和漢三才圖會 卷第二十 母衣
[やぶちゃん注:〔 〕は私の補塡。矢印は私の補正。【 】は二行割注。画像は「東洋文庫」(島田勇雄他訳注・第四巻・一九九六年刊)のものをトリミング補正した。]
ほろ 母羅 縨【俗字】
母衣 【保呂】
母衣五幅五尺【七幅七尺八幅八尺】近代六幅七尺
中錄緒 一尺二寸【或二尺八寸】幅六分自上三尺下附之
波不立緒 長九尺、周六分組絲也
𧚥【比太】 如六幅の母衣除兩端二幅以中四幅寄八𧚥
籠【加古】 竹骨三十二本或三十或十二本
如以母衣飾之臺槃髙一尺九寸方八寸【下闊方二尺五寸】二立
串波不立緒與串結置之
母衣始于漢樊噲出陣時母脫衣爲餞別噲毎戰被衣
於鎧奮勇殊拔群【一說非樊噲爲後漢王陵故事】其後馳驅武者用之
*
ほろ 母羅〔(ほろ)〕 縨〔(ほろ)〕【俗字。】
母衣 【保呂】
母衣、五幅〔(いつの)〕五尺【七幅七尺、八幅八尺。】、近代、六幅七尺。
中錄〔(ちゆうろく)〕の緒〔(を)〕は、一尺二寸【或〔いは〕、二尺八寸。】、幅〔(の)〕六分、上より三尺下に、之〔れを〕附く。
波立〔(なみたた)〕ずの緒は、長〔(たけ)〕九尺、周〔(めぐり)〕六分の組絲〔(くみいと)〕なり。
𧚥(ひた〔→ひだ〕)【比太。】 六幅〔(むつの)〕の母衣の如きは、兩端二幅〔(ふたの)〕を除き、以中〔(なかの)〕四幅〔(よの)〕に八𧚥を寄〔(よそ)〕ふ。
籠(かこ〔→かご〕)【加古。】 竹の骨、三十二本、或〔いは〕、三十、或、十二本。
如〔(も)〕し、母衣を以〔て〕、之〔を〕飾るには、臺槃〔(だいばん)〕髙さ一尺九寸、方八寸【下の闊〔(ひろさ)〕、方二尺五寸。】、二〔→(ここに)〕、串を立〔て〕、「波立ずの緒」を、串〔と〕與(〔と〕)もに、結〔びて〕、之を置〔く〕。
母衣は、漢の樊噲〔(はんくわい)〕に始〔(はじま)〕る。出陣の時、母、衣を脫〔(ぬぎ)〕て、餞別(はなむけ)と爲〔(な)〕す。噲、戰〔(いくさ)の〕毎〔(たび)〕に、衣を鎧に被(かつ)け、勇を奮つて、殊に拔群なり【一說に樊噲〔に〕非〔ず〕、後漢の王陵か〔→が〕故事と爲〔す〕。】。其れより後、馳驅〔(ちく)〕の武者(むしや)、之〔を〕用〔ふ〕。
[やぶちゃん注:図のキャプション(部位名その他)は、右下方に「並不立緖」、中央上に「日之緖」、中央(左方向に指示線有り)に「四天ノ緖」、そのやや左上に「姓氏字」(「字」は「あざな」)、左上から「大奮威緖」(だいふんいのを)、「中録ノ緖」とある。
「母衣」小学館「日本大百科全書」によれば、『甲冑の背につけた幅の広い布で、風にはためかせたり、風をはらませるようにして、矢などを防ぐ具とした。五幅(いつの)』(約一・五メートル:「幅(の)」は布帛類の幅(はば)を表わす単位。現在では通常は鯨尺八寸(約三十センチメートル)或いは一尺(約三十八センチメートル)の幅を指す)、乃至、三幅(みの)(約九十センチメートル)『程度の細長い布である。中世以降、色を染めたり、紋章をつけて旗幟(きし)のかわりともした』。「三代実録」の貞観一二(八七〇)年の条に、『その名称があって甲冑の補助とするとあり』、「本朝世紀」の久安三(一一四七)年の『条に、幅広い布を鎧武者(よろいむしゃ)がまとい、これを世人が「保侶(ほろ)」とよんだとし、また中世』、「吾妻鏡」の建仁三(一二〇三)年の『条に母衣の故実』『の記事がみえる。絵画としては』、「平治物語絵巻」(六波羅合戦)や、『法隆寺の絵殿の太子絵伝に母衣着用の騎馬の甲冑姿がある』。「保元物語」「平家物語」「太平記」などに『登場する華麗な戦衣でもある。近世に至って、神秘的な付会もされ、種々な故実も生じた。古くは十幅』(約三メートル)で、一丈(約三メートル)『などという大きなものがあったが、ほぼ』一・五『メートル四方程度となった。しかしとくに一定した寸法の定めはない。上辺と下辺に紐』『をつけて背に結び、あるいは、竹籠』『を母衣串(ほろぐし)につけてこれを包み、背後の受け筒に挿したりして、一種の旗指物(はたさしもの)ともなった。別に背に負うた矢を包む母衣状の矢母衣(やぼろ)もある』とある。
「𧚥」「籠」母衣の各種の部分名のようである。
「臺槃」図の下方にあるように、母衣を安置する支えの台のようである。但し、「槃」の字自体は「平たい鉢・盥」をいう漢語である。
「樊噲」漢文の教科書で必ずやる「鴻門之会」でお馴染みの、前漢の高祖劉邦の功臣。劉邦と同郷で沛(はい)の人。紀元前二〇六年、楚王項羽と劉邦とが鴻門に会した際、謀殺されそうになった劉邦を機転を以って脱出させた。のち、劉邦が漢王になると、将軍に任ぜられ、功を成した。紀元前前一八九年没。
「王陵」前漢の宰相で、同じく沛の人。項羽との戦いで、劉邦に味方した。東洋文庫の注によれば、『項羽は陵の母を捕え、陵を自陣につけようとしたが、母は自殺して陵をはげましたという』とある。安国侯に封ぜられ、後、恵帝の右丞相となった。紀元前一七七年没。]
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