早川孝太郞「三州橫山話」 蟲のこと 「双尾の蜥蜴」・「蜂の巢と暴風」・「蜂の戰爭」・「蜂の巢のとりかた」・「蜂の巢の探し方」・「眼白を殺した蜂」
[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]
○双尾の蜥蝪 フタマタ(双尾)の蜥蝪《とかげ》を見れば、思ふことが叶ふと言つたり、これを捕らへ來て飼つて置くと、金銀が自然に集つて來るとも謂ひます。
春彼岸前に蜥蝪を見ても、其年は運がいゝなどゝ謂ひますが、それが靑蜥蜴では惡いとも謂ひました。
[やぶちゃん注:底本では「悪」の後に一字分空白(行末)があるが、誤植と断じ、詰めた。二叉尾のトカゲ類はとりたてて稀なものではない。先天的な奇形ではなく、自切後や尾部周辺で傷を負ったりすると、彼らは再生力が強いので、尾が切れたと再生システムが起動し、二股の尾が出現するケースが多いのではなかろうか。因みに、私は高校時代、演劇部と生物部を掛け持ちしていたが、後者で専ら担当したのが、イモリの再生実験であった。尾のみならず、前肢・後肢を人工的に切断して行った。前肢では中央を突にして、根本付近で三角形にカットしたところ、腕の指がその両側に発生した。但し、大抵は再生途中で腐敗して失敗した。高校レベルの装置では、細菌感染を予防するシステムや、抗生物質の投入などは金が掛かり過ぎて出来なかったからである。今考えれば、私は血塗られたマッドなサージャリーに過ぎなかったのだ。]
○蜂の巢と暴風 蜂が人家の軒や屋根棟へ巢を造ると、その家が榮える前兆であると謂ひまして、わざわざ蜂の巢をとつて來て門に置く風習もありました。
人家の棟などに、大きな籠のやうな巢を造るのは、赤蜂と云ふ種類で、これが橋の下や、其他低い所へ巢を造つた年は、暴風があると謂ひました。
[やぶちゃん注:嘗つて、山登りをしに色々な地方の山村を登山口にしたが、酒屋でもない大きな民家の軒先に『杉玉があるな。』とよく勘違いし、近づいて見ると、明かにどこからか持ってきて、そこにわざわざ飾ってある、蜂のいなくなったスズメバチ類の巢であったことを何度も体験した。まさに、こうした民俗に基づくものであったのである。
「赤蜂」膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科スズメバチ亜科チャイロスズメバチVespa dybowskii の異名と思われる。体長一・七~二・七センチメートルで、全身が黒から茶・くすんだ赤の深い色に覆われている。北方系種で、日本では中部地方以北に棲息していたが、近年、中部以南にも分布を広げており、二〇〇〇年代初頭までに、山口県を除く本州全域で棲息が確認されており、都市部にも進出しているから、だんだんに被害は増えそうな、如何にも、見た目(ネット上で見た)、特異的に赤黒と文字通り異色に派手で、兇悪そうな感じに見える種ではある(私は自然界では、今のところ、幸いにして現認したことがない)。]
○蜂の戰爭 私の子供の頃に、私の家と溪を隔《へだて》て、竝んでゐる三軒の家の土藏へ、同じやうに赤蜂が巢を造つた事がありました。秋も遲くなつて、巢が充分大きくなつた頃、一番端の家の巢へ、熊蜂の群が襲つて來て、赤蜂の群を喰《く》ひ殺して、中の子を咥へ出して持つて行つた事がありましたが、其翌日は、次の家へ襲つて來て、同じやうに全滅させてしまひました。三日目の晝過ぎ頃、私の家の巢へやつて來ました。最初は二つ程熊蜂が來て赤蜂と爭つてゐるやうでしたが、だんだん熊蜂の數が增えてきて、約二時ばかり盛んな戰爭をした結果、赤蜂は殆ど全滅してしまひました。戰爭してゐる最中は、一ツの熊蜂へ、三つ四つ程も赤蜂が絡まつて落ちて來ては、盛んに嚙合つてゐました。巢の下の地面が、赤蜂の死骸で赤く染まつたやうに見えました。巢の中からは、熊蜂が子を咥へ出しては、何處ともなく運んで行きました。時々一ツ位赤蜂が歸つて來ても忽ち喰ひ殺されてしまひました。
後で、蜂の死骸を檢《あらた》めますと、赤蜂が二十に對して、熊蜂の死骸は一ツ位の割合でした。
又或年の秋、屋根裏に集まつてゐる小蜂を、熊蜂が捕へるのを見た事がありましたが、捕へたと思ふと、一度地上に落ちて來て、再び提け[やぶちゃん注:ママ。後の『日本民俗誌大系』版では『提げ』である。]上げて屋根の上へ持つて行きました。
[やぶちゃん注:「熊蜂」これは私は「クマンバチ」と呼ぶ花蜜・花粉食の温厚な膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科クマバチ亜科クマバチ族クマバチ属クマバチ Xylocopa violacea ではなく、肉食性の細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科スズメバチ亜科スズメバチ属 Vespa の大型の一種、或いはその中で最悪最強のオオスズメバチ Vespa mandarinia の異名である。]
○蜂の巢のとりかた 秋、彼岸が過ぎると、蜂の巢が實ると謂つて巢をとりました。
ヘボと謂ふ、虻程の蜂や熊蜂は、地下に巢が造つてあつて、其處には幾層にも重なつた巢があつて、大きな巢になると、子が一斗[やぶちゃん注:十八リットル。]あつたなどと云ひました。
これ等の巢をとるには、夜、穴の傍で麥藁などを燃やして置いて、鍬で掘りましたが、中から蜂が飛び出して來て、羽を燒かれてしまふのですが、人間の方も、必ず刺されるものでした。それが煙火を使つてとるやうになつてからは、雜作なくとれました。穴の口に、筒花火を向けて、火を全部穴の中へ放出して置いてから堀[やぶちゃん注:ママ。]ると、蜂は全部麻醉劑にかゝつたやうになつてゐました。
晝間、竹竿などの先に、麥藁を結へつけて、其に火をつけて巢の近くに差し出したりして、惡戲をすると、その竹竿を蜂が傳つて來るものでした。
[やぶちゃん注:「ヘボと謂ふ、虻程の蜂」: スズメバチ亜科クロスズメバチ属クロスズメバチVespula flaviceps を代表とする地蜂類を指す。体長一~一・八センチメートル。小型で、全身が黒く、白又は淡黄色の横縞模様を特徴とする。ウィキの「スズメバチ」によれば、『日本では地方によってヘボ、ジバチ、タカブ、スガレなどと呼ばれて養殖も行われ、幼虫やさなぎを食用にする。長野県では缶詰にされる。クロスズメバチを伝統的に食用とする地方の一部では「ヘボコンテスト」等と称し、秋の巣の大きさを競う趣味人の大会も行われている。岐阜県でもヘボとして食文化が発達して』いるとある。小さく黒いことから、まさにアブと間違えやすく、それで刺されてしまうこともあるので、注意が必要。但し、攻撃性はそれほど高くなく、毒性もあまり強くない(但し、蜂毒は、その毒性の強弱に限らず、寧ろ、二回目に刺された際のアナフィラキシー・ショック(anaphylaxis shock)の方が生命に関わる危険性がある)。「へぼ」の異名については、「農林水産省」公式サイト内の「うちの郷土料理」の「へぼ飯 愛知県」で確認でき、次の条に出る、その巣を探す方法も記されてある。
「熊蜂」前掲の広義のスズメバチ属 Vespa の中・大型の種群。]
○蜂の巢の探し方 秋、蛙の肉やバツタなどを、棒切れの先につけて持つてゐると、何處からともなく蜂がやつて來て、其肉を喰千切《くひちぎ》つて持つてゆくので、其行衞を見定めて少しづゝ巢へ近づいて行くものでした。其時、蜂の體へ、眞綿を千切つて引つかけてやつて、眼印にする方法もありました。
熊蜂などの、體の大きなものは、澄んだ空を疑視めて[やぶちゃん注:ママ。「凝視」の誤植。後の『日本民俗誌大系』版では『凝視(みつ)めて』とルビもある。]蜂の去來する姿をみて、巢に近づいて行きました。
○眼白を殺した蜂 子供の頃、眼白《めじろ》が熊蜂に喰殺《くひころ》された事がありました。それは眼白を入れた籠を、裏口に掛けて置いたら、熊蜂が眼白の頸を喰切《くひき》つて其の肉を食べてゐました。私が近づくと、蜂は一塊の肉を持つて逃げて行きました。
[やぶちゃん注:「眼白」スズメ目メジロ科メジロ属メジロ Zosterops japonicus であるが、本邦で見られるのは五亜種。私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 眼白鳥(めじろどり) (メジロ)」を参照されたい。]
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