早川孝太郞「三州橫山話」 「片目の生砂神」
[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。
因みに、「生砂神」は「うぶすながみ」で「產土神」の当て字である。人の生まれた土地の守護神で、「うぶす」は「生産」、「な」は「土地」の意で、本来は地縁的集団を守護する神であって、所謂「氏神」や「鎮守神」等とは本質的に異なるものである。但し、地縁的・共同体意識の発達した中世以降になると、氏神と同一視された(ここは「旺文社日本史事典」に拠った)。]
○片目の生砂神 村の生砂神は、早川孫三郞家の地の神であつたと云ふ理由で、其人の思ふが儘に、現在ある地へ、當時の芝刈山《しばかりやま》へ移されたと謂ひますが、今日では最早立派な境内になって、昔ながらの鎭守の森らしく見えます。
この神片眼なる爲め、村に片眠[やぶちゃん注:ママ。「眼」の誤植。]の者が多いとも、又田螺を厭ひ給ふ故、村内に田螺《たにし》が育たぬとも謂ひますが、神名は白鳥六社大名神《しらとりろくしやだいみやうじん》と謂つて、舊曆八月十四、五の兩日が例祭に當《あたつ》て、其日は拜殿の下にある舞臺で、村の者が芝居を演《や》つたもので、これを地狂言と謂つ[やぶちゃん注:ママ。「つて」の脱字誤植。]明治三十年頃迄行ひました。この外は境内へ釜を築いて、甘酒を振舞ふ位のものでしはた[やぶちゃん注:ママ。「は」は衍字誤植。]。昔は男女の生殖器を模造した飾物などしたと謂ふ事で、私の記臆にある頃にも、桐の木や、南瓜《かぼちや》で慥へて[やぶちゃん注:ママ。「拵へて」の誤植。]飾つて置いて、駐在の巡査が巡囘して来たのに驚いて引込めたことなどがありました。
[やぶちゃん注:「芝刈山」国立国会図書館デジタルコレクションの池田弥三郎等編『日本民俗誌大系』「第五巻 中部Ⅰ」(一九七四年角川書店刊)に所収する新字新仮名版の当該部では、『芝刈り山』とあり、これは固有名詞ではなく、横山での通称地名と推定される。「早川孝太郎研究会」の早川氏の「橫山略圖」の右中央に「生砂神社」とある地がそこである。現在の白鳥(しらとり)神社(グーグル・マップ・データ)がそれである。ただ、この神社のルーツについては、『早川孝太郞「猪・鹿・狸」 鹿 一 淵に逃げこんだ鹿』では、早川氏によって複雑な説が示されており、私もいろいろ考証してみたので、参照されたい。
「この神片眼なる」『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 十三 山の神と狩人』では、『一眼一本脚の大漢[やぶちゃん注:「おほおとこ」と読んでおく。]であるとも謂うた』と出、そちらで詳細な私の考証注を附してあるので読まれたい。
「田螺を厭ひ給ふ」という理由は判然としないが、その神が片目を傷つけた由来に直接、田螺が関わるものではあろう。その答えにはなっていないが、『柳田國男「水の神としての田螺」』では、一目眇(すがめ)の鮒の話と、『白田羸(シロタニシ)』のことが述べられており、迂遠で朦朧としつつも、片目の神と田螺の連関が認められるようにも思われる。有力なデータは、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(6) 神人目を奉る』であろう。この白鳥神社のことが、本篇を元に記されてある。また、「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)には、以下の注と同社の現在の写真が載る。
《引用開始》
白鳥神社
現在の白鳥神社は、山口忠利さんの裏の小高い丘の上にあります。鳥居は昭和になってから建てられたようですが、鳥居の前の石燈籠には「白鳥六社大明神」の文字と共に「元文五年」(1740 年)と刻まれています。この時ここに立てられたのか、その後移設されたものかは判りませんが、これは今から 265 年前の 8 代将軍吉宗の時代のものです。
一時途絶えていた地狂言も 20 年ほど前に復活し、秋祭りの(10 月第一日曜)神事の後、奉納余興として演じられています。
《引用終了》
とある。やはり本産土神のここへの鎮座には、今でも不明な部分があることが判る。
「昔は男女の生殖器を模造した飾物などしたと謂ふ事で、私の記臆にある頃にも、桐の木や、南瓜で慥へて飾つて置いて、駐在の巡査が巡囘して来たのに驚いて引込めたことなどがありました」とても興味深い性器崇拝(豊饒崇拝)で、エピソードとしても微笑ましいものなのであるが、今に残っていないらしいのは残念である。]
« 西播怪談實記 下河㙒村大蛇の事 / 西播怪談實記二~了 | トップページ | 大手拓次譯詩集「異國の香」 病める詩神(ボードレール) »