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2023/03/29

早川孝太郞「三州橫山話」 川に沿つた話 「鮎の登れぬ瀧」・「龍宮へ行つて來た男」・「人と鮎の智惠競べ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。]

 

      川 に 沿 つ た 話

 

 ○鮎の登れぬ瀧  前を流れる寒峽川[やぶちゃん注:ママ。後注参照。]に二ノ瀧と云ふ瀧があつて、川の中央にある二ツの岩のから水が溢れ落ちてゐて、絕えず物凄い響をたてゝゐましたが、此處から二町程下つた所に、鵜の頸と云ふ淵があつて、大淵とも呼んでゐますが、此處は龍宮へ通じてゐるなどゝ謂ひました。此淵と二ノ瀧との間は、奇岩が重疊して、物凄い所でした。

 夏鮎が川下から登つて來て、此瀧を登る事が出來ない爲め、これより上流には鮎は居ませんが、昔上流の段嶺に城のあつた時、城主が瀧を破壞して鮎を誘はうと計ると、夢に龍神が現はれて、段嶺に城のある限り鮎を登らする約束をして、瀧の破壞を思留《おもひとど》まらせたと謂つて、段嶺に城のあつた閒は、上流にも鮎が居たなどゝ謂ひました。

 明治の初め頃、附近の村の材木商が申合せて此瀧の破壞を計畫すると、閒もなくその人たちが病氣になつたり、死んだりしたので、龍神の祟りだと怖れて、瀧の傍に、南無阿彌陀佛の文字を刻んで中止したと謂ひましたが、明治四十二年に、水力電氣の工事の爲めに破壞されて、昔の形はなくなりました。

[やぶちゃん注:「寒峽川」現行では「寒狹川」が正しいが、早川氏は「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図でも、『寒峽川』と記しておられるので、嘗てはこうも書いたものらしい。後の『日本民俗誌大系』版(一九七四年角川書店刊)でも、やはり『寒峡川』となっている。

「二ノ瀧」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左下方の寒狹川(表記は既に述べた通り、『寒峽川』)の『ウノクビ及大渕』のすぐ上流、右岸から『大バニ川』が合流する、すぐ下流に『二ノ滝』とある。「早川孝太郎研究会」の本篇PDF)には、『二の滝は、長篠発電所の取水堰(花の木ダム)の本堤付近にあつたと思われます。子供の頃(昭和』三〇(一九五五)『年ごろ)父親が「オイ!、二の滝に行くぞ」といつて、大きなタモを持つて、鱒をすきに来たのを覚えています』。『岩の上からそつと覗くと』、四十・五十センチメートル『の鱒が川隅の浅瀬に出ているので、逃げ道に網を当てておいて、石を投げたり』、『中に入つて嚇したりして網に追い込んだものでした』と注を附しておられてある(写真有り)ことから、現在の「長篠堰堤」附近にあったことが判る。グーグル・マップ・データ航空写真のここで、サイド・パネルには九百七十六葉もの写真があるので、見られたい。また、「ひなたGPS」で戦前の地図を見ると、この中央に「小さな滝」を示す記号らしきものが認められる(横棒線の下方に左右●二つ)ので、見られたい。

「此處は龍宮へ通じてゐる」完全な内陸で海から遠く離れていても、例えば、琵琶湖や、中部地方の山間でも、池や川の淵などが龍宮に通じているという伝承は枚挙に遑がない。例えば、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一』を挙げておく。

「昔」、「上流の段嶺に城のあつた時」グーグル・マップ・データでこの附近を調べると、直近では、「塩瀬古城址」と「大和田城跡」が、また、その北西の山中に「城ヶ根城跡」がある。

「明治四十二年」一九〇九年。]

 

 ○龍宮へ行つて來た男  昔瀧川村の瀧川宋兵衞と云ふ男が、材木を川上から流して二ノ瀧にさしかゝると、其材木が全部瀧壺に落ち込んだまゝ、何時迄待つても浮んで來ないので、腹を立てゝ、刀を持つて瀧壺に飛込んで行つたと謂ひます。そしてだんだん奧深く潜つて行くと、遙か向ふに龍宮が見えたので、急いでゆくと、龍宮では、其男の材木をみんな薪にして、ちようど[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]其時、籠に入れて燃さうとしてゐる處なので、早速王樣に面會して段々事情を話して、其非を責めると、それでは一鍬田《ひとくはだ》のカイクラへ浮かべてやるから、歸つて待つてゐろと云はれて、急いで歸つて來たさうですが、自分には其間が僅か三時《さんとき》ばかりと思つたのが、家へ歸つて見ると、ちようど三年忌の最中であつたと謂ひました。そして材木は無事五里ばかり下流のカイクラへ浮んだと謂ひます。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。なお、「早川孝太郎研究会」の本篇PDF)には、『大淵⇒鵜の首』と題されて、『二の滝から』二『百メートル位下つたところが大淵で、その淵に流れ込むところを鵜の首といいます。大淵がちょうど鵜が羽を広げたような形をしているので、この様な名が付いたと思われます。大水の時は、川が上の岩盤と同じ高さで平らになつて、一気に二十メートルほど流れ落ち壮大な滝になります。そのため鵜の首から大淵にかけて、深くえぐられていつまでたつても埋まつて浅くなることはありません。竜宮に通じていると言い伝えられているのは、この鵜の首のところです』。『川小僧だつた私達も、二の滝は鰻を捕りに潜りましたが、鵜の首だけは潜つた者はありません。淵を泳いで渡るときに、淵が大きすぎて水が替わらないのか、水面から五十センチぐらい下は、異常に冷たかつたのを覚えています。竜宮まで通じているか定かではありませんが、二十メートルは優に超える深さがあると思われます』と注を附しておられてある(写真有り)。「大淵」前に述べた通り。「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左下方の『寒峽川』の『ウノクビ及大渕』とあるのが、それ(グーグル・マップ・データ航空写真)。名真もにし負う巨大な円形の淵であり、龍宮へ通じているという感じは満点である。

「瀧川村」前の「二ノ瀧」のあった上流直ぐの横山の対岸(右岸)(「ひなたGPS」)。

「一鍬田《ひとくはだ》のカイクラ」現在の愛知県新城市一鍬田(ひとくわだ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「カイクラ」は現在、「海倉橋」(かいくらばし:但し、ネット・データの中には「かいそうばし」と記すものもある)に名が残る。「萩さんのホームページ」の中の「牟呂松原頭首工」(むろまつばらとうしゅこう:「頭首工」とは農業用水を河川から取水するために、河川を堰き止めて水位を上昇させ、水路へ流し込む施設(水門・堰堤・土砂吐(どしゃばき)等)を指す。用水路の頭の部分に当たることから、かく呼ぶ。 稲作は多くの水を必要とするため、古来から多くの先人達が苦労を重ね、頭首工の建設を行ってきたと「大分県」公式サイト内の「農村基盤整備課」の「頭首工とは?」にあった)のページには、『頭首工の横を通る橋は』、『海倉(かいくら)橋です』。『海倉橋のたもとには,以下の説明がありました』。『一鍬田の海倉淵は龍宮につづいているといわれます』。『昔から村に人が集まることがあって』、『お膳やお椀がほしい時』、『必要なだけ紙にかいてこの淵に流すと』、『やがて』、『お膳とお椀が紙にかいた数だけ浮いてきたということです』とあって、ここもまた、龍宮に通ずる聖なる場所であり、また、柳田國男の好きな「椀貸伝承」の一つにして、「龍宮伝説」とカップリングされたものであって、各地にある伝承である。因みに「大淵」から、この海倉橋までは、実測で十四・五キロメートルはある。

「三時」六時間ほど。まさに「浦島伝説」同様、異界での時間経過は恐ろしく異なるのである。]

 

 ○人と鮎の智惠競べ  こゝ(大淵)から川を四五丁[やぶちゃん注:約四百三十七~五百四十五メートル]降つた處に鮎瀧と云ふ瀧があつて、其から一丁[やぶちゃん注:百九メートル。]川下に矢筈と云ふ瀧があります。夏この瀧を飛上がる鮎を捕るのに、古老の話によると、四五十年前迄は、捕る術を知らなかつたさうですが、餘り鮎が飛ぶと謂つて、農事に使ふ箕《み》で受けて捕つたのが最初と謂ひます。私の記憶にある頃は、笠網と云ふ菅笠の形した網に竹の柄をつけたもので捕りました。六月一日から瀧番を決めて、一日四戶宛《づつ》番に當りました。雨上りの水量の增した時は、四斗樽に幾杯捕れたなどゝ謂つて、夕方暗くなつてから、岩の上で鮎の分前《わけまへ》を籤引《くじびき》にしたりしました。それから鮎がだんだん網を嫌つて、網を出すと飛ばなくなるなどゝ謂ふやうになつて、それ迄の手製の太い糸の網を改めて、細い透明な糸で造つた網を使ふやうになりましたが、それも僅かの間で、瀧の下に眞つ黑に押合つて、我がちに飛でゐた鮎が、網を出すと、ばつたり飛ばなくなると謂ひました。そんな風で、瀧番で行つてゐる者が、網を岩の上へ投げ出しては、ぢつと瀧を見詰めては考へてゐましたが、鮎が瀧に向つて飛上がつても水勢がはげしいので、水が岸の岩へ當つて卷返つてゐる所へ一度休んで、其處から泳ぎ上るのを發見したものがあつて、其處へ休みに來た鮎を待つて杓《すく》ひ取るやうにしますと、そこ迄は鮎も氣がつかないと見えて、其方法で非常に澤山捕れました。其の水が卷き返る處を、ザワザワと謂ひましたが、對岸の出澤《すざは》村には、このやうな天惠がないので橫山方《がた》を妬んで、種々な邪魔をしたものでした。しかし此方法も二三年で鮎が覺えてしまつて、其後はザワザワへ休まなくなつてしまつたので最早瀧を利用する途《みち》も絕へ[やぶちゃん注:ママ。]て、近年は、瀧の下へ集まつてゐる鮎を碇《いか》り針と云ふので、引かけて捕るやうになつたと謂ひます。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎研究会」の本篇PDF)には、当該地の写真(場所の詳細なキャプションも附されてある)とともに、『現在、私達がヤハズといつているのは、出沢』(すざわ)『側のピンコ釣の穴場です。ピンコ釣は、出水の時、鮎が遡上するのでよく釣れるのですが、水位が下がるにつれて、猿橋から上流に、順次、釣れる場所が移動していきます。その中でも「馬の背」と対岸の「ヤハズ」は最も釣果が多い処です。孝太郎がザワザワと言つているのは、馬の背岩の上流側のところだと思われます。今でも水がいい日にこの場所が取れれば、クーラーに何杯も鮎を釣る人がいます』。『滝番についての記述は、出沢区の鮎滝番のことと思われます。出沢区の鮎滝番は、正保三年』(一六四六年)『に、領主、設楽市左衛門貞信が瀧川家に「永代瀧本支配」のお墨付(すみつき)を与えたことにより始まり、大正』一五(一九二六)年には、『漁業組合との間で、笠網漁についての覚書を交わしています』と詳細な注記もなされてある。最後に『詳しくは、鮎滝のホームページを参照して下さい』とあつて、URLを記しておられるのだが、このURLは現在、機能していないので、取り敢えず、サイト「鮎滝笠網漁」の「笠網漁のご案内」のページをリンクさせておくこととする。ここに出る「ピンコ釣」とは、yamame_ayu氏のブログ「愛知三河の鮎・アマゴ・レインボー・うなぎ・スッポン他」の「鮎のピンコ釣り」によれば、『仕掛けはオモリを一番下につけ』、『その上に複数の針を結んで』、『深い場所に沈め縦の岩盤に付く鮎や』、『泳いでいる鮎を竿をしゃくって』、『引っ掛ける釣り方』とあり、その前で、『私がホームグラウンドにしている愛知県内の豊川水系や矢作川水系のポイントでは』、『針を沢山結んで、流れに入れて』、『鮎の掛かるのを待つナガシガリ(待ちガリ)で鮎釣りをする人はよく見かけますが』、『ピンコ釣りといわれる釣り方で鮎を釣っている人は』、『私が知る限り』、『一人だけです』とされ、『そのポイントも』、『深さのある岩盤の』一『か所だけです』とあって、現地では、殆んど廃れてしまった漁法らしい。因みに、私の父は鮎の毛針り釣りを、永年、趣味としていて、協議会の機関誌まで発行していた。

「鮎瀧」既出既注

「矢筈と云ふ瀧」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の中央下の『寒峽川』の『矢筈滝』とあるのが、それであるが、ここは位置的には、現在の寒狭峡大橋の直下やや下流にある瀧が、それらしくは見える(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「出澤村」現在の新城市出沢(すざわ)。「ひなたGPS」でここ

「碇り針」調べてみると、鮎の友釣りの仕掛けらしい(私の父は友釣りが嫌いなため、私もやったことがなく、知識もない)。サイト「#gunma上毛新聞」の「【アウトドア】㊸釣り場の癖に応じた道具をアドバイス ワカサギやアユ釣り助言 つりピット!プロショップマツダ(高崎市江木町)」に、友釣りの仕掛けは、三、四『本の針を』、『船のいかり状に束ねた「いかり針」を』一『カ所に付けるのが一般的』とあったからである。グーグル画像検索「アユ イカリ針」をリンクさせておく。]

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