篇では、最初の難題に登場する「霧のやうな物」というものの正体が、蜂の群飛であると考えられることからは、ジガバチではあり得ない。ジガバチの生態は非社会性で、群飛することはないからで、ここは、ミツバチ(細腰亜目ミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属トウヨウミツバチ亜種ニホンミツバチ Apis cerana japonica を想起するのが適切であろうかとは思う。ただ、同種は握り飯は食わないが。

「森口多里」(明治二五(一八九二)年~昭和五六(一九八四)年)は美術史家・美術評論家で民俗学者。本名は多利(たり)。当該ウィキによれば、『岩手県胆沢郡水沢町大町』で『金物商を営む父』『母』『の次男として生まれ』、『一関中学校(現:岩手県立一関第一高等学校)を経て』、明治四三(一九一〇)年に『早稲田大学文学部予科に入学』、『在学中、佐藤功一から美術品の調査を依頼される』。『また、日夏耿之助主宰の同人誌『假面』同人とな』った。大正三(一九一四)年、『早稲田大学文学部英文科を卒業し』、その『後は美術評論活動を行い』、ロマン・ロランの「ミレー評伝」『の翻訳や』、「恐怖のムンク」と『いった評論文を執筆した』。『森口の多彩な文筆活動は、美術史・美術評論に留まらず、戯曲、建築、そして民俗など多岐にわたり、生涯で』五十『冊余の書作を世に送り出している』。『第二次世界大戦中、岩手県和賀郡黒沢尻町(現:北上市)に疎開した森口は』、『そのまま郷里に留まり』、『深沢省三や舟越保武らとともに岩手美術研究所を設立』、『後には岩手県立岩手工芸美術学校の初代校長を務めた』。『また』、『岩手県文化財専門委員として民俗芸能や民俗資料の保存調査に尽力し』、『収集した蔵書や研究資料は岩手県に寄贈され、岩手県立博物館や岩手県立図書館に収蔵されている』とある。佐々木喜善より六つ年下である。個人サイト「落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)」の『佐々木喜善と森口多里の「馬鹿婿噺」』によれば、『佐々木喜善の『聴耳草紙』には、森口多里が収集して記録した昔話や伝説が数多く提供されている。森口が採集した説話を挙げると、たとえば水沢町付近で採取した「ランプ売り」、同じ地域の「蒟蒻と豆腐」、芝居見物の「生命の洗濯」、笑い話の「鰐鮫と医者坊主」、下姉帯村の「カバネヤミ(怠け者)」、そして「馬買い」「相図縄」「沢庵漬」などの「バカ婿(むこ)」シリーズだ。特に、森口多里は「バカ婿」シリーズが大好きだったようで、地元の古老にあたっては積極的に収集していたフシが見える』。『「馬鹿婿噺」と総称される一連の伝承は、親が子どもを寝かしつけるときに語る昔話でも童話でも妖怪譚でもなく、大人が集まってヒマなときに披露しあう日本版アネクドートのようなものだったのだろう。もちろん、「バカ婿」シリーズだけでなく「バカ嫁」シリーズも数多く伝承されており、小噺の中にはかなり艶っぽくきわどい卑猥な笑いも含まれている。森口多里が集めた説話の傾向からすると、妖怪譚や昔話などの系列ではなく、滑稽でつい笑いを誘う大人の小噺収集に注力していたのではないだろうか』と述べておられる。リンク先には守口の肖像写真もあり、記事も興味深い。是非、読まれたい。]

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