佐々木喜善「聽耳草紙」 八番 山神の相談
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]
八番 山神の相談
或る時、六部《ろくぶ》が或村へ來て、山神の御堂に宿つて居た。眞夜中に人語がすると思つて眼を覺ますと、山神と山神とで話をしていた。今夜は行かなかつたな。あゝ、お客があつて行かなかつたが首尾は如何《どう》だつた。うん、母(アンバ)も子(ワラシ)も丈夫だ。それで何歲(ナンボ)までかな、イダマスども七歲(ナヽツ)までだ。そしてチヨウナン(釿《てうな》)で死ぬ……
六部は何の話かと思つて聽いて居た。其の後七年經つて、六部が又其の村へ行くと、在る家で大工であつた親父が、子供を傍《そば》に寢かして置いて仕事をして居たが、子供の寢顏に虻(アブ)がタカツたので、手に持つてゐた釿で追ひ拂はふとして子供の頭を斬り割つたと云つて大騷ぎをして居るところであつた。
六部は七年前の御堂での山神樣達の話を思ひ出して、あゝ神樣達はこの事を言つたのだなアと始めて思ひ當つた。
(田中喜多美氏の御報告分の二、摘要。)
[やぶちゃん注:「六部」「六十六部」の略で、本来は全国六十六ヶ所の霊場に、一部ずつ納経するために書写された六十六部の「法華経」のことを指したが、後に、その経を納めて諸国霊場を巡礼する行脚僧のことを指すようになった。別称を「回国行者」とも称した。本邦特有のもので、その始まりは、聖武天皇(在位:七二四年~七四九年)の時とも、最澄在世(七六六年~八二二年)の頃とも、或いは、ずっと下って鎌倉時代の源頼朝・北条時政の時代ともされ、定かではない。実際には、恐らく鎌倉末期に始まったもので、室町を経て、江戸時代に特に流行し、僧ばかりでなく、民間人もこれを行うようになった。男女とも鼠木綿(ねずみもめん)の着物に同色の手甲・脚絆、甲掛(こうがけ:履き物に添える補助具。主に足の甲を保護するためのもので、形は足袋によく似ているが、底はない。材料は白若しくは紺の木綿で、強度を増すために刺子にすることが多い。これをつけるのは草鞋を履く時で、甲に紐を巻きつける際、甲や側面に擦り傷がつくのを防ぐ)、股引をつけ、背に仏像を入れた厨子を背負い、鉦や鈴を鳴らして米銭を請い歩いて諸国を巡礼した(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。彼らは、地域社会では異邦人・異人であり、各地に、迎えておいて、騙して殺害して金品等を奪ったが、その後に生まれた子が殺した六部の生まれ変わりで、仇(あだ)を成すといったタイプの「六部殺し」怪奇譚でも知られる(当該ウィキを参照されたい)。
「イダマスども」東北地方及び岩手方言で「いだましねえども」で「惜しい(傷ましい)ことだけれども」の意。
「チヨウナン(釿)」歴史的仮名遣「てうな」は現代仮名遣で「ちょうな」。大工道具の一つ。「手斧」と書く方が一般的。柄の先が曲がっていて、先に平らな刃が柄に対して左右に伸びた形で付けた、小型の鍬のような形をした斧に似た刃物。木材の表面を平らに仕上げるために、初めに「荒削り」をするのに用いる。「ちやうな(ちょうな)」は「ておの」が転訛したもの(講談社「家とインテリアの用語がわかる辞典」を主文に用いたが、使用している絵と画像は「広辞苑無料検索」のこちらの写真がよい)。
「田中喜多美」既出既注。]
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