西播怪談實記 西播怪談實記三目録・山脇村慈山寺にて生霊を追し人の事
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本冊標題はここ。本文はここから。目録(ここから)の読みは総て採用した。挿絵は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」にあるものをトリミングして適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]
西播怪談實記 人
西播怪談實記三
一 山脇(やまわき)村慈山寺(し《→じ》《さんじ》)にて生霊(いきりやう)を追し人の事
一 佐用角屋(すみ《や》)久右衞門狐の化たるに逢し事
一 姬路を乘物にて通りし狐の事
一 下德久村法覚寺本堂の下にて死し狐の事
一 牧谷村平右衞門狐火を奪(うはい)し事
一 河虎(かはとら)骨繼(ほねつき)の妙藥(めうやく)を傳(つた)へし事
一 東本鄕村蝮蝎(うはばみ)を殺し報(むくひ)の事[やぶちゃん注:「蝮蝎」はママ。]
一 櫛田(くした)村不動堂(ふとうどう)の鰐口(わにくち)奇瑞(きすい)并《ならびに》滝川の鱗(うろく《ず》)片目(かため)の事
一 佐用福岡氏化生(けせう)のものに逢し事
一 早瀨(はや《せ》)村五介大入道に逢し事
一 龍㙒(たつの)林田(はやした)屋の下女火の車を追ふて手并《ならびに》着物(きもの)を炙(やき)し事
一 安川村佐右衞門猫堂(ねこ《だう》》を建(たて)し事
○山脇村慈山寺(しさんじ)にて生霊(いきりやう)を追(をい)し人の事
佐用郡山脇村に慈山寺とて眞言宗の寺、在《あり》。住持の僧は、文殊院とて、知行(ちかう)兼備し、別して、善心厚(あつ)ければ、近國、尊《とうと》みあへりける。
元來、
「施(ほとこし)に。」
とて、囘國(くはいこく)の修行者(すぎやうしや)、斗藪(とそう)の隱者(いん《じや》)、其外、四民(しみん)を撰(えら)ばず、善惡自他の隔(へたて)なく、一宿、二宿、或は、五日、三日、心次第に止(とゝめ)て、旅行のつかれを休(やすま)せ、聊(いさゝか)も謝禮を受(うけ)ざれば、人皆《ひとみな》、有難(ありかたき)事におもひける。
然《しか》るに、正德年中の事なりしに、何國(いつぐ)のものともしれぬ旅人、暮方に來たりて、一夜の宿を乞《こひ》ければ、
「安き事成《なり》。」
とて、出來合か(てきあい)の一飯(はん)を、食《くは》せ置《おき》、住持は勤行に懸《かかり》ける中《うち》に、右の旅人は、本堂の片隅に、すやすやと寢て居たりける。
勤行、終りて、住持は寢所《ねどころ》へ入《いり》ければ、寺僧、召遣(めしつかい)の小者迄、銘々の部屋へぞ、入にける。
良(やゝ)夜(よ)も更(ふけ)て、本堂の方(かた)、立《たち》さはぐ音、しければ、
「何事なるにや。」
と、近所(きんしよ)に寢て居るもの共、起出(おきいで)、起出、住持もろ共に、本堂に行《ゆき》て見れば、彼《かの》旅人、拔身(ぬきみ)を持《もち》て、
「己(をのれ)、憎き奴(やつ)なり。いつ迄、したひ來るぞ。」
と、常燈(ぜうとう)の邊(へん)を、獨言(ひとりこと)、いひて、たぞ、追廻(をいまは)る有樣(ありさま)なり。
寺内《じない》のもの、
「乱心ものにや。」
と恐れたるに、戶・障子を明(あけ)、外へ追行《おひゆく》風情なりしか、暫(しはし)ありて立歸《たちかへ》るを見れば、拔身を鞘(さや)へ納《をさめ》て、何の子細もなければ、住持、側(そば)へ呼(よひ)て、
「御邊(ごへへん)の風情、其意を得ず。いかなる子細にや。」
と、問れて、旅人、落淚して、いふやう、
「我、生國(せうこく)は都方《みやこがた》のものなるが、色慾(しきよく)の事につけ、聊(いさゝか)の誤(あやまり)出來《いでき》て、親の勘氣を得、都の住居(すまい)。相叶《あひかなは》ず、西國の方《かた》に知音(ちいん)の有《ある》に便(たより)て、兩年過《すぐ》しけるに、都の女の生㚑(《いき》りやう)、きたりて、なやまさる。有驗(うけん)の髙僧・貴僧をたのみ、いろいろと致ぬれど、其驗(しるし)なく、終《つひ》に、西國の住居も叶ず、何國(いつく)を當所(あてと)ともなく立出《たちいで》、今日《けふ》迄は、みへざりしかば、『嬉しや。此世の苦患は、のかれし。』と思ひしに、又侯《またぞろ》哉《や》、したひ來り、かゝる品(しな)に及ぶ事、各樣《かやう》の前《まへ》、面皮(めんひ)なく、我運の拙(つたな)さ、彼是《かれこで》おもへば、『不孝の報(むくひ)。』と、かへらぬ事ながら、千悔(せんくわい)仕る。」
と、打《うち》しほれてぞ申《まをし》ける。
住持を初《はじめ》、『不便の事』におもひけれども、せん方なし。
かくて、翌朝(よくてう)、いとまを乞(こひ)ければ、住持、壱包(《いつ》ふう)を與(あたふ)れば、弥《いよいよ》恩を謝(ちや[やぶちゃん注:ママ。])して、立出《たちいで》、東を指(さし)て行《ゆき》けるに、當國さる御領内にて、又、生㚑(《いき》れう)、追付《おひつき》たりければ、脇指を拔(ぬき)て追《おひ》しに、製札(せいさつ)[やぶちゃん注:漢字はママ。「制札」。]の下へ隱(かくれ)しを、すかさず、切《きり》つくるに、誤(あやまつ)て、切先(きつさき)、製札に當(あたり)、疵付(きす《つけ》)ければ、
「氣狂(きちかい)、製札を切《きり》し。」
と、追々、註進しけるにより、早速、搦捕(からめとら)れ、吟味の上、件《くだん》の子細を言上《ごんじやう》すれば、不便《ふびん》に思召《おぼしめす》といへども、其罪、のがれん方なく、終に、死刑に行(をこなは)れけるよし。
聞及ぶ趣を、書つたふもの也。
[やぶちゃん注:「佐用郡山脇村」現在の兵庫県佐用郡佐用町山脇(やまわき:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。佐用町の中心地である佐用の南に接する。
「慈山寺」現存する。
「斗藪(とそう)」「抖擻」とも書く。仏語。サンスクリット語の「ドゥータ」の漢音写。「頭陀」と同義。身心を修錬して衣食住に対する欲望を払い除けること、或は、その修行。さらにそれに一、二種の戒を加えることもある。
「正德年中」一七一一年から一七一六年まで。]
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