西播怪談實記 姬路本町にて殺し犬形變する事
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。本文はここから。]
○姬路本町(ひめちほんまち)にて殺(ころせ)し犬(いぬ)形(かたち)變(へん)する事
寶永年中の事なりしに、姬路の町内を、白犬(しろいぬ)、よなよな、徘徊し、
「あそこにては、何をとられた。」
「爰にては、何を喰(くは)れた。」
なとゝ、三、四年の間も沙汰しけるが、右の犬、築地(ついぢ)を越(こへ)、やねをつたひけるを、稀には、見し人も有《あり》とかや。
本町には、蚊帳(かや)商賣の家、多(おほく)、仕立蚊屋(したてかや)も多し。
ある家にて、夜更るまで打寄(うちより)、蚊屋を縫(ぬい)て居《をり》けるに、奧の間の障子を、外より。
「そろり」と
明《あけ》る音、しければ、其内、独(ひとり)、指(さし)のぞき、
『誰(たれ)ならん。』
と見れば、小(ちさき)白犬なり。
「やれ。彼(かの)盜犬(ぬすみいぬ)よ。」
と、声を立《たつ》れば、有合(《あり》あふ)ものども、手手《てんでに》に、側(そは)に有合たる割木(わりき)、火吹竹(ひふきたけ)なんどを持《もち》て、追廻(をいまはる)るに、犬の運(うん)や、尽(つき)たりけん、惡水拔(《あくすい》ぬき)の溝(みそ)へ飛込《とびこみ》、あがらむ、あがらむと、せし所を、たゝみ懸(かけ)たゝみ懸、打《うち》ける程に、終(つい)に打殺(《うち》ころ)して、
「偖(さて)。夜まきれに、『三左衞門殿堀』へ、捨(すて)よ。」
と、いふて、首に縄を付《つけ》、二、三人して、引ずり行(ゆき)、深みへ、
「ざんぶ」
と打込置《うちこみおき》、立歸《たちかへり》て、煙草を吞(のみ)て居(い)けるに、ほどなく、跡より、縄の付《つき》たる白犬、
「ふらふら」
と立歸(たちかへる)を、よくよく見れば、彼《かの》犬也。
人々、おどろき、又、打殺して、口に「はぢかみ」を打《うち》、引ずり行《ゆき》、
「初《はじめ》は、堀へ捨しゆへ、水を吞、蘇生したるならん。」
と、後《のち》には、堀端にぞ、捨置《すておき》ける。
かくて、翌朝(よくてう)、
「めづら敷《しき》大犬、捨《すて》て、ある。」
とて、我も我も、見物に行《ゆけ》ば、彼《かの》殺したるものも、そしらぬ顏にて行《ゆき》てみるに、大きサ馬ほとに成《なり》て有《あり》けるか、終(つい)に何國(いつく)の犬とも、きこへざりし。
或人の曰、
「犬も長生《ながいき》して、自然(しせん)と自由(しゆう)を得るもあり、とかや。此犬、其類(るい)にや。小(ちさく)、身を變じて、徘徊し、死後、本躰(ほんたい)に成《なり》たるにや。」
と、評判しけるよし。
其比《そのころ》、見ける人の物語の趣を書つたふもの也。
[やぶちゃん注:「姬路本町」姫路城の直下辺縁相当の現在の兵庫県姫路市本町。
「寶永年中」一七〇四年から一七一一年まで。徳川綱吉及び家宣の治世。宝宝永六(一七〇九)年一月十日に綱吉は死去しており、ウィキの「生類憐れみの令」によれば、『綱吉は死に臨んで世嗣の家宣に、自分の死後も生類憐みの政策を継続するよう言い残したが』、亡くなった『同月には犬小屋の廃止の方針などが』、『早速』、『公布され、犬や食用、ペットなどに関する多くの規制も順次廃止されていった』とあるから、まんず、城下町の城にごく近いここで、かく出来たからには、家宣の治世になってからのことではあろう。
「三左衞門殿堀」現在、店名に「三左衛門堀」を冠した店がこの附近に集中している。姫路本町地区からは南南西二キロほど離れている。流石に姫路城の濠ではない。ここは実際に兵庫県姫路市三左衛門堀(さんざえもんほり)西の町(にしのまち)という地名である。
「はぢかみ」山椒(さんしょう)の木の枝或いはそれで出来た擂り粉木を噛ませて、縛ったのであろう。強い辛み成分であるサンショオールは邪気除けになり、実際に撲殺するのに用いた擂り粉木を以ってそうしたものかも知れない。]
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