佐々木喜善「聽耳草紙」 二〇番 親讓りの皮袋
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本は、ここから。]
二〇番 親讓りの皮袋
或所に貧乏な婆樣と息子があつた。息子はある長者の家に下男奉公をして居た。そして母親を案ずるあまり、飯時には椀の飯を食ふふりをして、半分はぼろぼろと懷ろへこぼし入れて、家へ持つて還つて母親(オフクロ)を養つた。婆樣は臨終の時、息子やえ息子やえ、おらはお前に大層手厚い世話になつたども何一ツこれが親の記念(カタミ)だと言つて、お前に殘してやる品もない。たゞ之ればかりはお前の生れた所でもあり、又おらが一生の間人にも見せないで大事にして來た物であるから取つて置いてケロ(くれろ)と言つて、薄毛ブカの生えた生臭い醜(メグサ)い不思議な物を息子に與へた。婆樣はそして遂々《たうとう》この世を立つてしまつた。
息子は親孝行者だから、そんな汚らしい風の物でも、たつた一ツの母親の記念だと思ふから、ごく大事にしてしまつて置いた。ただ、ちよつとやはツとに役に立ちさうもないもの故、陰干しにして柱の所サ釣るして置いた。或時それを見て思ひついて、熊の皮(のやうな)の巾着を作つて、火打ち道具を入れて常(イツ)も腰に下げて居た。
或日息子は旦那樣の牧山へ行つた。すると牛どもが交尾(ツル)んで居たが、それがどうしたことか一日も二日もツルミツきりで放れなかつた。そのうちに牛どもは疲れて悶へて死にかゝつた。息子は如何(ナゾ)にしたらよいかと、大變困つたが手のつけやうも無かつた。呆《あき》れ果てゝ煙草でも一プクやるべえと思つて、いつもの皮巾着の口を指でひろげ開けると、それと一緖に今迄放れなかつた牛どもが、ポツンと、二ツに引き放れて立ち上つた。なるほど之れはよい物だと息子は初めて氣がついた。
それから間もない時のことであつた。長者どんの美しい一人娘に聟取りがあつた。婚禮の夜も過ぎて翌朝になつたが、どうしたのか花嫁花聟が揃つて寢所から起きて來なかつた。初めの中《うち》は皆も眠過《ねすご》したこつた、今に出て來るべえと思つて遠慮して居つたが、次の日の晝過ぎになつても出て來ないから、これはロクなことではあるまい。ざえざえ娘(アネ)コ、兄(アヱコ)と靜かに呼んで寢室を覘《のぞ》いて見ると、これはしたり二人は同じく眞靑になつて、グツタリと抱き合つたまま[やぶちゃん注:底本は「また」。「ちくま文庫」版で訂した。]倒れて居た。それから、あれア大變だと云ふ大騷ぎになつて、醫者だア法者だアと搖げ廻つて賴んでみたが少しも驗《しるし》がなかつた。
其時息子は先日の牧山のことをひよツと思ひ出して、旦那樣の所へ行つて、もしもし俺が娘樣兄樣のところを放して見申すベアと言ふと、旦那樣も苦しいところだから、そんだらお前にできれば早く放してケロと言つた。そこで息子は奧の娘樣の寢室へ行つて、片脇の方サ向いていて皮巾着の口を力《ちから》ホダイに押し開けると、今迄放れないで居た二人の體がボツラと放れて別々になつた。
長者どんの上下の歡び繁昌はたいしたものであつた。聟どのはシヨウス(恥かし)がつて、それツきり生れた家へ歸つて來なくなつたので、旦那樣は何もかにもお前のお蔭だ、一人娘の生命拾ひをしたと云つて、改めて息子を長者どんの聟に直して、孫繁げた。
(村の大洞犬松爺の話の二。大正十年一月三日の採集分。)
[やぶちゃん注:この病態は所謂、現在の医学用語では「腟痙」(英語:vaginism/ドイツ語:vaginismus)である。以下、信頼できる学術的な記載として、嘗つて万有製薬株式会社の提供していた「メルクマニュアル 第17版」の「女性の性機能不全」より、「腟けいれん」部分をコピー・ペーストしたものを掲げる。
《引用開始》
腟けいれん
腟の下部の筋肉の条件反射的な不随意性収縮(けいれん)で、挿入を阻みたいという女性の無意識的欲求が原因である。
腟けいれんの痛みは挿入を阻むため、しばしば未完の結婚をもたらす。腟けいれんのある女性の一部は、クリトリスによるオルガスムを楽しんでいる。
病因
腟けいれんは、しばしば性交疼痛症を原因とする後天的な反応で、性交を試みると痛みを引き起こす。性交疼痛の原因が取り除かれた後であっても、痛みの記憶が腟けいれんを永続させうる。その他の原因としては、妊娠への恐れ、男性に支配されることへの恐れ、自制を失うことへの恐れ、または性交時に傷つけられることへの恐れ(性交は必ず暴力的だという誤解)がある。女性がこのような恐れを抱いている場合、腟けいれんは通常原発性(生涯続く)である。
診断と治療
患者の回避反応は、しばしば診察者が近づいた時に観察される。骨盤の診察時に不随意的腟けいれんが観察されれば、診断は確実である。病歴と身体診察により、身体的または心理的原因が確定できる。最もおだやかな骨盤診察によってさえ引き起こされるけいれんを除くために、局所または全身麻酔が必要な場合がある。
有痛性の身体疾患は治療されるべきである(前述「性交疼痛症」参照[やぶちゃん注:「女性の性機能不全」内。])。腟けいれんが持続する場合には、段階的拡張などの、腟の筋肉けいれんを軽減する技法が有効である。切石位をとらせた患者に、十分に潤滑油を塗った段階的なサイズのゴムまたはプラスチックの拡張器を、最も細いものから始めて腟の中へ差し込み、そのままの位置に10分間置いておく。代わりにヤングの直腸拡張器が用いられることがあるが、理由はそれが比較的短く、不快感がより少ないからである。患者自身に拡張器を腟内に入れさせることが望ましい。拡張器を中に入れている時にケーゲル練習法を行うことは、患者が自身の腟筋肉のコントロールを発達させるのに役立つ。患者は腟周囲の筋肉をできるだけ長時間収縮させてから腟筋肉を緩めるが、この際同時に、緩めた時の感覚に注意を払う。患者に大腿の内側に片手を置かせてから、それらの筋肉を収縮させ、緩めるよう要求することが役に立つが、これは患者が一般的に、大腿、そしてこの処置の間は腟周囲の筋肉を、両方ともリラックスさせているからである。段階的拡張は、自宅で行ったり、または医師の監督のもとに1週間に3回行われるべきである。患者は1日に2回、自分の指で似たような処置を行うべきである。
患者が、より大きい拡張器の挿入に不快感なく耐えられるようになったら、性交が試みられる。この処置には教育的カウンセリングが必要である。段階的拡張を始める前の性科学的診察は、しばしば有用である;患者のパートナーを同席させ、手鏡を使って患者に自分の身体を診察させながら、医師は諸器官の構造を同定する。このような処置は、しばしばパートナー双方の不安を軽減し、性的事柄についてのコミュニケーションを促す。
《引用終了》
以上の記載からも想像出来る通り、性行為結合のままで離脱不能になるケースは、皆無でないものの、極めて稀であることは、ネット上に散見される信頼できる(と判断される)真摯な記事からも、また、実際にそのような事態を私自身、実際に見たことも聞いたこともなく(勿論、経験もない)、これが所謂、都市伝説(アーバン・レジェンド)の性格を持って、市井に流布されていることは明白なことと思われる。なお、万が一、私がそのような事態を経験した場合は、必ずや隠すことなくここで実例として掲げることをお約束する(約束して十四年になるが、経験はない)。
「薄毛ブカの生えた生臭い醜(メグサ)い不思議な物」不詳。思うに、母は「たゞ之ればかりはお前の生れた所」であると言っているからには、後産(のちざん)の胞衣(えな)の一部であるようには、まず、思われるのだが、但し、「薄毛ブカの生えた」とあるのは不審で、或いは、彼と一緒に生まれるはずだった双生児の二重体の奇形化して分離した奇形嚢腫中の断片かも知れない(以前に調べた際、頭皮と髪の毛だけのそれを医学雑誌で見たことがある)。謂わば、生れるべきであった者の人体の一部であれば、これは類感呪術としての強い咒物となることは、明白である。
「法者」法士。方術士。所謂、民間で病魔・悪魔退散等の祈禱を行う山伏や、民間の巫覡(ふげき)・巫女等を指す。]