早川孝太郞「三州橫山話」 山の獸 「猪のソメ」
[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]
山 の 獸
○猪のソメ(案山子《かかし》) 秋の彼岸過から、猪が田や畑へ出て作物を荒らすと云つて、山に沿つた處には、頑丈な栅や陷穽《おとしあな》や、長い堀などが造つてありましたが、私が物心覺えた明治二十八年頃なども、山峽《やまかひ》の田圃へ稻を喰ひに出ると言つて、其處へ作る稻は、猪の喰べにくいやうに、特に髯《ひげ》澤山な種類を作つたりして、いろいろと防ぐ工夫を考案したものでした。
藁人形のソメ位では猪の方で承知してゐて、更に感じないので、材木の片端を穿《うが》つて穴を造つて、木の中心へ心棒を通し、水車の出來損ない見たいなものを拵へて、これに筧《かけひ》で水を流しかけて、水が穴に滿ちると、重量で下つて、水を明けてしまつて、材木が舊《もと》の位置へ返る時、片端が後《うしろ》に置いてある臺の板を、バタンと音して打つ仕掛《しかけ》などもありました。これをボツトリと謂つて、昔しは、これに杵《きね》をつけて、粟や稗《ひえ》を搗いたものだと謂ひます。これを田の傍《かたはら》の澤に設けておきました。
又自分達が、石油の臭ひが嫌い[やぶちゃん注:ママ。]なところから思ひついて、これをボロに浸して竹の先に結びつけて畔《あぜ》に幾ケ所も立てゝ、これなら如何《いか》な圖々しい猪でも、臭いのに閉口するだらうなどゝ云ひました。臭いものではこの外に、女の髮の毛を燃《もや》して竹に揷んで立てたり、又ボロを繩になつて、其端に火をつけて、一晚、黃臭《きなくさ》い匂ひを漂はしておくのもありました。
カンテラに火を灯して、高く竿の先に吊るして、暮方から夜の明方まで、田甫[やぶちゃん注:ママ。「田圃」(たんぼ)。]の中に灯しておくのもありました。來る晚も來る晚も灯して置いたら猪の方で覺えてしまつて、カンテラの點《とも》つて居る傍で稻を喰べて行つたなどと云ふ話もありました。
矢トーと言ふのは昔からやつた事ださうですが、靑竹を三尺ほどの長さに切つて、先を尖らせて火にあぶつて一層銳くして、猪の來る路へ、矢來のやうに立て置くものでした。これに猪がかゝつて、五寸ほど血を滲ませておいて行ったのを實見した事がありました。
昔から行《おこな》つた事で、完全に効力があつたのは、田から田へ鳴子《なるこ》を引き渡して、田の畔に晚小屋を造つて、每晚、其處に寢泊りして、爐に向つてホダを燃しながら、夜通し其綱を引いて居るものでした。近い頃、字《あざ》相知の入《いり》と云ふ所の田甫へ每晚この鳴子の綱を引きに出て居た男が、たつた一晚風邪を引いて番小屋を休んだら、其晚に猪が出て、一度に稻を喰べられたなどゝ云ひました。
[やぶちゃん注:「ソメ(案山子)」非常によく書けてあるウィキの「かかし」によれば、『「かかし」の直接の語源は「嗅がし」ではないかとも言われる。鳥獣を避けるため』、『獣肉を焼き焦がして』、『串に通し、地に立てたものもカカシと呼ばれるためである。』『これは嗅覚による方法であり、これが本来のかかしの形であったと考えられる。また、「カガシ」とも呼ばれ、日葡辞書』(十七』『世紀に発行された外国人の手による日本語辞典)にもこちらで掲載されている。またカカシではなく』、『ソメ(あるいはシメ)という地方もあり、これは「占め」に連なる語であろう』とあり、「ソメ」に納得した。また、そこ以下に『「案山子」という字をあてる理由について、以下のような記述が北慎言(きたちかのぶ:北静盧(きたせいろ 明和二(一七六五)年~嘉永元(一八四八)年)は江戸中期の民間学者。慎言は本名)「梅園日記」』(弘化元・二(一八四五)年)にあるとして引かれているものも甚だ興味深いものである。なお、後の『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 五 猪の案山子』も参照されたい。早川氏手書きの絵も見られる。また、「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)には、『最近は、猪と猿の害が特にひどくなって困っています。当時のように夜通し番をする訳にもいかず、ラジオをかけたり、爆竹を鳴らしたり、番犬を繋いだり、いろいろするのですが結局最後には慣れてしまいます。触れるとショックが来る、この電気柵が効果があって、今では殆んどの田圃に柵があります』。『(柵が無い田圃に這入られる)』と写真入りで注があるので見られたい。
「明治二十八年」一八九五年。
「髯《ひげ》」穀類で禾(のぎ)の尖ったもの、多いものを指すのであろう。
澤山な種類を作つたりして、いろいろと防ぐ工夫を考案したものでした。
「材木の片端を穿《うが》つて穴を造つて、木の中心へ心棒を通し、水車の出來損ない見たいなものを拵へて、これに筧《かけひ》で水を流しかけて、水が穴に滿ちると、重量で下つて、水を明けてしまつて、材木が舊《もと》の位置へ返る時、片端が後《うしろ》に置いてある臺の板を、バタンと音して打つ仕掛《しかけ》などもありました」所謂、「鹿威し」である。「ボツトリ」は落ちる音に基づくか。
「矢トー」「矢塔」「矢戸」辺りか。後の『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 三 猪の禍ひ』で詳しく語られてあるが、そこでは、『ヤトオは本來オトシアナの中に立てゝ、陷ちた猪を突刺すための物の具であつたが、別に崖の下垣根の内等にも置いて、獲物を捕る事にも使つた。單に猪を嚇す爲めの、防禦の具に用ひたのは、せつない時の思付であつたかも知れぬ。それをつくる矢竹の茂りが、山の處々に、未だ忘れたやうに殘つてゐた』とあり、それだと、「矢塔」が相応しい感じはする。
「相知の入」現在の横川相知ノ入(よこがわあいちのいり:グーグル・マップ・データ)。]
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