「曾呂利物語」正規表現版電子化注始動 / 「曾呂利はなしはし書」・「卷第一目錄」・「一 板垣の三郞高名の事」
「曾呂利物語」正規表現版電子化注始動 / 「曾呂利はなしはし書」・「卷第一目錄」・「一 板垣の三郞高名の事」
[やぶちゃん注:以前からやりたかった江戸前期の、江戸前期の怪奇談集の濫觴の一つと言える「曾呂利物語」(そろりものがたり)の電子化注を始動する。「曾呂利物語」は仮名草子で寛文三(一六六三)年刊で全五巻。当該ウィキによれば、『妖怪などの登場するはなしを集めた奇談集で』、『編者は不明。おとぎばなしの名手として当時知られていた安土桃山時代の人物』で豊臣秀吉の御伽衆として知られる『曽呂利新左衛門』(当該ウィキの初代を参照されたい)『の名を題名に借用しており』(無論、仮託である)、先行する「曽呂利狂歌咄」などを『意識したものと見られる。古くから』「曽呂利物語」の『名で広く知られるが』、『これは内題で、外題簽には』「曾呂利快談話」である(後に示す早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像の表紙を見られたい)。但し、『巻第一の』以下に示す「はし書」には「曾呂利はなし」とも『あって一定はしていない』。また、『ひろく普及した後刷』本では「曾呂利諸國話」と『いう題が付けられている』とある。「諸國百物語」は『本書と似た主題の』怪奇談集で『あるが、その内容には本書を典拠としたと見られる同一素材のものが』二十『話以上あ』り、「諸國百物語」が『巻頭の第一話としてあつかっている話』(私の「諸國百物語 附やぶちゃん注 始動 / 諸國百物語卷之一 一 駿河の國板垣の三郎へんげの物に命をとられし事」を指す)『も、本書の第一巻第一話と同じもの(剛胆をほこる板垣三郎が妖怪たちによって命をとられる話)で、その影響は大きい』とある。因みに私は、そこに出る「諸國百物語」(第四代将軍徳川家綱の治世の延宝五(一六七七)年四月に刊行された、全五巻で各巻二十話からなる、正味百話構成の真正の「百物語」怪談集。この後の「百物語」を名打った現存する怪談集には実は正味百話から成るものはないから、これはまさに怪談百物語本の嚆矢にして唯一のオーソドックスな正味百物語怪談集と言える)の全電子化注を二〇一六年にこちらで完遂している。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認する(驚いたのだが、底本が拠ったものの書誌が解題その他に示されていない。以下の各種を比較しても有意にひらがな表記が多いもので、以下の早稲田大本・立教大本と同じ後刷本であろうと思われる)が、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にし、さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)をダウン・ロードして適切と思われる位置に挿入する。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録する(同書の底本は国立国会図書館本で後刷本で合本三冊本)ものは、OCRで読み込み、加工データとした。
読みは底本は本文内は総ルビに近いが、読みが振れるもの、難読と判断したもののみのみに限った。踊り字は生理的に厭なので正字化する。読み易さを考え、句読点や記号を適宜、変更・追加し、段落を成形した。注はストイックに附すが、前掲の「江戸怪談集(中)」にある注は、必要と感じたものに就いては、引用させて貰うこととする。頭の標題は先に示した早稲田大学図書館「古典総合データベース」の表紙の題題簽を出した。【二〇二三年三月十七日始動:藪野直史】]
曾呂利快談話
曾呂利はなしはし書
人の心を慰むることわざ、限りなくさまざまなれども、貴賤貧富のさかひありて、心に任せぬもて遊び事(ごと)又多し。其の中に上(かみ)がかみより下(しも)まで隔てなきたのしみは、見るもの聞く事を口にまかせ語りなぐさむに如くはなし。爰(こゝ)に、天正の頃ほひ、曾呂利と云へる雜談(ざうだん)の上手(じやうず)あり。大樹(たいじゆ)秀吉公に召されて、常にかれを愛したまふ。其の詞(ことば)のたくみに花やかなる事は、齊(せい)の田辨(でんべん)が天口(てんこう)の辯、晉の裴頠(はいき[やぶちゃん注:「き」はママ。正しくは「ぎ」。])が林藪(りんそう)の詞(ことば)にも超えたり。まことにすさまじき事を論じては、目に見えぬ鬼神も速早(すは)こゝに出できたる心地にうしろこそばゆく、艷(えん)に哀れなる事を談ずれば、たけき武士もよわよわと淚もろし。その辯舌博覽の名譽なる事は、壺中(こちう)の天地をこめ、瓢簞(へうたん)より駒(こま)を出(いだ)せし術にも過ぎたり。ある夜大樹のまへにておどろおどろしき事を語れろのたまふに、十づゝ十に及べり。近習(きんじふ)の人々是れを書きとめしに、年久しく反故(ほご)にまじはり、多くは散り失せぬ。わづかに殘りしをかいやり捨つるも惜(を)しと、其の品(しな)にたぐへる物がたりの不思議なるを一つ二つ加へて、今また書き改むるもの歟。
[やぶちゃん注:同書の端書(序文)。
「天正」一五七三年から一五九二年までであるが、秀吉の御伽衆となって以降だから、「本能寺の変」より後と思われ、天正一〇(一五八二)年より後の話であろう。
「齊の田辨が天口の辯」不詳。識者の御教授を乞う。
「晉の裴頠が林藪の詞」裴頠(はいぎ 二六七年~三〇〇年)は西晋の政治家で思想家。当該ウィキによれば、『ある時、楽広』なる人物が、『裴頠と清談を行』ったところ、『彼を言い負かしたいと思ったが、裴頠は豊富な知識と巧みな話術を有していたので、楽広は笑ってごまかすばかりで』、『答えることが出来なかった。世の人は』、それを聴き、『裴頠の事を言談の林薮』(対象とする知識が多く集まっていることを指す語。「淵藪」に同じ)『であると称えたという』とある。
以下、巻第一の目録。左ページから本文が始まる。]
曾呂利物語卷第一目錄
一 板垣の三郞高名の事
二 女のまうねん迷ひありく事
三 女のまうねん生(しやう)をかへても忘れぬ事
四 一條もどり橋の化物(ばけもの)の由來の事
五 ばけもの女になりて人を迷はす事
六 人を亡(うしな)ひて身に報ふ事
七 罪(つみ)ふかきもの今生(このじやう)より業(ごふをさらす事
八 狐(きつね)人にむかひてわびごとする事
九 船越(ふなこし)大蛇(だいじや)をたひらぐる事
十 狐を威してやがて仇(あた)をなす事
曾呂利物語卷第一
一 板垣の三郞高名の事
駿河國(するがのくに)大(おほ)もり、「今川藤(いまがはふじ)」と聞こえし人、府中に在城し給ひけるが、ある夜のつれづれに、家の子・らうどうを集め、酒宴、數刻に(すこく)及ぶ時、
「さても。たれれか、有る。今夜、千本(せんぼん)の上の社(やしろ)まで行(ゆ)いて來たらん。」
と、のたまひければ、ひごろ、手がらを現はす者、多しといへども、これは聞ゆる魔所なれば、あへてまゐらんといふ者、なし。
爰(こゝ)に甲斐國(かひのくに)の住人に「板垣の三郞」とて、代々、弓矢をとつては、隱れなき勇者、あり。
「すなはち、私(わたくし)こそ、參り候はん。」
と、申しあぐる。
大森、なのめにおぼしめして、やがて、しるしを、たぶ。
板垣は、大剛(たいがう)の者にて、少しも恐るゝけしきなく、殿中より、すぐに、千本へぞ、參りける。
頃は九月中旬の事なれば、月、いと白く、木(こ)の葉、ふり敷き、物すさまじき森のうちを過ぎて、石だんを通りけるが、杉の木の上より、小さきもの、一つ、ひらめきて、足もとへ落ちけるが、あやしみて、これを見るに、ヘぎ、一枚なり。
『かかる所に、何とて、有りけるぞ。』
と思ひながら、蹈(ふ)み割りてこそ、通りけれ。
われたる音の山彥(やまびこ)にこたへ、夥(おびたゞ)しく聞えけるを、不審に思ひながら、別の事もなくて、上(うへ)のやしろの前にて一禮して、しるしの札(ふだ)をたて置き、歸りしが、いづくともなく、白き、ねりの一重を被(かづ)きて、女房、一人、來(きた)れり。
『扨(さて)は。音に聞きつる變化(へんげ)の物、わが心をたぶらすらん。』
と思ひ、走りよりて、被きたるきぬを、引きのけて見れば、大(おほ)いなる目、一つ、有りて、振分髮(ふりわけがみ)の下(した)よりも、ならべたる角(つの)、おひたるが、薄化粧に、鐵漿(かね)、くろぐろと、つけたり。恐ろしとも云はん方なし。
されども、板垣、少しもたゞよはず、
「何ものなれば。」
とて、太刀(たち)をぬかんとすれば、かき消す如くに、失せぬ。
不審なる事ながら、せんかたもなく、立ちかへり、大もりの前に參り、
「しるしを立てて歸りさふらふ。御檢使(ごけんし)をたてて、御らん候へ。」
と申し上ぐる。
「まことに、板垣にてなくば、恙(つゝが)なくは、歸らじ。」
と、一同に感じあへり。
「扨(さて、何事にも、あひ候はぬか。」
と、御尋ね有りければ、
「いや、何語も怪しき事は、御ざなき。」
と申す。
かかりける所に、座敷も、隈(くま)なき月の夜(よ)なるが、俄(にはか)に、かき曇り、ふる雨、車軸を流しける。
酒宴、興を失ふをりふし、虛空(こくう)にしはがれ聲(ごゑ)して、
「いかに、板垣。前に、我等が腹を、何(なに)とて、踏みわりけるぞ、懺悔(さんげ)、せよ。」
と、よばはりける。
其の時、おのおの、まとゐして、
「見申(みまう)したる事あらば、御前(ごぜん)にて、申し上げよ。」
と、めんめん、せめければ、板垣、千本にての有り樣、殘さず、申し上ぐる。
然(しか)れども、雨風(あめかぜ)、猶、やまず、稻妻、夥しく、神(かみ)さへ、鳴りて、殿中、もの騷がしければ、
「いかさま、此の體(てい)にては、板垣を、とられなんと、覺ゆ。」
とて、唐櫃(からびつ)の中(なか)に入れ、各々(おのおの)、番をして、夜(よ)の明くるをぞ、待ちゐたる。
さて、いかづちも、次第に、やみ、天の光(ひかり)も、はれ行きて、五更も明け行けば、
「板垣を、出(いだ)せ。」
とて、櫃の蓋(ふた)を、取りて、見れば、忽然として、何も、無し。
「これは。いかなる事。」
と、みな人(ひと)、奇異の思ひをなす所に、又、虛空より、二、三千人の聲して、
「どつ」
と、笑ふ。
走り出(いで)て見れば、板垣が首を、緣上(えんうへ)に、落としてけり。
かかる不思議も、有ることに、こそ。
[やぶちゃん注:「板垣の三郞」不詳。
「駿河國大(おほ)もり」不詳。但し、以下の「千本」の位置が判るので、その周辺(現在の静岡市葵区の南部。グーグル・マップ・データ)ということになる。
「千本」岩波文庫の脚注に、『靜岡市の賤機(しずはた)山の古称。古く山頂に祠があった』とあることから、駿府城跡の北北西にあるそれと判る(グーグル・マップ・データ航空写真)。
「なのめに」「斜(なの)めに」。平安から中世前期の原義は「おざなりだ」「ありふれて平凡」だ」の意であったが、中世以降になると、「なのめに」の形で、「並一通りでなく、格別に」の意の「なのめならず」と同義に用いるようになった。
におぼしめして、やがて、しるしを、たぶ。
「ヘぎ」檜(ひのき)や杉などの木材を薄く剝いだ板、「へぎ板」、或いは、それで製した「折敷(をしき)」を指す。岩波版脚注では、ただ前の意のみを載せるが、ここは、そんなちんまい板切れではおかしくも不思議にも不審にも思われないから、断然、後者のへぎで出来た「折敷」でとるべきである。
「たゞよはず」「漂はず」。この場合の「漂ふ」は「落ち着かない」の意で、「怯(ひる)むことなく」の謂いである。
「まとゐ」「圓居」(まどゐ)で、「車座になって」の意。
「神(かみ)さへ」雷(かみなり)さえも。
「いかさま」「如何樣」。副詞で「きっと・確かに・(自分の判断であることを示して)どう見ても」の意。
「五更」午前三時から五時までの間。]
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