佐々木喜善「聽耳草紙」 七番 炭燒長者
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。太字は底本では傍点「﹅」。]
七番 炭燒長者
或る所に、隣同志の仲の良い父(トヽ)共があつて、木を伐りに山へ行き、其處の山神の御堂に入つて泊つて居ると、二人は言ひ合はしたやうに、同じ夢を見た。その夢は、自分等が泊つて居る御堂へ何處からか多勢の神々が寄り集つて、がやがやと何事か相談し合つてゐるところである。其の中の一人の神樣が、やいやい此所《ここ》の主の山神が見えぬが如何《どう》したと言つた。これは本當に可笑しい、如何したのだらうと言ひ合つて居る所に、外から其の山神が還つて來た。如何した、何處へ行つて居たといふ神々の問ひに、山神の言ふには、留守にして居て濟まなかつた。實は此の下の村に、お產があつたものだから、それを產ませてから來ようと思つて、思はず暇をつぶしたが、先づ何れも無事で此の世の中に又二人の人間が出たから喜べと言ふ。神々は、それはよかつた。して產れた子は男か女かと問ふと、山神は男と女だ、隣合つて一緖だつたと言つた。そうか、そして其の子供等の持運《もちうん》は如何だつた。そうさ、女の兒の方は鹽一升に盃一個と言ふ所だが、男の兒は米一升しか持つて居なかつたと言ふ。緣は、と又神々が訊いた。緣か、緣は初めは隣同志だから二人を一緖にしようと思ふが、とにかくそうして置いてから復(マタ)考へてみようと言つた…と思うと不圖《ふと》二人の父(トヽ)は目を覺《さま》した。そしてその夢を言ひ合つて互に不思議に堪えられず、まだ夜も明けなかつたが、共々家へ歸つた。家へ歸つて見ると、夢の通り兩方に男と女の兒が產れて居た。
二人の子供は大きくなつて、夫婦になつた。其の家は俄に富み榮えて繁昌した。その女房は、神樣から授つたやうに、一日に鹽一升を使ひ盃が手から放れないで、出入の者にザンブゴンブと酒を飮ませた。それだから其の家の門前はいつも市のやうに賑かであつた。夫はそれを見てひどく面白くなかつた。何でもかんでも湯水のやうに使ふても、こんなに物がたまるのだから、妻が居《を》らなかつたら此上どんなに長者になれるか知れないと考へて、或る日妻を追出《おひだ》した。妻は泣いて詫びたけれども遂に許されなかつた。
妻は夫の家を出て、何處といふ目的(アテ)もなしに步いて行つたが、其の中に日が暮れた。腹が空いてたまらぬので、路傍の畑に入つて大根を一本拔いて食べようと思つて、大根を拔くと、其の跡(アト)から佳い酒の香りがして水が湧き出した。それを掬つて飮むと水ではなくて酒であつた。妻はお蔭で元氣を取り返して、斯《か》う歌つた。
古酒(フルサケ)香(カ)がする
泉の酒が湧くやら
そして自分で自分に力をつけて、道を步いて行つた。すると向ふの山の方に赤い灯の明りが見えた。女房はそれを目宛(メアテ)に辿つて其處へ行つて見ると、一人の爺が鍛冶をしてゐた。女房は火の側へ寄つて行つて、今夜泊めてクナさいと言つた。爺は見らるゝ通りの貧乏だから、とても泊めることは出來ぬと答へた。すると女房は、お前が貧乏だと言ふなら、世の中に長者はあるまい。見申《みまを》さい、この腰掛石や敷石や臺石を、これを何だと思ひますと言ふと、爺はこれはただの石だと言つた。否々これは皆《みな》金だ、金だから町へ持つて行つて賣《う》ンもさいと女房が敎へた。
爺は翌日其の中の一個を町へ持つて行つて見た。町では[やぶちゃん注:底本は「見た 町 は」であるが、「ちくま文庫」版で訂した。]何處でもこれは大したものだ。とてもこれに引換へるだけの金(カネ)を爺一人で背負つて行けるものではないと言はれた。さう言はれる程の多くの金を爺は叺《かます》に入れて背負つて歸つた。山の鍛冶小屋の附近は一體にそれであつたから、爺と女房は忽ちに長者となつた。そしてまた女房の方では、土を掘ると前のやうに酒が湧き出たので、これも酒屋をはじめ其の山は俄に町となつた。女房の先夫は、ひどく貧乏になつて、息子と二人で薪木《たきぎ》を背負つて其の町へ賣りに來たりした。
(和賀《わが》郡黑澤尻町《くろさはじりちやう》邊にある話、家内の知つていた分。)
[やぶちゃん注:「炭燒長者」譚は日本各地に伝承される長者譚である。私のブログ・カテゴリ「柳田國男」の「柳田國男 炭燒小五郞がこと」(全十二回分割)を参照されたい。
「和賀郡黑澤尻町」現在、岩手県北上市黒沢尻(グーグル・マップ・データ)があるが、旧町域は遙かに広い。「ひなたGPS」の戦前の地図を確認されたい。
「家内」私は佐々木喜善の詳細年譜を所持しないが、この謂いからは彼の妻女はその黒沢尻の出身であったのであろう。【二〇二三年三月二十七日削除・追記】DekunobouMiyazawakenjiClub氏のサイト「気圏オペラの役者たち」の「民話」の「賢治と意外な接点をもっていた、遠野物語の語り手 佐々木喜善」に詳細な年譜があるのを見つけた。それによれば、彼は明治四三(一九一〇)年(この年、彼は満二十四歳)の時、『岩手県胆沢』(いさわ)『郡金ヶ崎』(かねがさき)『村』(ここ。グーグル・マップ・データ)『出身の看護婦千田マツノと親の反対を押し切り同棲する』とあり、大正三(一九一四)年(同前で二十八歳)の一月二十日に、『内縁の妻マツノと正式に婚姻入籍』しているとあったので、黒沢尻出身ではない。但し、金ヶ崎は黒沢尻の南西に近くので、伝え聴いてたものであろう。]
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