「曾呂利物語」正規表現版 四 一條もどり橋のばけ物の由來の事
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にし、さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正(裏映りが激しいため)した上で、適切と思われる位置に挿入する(本篇には挿絵があり、ここ(左丁)がそれである)。なお、この図は底本(保護期間満了)にもあり、底本のものも手を加えずに並べて参考に供した。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]
四 一條もどり橋のばけ物の由來の事
いつの頃にか有りけん、
「都(みやこ)、『もどりばし』の邊(へん)に、よなよな、變化(へんげ)のもの、有り。」
と、いひわたる事、あり。
こゝに、そのかみ、名(な)ある武士(ぶし)、その頃は、世を憂きものに思ひて、洛中に徘徊して侍りしが、ゆたかなる餘慶(よけい)にて、今に所狹(ところせ)きさまなりしが、此の事を聞き、
『さるにても、いかなるものぞ。見屆け侍らん。』
と思ひ、ある夜(よ)、かの橋の邊(ほとり)に棧敷(さじき)を打ちて、妻女諸共(もろとも)に、行きて、密(ひそ)かに待ちてぞ、ゐられける。
さる程に、常に立ち入りし座頭の有りけるが、其の夜(よ)しも、來たりて、
「殿(との)は。」
と問へば、
「しかじかの事。」
と云ふ。
「『人、多くては、化物(ばけもの)、來(きた)らじ。』とて、「上下(うへした)、二、三人して、坐(おは)して侍る間(あひだ)、御伽(おとぎ)に參られよかし。」
と、いひければ、
「尤(もつと)もの御事(おんこと)なり。さらば。」
とて、彼(か)のさじきに行きぬ。
何某、なのめならず、悅び、宵の程は、「平家」など語らせて慰みけるが、夜更けて、人、靜まりぬれば、夫婦(ふうふ)ながら、ことの外、眠くなりて、
「ばけもの見ん事も、なるまじき。」
と、互(たがひ)に、起こし、制するほどこそあれ、後(のち)には性根(しやうね)を失ひ、我(われ)かの氣色(けしき)にて、うかうかと、ねぶりけり。
かかる所に、二人のなかへ、彼(か)の座頭、飛びかゝり、長き手を、さしのべて、頭(かしら)をおさへける。
[やぶちゃん注:前者が「国書データベース」のものを補正したもの、後者が底本(『近代日本文學大系』第十三巻 怪異小説集・昭和二(一九二七)年刊)のもの(補正せず)。右上端のキャプションは「条もどりはしばけ物の事」(「一」はなし)である。]
男、驚き、
「得たりや、かしこし。」
と、起きあがり、太刀に手を掛けんとすれども、網にかゝれる如くにて、手足に搦(から)まり侍るを、漸(やうや)うに押しくつろげ、相傳(さうでん)の「來國光(らいくにみつ)」を以つて、拂ひ切りにぞ、したりける。
化物、一刀(ひとたち)、きられて、少しひるむ所を、續けさまに、五刀(いつかたな)、剌して、さて、火を點(とも)し見給へば、手足は龍(りよう)の如くにて、長さ一丈三尺五寸、かしらは、繪にかける酒顚童子(しゆてんどうじ)の如くなり。これぞ、蜘(くも)といふ蟲の、功(こう)[やぶちゃん注:ママ。]を經て、人をばかかしけるなり。
其の後(のち)、橋にさらして、諸人(しよにん)に、これを見せけるとぞ。
[やぶちゃん注:「一條もどり橋」怪奇出来(しゅったい)にこれほど恰好なロケーションはない。そもそもが「橋」自体が古代の民俗社会に於ける「異界との通路」であった。当該ウィキによれば、『一条戻橋(いちじょうもどりばし)は、京都市上京区の、堀川に架けられている一条通の橋で』、『単に戻橋ともいう』(ここ。グーグル・マップ・データ)。延暦一三(七九四)年の『平安京造営に際し、平安京の京域の北を限る通り「一条大路」に堀川を渡る橋として架橋された。橋そのものは何度も作り直されているが、現在も当時と同じ場所にある。平安中期以降、堀川右岸から右京にかけては衰退著しかったために、堀川を渡ること、即ち』、『戻り橋を渡ることには特別の意味が生じ、さまざまな伝承や風習が生まれる背景となった』。『「戻橋」という名前の由来については』、「撰集抄」巻七で、延喜一八年十二月(ユリウス暦やグレゴリオ暦換算でも既に九一九年)に『漢学者三善清行の葬列が』、『この橋を通った際、父の死を聞いて』、『急ぎ』、『帰ってきた』、『熊野で修行中の子浄蔵が棺にすがって祈ると、清行が雷鳴とともに一時生き返り、父子が抱き合ったという』。「平家物語」の「剣巻」には、『次のような話がある。摂津源氏の源頼光の頼光四天王筆頭の渡辺綱が夜中に戻橋のたもとを通りかかると、美しい女性がおり、夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしいと頼まれた。綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、それを引き受け馬に乗せた。すると女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで愛宕山の方向へ飛んで行った。綱は鬼の腕を太刀で切り落として逃げることができた。腕は摂津国渡辺(大阪市中央区)の渡辺綱の屋敷に置かれていたが、綱の義母に化けた鬼が取り戻したとされる』。『戻橋は橋占の名所でもあった』。「源平盛衰記」巻十に『よれば、高倉天皇の中宮建礼門院の出産のときに、その母の二位殿が一条戻橋で橋占を行った。このとき』、十二『人の童子が手を打ち鳴らしながら』、『橋を渡り、生まれた皇子(後の安徳天皇)の将来を予言する歌を歌ったという。その童子は、陰陽師・安倍晴明が一条戻橋の下に隠していた十二神将の化身であろうと書かれている。安倍晴明は十二神将を式神として使役し家の中に置いていたが、彼の妻がその顔を怖がったので、晴明は十二神将を戻橋の下に置き、必要なときに召喚していたという』。『戦国時代には』、『細川晴元により』、『三好長慶の家臣和田新五郎がここで鋸挽きにされ、安土桃山時代には豊臣秀吉により』、『島津歳久と千利休が梟首された』(後者には異説がある。リンク先参照)。『また』、『秀吉のキリスト教禁教令』下の慶長二(一五九七)年には、『日本二十六聖人と呼ばれるキリスト教殉教者は、ここで見せしめに耳たぶを切り落とされ、殉教地長崎へと向かわされた』。『嫁入り前の女性や縁談に関わる人々は嫁が実家に戻って来てはいけないという意味から、この橋に近づかないという慣習がある。逆に太平洋戦争中、応召兵とその家族は無事に戻ってくるよう願ってこの橋に渡りに来ることがあった』とある。あらゆる時代を通じて、ここは霊界との通底器であったのである。
「世を憂きものに思ひて、洛中に徘徊して侍りしが、ゆたかなる餘慶(よけい)にて、今に所狹(ところせ)きさまなりし」「この世をつまらぬものと感じつつ」も、「嘗つての先祖の名声の余香もあり、また、その余禄で、経済的には苦労はない」ものの、どうもそうした自負心も残っておればこそ、世間的には過去の人のように思われているであろうことを考えると、「何やらん、精神的に気詰まりな内心を抱えていた」と、所謂、主人公の心理的に複雑にして微妙な不安定さが捩じれた形で意識的に示されてあり、それが怪奇への偏頗な嗜好を促しもし、ひいては、物の怪が手を出しやすい𨻶が生じていることをも、前触れているのである。
「我か」「我か人か」の略。意識が朦朧として、見当識が消失していることを言う。
「來國光」鎌倉後期の相模国で活動した刀工新藤五国光(しんとうご くにみつ 生没年不詳)の作になる名刀。
「酒顚童子」大江山の鬼、酒呑童子(しゅてんどうじ)のこと。当該ウィキを参照。]
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