早川孝太郞「三州橫山話」 「セキの地藏」・「山の神」・「行者講」
[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]
○セキの地藏 字仲平の路傍に、村の者が、セキの地藏と呼んでゐる綿にくるまつた小さな石の地藏尊がありました。風をひいた時は、此地藏の綿を借りて來て、着物に縫ひ込んで置き、全快すると新しい綿を奉納する風習がありました。
[やぶちゃん注:「仲平」ここ(グーグル・マップ・データ)。「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左下方の寒狹川へ『カラ澤』と『北澤』の中間の内地に『セキノ地藏』とある。ここは、現在のこのグーグル・マップ・データ航空写真の中央附近に当たるのであるが、ここは現在、国道二五七号部分が長い陸橋(橋名は「横山橋」)となっており、陸側の道も可能な部分を辿ってみたが、この地蔵は、残念ながら、現認出来なかった。しかし、「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)には注記と二枚の写真があり、まさにこの『横川字仲平・横山橋の下』に現存し、『今でもお参りする人があると見えて、お地蔵様は新しい綿に包まれています』とあった。何か、ホンワカとしてくる画像である。必見!]
○山の神 山の神の祠は、山には幾ケ所もありましたが、現今村で山の神の祠として祀つてゐるものは、字相知《あひち》の入《いり》にあるもので、他はみんな昔の祠だと云ひます。一月七日と十一月七日が山の神の祭日で、此日は仕事を休んで山の講の日待ちがありました。オトー(月番)に當つた家から、酒や五目飯の振舞があつて、山の神の爲めにある神代《かみしろ》から上つた年貢米は、オトーの家へ納まる事になつてゐました。
月の七日は山の神の日と謂つて、此日は山へ入ることを忌む風習がありましたが、現今は行はれなくなりました。
一月四日は初山と謂つて、此日は山へ入つて、一本でも木を伐るものと謂ひます。山の入り口で山の神を祭りますが、此時は、白紙を注連《しめ》のやうに裂いて、それを路傍の木の上に結びつけ、洗米や、小さな餅などを供へて、九字《くじ》をきりましたが、供物の代りに、木の葉などを供へて置くのもありました。
[やぶちゃん注:「相知の入」ここ(グーグル・マップ・データ)。「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の中央の左の方に『山ノ神祠』とある。ここはストリートビューが通っていないので現認出来ない。但し、同地図には他にも、左の中央やや右手の双耳峰の鞍部の下方に「山ノ神祠」が、右中央やや上の山の麓(『(字池代)』の谷の奥)にも『山ノ祠』とある。
「日待ち」決った夜に行う忌籠(いみこも)りの一つで、月の出を待つ「月待ち」に対するもので、現行では正月・五月・九月の中旬に行われることが多く、その夜は村人たちが当番の家に寄合って忌籠りし、翌朝、日の出を拝して解散する。「まち」は、元は「まつり」(祀り・祭り)の意と考えられており、本来は人々が集って神とともに共同飲食する神人共食に由来する「祭り」が、次第に「日を待つ」の意へと転訛したものと思われている。「夜籠り」は、もともと、厳しい斎戒を伴うものであり、その夜は各々の家の火を清め、当番宿では女を避け、総て、男子の手で行う決まりであった(現在、その風を守って居る地方もある)が、次第に庚申講などと同じく酒宴を伴う遊宴へと変化した。
「神代《かみしろ》」は私の推定読みだが、明かに稲の豊作を祈って特別に植えた神聖な田地を指していると考えた。所謂、「田の神」に捧げる「初穗」を収穫するためのそれである。
「九字」当該ウィキによれば、『道家に』よって、『呪力を持つとされた』九『つの漢字』を指す語。『西晋と東晋の葛洪が著した』「抱朴子」内篇巻十七「登渉篇」に、『抱朴子が「入山宜知六甲秘祝 祝曰 臨兵鬥者 皆陣列前行 凡九字 常當密祝之 無所不辟 要道不煩 此之謂也」と入山時に唱えるべき「六甲秘祝」として、「臨兵鬥者皆陣列前行」があると言った、と記されており、以後古代中国の道家によって行われた。これが日本に伝えられ、修験道、陰陽道等で主に護身のための呪文として』複数の九字が『行われた』。『この文句を唱えながら、手で印を結ぶか』、『指を剣になぞらえて空中に線を描くことで、災いから身を守ると信じられてきた』。但し、「抱朴子」の『中では、手印や四縦五横に切るといった所作は見られないため、所作自体は後世の付加物であるとされる(九字護身法)。また、十字といって、九字の後に一文字の漢字を加えて効果を一点に特化させるのもある。一文字の漢字は特化させたい効果によって異なる』とあり、以下、十種の例が載る。]
○行者講 村の中央の路傍から少し高い所に行者樣と呼んでゐる石像が祀つてありまして、昔は吉野の大峯山《おほみねさん》へ參詣の講社があつたさうで、現今では、一月と六月十一月の各六日の夜、行者講と云ふのを行ひます。オトー(月番)に當つた家では、各戶から白米三合宛を集めて、祭事が濟んでから膳部を振舞ひましたが、祭事をお勤めと云つて、其模樣は床の間へ祭壇を設けて、先達につれて、最初、我昔所造諸惡行《がしやくしよざうしよあくぎやう》云々の呪文を唱へ、次に哥詞《かし》といって、大峯參拜の順路を歌に詠んだものを唱へました。これは記臆してゐませんが、なかに、大峯の西の覗きに身を投げて彌陀の淨土へ行くぞうれしき、吉野なる黑染櫻……云々と言つたものがありました。それから山探しと云つて、吉野山附近一帶の神佛を唱へて、懺悔々々六根淸淨、大峯八大金剛童子、三丈本地南無釋迦藏王權現、一に禮拜《らいはい》南無行者大菩薩と二十一遍唱へて、次に念佛を百遍唱へました。
行者講の外に、庚申講、伊勢講などの講もありましたが、庚申講だけは、集める米が五合で、オトーに當つた家へ一泊して、翌朝土產に、祭壇へ供へた小豆餅を二つ宛貰つて歸る事になつてゐました。
これ等に用ふる神像や行事の次第を書いた書附などは總てオトーの家で、次の行事迄保管する規定になつてゐました。
[やぶちゃん注:「行者講」(ぎやうじやこう(ぎょうじゃこう))は大和の金峰山の蔵王権現を信仰し、奉加・寄進・参詣をする信者で構成される扶助団体。「山上講」(さんじょうこう)とも呼ぶ。
「行者樣と呼んでゐる石像」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の中央の右の方の『(萬燈山)』の麓の道がカーブする南東の山側部分に『行人石像』とあるのがそれであろう。この附近(グーグル・マップ・データ航空写真)になくてはならないはずだが、見当たらない。ストリートビューでも確認出来ない。
「吉野の大峯山」奈良県吉野郡天川村にある大峯山山上ヶ岳。山頂に修験道寺院である大峯山寺がある。平安初期以来、現在に至るまで女人禁制の寺として知られる。
「我昔所造諸惡行」「華厳経」四十巻本の「普賢菩薩行願品」(ふげんぼさつぎょうがんぼん)から採った偈文(げもん)。「懺悔偈」(さんげげ)が正式な呼称だが、「懺悔文」(さんげもん)と呼ばれることが多い。以上は第一句であるが、最後の「惡行」は誤りで、「惡業(あくごふ)」である。但し、これは筆者の誤りではなく、行者講で唱えられたものを写したものと推察する。なお、正しい全文は、
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我昔所造諸惡業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち)
從身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)
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参考にした当該ウィキによれば、第三句は禅宗系では『從身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)』とする旨の注記がある。
「庚申講」「北越奇談 巻之三 玉石 其七(光る石)」の私の「庚申塚」の注を参照されたい。
「伊勢講」伊勢参宮を目的とした講(寺社への参詣・寄進を主目的に構成された地域の信者の互助団体。旅費を積み立て、籤で選んだ代表が交代で参詣出来るシステムをとった)。中世末から近世にかけて大山講(現神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社)や富士講と共に盛んに行われた。]
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