早川孝太郞「三州橫山話」 山の獸 「猿の祟り」・「猿のキンヰ」
[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。
初篇の標題及び本文中の「崇り」の二箇所はママ。「祟り」(たたり)の誤植であろう。]
○猿の崇り 猿は、昔は空模樣でも變はりそうなときに、幾十となく群れて來て、栗や黍を荒らしたものださうで、其中の一ツは必ず小高い處に立つて、物見の役を勤めて居たと云ひます。山で椎茸を培養する時は、猿が來て喰べて仕方がないと云ふ事を聞きました。
北設樂郡のタナヘと云ふ處の源次と云ふ男の話に、若い頃獵師をしてゐた時、或る朝早く山へ獵に行くと、松の大木《たいぼく》に大きな猿が居るのを見かけて擊つた處が、相憎《あひにく》急所を外れたので、猿が松の枝に隱れてしまつたので、腹を立てゝ其木に登つて行つて山刀《やまがたな》を振上げて斬らうとすると、其猿が腹を指さしては、片一方の掌で拜むを用捨なく打殺《うちころ》して持つて歸ったところが、それは子持猿《こもちざる》であつたさうです。其年から不幸が續いて、家内が八人と、馬を十三匹失つても未だ不幸が續くのは、まつたく彼《か》の折の猿の崇りだと言つてゐました。
[やぶちゃん注:「北設樂郡のタナヘ」『日本民俗誌大系]版では、『タナエ』となっているが、ウィキの「北設楽郡」の沿革の旧村名には、この発音と思しいものは見出せない。「ひなたGPS」で戦前の地図の旧郡域を調べたが、やはりそれらしいものは発見出来なかった。識者の御教授を乞う。]
○猿のキンヰ 猿のヰも、猪のヰと同じやうに、人體に効能のあるものださうですが、其中にも猿のキンヰと云ふのがあつて、これは非常に老年な猿でなくてはないと云ひます。鳳來寺村字玖老勢《くろぜ》の丸山鐵次郞と云ふ男が、若い頃鳳來寺の山で擊つた猿には、このキンヰがあつたと云ひました。黃金色《こがねいろ》をしてゐて、入梅にも決して黴《かび》が生へなかつたと謂ひます。
[やぶちゃん注:「キンヰ」「金膽」。「猪のヰ」とともに先行するこちらの「シシの井(猪の膽)」の私の注を参照されたい。
「鳳來寺村字玖老勢」愛知県新城市玖老勢(グーグル・マップ・データ航空写真)。]
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