早川孝太郞「三州橫山話」 草に絡んだこと 「蕨取りの遺恨」・「蕨が結びつけた緣」
[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここ。]
○蕨取りの遺恨 四十年ばかり前の事、橫山の者が、川上の布里《ふり》と云ふ村の山へ、春、蕨取《わらびと》りに行くと、其村の者が兼《かね》て待伏せしてゐて、採つた蕨は全部押收して、各自持つてゐた叺《かます》迄も取上げて追歸《おひかへ》したことがあつたさうですが、それは蕨取りが、山を踏荒《ふみあら》すので、其村で最後の手段としてやつたのださうです。處が其年の夏、洪水があつて、布里村の有力な材木商の材木が流れ出して、橫山の村へも、澤山《たくさん》打上《うちあ》げられたのを、後になつて受取りに來ると、春の頃蕨取りの遺恨があるので、村の地内へかゝつた材木は、一本も手を觸れさせないと頑張つたので、其材木商が村へ歸つて、村の者と協議した結果、翌日になつて、春の頃押收した叺に饅頭を一包《ひとつつみ》づつ添えて、橫山の各戶へ詑《わび》を入れて返したので、無事落着したと謂ふ話がありました。
[やぶちゃん注:「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)には、『寄木』と題して注と写真があり、そこには、『 鮎滝から二百メートルほど上流で、寒狭川が大きく曲がっているところを寄木と言います。友釣りの穴場なのですが、洪水の時、水が出れば出るほど、横山側で大きく渦を巻いて、水が引いた後は、材木が山のように溜まっています』。『この話の材木も、この寄木に打上げられたと思われます』とあった。グーグル・マップ・データ航空写真のこの中央部である。「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左下方の寒狹川の左岸『(ヨリ木)』とある(但し、川の流れは曲りを描いてはいない)。読みは「よりき」「よりぎ」の孰れかは不明だが、早川氏は一貫してルビを附さず、「早川孝太郎研究会」のものでもルビがないところを見ると、「よりき」でよいのかなとは思う。
「川上の布里」寒狹川の上流で、横山の対岸の北部地区である、現在の愛知県新城市布里(グーグル・マップ・データ航空写真)。
「蕨」シダ植物門シダ綱シダ目コバノイシカグマ科ワラビ属ワラビ亜種ワラビ Pteridium aquilinum subsp. japonicum 。ワラビはウィキの「ワラビ中毒」によれば、牛・馬・羊などの家畜などはワラビ摂取によって中毒を起こし、牛では重症化すると死亡することが知られ、ヒトの場合も中毒を起こすことがあり、『適切にアク抜きをせずに食べると』、『ビタミンB1を分解する酵素が』、『他の』摂餌した食物の『ビタミンB1を壊し、体がだるく』、『神経痛のような症状が生じ、脚気になる』場合『もある』。『一方、ワラビ及びゼンマイはビタミンB1を分解する酵素が含まれる事を利用して、精力を落とし』、『身を慎むために、喪に服する人や謹慎の身にある人、非妻帯者・単身赴任者、寺院の僧侶たちはこれを食べると良いとされてきた』とあり、また、発癌性も指摘されており、ウィキの「ワラビ」によれば、発癌物質とされる『プタキロサイド』(ptaquiloside)『はアクの部位に多いが、アク抜きしても発ガン性は残存』し、『ラットの発ガン率は、処理なし78.5%に対し、灰処理25%、重曹処理10%、塩蔵処理4.7%と低下はするものの』、『残存』することが証明されてはいる。
「叺」「かます」は古く「蒲(かま・がま)」の葉で編み作ったところから「蒲簀(かます)」の意とされる。藁莚(わらむしろ)を二つに折って、左右両端を縄で綴った袋。穀物・菜・粉などを入れるのに用いる。「かますだわら」「かまけ」とも呼ぶ。]
○蕨が結びつけた緣 明治十五年頃の事ださうですが、鳳來寺村字門谷《かどや》の布袋屋と謂ふ大きな宿屋の娘が、橫山の字追分の隱居所へ遊びに來てゐる時、ある日女中を供につれて蕨取りに出かけると、近くの堀[やぶちゃん注:ママ。]立小屋に居た重吉と云ふ者の忰《せがれ》が道案内をすると謂つて、椎平《しひだいら》と云ふ所の板橋を渡る時、其忰が手を引いて半分渡りかけると、雨上りの後で水勢が增してゐたので、娘が眼が眩《くら》んで、あつとよろけたのを、抱き留めやうとする間に、二人共溺れてしまつたと謂ひます。どちらも未だ十三の春を迎へたばかりの子供で、間もなく數町の川下で發見された時は、はたで見る眼《め》も哀れな程、しつかり抱き合つて死んでゐたと謂ひました。男の方がひどい貧乏人の忰なのに、娘の親は、其頃附近に時めいた家だつたので、兎角の噂を厭《きら》つて、翌朝早く葬式を出さうとした處が、何かしらのさまたげが出來て、日の暮方になつたと謂ひますが、棺が家を出るから葬る迄、二人の葬式が、申し合せたやうに、寸分違はぬ時刻になつたと謂ひました。
[やぶちゃん注:涙を誘う無垢の少年少女の哀話である。柳田國男には決して出来ない語りである。
「椎平《しひだいら》と云ふ所の板橋」「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)には、現在の「椎平橋」の写真とともに、『当時の板橋は橋脚下の岩盤に架かっていたと思われます』とある。ストリートビューのここが現在の椎平橋。読みは、ネット上のバス停留所名で確認し、歴史的仮名遣で入れた。
「鳳來寺村字門谷の布袋屋と謂ふ大きな宿屋」現存しないようだが、山地和史氏のブログ「地図を見ながら」の「鳳来寺山へ(その5)伊勢参宮」によれば、天保一二(一八四一)年、『相模国大山寺の大工棟梁手中敏景の「伊勢道中日記」』『を見ると、閏正月三日「秋葉山参詣」の後、石打村(現浜松市天竜区)で泊まり』、『四日、天気よろ敷、六ツ過ニ出立仕、大ヰニ道あしく、同行ノ皆難義仕、巣山村坂本屋ニ而中食ヲ遣』とあり、この『巣山村は現在の新城市鳳来町巣山、道が悪く難儀したようです』とされた後、『大野村ニ休、鳳来寺山江参詣仕、角屋宿漆屋弥兵衛方止宿仕、暮方ニ着仕候』とあって、『大野村は、JR飯田線の三河大野で、ここから行者越を越えると』、『鳳来寺。彼らは、門前町にあたる角屋(門谷)宿で泊っています』とあるから、古くからの宿屋であったことが判る。
「橫山の字追分」横川追分地区(グーグル・マップ・データ)。]