佐々木喜善「聽耳草紙」 十番 盡きぬ錢緡
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。
なお、標題の「錢緡」は「ぜにさし」(「錢差」)と読み(「ぜんびん」の読みもあるが、読みの用例は圧倒的に前者)円形方孔の穴開き銭の穴に通して銭を束ねるのに用いる細い紐を指し、藁、又は、麻で作られた保管又は運搬用の銭の束の組みを指す。「錢繩(ぜになは)」「錢貫(ぜにつら)」とも言い、「ぜにざし」とも読み、頭を略して二字で単に「さし」とも呼称した。束には「百文差(ざ)し」・「三百文差し」「一貫文(=千文)差し」等がある。グーグル画像検索「銭緡」をリンクさせておく。]
十番 盡きぬ錢緡
昔、大槌(オホツチ)濱(今の上閉伊郡)の吉里(キリ)々々の里に善平と云ふ者があつた。家がごく貧乏でつまらない生活(クラシ)をして居たけれども、大層正直者で世間からも褒められ者で通つて居た。或年村の人達が揃つて伊勢參宮に立つと云ふので、善平も村の義理で誘はれたが、いくら行きたいと思つても路銀がないので其の事ばかりはと思ひ煩つて居た。そのうちに村の人達は旅立ちしてしまつた。
[やぶちゃん注:「大槌(オホツチ)濱(今の上閉伊郡)の吉里(キリ)々々」現在の岩手県上閉伊郡大槌町(おおつちちょう)吉里々々(きりきり:グーグル・マップ・データ。以上の地図の現地名では「々々」を用いているが(郵政上の地名表記それも「々」)、国土地理院図では「吉里吉里」であり、「ひなたGPS」の戦前の地図でも「々」は使用されていない。「々」は本邦で作られた独自の記号(漢字ではない)であるから(最近は中国でも逆輸入されて用いることがあるらしい)、私はあくまで「吉里吉里」とすべきであると考えている。なお、この地名は、井上ひさしの小説「吉里吉里人」で全国的に知られるに至ったが、同小說の「吉里吉里」は東北本線沿いの宮城県・岩手県県境付近に設定されており、実際の吉里吉里とは別の場所であって、架空地名である。江戸時代は遠野と同じ盛岡(南部)藩内である。]
さうなると善平も參宮がしたくて、矢も盾も堪らず、かねて蓄へて置いた百文錢を持つて、村の人達の後を追つてとにかく旅へ出た。そして少しも早く仙臺領へ出て、村の人達に追(カ)ツつくべと、急いで行くと、方角を間違へて、飛んでもない秋田樣の領分の方へ山越えして行つてしまつた。峠の上から眺めると、遙か向ふの方に大きな沼の水が光つて見えるから、あれは音に聞く仙臺の姉沼と云ふ沼であンベと思つて行くと、さうではなくて其れは秋田ノ國の黑沼と云ふ大きな沼であつた。
[やぶちゃん注:「仙臺の姉沼」仙台(伊達)藩の「姉沼」は不詳。東北の「姉沼」と言えば、青森の「姉沼」(グーグル・マップ・データ)であるが、ここは広域の旧盛岡藩である。
「秋田ノ國の黑沼」秋田県横手市山内大松川に現存する黒沼(グーグル・マップ・データ)。個人ブログ「神が宿るところ」のこちらがよい(写真有り)。『「黒沼」は』、天長四(八二七)年の『大地震により出現したと伝えられる陥没湖で、水深は』十二メートル『あるいは』十七メートル『という。旱魃のときも水位が下がらないとされ、傍らの「黒沼神社」は別名「蛇王神社」といって、古来から竜神信仰による雨乞いの神として平鹿・仙北地方の農家の信仰を集めたという。また、この「黒沼」と、南西約』五キロメートル『にある「鶴ヶ池」(横手市山内土渕字鶴ヶ池。「塩湯彦神社 鶴ヶ池里宮」』『)とは水底で繋がっているというトンデモな伝説もある』。『「黒沼」に関する伝説は他にもある(というか、こちらが本筋。)。伝説であるから、いろいろなヴァリエイションがあるが、最も簡単なものは「貧しい旅人が南部(旧・南部藩領?)で若い女から黒沼に住む妹に手紙を渡すように頼まれ、手紙を届けたお礼に三角形の重たいものをもらった。それは黄金の塊で、旅人は忽ち大金持ちになった。」というものである。ここで示唆されるのは、当地に金の鉱山があったことと、その富に由来する長者が居たということだろう。注目されるのは、この長者の名が「地福長者」というところである。かつて、「黒沼」の更に奥に、「大松川ダム」建設によって集団移転した「福万」という、めでたい地名の集落があった。江戸時代の紀行家・菅江真澄は、「地福長者」の福と、「満徳長者」の満(万)を合わせた地名ではないかとしている。「満徳長者」は、出家して保昌坊と名乗り、「湯ノ峰白滝観音」』『の施主になったと伝えられている』とあった。この「福万」、「ひなたGPS」で現在の「大松川ダム」の「みたけ湖」の最奥の箇所の北の谷相当地区に、戦前の地図で「福萬」を見出せた。但し、最後に佐々木の不審な附記がある。]
その沼の少し手前へ差しかゝると、それこそ俄に黑雲の大嵐が起つて、一寸先へも進まれない程であつたが何とかして少しでも早く村の人達に追(カ)ツつきたいものだと思つて、大風雨の中を押切つて、脇見もせずに沼のほとりを大急ぎで行くと、不意に後(ウシロ)から、善平どの、善平どの、ちよつと待つておくれあンセと云ふ聲がした。善平が振返つて見ると、十七、八ぐらゐの美しい娘が子どもを抱いた姿で、沼の中から出て來た。
善平が不思議に思つて小立ちをして居ると、その女は善平に近寄つて來て、お前を呼びとめたのは外でも無いが、妾はこの沼の主である。お前を故鄕(フルサト)の吉里々々から此處まで呼び寄せたのも實はこの妾である。妾はわざとお前に同行の人達とは違った道をとらせて、この沼のほとりへ來て貰つたのである、妾はこの沼へ嫁に來てから三年にもなるけれども、まだ一度も故鄕の父母のもとへ歸ったことがない、それでその父母が戀(コヨ)しくてならぬ。それでお前を見込んでの賴みである。この手紙を私の故鄕の父母の許へ屆けてもらいひたい。私の故鄕と云ふのは大阪の西の赤沼と云ふ沼である。どうかお賴み申します。それからこの手紙を持つて行つたら、私の父母はきつとお前に何かお禮をすることであらうから受けてクナさい。そしてこれはほんの僅かの錢ではあるけれども、私の心差しだから、旅の費用として使つてクナさい。ただこの錢は緡(サシ)から、みんな取らずに一文でも五文でも殘して置くと翌朝になれば復《また》、元の通りになつて居ります。必ず妾の言葉を疑つてはなりませんと言つて、一貫緡(サシ)の錢と、一封の手紙を善平に手渡した。
[やぶちゃん注:「小立ち」ちょっと立ち止まっていることか。
「大阪の西の赤沼と云ふ沼」不詳。]
善平は沼の主から一封の手紙と錢緡(サシ)とを受取つて、それから大阪表へ行つた。人傳《ひとづて》に聞くと、赤沼といふ所は、何處かにあるにはあるが、其所へ行つた者に二度と歸つて來た者がない。それは大變な魔所であるから、そんな所へはお前も行かぬ方がよいと、聞く人每に言ふのであつた。さうは言はれても善平はあれ程までに堅く賴まれたものだからと思つて、思ひきつてその赤沼の方へ行つた。向うの方に大きな沼が見え出した。善平が沼の邊まで行くと、その少し手前から俄に黑雲が起り大嵐になつて一寸先きも見えなくなつた。それでも怖れないで沼の岸へ行つて、トントンと手を打つと、沼の逆卷く浪の眞中から一つの小船が現はれた。その船の中には一人の爺樣が居て舟を岸邊に着けた。そしてこれはこれは南部の善平どのであつたか、よくこそ娘の手紙を持つて來てクナされた。まづまづこの船に乘つて私の家にアエデ[やぶちゃん注:東北方言の「行つて」であろう。]おくれエあれと言つた。善平は何も惡いことをした覺えもなし、別に怖れることもないから、言はれるまゝに爺樣と一緖に船サ乘つて沼の眞中へ行くと、舟はズブンと沈んでしまつた。あツと思ふ拍子に善平は實に立派な座敷の中に坐つて居た。其所へ一人の品のよい婆樣が出て來て、善平が出した手紙を見たり、なほ善平から秋田の黑沼の娘が孫までも抱いて居たツけと謂ふ話などを聽いたりして、お前の話を聽いて娘に逢つたと二つない[やぶちゃん注:「全く同じくした」の意であろう。]喜びだと言つてひどく喜んだ。そして色々と善平をもてなした。善平はすゝめられるまゝに其の夜は沼の底の館に泊まつた。翌朝起きると、直ぐに見たこともない多くの御馳走が出た。そして朱塗りの盆に山ほどの黃金を盛つてくれた。それからまた舟で沼の岸邊まで送り屆けて貰つて、無事に陸へ上つた。
善平はそれから大阪表へ引返すと、街中で故鄕の參宮の人達と出會つた。あれア村の善平ではないか。お前ナンして來てヤと、皆が驚いて言つた。善平は俺はお前達の後(アト)を追うて此所まで來たが、お前たちは四國へ渡つたかと訊くと、アア其所からの歸りだと言ふので、それでは俺もこれから四國へ渡ると言つて、故鄕の人達と別れて四國へ渡り金比羅詣りも無事に濟まし、西國巡りも札場々々を變りなく踏んで(打つて)首尾能く奧州に歸つて來た。そしてその黃金や盡きぬ錢緡などで、忽ち長者となり、奧州東濱では一とあつて二とはないと言はれるほどの並ぶ者ない、吉里々々の善平長者と呼ばはれる身分身上とはなつた。
この善平長者は、每年秋田の黑沼へお禮參りに行くのが慣例であつた。その時には餅米一斗を餅に搗いて、戶板に乘せて沼の上に浮べると、それがひとりでに、しらしらと水の上を走つて沼の眞中へ行つて、餅は沈んで、戶板ばかりがもとの岸邊に戾つて來るのであつた。これは善平長者代々の吉例であつた。ところが近代の主人が、それを否消(ヒゲ)して、その行事を怠つたために忽ちに貧乏になつた。今では後世(アトセ)も無くなつて、その邸跡には大きな礎石ばかりが殘つて居る。
(黑沼と云ふ沼は、話者は秋田の國と話した。私の想像では田澤湖ではないかと思つたりした。外に斯樣《かやう》な沼のあると云ふことを此國では聞かぬからである。)
[やぶちゃん注:最後の附記は底本では全体が二字下げポイント落ち。
「田澤湖」ここ。しかし、ここでは吉里吉里から北西に当たり、西に向かう善平がそこまで方向違いに間違えるのは、ルングワンダリングとしても方向が明後日過ぎて、認め難い。「黒沼」は吉里吉里から真西であり、北上で南下しなかったのは不審であるが、何らかの神秘的な誘いによって、どんどん西へ向かって山中に入ったとすれば、田沢湖よりは無理がない。単に佐々木は中古以来ある黒沼の実在を知らなかったのであろう。]
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