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2023/03/28

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 『鄕土硏究』第一卷第二號を讀む

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、「選集」では、本篇は「南方雜記」から外して、それの後に配されてある。]

 

      『鄕土硏究』第一卷第二號を讀む

            (大正二年五月『鄕土硏究』第一卷第三號)

 

 「鯨の位牌の話」(九〇頁)に載つた、諏訪の祠官「鹿食無ㇾ穢《しかくひ、ゑ、なし》」の章の異傳が、「諏訪大明神繪詞」に出て居る。是には、延文元年源尊氏奧書があるから、鐮倉時代の行事を記したらしい。其卷下に、『正月一日、祝《はふり》以下の神官・氏人、數百人、荒玉社若宮寶前を拜し、偖《さて》、御手洗河《みたらしがは》に歸りて、漁獵の義を表《あらは》す。七尺の淸瀧の冰《こほり》閉《とぢ》て、一機《ひとはた》の白布、地に布《し》けり。雅樂數輩、斧鉞《ふゑつ》をもて切り碎けば、蝦蟇《がま》、五つ六つ、出現す。每年、不闕《かかざる》の奇特なり。壇上の蛙石《かへるいし》と申す事も故あることにや。神使六人、赤衣きて、小弓・小矢を以て是を射取《いとり》て、各《おのおの》串にさして捧げ持《もち》て、生贄《いけんいへ》の初とす』云々。『業深有情、雖ㇾ放不生故、宿人身、同證佛果〔業深き有情(うじやう)は、放つと雖も、生きざる故に、人身に宿りて、同じく佛果を證す〕』云々と見える。「沙石集」卷一上に、山法師が、琵琶湖の鮒を取《とり》て、「汝、放つまじければ、不ㇾ可ㇾ生〔生(い)くべからず〕、たとひ生《うま》るとも不ㇾ可ㇾ久〔久しかるべからず〕、生ある者は、必ず、死す。汝が身は我が腹に入《いら》ば、我が心は、汝が身に入れり。入我々入《にふががにふ》の故に、我が行業《ぎやうごふ》、汝が行業と成《なり》て、必ず、出離すべし。然《しか》らば、汝を食《くひ》て、汝が菩提を訪《とぶら》ふ可し。」とて、打殺《うちころ》してけり。まことに慈悲和光の心にて有けるにや、又、只、ほしさにころしけるにや、おぼつかなし。信州の諏訪、下野の宇都宮、狩を宗として、鹿、鳥なんどをたむくるも、このよしにや。」と有る。「書紀」卷十、吉野の國、樔人《くすひと》、煮蝦蟆上味〔蝦蟆(かへる)を煮て上味とす〕と有るに參して、本邦、古え[やぶちゃん注:ママ。]、蝦蟇を珍膳とする方俗、處々に有たと知れる。

[やぶちゃん注:「鯨の位牌の話」柳田國男が大正二(一九一三)年四月発行の『鄕土硏究』第三巻第十一号に発表した論考。本篇のために先立って電子化注しておいたので、まずはそちらをお読みあれかし。

「諏訪大明神繪詞」「国立国会図書館デジタルコレクションの『信濃史料叢書』中巻(信濃史料編纂会編・昭和四四(一九六九)年歴史図書社刊)のこちらの右ページ下段から左ページ上段で当該部が視認出来る。一応、校合したが、一部は熊楠の表記に従った。

「延文元年」一三五六年。

「源尊氏」室町幕府将軍足利尊氏。彼は河内源氏義国流足利氏本宗家第八代目棟梁である。延文三(一三五八)年四月三十日に背部の腫瘍で亡くなっている。

『「沙石集」卷一上に、山法師が、……』所持する岩波文庫版(築土鈴寛校訂・一九四三年刊)で校合した。そちらでは、「卷第一」の「八 生類を神明に供ずる不審の事」にあり、所持する岩波の『日本古典文学大系』版の「沙石集」の「拾遺」では、同書の古本にある旨の注がある(同書はかなり異なる伝本が複数ある)。国立国会図書館デジタルコレクションの元和四 (一六一八)年の版本では、「第一下」の中の「生類神明供不審事」のここに出る。

『「書紀」卷十、吉野の國、樔人《くすひと》、煮蝦蟆上味国立国会図書館デジタルコレクションの岩波文庫の黒板勝美編「日本書紀 訓読 中巻」(昭和六(一九三一)年刊)の当該部をリンクさせておく。「樔人」は古代、現在の奈良県吉野地方にいた土着の住民で、「国栖」「国巣」とも書く。記紀の神武天皇の伝説中に、「石押分」(磐排別:いわおしわけ)の子を「吉野国巣の祖」と注しているのが、文献上の初見である。]

 紀州西牟婁郡朝來《あつそ》村に、大きな諏訪明神の社が有たが、例の合祀で全滅された。其邊に楠本氏の家が多い。信州より移り來たと云ふ。色々、古傳說も有たらしく、異樣の祭儀も有たが、廢祠と俱に信を得難くなつたのは惜しむ可し。和歌山近傍に宇須《うず》明神の社有りしが、是も合祀で滅却された。其邊に諏訪と云ふ侍が有て、藩士が鹿を食ふ前に、その侍の使ふた箸を貰ひに往《いつ》た。岡本柳之助、諏訪秀三郞、其れから、二人の兄に、「諏訪船」とか云ふ物を創製した海軍士官〔名は親昌とて、退職海軍中佐とかで、數年前迄、友人杉村楚人冠《そじんかん》の我孫子《あびこ》の宅の隣りにすみ居たりと、きいた〕、孰れも兄弟で、其家から出た。永々《ながなが》、巴里に寄留する秀三郞君から、右の次第を聞いたが、言語風采、丸で、佛人に成つて了《しま》つた人の事故、由緖等、更に分らぬ。一八六三年板、ミシェル・プレアルの「エルクル・エ・カクス論」六四頁に、移民は、多く祖先來の傳話を、遠地へ將來、持續す、と有るより推すと、件《くだん》の宇須明神は、諏訪氏が古く信州より頒《わか》ち移した者かと思ふ。

[やぶちゃん注:「紀州西牟婁郡朝來村」現在の和歌山県西牟婁郡上富田町(かみとんだちょう)朝来あっそ:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。田辺の南東に接する。

「諏訪船」不詳。

「杉村楚人冠」私の「南方熊楠 履歴書(矢吹義夫宛書簡)(その1)」の注を参照されたい。

「我孫子」手賀沼と北の利根川の間に当たる千葉県我孫子市

『ミシェル・プレアルの「エルクル・エ・カクス論」』フランスの言語学者・比較神話学者であったミシェル・ジュール・アルフレード・ブレアル(Michel Jules Alfred Bréal 一八三二年~一九一五年)が一八六三年に刊行した比較神話学書「ヘラクレスとカークス」(Hercule et Cacus:「カークス」はローマ神話に登場する巨人の怪物。火神ウゥルカーヌスの息子)。]

 明治二十六年、予、倫敦で、至つて、貧しく暮らし、居常、斷食して讀書した。直《すぐ》近所に、去年、死んだ博覽多通家アンドリュウ・ラングの邸が有《あつ》て、學友から紹介狀を貰ふたが、街え[やぶちゃん注:ママ。]出ると犬に吠えられる體《てい》故、到頭、會はずに仕舞つた。「梅が香や隣りは」の句を思出して可笑しかつた。仕事が無いから、當時、巴里の「ギメー」博物館に讀書中の土宜法龍師と、以ての他、長い書翰で、每度、雜多の意見を鬪《たたかは》した。何を書いたか、多分は忘れたが、其時の予の翰は、悉《ことごと》く、土宜師の手許に現存すと聞く。一つ確かに覺えて居《を》るのは、吾國に古く銅鐸が出た事と、橘南谿の「東遊記」に見えたる出羽の飛根《とびね》の城跡抔の例を引き、南洋イースター島抔の由緖不知《しれず》の大墟址抔に照《てら》して、吾邦上代に、今日の邦人が思ひも付《つか》ぬ、種類、全く懸隔した開化が有た事を述べ、又、弘法大師が銘を書た茨田池《まむたのいけ/まんたのいけ/まんだのいけ》の碑を例として、中古の物にも、後人が、中々、企て及ばぬ物、有る由を論じた。確か、其時、飛根等の城址を、オハヨ、ミシシッピ谷の諸大城塚に同じく、今日、全滅した民族が建てた物だらうと述《のべ》たと覺えるが、最近の硏究によると、北米の大城塚は、全く跡絕えた民族の作でなく、之を建てた輩の後裔が現存し乍ら、全く其傳を失つた者らしい(「大英類典」十一板、卷十八、九三五頁)。して見ると、文字の用を知《しら》なんだ時代の事は、吾邦にも、多く、其傳を失ふたので、必しも、大城を築いた邦人が絕滅したので無いかとも思ふ。

[やぶちゃん注:「明治二十六年」一八九三年。

「アンドリュウ・ラング」「南方熊楠 履歴書(その17) 自力更生」の私の注を参照されたい。

「梅が香や隣りは」「梅が香や隣は荻生惣右衞門」は宝井其角の句と言って人口に膾炙する句であるが、現在、この句は杉山杉風の弟子であった松木珪琳のものとされている。私の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 梅が香や隣は荻生惣右衞門』を参照されたい。

『「ギメー」博物館』パリにある国立の東洋美術専門美術館であるギメ博物館Musée Guimet)。ギメ東洋美術館(Musée national des arts asiatiques Guimet)とも呼ぶ。

「土宜法龍」(どきほうりゅう 嘉永七(一八五四)年~大正一二(一九二三)年)は尾張出身で、本姓は臼井。真言宗の高僧。上田照遍に師事した。明治二六(一八九三)年にシカゴで行われた「万国宗教大会」に参加した後、ロンドンで熊楠と親交を結んだ。明治三十九年に仁和寺門跡・御室派管長、大正九年には高野派管長となった。熊楠との往復書簡は哲学的に非常に面白いものである。

『橘南谿の「東遊記」に見えたる出羽の飛根の城跡』国立国会図書館デジタルコレクションの『有朋堂文庫』の第三十四の「東西遊記」(塚本哲三等編・大正六(一九一七)年有朋堂書店刊)のここから視認出来る。この「飛根の城跡」は現在の秋田県能代市二ツ井町(ふたついまち)飛根(グーグル・マップ・データ航空写真)。橘の記載にある「鶴形」(つるがた)も、この西南西直近の秋田県能代市鶴形。但し、現在、何らかの遺跡指定はなされていないようである。

「オハヨ、ミシシッピ谷の諸大城塚」これは、アメリカの古代文化で、現在のアメリカ合衆国中西部・東部・南東部にまで広がっていた、地域によって様々な形態を成した「ミシシッピ文化」のことを指す。「オハヨ」はオハイオ州のことで、この文化は北東部ではそちらまで達していた。マウンド(塚:上に住居や墳墓などを建設するために積み上げた人工の丘)を構築したインディアン文化で、凡そ紀元後八〇〇年から一五〇〇年まで栄えたとされ、参照した当該ウィキによれば、『その人々は持っていた技術からみて』、『ヨーロッパの銅器時代に比定される』とある。]

 偖《さて》、喜田博士が「法苑珠林」から引た、所謂、日本の阿育王塔の聞書は、『珠林」よりは七年前に成た釋道宣の「三寶感通錄」卷一に出て居る。「珠林」に『會丞』と有るに、此書には『會承』と有る。前者爲ㇾ正〔前者を正となす〕の義に隨はば、『承』を正とすべし。「珠林」と少しく文意が差《ちが》ふから、今、全文を擧ぐ。倭國在此洲云々、有會承者、隋時來ㇾ此學、諸子史統及術藝、無事不一ㇾ閑、武德之末猶在、至貞觀五年、方還本國、會問、彼國昧谷東隅、佛法晩至、未已前育王不、會答、文字不ㇾ言、無以承據、驗其事迹、則是所ㇾ歸、何者有人開發土地、往往得古塔露盤佛諸儀相二一、故知素有也。〔倭國は、此の洲の外に在り云々。會承といふ者有り。隋の時、此に來たりて、學ぶ。諸子、史統及び術藝、事として、閑(なら)はざるなし。武德の末、猶、在り。貞觀五年に至りて、方(はじ)めて、本國に還る。會に問ふ、「彼(か)の國は、昧谷(まいこく)の東の隅にて、佛法、晚(おく)れて至る。未だ知らず。已前(いぜん)に育王の及べるや不(いな)や。」と。會、答ふ、「文字は言はず。以つて承據(しやうきよ)すること無けれど、其の事迹(じせき)を驗(けん)するに、則ち、是れ、歸する所なり。何となれば、人の土地を開發する有るに、往往、古塔の露盤・佛の諸(もろもろ)の儀相を得。故に素(もと)有りしことを知んぬ。」と。〕是には、神光を放つ等の虛譚が無い。

[やぶちゃん注:漢文部は熊楠が支持する「三寶感通錄」を「大蔵経データベース」で調べて校合した。一部に漢字をそれで補い、推定で返り点を加えた。

「喜田博士」歴史学者・文学博士で考古学や民俗学も取り入れて学問研究を進めた喜田貞吉(きたさだきち 明治四(一八七一)年~昭和一四(一九三九)年)。この引用の元論考は不明。

「阿育王塔」分骨した釈迦の遺骨を納めるために作られた仏塔のこと。

「貞觀五年」唐代の太宗の治世の元号。六三一年。

「昧谷」日の入る所。]

 和歌浦近き愛宕山の住僧愛宕貫忠師(今九十歲近し)、十年許り前、語られしは、女形役者で高名だつた芳澤《よしざは》あやめは、日高郡山の瀨と云ふ地の產也。其が斯る極《ごく》邊鄙の出に似ず、古今の名人成たので、其頃、所の者が、「山の瀨の瀨の眞菰の中で、菖蒲咲くとは、しほらしや。」と唄ふた(一〇一頁參照[やぶちゃん注:本書のページではない。「選集」に『前田林外「潮来と民謡」』とある。当該記事は確認不能。])。あやめの父は無下の農父だつたが、非常に忰が役者となつたのを恥《はぢ》て、一生、久離《きうり》して音信せなんだ、と。右の唄は、眞僞、如何《いかが》はしいが、此人、日高郡の產に相違なきにや、「紀伊國名所圖會」にも、日高郡の卷に、其肖像を出し有ると記憶する。〔(增[やぶちゃん注:「増補」の意。])福岡彌五四郞の「あやめ草」には、『あやめ、申されしは、「我身、幼少より道頓堀に育ち、『綾之助』と申せし時より」云々』と有て、紀州生れといふ事、見えず。是は、今日、某侯爵や某男爵が、吾祖先は劫盜《ごふたう》[やぶちゃん注:強盗に同じ。]、又、ラヲシカエから立身した、と主張せぬごとく、生所《せいしよ》を隱したのだ。貫忠師、又、言《いひ》しは、紀州家の菩提所、濱中の長保寺の昔しの住職は、無下の水呑百姓の子で有た。僧となりて、幼少より精勉して榮達したと聞いて、その父、悅ばず、「吾れは、菩提の爲に彼《かの》者を出家せしめたのに、諸侯の菩提寺にすはるやうな不所存な者は、後生も、賴まれず。」とて、老夫婦づれで廻國したが、途中で追剝《おひはぎ》に遇《あふ》て殺された、と。此貫忠師は、和歌の名人で、若い時、小林歌城抔と交りあり、色々、珍談、多い人だつた。迚も、今まで生き居る人でないから、聞た丈《だけ》の事、書付けおく。〕

[やぶちゃん注:「和歌浦近き愛宕山の住僧愛宕貫忠」和歌山県和歌山市栄谷(さかえだに)に愛宕山はある。山麓に幾つもの寺はある。「愛宕貫忠」なる僧は不詳。

「芳澤あやめ」初代芳澤あやめ(延宝元(一六七三)年~享保一四(一七二九)年)は元禄から享保にかけて、大坂で活躍した女形歌舞伎役者。当該ウィキによれば、『屋号は橘屋。俳名に春水。本姓は斎藤。通名を橘屋』權七と称した。『紀伊国の中津村(和歌山県日高川町)の生まれ』で、五『歳の時に父を亡くし、その後』、『道頓堀の芝居小屋で色子として抱えられ、吉澤綾之助を名乗った。はじめ三味線を仕込まれたが、丹波亀山の筋目正しい郷士で』、『有徳の人として知られた橘屋五郎左衛門が贔屓となると、その強い勧めで』、『女形としての修行を重ねた。後年』、『女形として大成したあやめは、この橘屋五郎左衛門の恩を一生忘れず、屋号の「橘屋」も彼にあやかって用いるようになったという。のち』、『口上の名手・水島四郎兵衛方に身を置き、初代嵐三右衛門の取り立てで、若衆方として舞台を踏』んだ。元禄五(一六九二)年に『京に上り、元禄』八『年』『に太夫の号を取得して芳澤菊之丞と改名。元禄』十一『年』には「傾城浅間嶽」での『傾城三浦役が人気を博』した。正徳三(一七一三)年十一月には、『江戸に下り、翌年』十一『月に帰京。その』二『年後には役者評判記』「三ヶ津惣芸頭」で『高い評価を受け』た。享保六(一七二一)年には、『立役に転じて』、『芳澤權七を名乗』ったものの、『不評で』、『女形に戻』った。『この前後に「吉澤あやめ」を名乗ったといわれているが、詳細は不明』。享保十三年に隠居したが、翌年、死去した、とある。また、『初代あやめは、舞台だけでなく』、『日常生活でも常に「女性」を意識していなければならない』、『と門人に教えていた』。『食事は、みなから離れて一人で食べなくてはいけない、食べている時に男になってしまったら』、『相方の役者がどう思うか、そこまで考えなくてはいけない、という徹底したものだった。初代のこうした「芸談」は、それを直に見聞きしたという狂言作者の福岡彌五四郎が晩年に口述、この他にも数人の役者の芸談を加えて』「役者論語」に『まとめられた』とある。この内容からも、彼の父の話はデタラメであると断じてよかろう

「久離」「舊離」とも書く。江戸時代、不品行の子弟が失跡などをした際、連帯責任から免れるため、目上の親族が、奉行所に届け出て、失跡者を「人別帳から除名し、縁を切ることを言う。「勘当」と混同されるが、違う。

『「紀伊國名所圖會」にも、日高郡の卷に、其肖像を出し有る』国立国会図書館デジタルコレクションのこちらでその挿絵を見ることが出来る。

「福岡彌五四郞」(生没年不詳)は江戸前・中期の歌舞伎役者で歌舞伎作者。立役を経て、親仁方・道外方となった。元禄一三(一七〇〇)年、京都夷屋座で福岡弥五四郎を名のり、作者も兼ねた。享保になって、近松門左衛門の「国性爺合戦」を脚色、大当たりをとった。初名は藤村一角。前名は藤村宇左衛門。別名に京屋弥五四郎(講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠った)。

「ラヲシカエ」よく判らぬが、これは「羅宇屋(らうや)」のことではなかろうか。「らう」は煙管(きせる)の火皿と吸口の間を繋ぐ竹管を指す。インドシナ半島のラオス産の黒斑竹を用いたのが、この名の起こりとされる。江戸時代に喫煙が流行するとともに、三都などで「らう」の「すげかえ」を行う「羅宇屋」が生まれた。「らう」は時を「らを」とも記し、「すげ換え」は「仕(し)換へ」と通ずることからの連想である。行商の彼らは、やはり蔑まれた人々であった。

「濱中の長保寺」和歌山県海南市下津町(しもつちょう)上(かみ)にある天台宗慶徳山長保寺。紀州藩主紀州徳川家歴代の墓所がある。当該ウィキによれば、『同地の歴史的な地名は紀伊国海部郡浜中荘上村。長保寺の塔頭・吉祥院は、仁和寺が荘園領家である浜中荘(濱中荘)の荘務を委任されていたことから、浜中荘がまとめた田数目録などの文献のなかには』、『往事の長保寺の伽藍の規模を考察する上での貴重な資料となる記載も多い。浜中荘はこの長保寺を中心にして平安時代末から室町時代にかけて栄えていた』とあった。]

 頭白《ずはく》上人緣起(一一一頁[やぶちゃん注:前と同じく本書のページ数ではない。「選集」に『吉原頼雄「頭白上人縁起伝説」』とある。当該論考は現認出来ない。])は、佐夜中山夜啼石の話と同類らしい。穗積隆彥の「世田谷私記」に、世田谷の吉良賴康の妾《めかけ》常盤、不義の事有《あり》て、懷胎にて殺害せられけるに男子を生めり、といふ事あり。何れも佛經の飜案だらう。劉宋の沮渠京聲《そきよけいせい》譯「旃陀越國王經《せんだおつこくわうきやう》」に、旃陀越王が特寵する小夫人《しやうぶにん》、孕む。他の諸夫人、王が信用する婆羅門に賂《まひなひ》し、此人凶惡、若其生ㇾ子、必爲國患〔此の人は凶惡なり。若(も)し、其れ、子を生まば、必ず、國の患(わざは)ひと爲(な)らん〕と讒《ざん》し、小夫人を、殺し、埋めしむ。塚中で、男兒、生れしを、母の半身、朽《くち》ずして、乳育す。三年、經て、塚、崩れ、兒、出でて、鳥獸と戲れ、夜分、塚に還る。六歲の時、佛、之を愍《あは》れみ、出家せしめ、後、羅漢と成る。佛、命じ、往《ゆき》て父王を敎化せしむ。此僧、王を見て、「何を憂ふるぞ。」と問ひしに、「嗣子無きを憂ふ。」と答ふ。僧、聞き笑ふて許り居るので、王、之を殺さんとす。僧、察し知《しり》て、便輕擧飛翔、上住空中、分身散體、出入無間。〔便(すなは)ち、輕く擧がりて飛翔し、上(ぼ)りて、空中に住(とどま)り、分身、散體して、無間(むけん)に出入す。〕王、之を見て、恐れ入り、伴《ともなひ》て、佛を訪《と》ふ。佛、便ち、因緣を說く。この僧、前身、貧人たりし時、酪酥《らくそ》を比丘に施す。其功德で、王に生まれしが、人の好《よ》き母牛《めうし》、犢《こうし》を孕めるを見、人をして、其牛を殺さしむ。天人、諫めて、犢のみ、殺さしめず。牛主《うしのあるじ》、還つて、牛の腹を破り、犢を取り養ひ、怒つて、「後世《ごぜ》、王をして、此の犢の如く、ならしめん。」と詛《のろ》ふ。王の後身、此僧となり、生れぬ内に、母、殺さる。母は、前世の王夫人也。婆羅門は牛主也。此僧、前世、酪酥を比丘に施したので、今生《こんじやう》にも死《しん》だ母の乳で育つたちう事ぢや。按ずるに、上述、「無間に出入す」と云ふ句に據《よつ》て、「佐夜中山、無間の鐘。」抔と、云出《いひだ》したのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「旃陀越國王經」は、一応、「大蔵経データベース」を確認した。

「頭白上人緣起」サイト「茨城の民話WEBアーカイブ」の「頭白上人伝説:生まれ変わって敵を倒す」、及び、「頭白上人伝説:飴を買う幽霊」を見られたい。

「佐夜中山夜啼石の話」当該ウィキを読まれたい。ここに現在も残る(グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)。

『穗積隆彥の「世田谷私記」』国立国会図書館デジタルコレクションの『世田谷区史料』第一集(昭和三三(一九五八)年)のこちらで当該内容が確認出来る。

「無間」この場合は私は「無限空間」の意ととる。

「酪酥」牛や羊の乳を煮て、又は、発酵させて造ったもの。チーズやヨーグルトの類。

『「無間に出入す」と云ふ句に據《よつ》て、「佐夜中山、無間の鐘。」抔と、云出したのかも知れぬ』ちょっと違うだろう。これは、小夜の中山の近く、静岡県掛川市東山にあった曹洞宗観音寺にあった鐘のことだろう。この鐘をつくと、来世では無間地獄に落ちるが、この世では富豪になるという伝説があった、と小学館「日本国語大辞典」にあった。現在は、その鐘を投げ入れた井戸と称する「無間の井戸」が、「小夜の中山」の北西にある阿波々(あわわ)神社にある。サイド・パネルのこの画像を見られたい。サイト「ハマラボ」の「謎スポット【遠州七不思議】 無間の井戸 〜幸運の鐘と地獄の入り口は隣合わせ〜」が、丁寧にルートを写真で挙げておられて、ヴィジュアルには最もよい。さて、元に戻ると、まあ、それをお手軽に引っ掛けたに過ぎないでしょ? 熊楠先生? 漢文の「旃陀越國王經」の難解な識域を読み解くより、その方が、ずっとショート・カットで、民草も納得だぜ。]

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