大手拓次譯詩集「異國の香」 秋(アルベール・サマン)
[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]
秋 サマン
うづまく風は扉をたふし、
そのしたに森は髮のやうに身をもだえる。
かちあふ木々の幹は砂(いさご)の輾轉する海のひびきのやうに、
はげしい風鳴りをたかめてゐる。
おぼろな丘(をか)におりてくる秋は、
重い步みのうちにわたし達の心をふるへさせる。
そしてどんなにいたはしく萎れた薔薇のめめしい失望を、
かなしんでやるかをごらんなさい。
休みなくぶんぶんいつた黃金色の蜂の翔けりも沈默した。
閂は錆のついた門格子にきりきりとなる。
あを蔦(つた)の棚はふるへ、 地はしめつてきた。
そして白いリンネルは圍(かこ)ひ地のなかに、 うろたへてかさかさとする。
さびれた庭は微笑する、
死がくるときに、 ながながとお前に別れをいふやさしい顏のやうに。
ただ鐵砧(かなしき)のおとか、 それとも、 犬のなきごゑか、
うつたうしくしめきつた窓ガラスにやつてくる。
母子草と黃楊(つげ)の樹の瞑想をさましつつ、
鐘はひくいねに檀家の人の心になりいでる、
また光りは苦悶のはてしない身ぶるひをして、
空のふかみに、ながいながい夜のくるのをきいてゐる。
このものあはれな長夜(ながよ)も明日(あす)になつたらかはるだらう、
すがすがしい朝とひややかな又うつけな朝と、
たくさんの白い蝶は葉牡丹(はぼたん)のなかにひらめきながら、
また物音はこころよい微風の中にさはやかになりながら。
それはさておき、 この家はお前のことを嘆きもしないで、
その木蔦と燕の巢とでお前をもてなしてくれる、
そして自分のわきに放蕩者のかへるのを待ちうけて、
ながい藍色の屋根の波にけむりをのぼらせる。
命(いのち)がやぶれ、 ながれいで、 もえあがるとき、
うき世のつよい酒にゑひしれて、
血の盃(さかづき)のうへにおもい髮の毛がたれかかれば、
よごれた魂はちやうど遊女のやうである。
けれども、 鴉は空のなかに數しれずむらがる、
そしてもはや、 さわがしい狂氣をすてて、
その魂は、 旅人が歸り旅のみちすがら、
なじみの調度にめぐりあふたのしい嘆息をおしのける。
夏の花びらは花梗のうへに黑くしをれてゐる。
おまへの室にまたはひり、 おまへのマントを釘にかける。
水のなかの薔薇のやうなお前のゆめは、
仲のよいランプのあまい太陽にひらいてくる。
思ひにしづんでゐる時計では、
知らせの鈴(りん)がひそかに沈默の心をうつ、
窓ぎはの孤獨はその氣づかひをひろめてゆき、
かがみながら姊のやうにおまへの額に接物する。
これは申分のない隱(かく)れ家(が)だ、 これは氣持のよい住居(すまひ)だ。
あつたかい壁の密室、 ひまもない竃(かまど)、
そこで極めて稀なる越栗幾失兒(エリキシル)のやうに、
内心の生命(いのち)のうつくしい本質をつくりあげる。
そこに、 お前は假面と重荷とをとりのけることが出來る。
騷擾からはなれて、 いな虛飾から遠くのがれて、
いとしいものの匂ひを、 カーテンの襞(ひだ)のなかにあらはになつてゐる。
おまへの胸にばかりただよはせるために。
このときこそ、 心おきなく仕事にいそしんでまことの神を禮拜し、
神々しい身ぶるひがお前の年若さと淸らかさとを、
はればれとあらはすやうになつてくる。
秋はこのためにたぐひないよい季節である。
すべてのものはしづかに、 風は廊下の奧にすすりなき、
お前の精神はおろかなる鎖をたちきつた。
そしてうごかない時の水のうへに裸のままうなだれて、
そのふさはしい鏡のきれいな水晶に自分の姿をうつす。
それは消えかかつた火のわきの裸の女神(めがみ)である、
あたらしい空氣のなかに船出(ふなで)するぼんやりとした大きな船である、
肉感的な、また物思はしい接吻のするどい液(しる)と、
人に知られない水のうへの日沒である………
[やぶちゃん注:アルベール・ヴィクトル・サマン(Albert Victor Samain 一八五八年~ 一九〇〇 年 )は〈秋と黄昏(たそがれ)の詩人〉と称えられたフランス象徴派の詩人。リール生まれ。パリに出て文芸雑誌『メルキュール・ド・フランス』(Mercure de France)創刊に協力した。代表作に象徴派風の第一詩集「王女の庭で」(Au Jardin de l'Infante :一八九三年)、高踏派風の第二詩集「壺の肌に」(Au flanc du vase:一八九八年)がある。ボードレールから強い影響を受け、ヴェルレーヌの詩にも感化された、やや病的なエレジーを得意とした。
「おまへの室にまたはひり、 おまへのマントを釘にかける。」の一行中、「はひり」の後には読点らしきものがない(左手に微かな汚損はある)が、前後に徵して、読点を打った。
「閂」は「かんぬき」と読む。
以下にフランス語サイトのこちらにある原詩を引いて示す。それのよれば、一八九四年十月、パリ南西近郊のイヴリーヌ県にあるマニー=レ=ザモー(Magny-les-Hameaux:グーグル・マップ・データ)での作。
*
Automne Albert Samain
Le vent tourbillonnant, qui rabat les volets,
Là-bas tord la forêt comme une chevelure.
Des troncs entrechoqués monte un puissant murmure
Pareil au bruit des mers, rouleuses de galets.
L’Automne qui descend les collines voilées
Fait, sous ses pas profonds, tressaillir notre coeur ;
Et voici que s’afflige avec plus de ferveur
Le tendre désespoir des roses envolées.
Le vol des guêpes d’or qui vibrait sans repos
S’est tu ; le pêne grince à la grille rouillée ;
La tonnelle grelotte et la terre est mouillée,
Et le linge blanc claque, éperdu, dans l’enclos.
Le jardin nu sourit comme une face aimée
Qui vous dit longuement adieu, quand la mort vient ;
Seul, le son d’une enclume ou l’aboiement d’un chien
Monte, mélancolique, à la vitre fermée.
Suscitant des pensers d’immortelle et de buis,
La cloche sonne, grave, au coeur de la paroisse ;
Et la lumière, avec un long frisson d’angoisse,
Ecoute au fond du ciel venir des longues nuits…
Les longues nuits demain remplaceront, lugubres,
Les limpides matins, les matins frais et fous,
Pleins de papillons blancs chavirant dans les choux
Et de voix sonnant clair dans les brises salubres.
Qu’importe, la maison, sans se plaindre de toi,
T’accueille avec son lierre et ses nids d’hirondelle,
Et, fêtant le retour du prodigue près d’elle,
Fait sortir la fumée à longs flots bleus du toit.
Lorsque la vie éclate et ruisselle et flamboie,
Ivre du vin trop fort de la terre, et laissant
Pendre ses cheveux lourds sur la coupe du sang,
L’âme impure est pareille à la fille de joie.
Mais les corbeaux au ciel s’assemblent par milliers,
Et déjà, reniant sa folie orageuse,
L’âme pousse un soupir joyeux de voyageuse
Qui retrouve, en rentrant, ses meubles familiers.
L’étendard de l’été pend noirci sur sa hampe.
Remonte dans ta chambre, accroche ton manteau ;
Et que ton rêve, ainsi qu’une rose dans l’eau,
S’entr’ouvre au doux soleil intime de la lampe.
Dans l’horloge pensive, au timbre avertisseur,
Mystérieusement bat le coeur du Silence.
La Solitude au seuil étend sa vigilance,
Et baise, en se penchant, ton front comme une soeur.
C’est le refuge élu, c’est la bonne demeure,
La cellule aux murs chauds, l’âtre au subtil loisir,
Où s’élabore, ainsi qu’un très rare élixir,
L’essence fine de la vie intérieure.
Là, tu peux déposer le masque et les fardeaux,
Loin de la foule et libre, enfin, des simagrées,
Afin que le parfum des choses préférées
Flotte, seul, pour ton coeur dans les plis des rideaux.
C’est la bonne saison, entre toutes féconde,
D’adorer tes vrais dieux, sans honte, à ta façon,
Et de descendre en toi jusqu’au divin frisson
De te découvrir jeune et vierge comme un monde !
Tout est calme ; le vent pleure au fond du couloir ;
Ton esprit a rompu ses chaînes imbéciles,
Et, nu, penché sur l’eau des heures immobiles,
Se mire au pur cristal de son propre miroir :
Et, près du feu qui meurt, ce sont des Grâces nues,
Des départs de vaisseaux haut voilés dans l’air vif,
L’âpre suc d’un baiser sensuel et pensif,
Et des soleils couchants sur des eaux inconnues…
*
「母子草」原詩の「immortelle」の訳だが、誤り。そもそもキク目キク科キク亜科ハハコグサ連ハハコグサ属ハハコグサ Gnaphalium affine (「ホウコグサ・ホオコグサ」の異名でも知られる)は、日本以外では中国・インドシナ・マレーシア・インドに分布する(本邦では全国的に見られるが、古代に中国か朝鮮から帰化したものと考えられている)が、フランスには自生しないから、まず、サマンはハハコグサ自体を知らない、見たことがないと考えてよいし、だいたいからして季節が合わない(「春の七草」の一つで、本邦では知らぬ人もあるまいが、学名画像検索をリンクさせておく)。 或いは、拓次の持つ辞典にそう誤解させるいい加減な記載があったのかも知れぬが、私の所持する辞書では、固有名詞では『麦藁菊(むぎわらぎく)』とする(因みにこの単語は一般名詞で「不滅の存在」「神」の意がある)。これは、キク目キク科ムギワラギク属ムギワラギク Helichrysum bracteatum であり、オーストラリア原産(以下も合わせてフランス語の当該ウィキに拠る)で、一八五〇年代にドイツで換喩植物として繁殖が行われ、多様な品種が生み出された。学名画像検索を示しておくが、比較するべくもなく、ハハコグサとは、赤の他人で似たところは微塵もないから、これは、やはりトンデモ語訳とするしかない。
「越栗幾失兒(エリキシル)」「élixir」。音写は「エリィキスィール」。本来は「植物等から抽出精製した「精分」であるが、ここでは「霊薬・秘薬」の意。
なお、例の原子朗編「大手拓次詩集」では、原詩に則り、十連目が二つに分離されている。以上の正規表現版を用いて、それを再現しておく。
*
秋 サマン
うづまく風は扉をたふし、
そのしたに森は髮のやうに身をもだえる。
かちあふ木々の幹は砂(いさご)の輾轉する海のひびきのやうに、
はげしい風鳴りをたかめてゐる。
おぼろな丘(をか)におりてくる秋は、
重い步みのうちにわたし達の心をふるへさせる。
そしてどんなにいたはしく萎れた薔薇のめめしい失望を、
かなしんでやるかをごらんなさい。
休みなくぶんぶんいつた黃金色の蜂の翔けりも沈默した。
閂は錆のついた門格子にきりきりとなる。
あを蔦(つた)の棚はふるへ、地はしめつてきた。
そして白いリンネルは圍(かこ)ひ地のなかに、 うろたへてかさかさとする。
さびれた庭は微笑する、
死がくるときに、 ながながとお前に別れをいふやさしい顏のやうに。
ただ鐵砧(かなしき)のおとか、 それとも、 犬のなきごゑか、
うつたうしくしめきつた窓ガラスにやつてくる。
母子草と黃楊(つげ)の樹の瞑想をさましつつ、
鐘はひくいねに檀家の人の心になりいでる、
また光りは苦悶のはてしない身ぶるひをして、
空のふかみに、ながいながい夜のくるのをきいてゐる。
このものあはれな長夜(ながよ)も明日(あす)になつたらかはるだらう、
すがすがしい朝とひややかな又うつけな朝と、
たくさんの白い蝶は葉牡丹(はぼたん)のなかにひらめきながら、
また物音はこころよい微風の中にさはやかになりながら。
それはさておき、 この家はお前のことを嘆きもしないで、
その木蔦と燕の巢とでお前をもてなしてくれる、
そして自分のわきに放蕩者のかへるのを待ちうけて、
ながい藍色の屋根の波にけむりをのぼらせる。
命(いのち)がやぶれ、ながれいで、もえあがるとき、
うき世のつよい酒にゑひしれて、
血の盃(さかづき)のうへにおもい髮の毛がたれかかれば、
よごれた魂はちやうど遊女のやうである。
けれども、 鴉は空のなかに數しれずむらがる、
そしてもはや、 さわがしい狂氣をすてて、
その魂は、旅人が歸り旅のみちすがら、
なじみの調度にめぐりあふたのしい嘆息をおしのける。
夏の花びらは花梗のうへに黑くしをれてゐる。
おまへの室にまたはひり おまへのマントを釘にかける。
水のなかの薔薇のやうなお前のゆめは、
仲のよいランプのあまい太陽にひらいてくる。
思ひにしづんでゐる時計では、
知らせの鈴(りん)がひそかに沈默の心をうつ、
窓ぎはの孤獨はその氣づかひをひろめてゆき、
かがみながら姊のやうにおまへの額に接物する。
これは申分のない隱(かく)れ家(が)だ、これは氣持のよい住居(すまひ)だ。
あつたかい壁の密室、ひまもない竃(かまど)、
そこで極めて稀なる越栗幾失兒(エリキシル)のやうに、
内心の生命(いのち)のうつくしい本質をつくりあげる。
そこに、 お前は假面と重荷とをとりのけることが出來る。
騷擾(そうぜう)からはなれて、 いな虛飾から遠くのがれて、
いとしいものの匂ひを、 カーテンの襞(ひだ)のなかにあらはになつてゐる。
おまへの胸にばかりただよはせるために。
このときこそ、 心おきなく仕事にいそしんでまことの神を禮拜し、
神神しい身ぶるひがお前の年若さと淸らかさとを、
はればれとあらはすやうになつてくる。
秋はこのためにたぐひないよい季節である。
すべてのものはしづかに、 風は廊下の奧にすすりなき、
お前の精神はおろかなる鎖をたちきつた。
そしてうごかない時の水のうへに裸のままうなだれて、
そのふさはしい鏡のきれいな水晶に自分の姿をうつす。
それは消えかかつた火のわきの裸の女神(めがみ)である、
あたらしい空氣のなかに船出(ふなで)するぼんやりとした大きな船である、
肉感的な、また物思はしい接吻のするどい液(しる)と、
人に知られない水のうへの日沒である………
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