西播怪談實記(恣意的正字化版) 早瀨村五助大入道に逢し事
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、但し、「巻四」の目録の読みについては、これまでと同様に総て採用することとする。歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]
○早瀨村五助大入道に逢し事
佐用郡(さよごほり)早瀨村に、五介といふもの、在《あり》。
享保年中の事なりしに、久しく眼病を患(うれい)て、近鄕にて療治に預(あづかれ)ども、平癒せず、難儀に及(およぶ)所に、佐用、大工長右衞門といふものも、永々(ながなが)目を煩(わづらひ)てゐければ、互(たがい)に、さそひ合(あい)て、姬路へ行(ゆき)、暫(しばし)、滯留の中(うち)に順快(じゆんくはい)なれば、又、同心して、立歸(たちかへる)。
比《ころ》は、十月半(なかば)なれば、姬路を、とく立出《たちいで》て、急ぐといへども、短日(たんじつ)なれば、林崎(はやしざき)といふ所より、暮(くれ)てたどりしに、漸(やうやう)、佐用の町端(まちはづれ)に成‘まり)て、五助、長右衞門が袖を引(ひき)て、
「今のを、みられしや。」
と、ふるひ聲にていへば、長右衞門は、
「何も、見ず。」
といふに、「沓懸(くつかけ)の、少(ちと)、上手(うはて)に【「沓懸」は道ノ字《あざ》。】、長(たけ)壱丈餘の大入道(おほにうどう)、立(たち)はだかりゐたる體(てい)、二目(ふため)とも見られず、あまりの恐さに、脇差を探(さぐり)て見るに、手、こゞまりて、少(すこし)も、働かず。足は、そなたにひかれて、漸(やうやう)に戾(もどり)しなり。」
と、大息を、つぎ、
「かゝる億病[やぶちゃん注:ママ。]にては、脇差持(もち)たりとて、何の役にか立(たつ)べき。自今以後(じこんいご)は、必、脇差をば、持(もつ)まじき事なり。」
と笑合(わらひ《あは》)し、となり。
兩人(ふたり)とも、今に存命にて、直物語(ぢきものがたり)の趣を書つたふもの也。
[やぶちゃん注:「早瀨村」現在の兵庫県佐用郡佐用町早瀬(グーグル・マップ・データ)。
「享保年中」一七一六年から一七三六年まで。
「林崎」佐用町林崎(グーグル・マップ・データ)。佐用の中心街から南東四キロほどの位置に当たる。
「沓懸」ルートから考えると、「ひなたGPS」の戦前の地図にある「佐用坂」の佐用町近くであろうと思われる。]
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