柳田國男 鯨の位牌の話
[やぶちゃん注:本篇は大正二(一九一三)年四月刊の『鄕土硏究』第三巻第十一号に発表されたもの。所持する「ちくま文庫」版「柳田國男全集」には収録されていない。本電子化は現在進行中の南方熊楠「續南方隨筆」中の「鄕土硏究第一卷第二號を讀む」のために、急遽、電子化する必要が生じたために作成した。されば、注はごく一部に留める。
底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の「定本 柳田国男集」第二十七巻(昭和四五(一九七〇)年筑摩書房刊)の正字正仮名版を視認した。但し、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は「定本 柳田國男集」第二十七卷(新装版・筑摩書房・一九七〇年初版の一九七二年の三刷)の新字正仮名の当該論考を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。]
鯨 の 位 牌 の 話
狩の前後の儀式には各國とも珍しい慣習が伴つて居る。山狩の後で山の神を祀る祭を弘く狩直し祭と謂ふ。ナホシは機嫌を直すなどのナホシで、物の命を絕つても災をせぬやうにとの趣意であるらしい。佛敎と獨立したよほど古い思想であることは改めて述べたいと思ふが、爰には就中奇拔の一事を擧げて置く。東京人類學會雜誌第百十一號秩父紀行浦山村の條に、獵師熊鹿などを捕りし時には、殺した獸の生肝を取出して山の神に供へ、スハノモン、マイコノモンと唱へるとある。スハ、諏訪であることは次の話でわかるが、マイコはメイゴでは無いか。何のことであるか知らぬが、日向の椎葉山でも、熊の紐解の祕傳として、ナムメイゴノモンと三度唱へる。此事は後狩詞記に載せて置いた。此山村でも獲物の心臟を山の神に供へる。又矢開の祭の祭文の中に、グウグセヒノ物助クルトイヘド助カラズ、人ニ食シテ佛果ニ至レと云ふ語がある。或は引導と稱してヒガフグニセイノ物助クルトイヘド云々とも云ふ。帝國書院本の鹽尻卷五十に、信州諏訪の祠官鹿食無穢の章を出し妄に火を穢す。恐くは佛家の意より出でたり、今其札と云ふを見るに神代の故に非ず、業盡有情、雖放無生、故宿生身、同證佛果と書きたり、是全く佛者の方便の說なりとある。竹抓子(ちくはし)と題する或江戶人の隨筆に、諏訪の神と宇都宮とは祭に鳥獸を供へる。諏訪では中の酉の日の大祭に鹿の頭三十(?)五を生板の上に列べて神前に供へ、別に鹿の肉を料理して社人之を食す、他人も神官より箸を受けて食へば穢無し、又鹿を食ふ者に與へる札がある。業盡有情、雖放不生、故宿人中、同證佛果とあるのは大般若經の文句である云々。大般若經は驚入るが、諏訪の信仰は九州でも天草又は薩摩に迄及んで居るから、椎葉山の祭文も是れから出たものである。
[やぶちゃん注:「浦山村」現在の埼玉県秩父市浦山(グーグル・マップ・データ。以下の無指示は同じ)。
「此事は後狩詞記に載せて置いた」私の『柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 「附録」「狩之卷」』を参照されたい。
「鹽尻卷五十に、信州諏訪の祠官鹿食無穢の章を出し……」国立国会図書館デジタルコレクションの「鹽尻」上巻(室松岩雄校訂・明四一(一九〇八)年国学院大学出版部刊)のこちらの右ページ下段の後方で視認出来る。]
業の盡きたる有情は放つと雖生きず、故に人中に宿して同じく佛果を證せよと云ふのは諏訪明神の託宣であると云ふことは、以前何かの本で見たことがあるが本の名を忘れた。(甲賀三郞終篇)然るに右の山の神の呪文を直に海の獸に對して應用した例がある。長門風土記に依れば、此國大津郡通島は鯨取の盛な島である。此浦の向岸寺の抱なる觀音堂の中に、元祿五年に安置した鯨の位牌がある。立派な位牌で上に梵字を書き眞中に南無阿彌陀佛とあつて、其左右に業盡有情、雖放不生、故宿人天、同證佛果と書いてある。長門仙崎の寺にも之と同樣の位牌があつて、雙方共に每年三月に鯨の供養をする例であつた。人天は人中よりも大分哲學的であるが、兎に角手前勝手な文句である。一休和尙の逸事にも之に似た話がある。手前勝手とは云ひながら之をすら遣らない今の人は笑ふ事は出來ぬ。殺すけれども化けるなは少なくとも一箇の挨拶であつた。昔者は此の如く非類とも精神上の附合をして居たのである。羽後の男鹿半島の光飯寺では每年十月、朔日に鰰の祭をした。鰰は秋田名物八森鰰云々の歌もあつて、此海で澤山に捕られる魚である。風俗問狀答に依れば、此日は浦々の漁民めいめい小石を多く持來る、寺の僧此石に光明眞言を一字づつ書し神前に法樂加持す、漁民之を持歸り五穀を添へ己が漁場の海中へ散し入る。是漁業の利を得んことを折り、且つ數萬の魚の爲に冥福を囘向するとなりとある。米を散すと云ふ一點からも魚の精靈に對する浦人の態度がよく窺はれるのである。
[やぶちゃん注:「大津郡通島」山口県長門市の北の日本海にある青海島(おおみじま/おうみじま)の東部分の通(かよい)地区(グーグル・マップ・データ)。この島は以前は、本土の一部を含めて大津郡仙崎通村(せんざきかよいむら)であった。拡大すると、「くじら資料館」があり、「向岸寺」(浄土宗)も現存する。
「抱なる」「かかへなる」と訓じておく。「所属であって管理している」の意であろう。
「長門仙崎」上記の青海島と陸の岬部分も含む長門市仙崎。「寺」は島に複数あり、岬にもあるので、特定は不能。
「男鹿半島の光飯寺」寺名は「こうぼうじ」と読む。半島岬のど真ん中のここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。
「鰰」言わずもがな、「はたはた」と読み、スズキ目ハタハタ科ハタハタ属ハタハタ Arctoscopus japonicus 。
「風俗問狀答に依れば、……」「風俗問狀答」は「ふうぞくとひじやうこたへ」と読み、出羽国秋田領の「答書」(こたえがき)。主な執筆者は秋田藩の藩校明徳館の儒者那珂通博(なかみちひろ)で、跋文により、文化一一(一八一四)年に成立したことが判る。国立国会図書館デジタルコレクションの「諸國風俗問狀答」(中山太郎校註・昭和一七(一九四二)年東洋堂刊)の活字本のここで当該部が視認出来る。]
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