西播怪談實記(恣意的正字化版) / 城の山唐猫谷にて山猫を見し事附リ越部の庄といへる古跡の事
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]
○城(き)の山(やま)唐猫谷(からねこだに)にて山猫を見し事附リ越部(こしべ)の庄(せう)といへる古跡(こせき)の事
佐用郡佐用村の大工に三大夫といひしもの、在(あり)。其業(わざ)に委(くはしく)して、名を、近鄕にしられけり。
享保年中の事なりしに、龍野御城下(たつのごじやうか)の近在に、恩德寺といへる靈地あり。此普請を請合(うけあひ)て滯留す。
折しも、三月三日、休日なれば、中間(なかま)の大工、近所の者共、七、八人、誘合(さそいあい)て、
「『城(き)の山(やま)』を、見物せん。」
とて、出立(いでたち)けり。
是(これ)は建弘の比(ころ)、赤松黨、暫(しばし)、楯籠(たてこもり)し陣所(ぢんしよ)にして、今に、其跡、現然たり。
元來(もとより)、山、嶮岨(けんそ)にして、殊更、「魔所」といひ傳へぬれば、往(ゆく)人、希(まれ)なり。
觜崎(はしさき)の船渡(ふねわたし)より、西に當れる山、則(すなはち)、「城の山」なり。後(うしろ)の方(かた)は、岩石、峨々(がゝ)と嶙(そびへ)て、鳥ならでは、かよふべくもなく、物すごき所也。
爰に「唐猫谷」とて、岩と岩との間、谷、切(きれ)て、數十丈、諸木、兩方より生茂(はへしげり)て、中(なか)は見へず、たゞ、谷の面影のみ、見ゆる。
右、連中にて、三大夫、人に先立(さきだち)て、彼(かの)唐猫谷の頭(かしら)にいたるに、猫、一つ、岩の上に居《ゐ》たり。
三大夫、
「里遠き深山(しんざん)に、猫の居《を》る事、不思議なり。」
と、見ゐたるに、跡より、來(き)つどふ人音(ひとおと)に、谷へ、入《いり》て、失(うせ)ぬ。
其容(そのかたち)、世の常にして、少(ちと)、大(おほき)く、尾は、長く垂(たれ)たり。
尤(もつとも)、瘦(やせ)ては見へしかど、目の光、甚(はなはだ)、强し。
三大夫、跡よりの面々に、
「しかじか。」
のよしを語れば、
「是、必(かならず)、山猫なるべし。」
と恐(おそれ)あへりけり。
かくて、荒々(あらあら)見物して、麓に下(をり)て、棵子(わりご)・小竹筒(さゝゑ)抔(など)つかふて、越部の古跡に詣でつゝ、暮方に恩德寺に歸(かへり)て、住持の僧に、猫の次第を語るに、住持の曰、
「昔より、『唐猫谷に、猫、居る。』と、いひ傳ヘぬれど、常に往還(わうへん[やぶちゃん注:ママ。])する人もなく、適々(たまたま)、見物に行(ゆく)人ありても、猫を見る人は、なし。されば、彼(かの)谷を『唐猫谷』といふ事、猫の居るゆへに名附(なづけ)しか。又は、古來の名にして、自然(しぜん)と猫の住(すみ)けるにや。其來由(そのらいゆ)を、しらず。」
となん、咄(はなせ)しとかや。
三大夫、歸て、予に物語の趣を書傳ふもの也。
爰(こゝ)に越部の庄は、揖西郡(いつさいごほり)にして、則(すなはち)、「城の山」の麓なり。此(この)御墓所(おんはかしよ)は、「市(いち)の保(ほ)村」といへる所にして、村翁(そんをう)、語(かたり)つたヘしは、「俊成卿(しゆんぜいきやう)の墓」共《とも》いひ、又は、「阿佛(あぶつ)の墓」とも、いへりしに、寬延三年三月、觜崎村、石井氏何某(いしいうぢなにがし)、上京の折から、禁裏御築地(おんついぢ)の邊(へん)、徘徊して、上冷泉家(かみれいぜいけ)の家司(けし)に近付(ちかづき)、
「播州越部の者。」
のよしを語(かたり)、御墓所の事を演說(ゑんぜつ)せしかば、右の家司、卽(すなはち)、中納言家へ申達(《まをし》たつ)しけるよしにて、爲村卿(ためむらきやう)、直(すぐ)に御對面有(あり)て、委(くはし)く御尋(おんたづね)なされけるに、御家(おんいへ)の御記錄に、ひしと、合申(あい《まをす》)に付《つき》、家司安藤喜内(あんどうきない)をもて、念比(ねんごろ)に御饗應なされ、御香奠(ごかうでん)とも、下され、御染筆(ごしんひつ[やぶちゃん注:ママ。])を下(くだ)し給ふ。
花のゝちみやこをすみうかれて
野中の淸水をすくとて
皇太后宮大夫俊成女(こうたいごうぐうたゆふしゆんぜいのむすめ)
わすらるゝもとの心のありがほに
野中のし水かげをだに見じ
又、安藤喜内より、書記(しよき)して、わたさるゝは、
越部禪尼(こしべのぜんに) 五條三位俊成卿御女(ごじやうのさんい[やぶちゃん注:ママ。]しゆんぜいきやうおんむすめ) 京極中納言定家卿御妹(きやうごくちうなごんていかおんいもと)也(なり) 官女(くわんぢよ)ニテ八條院三條(はちでうのいんのさんでう)ト申(まをす) 出家後(しゆつけのゝち) 住越部(こしべにすむ) 仍(よつて)申越部之禪尼(こしべのぜんにとまをす) 御忌日(ごきにち) 二月六日 件(くだん)の御墓前(おんはかしよ[やぶちゃん注:ママ。])は驛路(ゑきろ)よりは南西(みなみにし)の山際(やまぎは)にして 觜崎(はしざき)の宿(しゆく)と平野村(ひらのむら)の間(あいだ)なり
[やぶちゃん注:最後の「御染筆」と「書記」されたものは、底本では二つとも、全体が二字下げであるが、ブラウザでの不具合を考えて、引き上げてある。和歌の前書・作者・和歌も改行を加えた。句読点は原書を想定して、字空けとした。この二種は特異的に読みを総て附した。特に二箇所は前後を空けた。
「城(き)の山(やま)」第一巻の「新宮水谷何某化物に逢し事」で既出既注であるが、再掲する(地図リンクの位置を少し変えた)。たつの市新宮町(しんぐうちょう)の南にある城山城跡(きのやまじょうせき)のある山。サイト「西播磨遊記」の「城山城跡」に、『播磨の守護職赤松満祐が時の将軍、足利義教を京の自邸で殺害した「嘉吉の乱」』(一四四一年)『の舞台』で、『京都から播磨に引き揚げた満祐は、山名持豊(宗全)等の率いる二万の追討軍を迎えて各地に戦った末、ここを最後の拠点とし』た『が、遂に戦況の挽回はならず、満祐以下』五百『余名は』、『この山城で非業の最後を遂げ』たとある。また、『山頂の供養塔付近から約』百メートル『ほど行くと、神話の伝説を持つ亀の池があ』るともあった。思うに、最初のリンクを見られたいが、如何なる伝説かは判らなかったが、「亀岩」・「亀の池」へ向かうピークに「亀山(きのやま)」があり、これが元の「きのやま」であったものを、後に城が建ったことから「城」にも代替させたものであろう。
「唐猫谷(からねこだに)」兵庫県立歴史博物館公式サイト内の「ひょうご伝説紀行―妖怪と自然の世界―」の「近世西播磨の怪談」の本書の紹介記事の中に、「城山城跡搦手への登山口 (唐猫谷)」とキャプションする写真があるのだが、この写真位置が判らなかった。しかし、しみけん氏のブログ「播磨の山々」の「兵庫県たつの市の城山城(きのやまじょう)跡縦走」に載る、地図に「唐猫谷」の記載があり、そこは「亀山」のずっと北の新宮町市之保(いちのほ:後に出る「市(いち)の保(ほ)村」である)から入る、この附近の谷(グーグル・マップ・データ航空写真)であることが判明した。
「享保年中」一七一六年から一七三六年まで。
「龍野御城」現在のここに龍野城跡がある(グーグル・マップ・データ)。
「恩德寺」現在のここに同名の浄土宗の寺があるが、ここか(グーグル・マップ・データ)。
「建弘」不審。こんな元号は本邦にはない。私年号にもない。似たものも、赤松党の時代にないので、何を誤認したものかも判らない。
「觜崎(はしさき)の船渡(ふねわたし)」新宮町觜崎の南端に「觜崎宿と寝釈迦の渡し」という史跡があるが(グーグル・マップ・データ)、ここであろう。
『「俊成卿(しゆんぜいきやう)の墓」共《とも》いひ、又は、「阿佛(あぶつ)の墓」とも、いへりし』これは、現在、「てんかさま(越部禅尼の墓)」として、グーグル・マップ・データにポイントされてあるものである。サイド・パネルで説明板が読め、「たつの市」公式サイト内の「市内の指定・登録文化財」の「てんかさん」に、『新宮町市野保(いちのほ)にある祠(ほこら)で』、「千載和歌集」の『選者である藤原俊成(ふじわらのとしなり・しゅんぜい)の孫娘』(☜)『にして』、「新古今和歌集」の『選者である藤原定家(ふじわらのさだいえ・ていか)の姪、越部禅尼(こしべぜんに)の墓と伝えられ、禅尼は越部でその生涯を終えたとされている』。『祠には鎌倉時代後期と思われる阿弥陀如来(あみだにょらい)の石仏が納められ、人々の信仰を集めている』とある。トンデモ・レベルだが、俊成の墓とか、同時代の阿仏尼の墓という誤認伝承も、まあ、後注に示すように、誤認が誤認を生んだとして、判らぬではない。
「寬延三年」一七四八年から一七五一年まで。徳川家重の治世。
「上冷泉家」原型である冷泉家は藤原定家三男であった大納言藤原為家の四男の、権中納言冷泉為相(母は阿仏尼)を祖とする。この辺りの公家の話には興味が湧かない。ウィキの「冷泉家」をリンクさせるに留める。
「播州越部の者。」
「中納言家」「爲村卿(ためむらきやう)」不詳。第十三代下冷泉家の当主に冷泉為栄(ためひで)、第十四代冷泉為訓(ためさと)がいるが、このどちらかであろう。前者は最終官位が權中納言、後者は大納言。「村」と誤りそうなのは後者か。
「安藤喜内」不詳。あんまり調べる気も起らぬ。
「うかれて」「憂かれて」であろう。「いやになって」。
「すく」「好く」。
「わすらるゝもとの心のありがほに野中のし水かげをだに見じ」この歌、不詳。
「平野村」現在の新宮町平野(グーグル・マップ・データ)。市之保の北直近。]
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