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2023/03/05

ブログ1,930,000アクセス突破記念 梅崎春生 文芸時評 昭和二十八年三月

 

[やぶちゃん注:本評論は底本(後述)の解題でも『掲載紙。発表月日ともに未詳』とあるから、梅崎春生の原稿から起こしたものであろう。

 私は梅崎春生と同時代のここに挙げられる作家の作品はあまり読んだことがない。私は近現代の作家については、死んでいない人物に対しては冷淡で、共時的に読むことはなかった(現在でも特定の作家を除き、概ね同じである。梅崎春生が亡くなったのは小学校三年生で梅崎春生は知らなかった。但し、私は三~六歳の時期、大泉学園に住んでおり、梅崎春生の家はかなり近くにあったことを後年知った。梅崎との最初の出会いは一九七一年八月七日のNHKドラマ「幻化」で、中学三年の時であった)、従って、注は語句や、特に私がよく知らない作家については、高校の「現代文」(ちょっと以前は「現代国語」と称した)の私の嫌悪する注のような、生年月日の毛の生えた程度の注をするしかないからやりたくないし、私の知っている作家の場合は、没年を示す必要があると考えた場合を除いて、一切、注しない。悪しからず。

 既に述べているが、梅崎春生の短編小説は、最早、上記底本全集のものは、「青空文庫」(ここ)で私よりも先行電子化された分の以下の私の底本全集中の十一篇(「日の果て」「風宴」「蜆」「黄色い日日」「Sの背中」「ボロ家の春秋」「庭の眺め」「魚の餌」「凡人凡語」「記憶」「狂い凧」。以上は順列を私の底本全集の並びに変えてある)を除き、これで、総て電子化を終えている(全リストは私のサイトのこちらの「■梅崎春生」、及び、ブログ・カテゴリ「梅崎春生」及びブログ版梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注【完】梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注【完】梅崎春生日記【完】を参照)。残るのは、長編「つむじ風」のみである。彼の著作権満了の翌日である二〇一六年一月一日から始めた、私のマニアックに五月蠅い注附きの梅崎春生の電子化も含めれば、実に七年目にして、もう遂に終わりに近づいた。

 底本は昭和六〇(一九八五)年四月発行の沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、先ほど、1,930,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二三年三月五日 藪野直史】]

 

   昭和二十八年三月

 

 雑誌小説といえども、ある程度の枚数がないと、どうも物足りない感じがする。今月は各雑誌とも中編が多く、かなり読みごたえがあった。

 「新潮」三月号は中編小説特集、五編の中で問題作は武田泰淳の「流人島にて」であろう。日記体の記述で、私という主人公がH群島のQ島に行く。はじめのうちは紀行文じみているが、だんだん読み進んで行くうちに、大嶽という男に対する復讐の本筋がでてくる。なかなか工夫をこらした構成であるが、Q島の風物や点景人物は実に生き生きしているにもかかわらず、復讐の本筋はどとかあいまいなところがあり大嶽という奇怪な人物の風貌、姿勢は不明瞭である。極言すれば私と大嶽は精緻に描かれた書き割にはめこまれた不細工なでくの棒にすぎない。本筋の具象化の失敗というべきか。

 張赫宙「脅迫」は終戦後作者が民族の裏切者として、脅迫された話。一種の私小説であろうが、ここでは作者の切実な苦悩をぶちまけるというより、しどろもどろな弁明に終っている。この作品を支えているものは、むしろ非文学的な精神だろう。これにくらべれば同誌上林暁「ロマネスク」は、確実な文学でありその精神はゆるぎない。私小説というものは、近来とやかく論議されてはいるが、ゆるぎなき誠実の一点で文学を守っていることにおいて、大いに認められていい。

 これも私小説の中に入れていいと思うが、「群像」の丸岡明「同時代に生きる人」は、ヨーロッパに渡り少年時代好きであった異国の少女をさがして歩く物語。けれんはったりもない淡々たる筆致で、清冽な抒情もある。旅人の孤独感も、かなり深くとらえられていた。パリのホテルの中庭で、夜鶏が鳴くところ、中庭に身をおどらせて飛び降りたくだりの描写には、リアリティがある。この作者としては「にせキリスト」以来の力作であり佳品と言えよう。

 以上の現実密着の諸作品にくらべると、「文学界」の安部公房「R62号の発明」[やぶちゃん注:「R62」は底本では全角三字総て縦書。]、「群像」の石川淳「鷹」は、現実をばらばらに解体し、観念的に再編成することで、小説をつくっている。ともに超現実的な構成であるが、その編成の操作において、両者とも必ずしも成功しているとは言い難い。この二編には、こまかい端々において、奇妙な類似性あるいは暗合がある。両編とも、最初にいきなり運河がでてくるし、主人公は両方ともレッドパージで勤め先をクピになり、居所も家族もはっきりしない。つまり社会的条件をすっかり奪いさられた抽象的人間である。こういう抽象的主人公を設定するところにこの二作に共通した面白味もあるが、同時に知的な操作にのみたよって現実を遊離した弱味もありありと感じられる。文学を効用性によってのみ評価するのはもちろんよろしくないことであるが、これらは手はこんでいても栄養もカロリーもとぼしい、きれいごとの料理にすぎないようである。

 「中央公論」の上田芳江という新人の「座を失った女」。ある期待をもって読みはじめたが、女流作家によくみられる末端の方ばかりにとらわれて、根本の大切なところが脱落している。そういう欠点があるために、最後まで読み通せなかった。文章もせっかちで、論理的ではなかった。

[やぶちゃん注:「張赫宙」(一九〇五年~一九九七年)又は「野口赫宙(のぐちかくちゅう)」。植民地期の代表的な朝鮮人日本語作家で、金史良とともに「在日朝鮮人文学」の嚆矢ともされる。私は全く知らなかった。当該ウィキを参照されたい。

「レッドパージ」GHQがホワイト・パージから一転、共産主義団体の非合法化・左派の団体や個人への弾圧へと反転させた日本の占領地政策。昭和二五(一九五〇)年五月以降に発生した

「上田芳江」不詳。]

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