「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 夙慧の兒、大人を閉口させた話
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。
注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。
なお、底本では標題下の初出附記が「(同前)」(前記事と同じの意)となっているが、単発で電子化しているので、正規に記した。
標題の「夙慧」は「しゆつけい(しゅつけい)」と読み、「夙」は「早い」の意で、「幼少時から賢いこと」の意である。]
夙慧の兒、大人を閉口させた話 (大正三年一月『民俗』第二年第一報)
伊太利人フランコ・サツケツチが十四世紀に書いた「新話(ノヴエレ)」第六七譚に、フロレンスのヴワロレ、惡謔(わるじやれ)、度《たび》なく、常に人をへこませ、娛樂とするに、よく敵する者、なし。ロマニアの官人ペルガミノの子十四歲、ヴワロレを訪ねて問答して之をやりこめた。ヴワロレ、傍人《ばうじん》に向つて、「小さい時非常に賢(かし)こい子が長じて、非常に馬鹿にならぬは、なし。」といふと、かの少年、「そんなら君は小さい時無類に賢かったはず」と卽座に擊ち返し、ヴワロレ、ますます辟易してフロレンスに逃げ還つた、とある。ポツジオ(一三八〇年生れ、一四五九年歿す)の「笑話(フアツエチエ)」には、一小兒、羅馬法皇前に演舌した時、ある高僧が評するを、小兒が右の通り擊ち返した、と作る。
[やぶちゃん注:『フランコ・サツケツチが十四世紀に書いた「新話(ノヴエレ)」「新話(ノヴエレ)」は「選集」では『デレ・ノヴエレ』とルビする。フランコ・サケッティ(Franco Sacchetti 一三三五年~一四〇〇年頃)はイタリア・フィレンツェの詩人で小説家。“Il Trecentonovelle” (トレセントノヴェッレ:「三百十九の短篇小説」)のことであろう。現在は二百二十三話のみ残る。これはイタリア語の「Wikisource」の「Il Trecentonovelle/LXVII」で原文が載る。私は読めないが、機械翻訳で、なんとか読める。「フローレンス」フィレンツェの英語。「ヴワロレ」は「Valore」、「ロマニア」は現在のエミリア=ロマーニャ州(Emilia-Romagna)で、イタリア共和国北東部に位置する州。州都はボローニャ。「ペルガミノ」は「Bergamino」或いは「Bergolino」とある。
『ポツジオ(一三八〇年生れ、一四五九年歿す)の「笑話(フアツエチエ)」』ジョアン・フランシスコ・ポッジョ・ブラッチョリーニ(Gian Francesco Poggio Bracciolini 一三八〇年~一四五九年)はルネサンス期イタリアの人文主義者。古代のラテン語文献を見出したことで知られる。‘Facetiae’は死後の一四七〇年に刊行された「ルネッサンス期の最も有名な笑話集」とされ、スカトロジックな話柄が含まれていることで知られる。]
こんな話はサツケツチより凡そ九百年前、支那にすでに行なわれた。劉宋の朝成《なつ》た「後漢書」と「世說」に、後漢の末、孔融、十歲で異才あり。其頃、名高い李膺《りよう》を訪ふと、一寸會《あつ》て吳《くれ》ぬから、一計を案じ、累代の通家《しりあい》たる者がきたと、振れ込み、輙《たや》すく膺の目通りへ出た。膺、怪しんで、「君は、予と、どんな舊緣があるぞ。」と問ふと、「李聃《りたん》(老子)は孔子の師だつたから、かく申した。」と言《いつ》たので、一座、その夙慧に驚いた。陳韙《ちんい》てふ老官人が居合せて、「人、小さい時、聰(さか)しきは、大きく成《なり》て必《かならず》しも奇才とならぬ。」と評す。融、聲に應じて、「そんな言《こと》を吐く君は、見たところ、一向、平凡故、定めし、小さい時、よほど夙慧だつたらう。」と言つた。李膺、大いに笑つて、「高明(融の字)、必ず、偉器たらん。」と言った、とある。此拙考は明治卅一年頃の『ノーツ・エンド・キーリス』に載せた。
[やぶちゃん注:「世說」は「世說新語」のこと。南北朝時代の南朝宋の臨川王劉義慶が編纂した後漢末から東晋までの著名人の逸話を集めた文言小説集。当該話は「中國哲學書電子化計劃」の影印本のここの最後の割注部(次の丁にかけて)で視認出来る。
「李膺」(?~一六九年)は後漢の官僚。事績は当該ウィキを参照されたい。
「明治卅一年」一八九八年。ちょっと調べたが、同年の同誌にはないようである。]
追 記(大正十五年八月二十七日記)
文化中、一九作「落咄彌次郞口《おとしばなしやじらうぐち》」に、『「旦那、人と云《いふ》物は變つた物で、幼少の時、馬鹿な者は成人すると、極めて利口になり、又、子供の時、利口な者は大きくなると、果てのばかになる者だ。」と云と、側に聞て居《をつ》たる男、「左樣ならば、憚り乍ら、旦那樣は、御幼少の時は、嘸《さぞ》お利口で厶《ござ》りましたらう。」とあるは、明らかに件《くだん》の孔融の咄を丸取りだ。
[やぶちゃん注:「落咄彌次郞口」十返舎一九が文化一三(一八一六)年に刊行した小話(落し話)集。国立国会図書館デジタルコレクションの「一九全集」(続帝国文庫)のここで当該部が視認出来る(左ページ後ろから五行目。多少、アレンジしてあるようだ)。]
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