佐々木喜善「聽耳草紙」 二一番 黃金の鉈
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本は、ここから。]
二一番 黃金の鉈
或所の大層正直な爺樣が、淵の岸へ行つて、がツきり、がツきりと木を伐つて居つた。そしたらどうした拍子か手の鉈を取ツ外して淵の中へ落してしまつた。さあこれア事なことをした。たつた一丁しかない大事な鉈(ナタ)コを失くしてしまつては明日から木を伐ることも出來ない。木を伐ることが出來ないと、婆樣をあつかう[やぶちゃん注:ママ。]事も出來なくなる。これはどうしても淵の中さ入つて探(サ)がさなければならないと思つて、淵の中さ入るべえと思つて居ると、淵の中から美しい姉樣が、手に黃金の鉈コを持つて出(デ)はつて來た。そして爺樣爺樣お前は今鉈コを落さないかと言つた。はい今大事な鉈を落したので淵の中さ見つけに行くべえとして居るところでがンしたと爺樣が言ふと、それではこの鉈だべと、姉樣はその黃金の鉈を爺樣の目の前へ差し出した。爺樣はそれを見て驚いて、いゝえ、いゝえ、そんな立派な鉈ア勿體のない。この爺々の鉈は鐵の錆びた古鉈でごぜいすと言ふと、はアさうかと言つて、姉樣は淵の中に入つて行き、更に爺樣の落した古鉈を持つて出て、それでは爺樣この鉈コかと言つた。はいその鉈コでごぜいますと言ふと、姉樣は笑つて、爺樣は本當に正直な人だから、この黃金の鉈も上げツから持つて歸れと言つて、古鉈コと黃金の鉈コを一緖に爺樣に持たした。爺樣の家はそのお蔭で長者となつた。
隣家で、淵の神樣から黃金の鉈コをもらつて來て長者になつたジことを聞いた上の家の婆樣は、カラナキ(怠者《なまけもの》)で何時(イツ)もごろごろしてばかり居る吾家の爺樣をいづめこづめ、叱り小言して其淵の岸さ木伐りにやつた。
其爺樣は淵のほとりへ行つて木を伐つて居たが、いくら伐つても手から鉈コが取り外れないので故意(ワザ)とそれを淵の中さ投げ込んでやつた。そして速く神樣が黃金の鉈コを持つて來てくれゝばいゝなアと思つて、淵の水面を見詰めて居ると、淵の水に水輪ができ、すらりと美しい姉樣が出て來た。そして手に持つた黃金の鉈を差し伸べて、何か言ふべえとしたのに、爺樣は魂消(タマゲ)もの見たよに、あゝ其れ々々ツ、其が俺の鉈だツと言つて、姉樣の手からその鉈ア取んべえとすると、姉樣はこれこの不正直爺々ツと言つて、その鉈で頭を切り割つた。爺樣は血みどろになつて、家さ泣きながら歸つて、以前よりもずつと貧乏になつた。
(下閉伊郡岩泉町邊の話。野崎君子氏談の一、昭和五年六月二十三日採集の分。)
[やぶちゃん注:所謂、「イソップ寓話」の一つである「金の斧」或いは「ヘルメスと木樵(きこり)」譚の本邦転用版。当該ウィキによれば、『正直であることが最善の策であるという教訓の物語で』、『正直なきこりが斧を川に落としてしまい嘆いていると、ヘルメース神が現れて川に潜り、金の斧を拾ってきて、きこりが落としたのはこの金の斧かと尋ねた。きこりが違うと答えると、ヘルメースは次に銀の斧を拾ってきたが、きこりはそれも違うと答えた。最後に鉄の斧を拾ってくると、きこりはそれが自分の斧だと答えた。ヘルメースはきこりの正直さに感心して、三本すべてをきこりに与えた』。『それを知った欲張りな別のきこりは斧をわざと川に落とした。ヘルメースが金の斧を拾って同じように尋ねると、そのきこりはそれが自分の斧だと答えた。しかしヘルメースは嘘をついたきこりには斧を渡さなかった。欲張りなきこりは金の斧を手に入れるどころか自分の斧を失うことになった』。『日本では当初ヘルメース神を水神と訳したためか、これを女神とすることが児童書などで一般的となっている』とある。また、三浦佑之氏の講演の再録である「機織淵-『 遠野物語 』第五四話をめぐって-」(講演:一九九八年十月/一九九九年二月発行『遠野常民』八十三号・遠野常民大学刊所収。主題となっている話は、私の「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 五四 神女」を読まれたい)の、「二 「黄金の鉈」に似ている発端」の「2.樵夫とヘルメス ( 『 イソップ寓話集 』 )」で以上の原話を紹介された後に、『『イソップ寓話』というのは教訓話ですから、あるお話を元に一つずつ、古代ギリシャのイソップ(アイソポス)が教訓をつけていくというかたちで語られています』。『ただ、構造的に見ますと、イソップの話は、金、銀、鉄というふうに三度繰り返されるのですが、喜善さんのお話では金の鉈と自分の鉈と二つだけしか出てきません。ただ、これは語り方よって金、銀、鉄となる場合もありますが、構造的にいいますと、間違いなくこの二つはほとんど同じであると言っていいと思います』とされ、次の『3.「金の鉈」は外国より伝播』で、『もちろん、古代ギリシャにも、日本にも、同じような話が元々あったと考えらることもできるのですが、そしてそのような話も多いのですけれども、この「金の鉈」という話に限って言いますと、おそらくかなり新しい段階で日本に伝えられたのではないかと考えられています。もっとも古いとしてもキリシタンが日本に入って来たとき、修道士たちがいろんな書物を持ち込んで、それを元に布教活動を始めます。その中で「イソポのファブラス」という最古の和訳本が今も残っておりまして』、天正二〇・文禄元(一五九三)『年のことです。それ以降、さまざまな書物ができ、それらを元に宣教師によって語られていくわけです』。『そういうふうに』十六『世紀末期に日本に入ったのですが、イソップの話が日本中でよく知られるようになったのは、おそらく明治になって国定教科書に載せられてからではなかろうかと考えられるわけです。どの段階で一般化したのかはにわかには断定できないのですが、どうも日本に元からあった話ではなさそうだ。ただ、この喜善さんのお話は岩泉で伝えられているお話ですから、少なくともこの段階、昭和初期あたりになりますと、もう一般化した話として人々によく知られていたらしいと考えられます』。五十四『話の話で、斧を取り落とし淵に探しに行く、という発端の部分というのは、イソップの話と極めて近いのではないか、それが一つです』。『そして、この「黄金の鉈」の話が、岩手県でどれくらい採録されているかというと、『日本昔話大成』によれば、それほど多くはありません。九戸、下閉伊郡、『聴耳草紙』の今の話ですね、それから江刺、気仙郡、後は「すねこ たんぱこ」に一つというわけですから、全部で』五つ『ぐらいしか採録されていない。広くはありますが、それほど濃密に広がっている話ではありません。他の県でも同じような状態です。そして『日本昔話大成』、これは関敬吾さんという方が編集なさった全国の昔話を集めた本ですけれども、その注にはこんなことが書いてあります』として、『注 この話はすでにイソップ(アイソーポス寓話集・二五三、岩波文庫・一九八)にもある。世界的にいかに分布しているかは知らない。わが国の話が果たしてこのイソップによって文献として輸入されたか、またその以前のものか、これを明らかにすることは困難である。この話は国定教科書に採用され、現在の採集の中にそれが見られる』と引用され、続けて、『「明らかにするのは困難」とおっしゃっていますけれども、日本に元々あったというよりも、外来の伝承がいつの間にやら日本化していったものだということは間違いないだろうと思います』と述べておられる(前後の話も興味深いものであるので、是非読まれたい)。
「婆樣をあつかう事」「婆樣」は爺樣の妻。「あつかう」は「養う」の意。
「カラナキ(怠者)」語源不詳。
「いづめこづめ」不詳。「何時も何時も」か。
「下閉伊郡岩泉町」岩手県下閉伊郡岩泉町(いわいずみちょう:グーグル・マップ・データ)。
「昭和五年」一九三〇年。]
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