「曾呂利物語」正規表現版 卷二 三 怨念深き者の魂迷ひ步く事
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。本篇の挿絵は、その岩波文庫版からトリミング補正したものである。]
三 怨念深き者の魂迷ひ步く事
會津若松といふ所に、「いよ」と云ふ者、有り。
彼(かれ)が家に、色々、不思議なる事多き中に、まづ、一番に、ある日の酉の刻[やぶちゃん注:午後六時前後。]に、大きなる家を、地震の搖(ゆ)る樣(やう)に、動かす。
次の日の同じ時に、何とは知らず、家の内へ入り、裏口の戶を叩き、
「初花(はつはな)、初花。」
と、よばはる。
主(あるじ)の女房、聞きつけて。
「なんぢ、何ものなれば、夜中に來たり、斯くは云ふぞ。」
と叱(しか)らる。
ばけもの、叱れて、右の方(かた)に、又、口、有りけるが、折りしも、戶をあけおきけるに、其所(そこ)へ、きたりける。
[やぶちゃん注:上では、右上端にあるキャプションが完全に切れて映っていないが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで見ると、「おんねんふかき者のたましいまよふ事」と読め、また、家の女房が右手に持つ「御祓箱」(以下の本文に出る)の蓋の上には、「太神宮」の文字が書かれているのもはっきりと判る。なお、この「御祓箱」とは、中世から近世にかけて、伊勢神宮の御師(おんし:「御師」(おし)は特定の社寺に所属して、その社寺への参詣者や信者の求める護符の配布や祈禱、或いは、実際の参拝時の案内及び宿泊などの世話をする別当僧や神職を指すが、特に伊勢神宮の場合のみ、差別化して「おし」と呼ぶ)が、毎年、諸国の信者に配って歩いた伊勢神宮の厄除けの大麻(たいま:本来は「おおぬさ」と読むが、「ぬさ」とは「木綿・麻」などを指す。「大麻」とは、お祓いに用いられる用具である細い木に細かく切った紙片をつけた「祓串」(はらえぐし)を指す)を納めた小箱。「はらへ(え)ばこ」とも呼ぶ。]
その姿を見れば、肌には、白き物を著(き)、上には、黑き物を著て、いかにも色白き女房、髮を捌(さば)き、内へ入(い)らんとしけるを、あるじの女房、
『これは、只事ならず。』[やぶちゃん注:後に助詞の「と」が欲しい。]
思ひて、御祓箱(おはらひばこ[やぶちゃん注:ママ。])の有りけるを、取りいだし、
「汝、これに、恐れずや。」
とて、投げつけければ、其のまゝ消えぬ。
三日目には、申の刻[やぶちゃん注:午前四時前後。]許りに、かの女房[やぶちゃん注:ここは変化の女のこと。]、臺所の大釜の前に來りて、火を焚きて、ゐたり。
うちの者ども、これを、
「いかに。」
と騷ぎければ、又、消え亡(う)せぬ。
四日めの晚のことなるに、鄰(となり)の女房、裏へ出でければ、彼(か)の女、垣(かき)に立ちそひ、家の内を見入(みい)れてゐたりけるを見付けて、肝(きも)を消し、
「鄰の化物こそ、こゝに、居て候へ。」
と呼ばはれば、化物、いひけるは、
「汝が所へさへ行かずば、音もせで、ゐよ。」[やぶちゃん注:「お前の所には、さらさら行く気はないのだから、五月蠅い声を挙げずに、黙って、おれよ。」の意。中古以来の「ずは」(「~でなくて」、或いは打消の順接仮定条件を示す「もし~でないならば」。打消の助動詞「ず」の連用形+係助詞「は」か、接続助詞「ば」とする説もある)が近世初期に打消の確定条件に転用されてしまった慣用表現である。真正の物の怪の、抑制した制止であり、それが、また、なかなか、キョワい!]
と云ひて、又、消え亡せぬ。
五日めの事なるに、臺所の庭に來て、打杵(うちきね)をもつて、庭を、
「とうとう」
と、打ちて、𢌞る。
「此の上は、御念佛(ごねんぶつ)ごとより外の事は、有るまじ。」
とて、さまざまの祈りをぞ、初めける。
眞に神明(しんめい)・佛陀の納受(なふじゆ)有る故か、其の次の日は、來(きた)らざり。
「すべて、ばけ物、こゝに來(きた)る事、五たびなり。此の上は、何事も、あらじ。」
と、いひもはてぬに、虛空(こくう)より、女の聲にて、
「五たびには、限り候はじ。」
と呼ばはりける。[やぶちゃん注:追い打ちをかける凄みのあるキレのある台詞である。なかなか、心理戦に長けた物の怪と見える。]
扠(さて)、其の夜(よ)の事なるに、いつも、主の女房、いねざま[やぶちゃん注:「寢ね態」で「就寝する頃合い」の意。]になれば、蠟燭を立ておきけるを、彼(か)の化け物、姿を現はして、蠟燭を、吹き消しぬ。
主(あるじ)の女房、肝を消し、絕入(ぜつじゆ)[やぶちゃん注:失神。気絶。]する折りも、有り。
七日めの夜は、女夫(めをと)臥したる枕許に立ち寄り、頭(あたま)どちを、寄せがまちにし、其の上、夜(よる)の物を、裾よりまくり、冷(つめた)き手にて、足を撫でければ、夫婦(ふうふ)の者は、魂(たましひ)を消すのみならず、しばし、物ぐるはしくなりける、とぞ。
[やぶちゃん注:この波状的な怪異の襲来は、なかなかに名品と言える。特に、六日目の物の怪の本領発揮の巧妙な仕儀も、確信犯で、人間どもを油断させるための巧妙な手段であって、実は出現はしなかったのは、「神明・佛陀の納受」のお蔭でも何でもなく、サウンド・エフェクトだけで、震えあがらせているところなど、実にホラーとしての勘所を、逆に押さえているとさえ言えるのである。さても、本書の後に怪奇談を書く作者なら、これを再話しない手は、ない。「諸國百物語卷之一 四 松浦伊予が家にばけ物すむ事」がそれである。ただ、この話、虚心に読むと、「いよ」というのが、女の名のように錯覚させる(ただ、冒頭「彼(かれ)の家」とあるから、男主人が「いよ」なんだろうとは思うのだが)。確かに再話のように、旦那の通り名が「伊予」なのだろうかも知れぬが、本篇は、最後まで「いよ」の家の主人の姿が、これ、まともに見えてこないのでる。七日目の閨房のシーンでも、夫の映像が浮かばないように意図的に描かれているように感ずる。ここに何らかの作者の隠された意図、或いは、特別なある心理上の拘りがあるように思われるのだが、その核心は、私には、未だよく判らないのである。或いは、霊が呼びかける「初花」(女房の名ではないことは、彼女の反応からみて間違いない)という言葉に何かヒントがあるような気がする。
「寄せがまちにし」「寄せがまち」は「寄せ框(がまち)」で、商家などの入り口の取り外しが出来る敷居のことで、昼間は外しておき、夜、戸を閉める時に取り付けるようにしたもの指す。岩波文庫の高田氏の注によれば、『寄框のように直角に頭を突き合わせること』とある。]
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