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2023/03/09

早川孝太郞「三州橫山話」 「伽籃樣(ガランサマ)」・「鄕倉(ゴークラ)」・「山へ捨てられた辻堂」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○伽籃樣(ガランサマ)  萬燈山の北よりの字《あざ》長畑に、ガラン樣と呼んでゐる堂があつて、これに安置した佛像は、おはらこもりの本尊と謂つて、胎内に小佛を藏してゐるもので、村の者は、比類のない名作と信じてゐたと謂ふ事ですが、明治初年の神佛合祀の禁令に觸れる事があると謂つて、堂を取り壞した時、村の報恩寺へ持込んで置いて、明治三十四年報恩寺の燒失と同時に烏有に歸したと謂ひます。

 境内に見事な紅葉の樹と、巨きなタマの樹(桂)があつたさうですが、紅葉の樹は、明治十五、六年頃、附近の家に一宿を求めた若い御嶽講《みたけこう》の道者が、如何な事情のあつてか、翌朝未明に出立《しゆつたつ》して、この紅葉の枝で縊死した爲め、其折《そのをり》伐り除つてしまつたと謂ひますが、タマの樹は堂と一緖に伐り拂はれたさうです。

 その後久しい間、堂の跡は空地になつてゐて、雜草の茂るに委せてあつて、此處の草を刈れば、蛇の祟りがあるなど謂つて、近づく者もなく、タマの樹の根株と、昔からの、ガラン樣の祠《ほこら》が殘つてゐましたが、近年村で共有地の整理をするについて、村の某と云ふ者に賣渡したさうです。その男は神も佛もない男で、忽ち雜草を刈り取つて、開墾して畑にしたさうですが、何の祟りもないと謂ひます。最もこゝに祀つてあつたガラン樣の祠を、報恩寺の境内へ祀り替へたからとも謂ひます。

[やぶちゃん注:「萬燈山の北よりの字長畑に、ガラン樣と呼んでゐる堂があつて」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の『(萬燈山)』の麓の北西に『ガラン址』とあるのがそれ。長畑は現在の地名にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、思うに、その長畑と南西で接する「横山入リ」部分との間かとも思われる。グーグル・マップ・データ航空写真を見ると、「長畑」に近い「入リ」のここに有意な空き地があるので、ここが堂があった一つの候補地(或いはその前庭部)となろうか。

「明治初年」(一八六八年)「の神佛合祀の禁令」忌まわしい「神仏判然令」は慶応四年三月十三日(グレゴリオ暦一八六八年四月五日:この慶応四年九月八日(一八六八年十月二十三日に明治に改元)から明治元年十月十八日(一八六八年十二月一日)までに波状的に出された太政官布告・神祇官事務局達・太政官達等の一連の通達の総称である。私は「廃仏毀釈令」と名指したい悪名高い国家神道政策の一つであり、多くの旧信仰の祠や信仰対象神・仏教寺院が損壊され、貴重な芸術品の多くが廃棄され、海外に二束三文で流れてしまった近代史の一大汚点である。なお、明治政府の新暦改暦は明治五年十二月二日(グレゴリオ暦十二月三十一日)を以って「天保暦」が廃止され(これによって明治五年の十二月はたった二日間となり、一年の長さは三百二十七日間となってしまった)、明治六年一月一日で一八七三年一月一日となり、「明治改暦」が初めて施行されている(この部分はウィキの「新暦」に拠った)。

「明治三十四年」一三〇一年。

「報恩寺」この寺(曹洞宗)は横川字宮貝津に現存する(グーグル・マップ・データ航空写真)。但し、現在の境内地はストリートビューの定点で見ると、この状態である。この端にある仏像が気になるが、「報恩寺の燒失と同時に烏有に歸した」とあるからには、他仏の空似で、違うであろう。ただ、ここで気になることが一つある。「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図を見ると、「ガラン址」の南西、白山神祠の道を隔てた南の所に『ガラン祠』『堂址』とあることである。これは、どう考えても、この「伽籃樣」を移した「堂」の「址」とした読めない点である。以下で、早川氏は「この堂の傍らに鄕倉」があったと言っており、手書き図には確かに、その西直近に「郷倉」とあるのだから、間違いない。とすれば、実は現在の「報恩寺」は元はここにあったのではなかったろうか? 「ひなたGPS」を見ると、この部分には「卍」記号はない。しかし、同時に現在の報恩寺の位置にも「卍」はないのである(この地図は昭和戦前期のもの)。土地の方に聴けば、一発で氷解することではあるのだが。因みに、早川氏の地図(本書刊行の大正一〇(一九二一)年の作製と推定してよい)にも、現在の報恩寺のマーキングは、ない、のである。]

 

 ○郷倉(ゴークラ)  德川時代には、この堂の傍らに鄕倉と謂つて、村の年貢米を一時納入して置いた建物があつたさうですが、明治十年頃取壞したと謂ひます。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図を参照されたい。中央少し下方の『ガラン祠』の左手。

「明治十年」一八七七年。]

 

 ○山へ捨てられた辻堂  神佛合祀の禁令に觸れたものは、堂の外《ほか》に、字追分の、飯田街道から鳳來寺への岐れ道に建つてゐた辻堂があつたさうです。中に安置された本尊は石彫の千手觀音で、高さが三尺もある物だつたさうですが、蓮臺だけは取つて、辻の路標の臺にして、辻堂は佛像を入れたまゝ、村の者が總出で舁いで村境の山へ捨てたと謂ひます。其後、辻堂は腐つて、中にあつた佛像のみが蔓草の絡むに委せて轉がつてゐたのを、五六年前迄は見たと云ひます。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左端上方に『鳳耒寺川』とあり、その下流から一つ目の橋と、二つ目の橋のこちら側のルートがぶつかるところに、『辻堂』とあるのがそれ。横川追分地区である(グーグル・マップ・データ)。はっきりとそれとは断定出来ないが、ストリートビューの辻位置にあるこれは、明瞭でないが、「鳳來寺」と彫ったような道標に見える。それらしい感じもするのだが、どうも、昔と道が異なっている感も強くあるので、調べてみると、少し手前の方に、やはり「右ほうらい寺」としっかりある道標があり、こちらが正しいそれのように思われた。それにしても、惨(むご)い話ではないか。

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