大手拓次譯詩集「異國の香」 麥畑のなかの死(デトレフ・フォン・リーリエンクローン)
[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]
麥畑のなかの死 クローン
罌粟の花と實つた麥のなかに
ひとりの兵士が、 誰にも知れずに、
もう二日二夜といふもの、 繃帶もされず、
うづき出した傷に
死んだやうになつてゐる。
熱病のやうに荒い脉搏がはげしく打つてゐる。
死の苦篇のうちに彼は頭をもたげた。
彼は夢のなかに、 とほいとほい過去を見る、
上の方をながめてゐる、 ガラスのやうな眼で。
彼はライ麥のなかにひらめく大きい鎌のさらさらといふ音をきいた。
彼はクローバのおひしげるスヰートな牧場の香を嗅いだ。
「もうさよならだ、 なじみの士地よ、 なじみの古い人々よ、 さよならだ」
彼は頭をさげた、 そして凡てはおしまひだ。
[やぶちゃん注:作者は、前の二篇のドイツの詩人リヒャルト・フェードル・レオポルト・デーメル(Richard Fedor Leopold Dehmel 一八六三年~一九二〇年)の友人であった、同じドイツの詩人デトレフ・フォン・リーリエンクローン(Detlev von Liliencron 一八四四年~一九〇九年)。当該ウィキによれば、『キール出身』で、一八六六『年より軍隊に入り』、『普墺戦争』・『普仏戦争に従軍』し、『負傷』した。『軍隊を退いたあとは』、『一時』、『アメリカ合衆国に渡った。帰国後』、『プロイセンの官吏となり』、三十『代で詩作を始め』、「副官騎行」(Adjutantenritte:一八八三年刊)で『注目を集めた。軍人気質の実直さや』、『文学的な伝統にとらわれない感覚的な詩風で、印象主義の詩人として人気があった。劇作や小説も残している』とある。本篇は従軍中の経験に基づくものであろう。私はドイツ語は判らないし、他言語からの重訳と考えられるので、原詩は探さない。
「罌粟」被子植物門双子葉植物綱キンポウゲ目ケシ科ケシ属ケシ Papaver somniferum 。
「ライ麥」単子葉植物綱イネ目イネ科ライムギ属ライムギ Secale cereale 。
「クローバ」クローバーは被子植物門双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科シャジクソウ(車軸草・トリフォリウム)属 Trifolium の総称。世界で二百六十種が植生する。本邦の在来種はシャジクソウ属シャジクソウ Trifolium lupinaster のみであるが、同種はヨーロッパにも分布し、本邦には、知られたヨーロッパ原産のシロツメクサ(シャジクソウ属Trifolium亜属Trifoliastrum節シロツメクサ Trifolium repens )をはじめとする多くの種が牧草・園芸・緑肥などの目的で導入され、帰化植物となった種も多い。されば、シロツメクサをイメージして構わないと思われる。]