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2023/03/17

早川孝太郞「三州橫山話」 山の獸 「狐の穴」・「屋根へ登る狐」・「蠟燭を奪る狐」・「人を化す法」・「仇をされたのだらうと云ふ話」・「化かされて絹糸を燒いた噺」・「氣樓を見せた狐」・「クダ狐」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○狐の穴  私の子供の頃には、人家に近い木立の中などに幾ケ所も狐の穴があつて、それが一ケ所に六ツもかたまつてあつたもので、冬になると、芋穴の芋を掘り出したり、每晚のやうに鷄を襲つたりしたものです。雪の降つた朝には、必ず狐の肢跡《あしあと》が家の圍りに續いてゐました。其狐の穴が、何時となしに埋まつてしまつて、この二十年來、めつきり狐が居なくなつたと謂ひます。

 狐は仇をする獸だと謂つて、狐に惡戲をしたり、陰口などつくと、アタン(仇)をすると謂つて怖ろしがつたものでした。又狐の糞を踏むと、足が痛くなると云つて、子供の時など足が痛いなどゝ言へば、どんな所を步いたとか、狐の糞を踏んだのではないかなどゝ訊かれたものでした。

 

 ○屋根へ登る狐  夜《よる》狐が人家の棟に登ると、眠つてゐる者が魘《うな》されると言つて、夜梯子を屋根に立て掛けておくことを戒めました。又狐が鷄を捕る時は、外に居て戶の𨻶や節穴から鷄の巢を覗いて、法を使ふので、鷄が巢から飛出して捕られるのだとも謂ひました。又ある所で、子供が夜泣きをして仕方がないので、或晚男がそつと裏口へ廻つて見てゐると、狐が裏の椽側《えんがは》へ登るとはげしく子供が泣いて、下に降りると靜まるので、其狐を追拂ふと、夜泣きが止んだなどの噺がありました。

 

 ○蠟燭を奪《と》る狐  狐は火を灯《とも》すと云ひます。狐の火は、靑い色をしてゐるとも、又特に赤い色をしてゐて、輝きがないとも謂ひますが、狐は油や蠟燭を好むから、夜《よる》油を持つて步くと、不思議に奪られたり零《こぼ》したりすると謂ひます。又提灯を灯して步く時、前に提げると蠟燭を奪られるから、後《うしろ》に背負へばいゝなどと謂ひます。村の早川虎造と云ふ男は、若い頃、惡い狐の住んでゐると云ふ馬崩れと云ふ處を通る時、いつか持つていた提灯をカゾー(楮《かうぞ》)の株とすり替へられながら、家迄持つて來ました、[やぶちゃん注:読点はママ。]そして家の者に言はれる迄は、其が明るいと思つてゐたと謂ひました。

[やぶちゃん注:「馬崩れ」後の『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 十四 狸の怪と若者』に『村を出離れて、長篠へ越す途中の、馬崩れの森は、田圃を三四町[やぶちゃん注:凡そ三百二十八~四百三十六メートル。]過ぎた所に、一叢大木が茂つて居て、日中でも薄氣味の惡い處だつた。こゝからずつと長篠の入口迄山續きになるのである。此處にも又惡狸が居て、通る者を時折嚇すと言うた。或は又山犬も惡い狐も出ると言うて、何れにしても問題の場所だつたのである。自分などの此處を通つた經驗でもさうであるが、暮方など未だ明るい田圃道から、暗い森の中へ足を運んで行と[やぶちゃん注:ママ。「ゆくと」。]、地の下へでも入るやうで自づと心持迄滅入つて來る。又反對に暗い森の中から、田圃道へ出るとホツとするが、それだけに何だか後から引張られでもするやうに不氣味を感じたものである。そんな譯でもあるまいが、田圃の手前の、村の取付にある家へは、以前は夜分眞蒼になつた男が、時折驅込んで來たさうである』と、より詳しく説明されてあり、私はそこに附した注で、「馬崩れの森」について、『この中央附近(グーグル・マップ・データ航空写真)の寒狭川左岸の道と思われる。現在の横川地区南端辺りからこの森の辺りまではまさに四百メートルほどに当たる』と比定した。

 

 ○人を化す法  狐が人を化《ばか》すには、尻尾で化すと云ひますが、人間の方が用心深くて化す機會のない時は、足許へ近づいて、足袋の紐を解いて、人間が足袋の紐を結んでゐる𨻶に化すとも謂《いひ》ます。

  明治三十年頃、村の早川德平と云ふ家に下男をしてゐた留吉と云ふ男が出遇《であ》はせた事ださうですが、それは盆の十五日の夜、友達と三人連《づれ》で豐川稻荷へ參詣に出かけて眞夜中頃、途中の本野ケ原《ほんのがはら》と云ふ處迄來ると、傍の畑の中に若い女と、男が二人風呂敷包《づつみ》を背負つて、三人共《とも》尻を端折《はしよ》つて妙な恰好をして步いてゐるので、不審に思つて、其處に立つて、煙草を喫ひながら見てゐると、近くの畑の肥溜《こえだめ》の屋根に白い狐がゐて、頻りに尾を振つてゐた。初めて狐に化かされてゐるのだなと感づいたので、三人して大きな聲で怒鳴ると、狐は其處に人がゐることを知らずにゐたのか、丸くなつて逃げて行つたさうで、化かされてゐた連中も正氣に還つたと云ふことでした。だんだん譯を聞くと、この人達は近くの一鍬田《ひとくはだ》村の者で、若い女が嫁に行くので、父親と下男とが仕度の着物を豐川の町へ買ひに行つた歸りを、その畑の中が一面の川に見えて、どうしても其處が渡り切れなかつたので、そこで尻端折りをしたのださうです。其時、若い女の尻を端折つた股の所に大きな痣《あざ》らしいものがあつて、月の光で明瞭に見えたと云ひました。

[やぶちゃん注:「明治三十年」一八九七年。

「豐川稻荷」ここ(グーグル・マップ・データ)。曹洞宗圓福山妙厳寺の境内にある。

「本野ケ原」現在の愛知県豊川市本野ケ原(グーグル・マップ・データ)。

「一鍬田村」現在の愛知県新城市一鍬田(同前)。]

 

 ○仇をされたのだらうと云ふ話  早川丑太郞と云ふ男は現在五十幾歲になつて、長篠驛に出て俥夫をしてゐますが、此男が十三四の折、隣村へ使ひに行つて還りに、途中迄は、確かに歸つて來たと思つたのが、どう間違へたのか道が判らなくなつて、山から山と一晚迷つて步いて、翌朝、遠くの山へ朝日が映つたのを見て初めて正氣づいて家へ歸つたと謂ひましたが、よくよく考へて見ると、前日、裏の山に新しく出來た狐の穴に獵師を案内して見せた爲めに、其穴の狐が仇をしたのだらうと云ふとでした。同じ男が、二十歲位の時、近くの峯村へ仕事に行つて、夕方仕事が濟んでから、其家の、狐が憑いてゐると云ふ婆さんの枕邊へ行つて、子供の頃狐に化《ばか》された腹癒《はらい》せに、散々狐の惡口を言つて、俺を化かせるものなら化かして見ろ、と言置《いひお》いて、夜遲くなつて暇《いとま》を告げて歸つて來ると、途中分垂(ブンダレ)と云ふ處の橋を渡る時、半は[やぶちゃん注:ママ。「半ば」。]渡つてふと氣がついて見ると、自分の立つてゐる所は黑く川に見えて、橋は白く傍に架かつてゐるやうに見えるので、これはと思つて其方《そつち》へ足を運ぶと、忽ち川の中へ落ちたと謂ひます。起上《おきあが》らうとすると、何者かゞ上から押へつけてゐるやうで、身動きが出來ないので、一生懸命怒鳴りながら懷中のマツチを探つてゐると、やつと體が輕くなつたので、早々《さうさう》川から這出《はひだ》して、づぶ濡れになつて歸つて來たと謂ひました。

[やぶちゃん注:「峯村」現在の愛知県新城市市川峯か(グーグル・マップ・データ)。

「分垂(ブンダレ)と云ふ處の橋」現在、新城市門谷下分垂の地名があるから、この地区か(グーグル・マップ・データ航空写真)。この地区には一箇所橋がある(同前)。]

 

 ○化かされて絹糸を燒いた噺  これは母から聞いた噺《はなし》でしたが、某と云ふ男が、十一月のこと、新城《しんしろ》の町へ用足しに出かけて、歸りに紺屋《こうや》へ寄つて、正月の仕着《しきせ》に織る絹の染糸《そめいと》を受取《うけと》つて、風呂敷に包んで背負つて、日の暮れ暮れに、須長《すなが》と云ふ村へさしかゝつた邊りで、子供を背負つた年增女と道連れになつたので、種々《いろいろ》と秋の收穫の話などしながら步いてゐる中《うち》に、奇麗な芝草の續いた原へ出たので、こんな所は無かつた筈だと不思議に思つてゐると、女が、大層奇麗な草原ですから草履を脫いで步きませうと云つて自分から脫いだので、男も同じやうに脫いで步いてゐると、大分寒くなつたやうですから、其處《そこ》らで焚火をしませうと、女が言ひながら、何處からともなく、一抱《ひとかかへ》の杉の枯葉を持つて來たので、其男が袂からマツチを出して火をつけて、共に溫《あつ》たまつてゐる中《うち》に、とろとろ眠氣《ねむけ》を催ほして、其儘眠つてしまつたところが、暫くしてから體中がぞくぞく寒いやうに感じて眼を覺《さま》すと、もう夜が明けて朝日がチラチラと射してゐるのに、氣がついて見ると、女の姿はなくて、自分は眞白《まつしろ》に霜の降りた田圃の中に寢てゐるのであつた、傍には紺屋から持つて來た絹糸が黑く灰になつて、燃殘《もえのこ》りが五寸許り、束になつてゐたと云ふことでした。杉の枯葉と思つて燃《もや》したのは現在自分が背負つてゐた絹糸だつたのかと、口惜しがつて、燃殘りの糸を持つて、他人に見られない中《うち》にと急いで歸つて來たさうですが、奇麗な芝草の原と思つて步いたのが、石ころの道でもあつたのか、足の裏が赤く腫れ上つて、痛くて步かれなかつたと謂ひます。其男の名は記憶してゐませんが、今から三十年ばかり前の事ださうです。

[やぶちゃん注:「須長」愛知県新城市須長(グーグル・マップ・データ航空写真)。

 以下は底本ではポイント落ちで全体が二字下げ。]

この噺を狐に化かされたとするには、少し疑問があつた、果して狐に化かされたものか、どうか、狐の方で化したとも何とも言つてゐる譯でなく、又化かした狐を見たのでもなく、狐に惡戲をされる覺《おぼえ》もないので、人の方で勝手に化かされたと信じてゐて、疑へば何か譯がわからなくなりますが、本人も狐に化かされたのだと信じ、又村で噺をして狐に化かされたのだと云つても疑問を抱く者もない程ですから、假に狐の部へ入れておきました。次の噺も同じ事です。

 

 ○氣樓を見せた狐  これも狐に化かされたのだと一般に信じてゐる事で、狐だと云ふ確證のない噺です。

 十四五年前の事、村の集會の歸りの者が、夜更けてから、掘割と云ふ處を通りかゝると、橋の傍の險しい崖の上で、頻りに信經を唱へる聲がするのを聞咎《ききとが》めて、尋ねて行つて見ると、早川モトと云ふ七十餘歲の老婆が、狐に化かされて、其處へ迷ひ込んだと云つてゐたさうです。其老婆に其折の模樣を尋ねたところが、何でも日の暮方、隣村から歸つて來て、あの邊《あたり》が自分の家だと思ふ所迄來ると、路は皆目判らなくなつて、山の裾に奇麗な二階家がずつと列んでゐて、其の家に悉く灯がついて、中では笛や太鼓で賑かに何事か唄つてゐる聲が手にとるやうに聞えるので、必定《ひつぢやう》狐の惡戲と思つて、其場に座り込んで眞經を唱へ始めたのだと云ふことでした。

[やぶちゃん注:「信經」「眞經」はママ。後の『日本民俗誌大系』版では、孰れも『心経』であるから、「心經」(「般若心経」)が正しい。

「氣樓」は蜃気楼のこと。

「掘割」不詳。]

 

 ○クダ狐  狐に管狐と云ふ一種があつて、單にクダともクダン狐とも謂ひます。鼬《いたち》によく似て、鼬より體が小さく、毛の色が心持ち黑味を帶びてゐると謂ひます。

 狐使ひの家などで使ふのはこの類で、種々な通力《つうりき》を持つてゐると謂ひますが、これに、白飯に人糞をかけて喰べさせると、通力を失つて馬鹿になると謂ひます。

[やぶちゃん注:「クダ狐」「管狐」については、「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 始めて聞く飯綱の法」の私の「飯綱(いづな)の法(はう)」の注を参照されたい。私の「想山著聞奇集 卷の四 信州にて、くだと云怪獸を刺殺たる事」には図も出る。他にも私の記事では管狐は常連である。]

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