西播怪談實記 德久村兵左衞門誑れし狐を殺し事
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。本文はここから。また、挿絵も所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」にあるものをトリミングして適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]
○德久《とくさ》村兵左衞門誑(たふらかさ)れし狐を殺《ころせ》し事
佐用郡德久村に、兵左衞門といひし農家あり。
產業、乏しからず。ことに、力、强く、相僕《すまふ》を好《このん》て、其名、近國に鳴(なる)。
元來(もとより)、殺生を數寄(すき)て、山川を徘徊して慰(なくさみ)とす。
正德年中の、ある十月初方(はしめ《かた》)の事なりしに、夜(よ)ふかに出《いで》て、鳥屋(とや)へ行《ゆく》【「鳥屋」とは雉子(きじ)の出《いづ》る所に菰莚《こもむしろ》の類《たぐゐ》にて仕立《したて》、さまを明《あけ》たるもの也。】。
夜の明《あけ》待ゐたるに、霧、立籠(たいこ)めし東雲(しのゝめ)に、雉子の出(いつ)るを、
「今や、今や、」
と待《まち》おほれて、挾間(さま)より、のぞき見るに、年をへたる狐壱つ、犬(いぬ)つくばひして、居《をり》けり。
兵左衞門、おもひけるは、
『今朝(けさ)は、きやつ、居れば、雉子も出《いで》まじ。打《うつ》て腹《はら》をゐん。』
と、
『思ふ矢壺を、違(たか)へじ。』
と、ねらひすまして、打出《うちいだ》す。
音に應じて、
「ころころ」
と、ころぶ。
「我(わか)年來(ねんらい)鍛練の手の内、矢比《やごろ》といひ、いかなる狐にもせよ、などかは、助かるべき。」
と、心地よく、鳥屋を立出《たちいで》、取《とり》て歸らむとすれば、狐、
「むくむく」
と起(おき)て、迯失(にけうせ)ける。
兵左衞門、
「こは。口惜(《くち》をし)。」
と、噛喰(はかみ)をすれども、せんかたなく、立歸(たちかへり)、翌朝、又、右の鳥屋へ行《ゆか》むと立出《たちいづ》るに、早(はや)、橫雲(よこ《ぐも》)は棚引(たな《びき》)て、
「時分は、よし。」
と進行(すゝみ《ゆく》)に、狐、壱ツ、側(かたはら)より走出《はしりいで》、先に立《たち》て見えつ、かくれつ、行《ゆき》て、矢表に、居直《ゐなほ》る。
兵左衞門、
『昨日の狐なり。』
と、弥(いよいよ)、念を入《いれ》て打出す音とひとしく、ころび、死(しゝ)たる風情して、良(やゝ)ありて、起(をき)て去《さる》事、前の如し。
是より、兵左衞門、人にも噺(はなさ)ず、心を尽しけれども、幾度(いくたひ)にても、前のごとくなる事、廿日斗《ばかり》なれば、心氣(しんき)も、つかれ、おもひ煩(わつらひ)しに、近所の鉄炮友達に弥七郞といふもの在《あり》しが、つかれたる樣子を聞《きき》、見舞に來たりて、念比(ねん《ごろ》)に尋《たづぬ》れば、兵左衞門、心を尽したる事を、委細に語る。
弥七郞、いふやう、
「鉄炮を、はづすなるべし。我、宵より行《ゆき》て待《まつ》べし。例のごとく、明朝、來《きた》るべし。二人して、打《うた》むに、などかは、仕損(しそんず)べし。」
と約束して、立歸る。
翌朝、兵左衞門、まだ、篠目(しのゝめ)に立出《たちいづ》れば、狐、先立行《さきだちゆく》事、前のごとくにして、矢表に直(なを)るを、兵左衞門、ねらひて打《うて》ば、又、
「ころころ」
と、ころぶ所を、弥七郞、すかさす打《うつ》に、元來(もとより)、狐は、例の通《とほり》、壱人と思ひ、油斷の折(をり)なれば、矢壷を、思ふまゝに打《うち》ぬかれながら、猶、兵左衞門を目に懸《かけ》て、喰付(くひ《つか》)んと、にじり寄(よる)を、
「はた」
と、ねめ付《つけ》、
「我を、日比、誑したる報(むくひ)を、おもひしれ。」
といふまゝに、側(そは)なる大石(おほいし)をとつて、打付《うちつく》れば、頭(かしら)、碎(くだけ)て、死《しに》けると也。
予、幼少の時分に、兵左衞門直噺(ちき《ばなし》)をきゝける趣を書傳ふもの也。
[やぶちゃん注:本篇は細部がよく描かれてあり、リアリズムを上手く出している。
「德久村」既出既注であるが、再掲すると、現在の兵庫県佐用郡佐用町西徳久(にしとくさ:グーグル・マップ・データ)。
「正德年中」一七一一年から一七一六年まで。
「さまを明たるもの」の「さま」とは、直後の「挾間(さま)」で、鳥撃ちのための、菰莚で粗製した狩り小屋の、外を覗き見る隙間を開けたそれを指す。
「犬(いぬ)つくばひ」犬が腹這うようにちょこんといることであろう。
「矢壺」老婆心ながら、以下、「矢比」「矢表」などと言っているが、これは古くの弓道からの比喩表現であって、兵左衛門が使用しているのは、あくまで鉄砲であるので、お間違えなきように。]