早川孝太郞「三州橫山話」正規表現版始動 / 「ことわりがき」・目次・「位置」・「橫山の名稱」・「村の草分け」
[やぶちゃん注:本書は東京市小石川区の郷土研究社から大正一〇(一九二一)年十二月に鄕土硏究社『爐邊叢書』第十二冊として刊行されたものである。内容は筆者早川孝太郎氏の郷里である愛知県の旧南設楽(みなみしたら)郡長篠村横山(現在の新城市横川(よこがわ)。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ。国土地理院図では現在でも「横山」が広域地名で、その中に「横川」がある形をとっている。「ひなたGPS」のこちらを参照)を中心とした民譚集である。
著者早川孝太郎(明治二二(一八八九)年~昭和三一(一九五六)年:パブリック・ドメイン)は民俗学者・画家。画家を志して松岡映丘(本名は輝夫)に師事、映丘の兄柳田國男(彼は松岡家から柳田家の養嗣子となった)を知り、民俗学者となった。愛知県奥三河の花祭と呼ばれる神楽を調査し、昭和五(一九三〇)年に同祭りを中心に三河地方の祭りを論じた大著「花祭」を刊行した(国立国会図書館デジタルコレクションでログインなしで「前編」と「後編」が視認出来る)。他にも精力的に農山村民俗の実地調査を行っている。
私は既にブログ・カテゴリ『早川孝太郎「猪・鹿・狸」』で本篇の後に出したそれを、分割で全電子化注を三年前に終えている。その電子化の最初のきっかけは、当該書の好意的な書評を芥川龍之介が発表しているからであった(大正一五(一九二六)年十二月六日発行の『東京日日新聞』の「ブックレヴィュー」欄に掲載された。当該作品は私の「《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 猪・鹿・狸」を見られたい)」が、電子化注する内に、完全に早川ワールドに魅せられてしまい、電子化注を終えて暫くの間、「早川孝太郎ロス」に悩まされたほどであった。
今回は、国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本を見ることが出来たので、それを視認して電子化注を開始する。また、不審な箇所は同じ限定で視認出来る国立国会図書館デジタルコレクションの池田弥三郎等編『日本民俗誌大系』「第五巻 中部Ⅰ」(一九七四年角川書店刊)に所収する新字新仮名版を参考とする。それに伴い、ブログ・カテゴリ名を『早川孝太郎「猪・鹿・狸」【完】+「三州橫山話」』と変更することとした。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢(すざわ)のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
底本に従い、可能な限り、正規表現で電子化する。ルビが殆んどないが、地名等で気になる箇所には《 》で読みを歴史的仮名遣で添えた。( )は筆者のルビである。踊り字「〱」「〲」は正字化した。「猪・鹿・狸」と同じく、私自身が躓いたり、掘り下げたいと考えた箇所は、徹底的に注を附す。【二〇二三年三月七日始動・藪野直史】]
書 叢 邊 爐
―――――――
話 山 橫 州 三
郞 太 孝 川 早
★
行 發 社 究 硏 土 鄕
[やぶちゃん注:表紙。★部分に筆者のデッサン画がある。画像を載せるためには、国立国会図書館の転載許諾を受ける必要があるので、行わない。「本登録」をされ、御自身で見られたい。]
話 山 橫 州 三
郞 太 孝 川 早
※
行 發 社 究 硏 土 鄕
[やぶちゃん注:扉。※部分に筆者のデッサン画がある。前の表紙の絵とは異なる。同前。]
ことわりがき
三州橫山話としましたが、必ずしも橫山の話ぱかりでなく。近くは隣村のことから、遠くは遠江の引佐郡あたりの話までも集錄して居ります。しかし。此處に集めた話は全部、私が明治二十二年橫山に生れて、物心覺えた明治二十八九年頃から三十九年春、橫山を出る迄の間と、其後大正九年春迄、每年三四囘、時に五六囘も歸省した時に見聞した事ぱかりであります。極く幼少の頃に聞いた話などは、記憶から正に消えようとしてゐて、人名や地名、年代などは覺えてゐる限りは記しましたが、約何年前とか、明治何年頃と記したものゝ中には、記臆[やぶちゃん注:ママ。これは筆者の慣用表現で、以下、頻繁に出るので注は後は略す。]にある材料から推定したもののあることは事實であります。人名で、明記するに忍びないと思つたものは。故意に記さなかつたものもありますが。これはほんの二三に過ぎません。
内容の分類と、話の順序は隨分不自然で、また怪しいものがおります。例へぱ狐に化かされたと云ふ話で、果して狐に化かされたのか、どうか、全然判斷のつかぬやうなものもありますが、これ等は、すべて聞いた儘に記して置きました事をお斷りして置きます。
大正十年八月
早 川 孝 太 郞
[やぶちゃん注:以下、「目次」であるが、リーダとページ数は省略した。]
目 次
ことわりがき
橫山の話
種々な人
山 の 獸
鳥 の 話
蛇 の 話
蟲のこと
草に絡んだこと
川に沿つた話
天狗の話
種々なこと
[やぶちゃん注:以下、以下の記事に続いて次の見開きにある筆者による手書きの「橫山略圖」の前に添えられたキャプション。底本ではページ中央に全体がある。]
圖 略 山 橫
此の頃のやうに、橫山迄川下から船がは
いつたのと反對に、以前は地圖にあるや
うに、川上から流して來た材木は橫山か
ら筏に組んだもので、其處をアバと謂ひ
ました。川狩の人夫は多く美濃方面から
渡つて來たものださうで、橫山の前を流
れる二の瀧の難所を踏んだものならば、
何處の川へ行つても怖ろしい事はないと
謂つたものだと、橫山の者は謂ひました。
[やぶちゃん注:ここに「横山略圖」(右から左書き)が載る。これは本書を読み解く上で必須の貴重なアイテムであるのだが、底本の画像を転載許可を得て載せるのが一番いいのだが、個人的には、本文の加工データとして使用させて戴く「早川孝太郎研究会」にある、JPG画像の当該地図をリンクさせておくのが、そちらへの御礼代りになろうかと思うことから、必要な時は、そちらの同地図の画像を常にリンクさせて示すこととする(この地図は「猪・鹿・狸」でも大いに参考にさせて戴いた大事な地図なのである)。なお、地図には非常に細かい解説が随所の書かれてある。一つだけ、「凡例」の最後の附記のみを電子化しておくと、
*
畑、田ヲ除キタル處ハ總テ草木茂リ山ニハ禿山ナシ北山御料林ハ靣積九十六町歩アリ村ノ全靣積ノ七分ヲ占ム
*
とある。「九十六町歩」は〇・九五二平方キロメートル。「御料林」は明治中期になって、官林の一部が皇族に移管されて、皇族の財産及び収入源とされたものを指す。「北山御料林」は旧長篠村内にあったことが、三戸幸久氏の論文「愛知県におけるニホンザルの分布変化と猿害」(PDF)で確認は出来た。旧村域はここ(愛知県南設楽郡長篠村・歴史的行政区域データセットβ版。横山も南西で含まれる)。その資料によれば、別に「砥山(とやま)御料林」もあった。それは新城市横川砥山で、豊川の対岸のここである。対岸に西山の地名があり、その東北に「上北地」という地名がある。さらに決定打は例の早川氏の手書き地図にある。図の左の「寒峽川」(豊川の上流域の名)の左岸に「御料林」と書いてあるのがそれで、則ち、この中央南北一帯が「北山御料林」であったのである。]
三 州 橫 山 話
○位置 三河の西を流れてゐる矢作川《やはぎがは》に對して、東側を縱斷してゐる豐川《とよがは》の流域に開拓された平地が、地圖に據つて見ると、上流に溯るに從つて、東の方、遠江に境した連山と、西側の本宮山《ほんぐうさん》を基點として北へ走つた山々に段々せばめられて行つて、最後に平地が微かに消えてしまはうとする所で、川が二つに別れてゐる處があります。東から流れてゐる川を三輪川と云ひ、西から流れる川を寒狹川《かんさがは》と呼んで、豐かな川と書いた豐川の名稱は此處で盡きて、水の流れも急に谿川の形に變ると同時にこれから北へ、三河の東北隅一帶を占めてゐる、山地が深く續いてゐます。
この二ツの川に挾まれた三角面を、西から流れる寒狹川に沿つて十數町溯つた東岸にある部落が橫山の地です。
この三角形の地が南設樂郡長篠村で、三角形の突端が戰國時代の長篠の城址で、三輪川を隔てた、八名《やな》郡の、舟着《ふなつけ》村寒狹川を隔てた南設樂郡の東鄕《ひがしがう》村あたりへかけて長篠の古戰場になります。
豐橋から起つてゐる飯田街道は、豐川の西岸を一直線に橫山の對岸迄來て、こゝから寒狹川の溪谷に入つて山峽を北設樂郡の寒地を巡つて、信州の飯田へ通じてゐます。往時はこの街道を飯田から信州產の綿を馬力で運搬して來て、橫山から船に積んで川を下つたさうですが、明治十七八年頃を最後にして、來なくなつたと謂ひます。
傳說によると、太古此附近一帶は、一面の海で、橫山の南東、豐川の東岸に聳えてゐる舟着山の頂上の岩へ船を繫いだなどと謂つて、附近の、大海《おほみ》、有海《あるみ》、岩出、乘本《のりもと》などの地名は、その頃の名殘だなどとも謂ひます。
舟着山の麓を、豐川から三輪川に沿つて、北設樂郡の本鄕を經て信州の飯田へ通ずる別な道があつて、舟着山の北の麓を山峽を通つて、山吉田村から遠江の引佐《いなさ》郡へ通じてゐる街道もあります。
[やぶちゃん注:「矢作川」ここ。
「豐川」ここ。
「本宮山」愛知県岡崎市・新城市・豊川市に跨る標高七百八十九メートルの山。ここ。別名を「三河富士」と称する。古来より山岳信仰の対象とされてきた山であった。
「川が二つに別れてゐる處があります。東から流れてゐる川を三輪川と云ひ、西から流れる川を寒狹川と呼んで」三輪川は現行の地図上では宇連川とあるのと同じ川の別名である。分岐地点はここで、「三角形の突端が戰國時代の長篠の城址」と有る通り、長篠城跡の南面直下である。但し、東に折れて北上する川は現行では豊川をそのまま記してある。しかし、「ひなたGPS」の戦前の地図のここを見られたい。私の言った通り、今の「宇連川」の部分には「三輪川」とあり、分岐した東上流の流れには、まさに「寒狹(カンサ)川」と書いてあるのである。
「橫山」愛知県新城市横川。
「南設樂郡長篠村」横山と北西で接している。
「舟着村」現在の愛知県新城市市川山中に船着山(ふなつきやま:現行の山名)があるが、ここは少なくとも豊川左岸までは旧舟着(ふなつけ)村であろうと思われる。「ひなたGPS」の戦前の地図では村名には「フナツケ」とあるのである。
「東鄕」愛知県新城市川路東郷(かわじひがしごう)。
「飯田」長野県飯田市まで、横山からは直線でも六十七キロメートルある。
「明治十七八年頃」一八八四、五年。
「大海」新城市大海。
「有海」新城市有海。
「岩出」不詳。
「乘本」新城市乗本。
「山吉田村」新城市下吉田五反田附近。
「遠江の引佐郡」現在の静岡県浜松市北区の大部分に当たる旧郡。]
○橫山の名稱 東海道線を豐橋から分岐して、北に走っている豐川鐵道の終點、長篠驛の東北に、谿を隔てて山の裾に、西南に面して、南北に細く一列に家の並んでいる部落がそれで、現今南設樂郡長篠村大字橫川字橫山組と呼んでいる戶數三十戶程の部落ですが、以前は設樂郡橫山村と云ふ獨立した村で、現今大字橫川をなしている對岸の瀧川村と共に、德川氏直接管領の地で、赤坂代官所へ納入の年貢米は、僅々六十二石餘に過ぎなかつたさうですが、村の者は、自から天領と稱へてゐたと云ひます。
ずつと昔は知りませんが、現今橫山組で保管してゐる村の記錄に據りますと、天正以來云ひ習はした地名らしく、當時は寺が一ツ、家が十一戶しか無かつたやうですが、其後六戶まで減つた時を最少として、追々地類を增やして現今に至つたやうです。
[やぶちゃん注:「長篠驛」「早川孝太郎研究会」の当該箇所(PDF)には、以下の注記がある。『飯田線は、明治』三三(一九〇〇)年、『豊川鉄道により吉田(現・豊橋)~長篠(現・大海)間が開業、鳳来寺鉄道により大海~三河川合間が開業し』、『「本長篠駅」が出来たのは』大正一二(一九二三)年『のことです。この本が書かれた大正の初期には、終点は長篠駅(大海駅)でした』とある。
「瀧川」「ひなたGPS」で見られたい。「国土地理院図」に滝川、戦前の地図に「瀧川」とある。
「天正以來」同前で、天正元年は一五七三年であり、「長篠の戦い」は天正三(一五七五)年のことであった旨の注がなされてある。]
○村の草分け 村の草分けとも謂ふべき舊家は、字《あざ》神田《じんでん》の山口と云ふ家だとも、宮貝津《みやがひづ》の早川孫三郞と謂ふ家だとも謂ひ、字神田の長者平は、昔長者の屋敷跡とも謂ひますが、近い頃まで榮えてゐたのはこの二軒だけでしたが、今はどちらも沒落してありません。
山口と謂ふ家は百年ほど前までは非常に榮えてゐたさうで、今でも立派な屋敷跡がありますが、ある時此家の召使が、過つて茶釜に紡錘を當てた爲に、其夜座敷に住んでゐた福の神が遁げだしたので、其から段々家運が衰へてしまつたと謂ふ事です。福の神の姿を見たとは云ひませんが、翌朝裏口に、非常に巨きな足跡がたつた一ツ、後の山の方に向けてあつたと謂ひます。
[やぶちゃん注:以下の一段落は、底本では全体が二字下げ。]
茶釜や茶釜の蓋へ紡錘を當てる事を厭む風習があつて、蓋へ當つたかしら、と云ふ位でも早速修驗者を招いて祈禱をして、其蓋は川へ流したなどの事實を微かに記臆してゐます。紡錘を當てるのは、ツム倒れと云つて厭むとも謂ひます。
早川孫三郎と云ふ家は、今から四十年前に、一家を擧げて東京へ引払つたさうで、今は屋敷跡は畑になつてゐますが、此家の没落は、村の鎭守が、昔は自分の家の地の神であつたと云ふ理由で、その森を伐り拂つて、鎭守を自分の所有の芝刈山へ遷座した罰とも謂ひます。家運の亂れるそもそもの最初は、ある朝、この家の家内が井戶で水を汲まうとすると、井戶車へ、ぱつと優曇華《うどんげ》が咲いたと謂つて、アレ優曇華が、と謂つて見返す間に、消えてなくなつたとも云ひました。橫山の御館《おやかた》と謂へば、近鄕に鳴り響いた家柄で座敷の緣側に立つて、眼に入る限りの山や畑が、全部此家の所有であつたと謂ひます。傳說には、先祖が橫山の字コンニヤクと謂ふ所の岩山で金を掘つて富を獲たとも謂つて、其處を現今でも金堀[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]りと称へて居りますが、別の話では其處は後世堀りかけて中止した跡だとも云ひます。
橫山の村の者などは、二、三のものを除いては、對談の叶ふものはなく、全部が召使のやうで、此家の田植に出なかつた爲め、村を追はれる處を、詫びを入れてやつとゆるされたなどの話がありました。全盛の最後の人は、村の者が俗に今樣と呼んだ人で、體格も勝れて立派であつたと謂ふ事ですが、子供の頃は類ひ稀な美少年で、ある年の田植に、畔に立つて苗を運んでゐる姿を、通りすがりの道者が見て、こんな山深い土地に、かく迄美しい子供があるものかと見とれて行つたと謂ふやうな話もありました。
鎭守の森を伐り拂つた時は、今から九十年前ださうですが、故老の話に、幾百年を經過したともはかり知れない古木が、鬱蒼と茂つてゐて、川を隔てゝ大海《おほみ》村の鎭守の森と、枝と枝とが相接した間に、無數の群猿が遊んでゐた光景は見事なものであつたと謂ひます。
[やぶちゃん注:この話は、『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 十九 古茶釜の話』で注で私が引用して注を入れてあるので、そちらを見られたい。特に加えるべき新事実を確認していない。]
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