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2023/04/30

大手拓次 「Fantastique な卵」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 Fantastique な卵

 

ひかりをおそうてくる思念の窓に

いま とぎすまされた影はこゑをはなち、

いろどりをくらます襞(ひだ)はのびひろげられ、

晝の日のこころを虹にする。

すがたは草の葉のなやみ、

ひかりのうへに ひかりをつみかさね、

いやさらに くらくする このほのぼのしさ。

 

ひかりは わたしの心に扇をあたヘ

微風をうちのめして

時のうへに ほそぼそとした峰をきづく。

 

[やぶちゃん注:「Fantastique」フランス語。音写は「フォンタスティーク」が近い。話し言葉では、「途方もない・信じられないほどの・素晴らしい・凄い」で、一般の形容詞としては「空想上の・架空の・幻想的な・不可思議な・怪奇幻想の」の意。お好きなものを、どうぞ! 私は「不思議な」では今一つで、「幻妖な」ぐらいかな。「フォンタスティークな」では本邦の外来語としては、既に安っぽいぺらぺらした語感に変質しているそれをダブらせるから、Non!

大手拓次 「靑い鐘のひびき」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 靑い鐘のひびき

 

そのあをじろさの

それとなく うつつににほふつばさのかげに

もれもれする葉かげの細い月のやうに

おまへの眼が かなしみにわらつてゐる

あからむ花のやうに また ひそまりしづむなげきの羽のやうに

やはらかく わたしの胸にときめきをせまり

くるしさのつぶてを かなたこなたのゆめにちらして

おまへは めぐる日のやうにもえてくる

まぢかに そよそよとゆれてくる 美しい眼の戀人よ

わたしのむねは 靑い鐘のひびきにぶるぶるとふるへてゐる

 

大手拓次 「心を化粧する」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 心を化粧する

 

らうらうと きこえる かすかなおと、

ひとへに さびはててゆく

この すべる ひとつの手のひらをもつて

あらはに ふるへる心を化粧する。

 

大手拓次 「時の香」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 時 の 香

 

この ひとわたりすぎさつた時のにほひは

うらさびれた奧庭のなかにちらばふ影

そのあしあともなく うしなはれる

まどろみの ねむりの花

 

[やぶちゃん注:ルビがないが、標題は「ときのかをり」と訓じておく。]

大手拓次 「しろい影」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 しろい影

 

なにものともしれない影におひかけられ

眼をひらいて あしもとにたたずみ

うつらうつらと むらさきの時をきざむただよひ

影はしろくあり

色もなくあり

葉ずゑにわらふ ひざしのにほひ

わたしのうしろから やさしくつもる このしろい影

地のなかにのびあがりゆく しろい笛のね

おしたわめられ なでやはめられ

そのあぎとのなかに のまれる現(うつつ)の花びら

 

「教訓百物語」始動 / 上卷(その1 百物語或いは『「化け物」とは何か』)

「教訓百物語」始動 / 上卷(その1 百物語或いは『「化け物」とは何か』)

[やぶちゃん注:「教訓百物語」は文化一二(一八一五)年三月に大坂で板行された。作者は村井由淸。所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」の校訂者太刀川清氏の「解題」によれば、『心学者のひとりと思われるが伝記は不明である』とある。

 底本は「広島大学図書館」公式サイト内の「教科書コレクション画像データベース」のこちらにある初版版本の画像をダウン・ロードして視認した。なお、表紙題箋は左上端が折れているため、字が判らないので省略した(同じく前掲「解題」には『題箋には「「教訓絵入百物語」』とあるのだが、「教」が確かに「敎」でないのか、「絵」は「繪」でよいのかが、判らないからである)。但し、上記の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)の本文をOCRで読み込み、加工データとした。

 本篇は、書名からして「敎」ではなく、現在と同じ「教」の字を用いているように、表記が略字形である箇所が、ままある。その辺りは注意して電子化するが、崩しで判断に迷った場合は、正字で示した。また、かなりの漢字に読みが添えてあるが、そこは、難読或いは読みが振れると判断したもののみに読みを添えた。

 また、本書はこの手の怪談集では、例外的で、上・下の巻以外(但し、それは、「続百物語怪談集成」でのことであって、実は底本では、その分かれ目さえもなく、ベタで繋がっているのである!!)には章立て・パート形式を採用しておらず、序もなく、本文は直にベタで続いているため(但し、冒頭には「百物語」の説明があって、それとなく序文っぽくはあり、また、教訓の和歌が、一種のブレイクとなって組み込まれてある)、私の判断で適切と思われる箇所で分割して示すこととし、オリジナルなそれらしい標題を番号の後に添えておいた

 さらに、挿絵が八枚(二幅セットで四種)あるが、底本は画像使用には許可が必要なので、やや全体に薄い箇所があるものの、視認には耐えるので、「続百物語怪談集成」のもの(太刀川氏蔵本底本)を読み込んで、トリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。いや、というより、底本の画像の状態が非常によいので、そちらを見られんことを強くお勧めするものではある。

 読み易さを考え、段落を成形し、句読点も「続百物語怪談集成」を参考にしつつも、追加・変更をし、記号も使用した。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化或いは「々」等に代えた。ママ注記(仮名遣の誤りが多い)は五月蠅いので、下附にした。

 なお、このブログ・カテゴリ「続・怪奇談集」なのであるが、一千件を越えたカテゴリ「怪奇談集」とリスト内で離れてしまっていて、私自身、何かと探すのに苦労するという、大いなるド阿呆状態に陥っているため、「怪奇談集Ⅱ」と変えることとする。

 

教訓百物語

 むかしから、『「百物がたり」すると、化物が出(で)る。』といふ事を云傳(いゝつた)へますが、是れは、はなはだ難有(ありがた)ひ[やぶちゃん注:ママ。]教(をしへ)なれど、是を実(まこと)にしる人が、なひ[やぶちゃん注:ママ。]。其(その)「百物がたり」の仕(し)やうはと、いへば、先(まづ)、大(をゝ[やぶちゃん注:ママ。])かはらけに、油を、一ぱい、さして、とうしんを、百すじ、入(いれ)、燈(とも)し置(をき[やぶちゃん注:ママ。])、さて、それから、こわひ[やぶちゃん注:ママ。]噺(はな)しを、一ッにしては、一筋、けし、又、一ッしては、一筋、けし、段々、次第に、けして、眞(ま)くらがりになると、それから、「化ものが、出る。」といふ。

 是れ、則ち、人の心の譬(たとへ)をいふたものじや。

 

Hyakumonogatari1

 

 先づ、天地(てんち)の變化(へんくわ)といふて、一切、万物(ばんぶつ)、みな、ばけざるものは、ない。

 先づ、春、夏、秋、冬と、ばける。四季の變化(うつりかは)るに、したがふて、草木さうもく)、花咲き、実のり、また、葉が落つる、盛へる、是れ、皆、ことごとく、化ものじやが、其中に、人は「萬物の長(ちやう)」といふて、身も心も、ともに、ばけものゝ根元じや。

 先づ、生れた時は、赤子(あかご)にて、身も心も、かわひ[やぶちゃん注:ママ。]らしいものじや。「やゝさん」と、いふ。

 扨(さて)、しばらくの間(ま)に、はや、步行(あるく)やうになると、色々の、わやくをすれば、人も「やゝさん」とはいはん、早(はや)、「ぼんさん」・「いとさん」と名が替るじや。[やぶちゃん注:「わやく」「枉惑(わうわく(おうわく):道義に反する言動によって人を惑わすこと)」の変化した語で、ここでは「悪ふざけ・悪戯(いたずら)」の意。]

 又、七ッにもなれば、はや、「七里(なゝさと)𢙣(にく)む」といふて、「由松(よしまつ)さん」の、「おぎんさん」のと、ばける。[やぶちゃん注:「七里(なゝさと)𢙣」(「惡」の異体字)「(にく)む」諺の「七(なな)つ七里(ななさと)憎まれる」がもとで、「数え七歳頃の男の子は悪戯盛りで、近くの村々の憎まれっ子になるということを言う成句。「七里」は数ではなく「多くの村々」の意。]

 それから、「息子殿」・「娘御(むすめご)」と、ばける間(ま)もなふ、「嫁どの」「聟樣」のと、化ける。

 又、間(ま)ものふ、「ぼん」が、「とゝ」と、いはれ、「嫁御」が、又、ばけて、「御内儀さん」の、「御家(をいへ[やぶちゃん注:ママ。])さん」の、「おかみさま」の、と、段々、ばけるじや。

 又、ばけよ[やぶちゃん注:ママ。「化け樣(やう)」の意。]が惡いと、「山の神」と、ばけるじや。

 こわひものナ。

 夫(それ)から、段々、白髮(しらが)が、はへ[やぶちゃん注:ママ。]て、しは[やぶちゃん注:「皺」。]がよる、齒がぬける。是れ、皆、自身、好んで、ばけるにも、あらず、しはをよせたり、白髮をこしらへ、目をかすめ、耳をば、遠(とふ)ふ[やぶちゃん注:ママ。聴力が減衰することを言う。]したり、歯を、ぬき、腰をかゞめ、とうどう[やぶちゃん注:「到頭(たうとう)」の誤記であろう。後半は底本では踊り字「〲」である。]、「祖父(ぢぢ)」・「祖母(ばば)」と、ばかさるゝ、此(この)ばかす次者(もの)を、しらず。[やぶちゃん注:「続百物語怪談集成」では、この最の箇所を「此ばかす者(もの)をしらず」と起こしているのだが、どうも、それだと、意味が通らないと私は思った。暫く底本の文字と睨めっこした。確かに「須」の字を崩したひらがな「す」には見える。しかし、これはまた、「次」の崩し字にも酷似すると感じた。「ぢぢ」「ばば」になったら、曾祖父母やその先代は、十把一絡げで「ぢぢ」「ばば」のまんまであるから、その「次」に化け物になって化かす「者」の存在を「知」らない、則ち、「次者」を「つぎのもの」と読んでみたのである。大方の御叱正を俟つものではある。

 〽あさおきて夕(ゆふ)べに顏はかはらねどいつの間にやら年は寄りけり

 〽はかなしや今朝(けさ)見し人の面影の立(たつ)はけむりの夕ぐれの空

 

フライング単発 甲子夜話卷之四十九 40 天狗、新尼をとる

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「天狗の情郞」(てんぐのかげま)の注に必要となったため、急遽、電子化する。特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も変更・追加し、鍵括弧記号も用い、段落も成形した。実は、これは二〇一七年に『柴田宵曲 妖異博物館 「天狗の誘拐」(2)』の注で電子化しているのだが、ここで、正規表現で仕切り直して示すこととした。但し、そこで私が述べた感じは、今も全く変わっていないので、転用してある。]

 

49-40 天狗、新尼をとる

 嵯峨天龍寺中《ちゆう》、瑞應院と云《いふ》より、六月の文通とて、印宗和尙、話《かた》る。

――天龍寺の領内、山本村と云に、尼庵《にあん》あり。「遠離庵《をんりあん》」と云。その庵に、年十九になる、初發心《しよほつしん》の尼あり。

 この三月十四日、哺時《ほじ》のほどより、尼、四、五人連《つれ》て、後山《うしろのやま》に蕨《わらび》を採《とり》にゆき、歸路には、散行《さんぎやう》して庵に入る。然るに、新尼《しんに》、ひとり、歸らず。人、不審して、

「狐狸のために惑はされしか。又は、災難に遭《あひ》しか。」

と、庵尼、うちよりて、祈禱・宿願せしに、明日に及《およん》でも、歸らず。

 その十七日の哺時比《ごろ》、隣村淸瀧村の樵者《きこり》、薪採《たきぎとり》にゆきたるに、深溪《ふかきたに》の邊《あたり》に、少尼《わかきあま》の、溪水《たにみづ》に衣《ころも》を濯《あら》ふ者、あり。

 顏容、芴然《こつぜん》たり。

 樵、

「かゝる山奧に、何《い》かにして、來《きた》れりや。」

と問へば、尼、

「我は、愛宕山《あたごやま》に籠居《こもりを》る者なり。」

と云。

 樵、あきれて、彼《か》れを、すかして、淸瀧村まで、つれ還り、

「定めし、かの庵の尼なるべし。」

と告《つげ》たれば、其夜、駕(かご)を遣はして、迎《むかへ》とりたり。

 尼、常は實體《じつてい》なる無口の性質《たち》なるが、何か、大言《だいげん》して罵《ののし》るゆゑ、「藤七」と呼ぶ俠氣(きやうき)なる者を招《まねき》て、これと對《たい》させたれば、尼、

「還《かへ》る、還る、」

云《いふ》て、

「去らば、飯を食せしめよ。」

と云ふ。

 乃《すなはち》、食を與へたれば、山盛なるを、三椀、食し終り、卽《すなはち》、仆《たふ》れたり。

 其後《そののち》は、狂亂なる體《てい》も止《やみ》て、一時《いつとき》ばかりたちたる故、最初よりのことを尋問《たづねとひ》たれば、

「蕨を採《とり》ゐたる中《うち》、年頃四十ばかりの僧、杖をつきたるが、

『此方《こなた》へ來るべし。』

と言ふ。その時、何となく貴《たふと》く覺へて、近寄りたれば、彼《かの》僧、

『この杖を、持《もち》候ヘ。』

と云て、又、

『眼を鿃《ふさ》ぐべし。』

と云しゆゑ、其《その》若《ごと》く爲《なし》たれば、暫しと覺へし間に、遠方に往《ゆき》たりと見へて、金殿・寶閣のある處に到り、

『此所は禁裡なり。』

と申し聞かせ、又、團子のやうなる物を、

『喰ふべし。』

とて與へたるゆゑ、食ひたる所、味、美《うま》くして、今に、口中に、その甘み殘りて忘られず、且《かつ》、少しも空腹なること、なし。

 又、僧の云ひしは、

『汝は、貞實なる者なれば、愛宕へ往きて籠《こも》らば、善き尼と、なるべし。追々《おひおひ》、諸方を見物さすべし。讚岐の金毘羅へも參詣さすべし。』

など、心好《こころよ》く申されたる。」

よし云《いひ》て、歸庵の翌日も、又、

「僧の御入《おはいり》じや。」

と云ゆゑ、見れども、餘人の目には、見へず。

 因《よつ》て、

「これ、天狗の所爲《しよゐ》。」

と云《いふ》に定め、新尼を親里《おやさと》に返し、庵をば、出《いだ》せし――

と、なり。

 或人、云ふ。

「是《これ》まで、天狗は、女人《によにん》は取行《とりゆ》かぬものなるが、世も澆季《げうき》に及びて、天狗も女人を愛することに成行《なりゆき》たるならんか。」

■やぶちゃんの呟き

「嵯峨天龍寺」「瑞應院」右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)にある臨済宗天龍寺派大本山霊亀山天龍寺(グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)。但し、塔頭「瑞應院」は現存しない。

「印宗和尙」不詳。

「天龍寺の領内、山本村」距離の近さからは、現在の亀岡市篠町山本であろうか。但し、幕末には亀山藩領であった。また、尼僧らの庵があったとすれば、殆んどが山林なので、この附近(グーグル・マップ・データ航空写真)に限られる。ロケーションとしては納得出来る。

「遠離庵」「をんりあん」と読んだ理由は「厭離」と音通するからである。

「哺時」は午後の非時(ひじ)である「晡時」。音は「ホジ」で申(さる)の刻。現在の午後四時前後を指す。但し、広く「日暮れ時」を言うので、ここは「ひぐれどき」と訓じている可能性もある(「東洋文庫」版ではそうルビを振る)。但し、私は、ここは尼寺でのシチュエーションであるからには、「晡」ではなく「哺時」(ホジ:食事の時間。本来は仏僧は午前中一回の食事しか摂らず、それを「斎(とき)」と称するが、それでは実際にはもたないので、午後に正規でない「非時」として晩飯を摂る)の意であると(同じく午後四時頃になる)考える。

「淸瀧村」現在の京都市右京区嵯峨清滝町(グーグル・マップ・データ航空写真)。旧山本村からは、相応な尾根を幾つも超えた場所ではある。

「芴然」の「芴」は「野菜」、特に「蕪(かぶら)の類」を指す。私は根茎の白さで、「青白い顔つき」ととる。

「澆季」現代仮名遣「ぎょうき」。「澆」は「軽薄」、「季」は「末」の意で、原義は「道徳が衰え、乱れた世」で「世も末(すえ)だ」と嘆息するところの「末世」(まっせい)を指す。単にフラットな「後の世・後世・末代」の意もあるが、ここで静山が言っているのは、鎖国で閉塞して爛れきった江戸時代の末期の世相を前者として捉えていたものでもあろう。

 最後に。私は、この怪異は擬似的なもののように思われる。則ち、『柴田宵曲 妖異博物館 「天狗の誘拐」(2)』の注で述べた通りで、寧ろ、佯狂(ようきょう)を疑うのである。善意に解釈するなら、この、なったばかりの若き尼は、実は尼になりたいなどとは思っていなかったか、同じ修行の尼僧らとの関係に於いて、実は激しいストレスを持っていたことから、一種の精神的な拘禁反応による心因性精神病から、ヒステリー症状を発し、突発的に山中へ遁走してしまい、保護されて庵に戻ってからも、病態が変化しただけで、遂には幻視(僧の来庵)を見るようになったのだ、と診断出来なくもないが、それより、全部が尼をやめるための大芝居だったと考えた方が、遙かに、ずっと、腑に落ちるのである静山が或る人の言葉を借りて言い添えた最後の皮肉も、実はそうした悪心を、この尼の心底に見たからではあるまいか、とも思われるのである。

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 五八番 お仙ケ淵

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

     五八番 お仙ケ淵

 

 小友(オトモ)村に上鮎買(《かみ》アユカヒ)と云ふ家があつた。此家の全盛の頃、お仙と云ふ下婢があつた。此女は每日々々後(ウシロ)の山へ往《い》つて小半時《こはんとき》も居て歸るのが癖であつたが、遂々《たうとう》そのまゝ還つて來なかつた。未だ乳放れのしない幼兒があるので、その夫は悲しみ且つ困つて、子供を背負つて山へ登り、

   お仙お仙、

   童(ワラシ)さ乳(チヽ)けてけろオ

と呼ぶと常の姿の儘で出て來て、子供に乳を與へた。お前が居ないと俺も此の子も困るから速(ハヤ)く家へ還つてくれと賴むと、もう物も言へなくなりたゞ頭を振るだけであつた。そのやうな事が四五日も續いた最後の日には、お仙の胸に蛇の鱗が生え出して居た。そして手眞似で、もう二度と此所へ來るな、いくら自分の子でも夫でも、段々と吾が性《しやう》が變つて來ると取つて食ひたくなると言ふやうで、形相《ぎやうさう》恐しく其所にある池の中に入つてしまつた。其後は夫も子供を連れて行かなくなつた。

 それから七日ばかり經つて大雨が降つて、大供水が出た時、お仙は立派な蛇體になつて、主家の前を流れて通り、そして小友川の水口(ミナグチ)の淵と云ふ淵に入《はい》ると、元のお仙の姿になつて水上《みなかみ》に立ち上つたが、忽ち淵底に身を隱して其所の主《ぬし》となつた。其所をお仙ケ淵と云ふ。

 お仙が子供に乳を與へた山を蛇洞といつて、今も古池がある。此話は餘り古い事ではないらしい。

 (大正十年十一月、同村松田新五郞氏からの報告に據れば、
 このお仙は物を云はぬやうになつたと云ふ事はなく立派な
 我が性を換へて蛇性《じやせい》となつたので、實子でも
 人間は食ひたくなる。それで以後決して當山に來るな云々
 と云つたと謂ふ。本話の分は松田龜太郞氏の母堂から聽い
 たのを記す。松田氏御報告分の六。)

[やぶちゃん注:この話、「遠野物語拾遺」の「三〇」に載るが、そこでは、「上鮎買」に相当する部分が『上鮎貝』となっており、『小友村字上鮎貝に、上鮎貝という家がある』と地名もその名であることが示されてあり、『上鮎貝の家の今の主人を浅倉源次郎という』とする。少なくとも地名は「ひなたGPS」のこちらを見られたいが、現存し、「鮎貝」が正しい。但し、家の名が「鮎買」と表記を変えていた可能性は十分にあり得ることではある(以上の引用は、所持する新潮文庫「遠野物語」(「再版」の「遠野物語拾遺」とのカップリング版・昭和四八(一九七三)年刊)に拠った)。いつもお世話になるdostoev氏のブログ『不思議空間「遠野」 ―「遠野物語」をwebせよ!―』のこちらで電子化されてあるので、比較されたい。

「小友村」現在の遠野市街の南西の山間部、岩手県遠野市小友町(おともちょう:グーグル・マップ・データ航空写真)。

「水口(ミナグチ)の淵」「お仙ケ淵」不詳。但し、同村の小友川と鷹鳥屋川(たかとりやかわ)の分岐地点の右岸に「厳龍神社」(グーグル・マップ・データ)がある。先のdostoev氏の記事でも、ローケーションとして、ここを挙げておられ、『おせんが蛟だとして、小友には古くから蛟を祀る神社がある。それは厳龍神社だ。御神体の不動岩の根元から湧き出る水は神水と云われ、岩にに刻まれている蛇腹の痕は、蛟(ミズチ)が昇降した痕であるという。そう氷口』(現在地名読み「すがぐち」:「ひなたGPS」のこちらを見ると、戦前の地図では「氷」には『シガ』のルビが振られている。これは訛りをそのまま振ったものに違いあるまい。面白い。なお、ここは「遠野遺産」指定の地域遺産「氷口御祝」(すがぐちいわい:祝宴に先立って歌われる式歌)で知られる)『も含め小友の信仰の中心は、この厳龍神社となる』とある。

「蛇洞」「じやほら」と読んでおく。山の位置は不詳。ちょっと目が留まったのは、「ひなたGPS」を調べていて見つけた「大洞」の地名(現在もある)と、その北の上にある630.8のピークであった。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 五七番 搗かずの臼

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

     五七番 搗かずの臼

 

 氣仙郡竹駒村無極寺《むごくじ》に殘つている譚である。昔此寺では每朝每朝未明から小僧どもに踏唐臼(スミカラウス)で米を搗かせた。或る時此邊では見慣れぬ美しい女が寺へ來て、どうかお住持樣に逢はせてクナされと言つた。何事かと思つて和尙樣が逢ふと、其女の云ふには、妾《わらは》は眞(ホント)に恥かしいが人間ではない。幾年となく此寺の眞下になつてゐる淵底に棲んで居る主《ぬし》である。妾は今身重《みおも》になつて臨月も最近になり產室《うぶや》に籠つて居るけれども、お寺で每朝每朝米を搗く杵《きね》の音が體に響いてたまらない。何卒慈悲をかけて身が二ツになるまで、米を搗く事を延ばしてはクナさらぬか、お願ひであると嘆くのであつた。和尙樣は快く其乞ひを入れて翌朝から臼を搗かぬと約束すると、女は喜んで其儘歸つて行つた。

 それから幾日も經たない或日の事亦其女がお寺に來たが、其時は玉の樣な赤兒《あかご》を抱いて居た。そして先日の禮を云ひ、一個の包み物を置いて還つた。後で開いて見ると、龍の玉、龍の爪、縫目なしの帷子《かたびら》の三品《みしな》であつた。之れは此の寺の寶物《はうもつ》として今でもある。さうして其の踏唐臼は永久に搗かずの臼として繩で縛つて置いた。

 (同村生れにて私の村へ聟に來た菊池田四郞翁の話。
 然《しか》し及川與惣治氏からの報告に據ると、氣
 仙沼の記事か何かからに據つて、無極寺のドウヅキ
 ツキの場合に女が出で來たと謂ふ風になつて、搗か
 ずの條は無い。蓋《けだ》し別譚であらうか、調査
 すれば直ぐ分る話でありながら、此所《ここ》には
 自分の蒐集した儘の物を書いて見る。)

[やぶちゃん注:「氣仙郡竹駒村無極寺」現在の岩手県陸前高田(りくぜんたかた)市竹駒町(たけこまちょう)下壺(しもつぼ)のここ(グーグル・マップ・データ)にある曹洞宗の寺院。弘安年間(一二七八年~一二八七年)の開山。但し、寺宝に以上の三品が現在もあるとする記載はネット上では見当たらない。

「踏唐臼(スミカラウス)」「ちくま文庫」版ではルビは『フミカラウス』とあるが、画像調整をして拡大して見ても、明かに「フ」ではなく「ス」である。誤植の可能性もあるが、暫くこのままとしておく。

「氣仙沼」現在の気仙沼市は陸前高田市の南に接する。

「ドウヅキツキ」「堂撞突き」か。『鐘「堂」(しょうどう)の鐘(かね)を「撞」(つ)くの役僧が)「突」(つ)くこと』の意か。]

大手拓次 「はるかに偲ぶこゑ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 はるかに偲ぶこゑ

 

このながれのなかに わたしはうかび

あわだつみづのなかに ひたひたとうかび

こゑのなかに咲く ひといろのにほひをもとめる

このくづれるこゑのとほざかり

また ちかづくこゑのつやめくほがらかさ

わたしはつつましい願ひのうちに

そのこゑのしぶきをしたふ

 

大手拓次 「靑くいろどられた瞼」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 靑くいろどられた瞼

 

やはらかさは

霧のなかにこもる月のひかり、

ふしめして とほくの心をよむおまへは

うごくともなく

うれひのなかに ゆれてゐる。

おまへの心にさはるために

わたしは そよ風のやうな手とならう。

 

大手拓次 「脣の刺」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 脣 の 刺

 

なにごともなく こゑをふまへて

うちかさなる なやみのそばをもとほりゆく。

 

うつろの花をゑがいて

旅から旅へおしせまる くちびるのとげ。

 

[やぶちゃん注:「もとほりゆく」「𢌞り行く」。「もとほる」は、多くの場合、「立つ」・「行く」・「這(は)ふ」などの連用形について「巡る・回(廻:まは)る」の意。「古事記」に既に見られる上代語である。]

大手拓次 「病氣の魚」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 病氣の魚

 

ひとつの 渚(なぎさ)のなかに暮れ、

はぎとられた 靑い鱗を鳴らしてかなしむ

病氣の魚(うを)の やさしい顏。

 

大手拓次 「白布にとりまかれた靈魂」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。

 標題の「はくふ」の読みは五月蠅いので、ポイントを下げた。]

 

 白布(はくふ)にとりまかれた靈魂

 

ひとむらの雜草の ながくのびたくびのほとりに、

まがまがしいうめきをたてつらねるのは

とげだつた くされかかつた魂の流れ身だ。

たえまもなく けむりかかる そのだらだらと呵責(さいな)まれた身體(からだ)ぢゆうに

よごれた白い布をまきつけて、

ただ ひとめのない時空のなかに

石のやうに おともなくたたずんでゐるのだ。

 

大手拓次 「陰鬱な羽根をひろげた烏蛇」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 陰鬱な羽根をひろげた烏蛇

 

なんといふこともない この怖ろしい戰慄のおとづれは

三つも四つもの眼(め)をもつた ある動物の肉體の襲擊のやうに

ひどく おしかぶさる重量を感じる。

咆哮してゐる夜陰の妖精どもをかりあつめて

一枚の翅のしたにしのばせ、

幻覺の太陽のやうに嫋嫋(でうでう)と口笛をひらく 鳥蛇の匍匐(ほふく)が

死の國の 白い音信(いんしん)をつたへてくる。

烏蛇の羽は未然の殺戮に醉(よ)つて轟轟(がうがう)とそよいでゐる。

 

[やぶちゃん注:「烏蛇」これはアオダイショウ(青大将:ナミヘビ科ナミヘビ亜科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora )、及び、シマヘビ(ナメラ属シマヘビ Elaphe quadrivirgata 。本種は普通は淡黄色の体色に四本の黒い縦縞模様が入る)種小名「 quadrivirgata 」は「四本の縞」の意)が、縞が全くない個体や頤の辺りが黄色い個体もおり、腹板が目立つ模様はなく、クリーム色・黄色・淡紅色を呈することもある]、或いはニホンマムシ(クサリヘビ(鎖蛇)科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii 。「マムシ」は恐らく有毒の広義の一部獣類を含む「蟲類」の強毒のチャンピオンという意味の「眞蟲」が語源と推定される)の孰れかを指す広汎な地方名である。「カラスヘビ」は文字通り、烏のように「黒い蛇」を通称総称するものであり、種名ではない。ここは私は毒蛇のニホンマムシをモデルにしつつ、羽を持った幻蛇としておく。メキシコ中央高原に栄えたトルテカ・アステカ両文明で信じられたハイブリッドの蛇神「ケツァルコアトル」(アステカ(ナワトル)語で「ケツァル鳥の羽を持つ蛇」。ケツァル(英語・スペイン語: quetzal)はメキシコ南部からパナマにかけての山岳地帯の森林に棲息し、鮮やかな色彩をもつ美しい鳥として知られるキヌバネドリ目或いはブッポウソウ目キヌバネドリ科ケツァール属ケツァール Pharomachrus mocinno :全長九十~百二十センチメートルにもなる大型の鳥で、頭から背にかけてが光沢のある濃緑色、腹部が鮮やかな赤色を呈する)や、中世ヨーロッパ(イギリスでは紋章の図柄とされた)の狂暴な幻獣「翼を持った蛇(ドラゴン)」「アムフィプテーレ(アンピプテラ:Amphiptere)がイメージとしてあるのだろう。

「嫋嫋」現代仮名遣「じょうじょう」。「裊裊」とも書く。①風がそよそよと吹くさま。②長くしなやかなさま。③ 音声が細く長く、尾を引くように響くさま。ここは、③の意が表で、裏で、「烏蛇」で②を、「口笛」「音信」で③を嗅がせた多重な形容表現である。]

大手拓次 「野を匍ひ步く耳」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

  

 野を匍ひ步く耳

 

葡萄のふさのやうにふんわりと ころもをきてうごき

金色(このじき)の木の實をうめて竪笛を吹きならす

この 旅路のなかに明滅する悲しい生きものよ、

うすい帽子の かすかにうかぶ

忘却のはてしない風景に

わたしの耳は 犬のやうにはひあるくのである。

 

2023/04/29

只野真葛 むかしばなし (61)

 

一、父樣、年わかの時分、專ら、師の如く被ㇾ成て、醫術御學被ㇾ成し人に、遠藤三省と云し町醫、有(あり)き。

 ある時、「病氣」のよし、引込(ひきこみ)ゐしを、尋られしに、三省、近くよび、聲をひそめ、いふ、

「此ほど、大きに仕(し)そこねし事、ありし。去(さる)かたの病人に、附子(ぶし)、少(すこし)、用ひ見たく思ひし故、生附子(せいぶし)を三分(ぶ)[やぶちゃん注:「一分」は〇・三八グラム。]、粉にして持行(もちゆき)、一分、試に吞(のま)せしに、其病人、卽死なり。家内、おどろき、疑ひ、『毒藥を飮せしならん。』と恨(うらみ)かゝりし故、其うたがひをなだめん爲、『全く、毒に非ず。いひわけのため、見る前にて吞てみするぞ。』と云(いひ)さま、はたきのみて、立(たち)しが、門を出(いづ)る比より、其腹痛、事、こらい[やぶちゃん注:ママ。]がたく、やうやう、床へはひ入(いり)しが、如ㇾ此(かくのごと)し。わづかの附子の爲、すでに死んとせしなり。必々(かならずかならず)、附子と云(いふ)もの、おろそかに思ふべからず。是は、醫のはづる事故、他言無用なり。」

と、をしへかたりしとぞ。

 とかくする内、外より、人音(ひとおと)して、

「御不快のよし、御見舞申(まうす)。」

とて、入來(いりき)たるは、兼て懇意にせし老醫なりし。

 一卜間へ通り、容子、見て、藥法を聞(きき)、

「それでは、行(ゆく)まへ[やぶちゃん注:ママ。]。附子さ、附子さ。」

と云を聞(きき)、

「アヽ、附子は、いやだ。」

と、病人、小聲にいひしを、父樣、きゝし時、

「をかしさ、こらへられざりし。」

と被ㇾ仰し。

 此人は、元來、堀田相模守樣の百姓にて、數代(すだい)、富家なりしを、三省、書學に達し、醫を好(このみ)て、百姓の人別(にんべつ)をも拔けずに、髮をそり、江戶に出張して、樂に醫をせし人なりしが、いかゞしてか、地頭に深く、にくまれて、沙汰なしに、三省が持山(もちやま)を伐りあらされしとぞ。

[やぶちゃん注:「堀田相模守」堀田正亮(正徳二(一七一二)年~宝暦一一(一七六一)年)。老中首座(寛延二(一七四九)年就任)。出羽国山形藩三代藩主・下総国佐倉藩初代藩主。因みに真葛の父工藤平助は享保一九(一七三四)年生まれで、宝暦四(一七五四)年、二十一歳で工藤家の家督を継ぐと、その頃から医師となっていた。]

 妻子、あわてゝ、此由(このよし)、三省につげしかば、いそぎ、下りて、さまざま申上しかども、取上(とりあげ)なかりしとぞ。

 其内に、江戶より、病用、しきりに申來りし故、先(まづ)、そのまゝにして、江戶へ行し跡にて、此度(このたび)は、先祖よりある墓所を、ほり穿(うが)ち、石碑を打碎(うちくだ)きなどして、傍若無人の振舞なりしとぞ。

 妻子、又、この由を、つげしかば、

「最早、堪忍成難(なりがた)し。めざす敵(かたき)は相模殿よ。」

と、いきどほり、公儀へ、其由、訴へ申上(まふしあげ)しとぞ。

 かくと聞(きく)より、堀田屋敷には、とりかたを差(さし)むけて、三省を召捕(めしとり)しとぞ。

 公儀よりは、

「三省は、一度、公儀へ願(ねがひ)申上しものなれば、このかた御牢入(ごらういり)と成(なる)、しかるべし。」

と被ㇾ仰しを、相模樣にては、

「大切の召人(めしうど)、もし、御取(おとり)にがし有(あり)ては、ならず。」

とて出されざりしを、重(かさね)て公儀より申來る。

「それは、過言なるべし。公儀御牢、何の麁略(そりやく)の有べき。」

と、いはれし故、差出(さしいだ)され、三省、公儀牢入と成しとぞ。

 公儀の御吟味は、

「三省が申上るは、一々、尤なり。地頭は、むたいなり。さる故、地頭の手にあらば、三省、不慮の死も、せんか。」

と、かくべつの御いたわり[やぶちゃん注:ママ。]にて、公儀へ取上られしなり。

 此あたり、金森樣といふ十萬石の大名、同じ百姓さわぎにて、つぶれし故、いかに尤の筋にても、何(なにがし)の守(かみ)の勤られし時、十萬石の大名、幾けん潰れしと、いはるゝ事を、其世(そのせい)の老中方(がた)、遠慮、有(あり)て、三省、勝(かち)には、なされ難く、しばらく御吟味の事なりしに、三省、御牢入の日より、水瀉(すいしや)、絕食にて、大病なり。日をヘて、よわるに付(つき)、保養のため、下宿させられしとぞ。

[やぶちゃん注:「水瀉」水様性の激烈な下痢をすること。]

 父樣は、師の如く被ㇾ成し人故、下宿まで御尋被ㇾ成しに、

「肉の落し事、人無(ひとなき)床(とこ)の如く、重病のていなりし。」

とぞ。

「いかゞしたる。」

と御尋有しに、

「扨(さて)、ふしぎなる事、あり。先達(せんだつ)て、附子、わづか、用(もちひ)て、已に死(しぬ)べく思ひし故、『命を絕(たた)んに、宜しきもの。』と、おもひて有しほどに、捕方(とりかた)來りし時、附子の粉を、壱包、下帶にはさみて出(いで)しに、牢入後、吞(のみ)たりしに、只、一通の水瀉に成(なり)て、少しも、腹中にとゞまらず、其後(のち)、食をたちて、病氣のていにもてなせども、心中、恙(つつが)なし。いまだ、人の試みぬ事を、我、試みたり。年わかき人の修行の爲、傳(つたへ)たく思(おもひ)しに、能(よく)も尋ねたり。」

とて、悅(よろこび)しとぞ。

「少しなれば、あたり多ければ、さわらぬ所、よく工夫、有べし。」

とて別れし後、大病人とおもひ、番人の、心ゆるせしを見すまして、夜中、ひそかにおき出、墨、くろぐろと、押(おし)すり、枕上の障子に、

  大家さんわしや遠藤へ行程に跡をゆるりと尋三省(たづねさんせい)

と、書(かき)て、行衞なく成しとぞ。

 相模樣よりは、

「それ見たか。申せしが、たがわず、取にがされたり。早速、尋ねいださるゝか、又、御役(おやく)退(しりぞ)くか、ニッ壹ッたるべし。」

と、火の付(つく)よふに[やぶちゃん注:ママ、]、催促なり。

 町奉行衆、當惑にて、草を分(わけ)て御せんぎ嚴しかりしが、終(つひ)に、行衞は、知れざりし、となり。

 三省が弟子に、よほど名有(なある)町醫、有(あり)しを、奉行所へ召(めし)て、三省が事、御尋ねありしに、少しもおくれたる色なく、詳(つまびらか)に申上たりしとぞ。

「其方宅へは、立(たち)よらざりしや。」

と被ㇾ仰しに、

「私事(わたくしこと)は、市中に住居仕(すまゐつかまつり)候へば、左樣の忍(しのび)もの、立よるべくも候はず。」

「いづくにむきて、行(ゆき)しや。」

と有しに、

「八王寺[やぶちゃん注:ママ。]に享宇と申(まうす)弟子御座候間、山を越、是が方(かた)をさして參りしならん。同人事は、老母御坐候が、孝子にて候得(さうらえ)ば、内へは入申(いりまうす)まじ。されど、師弟のよしみを以て、門口にて、茶漬めしをふるまふほどの事は致し申べし。それより三里ばかりへだちて、弟子の候が、金持にて、小馬鹿なる者に候へば、是が方に、四、五日、滯留、身體を養ひて、金にても借り候はゞ、乍ㇾ憚(はばかりながら)、御手には入申(いりまうす)まじ。」

と申上しが、後、御たゞし有しに、申上候に、少しも、たがはざりしとぞ。

「かほどに口聞(くちきく)町醫も、今は、なし。」

と被ㇾ仰し。

 父樣にも、下宿迄、御尋被ㇾ成し故、御疑(おうたがひ)かゝりしなるべし。其比、折々、おもてより、ふと、人の入來(いりきたり)ては、下男・下女の宿を聞(きき)し、となり。誰(たれ)も誠(まこと)の事をいひ聞(きこへ)しものもなかりしが、壱人、りちぎの女有て、誠にかたりしに、翌日、

「母、病氣の由、三、四日、御暇(おいとま)いたゞきたし。」

とて、願來(ねがひきた)りし故、つかはされしに、其女、歸りきて、母、病氣と申(まうす)は、僞(いつはり)、まことは、此間かけ落(おち)せし三省とやらいふ人の事、

「知りたるか。」

と御尋ねの爲、町奉行所へ出(だ)されしなりし。

「あらおそろし、おそろし。」

とて、色も靑く成りてゐたりしとぞ。

 外の者も、顏、見合(みあはせ)、

「能(よく)ぞ、宿をかたらざりし。」

と云合(いひあ)ひしとぞ。

[やぶちゃん注:「遠藤三省」不詳。ただ、幕末から明治初期の蘭方医で、医学塾「順天堂」第二代堂主で、大学東校(東大医学部の前身)初代校長などを歴任した佐藤尚中(しょうちゅう 文政一〇(一八二七)年~明治一五(一八八二)年)の顕彰碑(都立谷中霊園にある)のサイトの「碑石の裏面(建碑寄付者、発起人、幹事氏名)」のリストに、「遠藤三省」の名が見える。医名を継いだ後代の弟子か?

「附子」モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum のトリカブト類。「ぶす」でもよいが、通常は生薬ではなく、毒物としてのそれを指す場合に「ぶす」と呼ぶので、ここは「ぶし」と読んでおくべきであろう。本邦には約三十種が自生する。漢方ではトリカブト属の塊根を「附子」(ぶし)と称して薬用にする。本来は、塊根の子根(しこん)を「附子」と称するほか、「親」の部分は「烏頭」(うず)、また、子根の付かない単体の塊根を「天雄」(てんゆう)と称し、それぞれ。運用法が違う。強心作用・鎮痛作用があり、他に皮膚温上昇作用・末梢血管拡張作用による血液循環改善作用を持つ。しかし、毒性が強いため(主成分はアコニチン(aconitine)で、経口から摂取後数分で死亡する即効性があり、解毒剤はない)、附子をそのまま生薬として用いることは殆んどなく、「修治」と呼ばれる弱毒化処理が行われる。]

只野真葛 むかしばなし (60)

 

一、村田春海(はるみ)が父は、ほしか問屋にて、數代(すだい)の富家なり。代々、風流人なりし故、兄弟共、眞淵の弟子とせしなり。父なくなりて後、兄も三十の年にて、子もなくて病死す。春海は公儀御連哥師(れんがし)の家を繼(つぎ)しが、兄のなくなりし時、其家を捨て、町家をつぎしなり。生付(うまれるき)、かやうに分(ぶん)なき所有(あり)し人なり。其心から[やぶちゃん注:底本は「其心がから」。「日本庶民生活史料集成」で訂した。]、富家をも、また、潰して、流浪したり。

「大家をつぶせし人のしわざは、かくべつの事なり。」

と、父樣、被ㇾ仰し。

 たゞ壱(ひとつ)を聞(きく)に、吉原晝三(よしはらのちうさん)に、なじみ、通ひて、根引(ねびき)のつもりに成り、手付金二百兩、渡せしに、其後、音づれなかりしを、

『一日、二日は、何かとゞこほる事もや。』

と思(おもひ)て有(あり)しに、あまり程ふる故、人をやりてきかせたれば、

「此ほど、よきつれ有(あり)て、熱海へ湯治に行(ゆき)し。」

とて、留守なり。二百兩を、すて金にして、かまはぬ心なり。されば、哥も、人がら、よかりしなり。

 濱町のかり宅の近所に、春海、親類有し故、そこにかゝりて有しが、餘り、もの不自由のてい故、昔、父の代に、さる大名に、用金、多くいだせしを、返濟なかりし故、ひとつは家もつぶれし事と、段々、申(まうし)たて、

「俗名村田平四郞儀、只今、流浪致居候間、何卒御合力金(かふりききん)いたゞき度(たく)。」

と願(ねがひ)て、三十兩被ㇾ下はづ[やぶちゃん注:ママ。]にて有しが、

「受取(うけとる)時は、同人自身に出(いづ)べし。」

と、役人、いはれしとぞ。

「かしこまりし。」

とて、歸り、

「明後日は、ぜひぜひ受取にでられよ。」

と云(いひ)しに、其日に成(なり)て、

「いやなり。」

とて出ず。

「其元(そこもと)の爲、三度、五度、やしきへ通ひ、漸々(やうやう)成難(なりがた)き事を、こしらい[やぶちゃん注:ママ。]しに、餘りしき事なり。」

と腹立(はらたてれ)ば、

「心ざしは、かたじけなし。其金、得たるも、同じ事なり。されど、三拾兩ばかりの金、受取に、頭を下て出る事、何とも、はづかし。ゆるし給(たまは)れ。」

とて、出ざりしとなり。其親類、父樣に逢ふて、

「ケ樣の人故(ゆゑ)、こまる。」

と咄したりとぞ。

[やぶちゃん注:「春海」「只野眞葛 いそづたひ」で既注の、国文学者で歌人の村田春海(延享三(一七四六)年~文化八(一八一一)年)。

「ほしか」「干鰯」江戸時代、鰊(にしん)・鰯(いわし)などの乾燥肥料で、油粕とともに金肥(購入肥料)の中心商品作物で、特に木綿栽培の肥料として多く利用された。初めは九州・北国ものが多かったが、元禄(一六八八〜一七〇四年)頃から、九十九里や三陸方面で発達し、幕末は松前物が支配し、商業的農業の発達を齎した(「旺文社日本史事典」に拠った)。

「晝三」前回に既出既注

「根引」「身請」(みうけ)に同じ。芸娼妓(げいしようぎ)を落籍させることを言う。

「こしらいしに、餘りしき事なり」「無理をして、ようやっと、かく仕舞わしてやったのに、ここに至って、余りのことじゃないか?! どういう料簡かッツ?!」。怒ったのは、その手筈をわざわざやってやった春海の親類。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート ヒジリと云ふ語

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、「選集」標題後の参照附記の右に『柳田国男「聖という部落」参照』とある。これは、先に電子化した「柳田國男 鉢叩きと其杖」を含む連載の直前の一章「聖と云ふ部落」を指す。初出は『郷土研究』大正三(一九一四)年八月初出で、後の著作集では「毛坊主考」の一篇として収録されている。当該の柳田の論考は、国立国会図書館デジタルコレクションの「本登録」で見られる「定本柳田国男集」第九巻(一九六二年筑摩書房刊)のここから視認出来るので見られたい。今までのように、それを電子化すると、結局、一日仕事になるので、やらない。悪しからず。]

 

     ヒジリと云ふ語 (大正四年四月『鄕土硏究』第三卷第二號)

          (『鄕土硏究』第二卷第六號三二七頁參照)

 柳田君の論文に、小山田與淸《ともきよ》が『日知(ひとり)は日之食國(ひのをすくに)を知看(しろしめ)す日神(ひのかみ)に比したる美稱也」と云ふは、聖帝(せいてい)と書いてヒジリノミカド抔と訓んだ場合には當嵌《あてはま》るが、「日本紀」の古訓に、『大人』、又、『仙衆』を『ヒジリ』と讀み、後に、『人丸は歌の聖(ひじり)』抔云ふに適用し得ぬ、と有る。

[やぶちゃん注:以上は、冒頭注の当該書のここの段落冒頭『ヒジリと云ふ語が佛敎の中で發生したものでないことは、其語義の方からも證明し得るやうに思ふ。……』以下に出る。

「小山田與淸」国学者・故実家であった小山田与清(天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)。号は松屋(まつのや)。江戸の高田氏の養子となり、漕運業を営み、後に隠居して小山田の本姓に復し、学問に専念した。村田春海門下であるが、漢籍にも造詣が深く、博覧を以って知られ、特に考証に力を尽した。蔵書五万巻に及び、「群書捜索目録」の編纂に心血を注いだ。平田篤胤・伴信友とともに春海・加藤千蔭以後の大家と称される。「考証随筆松屋筆記」(文化末年(一八一八)頃から弘化二年(一八四五)頃までの約三〇年間に和漢古今の書から問題となる章節を抜き書きし、考証評論を加えたもの。元は百二十巻あったが、現在知られているものは八十四巻)が著名(概ね「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)であるが、以上の引用は柳田論考の方に、これは孫引きで、『燕居雜話引十六夜日記抄』を出典とする。「燕居雜話」(天保八(一八三七)年自序)は江戸後期の儒者日尾荊山(ひおけいざん:本名は瑜(「ゆ」と読んでおく)の考証随筆。所持する吉川弘文館随筆大成版で確認した。「卷之四」の「聖字和訓」である。短いので、国立国会図書館デジタルコレクションの正字表現の「日本隨筆大成 卷八」(昭和二(一九二七)年)所収の当該部を視認して以下に示す。【 】は底本では二行割注。

   *

   ○聖字和訓

小山田與淸が、十六夜日記抄に、日知(ヒシリ)は日之食國を知看(シロシメ)す日神に比したる美稱なり。神武紀己未の年に、大人【ヒジリ、】垂仁紀九十九年に、神仙【ヒジリ、】云々。また聖帝【ヒジリノミカド、】云々。續日本紀十九に、聖之御子曹云々。萬一に日知之御世徒云々。此外いと多かり。歌仙にいへるは、古今の序に、柿本人丸なむうたのひじりなりけると有といひて、ひじりといふことは、日ノ神に比したるといへるは如何にぞや。[やぶちゃん注:以下は底本には『頭書』とある。鍵括弧閉じるまでが、それ。]瑜おもヘらく、是壯歲忽々の考删なるべし。」こは生知の聖の義にして、獨知の略語也。まして歌の名人なればとて、かけまくも賢き日神にたぐへ奉るべきことかは、萬葉に日知とかけるは、訓を借りたるにて、例のことなり。宇義もていふべきことにあらぬぞかし。

   *

この「壯歲忽々」(さうさいこつこつ)「の考删」(かうさつ)というのは、「壮年の頃の早まった思い込み」という意であろう。]

 予、「古事記」を見るに、故其大年神。娶二神活須毘神之女伊怒比賣一、生二子大國御魂神一、次韓神。次曾富理神、次白日神、次聖神。〔故(かれ)、其の大年神(おほとしのかみ)、神活須毘神(かむいくすびのかみ)の女(むすめ)、伊怒比賣(いのひめ)を娶(めと)りて生める子は、大國御魂神(おほくにみたまのかみ)、次に韓神(からのかみ)、次に曾富理神(そほりのかみ)、次に白日神(しらひのかみ)、次に聖神(ひじりのかみ)。〕本居宣長の「記傳」十二に、『白日神の「白」の字は「向」にて「牟加比(むかひ)」なるべし。』とて、山城の向日明神《むかひのみやうじん》などを傍證として擧居《あげを》る。「古事記」に載せた同父兄弟の諸神の事功、相類《あひるゐ》せるが多い。大年神(おほとしのおかみ)は穀(たなつもの)の神で、向日神(むかひのかみ)と聖神(ひじりのかみ)の外に、園(その)の神、山里(やまさと)開(ひら)いた神、竈(かまど)の神、井の神、田地の神等を生んだ。乃《すなは》ち其兄弟が多くは田宅に關するから、類推すると、件《くだん》の二神も村落開設に功有《あつ》た神だらう。「記傳」卷六に、『上代日向(ひむか)ふ所を賞稱(ほめたゝ)へたる事多し』と云ひ、卷十五、『此地』『朝日之直刺(たゞさす)國。夕日之日照(ひてる)國』〔此の地は朝日の直(た)だ刺す國、夕日の日照る國」〕の傳に、龍田風神祭祝詞《たつたのかぜのかみのまつりのりと》「吾宮は朝日の日向(ひむか)ふ處、夕日の日隱(ひかく)る處」等の古辭を引いて、古く、或は「日向(ひなた)」或は「日影(ひかげ)」を讃《ほめ》た由、いひ、「萬葉集」に、家や地所を詠む迚《とて》、「日に向ふ」とか、「日に背《そむ》く」とか言うたのが、屢ば見ゆ。日當りは耕作畜牧に大影響有るのみならず、家事經濟未熟の世には、家居《いへゐ》と健康にも、大利害を及ぼせば、尤も注意を要した筈だ。又。日景(ひあし)の方向と、增減を見て、季節・時日を知ること、今も、田舍に少なからぬ。隨つて察すれば、頒曆(はんれき)抔、夢にも行《おこなは》れぬ世には、此點に注意して、宮や塚を立て、其影を觀て、略《ほぼ》時節を知《しつ》た處も本邦に有ただらう。されば、向日神(むかひのかみ)は、日の方向から、家相・地相と曆日を察するを司つた神と愚考す(「エンサイクロペジア・ブリタニカ」十一板、卷廿、オリエンテイションの條、サー・ノルマン・ロキャー「ストーンヘンジ」參看)。

[やぶちゃん注:『本居宣長の「記傳」十二に、『白日神の「白」の字は「向」にて「牟加比(むかひ)」なるべし。』とて、……』国立国会図書館デジタルコレクションの「古事記傳」(向山武男校訂・昭和五(一九三〇)年日本名著刊行会刊)の「第二」のここ(左ページ)で当該部が視認出来る。

「卷十五、『此地』『朝日之直刺(たゞさす)國。夕日之日照(ひてる)國』の傳に、龍田風神祭祝詞……」同前の著書のここで視認出来る。右ページの「○夕日之照國」の注の中に出現する。

『「エンサイクロペジア・ブリタニカ」十一板、卷廿、オリエンテイションの條』「Internet archive」の原本のここから(右ページ右段下方)から視認出来る。

『サー・ノルマン・ロキャー「ストーンヘンジ」』イギリスの天文学者ジョセフ・ノーマン・ロッキャー(Sir Joseph Norman Lockyer 一八三六年~一九二〇年)が一九〇六年に刊行した‘Stonehenge, and Other British Monuments Astronomically Considered’ (ストーンヘンジ、天文学的に考慮されたそれ及びその他のイギリスの石造建造物)。幸いなことに、英文サイトこちらで、電子化されたものが分割して読めるようになっている。]

 予は、柳田君の前に、君同樣、「ヒジリは『日を知る人』、卽ち、漢語で書けば『日者(につしや)』と云ふ語抔が、其初《はじめ》の意味。」と解いた人有るを、聞《きか》ず。隨《したがつ》て、柳田君の此解說を近來の大發明と感じ入り、其から類推して向日神(むかひのかみ)を上の如く釋《とい》たのだ。而して、向日神が、日の方角を察して家・地・曆日を知る神で、其弟、聖神(ひじりのかみ)は、日の次第で善惡を知つた神で、頗る似寄つた職を兄弟が司つたものに相違無い。日の次第や善惡を知悉する、乃《すなは》ち、曆と占《うらなひ》とを兼ねた者を聖人(せいじん)とするは、柳田君が擧げた新羅王の外に多々例有り。支那の上古、三皇五帝は、多く律・曆制定に功有《あり》て聖人たり。後代にも、刑和璞(けいくわはく)、曆の名人僧一行(いちぎよう)を、聖人ならんと歎じた事、「酉陽雜俎」に見ゆ。其頃の曆は、孰れも曆と占を混《こん》じた者だ。ヨセフスの語に、上帝、大洪水前の諸聖父(パトリアルクス)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]を長生せしめたは、其發明した幾何學と星學を成就せしむる爲で、六百年歷《へ》て、一運、過《すぐ》るから、せめて六百歲生きねば此成就は望まれぬに由《よ》ると云《いつ》たのも、是等の智識富める者を、神異の人とするに出たのだ(一八七七年板、フラムマリオン「星學譚奇(アストロノミカル・ミツス)」二五頁)。プレスコットの「祕魯征服史(ヒストリー・オヴ・ゼ・コンクエスト・オヴ・ペルー)」一卷四章に、古祕魯《ペルー》國人の曆學が、甚だ未熟だつた事を評して、古墨西哥(こメキシコ)の僧は若干の曆學智識に基いて星占術を立て、他から神聖らしく見られたが、祕魯の僧徒は、悉く、日の後裔と仰がるゝ貴族の出身ばかりだつたので、別段、星占術(アストロロギー)で身に威光を添ふるを要せなんだからだ、と說いた。向日神や聖神が、天照大神の末でなくて、素盞嗚尊《すさのをのみこと》の胤(すゑ)だつたのも、古祕魯同前の理由に出たものか。

[やぶちゃん注:「柳田君が擧げた新羅王」冒頭注の当該書のここの左ページ十行目下方以降に記されてある。

『刑和璞(けいくわはく)、曆の名人僧一行(いちぎよう)を、聖人ならんと歎じた事、「酉陽雜俎」に見ゆ』「中國哲學書電子化計劃」のこちらの二行目から影印本原文が視認出来る。第五巻の「怪術」パートにある。但し、この部分は長い話の一節で、開始箇所は、この後ろから二行目である。所持する今村与志雄訳注の「東洋文庫」版(一九八〇年平凡社刊)の同書の巻一の注によれば、「刑和璞」(そちらでは、「刑」ではなく「邢」である)は盛唐の道士で、『人の寿命を予知する能力に恵まれていた』とあり、「一行」(六七三年~七二七年)については、僧で科学者。特に暦象・陰陽五行に詳しかったため、玄宗皇帝の治世の開元暦を作っている。この僧は我々の想像を絶する有名人で、『現在、中国古代の代表的科学者のひとりとして、郵便切手(一九六二年一二月一日発行)にもなっている』(この切手は彼の中文ウィキに掲げられてある)。『一行については、唐代、一種の magician として目されていたのか、超現実的な奇異な逸話が多く語りつがれていた』とあった。本邦でも「真言八祖」(伝持の八祖)の一人に数えられている。

「聖父(パトリアルクス)」カタカナはラテン語。“patriárkhês”。人類の父と考えられている、聖書初期の登場人物の名でもあり、現在は「総大司教」を指す。

『一八七七年板、フラムマリオン「星學譚奇(アストロノミカル・ミツス)」二五頁)』これは、書誌データが正しくない。確かに、原著はフランスの天文学者で作家でもあったニコラ・カミーユ・フラマリオン(Nicolas Camille Flammarion 一八四二年~一九二五年)が書いた‘Histoire du ciel’(「天国の歴史」:一八七二年刊)ものだが、これはそれをもとに、イギリスの地質学者で、聖公会聖職者でもあったジョン・フレデリック・ブレイク(John Frederick Blake 一八三九年~一九〇六年)が英語に翻案した‘Astronomical myths : based on Flammarion's History of the heavens’ (「天文学の神話――フラマリオンの「天国の歴史」に基づく」)である。「Internet archive」のこちらでブレイクの原本が見られ、ここが当該部である。

『プレスコットの「祕魯征服史(ヒストリー・オヴ・ゼ・コンクエスト・オヴ・ペルー)」一卷四章』底本ばかりでなく、「選集」も書名を、それぞれ「祕魯制服史」「秘魯制服史」とやらかしているのには呆れ果てた。同書はアメリカの歴史家で、特にルネッサンス後期のスペインとスペイン帝国初期を専門としたウィリアム・ヒックリング・プレスコット(William Hickling Prescott 一七九六年~一八五九年)が書いた‘The Conquest of Peru’(「ペルーの征服」:一八四七年刊)。「Internet archive」の一九〇八年版だが、当該章はここから。]

 兎に角ヒジリは日知(ひじり)で、曆書無い代には、中々、尊ばれた事、今日、田舍で「槌《つち》の入り」とか、「八專(はつせん)が來た」とか、心得た者は、梅雨(つゆ)明かぬに、糊を拵へず、種蒔き時を間違へぬほどの益は、必ず、有り。是等の心得無き者は、每々《たびたび》大齟齬(おほすかまた)をやらかすので、察すべし。是を以て、「古事記」の筆者、業(すで)にヒジリに「聖」の字を宛てたは、孔子以後、聖人と無し抔いふ儒說《じゆせつ》から見たら、餘りの事だらうが、常人に勝れた物知りを賢人と見立てて、拔群の賢人を聖と做《みな》す眼には、物知つたばかりの賢人の上に、特種の神智を備へたらしい日者を聖と立てたは尤もな仕方だ。扨、其日知りの道を司るとか、始めたとかの意で、聖神を立てたのだろ。近い話は、英語や佛語の Sage を聖人と譯した人も有るが、原(もと)拉丁《ラテン》の Sapiens(博識(ものしり))から出たので、聖賢孰れにも充て得る。英語で Wise Man と釋(しやく)するから、先《まづ》は賢人に當《あた》る。然《しか》るに、英語で Wise Woman 、佛語で Sage Femme 、孰れも、字の儘では、「賢女」(若《もし》くは聖女)だが、前者は「巫女(みこ)」又は「卜女(うらなひをんな)」、又、「魔術女」、後者は「產婆」に限られた名と成居《なりを》る。是はラテン語 Saga 、複數で Sagae が、產婆・卜女・媒女《なこうどをんな》・香具(かうぐ)媚藥賣(ほれぐすりう)り・墮胎師(こおろし)等に涉《わた》れる總名で、老衰した娼妓抔が、此等の如何《いかが》はしい藝道なら、何でも知《しつ》て居《をつ》た「怪《けし》しからぬ物知り女」を指した名で、其を「賢女」、又、「聖女」と英・佛に譯した所が、「日知り」を「聖」に充《あて》た「古事記」筆者の用意に似て居《を》る(一八五一年板、ジュフール「賣靨史(イストア・ド・ラ・プロスチチユシヨン)」二卷一二五頁參取)。

[やぶちゃん注:『一八五一年板、ジュフール「賣靨史(イストア・ド・ラ・プロスチチユシヨン)」』不詳。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 五六番 母の眼玉

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから(本文はそこで終わりだが、次のコマに附記がある)。]

 

     五六番 母の眼玉

 

 ある山里に、ひどく仲の良い夫婦があつた。別段何の不自由なこともなく暮しておつたが、ただ夫婦の間に子供の無いのが不足だつた。そのうちにあれ程丈夫であつた妻がフトした風邪がもとで死んでしまつた。

 夫は泣く泣く野邊の送りを濟ませた。けれどもそれからは全く氣が拔けたやうに、ぼん

やりとして月日を送つて居た。すると或日のこと、何處から來たのか、若い美しい姉樣が來て一夜の宿を貸してクナさいと賴んだ。男も淋しくて居た時だから、入つて泊つてもよいと云つた。其晚女は泊つて、翌朝になつたが立つて行くフウもなく、いろいろと家の仕事をして居た。其翌日も女はさうして居るので、何時の間にか二人は夫婦になつてしまつた。

 月日は經つて女は懷姙をしたと云つた。やがて生み月になつた。女が夫に云ふには、妾《わらは》のお產の時には圍《かこひ》を造つてクナさい。そして妾が產の紐を解いて出て來るまで、產室の中を決して決して覗いて見ないでクナさいと諄《くど》く諄く云つて賴んだ。夫はそれを承知して、俄に圍を造つて其中に女房を入れた。女はなほも繰返し繰返し決して此内を覗いて見てクナさるなと念に念を押して產室に入つた。

 男は初めのうちは女の云ふことを聽いて產室の中を見ないで居たが、一日經ち二日經ちするうちに、どうしても内の樣子が心配でたまらず、ハテ女房は今頃は子供を生んだか、それとも病んで苦しんで居るのではないかと思つて、女には決して氣づかれないやうに、コソツと忍び寄つて行つて、靜かに圍の板の小さな節穴コから窃《そ》つと内の樣子を覗いて見た。すると中には一疋の恐ろしい恐ろしい大蛇が赤子を眞中に置いてとぐろを卷いて居た。それを見て男はあまりの恐ろしさに思わず聲を立てやう[やぶちゃん注:ママ。]としたが、否々《いやいや》こゝで心を落着けなくてはならぬと思つて、なほまた例へどんな魔性の物だとは云へ、一度は夫婦の契りを結んだものだもの、あゝ俺は見ては惡い物を見てしまつたと後悔して、そのまゝ又そつと足音を立てないようにして母屋《おもや》の方に引ツ返して來て默つて居た。

 その中《うち》に七日の枕下げも過ぎたから、女は圍の中から綺麗な男の子を抱いて出て來た。そして暫時《しばらく》さめざめと泣いて居たが、妾はお前と末永く夫婦の契りを結びたいと思つて子供まで生んだが、もう今日きりこれで別れねばならない。どうしてお前はあれ程見てくれるなと賴んだ產室の中を覗いて見たかと歎いた。それでお前に妾の本體を見られゝば、もう恥かしくて此所に止まつて居ることが出來ないし、又永く人間の姿もして居られないから、妾はもとの山の沼へ還るから、この子供ばかりは大事にして育てゝクナさいと言つて泣いた。男は待て々々、見るなと云ふたのを見たのは俺が惡かつた。それもこれもみんな俺がお前の體を案じてしたことであるからどうか惡く思つてくれるな。今お前に此の赤子を置いて行かれたら乳も無いし、俺がナゾにして育てることが出來るか、せめて此子が三つ四つになる齡頃《としごろ》まで居てくれろと賴むと、女はそれでも妾は一旦本性《ほんしやう》を見られゝば、どうしても行かねばならぬから行くことは行くが、本當にこの子もムゾヤ(可愛想)だから、それでは此子が泣く時にはこれを甞《な》めさせてクナさいと言つて、女は手づから自分の左の眼玉をクリ拔いて取つて置いて、忽ち大蛇に化(ナ)つてずるずると山の沼ヘ走つて行つてしまつた。

 男は子供の名前を、坊太郞とつけて、泣く時は、そのオフクロ(母親)の眼玉をサヅラセて育てて居た。坊太郞は其眼玉をサズツたり持つて遊んだりして育つて居たが、日數《ひかず》が經つうちに眼玉がだんだん小さくなつて、遂々《たうとう》みんなシヤブリ上げてなくしてしまつた。眼玉が無くなると、坊太郞は泣いてどんなにダマシ(あやし)ても泣き止まぬので、父親は仕方なく、坊太郞をオブつて坊太郞の母を尋ねに出かけた。たづねてたづねて山の奧の奧の沼に行つた。そして沼のほとりに立つて、坊太郞アオガア(母)どこだべなア、坊太郞アオガアどこだべなアと呼ばると、沼の中から大蛇が出て來て何しに來たマスと言つた。夫は俺ア何しにも來ないがお前が居なくなつてから、此子に每日每日お前の眼玉をサヅらせて、今日まで育てて來たけれども、もうその眼玉も甞めあげてしまつたので、坊太郞が泣いて仕方がないから來たと云ふと、大蛇は悲しさうなフウをして居たが、父《とと》な、それではもう一ツの眼玉をあげるが、これで妾の眼玉はもう一ツも無くなつて、夜明けも日暮れも解らなくなり、不自由になるから、お前がこの沼のほとりに鐘を釣るして、明け六ツ、暮れ六ツの時刻に、その鐘をついて鳴らして知らせてクナさいと言つて、手ずから自分の殘りの右の眼玉をクリ拔いて、それを坊太郞の手に持たした。そして別れるのは悲しいがコレで妾は還ると言つて顏を血だらけにして沼の中に沈んでしまつた。[やぶちゃん注:「明け六ツ、暮れ六ツ」不定時法。「明け六ツ」は夏至の頃(①)で午前四時頃、春分・秋分の頃(②)で五時半頃、冬至の頃(③)で午前六時半過ぎ頃、一方、「暮れ六ツ」は①で午後八時前、②で午後六時半過ぎ、③で午後五時半頃となる。]

 父親は妻の大蛇が目が無くて不自由だらうと思つて、沼のほとりの峯寺《みねでら》に大鐘を納めて明けの六ツ、暮れの六ツにその鐘搗いて、時刻を知らせた。

 坊太郞は眼玉をサヅつてだんだん大きく育つた。そして俺の母が沼の中に入つて居ると云ふことを聞き、或日沼のほとりへ行つて、坊太郞アオガア出ておでアれ、坊太郞アオガア出ておでアれと呼ぶと、大蛇の母はもとの人間の姿になつて出て來た。それでも盲目だから坊太郞が見れないので、坊太郞の顏を手さぐりにさぐつて見た。坊太郞はお母をおぶつて家に連れて歸つて、座敷を造つて其所に入れて置いて、每日々々母の好きな物を食はせて孝行した。

 (江剌郡梁川《やながは》村口内《くちない》邊《あ
 たり》にあつた話、菊池一雄氏が母上から聽かれて知ら
 してくれたものである。昭和三年の冬の分。同氏御報告
 分の二。)

[やぶちゃん注:なにか、しみじみとした哀感のある異類婚姻譚である。大蛇が人の「女」となって男と交わるという型は、全国的に見れば、それほどポピュラーではないと思われる。ただ、最終段落で、夫が語られないのは、ちょっと残念である。夫は坊太郎が成長して程なく、亡くなったということだろうか。にしても、後に別な話者によって子ども向けに追加されたハッピー・エンドデ追加されたのだろうが、何となく唐突な感は免れない。なお、「盛岡市上下水道局」公式サイト内に「盛岡弁で聞く水にまつわる岩手の民話 ~水と私たちの今、昔~」があり、畑中美耶子さんの朗読になる、本話の話が「6」の「おがぁの目玉」で聴ける。是非、お聴きあれかし!

「江剌郡梁川村字口内」旧梁川村は旧江刺郡で、奥州市江刺地区の北北東に当たる、現在の岩手県北上市口内町(くちないちょう:グーグル・マップ・データ航空写真)。中央と南東を除く三方は山間地である。「ひなたGPS」で戦前の地図と国土地理院図並べて見ると、溜池とは思われるが、谷奥に多数の池沼らしきものが、今も現認出来る。

「菊池一雄氏」「御報告分の二」「一」は「五二番 蛇息子」で、話柄内容の類似性は認められないが「蛇」絡みという点では通性はある。]

大手拓次 「骸骨は踊る」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 骸骨は踊る

 

ぺき ぺき ぺき と

うすい どうんよりとした情景につれてをどる

いつぴきの しろい骸骨(がいこつ)が、

ぬしの知れない ながい舌がふらりと花のやうにたれさがり

蕭蕭(せうせう)と風をあふるのだ。

ふくらみきつた夜(よる)の胴體のまんなかに

しろい ふにやふにやした骸骨は、

螢のやうな魂を手にぶらさげて

きやらきやらと をどりまはるのだ。

 

大手拓次 「腐つた月光」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 腐つた月光

 

くさつた月のひかりだ

魚(うを)が

一疋 一疋 一疋 一疋 一疋 一疋 一疋 一疋 一疋

 

靑錆色(あをさびいろ)にくさつた月のひかりだ

魚が

一疋 一疋 一疋

一疋 一疋 一疋 一疋 一疋 一疋

 

魚が つながつてゐる

一疋 一疋 一疋 一疋 一疋

 

泥のやうにくさつた月の光の泡だ

魚が ぴんとはねる

一疋 一疋 一疋 一疋 一疋 一疋

 

しわだらけな月の光だ!

 

大手拓次 「戀人のにほひ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 戀人のにほひ

 

こひびとよ、

おまへのにほひは とほざかる むらさきぐさのにほひです、

おまへのにほひは 早瀨のなかにたはむれる 若鮎のといきのにほひです、

おまへのにほひは したたる影におどろく 閨鳥(ねやどり)のゆめのにほひです。

 

こひびとよ、

おまへのにほひは うすくなりゆく朝やけの ひかりの靄(もや)のひとときです、

おまへのにほひは ふかれふかれてたかまりゆく 小草(をぐさ)のみだれです、

おまへのにほひは すみとほる かはせみの ぬれた羽音です。

 

こひびとよ、

おまへのにほひは きこえない祕密の部屋の こゑの美しさです、

おまへのにほひは ひとめひとめにむれてくる ゆきずりの姿です、

おまへのにほひは とらへがたない ほのあをの けむりのゆくへです。

 

こひびとよ、

おまへのにほひは ゆふもや色の 鳩の胸毛のさゆれです。

 

[やぶちゃん注:「むらさきぐさ」「紫草」。「むらさき」という場合、標準和名には、既に古代から染料として栽培され(かの「万葉集」の「紫野」がその栽培地を指す語)、後に所謂、「江戸紫」とよばれる色名で知られる現植物に双子葉植物綱シソ目ムラサキ科ムラサキ属ムラサキ Lithospermum erythrorhizon があるが、この草花は香気があるわけではないから、違う。この場合、日本固有種で、丁度、今、紫色の花を咲かせている「藤」、マメ目マメ科マメ亜科フジ連フジ属フジ Wisteria floribunda を指す。「Glycine の香料」の私の注の冒頭を参照。

「閨鳥(ねやどり)」日本語では特に特定の種を指す語ではない。単語から受ける印象の一つは、フクロウ目フクロウ科フクロウ属 Strix 或いはタイプ種であるフクロウ Strix uralensis を想起させるようにも思えるが、そもそも、ここは、この「鳥」は「閨」房の中にいるの鳥であり、それはしどろに眠っており、夢を見ているというシチュエーションであるから、「梟」(ふくろう)はそれほど相応しくない。しかし、一つ考えるのは、本邦には棲息しないヨーロッパ中央部・南部や地中海沿岸と中近東からアフガニスタンまで分布する、西洋のウグイスとも言われるほど鳴き声の美しいスズメ目ヒタキ科 Luscinia 属サヨナキドリ Luscinia megarhynchos、小夜啼鳥、所謂、「ヨナキウグイス」(夜鳴鶯)、所謂、「ナイチンゲール」(英語:Nightingale)の名で知られるそれを思い浮かべる方もあろう。フランス語では“Rossignol”(ロシニョォル)。当該ウィキによれば、『森林や藪の中に』棲息し、『その名の』通り、『夕暮れ後や夜明け前によく透る声で鳴く』とあるのだが、その鳴き声は例えば、YouTube のNevezetes Névtelen 氏の“Csalogány (Luscinia megarhynchos) 2.”をお聴きになれば、ナイチンゲールの声は、美しいが、賑やかであり、「閨」に夢を見ている「鳥」を目覚めさせてしまう鳴き声であって、やはり「閨鳥」とは、逆立ちしても言えない。蛇足だが、寧ろ、夢を誘うなら、フクロウの方が相応しい。私の寝室のすぐ上の山蔭に十年以上、フクロウが棲んでいるが、私はその声を聴きながら眠りにつくのを常としているからである。以上から、ここは種を同定する必要はなく、先の太字下線の意でとっておけば、それで、その場面はすんなりと読めるものと思う。]

2023/04/28

譚海 卷之五 江戶彥根領むべの事

 

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。思うに、以上の目次にある標題中の「江戶」は「江州」の誤りかとも思われる。なお、彦根藩の場合、元和二 (一六一六) 年以降、周辺の幕府直轄領からの年貢米二万石を毎年備蓄することが定められていたと、QAサイトの回答にはあったが、彦根藩内に天領があったという記載には行き当たらなかった。]

 

○江州彥根に、禁裏へ「むべ」を獻ずるものあり。大津の宮の御宇より、こゝに住居して、子孫、絕えず、今に每年、供御(くご)に獻上して、「むべの御朱印」といふ物を、つたへたるものなれば、由緖ある家なるゆゑ、數世(すうせい)の子孫の中には、惡行の者も有(あり)て、斷絕に及(およば)んとせし事、しばしば成(なり)しかども、領主よりも宥免(いうめん)ありて、今に家を傳へたり。彼が先祖、はじめて天智天皇へ供御に奉(たてまつり)し時、「むべ成(なる)もの也。」と勅諚(ちよくぢやう)ありしより、此樹の名と成(なり)し事とぞ。此(この)「むべの木」、其家にばかりあり、殊の外、大切にして、外(ほか)へちらさず、「さし木」にすれば、能(よく)生ずる物也と、いへり。

[やぶちゃん注:「むべ」常緑蔓性木本の双子葉植物綱キンポウゲ目アケビ科ムベ属ムベ Stauntonia hexaphylla 。漢字は「郁子」「野木瓜」などと書く。参照した当該ウィキによれば、『和名「ムベ」は、古くに果実を朝廷に献上したオオムベが転じたものとされる』。『また』、『アケビ』(アケビ科Lardizabaloideae 亜科Lardizabaleae連アケビ属アケビ Akebia quinata )『に似ていて常緑なので、別名「トキワアケビ」(常磐木通)ともいう』。『方言名はグベ(長崎県諫早地方)、フユビ(島根県隠岐郡)、ウンベ(鹿児島県)、ウベ』、『イノチナガ、コッコなどがある』とあり、]『日本の関東地方南部以西の本州・四国・九州・沖縄』。『その他』、『メディアで取り上げられる地域は京都府福知山市夜久野地区、日本国外では朝鮮半島南部』、『台湾、中国に分布する。暖地の山地や山野、海岸近くに自生する』。『果期は』九~十月で、果実は五~七センチメートルの『楕円形で』、『暗紅紫色に熟す。この果実は同じ科のアケビに似ているが、果皮はアケビに比べると』、『薄く柔らかく、熟しても』、『心皮の縫合線に沿って裂けることはない』。『果皮の内側には、乳白色の非常に固い層がある。その内側に、胎座に由来する半透明の果肉をまとった小さな黒い種子が多数あり、その間には甘い果汁が満たされている。果肉は甘く食用になるが』、『種がしっかり着いており、種子をより分けて食べるのは難しい。自然状態ではニホンザルが好んで食べ、種子散布に寄与しているようである』とある一方、『日本では伝統的に果樹として重んじられ、宮中に献上する習慣もある』とし、上記のような理由から、『商業的価値はほとんどないが、現在でも生産農家はあり、皇室のほか、天智天皇を祭る近江神宮、靖国神社に献上している』とある。また、脚注5にある、「産経新聞」公式サイト内の「関西の議論」の『不老不死の実「ムベ」 古代から皇室に献上された伝説の果実求め全国から人が絶えず…』の二〇一五年十一月十六日附の和野康宏氏の記事に、『琵琶湖の東岸に位置する滋賀県近江八幡市で、「ムベ」と呼ばれる伝説の果実が栽培されて』おり、『ニワトリの卵よりやや大きく、熟すと赤紫色になるこの実は、「食べると長生きする」という言い伝えから不老長寿(不死)の実といわれ、古代から昭和』五七(一九八二)年『まで皇室に献上されてきた。その後、献上はいったん途絶えたが、地元の宮司らが「地域の伝統を取り戻そう」と』、平成一四(二〇〇二)年、約二十年振りに献上を『復活させた』とあり、『ムベという名の由来は近江八幡にあ』って、『言い伝えによると、天智天皇』(在位:六六八年~六七二年)『が琵琶湖南部の蒲生野(かもうの)(現滋賀県東近江市一帯)へ狩りに出かけた際、奥島山(現近江八幡市北津田町)に立ち寄った』ところ、『そこで』八『人の息子をもつ元気な老夫婦に出会い、「お前たちはなぜ、このように元気なのか」と尋ねたところ、老夫婦は「この地で採れる無病長寿の果物を、毎年秋に食べているからです」と答え、果物を献上した。それを賞味した天皇が「むべなるかな(もっともだな)」と言ったことから、この果物が「ムベ」と呼ばれるようになったという』とあって、『以来、毎年秋になると同町の住民から皇室にムベが献上されるようになったとされる。平安時代に編纂』『された法令集「延喜式」』の三十一『巻には、諸国からの供え物を紹介した「宮内省諸国例貢御贄(れいくみにえ)」の段に、近江国からフナ、マスなどの琵琶湖の魚とともに、ムベが献上されていたという記録が残っている』とあった。

「大津の宮」天智天皇のこと。彼は天智天皇六年三月十九日(六六七年四月十七日)に近江大津宮(現在の大津市)へ遷都し、そこで亡くなったことによる。

「供御」天皇の飲食物を指す尊敬語。

「宥免」(現代仮名遣「ゆうめん」)罰などを緩やかにして宥(ゆる)すこと。寛大に罪を免汁じること。

「勅諚」「勅命」に同じ。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 五二番 蛇息子

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから(本文はそこで終わりだが、次のコマに附記がある)。]

 

   五五番 蛇 息 子

 

 閉伊ノ郡《こほり》に刈屋長者と云ふ長者があつた。或時ツボマエで一疋の蛇を叩き殺したら、三ツに切れて死んだ。長者には子供が無かつたがそれから間もなく妻女が懷姙した。今まで欲しい欲しいと思つて居たのだから、其喜び樣はなかつた。其中《そのうち》に月が充ちて、玉のやうな男の子が生れた。それから年々通し子に先にもまさるような美しい男の子を二人生んだ。男の子ばかりの三人兄弟だものだから、長者はなんぼか心丈夫に思つて大事に育てゝ居た。三人の兄弟はまた類《るゐ》の無いほど仲が良かつた。長者夫婦も非常に喜んで居ると、總領が二十歲《はたち》の時に死んだ。それからは續けて二十歲になれば子供が死に死にして、遂に三人とも亡くしてしまつた。

[やぶちゃん注:「年々通し子に」「としどし、とほしごに」(=年子(としご)に)恵まれて、の読みと意味であろう。]

 長者夫婦はそれをひどく泣き悲しんで、どうしても亡くなつた子供の事は忘れられない、忘れられないと言つて嘆いて居た。すると旅の六部《ろくぶ》が來て、田名部《たなぶ》の恐山《おそれざん》にお詣りをすると、死んだ子供等の姿が見えると言つた。そこで長者は身上《しんしやう》を皆賣つて、妻を連れて恐山詣《まゐ》りに出かけた。

[やぶちゃん注:「閉伊ノ郡」当該ウィキによれば、近代の明治一一(一八七八)年に行政区画として発足した当時の「閉伊郡」の『郡域は、遠野市・宮古市・上閉伊郡・下閉伊郡および釜石市の大部分(唐丹町を除く)に』相当し、『分割以前の陸奥国内で』は、『津軽郡に次いで』、『面積が大きく、陸中国では最も面積の大きい郡であった』とある。そちらの地図を参照されたい。

「六部」既出既注

「田名部の恐山」現在の青森県むつ市田名部(たなぶ)宇曽利山(うそりやま)にある恐山(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。私も訪れたことがある。なお、ここは田辺部の飛び地で、恐山の手前の「三途の川」から南東の短い国道四号が貫通する部分の間は、青森県むつ市大畑町である。これは、各地の飛び地によくある理由で、古くから主な関係を持っていた地域に近代以降も所属するそれとして、こうなったものであろう。霊場としての恐山の歴史的・民俗学的な内容(知られたイタコの口寄せ等。但し、そこにある通り、『恐山で口寄せが行われたのは戦後になってから』である。以下でも、霊を呼び出すのはイタコではない)は、当該ウィキ及び、そこの各種リンク先を参照されたい。]

 恐山に行つて、お上人樣にかくかくの譯であるから、どうぞ子供等の姿を一目なりとも見せて下されと、願つたら、お上人樣はそれでは見せてやるが、姿を現はした時、少しでも聲を出してはならぬ。そして儂《わし》の衣の袖の下から顏を出して見て居ろと言つた。そしてお上人樣がお經を上げ始めると、遠くからにぎやかな音が、だんだんこちらに近づいて來るのであつた。いよいよ須彌壇《しゆみだん》の所まで來て、壇をぐるぐると廻るのは、懷かしい吾子三人であつた。夫婦は初めのうちは、お上人樣の衣の袖の下から默つて見て居たが、あんまり懷かしさに、思はず知らず子供等の名前を呼んだ。すると忽然と三人の姿が一ツになつて大きな蛇に化(ナ)つた。そしてその大蛇が、長者殿實は俺等はお前に殺された蛇である。それでお前だち[やぶちゃん注:ママ。]の子供に生れ變つて讐《かたき》を取らうと思つて、天を探しても地を分けても草葉の露ほども子種《こだね》とてないお前だちの子供として生れたのだが、お前だちにあんまり大事にされるので、俺等の本望を遂げかねたのが口惜しいぞやと言つて、ベカツと消えてしまつた。

 (閉伊郡橋野通にあつた話。菊池一雄氏御報告の分の一。)

[やぶちゃん注:「須彌壇」(現代仮名遣「しゅみだん」)仏像を安置する台。元来は仏教の世界観で世界の中心に聳えるとされる高山である須彌山に象った台座のこと。ネットの小学館「精選版 日本国語大辞典」によれば、寺の『仏堂内の仏像の台座をいうが、内陣の中心位置に造り付けられ、その上に安置した仏像を載せるものと、仏像の台座としてのものの二種類があり、一般には前者を指す』とあり、また『「須彌壇」という語自体は近世になってから用いられ始めたようで、それ以前は「仏壇」と称している』とあった。リンク先には図がある。なお、恐山にある恐山菩提寺については、ウィキの「菩提寺(むつ市)」によれば、『この寺の創建年代等については不詳であるが、寺伝によれば』、貞観四(八六二)年に『天台宗の僧円仁がこの地を訪れ創建したと伝えられる』が、『その後』、『衰退していたが』、戦国時代中期の大永二(一五二二)年、『曹洞宗の僧』宏智聚覚(わんちじゅがく)『が南部氏の援助を受け』、現在のむつ市市街地にある『円通寺』(ここ)『を建立して』、『恐山菩提寺を中興し、曹洞宗に改められた』とあるので、この話の成立は、まずは、それ以降と考えていいだろう。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 五四番 蛇の聟

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。] 

 

     五四番 蛇の聟 (其の一)

 

 或山里の家に一人の美しい娘があつた。齡頃《としごろ》になると每夜何處からとなく美しい若者が通ふて來るやうになつた。母親は其れに氣がついて心配して、每夜お前の室に話聲がして居るが、誰か來るのかと訊いた。娘は先達《せんだつて》から每夜何所の人だとも分らない人が來るが、名前も所もどうしても話さないますと言ふと、母親はそれでは今夜來たら、其男の衣物の襟に縫針を刺してミズ(糸)を長くつけて置けと敎へた。娘はその通りにした。

 翌朝起きてみると、昨夜歸つて行つた男の衣物の襟に刺した針のミズが障子の穴から通ふて外へ引かれ、そして何所までも何所までもずつと長々と引かれてあつた。娘は怪しんで其のミズ糸の通りに何所までも何所までも其の跡を求めて行つて見た。

 其糸は奧山の岩窟の中に引き入れられてあつた。その岩窟の入口には格子戶が立つて居て中々入れなかつた。中には何者かがうんうん苦しさうな唸り聲を出して居た。娘が、俺ア來あんしたと言つて訪れると、中からいつもの男の聲だけして、あゝお前が來たか、お前が來るべえと思つて居た。俺は今大變な負傷(ケガ)をして居るからお前に逢はれない。今日は默つて歸れ。そしてもう二度とお前には逢はれないスケこれが緣の切れ目だと言つた。娘は悲しくなつて、俺アどんなことアあつても魂消(タマゲ)なえシケ話すとがんせ。そしてもう一遍どうか顏見せてがんせと言ふと、男はどんな事アあつても魂消んなと言つて顏を出した。すると昨夜衣物《きもの》の襟だと思つて刺した縫針が、大蛇の眉間《みけん》に剌さつて顏が血みどろとなつて居た。大蛇は、俺は斯《こ》んなになつてしまつたが、一向お前を怨まない。それどころかお前の腹に宿つた子を大事にして生んでくれ。きつと偉い者になるべえシケにと言つて命(メ)を落した。

 (昭和五年七月二日夜。野崎君子氏の談話の五。下閉
 伊郡岩泉地方の譚。)

[やぶちゃん注:全国的にある蛇の異類婚姻譚の一つ。

「野崎君子」今までにこれを含めて四話の提供者である。

「下閉伊郡岩泉地方」現在の岩手県下閉伊郡岩泉町(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。]

 

        (其の二)

 

 昔、タカバタケと云ふ所に一軒家があつた。夫婦の中に美しい娘が一人あつた。或時兩親が親類のところに御法事があつて行つて居る留守の間に、娘がただ一人で麻糸(アサ)を紡《う》んで居ると、其所へ立派なお侍樣が、居たかと言つてひよツこらと入つて來た。そしてヂエヂエお娘と聲をかけて、笑ひ小立てゝ側へ寄つて來た。娘が返辭もしないで居ると、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]爐傍に上つて來て、娘の帶を解くべとした。娘は魂消《たまげ》たが、どうもそのお侍樣の樣子が變なので、ハリ(縫針)にミヅ(絲)を通してそつとお侍の氣のつかぬやうに袴の裾に、それを深く刺し通した。するとお侍は顏色を惡くして居たが、間もなく娘の側を放れて立ち去つた。

 親類の法事から兩親が歸つて來ると、娘が靑い顏をして萎《しを》れていた。なにしたと訊くと、娘はお前たちの居ないところへ、何所かの立派なお侍樣が來たつた。それでおれが其人の袴の裾にミズを突剌《つつさ》してやつたと言つた。それで父親は翌朝、ミズ糸の通り何處までもとめて[やぶちゃん注:「とめて」は「尋(と)めて」。知られたカール・ブッセの「山のあなた」で使用されてある。]行つて見たら、裏の藪の中に大きな蛇が腦天に止目(トヾメ)を刺されて、轉び廻つて苦しがつて居たが、間もなく命を落した。

 (タカバタケ、岩手郡西山村大字長山の殆《ほとんど》
 中央部の野原で、今の小岩井農場の域内である。昭和二
 年十月十六日。大坊直治御翁報告に據るもの一。)

[やぶちゃん注:「ヂエヂエ」今、再放送中の「あまちゃん」でブレイクした感動詞用法だが、私の知人で岩手出身の方(先日、亡くなられた)は、同ドラマの始まった頃、「驚く時にジェジェとは言わないよ」と不満げに仰っていた。「大修館書店 総合サイト」の「WEB国語教室」の竹田晃子氏の「第5回 東北北部の方言より ジェジェジェ! ジャジャジャ! ―― 驚くほどに繰り返す感動詞の世界」によれば(語形変化表・分布地図有り)、驚きを示す感動詞としての用法もあるが、『意味用法からみると、実は、「呼びかけ」の用例数が圧倒的に多く、「驚き」の意味で使われた用例はその半分以下で』あるとされ、『ここで言う「呼びかけ」とは、出会いや話題転換の場面で相手に話しかけるときに、挨拶や新しい話題内容などの表現と一緒に用いられる用法で』、『新しい話題内容の場合には、感動詞の後に、質問・依頼・勧誘・命令・謝罪のように相手に働きかける表現が続く例が多くでて』くる、とあった。まさにここは、その性的な誘いを促すための、始めの「呼びかけ」が相応しい。

「タカバタケ、岩手郡西山村大字長山の殆中央部の野原で、今の小岩井農場の域内」現在の小岩井農場のあるのは、岩手県岩手郡雫石町(しづくいしちょう)丸谷地(まるやち)附近であるが、「西山」「長山」の地名としては、少し雫石町長山西寄内(ながやまんしよりない)のこの附近に当たるようである。「ひなたGPS」の戦前の地図では、ここに「西山村」が確認でき(南北に広域であったようである)、ウィキの「西山村(岩手県)」に『現在の雫石町西根・長山にあたる』とあったので納得された。「タカバタケ」相当の地名は見出せなかったが、ちょっと目がとまったのは、「ひなたGPS」で見つけた「高八卦」(たかはっけ:現在もある)である。]

 

       (其の三)

 

 近年、遠野町の某《なにがし》と云ふ侍の家に美しい女房があつた。夫が江戶の方へ行つて留守のうちに、何處からか知らぬが、見たことのない美男が每夜通つて來た。その女房がよくよく考へてみると、どうも其男の通ふて來るのに戶障子を開け立てする樣子は少しもなかつた。ただ寢室から庭前に向つた椽側《えんがは》の障子の穴が濡れてゐるだけであつた。女房が每夜のやうに、お前樣は何所の人で、私の許に何所から忍び入つて來ると聞いても、なんとも返辭をしなかつた。その上に其男は每夜來て泊つても物一言も言はないのが不思議でならなかつた。

 女房は兼て聞いて居たことがあるものだから、或時男の知らないやうに、その衣物の裾に縫針にミヅを通したのを突き通してやつた。すると其男はいつもの障子の穴から出てずつと庭前にその糸を引いて行つた。そして庭の片隅のマダノ木株の穴に入つて、中でウンウンと唸つて苦悶して居る樣子であつた。そして夕方にはその唸聲《うなりごゑ》も聞えなくなフた。掘つて見ると穴の中には大きな蛇が眼に針を突刺《つつさ》されて斃《たふ》れて居た。

 後で氣がつくと、其蛇は、女房が每夜腰湯をつかつて、其盥《たらひ》の湯をこぼさないで椽側に置くのに體を浸して溫《ぬる》めてから入るのであつた。

 (大正十四年の冬頃。遠野町、岩城氏談の中の一。)

[やぶちゃん注:「マダノ木株」「マダノキ」は日本固有種のアオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ(科の木・科(しなのき)・級の木・榀の木)属 Tilia(タイプ種はシナノキ Tilia japonica )の別名である。参照したウィキの「シナノキ」によれば、『樹皮は暗褐色から茶褐色で、表面は若木では滑らかで、成木では薄い鱗片状で縦に浅く裂ける』とあり、そちらの画像を見ても、木自体が蛇に、少し似ているようにも私には見える。なお、「マダノキ」というのは、調べて見ると、「シナノキ」と同じく語源は判らないようである。

「後で氣がつくと、其蛇は、女房が每夜腰湯をつかつて、其盥の湯をこぼさないで椽側に置くのに體を浸して溫《ぬる》めてから入るのであつた」というのは、時制を遡って、蛇が、女房に恋慕したきっかけを語り添えたものである。]

 

       (其の四)

 

 或所に美しい娘があつた。齡頃になると每夜何處からともなく名も知らぬ美男が通ふて來た。每晚娘の室から睦まじそうな話聲が洩れるので、兩親は心配して障子の𨻶穴《すきあな》から覘《のぞ》いて見ると、美しい若者が來て居るが、どうも樣子が變つて居た。そこで娘にこの次ぎに來たら何かで試してみろと言ひつけた。

 その次ぎの夜、娘は爐《ひぼと》に鍋をかけて豆を炒つて居た。そこへ男が來たから、おれは裏さ行つて來るから、お前がちよつとこの豆を炒つて居てケてがんせと言つて、裏の方へ立つて行つた。さうして裏口の障子の破穴《やぶれあな》から覘いて見て居ると、其美男は一疋の蛇になつて、釣鈎(ツリカギ)にからまつて尾(ヲツペ)で鍋の中の豆をがらがらと搔き廻してゐた。娘はそれを見て魂消て母親に謂つて聞かせた。すると母親はそれではえゝから黍團子《きびだんご》をこしらへて食はせて見ろと言つた。娘は今夜はお前にご馳走するからと言つて、黍團子をこしらへて食はせた。すると男は食つて居《ゐ》たつたが[やぶちゃん注:ママ。「ゐ」は「ちくま文庫」版の『いたったが』を参考に振ったが、「をつたのだが」の方言だろうか。]、今夜は俺は急に腹が痛くなつたと言つて、泊らないで出て行つた。

 その翌朝娘の父親は、はてあの蛇は何所に行つたべと思つて、家の周圍(グルリ)の土を見ると、土に何かのたうち廻つたやうな跡がついてゐた。それからずつと捧切《ぼうきれ》でも引張つたやうな跡がついてをつたから、それをとめて行くと、裏のマダノ木株の根もとの穴の中に大きな蛇がのたうち廻つて苦悶して居た。それを鎌でジタジタに切り裂いて殺した。それからは娘の許《もと》に美男が通つて來なくなつた。

 (母の話。私の古い記臆。)

 [やぶちゃん注:「糸」の「ミズ」と「ミヅ」の混淆はママ。]

大手拓次 「動物自殺俱樂部」

大手拓次 「動物自殺俱樂部」

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 動物自殺俱樂部

 

この頃

まいばんのやうにおれの耳に映(うつ)つてくるのは

なまなましい はてしない光景だ。

猿はくびをくくつて死に、

蛇はからみあつたまま泥に沈み、

馬は足を折つて眼をふさいだ。

犬は舌をだして息がたえた。

蛙はくさむらで姿を失ひ、

とかげは石の下に生きながら乾いてしまつた。

象は太陽の槍に心臟をやられるし、

狐は花の毒氣にあてられた。

狼は共喰(ともぐひ)をしてくたばつた。

蝙蝠は煙突のなかにとびこんだ。

鴉(からす)は荊棘(いばら)のなかにとびこんだ。

なめくぢは竹の葉のくされのなかにすべりおちた。

三角形の大きな鉈(なた)で

くびをたたつきられる牛だ。

 

大手拓次 「五月は裸體である」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 五月は裸體である

 

かはのおもてをすべつてくる

このやはらかい五月のすがたは、

りんごの花のやうにあをじろく、

はだかのままに そぞろとして

ひかりのなかにながしめをかくす。

 

大手拓次 「かをる四月」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 かをる四月

 

くさのにほひをたたへ、

こころなく あたりへうごき、

さわさわとしてかぜをよび、

四月のなかをゆく をとめは

季節の月をかをらせる。

 

大手拓次 「煙草の時」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。

 なお、「晝の時」の私の冒頭注も参照されたい。]

 

 煙草の時

 

ささささささささ

りりりりり りりりりり

ささ ささ ささ

り・り・り・り・り・り・り

 

大手拓次 「朝の時」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。

 なお、「晝の時」の私の冒頭注も参照されたい。]

 

 朝 の 時

 

あ あ あ あ あ

ろ ろ ろ  ろろろ  ろ ろ ろ

  め ろ  め ろ

  ろろろろろ  ろろろろ  ろろろ

 

大手拓次 「晝の時」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。

 以下、オノマトペイア詩を三種続ける。一九一六年に「ダダイスム宣言」(Dada Manifesto )を起草したドイツの作家・詩人フーゴ・バル(Hugo Ball 一八八六年~一九二七年)の音響詩(Gadji beri bimba:ガジー・ベリ・ビンバ)を髣髴させる。同系列の詩としては、詩集「藍色の蟇」では、「夜の時」(ブログ版)が同時期のものである。]

 

 晝 の 時

 

あを あを あを あを あを

いを いを いを

 はむ はむ   はむ はむ

 

あう あう

 ふ ふ ふ ふ ふ ふ ふ

 

大手拓次 「Néant」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。

 なお、標題の「Néant」(音写「ネオン」)は「虚無・空(くう)なること」の意である。底本の後に原氏も『Néantはフランス語で虚無』と注されておられる。]

 

 Néant

 

くちびるを ながくだして、

わたしは空をよびむかへた。

ねむりは鴉(からす)のやうにとほざかり、

ことごとく地のうへにひきずられる。

髮をみだした生存のくさりである。

 

大手拓次 「心のなかの風」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 心のなかの風

 

風です、

風です、

どこからともなくふきめくる風です。

いたづらにしろいものをおひかけてゆく、

とほどほとしたかるい風です。

おまへの耳をあててきいてごらん、

なにもない このひろびろとしたひろがりのなかに

はてもなく宿世(すくせ)の蟲のねがながれてゐます。

 

[やぶちゃん注:「とほどほとした」老婆心乍ら、「遠遠とした」。遙かに遠く離れている。

「宿世(すくせ)」前世(ぜんせ)。或いは、前世からの因縁・宿業(しゅくごう)。ここは理屈では、「前世からの宿業によって畜生としての虫になったその鳴き音(ね)」とインキ臭くはとれるようにも見えるが、寧ろ、拓次のパースペクティヴは、前世・現世を遙かに見(聴き)通したものであって、そのまま素直に「前世の世界から流れてくる虫の音」をこそ聴くべきであろう。]

大手拓次 「空華」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 空 華

 

こころは ことわりもないひびきをつれ、

あさのくらがりのかなしみのなかに

つめをたて たてがみをそよがせて、

空華(くうげ)をちらし、

足はそよろとほそりゆくひとつのいきもの。

 

[やぶちゃん注:「空華(くうげ)」仏教用語。空中に存在すると幻想錯誤される花。仏教では現象世界の総ての事象は、本来、実体のない仮象過ぎないが、それを正しく認識せず、あたかも実体をもって存在しているかのように考える誤りを喩えるのに用いる語。則ち、ある種の眼病に罹ると、実際には存在しない花が空中にあたかも在るかの如く見えるという,その花を指す(ネットの「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。拓次の幻想の詩想は純粋に空に舞う花と限るのは勝手だが、詩想全体には幻想自体の悲哀が濃厚であり、以上の仏語の持つそれを重ねて何ら問題はない。]

大手拓次 「ふりつづくかげ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 ふりつづくかげ

 

この かげのやうにふるものは

みちてくるそらのあしあと。

 

ふりつづくかげ、

ぼうぼうとゆれてゐるかげ。

 

[やぶちゃん注:「ぼうぼうと」歴史的仮名遣が正しいのであれば、「火が盛んに燃えるように」の意である。]

大手拓次 「夜の薔薇」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 夜の薔薇

 

やはらかに

ひとつのたまのやうにしづまり、

おまへは ふかいさかづきのおもひをかもしてゐる。

なんといふ美しいおまへのくちびるだらう。

絹のやうにつめたく、

ふくらみのあるおもたさ、

さうして こころもちゆらゆらするやうに

かげをひきながらしづんでゐる。

 

大手拓次 「昨日の薔薇」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 昨日の薔薇

 

日はさかりをすぎ、

ねむい眼(め)をしてゐる昨日(きのふ)のばら、

かげにかくれてわたしのそばをすりぬける

うとうととする昨日のばら、

眼をあいたままでうなだれる昨日のばら、

おまへのにほひは晝の空のしろい月、

眼をあいたまま 手をひらいたまま

ゆれようともしない昨日のばら。

 

大手拓次 「明日を待つ薔薇」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 明日を待つ薔薇

 

しろけれど こころをこめて色にぬれ、

ひかりをつつみ、

ひびきはむらむらとまようて

たのしいときめきの瞼(まぶた)をひたす。

ゆれるやうにひらくばらのはづかしさよ、

明目の日に おまへはゆれるよ、

おまへは ほのぼのとあかくなるよ、

ふかいにほひに おまへははてしなくながれてゆくよ。

あすの日に鳥のはおとのやうにひらくばらのゆめ。

 

2023/04/27

下島勳著「芥川龍之介の回想」より「濱豌豆」

 

[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載に『昭和五・七・春泥』(『春泥』は籾山書店発行の俳句及び随筆雑誌)初出で、後の下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。

 著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た(但し、単行本刊行時期のため、正字と新字が混淆してはいるので、そこにはママ注記を入れた)。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。一部に注を挿入した。また、本篇にはルビが一切ないが、なくても概ね読めるが、一応、若い読者のために、ストイックに《 》で推定で歴史的仮名遣で読みを振った。]

 

濱  豌  豆

 

 五月七日、〇時二十五分の束京驛發で、芥川の奥さんと鵠沼へ行く。

 平塚と藤澤の丘の新綠は眼醒むるばかり美しい。藤澤で電車に乘替へ鵠沼の塚本邸ヘ着いたのは二時半ごろでもあつたらう。私の用事は、芥川の奧さんの弟君のご病氣を拜見するためであつたが、一診の結果非常におよろしいので、まづは安堵といつたやうな、氣安さをおぼえた。

 時間の餘裕もゐるので、次手《ついで》ながら故人の跡を尋ねることにした。――勿論、奥さんに同伴を願つて………

 なにがしの宮さま、御別邸のおはせし御跡ときく、松林の前にありし、

 

   蒲の穗はなびきそめつつ蓮の花

 

 の句をなした小沼も、今は埋められて、家が建てられてゐる。

 橋を渡り、蘆と蒲との新芽ののびた堀割の堤を傳ふて、旅館あづま家の後ろ橫の砂濱ヘ出た。

 ここから江の島は、呼べば答へん目睫の間といつても誇張ではあるまい。今日はことさら風もなく、實に靜かな晚春の海ずらである。……が、芥川氏の

 

   白南風《しらばえ》の夕浪高うなりにけり

 

 は恐らく、このあたりで作つた句に違ゐない[やぶちゃん注:ママ。]、とまで感じられた。

 この邊の砂丘の陰や砂原には、到る處に濱婉豆の花が濃紫を誇つてゐた。

 ふと空を仰げば、大小いくつかの凧が上つてゐる。――この地方は、節句に凧を上げるのが、習慣ださうですと奥さんがいはれた。

 あづま家の庭に沿ふた砂道を拔けて、左へ曲る小路の右手に、小穴隆一氏の居た家がある。その時分は租末な家だつたが、今は一寸立派な貸家となつてゐる。

 この家の門から覗いて、つきあたりに家根の一端の見えるのが、芥川氏の初めに住んだ家である。その座敷の前に小さな池がある。

 

   野茨にからまる荻のさかりかな

 

 の句は、この池邊で作つたと、曾ての話しであつた。

 そこの小路を前の道路へ通り拔け、少し空地のある右角の建仁寺垣の二階家が、芥川氏の長く住んだ家なのである。二階の戶は閉されてゐたが、柴といふふさな門札が丸木の門柱に揭げられ、戶口の右よりの、あの碧童氏の句に咏《よ》まれた百日紅《さるすべり》も、今は若葉にもえてゐる。

 ――あの二階の座敷で議論を鬪はし、六百ケンを敎へてもらひ、そして、枕を並べて話しながら眠つた當時のことが、まざまざと甦つてくる。………

 奧さんはと見れぱ、怖いものでも眺めるやうな樣子をみせて、つと、あづま家の方へ行かれたので、殘りおしくもあとを追つた。

 つきあたりの醫院の門前を右に曲つて出たところが、小穴氏の畫にした小松林の間道である。そこをまた堀割の堤へ出て、もと來た道の先を迂𢌞して、塚本邸へ歸つたのは、五時に近い頃であつた。――前の田では頻りに蛙が鳴いてゐる。

 松の大樹に圍まれた離れのお座數で、ゆつくり晩餐をご馳走になり、七時を過ぎてから母堂と愛犬とに送られて電車の停車場へ出たのである。

 途《みち》すがらも、停留場へ來てからも、犬の泣き方や擧動が變なので、私は不思議に思つてゐたが、それは奥さんと私が母堂をつれて行くのであらうとの、いらざる不安の敎示だつたことが間もなく知れて、とんだ愛嬌のシインを見せたものだと、笑つてお別れした。藤澤での連絡に約二十五分ばかりを費したので、奧さんに田端の臺でお別れして、歸つたのは、九時五分過ざであつた。

 

     鵠  沼  (三句)

    芥川氏の鳶居をだづねて

   とざされしままの二階や松の花

     海  岸

   磯くづのかげに咲きけり濱豌豆

   蒲の芽や晝蛙なく浦たんぼ

(昭和五・七・春 泥)

 

[やぶちゃん注:最初の芥川龍之介の句の前後は空きがないが、後の二句のそれとバランスが悪いので、前後を一行空けた。掲げられた龍之介の句は総て龍之介が厳選した自選句稿に含まれている。私の「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」を検索されたい。

「濱豌豆」マメ目マメ科レンリソウ(連理草)属ハマエンドウ Lathyrus japonicus 。北海道から九州までの日本各地の海岸に分布する海浜植物である。

「鵠沼の塚本邸」「芥川の奧さんの弟君のご病氣を拜見するため」妻文の母鈴と弟八洲(やしま)がいた塚本家(結核であった八洲の療養のために龍之介の晩年に鵠沼に移っていた)のこと。塚本八洲(やしま 明治三六(一九〇三)年三月八日~昭和一九(一九四四)年)。塚本文の弟。長崎県生まれ。書簡当時は満十四歳。父善五郎が戦死したため、母鈴の実家であった本所の山本家(龍之介の親友山本喜誉司の父母)に家族と身を寄せていた。一高に入学し、将来を期待されたが、結核に罹患、大正一三(一九二四)年頃に喀血し、翌年の三度目の喀血の際には、下島とともに塚本家に駆けつけて見舞っている。結局、快方に向かわず、没年まで闘病生活を送った。大正一五(一九二六)年には療養のために鵠沼に移住したが、之介は鵠沼での塚本家の家探しにも協力しており、この転地が芥川最晩年の鵠沼滞在のきっかけともなっている。このロケーションになっている鵠沼については、『小穴隆一「鯨のお詣り」(19) 「二つの繪」(8)「鵠沼」』、及び、『小穴隆一 「二つの繪」(10) 「鵠沼」』で、小穴の略図が載り(二篇とも)、そこで私が詳細な解説もしてあるので、参照されたい。

佐々木喜善「聽耳草紙」 五三番 蛇の嫁子

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

      五三番 蛇の嫁子(其の一)

 

 或所に長者があつて、美しい娘を三人持つて居た。或日ツボマヘ(庭)を眺めて居ると、池のほとりで蛇がビツキ(蛙)を呑むべとしてゐた。蛙が苦しがつて悶《もが》いて居るので、長者は見るに見かねて蛇々、そのビツキ放してやれ、その代り俺に娘ア三人あツから、その中の一人をお前のオカタ(女房)にけツからと言つた。すると蛇は呑みかけた蛙を放して、草叢の中へするすると入つて行つた。

 翌朝になつたが、長者が朝飯時になつても起きないので、娘どもは心配して、一番上の姉が父親の寢床に行つて、父(トヽ)な起きて飯食べてがんせと言ふと、父親は、起きて飯食ふこともいゝが、實は俺《おら》は蛇さ娘一人をオカタに遣ることに約束した。汝(ウナ)行つてくれないかと云つた。娘はそれを聞いて誰ア蛇などのオカタに行く者があるべ、俺ア嫌ンだと言つて、ドタバタと足音を立て其所を去つてしまつた。

 その次に二番目の娘が父親を起しに行つたが、其事を聞いて、やつぱり姉と同じく、誰ア蛇などの嫁に行く者があるもんだえと云つて、足音荒く枕元を立ち去つた。その次ぎに三番目の娘が父親を起しに行つたので、父親は蛇に娘一人を嫁に遣る約束をした話をすると、娘はそれでは俺が蛇のところへ嫁に行くから、はやく起きて御飯をあがつてがんせ。其かはり俺に縫針千本と、瓢簞《ふくべ》[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版のルビに従った。]さ水銀《みすがね》一杯を入れてケてがんせと言つた。父親は喜んで起きて御飯を食つて、それから縫針千本に瓢簞や水銀などを買ひに町さ行つた。

 其日の夕方、蛇は羽織袴で、立派なお侍樣になつて玄關に來て、昨日お約束した娘を一人嫁に貰ひに來たと言つた。そこで三番目の娘は赤い絹子小袖(キンココソデ)を着て、縫針千本と水銀の入つた瓢簞を持つて、其男の後について行くと、男はずつとずつと奧山の深い溪合ひの沼のほとりに行つて、娘に、此所が俺の家だから入れと言つた。娘は入ることもよいが、この瓢簞を水の中に沈ませたら入ると言つて、沼さ瓢簞を投げ入れると、それを沈ませべえとして、聟殿が一匹の大きな蛇の姿になつて、沼に飛び込み、嚙み沈めようとした。瓢簞はなかなか沈むどころか、チンプカンプと水の上をあちらこちらへ浮び踊り廻つた。すると沼の中から大勢の蛇どもが出て來て、瓢簞を眞中にしてグレグレめかした。その時娘は縫針千本を、バラリ、バラリと水の上に撒くと、鐵の毒氣が蛇の體に刺さつて、それほどの多くの蛇どももみんな死んでしまつた。

 娘はさうして蛇の難をばのがれたが、夜ふけの奧山なので、どこへ行つてよいか訣《わか》らなくて[やぶちゃん注:「訣」はママ。佐々木の慣用表現。]、泣きながらとぼとぼと步いてゐると、遙か向ふの方にぺカぺカと赤い灯(ヒ)の明りコが見えた。あれあそこに人の家がある、あれを便りに行くべと思つて行つて見ると、一軒の草のトツペ(結び)小屋があつて、内に一人の婆樣がいた。その婆樣は大層親切に泊めてくれた。そしてその翌朝、お前樣がそんな美しい姿をして居ては、この先難儀をするから、これを着て行けと言つて、今まで自分が着て居たツヅレ衣物《ごろも》を脫いで着せて、娘の赤い衣物をば笹の葉につつんで背負はしてくれた。そしてこの婆々は實はお前樣の父親に先達《せんだつて》助けられた蛙だ。この後も、さし困つた事があつたら、俺の名前を呼べ、そしたら何所にいても必ず行つて助けて上げると言つた。

 娘は蛙の婆樣からもらつたツヅレ衣物を着ると、蛙の婆々と寸分違はぬ齡寄(トシヨリ)の汚い姿になつた。そして婆樣から敎はつた通りの路筋を通つて谷を下りて行くと、山々にいる鬼どもが、あれあれ彼所《あそこ》を人間が通ふる[やぶちゃん注:ママ。]。よい酒の肴だと言つて集まつて來た。するとその中から一人の鬼が、何だあれはこのカツチの古蝦蟇《ふるがま》だ。とても小便臭くて食はれた品物ぢやないと言つて笑ひながら、またどやどやと戾つて行つた。又行くと今度は大きな川があつた。困つたと思つて其岸にウツクダマツテ(躇《うづくま》つて[やぶちゃん注:「躇」はママ。読みは「ちくま文庫」版で補ったが、「躇」にはその意はない。「蹲」「踞」の誤字であろう。])居ると、其所にもまた山の鬼どもがどやどやと來かゝつて、あれア此所に見慣れない石がある。力較べをすべえと言つて、取つてブンと川向ふに投げ越して行つた。そこで娘は無事に川を渡つて里邊《さとべ》に出て行つた。

 里邊に出て、大きな館の前まで來て佇んで居ると、其家の門から一人の男が出て來て、婆樣々々お前は何處から來たか知らないが、この家の釜の火焚きになつてくれないか、この家の釜の火焚き婆樣が急に家さ歸つたので、俺が今《いま》人賴みに行くところだと言つた。娘は言はれるまゝに、其家の釜の火焚き婆々になつた。そして夜晝蔭日向なく立ち働いた。夜になると窃《そ》つとツヅレを脫いで、笹葉に包んだ絹子小袖を出して着て、皆が寢靜まると書物を讀んでゐた。

 或夜、長者の和子樣《わこさま》が手水《てうづ》[やぶちゃん注:厠。便所。]に起きると、火焚き婆樣の室から、灯影《ひかげ》が洩れてゐるので、不思議に思つて𨻶間から窺いて見ると、とても美しい娘が立派な衣裳を着て、書物を讀んで居た。それから每夜夜中に起き出《いで》て、娘の室を𨻶見《すきみ》して居たが、遂に戀の病となつて床についてしまつた。

 そんなことは何にも知らない長者夫婦は、大事な和子の病氣に魂消《たまげ》て、每日每日醫者よ法者《ほふしや》よと大騷ぎしたが、少しも利き目がなかつた。さうしてゐると或日、門前に八卦置《はつけおき》[やぶちゃん注:八卦見。易者。]婆樣が來た。困まつて居る時だから、早速呼び入れて、和子の病氣を卜(ウラナ)つて貰ふと、これは召使ひの者についての戀の病《やまひ》であるから、其者と夫婦にすればすぐに直ると置いた。そこで明日と云はず直ぐに七十五人もある下婢下女を一日休ませて、湯に入らせ化粧させて、一人々々和子樣の座敷に御機嫌伺ひに出したが、誰が行つても一向見向きもせず、頭を振るばかりであつた。七十五人の召使ひが七十四人まで行つて、殘つたのはたつた一人釜の火焚き婆樣だけになつた。女子《をなご》どもは笑つて、俺達が行つても和子樣は見向きもしてくれない。どうだ火焚き婆樣が行つて、此家の花嫁子《はなあねこ》になつてはと言つて、肱《ひぢ》突き袖引きをした。釜の火焚き婆樣の娘が遠慮して居ると、長者夫婦は例へ何であらうとて婆樣も女だ。和子の生命《いのち》には替へられないから、婆樣も早く仕度して和子のところに行つて見てくれと言つた。そこで娘は一番後から湯に入つてお化粧して、笹の葉つつみから赤い絹子小袖を出して着て、靜々と座敷へ通る姿を見ると、皆は魂消て開いた口が塞がらなかつた。和子樣のお座敷に行つて、和子樣の枕元に膝をついて、和子樣御案配(ゴアンバイ)がいかがで御座りますと言ふと、和子樣は初めて顏を上げて、ニコニコと笑つて、話をして一寸《ちつと》も娘を自分の側から離すべとはしなかつた。さうして和子の病氣がけろりと良くなつた。長者夫婦も大喜びで、直ぐに婚禮の式を擧げて七日七夜の御祝ひをした。

  (私が子供の時の遊び友達のハナヨと云ふ娘から
  聽いた話。此女は早く死んだが、不思議にも多く
  の物語を知つてゐた。今思ひ出すと百合若大臣の
  話なども完全に覺えてゐた。私の古い記臆と云ふ
  のは大凡《おほよそ》此娘から聽いたものである
  らしかつた。
  田中喜多美氏の話集にも此譚があつた。紫波《し
  は》郡昔話にある譚と略々《ほぼ》同じであつた。
  たゞ蛇の嫁子《あねこ》が、蛇の婆樣から姥皮《う
  ばがは》の外に浮靴《うきぐつ》と謂ふものを貰
  つてゐて、其靴で谷川を渡つたと云ふのが異つて
  ゐた。)

[やぶちゃん注:この話、全般が「猿婿入り」譚の定型であり、後半は先の「扇の歌」の話を男女入れ替えた話譚であることが判る。それにしても、不審なのは、水銀を入れた瓢箪が沼の水に浮かんで沈まないという部分である。水の比重の十三・六倍の水銀を入れた瓢箪は水には浮かばないのだが?

「ハナヨ」昔話を驚くほど知っている夭折の少女というのは、これ、何んとも惹かれるフェァリーではないか!

「百合若大臣」ご存知ない方は当該ウィキを参照されたい。

「田中喜多美」既出既注

「紫波郡昔話にある譚と略々同じ」佐々木喜善の本書より五年前の著「紫波郡昔話」(大正一五(一九二六)年郷土研究社刊)。国立国会図書館デジタルコレクションの原本を見る「六九」話の「姥皮」である。コンセプトは、ほぼ一致するが、そこでは、蛇を退治するアイテムは「縫針千本」のみであり、佐々木が附記で言う「浮靴」は出てこないのは不審である。酷似する話の中に出るのを記憶していて、うっかり行ってしまったものか。]

 

         (其の二)

 

 或山里に美しい一人娘を持つた爺樣があつた。この爺樣は前田千刈《まへたちかり》後田千刈《うしろたちかり》[やぶちゃん注:「た」の清音は「ちくま文庫」版の「後田」にのみ振られたルビを参考にした。]の田地を持つて居た。其田に水が一滴もないやうなギラギラ旱(ヒデリ)續きで、爺樣は每日每日田圃に出て見たり、天を仰ふで見たりして居たが、田の苗は段々と枯れて行くばかりであつた。旱なので遂に思案に餘つて、近くの山の谷合《たにあひ》にある大沼に行つて、何の後前(アトアキ)の考へもなくたゞたゞ田に水をかけたいばかりに、實際恐しい賴み事を其沼の主にしてしまつた。

 主(ヌシノ)殿主殿お願ひだから、俺の二千刈の田に水を引いてくれぬか、若し此事が叶つたら俺の可愛い娘をお前の嫁に遣るから、どうか俺の田にばかりでもいゝから、雨を降らせてくれと言ふと、其晚方から空が一ペンに曇つて大雨がザアザアと降り出した。そして一夜のうちに爺樣の田にばかり水がタツプリと湛(タマ)つた。

 爺樣はそれを見て一方では喜び一方では大層悲しんで、娘の座敷へ行つて、昨夜自分の持田にばかり雨が降つて水が湛つた事の譯を話し、どうか可愛想だがお前はあの沼の主殿の所へお嫁に行つてはくれぬかと言ふと、平素(フダン)から親孝行である娘であつたから、厭な氣もなく返辭をして、ではお父樣の言ふことだから行きませう。だが私に瓢簞《ふくべ》千個に小刀《こがたな》千丁、これだけ買つて來てくださいと言ふので、爺樣は直ぐ町へ行つて云ふ通りの品物を買つて來た。

 さうして居る所へ表玄關に立派な若侍が傘をさしてやつて來て、お賴み申す、お賴み中申す、約東の娘さんを嫁に貰ひにまゐりましたと言つた。娘は瓢簞千個、小刀千丁を持つて其侍に連れられて山奧の大沼のほとりへ行つた。すると其男は、娘に此所が我が家だから入れと言ふので、主殿々々私は入つてもよいが、其前にこの瓢簞を沼の底に沈めさせ、この小刀を水の上に浮べてくれたら何でもお前の言ふ通りになりますと言ふと、侍は大きに喜んで、其瓢簞を沈めやう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、小刀を浮べやうとあせつて居るうちに、段々本性を現はして大蛇となり、一生懸命にグレグレめかして働いたけれども、遂に瓢簞は水の中に沈まず、小刀は水に浮ばず、自分は疲れ切つて苦悶したあげくに死んでしまつた。

  (秋田縣仙北郡角館町、高等小學一年生の鈴木貞
  子氏の筆記摘要。昭和四年頃。武藤鐵城氏御報告
  の分の四。)

[やぶちゃん注:第一話の「水銀」と、この話の「小刀」を水に浮かべよという条件、二話に共通する鉄製の針から、どうも、不審な「水銀」は水銀に鉄が浮く事実を知っていた原話者が、そうした水銀に針や小刀が浮ぶというシークエンスを持ち込んで話を作ったものの、伝承過程で、圧倒的に水銀の特性を認識していない伝承者が、訳が分からないうちに話を誤って作り変えてしまったのではないかという気が、私にはしてきた。

「武藤鐵城」既出既注。]

大手拓次 「さかづきをあたへよ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 さかづきをあたへよ

 

手にさかづきをあたへよ、

この あをくふくらんだ憂鬱のかほが

なみをうつてよろぼふとき。

そして しばらくはふりかかる死の花粉をさけようではないか。

ながながとした髮のやうに

みづにべたべたとながれる憂鬱を脫がうではないか。

手にさかづきをあたへよ、

うすい ほろほろとしたさかづきをあたへよ。

 

大手拓次 「ペルシヤ薔薇の香料」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ(数篇である。原氏はそこで、詩集「藍色の蟇」について、『内容自体に問題がある』とされ、『自選詩稿をもとにしたとはいえ、配列の順序を変え、それ以後の作品をなかば恣意的二編集者』(友人逸見享)『が加えて、四半世紀にもわたる詩集を整理もせず一冊に盛りつけている』と痛烈に批判され、『したがって、本文庫の作品選択は、既刊本『藍色の蟇』の内容に左右されていない』と断り書きさえ記されておられる)が、一番最後に配する予定の「みづのほとりの姿」は同詩集にあるものの、表記が有意に異なることに気づいたので、特異的に採ることとした

 底本の底本の原氏の詳細な年譜によれば、昭和二年は、『健康すぐれず』、『長期欠勤をくりかえすが、詩作はかえって旺盛』であったとする。昭和三年も引き続き詩作がなされ、『この年、下宿に朔太郎、犀星の訪問を受けているが、月日不詳』とある。昭和四年の条には、引き続き、『健康すぐれず、会社欠勤の日が多いが、仕事に熱心で、社内の広告洋書研究会で「広告に対する心理的態度」「『近代感覚』と鋭覚的表現に就いて」等の研究発表を』しており、『前者は『ライオンだより』第』二十一『号に掲載される』とあって、さらに『詩作はこの年、本格詩のほか文語詩、口語詩の小曲が多作され「ふるへる微笑」(四十四篇)ほかの詩作ノートを残す』とある。昭和五(一九三〇)年一月には、『日本橋の』『病院に入院、痔の手術をする。三月より出社』している。この年は多数の文語詩を創作した。『また、昭和二年以降のおびただしい文語体小曲を「九月の悲しみ」と題する詩集仕立てのノート数冊に、浄書して残す』とあり、注記で『死後、昭和十五年に刊行された詩画集『蛇の花嫁』』(私のサイト内の「心朽窩新館」に、正規表現・PDF縦書ルビ・オリジナル注附版で公開済み)『は、「九月の悲しみ」稿より採られたものである。なお、これらのおびただしい文語詩は、すべて特定の女性目あてに書かれたもの。「わたしはつねに思ふのは相変らずひとりの人である。そしてその人を対象として詩ができるのである。無限に出来るのである」(詩稿欄外メモより)』とある。昭和六年には、『ふたたび本格的な口語詩作活発化するが、心境的な文語詩は、別に日記にも多くを残す』とある。昭和七年、『一月、白秋会に出席』、『八月』には、『ライオンだより』六十三号に『「『朝は子供に』に就て」(会社が白秋にいらして五月にできた虫歯予防のPRソング「朝は子供に」の解説文)を書く。研究論文「一九三二年の広告と近代画との関係」を、同誌』六十二号と六十四号に『分載』したとあり、他にも同氏への執筆作が挙げられてある。拓次は相応に自社への貢献をしていることが判る。しかし、『十一月、結核の症状』、『悪化し、転地療養おため伊豆山温泉、中田屋旅館に投宿、そのまま越年』したが、翌昭和八年『二月、寒気と粗食に耐えられず帰京』した。『二月』に『兄孫平』が郷里『磯部で死去』したが、拓次は『高熱のため葬儀にも出席不能』であったとあり、『会社にも出勤できず、下宿で療養する』も、『三月、茅ヶ崎、南湖院十二号室に入院。病床で六月まで連詩「薔薇の散策」』(詩集「藍色の蟇」に所収)『ほかを力をふりしぼって制作、八月『中央公論』に詩「そよぐ幻影」(絶筆)』(詩集「藍色の蟇」に所収)『を発表』とある。昭和九(一九三四)年、『四月十八日、午前六時三十分、南湖院にて誰にも見とられず死去』したのであった。]

 

 ペルシヤ薔薇の香料

 

小鳥よ はねをぬらせよ、

をかのかなたに 日はあたたかに

銀の冠毛のふはふはとして、

草はとびらをひらき、

むらさきいろの月をさがす。

 

[やぶちゃん注:「ペルシヤ薔薇」サイト「LOYAL BAZAR」の「about rose」の「バラの歴史」に、『ペルシャなど中東地域では』、『古くから宗教儀式や生活の一部にバラを取り入れていました。バラの花びらを蒸留した透明なローズウォーターが生産され、その蒸留方法は、十字軍の遠征をきっかけに広くヨーロッパに伝えられます。この頃からもうペルシャはバラの蒸留の高い技術を誇り、現在に至っています。今でも一年に一回メッカのカアバ神殿のすす払いが行われるときにはイラン産のバラ水による清めが行われているのです』。『バラはペルシャ絨毯の模様としてもひんぱんに用いられます』。『イスラム世界では白バラはムハンマドを表し、赤バラは神アラーを表します。「千夜一夜物語」やウマル・ハイヤームの「ルバイヤート」にもバラについての記述があります』とある。ペルシャ產のバラとして、現在、よく知られるのは、「ダマス・クローズ」(Damask rose)の別名を持つバラ目バラ類バラ科バラ属バラ品種ロサ・ダマスケナ Rosa × damascena であろう。当該ウィキを見られたい。]

大手拓次 「ふかみゆく秋」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。

 上記に従った本パートからの詩篇は、これが最後である。]

 

 ふ か み ゆ く 秋

 

とほくおとなひの手をのぞかせて、

あらはにもさびしさをのべひろげる祕密の素肌(すはだ)、

あしおともかろくながれて空の虹をいろどり、

砂地のをかにもみぢする木の葉をみおくり、

ちからのないこころのとびらをあけて、

わたしは、ふかみゆく秋のねにききとれる。

 

[やぶちゃん注:コーダの一行は、私には、表現上、ちょっと躓く感じがある。拓次の詩想の表現選択から考えると、まず、「ききとれる」は「ききほれる」の誤字ではあるまい。しかし、「わたしは」→「ふかみゆく秋のね」→「に」→「ききとれる」というのは、意味としては、「わたし」に「は、」「ふかみゆく秋のね」→「に」=「として」→「ききとれる」の意であろうと、私はとっている。]

大手拓次 「よみがへり」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 よみがへり

 

すべてのものをすてて、

わたしはよみがへる。

 

ものをすて、身をすて、たましひをすて、

うつし世のなごりをすてて、

わたしは野邊の草のやうによみがへる。

 

けれども、そのさびしさは黃金(こがね)の月のやうに、

過去のほほゑみをわたしの胸にこぼしてゆく。

 

大手拓次 「日光の靴をはいて」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 日光の靴をはいて

 

ひびきでさへもぬれるものを、

まして、やさしい女靴のひもはほどけて、

なみだのやうな粉雪のうづもれるぬかるみに、

そのとげとげのきらめく舌を出し、

赤にけむる銀いろの露をはじいて、

ほがらかに、影のきものをはねのけ、

よろこばしくのびのびとうすあをの色大理石の肌に、

きこえてもきこえてもたえまない小鳥の唄ををさめる。

 

大手拓次 「石竹の香料」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 石竹の香料

 

らんらんともえる眼(め)の牡牛は、

幻想の手をのばして、その爪(つめ)をひろげ、

風はあたらしい神祕をよんで、

裸體の相貌(さうばう)をうらづけ、

手槍(てやり)のやうな梵音(ぼんおん)の棘(とげ)を縫(ぬ)ひつくろふ。

 

[やぶちゃん注:「石竹」ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis。初夏に紅・白色などの五弁花を咲かせる。葉が竹に似ていることが名の由来とされる。中国原産。同属の知られたカーネーション Dianthus caryophyllus に似ている。私はいい香りとはは思わないが、これらの近縁種の花はバニラ・エッセンスの製造原料であるオイゲノール(Eugenol)を含むため、チョウジ(丁子/クローブ(Clove):フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum の花蕾を乾燥させた香辛料)の香りがする。

「梵音」「ぼんおん」。鐘の音。ここは、それの視覚的に物体化した幻想表現である。]

大手拓次 「赤い幽靈」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 赤い幽靈

 

おまへは星のさきみだれる沼からあがつてきた

一ぴきの幽靈だ。

封じられた感覺をのりこえて、

さびしいいなづまのやうにとびさる。

おまへは一ぴきの赤い幽靈だ。

あでやかにとぎすまされた白い骨壺のなかへ、

ふたたび影をおとさうとするのか。

 

ああ、おまへは瘴地(しやうち)にさく緋色の蘭のやうに、

そのくちびるに水をふくみ、

ふはふはとうかんで、

にげてゆく月の舌をおひかけるのだ。

 

[やぶちゃん注:「壺」異体字に「壷」があるが、詩集「藍色の蟇」での用字に従った。

「瘴地」(現代仮名遣「しょうち」)は、汎世界的に、熱帯及び亜熱帯地方に於ける熱病等を起こさせるものとされた、悪気や毒気を発するところの霧の如き「瘴気」を生み出す山川の地を指す。漢語で「瘴気」「瘴氛」(しょうふん)などとも言った(漢籍でも頻繁に出現する)。ウィキの「瘴気」によれば、欧米などでは、『「マイアズマ」「ミアスマ」「ミアズマ 」』『miasma』とも称し、『これはギリシア語で「不純物」「汚染」「穢れ」を意味する。漢字の「瘴」は、マラリアなど熱帯性の熱病とそれを生む風土を』指すので「地」は畳語と言える。代表的な対象疾患はマラリア』(ドイツ語:Malaria/英語:malaria)『であり、この名は古いイタリア語で「悪い空気」という意味の mal aria から来ている』とある。]

大手拓次 「靈の食器」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 靈の食器

 

髮のくさむらのなかにジヤスマンの香料は追ひこまれ、

あせばんだ寶石はしきりに夢のしぶきをはく。

をんなよ、

おまへのももをあをく化粧してねむれ。

おんなよ、

おまへのももをうすい絹でいたはつてねむれ。

それこそは此世で最もうつくしい靈の食器だ。

神と惡魔との交通する靈の食器だ。

夜はふかく地の底へ底へとながれ、

あをくぶよぶよする靈の食器は、

三つの手をのべて、

さめざめと遠くをまねいて吐息する。

 

[やぶちゃん注:「食器」には「器」の他、新字体の「器」の他に旧字には「噐」があるが、詩集「藍色の蟇」での用字に従った。

「ジヤスマン」フランス語で花の「ジャスミン」は“Jasmin”であるが、音写すると、「ジャスマン」である。シソ目モクセイ科 Jasmineae 連ソケイ(素馨)属 Jasminum のジャスミン(アジアからアフリカの熱帯及び亜熱帯地方が原産で、本邦には自生しない)類、或いは、ソケイ Jasminum grandiflorum であろう。先の「Jasmin Whiteの香料」の冒頭に附した注を参考にされたい。]

2023/04/26

下島勳著「芥川龍之介の回想」より「芥川龍之介のこと」

 

[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載に『昭和二・八・三・改造』とあるのだが、これ、諸資料を調べるに、昭和二(一九二七)年九月発行の『改造』が初出が正しい。或いは、下島の記憶違いではなく、執筆のそれを記してしまったものかも知れない。この八月三日には先の『下島勳「芥川龍之介終焉の前後」』(『文藝春秋』昭和二(一九二七)年九月発行の『文藝春秋』の「芥川龍之介追悼號」に寄稿されたもの)の下島の末尾クレジットと一致するからである。後の下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。或いは、本篇の内容のから見ると、先に以上の『文藝春秋』の依頼原稿を受けた直後に改造社からの依頼が舞い込み、まず、『文藝春秋』の原稿を書いてあったか、書いたかした後に、続けて、内容がダブらないように気を使って書いた可能性が高いようにも思えるのである。頭で「雜用も多く、それに心身も疲勞してゐるので、落ちついて書くことが出來ない」という言い訳は、同じクレジットを持つ『下島勳「芥川龍之介終焉の前後」』の書き振りとは、余りにも差があり過ぎるからである。

 なお、私はサイト版で本篇を十一年前に電子化しているが、これが決定版となる。

 著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た(但し、単行本刊行時期のため、正字と新字が混淆してはいるので、そこにはママ注記を入れた)。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。一部に注を挿入した。また、本篇にはルビが一切ないが、なくても概ね読めるが、一応、若い読者のために、ストイックに《 》で推定で歴史的仮名遣で読みを振った。]

 

芥 川 龍 之 介 の こ と

 

 芥川氏のことについては、書きたいことは隨分あるやうな氣もするが、今は雜用も多く、それに心身も疲勞してゐるので、落ちついて書くことが出來ない。これは改造社に對しまた讀者に對し、相すまぬことである。

 芥川氏と私とは十二年の長い間の接觸で、單に醫者としてばかりでなく、老友として、また年こそ違へ私の師として、種々の敎へを受けてゐたのである。

 世間の人々は、私が醫者であるがために、直ぐ芥川氏の體質や病氣のことを聞きたがる。現に改造記者も、そんなことが注文の主要事項のやうだつた。

 芥川氏の體質や病氣については、世閒にいゝ加減な臆說や誤りが流布されてゐる。また種々の尾鰭がつて、肺結核だの甚だししきは精神病者とまで傳へられてゐる。これは醫者としてまた友人としても忍びがたいことであるから、この機會においてその妄《まう》を辨じておく。

 その一は肺結核說である。なるほど、あの瘦せた身長五尺四寸以上[やぶちゃん注:一メートル六十三・六センチメートル超え。]、頸のたけまでひよろ長い、しかも聊か前屈の姿勢で、日本人には稀に見る、あのバイロン卿の寫眞でも拔け出したやうな、眼の麗はしい白哲の美貌家に接したなら、誰でもが一見、肺でも惡るさうな第一印象をうけるに不思議はない。現にさう云ふ私でさへ、初對面がそれであつた。

[やぶちゃん注:「バイロン卿」イギリス・ロマン主義を代表する詩人で、ロシアを含むヨーロッパ諸国の文学に影響を与え、本邦でも明治以来、英詩人中、最もよく知られたイングランドの詩人ジョージ・ゴードン・バイロン(バイロン卿・第六代バイロン男爵)(George Gordon Byron, Lord Byron , 6th Baron Byron  一七八八年~一八二四年)のこと。バイロンは「ギリシャ独立戦争」へ身を投じたが、現地で熱病により亡くなった。満三十六であった。]

 併し見ると實際とは違ふことがある。殊に藝術家の體格や體質は、餘程注意しないと、見そこなひに終ることがある。尤も芥川氏などは、幼年時代に頭腦の發達が早い方で、斯ういふ人の常として兎角、肉體の方は餘り健康ではなかつたらしい。よく風邪をひく、氣管支加答兒《カタル》に罹る。と云つたやうなことから、ほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に肺でも惡くすると困るといふので、もとの高輪病院の院長瀨脇ドクトルの注射治療を受けたことがあるさうでゐる。

[やぶちゃん注:「加答兒」英語「catarrh」とは、一般には、粘膜で起こる滲出性炎症を指す。

「高輪病院の院長瀨脇ドクトルの注射治療を受けたことがある」このような事実は私は知らない。この「瀨脇」医師の名も初めて聴いた。一応、下島が芥川家主治医になる頃までの、新全集の年譜を確認したが、そのような事実は記されていない。]

 先年支那視察に行かれたときは、感冒後の氣管支加答兒が全治しないのを、種々の都合で決行した。案じた如く大阪の宿で發熱する。無理に船に乘つて上海へ上陸早々肺炎を起して入院する。と云つたやうなことではあつたが、それも間もなく治療して、あの困難な支那旅行を終へて歸つたほどである。

[やぶちゃん注:「芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈」の「八七五」から「八八三」までの芥川龍之介書簡を読むのが、経過を細かに知るには最適である。但し、龍之介が入院した病院の現在の状態などを見たければ、「上海游記   芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」(教え子の撮ってくれた写真が多数ある)の「五 病院」までの部分を読むに若くはない。

 その後も流行感冒に罹つたこともめるが。大した後害など貽《のこ》さずに治癒してゐる。から、假りに少牟時代に疆い肺炎加答兒ぐらいやつたことがあつたにしても、少くと私の知つてからの芥川氏に、肺結核の症狀のなかつたことだけは、保證出來る。

 その二は胃のアトニーである。この病氣は三年ばかりこのかたのことで、始めは獨立してゐたわけではなく、神經症狀に伴なつてゐた。即ち神經症狀のよいときには胃もよく惡いときにはいけないといつたやうなことで、胃のアトニーとして症狀の獨立したのは、最近一年ぐらいのことである。

[やぶちゃん注:「胃のアトニー」「アトニー」は “atony” “Atonie”で「非活動的状態」を意味するギリシア語「アトニア」由来。過去に「胃下垂」「胃痙攣」「胃酸過多」「神経性胃炎」というように呼ばれていた症状と同義で、現在は医学的には「機能性ディスペプシア」(Functional Dyspepsia)と呼ぶ。「済生会」公式サイト内の新潟病院消化器内科医長岩永明人氏の本疾患についての解説によれば、『「機能性」は形態的異常、つまり形が変わったり、傷がついていたりといったことがないにもかかわらず』、『症状を起こす状態のことを指し』、『「ディスペプシア」はギリシャ語に由来し、dysbad=悪い)+ pepteindigestion=消化)、すなわち』、『胃や十二指腸に関連した「消化不良」を意味』し、『機能性ディスペプシアとは、検査で異常が確認できないにもかかわらず、胃もたれや胃痛といった症状が続く病気』を指すとあり、附記があって、『「慢性胃炎」という聞き慣れた病名もあ』るが、『これはピロリ菌による病気で、胃もたれや胃痛といった症状とは直接関連しないことが分かってき』た、とあった。]

 食事は隨分注意する方で、もう二年ぐらい一日二食であつた。酒は飮まず特別これと云ふ嗜好を持つてゐない同氏にとつての唯一の嗜好は莨《たばこ》であつた。莨は洋の東西を問はず何でも用ひられたが、晚年はおもに日本製であつた。殊に創作は多く夜中になるので、朝の莨の吸ひ殼の量は、讀者の想像におまかせする。だから、芥川氏の莨の消費量は恐らく創作に比例したものと云つても差し閊《つか》へないであらう。

 時をりは苦《つら》い忠告を試みたが、こればかりはと哀願しものである。云ふまでもなく藝術家の生命は創作である。よし胃はおろか、體全體に良くない影響があるとしてからが、創作を妨げるのは忍びないことであり。芥川氏の場合など實にそれであつた。

 その三は痔疾である。これは脫肛として現はれる種類のもので、寒い夜中の勉强が過ぎたり、或は氣候の惡い時分に創作をしたりするときに起る。時々疼痛の劇しいため苦しむこともあるが、出血したり或はコンニヤクやハツプなどで溫めて、安臥してゐれば充血が去つて收縮する程度のもので、手術の必要ありなど認めたことは一度もない。この起り始めは胃病と同時ごろか、或は少し前であつたか判然しない。

 その四は神經衰弱である。芥川氏の神經衰弱は頗る有名なものである。だが、同氏の神經衰弱を談《かた》る前に是非知つておかねばならないのは、同氏がもつ腦神經の作用である。私は私の乏しい經驗の上において、異常な神經の作用を持つものも少しは識つてゐた。併し末だ曾て芥川氏の如き異常な神經のの所有者に接したことはない。西歐のことは暫くおき我日本にあつて、天才の有無など餘り問題にしなかつた私が、一たび芥川氏に接してからは、始めて天才と云ふものもあると云ふことを識つたのである。なぜなら、それは單に謂ゆる頭腦がイイとか記臆力[やぶちゃん注:ママ。]が非常に發達してゐるとか云ふ種類のものでなく、異常の上の異常、寧ろ不可思議な作用を持つてゐたからである。このことについては、何れ書くつもりでゐるから、こゝに、唯一二の例を擧げるに止《とど》める。

 試みに芥川氏の讀書するところ一見したもので、その速度に愕かぬものはないであらう。それは普通に云ふ早さなどではなくて、邦文ものなどは、恰《あたか》も銀行會社の職員が計算表でもめくつてゐるのと同じやうである。また雜誌の小說などは、人と談話をしながらサツサと讀むし、それでゐながら確實なことは愕くべきものがある。

 曾て大阪の新聞社に用事があつて出張したときの如き、京都に一週間ばかり滯在を見こんで、部厚な洋書を五六册携帶したのであつたが、列車が京都の停車場へ到着するころは、のこらずそれを読みつくして、滯在中は京都にゐる友人から借りて讀んだといふやうな直話がある。

 また元祿以後明治大正に至るまで著名な俳人の俳句の代表的のものなどは、年代を逐《お》つて記憶しをり、俳談の場合などには、隨一分人を愕かすことがあつた。室生犀星氏など時々――嫌になつてしまう[やぶちゃん注:ママ。]と、嘆聲を發したこともある。

 故鷗外先生も當時記憶力の雄をもつて聞へた[やぶちゃん注:ママ。]人でゐるが、迚《とて》も芥川氏のやうな異常性はなかつたらしい。

 氏は自分でよく云つた。――俺の神經は細くて弱いが、腦髓の丈夫失なことは誰にもまけないと。これは一寸非科學的のやうに聞こえるが、實は芥川氏の腦神經はこれで說明が出來るのである。例へば二晝夜の不眠不休も、腦そのものは大した疲勞を感じない、即ち腦の中樞はまだ充分餘裕があるのに、神經の疲勞が來ると云ふやうなわけである。頭痛などといふことは、一度も聞いたためしがない。

 時として、――俺は氣ちがい[やぶちゃん注:ママ。]になるかも知れない、などと云ふこともあつた。さういふときには私は、――その埋智の飽くまで發達してゐる頭腦と、その聰明さでは、迚も氣ちがひなどにはなれ得ないと云つたものである。だから芥川氏の神經衰弱は、普通の意味の神經衰弱などとは大いにその趣きを異にしてゐる。況んや、精神錯亂などとはとんでもない誣妄《ふまう》といはねぱならぬ。その證據は、「舊友に送る手記」でも遺書でも、また「西方の人」などを讀んでみても略《ほぼ》わかることであらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「誣妄」偽って言うこと。ないことをあるように言って、人を落とし入れること。

「舊友に送る手記」「或舊友へ送る手記」の誤り。私のサイト版をどうぞ。

「遺書」私の強力なサイト版「芥川龍之介遺書全六通 他 関連資料一通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん詳細注2009年版≫」を参照されたい。

「西方の人」私のサイト版「西方の人(正續完全版)」を見られたい。]

 遺傳については近いところに存在する。併し芥川氏の如き人にとつて、それが果して重大な意義をもつだらうか、なぜなれば、精神病の遺傳或は神經性遺傳などといふものは、實はいゝ加減なもので、嚴密に檢べたら、遠近の差こそあれ必ず出てくると云ふても、過言とは思はれぬ。要するに人間は或る意味において、悉く精神病者たり得べき素質をもつてゐからである。

[やぶちゃん注:「遺傳については近いところに存在する」芥川龍之介自身が恐れた、実母フクのそれを指す。しかし、私は、フクの精神疾患については、遺伝性のものではないと考えている。それはさんざん書いているので、ここでは控える。]

 終りに芥川氏は菊池氏の謂《いは》ゆる文壇第一の學者であつた。このかくれもなき博學賢明の小說家に、自殺問題について批判のないわけがない。現に彼《か》の有名な某將軍の自殺にも、或は某文學者の死にも、禮讃することの出來なかつた芥川氏が、恬然《てんぜん》として自殺するに至つたのは、果して何を語つてゐるのであらうか? 謎は自然に解かるべきである。

(昭和二・八・三・改造)

[やぶちゃん注:「有名な某將軍の自殺」乃木希典の殉死を指す。

「某文學者の死」有島武郎の心中自殺を指す。

「恬然」 何事も気にすることなく、平然としているさま。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 松山鏡の話

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。太字は底本では、傍点「﹅」である。

 なお、冒頭に出る「『鄕土硏究』第二卷第八號四七四頁」に載るのは、「選集」によれば、『越原富雄「松山鏡の話」』という論考とある。この越原富雄というのは、児童劇作家・同研究家であった長尾豊(明治二二(一八八九)年~昭和一一(一九三六)年)のことかと思われる。東京浅草生まれで、旧制中学三年中退。大正三(一九一四)年に有楽座の「こどもの日」のために演劇脚本を書き、研究劇団『トリデ社』で俳優活動しながら、独学し、「マコモ生」「和田唯四郎」「孫董」「尾島満張慶亭」「要二郎」「越原富雄」「長尾まこも」などのペンネームで著述。後、児童文学・児童演劇に文筆を揮った。著作に「お話あそびと小さい劇」・「児童劇指導の実際」などがある。]

 

     松 山 鏡 の 話 (大正四年三月『鄕土硏究』第三卷第一號)

         (『鄕土硏究』二卷八號四七四頁)

 一八五三年板、パーキンスの「亞比西尼亞住記(ライフ・イン・アビシニア)」(五八―九頁)に、囘敎徒の傳說を載せて、婦女の嫉妬は最初の女人イーヴが創《はじ》めだ、とある。アダム夫婦、樂土に在つて、當初、暫くの間、頗《すこぶ》る和融したが、アダムは、每夕、祈念の爲、天に上《のぼ》つた。魔王、疾《はや》くより、女人の心底の弱點を知悉し、『是が、人間に災難を播(ひろ)むべき好機會。』と見て取り、イーヴを訪うて、「アダムさんは、御動靜、如何《いかん》。」と、問うた。イーヴ、「亭主は只今、祈念の爲、上天したところ。」と答ふると、魔王、信ぜぬ顏つきで、微笑した。「何故、いやに、笑ふか。」と問返《とひかへ》すと、「イーヴの氣を惡くしたり、アダムの名を損ずる樣な事は述べたくない。」と答へた。イーヴが益々聞きたくなるを見濟(みすま)し、いと氣の毒な振《ふり》して、御前樣(おまへさま)はまだ知らぬが、アダムさんは祈念に託して、每夕、情女を訪《おとな》ふのだと告げると、イーヴ、嘲笑して、上帝が作つた女とては、予、一人だ。アダム、爭(いか)でか、他に女を拵へ得ん。」と言ふと、「論より證據、本人を招いて見すべし。」とて、鏡を見せ、イーヴ、自分の形像を見て、『アダムの情女《いろ/いろをんな》、實在す。』と信じたのが、女人嫉妬の始りだつたさうな。

[やぶちゃん注:「松山鏡」所持する小学館「日本国語大辞典」(昭和五一(一九七六)年初版)を引く。第「一」義に、『昔話』として、『①鏡を知らないことを趣向とする笑話。親爺が上方見物に行って鏡を見、父親がいると思って買って帰るが、娘が見て、若い女を連れて来たと思う筋の話』とし、次に、『②越後国松の山の姫が、母に形見にもらった鏡に映る姿を母と思ってなつかしんでいたという話』とし、第「二」義の「一」に、先の『②から取材した謡曲。五番目物。観世・金剛・喜多流。作者不詳。先妻の三年忌に焼香のため持仏堂に行くと、姫が何かを隠すのでこれを怪しむ。しかし、姫が、母の形見の鏡に映る自分の姿を母と思って追慕していたことがわかり、鏡のいわれを教えてやる。そこに母の亡霊が現われ、娘の回向する功徳によって霊は成仏するという筋』とある。なお、ネットの「精選版 日本国語大辞典」(第二版)では、解説が少し追加されてあり、第「一」義に「三」があって、『③ ②の筋を大伴家持に付合したもので、家持が篠原刑部左衛門と改名、娘京子は形見の鏡で母をなつかしむが、継母のいじめに耐えきれず、鏡ケ池に入水する話』とあり、さらに『そこに母の亡霊が現われ、』の後が、『倶生神』(閻魔庁の書記官)『がこれを追って来るが、姫の回向する功徳によって母は成仏し、倶生神も地獄へ帰る。』とシノプシスの追加がある。また、リンク先には、小学館「日本大百科全書」の以下の落語の「松山鏡」がある。『落語。原話は仏典の』「百喩経」(ひゃくゆきょう)『にあり、中国明』『末の笑話集』「笑府」に入っており、それが『日本で民話になった。能』「松山鏡」や、狂言「鏡男」も『成立し、類話が各地に残るが、その落語化である。越後』『の松山村の正助は、親孝行で領主に褒められ、望みの品を問われたので、亡父に会いたいと答えた。そのころ村に鏡がなかったので領主は鏡を与えた。正助は鏡に写る自分を父と思って、ひそかに日夜』、『拝んでいた。女房が不審がり、夫の留守に鏡を見ると女の顔が写るので、けんかになった。比丘尼』『が仲裁に入り』、『鏡をのぞき』、『「二人とも心配しなさるな。中の女は、きまりが悪いといって坊主になった」』とあり、八『代目桂文楽』『が得意とした』とある。この落語の方は当該ウィキが詳しい。これらに出る、「松の山」「松山村」というのは、現在の新潟県十日町市松之山(グーグル・マップ・データ)で、そこに伝わる先の大伴家持絡みの伝承(家持がここ松之山に来たという史実はない)については、新潟県十日町市松之山のポータルサイト「松之山ドットコム」の「伝説 松山鏡」を見られたい。

『一八五三年板、パーキンスの「亞比西尼亞住記(ライフ・イン・アビシニア)」(五八―九頁)』「アビシニア」はエチオピアの別名。これはイギリスの上流階級の出身で旅行家であったマンスフィールド・ハリー・イシャム・パーキンス(Mansfield Harry Isham Parkyns 一八二三年~一八九四年)が書いた最も知られたエチオピア紀行(一八四三年から一八四六年まで滞在)Life in Abyssiniaの初版。熊楠の指すのは、「Internet archive」の原本ではこちらである。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 五二番 扇の歌

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

      五二番 扇の歌

 

 或所の、此所ならば八幡樣のやうな大きなお宮の秋祭禮(マツリ)を見に、美しい和公樣《わこさま》が行くと、五六人のお伴を連れた美しい姬樣から一本の扇子をもらつた。その扇の表には、

   吹けば飛ぶ

   吹かずば飛ばぬへの國の

   千本林を右手(ユデ)に見て

   ヒイロロ川に架けたる

   腐れの橋を渡つて

   たずね御座れや……

と謂ふ文句の歌が書いてあつた。若者は扇子の歌が何のことだか解《と》けなかつた。そしてそれをくれた姬(アネ)樣の美しい顏や姿が目にちらついて、どうしても忘れられないので、その姬樣の家を尋ねて旅に出た。そして二日も三日も旅を續けて行つたが、どこの里の長者の姬樣だか少しも訣《わか》からなかつた[やぶちゃん注:「訣」はママ。この字は「別れる」「奥の手」の意はあるが、「判る」の意はないので、当て字誤記か誤植である。]。すると或る日六部《ろくぶ》に逢つたから、扇を出してその歌の意解《いと》きを賴むと、六部はそれを讀んで、これは斯《か》うだと敎へてくれた。卽ち吹けば飛ぶ吹かずば飛ばぬへの國とは、糠部《ぬかのぶ》の郡で、千本林とあるからは、それは竹林のことであろう。そしてヒイロロ川とは鳶川(トビカワ[やぶちゃん注:ママ。])で、腐れの橋とは勿論石の橋である。其所の長者どんのお姬樣であると解いてくれた。若者は其所を尋ねて行つた。けれども身分の相違や何かでどうしても名乘り出ることが出來ないので、長者どんの門前を行つたり來たりして居ると門前の小さな家から婆樣が出て來て、これこれお前樣は何して朝からさうして、何度も何度も其所を行つたり來たりして居申《ゐまう》セやと聲をかけた。若者が私は何か仕事をしたいが何か無いものやらと言ふと、婆樣はそれは恰度よい所だつた。實は前の長者どんでこの頃、竃《かまど》の火焚き男をほしいと言つて居たが、お前がやつてみる氣はないかと訊いた。若者は俺は何でもよいから是非賴むと言ふと、婆樣は直ぐに長者どんへ行つて話をきめて來てくれた。

[やぶちゃん注:「此所ならば八幡樣のやうな大きなお宮」とあるが、末尾に採話情報の附記がないので、「此所」は不明である。一応、それがない状態で佐々木が示したのなら、遠野であると考えてよいだろうとは思う。

「和公樣」「和子・若子」で、ここは「身分の高い人の貴人の男子」「御曹司」のこと。

「右手(ユデ)」不審。「ゆ(ん)で」は「弓手」で左手。右手を表わす「馬手」(めて)を「ユデ」と激しく訛ったとなら、それでは「ゆで」と区別がつかなくなるから、よく判らない。

「六部」「八番 山神の相談」で既出既注。

「吹けば飛ぶ吹かずば飛ばぬへの國とは、糠部の郡」糠は吹けばぱっと飛んでしまうが、吹かないとならば、或いは、吹いたとしても、飛ばない、「へ」(遍・僻)の地にある「郡(こほり)」で、嘗つて平安後期から中世に存在した陸奥国の「糠部郡(ぬかのぶのこほり)」のこと。現在の青森県東部から岩手県北部にかけてあった広域であった。平凡社「世界大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)、『岩手県北部の二戸郡、九戸郡あたりと、下北半島を含む青森県東部一帯の地域の中世の郡名。郡とはいっても』、『古代には見えないもので、平安時代末以後の中世に特有のものである。古代の律令制下の郡は岩手郡(盛岡市のあたり)が北限で』、十『世紀までには建置されていた。それ以北の地は』、『蝦夷(えみし)の居住地で、律令制にもとづく支配の及ばないところであった。糠部は、そのような蝦夷の居住地の汎称であったものが』、十二『世紀に』至って、『郡として把握されるようになったものであろう』とある。

「鳶川(トビカワ)」不詳。青森県十和田市に渓流の蔦川(つたがわ)ならあるが、北過ぎる。

「腐れの橋とは勿論石の橋」意味不明。超古代の木橋が化石化したという伝承でもあるものか?]

 若者は長者どんの竃の火焚き男に住み込んでから、ナゾにかして姬樣の姿を見たいものだと思つたが、なかなか見る時がなかつた。或時、門前の婆樣に訊くと、長者どんには確かに美しい姬樣があると言つた。その姬樣を一目見たいと思ふけれどもそれも出來ない。何も斯《か》にも時節を待つより仕方がないとあきらめて、一生懸命に働いて居た。晝は竃の火を焚き、手面目面(テズラメズラ)に眞黑く炭を塗つて働いて居ても、夜になれば人仕舞ひながら湯に入つて、髮を上げて、自分の室に引籠《ひきこも》つて書物を讀んで居た。ある夜長者どんのお姬樣が遲く厠《かはや》に起きると、珍らしくも下男部屋から燈影(アカリ)が見えるので、何をして居るかと思つて窃《そつ》と忍び寄つて、戶の節穴から内を覗いて見ると、いつか秋の祭禮で見てからと謂ふものは片時も忘れたことの無い何所の和公樣が其室(ソコ)に居た。姬樣は魂消《たまげ》て自分の座敷へ戾つて來ると、そのまゝ病氣になつてしまつた。

 長者どん御夫婦は、娘の病氣が何だかは知らないから、大層心配して、ありとあらゆる醫者や法者《ほふしや》を呼んで見せるが、少しの驗(ケン)もなかつた。ところが門前の婆樣が來て、お姬樣の病ひは醫者でも法者でも直らない。館中の多くの召使《めしつかひ》の中に、思ふ人があるから、其の人と夫婦にすればよいと言つた。長者どん御夫婦は娘の生命(イノチ)には何事も替え[やぶちゃん注:ママ。]られないから、そんだら早く多くの召使ひの者どもに娘の機嫌を伺はせて見ろと言つた。そして七十五人もあつた男どもに、一人一人湯に入れて髮を上げさせて、奧の座敷へ姬樣の御機嫌伺ひに出させた。

[やぶちゃん注:「法者」何度も出たが、再掲しておくと、民間の呪術者、山伏や巫女(みこ)のような連中を指す。]

 七十五人の下男共は俺こそは、ここの長者どんの美しい姬樣の花聟になりたいと、湯に入つて顏を洗ひ、奧の姬樣の寢て居る座敷に、しよナくナ[やぶちゃん注:意味不明。「やりようが最早ないまで」「めちゃくちゃに」「徹底的に」「すっかりしっかりと」辺りか。]めかして行つて、お姬樣もしおアンバイは如何めされましたと言つても、姬樣は脇面《そつぽ》[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版のルビを参考にした。]向いたきりで返事もしなかつた。入り變り立ち變り一人々々、お姬樣もしおアンバイは如何めされましたと、行くが、[やぶちゃん注:底本は句点だが、「ちくま文庫」版で訂した。]誰一人として返事をかけられた者はない。さうして遂に七十五人の者が七十四人まで行つたけれども、誰もかれも見向きもされない。返事をかけられた者もなかつた。次のお座敷にひかへて居た長者どん御夫婦は、これでも分らないかと思つて大層心配していた。そしてもうあとには誰も居ないかと訊くと、彼《か》の竃の火焚き男の外には誰も居ない、あの竃の火焚き男を出したなら、かへつてお姬樣のおアンバイがワリくなるベエと答へた。すると門前の婆樣がいや否々《いやいや》さうではない。是非あの男も出せと言つた。そこで竃の火を焚いて居た男を風呂に入れて、髮を取り上げさせて、お姬樣の座敷に伺ひ出ろと呼び出した。

 竃の火焚き男は風呂に入つて、髮を取り上げて、靜々と座敷に入つて來た。それを見ると、見たことも聞いたこともないほどの美男であつた。若者は奧の姬樣の座敷に行つて、屛風の蔭から、お姬樣もしおアンバイは如何で御座いますか言ふと、姬樣は顏を眞赤にして、お前樣はどうして此所に來ましたと訊いた。若者はお前樣を見たいばかりに永い旅を續けて來て、斯《か》く斯くの苦勞をして居ると物語つた。それを聽いて姬樣は初めてにかにかと笑つた。

 長者どん御夫婦はあれだあれだといつて喜んで、その和公樣と姬樣は目出度く夫婦となつて孫《まご》繁《し》げた。

[やぶちゃん注:最終段落の冒頭は一字下げがないが、下げた。]

大手拓次 「色彩料理」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 色彩料理

 

人間の眼玉をあをあをと水のやうに

藍繪(あいゑ)の支那皿にもりそへ、

すずろに琴音(ことね)をひびかせる蛙のももをうつすりとこがして、

みづつぽいゆふべの食欲をそそりたてる。

あぶらぎつた蛇の花嫁のやうな黑い海獸の舌、

むしやきにしたやはらかい子狐の皮のあまさ、

なめくぢのすのものは灰色の銀の月かげ、

とかげのまる煮はあをざめた紫の星くづ、

むかでの具足煮は情念の剌(とげ)、

かはをそのそぎ身はしらじらしい朝のそよ風、

まつかな極彩色の大どんぶりのなかに、

帶のやうにうづくまる蛙の卵はきらめく寶石のひとむれだ。

病毒にむくんだ手首の無花果(いちじゆく)は今宵の珍果、

金いろにとけるさかづきにはみどりの毒酒、

ふかい飽くことをしらない食欲は

山ねずみのやうにたけりくるつてゐる。

 

[やぶちゃん注:「食欲」の「欲」の単漢字は、詩集「藍色の蟇」では、「欲」と「慾」の両字が併用されているが、「食欲」の熟語の場合は、「洋裝した十六の娘」(ブログ単独版)の一篇のみで使用されおり、ご覧の通り、「欲」となっていることから、「食欲」で表字した。また、「とかげのまる煮」と「むかでの具足煮」の「煮」は、字としては「煑」の異体字もあるが、詩集「藍色の蟇」では、そもそも「煮」「煑」の使用例がない。また、大手拓次譯詩集「異國の香」(リンクはサイトPDF縦書版)の一篇、『古い眞鍮の壺(ヒルダ・コンクリング)』(ブログ単独版)の詩篇中で、「壺はお米を煮てくれる。」の一行があることから、底本の「煮」の字を変えずに用いた。

「かはをそのそぎ身はしらじらしい朝のそよ風、」は、前の並列対応する五行、名詞節ブレイクの、それを見るに、それぞれの食材対象を、「黑い海獸の舌」・「子狐の皮」・「なめくじのすのもの」・「とかげのまる煮」・「むかでの具足煮」と指示していることから、この一行は、私は「《かはをそ》の《そぎ身》」――川獺(かはをそ)の削ぎ身――の意ととった。獺(わうそ)は、日本人が滅ぼしてしまった食肉目イタチ科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon。博物誌は「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」を見られたい。なお、正しい歴史的仮名遣は「かはをそ」とされ、例えば、所持する大学以来の愛用の角川新版「古語辞典」(久松潜一・佐藤健三編・昭和五一(一九六六)年五十五版)の見出し語は、確かに「かはをそ」である。しかし、所持する小学館「日本国語大辞典」の「かわうそ」では歴史的仮名遣を「かはうそ」とし、「かはをそ」を歴史的仮名遣の表記として載せていない。一般に、「かは」は「川」であるが、「をそ」或いは「おそ」の語源の方は実は不確かで、「恐ろしい」の意とも、人を騙(だま)して「襲う」妖獣であると考えられたことから、「襲ふ」の意とも、また、人を騙すことから、「嘘」や「嘯く」に由来するなど、諸説があり、未詳である。但し、これらの語源説は、「かはをそ」を正規の歴史的仮名遣とする根拠には、ならないので、私には不審ではある。]

大手拓次 「木立をめぐる不思議」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 木立をめぐる不思議

 

鳥のさわぎたつこのしめつぽい木立の心臟のなかに、

黃金(きん)の針をたてて、

つめたくわたしをおびやかすあを色の不思議が叫んでゐる。

わたしは眞赤なくちびるをぬらして、

その熟した不思議の橫顏をべつとりとなめる。

ほそい月のあしあとが、

そらのおほきな腹のうへを漕いでゆくやうに、

わたしのおどおどした舌の聽力は、

木立のかもす料理のあまさに溶けてゐるのだ。

何物ともしれない、さやかな不思議のおとづれが、

日光のしづかなしづかな雨のやうに、

また小鳥の遠いさへづりのやうに、

こころよく、かろく、濡(ぬ)れながら、

わたしの、ひびきにふるへる舌のうへに流れでくる。

 

大手拓次 「ちりぎはのばらの香」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 ちりぎはのばらの香

 

ちりぎはのまつかなばらのにほひは、

あをざめたとむらひ僧の顏をゆびさし、

あるひは、七色のおしろいをつけた、

くらやみの女の眼をあらはす。

さてそこに、靑銅のよろひをつけ、

あまい死のねどこへいそぐ騎士のみぶるひを嗅ぐ。

 

大手拓次 「氷河の馬」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 氷河の馬

 

眼がふしぎの草をはやし、

耳が大空にかくれる月のにほひをかぎわける

やせた美しいをとこの馬。

あをざめた霧のしきりにとびかふ氷河のうへに、

おもおもしい過去のゆめはたれかかり、

つめたい命のらふそくをかみくだく馬は、

ひづめのおとをたて、

たれかかるその夢のなかにあらはれる。

馬はひとすぢの霧、

きりはまた、めづらしい花をひらくひとつの草、

ひづめのおとは寶石のつながりとなつて、

氷河のうへにうごく亡魂を追ひちらし、

さて、しづかに呼びかへしてともどもにひかりのみちにかけてゆく。

 

2023/04/25

佐々木喜善「聽耳草紙」 五一番 荒瀧の話

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

      五一番 荒瀧の話

 

 靑笹村に荒瀧と謂ふ力士があつた。子供の時から小力《こぢから》が强くて、村の祭場《まつりば》などでは常に角力《すまふ》の大將になつて居た。そして方々のスバ(角力場)を踏んで步き廻つたが、どの村ヘ行つても荒瀧に勝つ者がなかつた。そこで俺は餘程の大力なんだなアと思つた。

 荒瀧はますます大力になりたいと思つて、遠野郡での御山(高山)六角牛山《ろつこうしさん》に願をかけて、冬の雪山を、裸體(ハダカ)で素足(ハダシ)で每夜御山《おやま》かけをした。雪山はいつも腰きり深かつたが、精神を籠めて居たから體には少しも障《さは》らなかつた。或夜、常のやうに御山の御頂《ゴテン》へ行つて、御堂の内で一生懸命に拜んで居るとこの山の主《ぬし》の若い女の神樣が現はれて、肩肌を脫いで白い乳房を出して飮ましてくれた。それからは每夜神樣が乳を飮ましてくれた。この山の神樣は他《ほか》の石上山《いしかみさん》、早池峯山《はやちねさん》の山々の女神達と御姉妹で、その中の一番の姉樣であつた。荒瀧に逢ふ時には大變黑い長い髮を引いて居つた。

 荒瀧はどんな强敵に出會つても、土俵で六角牛山の方を向いてジダシブミ(四股《しこ》)をすると、必ず勝つたと謂ふ。或る年その當時江戶相撲で橫綱の日ノ下開山秀之山《ひのしたかいさんひでのやま》といふ角力取りが來たことがあつた。その時荒瀧は飛入りに入つて秀の山の一番弟子を難無く負かしてやつた。そして土俵を廻つて降(オリ)やう[やぶちゃん注:ママ。]とする時、秀の山が立つて來て、どうもお前はよい體格(カラダ)だなアと言つて背をそツと撫でた。ただ撫でたやうに見えたのだつたが、その實は荒瀧の肋骨(アバアボネ)が二三本折られて居た。それから病氣になつて遂々《たうとう》死んだ。まだ生き居る老人で、この人を覺えて居る人たちもある。七十年ほどばかり昔のことでもあらうか。とにかく遠野鄕ではそれから荒瀧と謂ふ角力名《しこな》を禁じて居る。

 (故鄕の傳說であると謂ふ點で採錄する。敢て珍しい
 譚ではないが、彼《か》の秋田の三吉神《みよしのか
 み》の話等を思ひ起させる。彼の山ノ女神と里の男と
 の關係を話した赤子抱きの話などを參照して見て下さ
 い。)

[やぶちゃん注:「靑笹村」遠野市青笹町(あおざさちょう)地区(青笹の東を含む広域。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ。)。

「六角牛山」岩手県遠野市青笹町糠前(ぬかまえ)にある六角牛山(ろっこうしさん)。

「石上山」ここ

「早池峯山」ここ

「日ノ下開山」「天下無双の強者」「優れた者」の称。現在の横綱力士の代名詞。天和2(一六八二)年、江戸幕府は、武芸者・芸能者らが「天下一」の呼称を乱用するので、禁止命令を布告し、その後は「天下」と同義語の「日の下」を冠し「日下開山」と言い換えるようになった。元禄年間(一六八八年~一七〇四年)に勧進相撲の興行の際、抜群の強さをみせた大関や、何年も負けたことのない力士を「日下開山」または「日下相撲開山」と褒めそやしたことから、後に横綱を指すようになった(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「秋田の三吉神」秋田県秋田市広面字赤沼にある太平山三吉神社総本宮の一柱である三吉神。同神社公式サイトのこちらの「御由緒」に、『霊峰太平山に祀る当社は、天武天皇の白鳳』二(六七三)年五月、『役の行者小角の創建と伝えられ、桓武天皇』の治世の延暦二〇(八〇一)年の『征夷大将軍坂上田村麻呂東夷征討の際、戦勝を祈願して堂宇を建立、奉納された御鏑は神宝として今に伝えられてい』るとし、『古くからの薬師の峰・修験の山としての≪太平山信仰≫と、力の神・勝負の神を崇める≪三吉信仰≫があいまって、累代秋田藩主佐竹公の崇敬篤く、また』、『戊辰の役では』、『奥羽鎮撫総督九條道孝卿』が『里宮に祈願されるなど、古来より勝利成功・事業繁栄の霊験高い守護神として広く崇敬を受けて』いるとし、祭神は三柱で、大己貴大神(おおなむちのおおかみ)(=大国主命)・少彦名大神(すくなひこなのおおかみ)・三吉霊神(みよしのおおかみ)とし、最後のそれは『秋田で生まれた守護神』で『力の神・勝負の神・勝利成功・事業繁栄の神』とし、さらに「三吉信仰について」という項を設け、『三吉霊神は力の神、勝負の神、破邪顕正の神である。曲がった事が大嫌いで、力持ち。弱きを助け、邪悪のものをくじく神様である』。『太平の城主藤原鶴寿丸三吉は郷人の面倒を良くみた名君であったが、他の豪族にねたまれ』、『追い出されたため、世を捨てて太平山に篭り、太平山の神様即ち大己貴大神、少彦名神様を深く信仰し、修行せられて力を身につけ神様として祀られた郷土の神である』。『霊験談は数多いが、明治元年』の『戊辰役の際の霊験はあらたかであり、神さまの御神徳に感謝した秋田藩主佐竹侯より太平山を遥拝する雪見御殿、すなわち現在の里宮の地を奉賽され』、『以来、特に勝利成功、事業繁栄のお社として、地元はもとより、北海道、東北、関東などの遠方よりも熱烈なる信仰を持った崇敬者が訪れ、年々ご祈願の方々も多くなり現在に至っている』とある。

「山ノ女神と里の男との關係を話した赤子抱きの話」佐々木喜善著の「東奥異聞」(大正一五(一九一六)年三月坂本書店刊『閑話叢書』の一篇)の「赤子抱きの話」。国立国会図書館デジタルコレクションの平凡社『世界教養全集』第二十一巻(一九六一年・新字新仮名)のここから視認でき、その「二」の後半では、本話も紹介されてあり、また、同書底本で「東奥異聞」全部が「青空文庫」のこちらで電子化されてもあるので見られたい。]

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「日錄」

 

[やぶちゃん注: 底本のここ(本文冒頭の「一 西洋煙草」の始まりをリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。

 知られた作家や、私の興味がないものには注は附さない。]

 

      日錄

 

 四月日錄

 

 四月一日

 庭のもの皆芽を吹く。土割れたる有樣は暖かさ搔き上り行く如し。

 夜、パイプの會のため三橋亭に行く。

 パイプの會は「驢馬《ろば》」同人の煙草を喫む會合也。料理は各各好きに攝り好きを飮み、己の分のみを拂ふ。今宵はクレブン・ミクスチユアの試煙にして、各自の出金によりて一鑵買ひ求むる也。

 煙草の濃厚なる食後のうまさは何に譬へん樣なし。茶を料理のあとにて味ふは茶人の心得なるが、煙草もまた料理の後その味優れたり。ことに西洋の刻みは大味の内、こまかき味をふくめりと雖も、槪ね料理の後に喫ふに相應しかるべし。クレブン・ミクスチユアは愛情あり人懷《ひとなつ》こき煙草也。その味ひ春のごとき溫かさあり。また或種類の戀愛的なる甘さをふくめるは最も愛煙に適したるものなるべし。

 歸らんとせるに北原白秋君に會ふ。

 醉餘の白秋君と暫らく話す、却却《なかなか》離さず漸漸《ぜんぜん》の𨻶を見て去る。諸同人と黑門町の或喫茶會に小憩するうち、ややありて暖かき春雨となる。

[やぶちゃん注:以上のそれは、文末に記されてあるが、昭和二年のもの。芥川龍之介が自死した年である。

「パイプの會」「月光的文献」の「一 喫煙と死」及び、前回の掉尾の「煙草に就て」を参照。]

「驢馬」詩雑誌。大正一五(一九二六)年四月創刊、昭和三(一九二八)年五月終刊で、全十二冊。編集兼発行人は十号までが窪川鶴次郎、十一号以後は宮木喜久雄が務めた。室生犀星のもとに集まっていた中野重治・堀辰雄・窪川・西沢隆二・宮木・平木二六(ひらきじろう)らが創刊した同人雑誌で、誌名は堀の提案により、表紙題字は芥川龍之介の主治医で俳人の下島空谷勳が揮毫した。伝統文学の良質部分を受け継ぎつつも、やがて革命文学を担うことになる中野と、二十世紀文学を担う気概の堀との同居が、大正末から昭和初期への同人雑誌群のなかでも重要な史的位置を占めた。中野の詩「歌」、評論「詩に関する二三の断片」や、堀のコクトー・アポリネール・ジャムなどの翻訳詩や詩論の他、犀星を介し、芥川・萩原朔太郎・佐藤春夫なども寄稿した。また、準同人格で田島(佐多)いね子(後に窪川と結婚するも、窪川が田村俊子と浮気したことが原因で離婚している)も詩を発表している。中野を筆頭に、堀を除く他の同人たちは、後にプロレタリア運動に参加していった(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「クレブン・ミクスチユア」前回の「喫煙雜筆」の「二 煙管(キセル)に就て」の「クレエブンミクスチユア」の私の注を参照。]

 二日

 杏咲く、杏の枝を折りて生ける。杏は花咲けるよりも蕾の色濃きが美しき也。

 昨夜の喫煙過度にて舌の上ざらつき荒れたる如し。

 「文藝道」の記者見えられ、短册かくことを依賴さる。

 稻垣足穗君來る。例に依り稻垣君に酒を出す。靜かなるこの酒客は予が友の中の珍らしき酒豪也。けふ二日會なれば行かずやと誘ふに行くべしと言ふ。

 森川町に行きしに既に夜食始まれり。暫くの後、中村武羅夫氏見え廣津和郞君來る。小會なりしが靜かにしてよろし。

 歸途廣津君稻垣君と白十字にて茶をのむ。廣津君と親しく話したるは今夜がはじめて也。

[やぶちゃん注:「文藝道」文芸雑誌らしいが、不詳。

「二日會」錚錚たる面子だが、不詳。

「森川町」現在の文京区本郷の東大の東向かい旧町名(グーグル・マップ・データ)。]

 三日

 春陽堂の笹本君小說全集の件にて來る。要談の後、宮木喜久雄君來る。

[やぶちゃん注:「宮木喜久雄」(明治三八(一九〇五)年~?)は台湾生まれの日本人詩人。大正一四(一九二五)年二十歳の時、室生犀星を訪ね、先に注した『驢馬』の創刊に参加した。同誌終刊後は、プロレタリア文学運動に参加し、『戦旗』に作品を発表、昭和四(一九二九)年刊の『日本プロレタリア詩集』にも彼の詩が収録されている(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。]

 四日

 「不同調」の嘉村君原稿の件にて來る。

 下島先生子供の來診に見えらる。

[やぶちゃん注:「不同調」右派の評論家中村武羅夫が大正一四(一九二五)年にプロレタリア文学の勃興と『文藝春秋』への抵抗として新潮社から発行した雑誌。

「下島」先の注に出た下島勳。彼は芥川だけでなく、田端文士村の御用達医師であった。]

 五日

 櫻やや色に出づ。

 夜來の春雨小止みなく庭後の杏の散ること荐《しき》りなり。

 新潮合評會に行く。

 初めての出席なればうかうかと喋りて後悔す。宮地嘉六君、心に溫みを持ち乍ら話せる有樣予の好感を惹く。廣津君の正直一圖なるもよし。

[やぶちゃん注:「宮地嘉六」先行する「人物と印象」の「宮地嘉六氏」を参照。]

 六日

 「古風な寫眞」の校正刷を中央公論社へ持つて行く。島中氏に三年振りにて會ふ。

 平木二六《じらう》君來る。引越しをなす由、詩二篇を書き平木君のため「女性」の古川君に手紙を書く。

 宮木君來る。芥川君下島先生同道にて來る。短册など書きて興を遣りたり。

  空あかり幹にうつれる木の芽かな

[やぶちゃん注:「古風な寫眞」雑誌『文藝通信』昭和二年六月発行のそれに発表している。因みに、同誌の七月発行のそれには、まさにこの「四月日錄」が載る。

「島中氏」中央公論社の編集者で、この翌年に中央公論社社長となる嶋中雄作のことであろう。

「芥川君下島先生同道にて來る。短册など書きて興を遣りたり」芥川龍之介新全集の宮坂覺氏の年譜で確認したところ、『この時、犀星の机上にあった書簡箋を手にとり、河童の絵を描いた。午後』九『時頃、帰宅』とあった。]

 七日

 堀辰雄君來る。國元の母より干鰈《ほしがれひ》到く。

  干鰈桃落る里の便かな

 八日

 春暖漸く臻《いた》る。

 淺草東京館に「人罠」を見る。詰らず。

 中田忠太郞、宮崎孝政君來る。

  春雨や明け方近き子守唄

 

 銀座田屋にてパイプを一本買ふ。散步用の輕き小型のロンドン製也。パイプは齒に重みを感じざる程度のものをよしとなす。齒に疲勞を感じるものは重き也。散步になるべくパイプを銜へざるやうにせるは、氣障《きざ》になること屢屢なれば也。なるベく人無きところ、あるひは自宅にて喫《す》ひたしと思ふ。

 尾張町の角にて修繕したるパイプを受取り、ローマイヤにてベーコンを買ふ。

 植木屋けふにて春の手入れを終へたり。此間より竹の句作らんとして遂に三句を得るのみ。

  竹林や石叩き行く竹の風

  竹の葉に辷《すべ》る春日ぞ藪すみれ

  藪中や石投げて見る幹の音

[やぶちゃん注:「人罠」Mantrap。ヴィクター・フレミング監督作品。一九二六年公開。「映畫時評」の「九 文藝映畫の製作」でも映画名を出している。なお、私の「人生興奮(その二) 尾形亀之助」の中で尾形は、『先に「人罠」を見、その次に見た赤ちやん母さん――で、私はクララ・ボーが好きになつてしまつた。彼女の演技が、と、いふ意味ではなく恋心に似た気持になつてしまつた』以下、彼女への傾倒を語っている。]

 九日

 髮の毛伸び鬱陶しければヤング理髮店に行く。龜屋でバタを木村屋にてパンを買ひ、藤屋にて茶をのむ。久保田万太郞君に會ふ。

 夕方、中野重治君來る。學校なんぞ出鱈目也と新文學士嘯《うそぶ》く。

[やぶちゃん注:「龜屋」不詳。舶来品の店舗か。]

 十日

 けふ三春の行樂を追ふひと多し。庭後の沈丁花散る。

 宮崎孝政君來る。午前より日沒まで七時間坐り居れり。創庵以來の長尻の客也。窪川鶴次郞、宮木君來る。

 坂井柳々君來る。俳論あり。

「文藝時報」の中山君來る。氣の毒なれど談話を斷る。

  枯笹や氷室《ひむろ》すたれし蕗の薹

[やぶちゃん注:「宮崎孝政」(明治三三(一九〇〇)年~昭和五二(一九七七)年)は再生と同じ石川県生まれの詩人。書肆「龜鳴屋」のサイトのこちらによれば、七尾中学校中退。大正八(一九一九)年、『『短歌雑誌』に投稿した詩「汝れよ貧しき者よ」が三木露風の選で入賞』、『この年、能登島小学校の准訓導心得とな』り、後、『母校徳田小学校の代用教員とな』った。大正十年には、『『現代詩歌』に詩を発表し』た。大正十五年には『教職を辞し』、『上京』、本篇で後に出る詩人『田中清一が創刊した『詩神』に作品を発表し始め』、同年九『月、第一詩集』「風」を刊行、昭和三(一九二八)年には『『詩神』の編集を担当。編集者としても才能を発揮する』。昭和四年九月には第二詩集「鯉」を出し、昭和六年、第三詩集「宮崎孝政詩集」を『天平書院より刊行。またこの年、京橋で「運命予言日本気学院」の看板をあげ、占い業も開始』している。『昭和』十『年正月、東京暮らしに見切りをつけ』、『帰郷したが、その後も東京へはしばしば出かけ』てはいた。昭和十二年、『自宅裏庭に「万葉荘」を建て、近所の子供たちを集めて文学の手ほどきを』始めた。『詩作活動は戦中を含み』、『続けられ、第四詩集』「寺子屋草子」を『まとめる意向があったが、陽の目を見ず、作品は』敗戦後の『昭和』二八(一九五三)『年を最後に』、『一作も発表されていない』とあった。

「坂井柳々」不詳。]

 十一日

 落花しきり也。

 宮地嘉六君來る。百田君來る。

 宮地君と動坂を步く。

[やぶちゃん注:「百田君」詩人百田(ももた)宗治。]

 十二日

 森林社同人、松江、宮崎、大黑の三君詩集の會合のため來る。

 夜、驢馬社に行き同人と散步に出づ。

 十三日

 午前、竹を伐る。庭後明るく春の日透る。

 楓の芽漸くほつれ始む。

 百田君田中淸一君と來る。田中君とは初對面也。竹村俊郞君來る。石原亮詩集の序を依賴に來る。

 けふ錢湯に行きしに高き硝子窓より落花吹き入り、浴槽に泛《うか》びたり。春やや深き思ひをなす。

 百田君の贈物、マイ ミクスチユアを喫煙す。味ひ素直にして高雅の趣あり。クレブン ミクスチユアの人懷こき味ひもよけれど、マイ ミクスチユアに越したることなし。サンキユアードは素氣なく、ゴオルデン ハバナは柔らか過ぎるきらひあり。一度マイ ミクスチユアを喫煙しては他の何物も及ばざるごとく思はる。

 ミクスチユアは味ひ複雜にして、あまさ、にがみ、强さ各各渾然たる如くして然らず。別別に舌の上に味ひ殘りゐて愛煙すべし。又パイプの暇暇《ひまひま》に紙卷を喫へばパイプの味ひ夢の如く戾り來りて愉快也。十七八年前、デザアンクルと云へる佛蘭西の租惡なる煙草を喫ひたることを思へば、マイ ミクスチユアの如きは宮殿裡にこそ喫煙すべきものならんか。

 パイプの煙は一つにはその姿美しく、又量に於て朦朧として何か旺《さか》んなるところあり。自らその煙を眺むるは悠長なりといふべし。

[やぶちゃん注:「竹村俊郞」(明治二九(一八九六)年~昭和一九(一九四四)年は詩人。山形中学卒。朔太郎・犀星らの詩誌『感情』に参加し、大正8年に詩集「葦茂る」を刊行している。その後、英・仏に遊学後、数冊の詩集を出したが、その間の昭和一四(一九三九)年には郷里山形に帰り、大倉村村長を務めた。]

 十四日

 重重しく曇れる日。

 芥川君のところへ行く。まだ炬燵の中にあり、庭前の落花しきりなるに呆然たり。

 夜雨を遠く聞きて早く寢る。

[やぶちゃん注:前記の宮坂年譜によれば、下島も合流したようで、『夕方まで俳談などをする』とある。]

 十五日

 夜、三橋亭にてパイプの會あり、マイ ミクスチユアを試煙す。澄江堂も參會、古風なるパイプを銜へたり。

 自動車にて銀座に出、日比谷から小川町に拔け、池の端を廻り公園をぬけて、元の三橋亭にて別る。十二時七分前也。

[やぶちゃん注:宮坂年譜で確認。]

 十六日

 昨日の過度の喫煙にて舌爛れて痛し。

 久しぶりに午睡をなす。午睡のできぬ癖なれど、卅分くらゐ眠りたり。うつつに風荒れるを聞く、これ春眠といふべきか。

 澄江堂よりの臼人蛙の戲畫をかける。お隣より貰へる白の大輪の椿一本を生ける。

むしろ牡丹のごとき椿なり。

 改造社の古木君用件にて來る。

 妻の姉よりさしあみ鰯送り來る。さしあみ鰯の漁れるころは金澤も春の最中なり。

李や杏も散りはてし頃ならん。來月早早に行きたしと思ふ。

[やぶちゃん注:「臼人蛙の戲畫」私は小穴隆一の「芥川龍之介遺墨」と、最新の二玄社の「芥川龍之介の書画」を所持するが、当該する戯画はなく、この謂いも初めて見た。識者の御教授を切に乞うものである。グーグル画像検索で「臼人蛙 芥川龍之介」を掛けると、呆れたことに、三分の一の画像は、何故か私のブログの関係のない絵が掛かってくる。全く以って困ったもんだ。]

 十七日

 朝子風邪の氣味也。

 主義者と名のるもの三名來る。斷然金員援助拒絕す。

 中田、黑田、相川、窪川、栗田の諸君來る。

 人浴後、新茶をのむ。昨年は五月の上旬に初めて新茶を喫みたり、走りなれど初夏の心意氣あふれゐる心地す。

[やぶちゃん注:「朝子」犀星の長女。後に随筆家になった。]

 十八日

 金澤へ搬《はこ》ぶ下草の植ゑかへをする。庭のものの若芽美しく、幸福らしきものを感ず。竹には筍《たけのこ》生えたり。

 岸田劉生氏へ打電、「庭をつくる人」の裝幀を急がしたるなり。裝幀送れりとの返電來る。

 「大調和」の記者來る。平木、窪川の二君來る。下島先生、朝子來診に見え、大したことなしと言はる。

 夜、宗紙の寬文版の句集及梅室選の嘉永版を本鄕にて買ふ。

[やぶちゃん注:「庭をつくる人」犀星の随筆集。彼のものでは、私は最も抵抗なく、なかなか面白く読み、いつか電子化してもいいと思っている作品である。国立国会図書館デジタルコレクションの全集のこちらから視認出来る。]

 十九日

 春やや闌《た》けしが如し。

 未知の紳士訪ね來りて、このたび庭つくらんと思へるが予が意見と築庭の程《ほど》話されたしと言ふ。庭はすきずきなり、人の意見聞かんより先づ己《おのれ》が好きになされよと言ひ、歸したり。予の築庭の如きは全く詰らぬものにて、斯道《しだう》の達人の如く思はるは迷惑なり。予に聽かんより寧ろ市上一介の植木屋を對手《あひて》にしたる方餘程それらしきもの作られんこと必定なり。予のごときはつねに頭にて描ける庭にのみ遊ぶ輩《やから》なり。

 岸田氏より「庭をつくる人」裝畫來る。予の好みの程あらはれ喜びとはなすなり。

西澤、宮木の二君來る。風邪の氣味なり、昨夜鼻のなか痛みしが今朝なほいたむ。

 夕方風出でて竹の鳴るのを聞けば、晚春のこころ深きをおぼゆ。夜に入り頭痛烈しく下島先生に藥餌を乞ふ。

 二十日

 昨夜より頭痛烈しく起きられず臥床す。

 窓硝子を掠《かす》めて楓の芽ひらく。龜屋よりオート・ソーテルヌ到《つ》く。

 昨日より風歇《や》まず、花の屑、木の芽、緣側に埃とともに舞ふ。新茶の味ひ今日却却にうまし。

[やぶちゃん注:「オート・ソーテルヌ」不詳。ソーテルヌ(Sauternes)というと、ボルドー地方のソーテルヌ地区で造られる極甘口貴腐ワインの名だが? ソーテルヌ地方の燕麦かぁ? 「シャート・ソーテルヌ」の誤記かとも考えたが、そんなシャートはないみたいだし……]

 金澤大火の號外出づ。朝日新聞の予が故鄕の大火を號外に出して報ずるは喜しき限也。古き町家の又失はれしかと思へば果敢《はか》なし。六百戶燒けしと云へば金澤にては古今稀れなる大火也。來月金澤に行くこと思ひ止まる。故鄕の人ら家を失ひしを眺めつつ、我が庭つくらんと思ふは氣遲れを感ずるなり。

 夜、風邪を冒して陶々亭の「森林」の會に行く。

 諸銀行休業の號外出づ。

[やぶちゃん注:昭和二(一九二七)年四月二十一日に石川県金沢市で発生した「彦三大火(ひこそたいか)」(「彦三」は出火から延焼が広がったした町名と思われる。グーグル・マップ・データのここを見られたい。現在の「横安江町商店街振興組合」から東へ向かうと、彦三町(ひこそまち)である)。午前三時半頃、横安江町の雑貨商から出火し、秒速十五メートルの急風に、忽ち、燃え広がり、全焼七百三十三戸、焼失面積五万八千坪、推定損害額三百二十二万円という宝暦九(一七五九)年四月十日の金沢の「宝暦の大火」以来の大火となった(以上のデータは「国立国会図書館」の「レファレンス協同データベース」のこちらの回答を参考にした)。

『陶々亭の「森林」の會』不詳。

「諸銀行休業の號外出づ」昭和二(一九二七)年三月、第一次若槻礼次郎内閣の片岡直温大蔵大臣の議会での「失言」が発信源となり、銀行の取付けが相次ぎ、金融恐慌が始まった。詳しくは当該ウィキを参照されたい。]

 二十一日

 風邪快き方也。

 昨日の暴風にて庭荒れたれば、掃除をするに稍《やや》寒さを感ず。柔らかき芽生えの折れたるが哀れ也。一人にて叶はざれば妻及女中に手傳はす。

(昭和二年)   

 

 

 輕井澤日錄

 

 七月六日、七十度。雨。輕井澤に着く。去年の別莊に入る。まだ初夏の風情也。セルに着換へ、子供らも着換へをなさしむ。西洋人など避暑客未だ少數なり。

[やぶちゃん注:次の断絶して続いている「續輕井澤日錄」から、やはり昭和二(一九二七)年の芥川龍之介自死の月の、その前の日録である。なお、幾つか注を附したい衝動にかられた箇所もあるのだが、芥川龍之介自死の後の「續輕井澤日錄」と「神無月日錄」は犀星の思いを受けとめることに専念して読んで貰いたく、注は、ほぼ附けないことにした。悪しからず。

  七日、七十二度。雨。

 町にて買物をする。荷物を解くため去年來て貰ひしお捨さんに來て貰ふ。

 畑の葱をぬき肉を煮る。

 夕方、向ひ別莊に西洋人の一行着く。

  八日、雨。七十度。

 障子を閉め火鉢に火を起しても寒し。

 けふから仕事。

 夜、薄き月出づ。

  九日、快晴。七十六度。

 朝早く山ぜみ啼く。

   山蟬のきえ入るところ幹白し

 赤腹といふ鳥終日啼き夕方霧下る。上海あたりより避暑と動亂を避ける派手なる外人門前を過ぐ。

[やぶちゃん注:「赤腹」スズメ目スズメ亜目ツグミ科ツグミ属アカハラ Turdus chrysolaus「和漢三才圖會第四十三 林禽類 𪃹(しなひ) (アカハラ・マミチャジナイ)」を参照されたい。

「上海」「動亂」「四・一二事件」。この一九二七年四月十二日、蒋介石が上海で引き起こした反革命クーデター。詳しくは、参考にしたウィキの「上海クーデター」を見られたい。]

  十日、快晴。七十七度。やや暑し。

 午後霧下る。終日客無く山中の閑暇擅《ほしいまま》也。

 森の中、林の奧の別莊の燈火次第に點《とも》る。

 日曜の晚なれば讃美歌とオルガン聞ゆ。

  十一日、晴。七十七度。

 朝よく聽けば色色の小鳥啼く。

 雷鳴の後夕立あり、晴れて後《のち》通りに散步に出づ、正宗白鳥氏に會ふ。正宗氏咄嵯に菊屋を指差す。喫茶部あり小憩。再會を約して別る。

  十二日、晴。

 向ひの西洋人の女の子、うちの子と遊びませうと呼びに來る。

 

 

 續輕井澤日錄

 

 

  八月一日、晴、七十二度。

 誕生日なれば赤飯を焚く。誕生日の祝に子供からスター一個を貰ふ。

 芥川君の追悼文書かぬことに心を定む。故人を思へば何も書きたくなし。「中央公論」「改造」へ事情を云ひ斷る。

 この日、中河興一君一家族來る。

 志賀直哉氏庭前に來て長與氏へ來れる途すがらなりとて寄らる。

  同じく二日。晴。七十度。

 西洋人の子供大勢花をもらひに來る。

「文藝春秋」の菅君に自分の意思をつたへ悼文を書かぬことにする。「文章倶樂部」へも同斷。

 午後小畠義種歸京。送りながらプールに山根義雄君と行く。

  同じく三日。七十度。雨。

 山根君歸京。洋村秀剛君來る。

 中河君の奧さん別莊見つかりしとて見えらる。

  同じく四日。七十度。雨折折、霧。

 午後すぐ上手の長與善郞氏を訪ふ。病中にてすぐ歸る。

 夜、聖路加《せいルカ》病院の池田博士と助手と共に話に見えられる。數刻の後病人ありて歸らる。

 「新潮」の追悼座談會明日あれど出席しがたく返電を打つ。

  同じく五日。雨折折晴天。七十二度。

 仕事。改造の下山君來る。悼文やはり書かぬこととする。

    悼澄江堂

  新竹のそよぎも聽きてねむりしか

 中河君來る。新著「恐ろしき私」を貰ふ。村井武生君歸省の途中なりとて寄る。夕食の後別る。

 

 

 神無月日錄

 

 

 十一月二日 はれ。

 庭の奧は落葉を見んため掃かぬこととはせり。赤松月船君來る。妻子を國にかヘせしが妻子なくては淋しきなりといふ。僕も同感也。――田中淸一、淸水暉吉兩君來る。雜誌詩神改革せんとのことなり。今夜二日會なれど、話疲れて再び人中に出る勇氣なし。失禮する。

 三日 晴。梅もどき紅くなる。

 稻垣足穗君來る。例により稻垣君湯に行き僕も入浴す。食後神明町の時計屋に行き眼鏡の修繕を依賴す。高柳君の奧さん湯にはひりに見えらる。

 四日

 はらはちと時雨もよひの空なり。「新潮」の小說を書いて疲れ、淺草に「カルメン」と「魔炎」を見る。「カルメン」は最も映畫らしき映畫以上のものにあらず。「魔炎」は美しきものなれど詰らず。ロナルド・コールマンは單なる流行俳優たるのみ。其末路目に見ゆるごとし。最近に見たる「椿姬」はよき抒情詩也。ノーマ・タルマツヂの柔らかき素直なる藝風は、「椿姬」をよく生かしたり。

 五日 しぐれ。石蕗《つはぶき》の花くろずむ。

 雨の中に藥買ひに出でしに芥川君の比呂志君の學校がへりにあひしかば、お母さまによろしく言ひてよと云ひて別れたり。我死にて彼生きてもあらば、わが娘に彼のまた斯くは言はんものをと、歸りて妻に話しぬ。

 六日 快晴。庭前の楓散落す。

 瞼のマイボーム氏腺昨夜より痛みしが又腫物となりたり。七月より七囘目也。――堀辰雄君來り夕食後窪川君夫妻來る。乾鬼子君來る。夜、瞼の腫物疼《うづ》きて眠《ねむり》を得ず。されど此痛みの中に小說書くは自ら嚴しさを感ず。

 七日 快晴。地震あり。

 每年經師屋に障子張を命ぜしかど、今年は妻とともに張りたり。下島先生來る。宮木君來る。

 障子張るやつや吹きいでし梅の枝

 夜、宮本君と動坂に出で汁粉食べたり。「砂繪呪縛」を見しかど甚しく詰らず。

 八日 けふ立冬也。

 朝の内例により仕事。後、昨日の殘りの障子張りかへたり。うそ寒き曇天にて糊加減滑らかなり。掛軸の表裝も亦糊加減なりといへば障子張りも亦糊加減ならんや。

 夜、田村松魚氏宅にて駱駝の銅印めいたるものを購《あがな》ふ。卦算《けさん》[やぶちゃん注:文鎮。]に用ひんためなり。かへりて瞼の腫物の療治をなせり。其疼痛云はむ方なし。

 九日 快晴。

 昨夜の銅印今朝の明りに眺めしに詰らず、むしろリンガムの佛像めける銅印と取換へるべく妻を使《つかひ》に出す。かへれば松魚氏いまだ床中にありといふ。午後脫稿の上、若松町の百田君を訪ねかたがた新潮社に赴く。

 

 

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 山神の小便

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。今回は、ここ

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。太字は底本では、傍点「﹅」である。

 なお、冒頭に出る「『鄕土硏究』二卷三號」に載る「實盛塚」という論考は柳田國男のそれである。この柳田の論考自体は、「虫送り」の民俗との関連もさることながら、齋藤別當實盛は私の好きな武将ではあるのだが、どうも、以下の熊楠の小論とは連関性が頗る弱いものであることから、柳田のそれは、また、別の機会に電子化したい(それを電子化注するとなると、またまた、それだけで一日仕事になってしまうので厭だからというのが本音である)。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で「定本柳田国男集」第九巻(国立国会図書館内/図書館・個人送信限定)の「毛坊主考」の中にある柳田の当該論考をリンクさせてはおく。悪しからず。]

 

     山 神 の 小 便 (大正三年十一月『鄕土硏究』第二卷第九號)

 

 是は、近刊、白井博士の「植物妖異考」にも載せてないが、熊野で、往々、見る。樹枝が折れて垂下《たれさが》つたり、藤葛(かづら)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]が立枯れになつたのが、一面に白色で、多少、光澤あり、遠く望むと、造り物の小さい飛泉(たき)のやうなものだ。以前はこれを山神(やまのかみ)の小便と稱へ、其邊に山の神が住むと心得たが、今は土民も是は一種イボタに類した蟲白蠟(ちうはくらう)と知つて、那智村大字市野々(いちのゝ)で、或人が採つて來て、座敷の敷居に塗抹し、障子が快く動くと悅んで居《を》るのを見た。

[やぶちゃん注:『白井博士の「植物妖異考」』白井光太郎(文久三(一八六三)年~昭和七(一九三二)年)は、越前福井出身の、本邦の植物病理学者の草分けで、本草学者・菌類学者でもあった。東大理学部植物学科の二人目の卒業で、その卒業論文は、東京と、その周辺の蘚(せん)類の研究で、これは日本に於ける蘚類の学術的研究の先駆けと評価されている。その後、ドイツに留学し、植物病理学を移入した。明治四〇(一九〇七)年、母校農学部教授となった。「餅病」・「てんぐ巣病」の研究を行い、「植物病理学」(一九〇三年刊)の著がある。森林植物学の開拓者とも見做され、また、植物の奇形や、本草学の研究にも造詣が深く、植物学と文化とを結びつける著述活動で功績を残した(以上は主文を平凡社「世界大百科事典」に拠った)。「植物妖異考」は大正三(一九一四)年甲寅叢書刊行所から刊行されたもので、謂わば、植物学者による、優れた植物の民俗伝承研究書として名高い。いつか電子化したいと思っている興味深い著作である。国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらで一九六七年有明書房の復刻本と思われるもので視認出来る。

「イボタ」イボタロウムシ。「疣取蠟蟲」。半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目カイガラムシ上科イボタロウムシ Ericerus pela で、当該ウィキによれば、『北海道から沖縄県まで日本に広く分布するほか、朝鮮半島やヨーロッパにも生息する。冬眠中の雌成虫は体長』五『ミリメートルほどの楕円形で、成熟個体は直径』一『センチメートル程度の球形になる』。『日本の本州では』五『月下旬頃に産卵し』、六月から七月頃に『孵化する。幼虫はモクセイ科』Oleaceae『の樹木の枝に密集してロウ状の物質を分泌する。枝がロウ物質により白くなるため』、『落葉後に発見されることが多いが、樹木の生育への影響は小さい。ロウ物質は』嘗ては『薬用・工業用に用いられており、その採取を目的に養殖が行われたこともある』。古くは日本刀の手入れにも用いられた。『雄幼虫のロウ物質の構成成分を検査したところ、構成する成分はワックスエステルが』九十%『以上を占め、他に遊離高級アルコールや炭化水素が含まれていることが明らかになった。これはトリアシルグリセロール(中性脂肪)が』八十%『以上を占める幼虫本体の脂質とは大きく異なる組成を示している』とある。辞書には、イボタロウムシについて、の成虫は暗褐色の約一センチの丸い殻を作り、五月頃に産卵し、は七月頃からイボタノキ(キク亜綱ゴマノハグサ目モクセイ科イボタノキ属イボタノキ Ligustrum obtusifolium )・ネズミモチ(イボタノキ属ネズミモチ Ligustrum japonicum )などに寄生し、白色の蝋を分泌し、中で蛹(さなぎ)となる。成虫は体長三ミリメートルほどで、透明な二枚の翅(はね)を有する、とある。イボタノキは「疣取木」或いは「水蠟木」と漢字表記する。この虫の和名イボタロウムシは、その蠟物質が、古来、「塗ると疣が取れる」とされたことによる。この蝋は福島県会津地方産が知られ、イボタロウムシの分泌物が原料で上質であり、絵蝋燭を造るほか、医薬用・工業用とする。会津に行った際、その蝋燭を買わんとして老舗に入ったが、私にはどうもあの絵柄と色が生理的に好きになれず、買わずにしてしまった。

「蟲白蠟」以上のような虫類群の種が寄生することで生じる虫瘤(むしこぶ)から得られるロウ成分を指す。]

大手拓次 「木の葉のしげりのなかをゆく僧侶」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 木の葉のしげりのなかをゆく僧侶

 

大空のひかりにそむいて、

たわわにしげる木立のしたをえらび、

足音さへも自分の心にしのんで、そろそろとあるいてゆく。

神のかきしめしたあらはな文字をさとらないで、

いたづらにかさなる運命のけものにおさへつけられ、

しろい淚を衣のそでにしめらせ、

人人のよそながらの笑ひにおくられながら、

日ごとにくもりを增す木の葉のしげりのなかを、

ひそかにひそかに生れながらの寶石のゆくへをさがして、

わかい僧はひとりどこまでもあるいてゆく。

 

大手拓次 「そだつ焰」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 そだつ焰

 

手と足とが五つのほのほとなつてからみつく、

女は夜(よる)の海をゆく舟、

男は朝の木立をのぼる犬、

あをさびたくらげの鐘がなりひびいて、

まつくろな五つのほのほをもりそだてる。

女は水をくぐる鳩、

男はめくらの河の水、

雨はをやみなくしめじめとふりつづいて、

まつくろな五つのほのほをもりそだてる。

 

[やぶちゃん注:「焰」は底本の用字。]

大手拓次 「一人のために萬人のために」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 一人のために萬人のために

 

一人の生きるために、

萬人の生きるために、

民衆のうへにみどりの火をかざせ。

 

一人の死をとむらふために、

萬人の死をとむらふために、

民衆のうへに靑銅の鉦をならせ。

 

[やぶちゃん注:「萬」は詩集「藍色の蟇」の表記字に従った。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 五〇番 絲績み女

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから

 標題は「いとうみをんな」。「絲績み」とは。「麻・苧(からむし)などの繊維を細く長くより合わせること・紡(つむ)ぐこと」を言う。但し、以下の本文の方言に従うなら、「いとおみをんな」となろう。]

 

   五〇番 絲績み女

 

 鼠入(ソニウ)に卯平と云ふマタギがあつた。殿樣の前でもこの卯平は、世の中のことで知らないことはない。又俺の思うことで何でもできないことはない。只だ惜しいことには天を飛ぶことばかりがまだ出來ないと豪語して笑はれたと云ふ人物であつた。

 この卯平マタギが友人の川臺の小作マタギと云ふ人と二人で、松格(マツカク)嶽へ鹿打ちに出かけた時のことであつた。二人が山小屋に泊つて居ると、或夜の夜更けに何處からか若い女が出て來て、小屋の爐《ひぼと》に燃えてゐる火を盜んで、すたすたと山を登つて行つた。

 二人のマタギがこれは怪しいゾと話をして居ると、小屋から見える向ふのソネに火が燃え出した。見ると先刻の女が座(ネマ)つて麻絲なオンでいながら、度々小屋の方を向いてニヤリニヤリと笑つてゐた。

 卯平は小作に、お前アレを打つて見ろと言つた。小作が其の女を狙つて鐵砲を打つたが、[やぶちゃん注:底本は読点。「ちくま文庫」版で訂した。]幾度打つても其の都度ただ此方《こちら》を向いてニヤリニヤリと笑ふばかりで、少しも手答へがなかつた。卯平はそれでア分(ワカ)んねえ、彼《あ》の女でなく橫の績桶(おむけ)を狙つて打つてみろと言つた。績桶を打つと火も女もペカリと消えてなくなつてしまつた。

 翌朝其所へ行つて見たら、大きな木の切株のやうな大きな古狸が死んでゐた。

  (前話同斷の四。)

[やぶちゃん注:「前話同斷の四」とあるが、前話「四九番 呼び聲」には採取附記がない。但し、その前の「四八番 トンゾウ」には、『(陸中閉伊郡岩泉地方の話。野崎君子さんの御報告分の二。)』とあるので、「四九番 呼び聲」がその三であり、これが「四」で辻褄が合う。以上三話はロケーションも旧岩泉村で違和感がない。

「鼠入(ソニウ)」「四八番 トンゾウ」に既出の「鼠入(ソニウ)川」地区(現在の岩手県下閉伊郡岩泉町(いわいずみちょう)岩泉鼠入川(いわいずみそいりがわ)(グーグル・マップ・データ航空写真)から、小本川(おもとがわ)に南から合流する「鼠入川」を上流に遡って、西の山間部に現在もかなり広大な、しかし、殆んどが山間地である岩泉町鼠入(そいり)が確認出来る。但し、読み方が上記の通り、変わっている。

「川臺」この漢字表記では不詳だが、地名と思われるところから、調べたところ、現在の鼠入地区の尾根を南西に少し越えた近くに(マタギにとってはこの尾根は屁でもない)、岩泉町川代(かわだい)地区が現存する。私は、ここのような気がする。

「松格(マツカク)嶽」鼠入と川代附近を「ひなたGPS」の戦前の地図で調べたが、このピークは見当たらない。

「向ふのソネ」登山用語としては「曽根」「埆」で、「尾根」・「低く長く続く尾根」或いは「ガラ場になった石の多い場所」を指す。ずっと離れるが島根方言で「尾根」を「そね」と呼ぶことが確認出来た。

「ペカリ」副詞の「ぱっと」相当であろう。]

2023/04/24

大手拓次 「Tilleul の香料」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 Tilleul の香料

 

微笑のおくにうづまくかなしみの谷、

みづ色の鳥はとびかひ、

蛇のやうにふとい鎖はおもくなりひびいて、

わたしの肉身をゆすぶる。

 

[やぶちゃん注:「Tilleul」音写は「ティリュル」が近いか。フランス語で「菩提樹」を指す。ここは「香料」とあることから、花の香りが有意にある、双子葉植物綱ビワモドキ亜綱アオイ目シナノキ(科の木)科シナノキ属ナツボダイジュ(夏菩提樹) Tilia platyphyllos をまず挙げてよいか。同種は別名「西洋菩提樹」とも言う。当該ウィキによれば、『ヨーロッパ中央部および南部原産の落葉高木。世界の温帯で、街路樹や庭園樹としても多く植えられている』。『日照を好むが、強健で耐寒性が非常に高く、北海道中部以南であれば栽培可能』とあり、『フユボダイジュ』(冬菩提樹:Tilia cordata :ヨーロッパからコーカサスに分布。本種の花も香るので候補となる)『に比べると』、『やや樹高が高くなりやすく、高さ』三十五メートル『に達する高木になる場合もある』。『葉形は大きめの広卵型で先端が短く尖り、表面はざらつきがある両面有毛。花には芳香があり、開花は』六~七『月頃』で、『花色は淡黄色』である。『秋には紅葉し、若木の時は円錐形、成木になると卵型の樹型になる』とある。但し、以上のナツボダイジュとフユボダイジュの雑種で、中世ヨーロッパでは「自由の象徴」とされ、かのベルリンの大通りウンター・デン・リンデンの両側に街路樹として植えられていることで知られ、またシューベルトの歌曲集『冬の旅』( Winterreise )の「菩提樹」( Der Lindenbaum )でも有名なセイヨウシナノキ Tilia × europaea も候補となる。]

大手拓次 「溫室の亡靈」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 溫室の亡靈

 

花がいちやうにゆれて、

うすむらさきのゆふやみが、

やはらかい毛のいきもののやうにあつまつてきた。

まつきいろにたれさがる異形の蘭の花、

恐ろしい繁みのまぼろしをうむ羊齒(しだ)の葉のそよぎ、

まつかな夢をひらめかす名もしらぬ毒草の花、

けむりのやうに手をのばす蔓草(つるくさ)のあをあをしさ、

むらがりきえるにほひのつよいまどはしに、

あたまをうたれ、

眼(め)をうたれ、

しびれる手をうたれれて、

わたしはをんなの蜘蛛のやうにおづおづとうづくまる。

わたしは、この溫室のなかにうまれでた、

かたちもないひとつの亡靈だ。

わたしはじめじめとした六月の濕氣のかげに、

うすばかげろふのやうな透明のからだをねかせて、

にがにがしくあまいもろもろの花のにほひをかぎながら、

ふけてゆくわたしの年月(としつき)のうへに笑ひと夢とをなげる。

 

[やぶちゃん注:「溫」の字体は詩集「藍色の蟇」に従った。

「をんなの蜘蛛」節足動物門鋏角亜門クモ綱クモ目クモ亜目クモ下目コガネグモ上科ジョロウグモ科ジョロウグモ属ジョロウグモ Trichonephila clavata を指していよう。なお、和名は一般には「女郎蜘蛛」と考えられてはいるが、「上臈(じやうらう(じょうろう))蜘蛛」とする説もある。なお、「おづおづとうづくまる」という比喩からは、網を張って、凝っと動かずに、体幹部を低くして、獲物の掛かるのを待っているそれをイメージするのだが、これが確かにジョロウグモを指すのだとすれば、このジョロウグモは高い確率で、♂であると言える。同種ははっきりとした性的二形で、♀の方が大きいからである。成体でも♂の体長は〇・六~一・三センチメートルしかないのに対し、♀は二倍超の一・七~三センチメートルもあるからである。しかも、我々が想起する、腹部が黄色と暗青色の縞模様で、長い脚が黒地に黄色いラインが巻かれている如何にも毒々しいあれは、♀のそれであって、♂は、体が小さいだけでなく、ずっと地味な色合いであって、腹部は褐色がかった黄色に縦縞が入った姿をしている。さすれば、ますます「おづおづとうづくまる」という形容がいやが上にもマッチしてくるからである。

「うすばかげろふ」「薄羽蜉蝣」。昆虫綱内翅上目アミメカゲロウ目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidaeに属する種の総称、又はその代表種であるウスバカゲロウ Hagenomyia micans を指す。しばしば勘違いされるが、和名で「ウスバカゲロウ」と呼び、形状が酷似はするが、正統な「カゲロウ」(蜉蝣(カゲロウ)目 Ephemeroptera)類とは、これ、極めて縁遠い(なお、本科全ての種の幼虫がアリジゴクを経るわけでもない)。因みに、如何に多くの日本人がこれらを一緒くたにして誤認しているかは、私が現代文の授業で朗読しなかったことがない梶井基次郎の偏愛の名短篇「櫻の樹の下には」(リンク先は私の古いサイト版)の痛い誤りが、それを証明している。ここは比喩だし、まず正しくウスバカゲロウを指すと、一応は、好意的には認め得るから、それを語ることは控える。興味のある方――というより、種として全く異なるということがよく判っておられない方、梶井の誤りが判らない方は、是非、『橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(23) 昭和二十三(一九四八)年 百十七句』の私の「薄翅かげろふ」の注を見られたい。]

大手拓次 「白面鬼」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 白 面 鬼

 

あをい顏ぢやないか、

しろつぽいくすんだ顏をしてゐるぢやないか、

どうしたのだ、

どうしたのだ、

すきとほる靈魂の塔のうへでは、

めづらしく大鴉(おほがらす)がないてゐる。

おまへの顏はしなびてゆくぢやないか、

冬の夜のばらの花のやうに、

まつくろにしをれてゆくぢやないか、

まつしろい顏の魔鬼ょ、

どうしたのだ、

なみだぐむやうなさびしいおまへの顏は。

きいてごらん、

とほくで、

ふんすゐがあがる、

黃色いうめきをたてるふんすゐがあがる。

 

[やぶちゃん注:「ふんすゐ」現在の正しい歴史的仮名遣は「ふんすい」でよい。現代では中国の中古音韻の研究が進んだ結果として「水」の音は「スイ」と既に確定されているからである。但し、嘗つては、「水」の音は「スヰ」と考えられていた経緯があり、明治・大正などの文献では、かく「すゐ」「スヰ」とするものが実は甚だ多いのである。]

大手拓次 「をとめのひざ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 をとめのひざ

 

やはらかな、をとめのひざ、

まるいふくらみと、

はれやかな、また内氣のやうな微動(そよぎ)とを持つてゐるひざ、

グロキシニヤの葉のやうにむづかゆく、

きぬのうぶ毛につつまれて、

かすかに、かすかにふるへるひざ、

ものうげに、かなしげに、

夕暮をなめてはわらふ をとめのひざ。

 

[やぶちゃん注:「グロキシニヤ」Gloxinia。ブラジル原産。シソ目イワタバコ(岩煙草)科オオイワギリソウ(大岩桐草)属オオイワギリソウSinningia speciosa 。小学館「日本国語大辞典」によれば、イワタバコ科Gesneriaceaeの多年草で、『ブラジルを原産とする園芸植物で』、『日本には明治初年に渡来し、観賞用に温室で栽培される。茎は短く』、『葉は根生状に対生する。全体に短毛を密布』し、『葉は長柄をもち、長さ』十『センチメートルの広楕円形で縁に鈍い鋸歯(きょし)がある。葉の間から長さ』十五『センチぐらいの花茎をのばし、頂に、先が五裂した径七~八センチメートルの鐘形花を開く。花はビロード状で紫、白、紅、赤色などになり、八重咲きなど変化が多い』とある。当該ウィキによれば、『元々はグロキシニア属』Gloxinia『に分類されていたが、グロキシニア属が再編されたのに伴ってオオイワギリソウ属へ編入された。このため、今でも「グロキシニア」と呼ばれることが多いが、現在のグロキシニア属は Gloxinia perennis など』五『種のみであり、本種のように栽培される機会は少ない』とあった。旧分類のグロキシニア属については、英文ウィキの「Gloxinia (genus)」に詳しい。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 四九番 呼び聲

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   四九番 呼 び 聲

 

 タラギの右源太と云ふ人があつた。下岩泉《しもいはいづみ》の下《しも》のカゲに鱒梁《ますやな》をかけておつたので、每夜水マブリに出かけておつた。

[やぶちゃん注:「下岩泉」岩手県下閉伊郡岩泉町(いわいずみちょう)岩泉新町のこの附近(グーグル・マップ・データ航空写真)。読みはポイントした「町民バス」のバス停名「下岩泉」で確認した。「ひなたGPS」の戦前の地図のここで旧地名が確認出来る。

「カゲ」「人目につかないところ」の意か。後に「カゲの山」とあるから、岩や藪などでで「陰ったところ」の意かも知れない。

「鱒梁」「梁」(やな)は、川の瀬に杭を打ち並べて水を堰き止め、一ヶ所だけを開けて簀(す)を張り、川を上り下りする魚を、そこに受けて取る仕掛けを言う。「鱒」は実は一種の和名ではない。詳しくは「日本山海名産図会 第四巻 鱒」の私の冒頭注を参照されたい。]

 或る夜も水マブリに行くと、ソウジボナイと云ふ澤の方から、大きな行燈《あんどん》に似た不思議な光物《ひかりもの》がブラブラと出て來た。そして自分の步く一間[やぶちゃん注:約一・八二メートル。]ばかり前を、ユラリユラリと恰度《ちやうど》同じやうな合間(アヒマ)を置いて飛んで行く。奇態なものもあるもんだ。これアヘタをするとダマされるか、カカられて殺されてしまう[やぶちゃん注:ママ。]かも知れないと思つて、用心して居たが、別段そんなやうな模樣もない。たゞ足もとを明るくしてくれながら行く。右源太も怖れながら其のアトについて行くと、やがてカゲに着いて梁場《やなば》へ下りる細道に入つた。すると其の火塊(ヒダマ)はツツと飛び方を速めて遠くへ消えて行つた。氣味は惡かつたが、これアお蔭で助かつたと、一晚げえ梁場を守(マブ)つて翌朝家に歸つた。

[やぶちゃん注:「水マブリ」「野田村通信ブログ」(岩手県九戸郡野田村)の「ワンポイント野田弁☆野田村の方言(前編)」に、「『まぶる』 見守る 「まぶってください」(神仏に守ってもらうよう祈る言葉)」とあったので、「梁場を守(マブ)つて」から見ても、簗の附近の「水」辺を「見張り」「見回り」することととれる。

「ソウジボナイ」先の「ひなたGPS」で調べたが、それらしい場所は見当たらなかった。

「一晚げえ」岩手県宮古地方のJin氏 編の「宮古弁 小辞典」に『ばんげ ばんげえ』があり、『晩景(ばんけい)』・『夕方』・『晩方』・『夜』とあったので、「一晩中」の意ととれる。]

 其の次の晚からは先祖傳來の銘刀を腰に打ち込んで梁場に行つた。ある夜水際で火を焚いて守つて居ると、夜更けにカゲの山から、ホイホイと呼ぶ者がある。この夜更けに不思議だナ、ゾウヤこれア俺を呼んで居るベエが、若しかしたら化物ではなかんベエかと思つて、腰の刀に手をやつて握り締めてゐた。向ひ山からは頻りに、ホイホイと呼ぶ、暫時(シバラク)經《た》つてその呼び聲が止んだと思つたら、今度はとても大きな聲で

  銘はあるにはあるが

  手のうち三寸に疵(キヅ[やぶちゃん注:ママ。])があるツ

 と三遍繰り返して叫んだ。これアいよいよ奇態なことだ。銘はあるにはあるが手の内三寸に疵がある……きつと俺の刀を見て云ふのだらうか、一體何物だベエと思つたら、とても怖くて、直ぐに大急《おほいそぎ》で家に歸つて來た。そして思ひついて刀を拔いて檢べてみたら、なるほど鍔際《つばぎは》から三寸ばかりの所に刄《は》こぼれがあつた。これは俺もさつぱり知らないで居つたのに、よくも之を見すかしたもんだ。あれは屹度《きつと》化物だと言つて、その翌夜からは一人では梁場に行かなかつた。

[やぶちゃん注:「ホイホイと呼ぶ者」私は一読、鬼火の一種である妖火「ホイホイ火(び)」を想起したが、ウィキの「じゃんじゃん火」によれば、それは、奈良県天理市柳本町・田井庄町・橿原市の伝承とし、『雨の近い夏の夜、十市城の跡に向かって「ほいほい」と声をかけると飛来して、「じゃんじゃん」と音を立てると消える。ホイホイ火(ホイホイび)とも呼ばれる』とあり、一般的な掛け声の一致に過ぎず、怪火でもないので、違うようだ。寧ろ、「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらにある「ほいほい」或いは「白むじな」と項立てする福島県相馬郡飯館村の山の怪異の一種で、『まぐろ売りからまぐろを買って食べ、寝ていると』、『夜中に「ほーい、ほい、ほい」という声が谷のほうからする。声は普通の人とちがって何か変である。枯れ木に火をつけ谷底に落とすと、がさがさ逃げる音がして静まった。白むじなであろうと言い合った』とある方が遙かに親和性が強いかも知れない。因みに、「白むじな」というのは、想像上の幻獣か、或いは、狸の老成したと信じられた妖怪か(白はアルビノというより、老成した猿の変化(へんげ)を白猿と伝えたのと同じ民俗伝承上の怪獣かも知れない)、又は食肉目ジャコウネコ科パームシベット亜科 Paradoxurinaeハクビシン属ハクビシン Paguma larvata がモデル候補にはなるか。孰れにせよ、人知を超えた神通力を持った人語を操れる「声」だけの妖異というのは、なかなかに凄腕ではある。]

大手拓次 「ヘリオトロピンの香料」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 ヘリオトロピンの香料

 

銀の鐘をうちたたく音(おと)、

銀の匙(さじ)で白い砂糖をかきまはす心地、

銀の小皿に白葡萄をのせた趣き、

ばうばうとむらがりとぶパンヤの實、

つつましく顛巾をかぶる冬の夜の女の顏。

 

[やぶちゃん注:「ヘリオトロピン」フランス語“héliotropine”(音写「エリォトロピン」)は香料名ヘリオトロピン。現行のヘリオトロピン(英語: heliotropine)は、当該ウィキによれば、『有機化合物の一種でピペロナール』( piperonal)『とも呼ばれ』、『フローラル系調合香料の保留剤として広く用いられるほか、フレーバーとしても』『使用され』、『向精神薬の』『原料ともなる。工業的』な『還元分解による製造が主である』とあり、『天然にはバニラ』単子葉植物綱キジカクシ目ラン科バニラ属バニラ Vanilla planifoliaの果実や『セイヨウナツユキソウ』(双子葉植物綱バラ目バラ科バラ亜科シモツケソウ属セイヨウナツユキソウ Filipendula ulmaria )『の花、ニセアカシア』(マメ目マメ科マメ亜科ハリエンジュ属ハリエンジュ Robinia pseudoacacia )『の精油に存在する』とあった。但し、本来は、双子葉植物綱ムラサキ目ムラサキ科キダチルリソウ属キダチルリソウ(ヘリオトロープ) Heliotropium arborescens (フランス語で“héliotrope。音写「エリオトロップ」)の花由来の香水であった。ウィキの「ヘリオトロープ」(英語:HeliotropeCherry-pie とも呼ぶ)そのリンク先等によれば、『ペルー原産』で、フランスの植物学『ジョゼフ・ド・ジュシュー』(Joseph de Jussieu 一七〇四年~一七七九年) 『によって初めてパリに種子がもたらされた。その後』、一七五七『年の報告に基づき』、一七五九『年にリンネが記載』し、『ヨーロッパほか』、『世界各国に広まった。日本には明治時代に伝わり、今も栽培されている』。『日本語で「香水草」「匂ひ紫」、フランス語で「恋の花」などの別名がある』。『バニラのような甘い香りがするが』、『その度合いは品種によって異なる』。『花の咲き始めの時期に香り、開花後は、香りが薄くなってしまう特徴がある』とあり、フランスの香水メーカー「ロジェ・ガレ社」(ROGER & GALLET)製の“Heliotrope Blanc(「白いヘリオトロープ」。フランスでは一八九二年(明治二十五年相当)に発売)は、『日本に輸入されて初めて市販された香水といわれている』とある(下線太字は私が附した)。『大昔は南フランスなどで栽培されており、天然の精油を採油していた』が、『収油率の低さ、香りの揮発性の高さというデメリットから、合成香料で代用して香水が作られるようにな』り、それが先に示した『有機化合物』としての『ヘリオトロピン』で、同薬物が『ヘリオトロープの花の香りがすることが』一八八五年(明治十八年相当)『に判明し、それを天然香料の代用として普及した』とある。なお、夏目漱石の「三四郎」(明治四一(一九〇八)年発表)に『ヘリオトロープの香水が登場する』ことはよく知られる。ともかくも、本詩篇当時に拓次が嗅いだことがある「香水」であるとすれば、既にして、以上の合成されたそれであることにはなる。しかし、拓次が既に日本に移入されて栽培されたヘリオトロープ=キダチルリソウ=木立瑠璃草の実花を嗅いで幻想した「ヘリオトロピン」詩篇であるとするなら、同種の花が詩想の元であろうと推定し得るし、そう私はとりたい気がする。病気がちで、しかも安月給の困窮に喘いでいた彼が、容易に親しく“Heliotrope Blanc”の香りを「聞き」得たとはちょっと思われないからである。

大手拓次 「Glycine の香料」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 Glycine の香料

 

やきつくした凝視のかげに、

ふるぃ織布(おりぎれ)をひろげて、またたたみこむ。

海の潮鳴のおとをきき、

魚どものおよぎまはる形を聽く。

さうさうとしてふる雨の腹に、

喪心の神の悲願をたたへて、

うづまきめぐる水の死相をときしめす。

 

[やぶちゃん注:「Glycine」グリシンは、この場合、フランス語の“glycine” (音写「グゥリィシーヌ」)で、日本固有種である「藤」、マメ目マメ科マメ亜科フジ連フジ属フジ Wisteria floribunda を指す。サイト「COLORIA MAGAZINE(カラリアマガジン)」の「藤の花はどんな香り?香水やアロマなどのおすすめグッズも紹介」によれば、『藤の花の香りは、ひと言で表すならば』、『「甘く爽やかなジャスミンに似た芳香」で』、『咲きたての頃にはほのかな香りですが、満開の時期に藤棚へ近づくと、ジャスミンに似たほのかな甘さのあるお花の香りがふわっと漂ってきます』。『とはいえ』、『ジャスミンほどエキゾチックでまったりとした甘さではなく、控えめで奥ゆかしさのあるパウダリーな甘さがあり、「上品」や「気品」といった言葉がよく似合います』。『この品のある甘い香りが、古くから日本人の心を掴んで離さないのでしょう』。『藤の花の香りは人によって感想が異なる複雑な香りでもあります』。『藤の花の香りの香水やトイレタリー』(toiletry:身体の洗浄や身嗜み、嗜好などを目的とした商品の総称。パーソナルケア(personal care)用品とも呼ばれ、基本的に身嗜みのため、身体を手入れするためのものを言う語。当該ウィキに拠った)『などが販売されていますが、じつは藤の花からは直接香料を抽出することはほとんどありません』。『藤の花からは強い芳香を感じますが、実際に抽出しようとするとかなり難しいらしいのです』。『そのため』、『香水などに使われる藤の花の香りは、いくつかの合成香料と天然香料を掛け合わせて作られています』。但し、二〇一二『年には化粧品会社のコーセーが藤の花の香りを解析することに成功しており、香りの成分をもとに藤の花の香りを再現することに成功しています。これから、より忠実に藤の花の香りを完全に再現した香水が登場する日も近いかもしれませんね』とあったから、この拓次の言う「Glycine の香料」は実際のフジの花から抽出されたそれを指すのではないことになる。彼が幻想した藤の花の香りの幻想の「香料」ということになる。それはそれで面白い。因みに言っておくと、この「Glycine」という綴りは、実はマメ目マメ科ダイズ属 Glycine (原種とされるものはツルマメ Glycine soja )の属名として同一であり、これはギリシャ語(ラテン文字転写)「glycys」(「甘い」の意)」が語源であるが、この場合は実の味のことを指すのであろう。大豆類の花が甘く香るというのは、私は聴いたことがないし、ネットで、一応は調べたが、見当たらない。]

大手拓次 「Jasmin Whiteの香料」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 Jasmin Whiteの香料

 

わたしは今ゆめからさめて、

黃色くみのる果物の樹をよぢのぼる。

あを空の微笑と

蜂のうなりとがわたしをひつそりとかこむ。

きいろいくだものや、

あかむらさきのくだものや、

あをむらさきのくだものや、

めいめいが息をとめたやうにひつそりと、

おもくぽつくりとみのつてゐる。

そのたわわにみのる果物のなかに、

みづのやうにすんだ眼をしてわたしは過去のゆめをさます。

 

[やぶちゃん注:「Jasmin White広義には、シソ目モクセイ科 Jasmineae 連ソケイ(素馨)属 Jasminum のジャスミン(アジアからアフリカの熱帯及び亜熱帯地方が原産で、本邦には自生しない)の内、白色の花を咲かせるものを指すが、狭義に英語で「White Jasmine」と呼ぶ種は、蔓性常緑性灌木のソケイ属ハゴロモジャスミン Jasminum polyanthum を指す。ウィキの「ハゴロモジャスミン」によれば、同種は中国原産で、『オーストラリアとニュージーランドに帰化し、外来種となって』おり、『アメリカやヨーロッパで観賞用植物として栽培されている』とあって、『花は直径約』二センチメートルで『香りがよい、五芒星のような薄いピンクや白い花を咲かす。晩冬から早春にかけて』、『赤やピンク色の花のつぼみを豊富に生成する』とある。ここはしかし、前者の広義のそれか、以下に示すソケイ Jasminum grandiflorum が相応しいようだ。ウィキの「ジャスミン」(ソケイ属の記載)によれば、『ほとんどの種は白色または黄色の花を咲かせ』、『いくつかの種では花は強い芳香を持ち、香水やジャスミン茶(茉莉花茶)の原料として使用され』、『主な香気成分は、ジャスモン酸メチル』methyl jasmonate『である』とあり、『ほとんどの種が観賞用として栽培されている。栽培の歴史は古く、古代エジプトですでに行われていたといわれている。ソケイ』(ソケイ属ソケイ Jasminum grandiflorum )『とマツリカ』(ソケイ属マツリカ(茉莉花) Jasminum sambac)『の』二『種については、香料原料として大規模な栽培が行われている』。属としての『ソケイは』十六『世紀中ごろからフランスのグラースで香料原料として大規模に栽培されるようになった。現在では、主な産地はエジプトやモロッコ、インドなどに移っている。花は夜間に開くので、開ききった明け方に人手により摘み取られ、有機溶媒による抽出が行われる。抽出後、溶媒を除去すると「コンクリート」と呼ばれるワックス状の芳香を持つ固体が得られる。これをエタノールで再度抽出し、エタノールを除去したものが、香料として使用される「ジャスミン・アブソリュート」である。花約』七百『キログラムからジャスミン・アブソリュート』(Jasmin Absolute:室温でジャスミンの香りを溶媒に移し、抽出した香料で、高温の水蒸気蒸留で抽出する精油と区別される)一『キログラムが得られる。ジャスミン・アブソリュートを使った香水としては、ジャン・パトゥ』(Jean Patou)『社の「Joy」が著名である』。但し、『化粧品・医学部外品成分の香料の中で、ジャスミン・アブソリュートはアレルゲン陽性率が高く、注意を要する』とある。『ジャスミンの花にはいくつかの香気成分が含まれているが、その中でもジャスミンの香りを特徴づける独特な香気成分であるcis-ジャスモンは、未だ工業的生産法は確立されておらず、自然の花から抽出し精製するしか方法がないため、cis-ジャスモンを主原料とした香料は非常に高価である。それと比べ、工業的生産法が確立されているジャスモン酸メチル系の香料は安価で入手可能で、香水やアロマオイルなどとして一般に広く出回っている』。十六『世紀中国の官能小説』「金瓶梅」『には、女がジャスミンの蕊(めしべ、おしべ)とバターとおしろいを混ぜて』、『体中に塗り付け』、『男を楽しませる場面が登場する』とあった。なお、属中文名の素馨(花)については、ウィキの「ソケイ」(ソケイ属の記載)によれば、『中国、五代十国時代の劉隠』『の侍女に』、『素馨という名の少女がいて、死んだ彼女を葬った場所に素馨の花が咲き、いつまでも香りがあったという伝説が由来という説』と、『花の色が白く(素)、良い香り(馨)がする花という意を語源とする説』が挙げられてある。]

大手拓次 「白薔薇の香料」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 白薔薇の香料

 

ためらひながら他見(よそみ)する戀のうつり氣、

ひとりの少女(をとめ)から、

またほかの少女へと心をうつすたのしさ。

つつましいひかへめがちの娘から、

はれやかな吸ひよせるやうな脣の娘へと、

とりとめもなくとんでゆく心の憂鬱。

 

あをい葉はしげりあつてわたしをおほひかくし、

いつとなく流れでるわたしの祕密をまもる、

うつくしく化粧した叔母さんのやうに、

わたしの慈悲をそだて、

わたしのほのじろい背中に健康の祈りをさしむける。

けれどわたしの破れゆく心はとまらない、

あめ色のはだかの馬のやうに眼(め)もなくはねまはり、

そのきずついた蹄(ひづめ)のそばに戀のまぼろしを織りつづける。

 

[やぶちゃん注:「白薔薇」白色のバラは、フランス語のウィキの「Rosa × albaの記載を見るに、現在のバラ亜綱バラ目バラ科バラ属ロサ・アルバ Rosa alba の交配種アルバ・セミプルナ Rosa × alba 'Semiplena' (蔓性バラ)が古形の白バラに最も近いとされている基本品種とされているらしく、その元は Rosa gallica × Rosa corymbifera 又は Rosa × damascena × Rosa canina 間の自然交雜に起因するものとされる。「ヨークの白いバラ」(rose blanche d'York)と呼ばれ、ローマ人によって既に栽培されていたとも、また、現在もクルジスタンに自生しているとも記す。「姫野ばら園 八ヶ岳農場」公式サイト内の「アルバ セミプレナ – Alba Semi-plena」のページを見ると、『古代のロサ・アルバに最も近いと思われる種で、白い花弁におしべが目立つ、非常に美しい花で』、『青味を帯びた典型的なアルバローズの葉も美しく、レモンを含むような、独特の爽やかな芳香があ』るとし、『作出年』の欄には一六九二年(本邦では元禄二年相当)よりも以前とする。別に同サイトの「神秘的な伝説が残る 白ばらの祖―アルバローズ」には、アルバローズは『赤ばらの祖であるガリカローズ』Gallica Rose『と双璧をなす白ばらの祖』とし、『聖母マリアがヴェールをかけたばらは白いばらになったという伝説も残る神秘のばら』であり、また十五『世紀イギリスで起こった』「薔薇戦争」(Wars of the Roses:イングランド中世封建諸侯による王朝の執権争奪の内乱)の『ヨーク家の紋章であったことも有名で』、『現在においてもアルバローズはその清らかな花容や爽やかな香り、青みを帯びた葉など、その独特の個性で多くのばら愛好家たちを魅了してい』るとあり、さらに『アルバローズのおいたちはガリカローズほどはっきりとはしておらず、また』、『生粋の原種ではなく』、『交雑で生じたものと推定されて』おり、『交配親はロサ・ガリカとロサ・アルウェンシス、またはロサ・ダマスケナとロサ・カニナの交雑で生じたなど諸説あ』るとする。『はっきりとした記録はルネッサンス時代の名画「ヴィーナスの誕生」などに見られ、画面に描かれた白いばらはアルバセミプレナではないかと推測されてい』るとある。『アルバローズ全体の特徴』は『清らかな花姿』で『花色は白または淡いピンクであることが多く、一部濃いピンクの品種も存在する』。『多くは青みがかった灰緑色の葉を有し、アルバローズの大きな特徴となって』おり、『株元からガリカローズより太めの枝を発生させ、早くから自立する品種が多い』。『また、アルバローズの多くは独特のさわやかなレモン香を含む芳香を有し、現在も白ばらの香りとして、ハイブリッド・ティ種などモダンローズの白ばらの中にも、その影響を見ることが出来』るとある。まず、これをこの「白薔薇」のモデルの代表品種候補として問題はないと思う。なお、白薔薇の花言葉は、「クリエイティブ・フラワー・コーポレーション株式会社」公式サイト「FLOWER」のこちらが、詳細を窮める。また、サイト「KOUSUI」の「ローズ(バラ)の人気おすすめ香水12選!《女性の品格を上げる香り》」もある。]

2023/04/23

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 實盛屋敷

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。今回は、ここから

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。太字は底本では、傍点「﹅」である。

 なお、冒頭に出る「『鄕土硏究』二卷三號」に載る「實盛塚」という論考は柳田國男のそれである。この柳田の論考自体は、「虫送り」の民俗との関連もさることながら、齋藤別當實盛は私の好きな武将ではあるのだが、どうも、以下の熊楠の小論とは連関性が頗る弱いものであることから、柳田のそれは、また、別の機会に電子化したい(それを電子化注するとなると、またまた、それだけで一日仕事になってしまうので厭だからというのが本音である)。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で「定本柳田国男集」第九巻(国立国会図書館内/図書館・個人送信限定)の「毛坊主考」の中にある柳田の当該論考をリンクさせてはおく。悪しからず。]

 

     實 盛 屋 敷 (大正三年十一月『鄕土硏究』第二卷第九號)

 

 『鄕土硏究』第二卷第三號の「實盛塚」の篇に、實盛山・實盛岩・實盛堂など見えるが、實盛屋敷は見えぬやうだ。鈴木正三《しやうさん》の「因果物語」卷中に、『播州にて或僧の夢に、我は實盛也、我《わが》屋敷に錢を埋み置きたり、朽ち去らんこと、悲し、と告げたり。此事、語り廣めて、越前へ聞こえ、國主の耳に立ち、怪しき事なれども、自然、有りもやすらん、屋敷を掘らせて見よ、と仰せけり。花輪何某と云ふ人、奉行にて、掘らせけるに、蓋もなき甕一つ、掘出《ほりいだ》しけり。錢は、腐りて、土の如し。鑄物師に下され、鐘の中に入れよ、と仰付《おほせつ》けられたり。實盛屋敷は、こんこく七箇所の内に、乙阪(おとさか)村と云ふ處なり。樋口村の雙(なら)び平山の上也。元和の末の事也云々』と出づ。「こんこく」は近國か。又、何か金鼓(こんく)に緣ある意か。彼《かの》邊の事を知る人の示敎を俟つ。

[やぶちゃん注:『鈴木正三の「因果物語」卷中に、「播州にて或僧の夢に、我は實盛也、……」全くの偶然だが、この「因果物語」は、昨年十月にブログ・カテゴリ「続・怪奇談集」で全電子化を終っており、熊楠の引くのは、『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「十八 實盛、或僧に錢甕を告ぐる事」』である。注もしてある。よし! この既電子化で、恐らく、南方熊楠の論考中、最速で公開することが出来た。目出度し、目出度し。]

下島勳著「芥川龍之介の回想」より「たつ秋」

 

[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載によれば、昭和九(一九三四)年九月発行の『かびれ』(「加毘禮」加毘禮社発行の俳誌。国立国会図書館デジタルコレクションの戦後の表紙を見ると、誌名の下には『新人育成の俳句指導雜誌』という如何にも学習塾の宣伝みたような副題があったのには呆れた)初出で、後の下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。

 著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た(但し、単行本刊行時期のため、正字と新字が混淆してはいるので、そこにはママ注記を入れた)。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。一部に注を挿入した。また、本篇にはルビが一切ないが、なくても概ね読めるが、一応、若い読者のために、ストイックに《 》で推定で歴史的仮名遣で読みを振った。]

 

 

た  つ  秋

 

 芥川龍之介君は元祿俳人殊に芭蕉の崇敬者であると同時に、芭蕉の硏究家としても有名で、その獨自の觀察眼は前人未踏の境地を拓《ひら》いてゐゐ。然も芭蕉の作句態度については、――かくありてこそ……推服措かず、自分もまた芭蕉の態度にならつて作句したのである。だから、彼ほどの天才をもつてして猶その一句を成すまでの苦心は寧ろ慘憺というても過言ではなかつた。

 彼は常に言うてゐた。――僕の俳句は、これでも全く眞劍だ。人は何といふかも知れぬが、僕の一句はこれでも、僕の小說一篇と拮抗すべきもので、兩者もとより輕重はない。……と、その心構への尋常でなかつたことは槪めかくの如くである。

 世には俳句を卽興詩と稱し、その態度で句作する人もあり、また俳句はそう堅くなるべき筈のものでない、擧ろ自然や人生を氣易く歌ふべきものであるなどと、すましてゐる向きもあるが、勿論ものは解釋である。それはそれで結構かも知れぬが、さりとて餘技氣分や、安易な妥協氣分から生れる作が、どんなものかは玆《ここ》に述べるまでもあるまい。

 彼の一生は短かつた。隨て俳句も尠なかつた。だが、自撰の句集が僅かに七十七句をもるに過ぎぬといつたら、知らぬ人は信じないかも知れぬ。――七十七句……少し達者な人なら。恐らく半年か一年の處作に過ぎないであらう、併しその七十七句は、彼の小說や文章と同じく、永久に光輝を放つ寶玉として尊重せられ、俳人芥川龍之介の不滅なるわけもまたこゝに存するのである。

 洋畫家の小穴隆一君は、もと碧梧桐門下で、同門の瀧井孝作君の紹介で芥川君と親しくなり、ついにあの淺からぬ交友關係にまで發展したのである。

 小穴君はいふまでもなく新傾向の作家であつたが、芥川君と交を結ぶように[やぶちゃん注:ママ。]なつてからは、同君の感化によつて正調の句を作るようになつた。然もその時分の彼の作は一種の新味と奇妙な臭ひとで、我々を感心させたのである。ある時芥川君に、――小穴君の句は中々うまいところがゐる。そしてあの無鐵砲なところに我々のまねの出來ない妙味がある……といつたところが、彼の曰く――小穴君は俳句の傳統も歷史も何も知らん。卽ち何も識らんから無鐵砲で大膽だ。そして白紙だからあの純なものが出來る。何も知らんといふことは最も强みのあることで、我々の及びがたいところだ……と、いつたのである。

 これは至言でゐると思つた。勿論天分によることではあるが、――なまじ種々な智識を得れば得るほど反《かへつ》て智識の束縛を受け、身動きの出來なくなるのが普通である。果せるかな、數年後の小穴君の句のうまさは以前ほどの光彩かなくなつた。これは勉强して段々もの識りになつたためではないかと思はれる。(勉强してうま味がなくなつたといふことを誤解されては困る)また小穴君の句は活字になると一段のうま味が加はるので、あるときまたその話をすると、――それもよくわかつてゐる……とはいつたが、說明もせずまた私も强《しひ》て聞く必要もなかつた。

 小澤碧童君の碧梧桐門の高足たることは誰知らぬものもない筈である。同君は小穴君の紹介で芥川君の處へ出入してゐるうちに、何時とはなく芥川君の主張に傾倒共鳴の結果、終《つひ》に正調の作家に轉向するといふ、眞《まこと》に駭くべき事件を惹起したのである。當時新傾向俳壇の振《ふる》はなくなつたのは、他に幾多の原因はあるであらうが、城代格の碧童の轉向は一層その不振を早めたかの感がある。それは兎に角、新俳壇の曉將《げうしやう》碧童を轉向させた芥川君の力量は、なんといつてもすばらしいものである。また同時に碧童君の轉向ぶりのあざやかさも推賞に堪へぬものがあると思つてゐる。

 この事件は恐らく一殼にはまだ如れてゐないと思ふから、後《の》ちの疑問を招かぬために、この機會に述べておきたい。

 室生犀星君は、もと俳人として何《いづ》れかといへば、新傾向の臭ひの高い人であつたが、芥川君との交友が深くなるにつれ、互に熱心に硏究の結果、初めて俳句に對する識見が生じてきたといふ意味を、彼の句集魚眠洞發句集の自序で述べてゐる。だから、室生君の俳句に對する自覺も實は芥川君に負ふところ尠なくないと言つて差支ないであらう。

[やぶちゃん注:「魚眠洞發句集の自序」国立国会図書館デジタルコレクションの『室生犀星全集』第八巻に所収する同句集の「序文」を見たところ、「新傾向の臭ひの高い人」どころか、『當時碧梧桐氏の新傾向俳句が唱導され、自分も勢ひ此の邪道の俳句に投ぜられた』と犀星自身の述懐があって、下島の、知らんふりの、あたかも自身が犀星のやや古い句を鑑賞吟味したところの印象である《かのように》書いているのには鼻白んだ。しかも、さらに後を読んでゆくと、ここ(上段九行目)には、『芥川龍之介氏を臀、空谷、』(「空谷」は下島の俳号)『下島勳氏と交はり、發句道に打込むことの眞實を感じた』(終りのクレジットは昭和四(一九二九)年二月)とあって、これまた噴飯物だった。私はこうした『どうせ読者は知らぬもの』といった立ち位置でものを書く人間を甚だ嫌悪する人種である。]

 私は靑年時代から俳句が好きで、常に心を放れぬ趣味の一つであつた。勿論時代關係からいつても、子現から影響されたことは言ふまでもない。併し幸か不幸か俳句の師といふものがなかつたので――尤も古人今人師とすべきは皆師ではあるが。他の俳人のやうに傾向とか主張とかいふものゝ渦中に卷きこまれずにすんだ。卽ち雜誌を中心とした俳句運動といふものゝ圏外にあつて、靜かに明治以來俳壇の推移變遷を傍聽することが出來たのである。そして自由に批評し考察しながら樂しんでゐたといふやうな、‐いはば俳優ではなくして芝居の見物人だつたのである。

 だから、芥川君や室生君と俳句をやるように[やぶちゃん注:ママ。]なつてから、始めて眞劍に古俳句の再吟味を試み、また比較的純な心から俳句を始めたといつたやうなわけで、私の中の俳人はやはり、芥川室生の兩君に負ふところが多いのである。

(昭和九・九・かびれ)

[やぶちゃん注:私は富山県高岡市立伏木中学校二年の時、国語の小島心水先生から授業で尾崎放哉の句を教えられて感銘、授業後、直ちに先生に句集の拝借を願って以来、中三の時に放哉の所属していた『層雲』の誌友となり、二十代半ばまで続け、自由律俳句に親しんだ。大学一年の夏には強力な出不精の私であるが、放哉の墓参りもして墓も洗ったし、私の大学の卒論も「尾崎放哉論」であった。

 なお、作句の方は、その後、概ね無季定型型の俳句に転じて、数年に数句ものす程度である(私の「句集 鬼火」を御笑覧あれ)。

 尾崎放哉はHP内に「全句集 やぶちゃん版新版」の数種と、終焉の地となった小豆島の西光寺の南郷庵に入った際の「入庵雜記」(全)を用意してある(前者は、例えば、「尾崎放哉全句集 やぶちゃん版新版正字體PDF縦書版」)。

 また、「心朽窩旧館 心朽窩主人藪野唯至 やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇 縦書完備」では、芭蕉の紀行等の電子化注の数篇の他、惟然坊・丈草・木導、近現代では村上鬼城・泉鏡花・伊良子淸白・萩原朔太郎(全句集)・畑耕一・富田木歩(私が以依頼原稿で書き、『俳句界』第百七十八号二〇一一年五月号「魅惑の俳人㉜ 冨田木歩」に掲載された富田木歩論「イコンとしての杖」の初稿も公開している)・久女(全句集)・橋本多佳子(全句集)・三鬼・尾形龜之助・篠原鳳作(全句集)・原民喜・鈴木しづ子らの句集を公開してある。

 而して、その「俳句篇」での私の最大の自身作は、二〇〇六年から六年かけて構築した(その後も新発見句を補充し続けている)★「定本 やぶちゃん版芥川龍之介全句集」全五巻★(「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」以下を参照)である。これは、過去・現在、如何なる出版された芥川龍之介句集よりも句数に於いて、最も多い芥川我鬼/澄江堂の発句・連句を渉猟したものという自負があるものである。

 なお、以上の下島の文章に芥川龍之介晩年の盟友であった画家小穴隆一(芥川龍之介の遺書の内には、遺族によって焼却された失われた部分があるのだが、一説に、そこには、妻文に対して、小穴と結婚せよ、という遺言があったとも言われている)のことが出てくるが、私はブログ・カテゴリ「芥川龍之介盟友 小穴隆一」で彼の芥川龍之介に関連する記事の多い二作品等を電子化注している。しかし、まず、現在、以上で下島の言うところの、小穴隆一の俳句を見ることは、図書館であっても至難の業であろう。――いや、ご安心あれ! 私のブログの「鄰の笛(芥川龍之介・小穴隆一二人句集推定復元版)」で小穴の句群を電子化注してあるのである。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 四八番 トンゾウ

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。なお、本篇の附記は特異的に長く、類型話が紹介されているので、ポイント落ちはやめにして(底本では一行目のみ本文相当一字下げで、二行目以降は全体が二字下げである)、本文と同じポイントで頭の一字下げのみを再現し、後は行頭まで引き上げてある。]

 

      四八番 トンゾウ

 

 鼠入(ソニウ)川の館石の分家に、佐平殿(ドン)とて世の中のこともよく分つた、[やぶちゃん注:底本は句点だが、「ちくま文庫」版で読点に代えた。]衆人にすぐれて力も强いマタギがあつた。ある日の夕方宮ノ澤と云ふ所ヘオキジシに出かけたが、其の夜に限つてさつぱり鹿が寄らない。そのうちに、もう夜も明けて朝日も登らうとする頃、家に歸るベエと思つて、山を下つて來たら、傍らのムヅスから突然に眞黑いコテエのやうな大きな物が飛び出して來た。

[やぶちゃん注:「鼠入(ソニウ)川」現在の岩手県下閉伊郡岩泉町(いわいずみちょう)岩泉鼠入川(いわいずみそいりがわ)附近(グーグル・マップ・データ航空写真)。小本川(おもとがわ)に南から合流する川に「鼠入川」が確認出来る。

「館石」氏姓名か。「たていし」と仮に読んでおく。

「宮ノ澤」「ひなたGPS」の戦前の地図で鼠入川周辺を調べたが、見当たらなかった。

「オキジシ」不詳。探すのではなく、鹿の通る道筋で待ち伏せするか、「括り罠」を掛けて置く(後で「オキジシかけ」「オキを立てていたら」と出る)狩法か。

「ムヅス」不詳。叢(くさむら)或いは藪や低灌木のそれか。

「コテエ」最終段落に「コテエ(牡牛)」と出る。私自身、幾つかの古文資料や諸地方の民俗資料の中で、「牡牛」「特牛」を「こつとい」(こっとい)「こてい」と読むのを見た。山口県下関市豊北町大字神田上にある「道の駅 北浦街道 豊北 ほうほく」公式サイト内の中野氏の記事『「こっとい」の由来 (※諸説あり)』に、『① 「特牛」には 港がありますが、この「港」を型取る入江のことを「琴江=コトエ」とも呼ぶこと』、『② 「特牛」の周辺が古い時代から和牛の牧畜が盛んな地域で、「牡牛」を「コテイ」と呼んでいたこと』、『③ 重い荷物を背負って運ぶ強靭な牡牛を「こといの牛」「こって牛」などと呼んでいたこと』という『諸説ありますが、 これらの語呂が変化して「特牛」を「こっとい」と読むようになったといわれています』とあった。]

 佐平殿はそれを見て魂消(タマゲ)てしまつた。鐵砲も何も向けられない程近づいたし、これア俺ア之れに取つて食はれて仕舞ふベエかと思つたら、急に怖(オツカナ)くなつて、腰の切刄(キリハ)に手をかけて後尻退(アトシザ)りしてゐた。ところが其のバケモンが人間のやうな大きな聲を出して、俺アトンゾウだ。貴樣俺を打つて見ろ、打つたもんなら握り潰して仕舞アベアと呶鳴つた。佐平殿はオツカナマギレに夢中で山から逃げて戾つた。さうして考へてみると、今まで獸が物云ふたのを聞いたことも見たこともない。どうも奇態なことだ。[やぶちゃん注:底本は行末で句読点はない。句点で応じた。「ちくま文庫」版は読点。]屹度(キツト)あれア化物(バケモノ)に相違ないと思つて居た。

 暫日(シバラク)經つてからまた橫長嶺と云ふ所ヘオキジシかけに出かけた。長根の一本栗の樹のところで、オキを立てゝ居たら、大きな大きな地搖《ぢゆる》ぎをさせて、何處からかその栗の樹目がけて飛びついて來た物があつた。そして其の樹をブツコロバスほど搖《ゆす》りつけると、枝がばりばりとヘシ折れて下に落ちた。佐平がよく見るとそれは此の前の化物だから靑くなつてしまつた。トンゾウはまた大きな聲で、貴樣アよくもよくも先達中《せんだつてうち》から此の山を荒しやがるなア、これから來て見ろ、來たらば今度こそツカミ殺してくれツから、さう思へツと言つた。佐平は怖くて堪《たま》らない。これから以來來ねアすケ、勘忍してくだンせえと言つて、そのまま又家へ逃げ歸つたが、それから此の人は病みついて十日ばかり經つと死んだ。

 トンゾウとは何物であるか、ただコテエ(牡牛)のやうなもので、そして飛ぶ化物だと云ひ傳はつて居るばかりである。

 (陸中閉伊郡岩泉地方の話。野崎君子さんの御報告分の二。)

[やぶちゃん注:「橫長嶺」やはり、「ひなたGPS」の戦前の地図で鼠入川周辺を調べたが、見当たらなかった。]

大手拓次 「スヰートピーの香料」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 スヰートピーの香料

 

くづれる花束、

くづれる草の葉、

くらげ色のうす闇のなかを

ちやうちんをさげてゆく小坊主、

忘れものをしたやうな心が

ゆつくりゆつくり涌いてくる。

おまへの肌はあまいさびしさがいつぱいにふさがつてゐる。

 

[やぶちゃん注:「スヰートピーの香料」イタリアのシチリア島原産の一年草で、観賞用として栽培されるマメ目マメ科マメ亜科レンリソウ属スイートピー Lathyrus odoratusツイッターの「調香師ユタカ」氏のツイートによれば、『軽やかなフルーティーフローラルに少しグリーンを足した香りがあります。スイートピーの香り成分のひとつであるメチルアンスラニレートはフルーティーな甘い香りで、葡萄の香り成分に含まれるほか、オレンジフラワーの香りの再現に用いられる香料です』とあった。また、「スイートピーの香り」PDF)には、『スイートピーは豊かな香りをもつ花のひとつで、バラにも負けず香りを楽しむことが出来る花』とあり、その香りは、一つは、『フルーティーな香り』で、『葡萄に似た甘い香りで拡散性に優れ』、謂わば、『葡萄のガムやジュースの香料であるグレープフレーバーのような人工的な香り』とし、今一つは、『グリーンな香り』で、『レモンに似た柑橘系の香り』で、『シャープで拡散性もよい』とあった。なお、当該ウィキによれば、スイートピーは『有毒植物であり、成分は同属の種に広く含まれるアミノプロピオニトリル(β-aminopropionitrile)で、豆と莢に多く含まれる。多食すれば』、『ヒトの場合、神経性ラチリスム(neurolathyrism)と呼ばれる痙性』(脳・脊髄の障害のために手足が突っ張るようになり、手足を曲げられない、関節が屈曲・伸展してしまい、思うように動かせない等の運動障害の原因になる症状を指す語)『麻痺を引き起こし、歩行などに影響が出ることがある。他の動物では骨性ラチリズム』(Osteolathyrism)『と呼ばれる骨格異常が生じることがある』とあるので、ご用心。]

大手拓次 「リラの香料」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 リ ラ の 香 料

 

小徑(こみち)をはしりゆく金色のいたちの眼、

ほそい松の葉のいきいきした眼、

物のながれをとどめ、

やさしく明るみへみちびいてゆく。

タンバールの打ちだす

古風な、そしてしづかな騷擾のやうに、

わたしの胸をなみだたせる。

 

[やぶちゃん注:「リラ」モクセイ目モクセイ科ハシドイ属ムラサキハシドイ(紫丁香花)Syringa vulgaris 。標準和名よりも英語のライラック(Lilac)で呼ばれることが多い。リラ(Lilas)はフランス語での呼称。当該ウィキ(「ライラック」である)によれば、『ヨーロッパ原産。春』『に紫色・白色などの花を咲かせ、香りがよく、香水の原料ともされる。香気成分の中からライラックアルコール』Lilac alcohol『という新化合物が発見された』。『耐寒性が強く』、『花期が長いため、冷涼な地域の代表的な庭園木である』。『花冠の先は普通』四『つに裂けているが、まれに』五『つに裂けているものがあり、これは「ラッキーライラック」と呼ばれ、恋のまじないに使われる』。『日本には近縁種ハシドイ Syringa reticulata が野生する。開花はライラックより遅く』六~七『月に花が咲く。ハシドイは、俗称としてドスナラ(癩楢、材としてはナラより役に立ちにくい意味)とも呼ばれることがある』。『ハシドイの名は、木曽方言に由来する』ともされるらしい。『属の学名 Syringa は笛の意で、この木の材で笛を作ったことによるという』とあった。

「いたち」食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科イタチ属ニホンイタチ(イタチ)Mustela itatsi 以下の四種七亜種ほどが自生棲息する。詳しい博物誌は、私の「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)」を見られたい。なお、寺島長安はイタチを鼠類に入れているのは、見た目から判らぬではない。そちらでも書いたが、近代まで、鼬(いたち)は狐狸同様、人を騙す妖怪獣として捉えられてきた経緯がある。特に、チョウセンイタチ亜種ニホンイイズナ Mustela itatsi namiyei (青森県・岩手県・山形県(?):日本固有亜種。キタイイズナより小型で、日本最小の食肉類とされる)は古くは最強の呪的生物であった。ウィキの「イイズナ」によれば、『東北地方や信州では「飯綱(いづな、イイズナ)使い」「狐持ち」として管狐(くだぎつね)を駆使する術を使う家系があると信じられていた。長野県飯綱(いいづな)山の神からその術を会得する故の名とされる』。『民俗学者武藤鉄城は「秋田県仙北地方ではイヅナと称し』、『それを使う巫女(エチコ)〔イタコ〕も」いるとする』。『また』、『北秋田郡地方では、モウスケ(猛助)とよばれ、妖怪としての狐よりも恐れられていた』とある。拓次の意識の底には、そうした民俗社会的ニュアンスが感じられるように思う。

「タンバール」フランス語“timbales”の音写。打楽器のティンパニ(timpani)のこと。]

大手拓次 「靑い異形の果物」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。

 底本の原氏の詳細な年譜によれば、大正七年の春頃、同僚で画家でもあった『逸見享と詩画集『黄色い帽子の蛇』、詩版画集『あをどり』を発行(いずれも自家版)』、ここまで詩活動は至って旺盛であった。一方で、同年『十二月、「ライオン当用日記」(ライオン歯磨刊)の編集』・『執筆に苦心する』という現実もあった。大正八年には、『作品の数も激減し、発表もし』ていない。これは『同僚の女性を思慕し、会社員としての仕事と、詩作との矛盾に苦悩』したこと、『祖祖母の死や祖父のおとろえも気を重く』させたとあり、注記で、『拓次は早く両親を失ったこともあって、想像以上に家族思いであった。祖父母を思っては許しを乞い、わけても祖母は彼の死の一つの母体でさえあった』と述べておられる。大正九年には、『四月、福島、仙台、秋田を単身旅行』し、この『春ごろ「未完の詩集・蛇の花嫁」と題する皮表紙ノートの詩作を残す』とあるものの、これは『死後刊行された『蛇の花嫁』とは内容的には無関係』であると注記しておられ、『七月から九月にかけて、耳鼻科や歯の治療で医者通いをする』とあり、一方、『この年、社内の文学愛好者らと回覧雑誌「アメチスト」をつくり、詩(作品名未詳)を寄せる』とあった。大正十年の項には、『二月から四月なかばまで眼疾のため会社を欠勤。三月、白秋より来信』があり、『新詩会への参加を勧誘される』とある。『四月中旬、一時出社』したが、同『下旬、ふたたび眼疾(結核性)悪化、麹町』『富士見町の朝倉病院に入院』、『七月、退院』するも、『十月、急性中耳炎のため本郷区』『真砂町の小此木病院に入院』している。一方、『同月、『現代詩集』(アルス刊、第二輯)に詩「彫金の盗人」ほか五篇が収録され』ている。十二月に小此木病院を退院しているものの、翌大正十一年も、『一月中旬まで毎日病院通いをしながら』の出勤が続き。『現順には』また、『小此木病院に入院』し、『三月末、退院』したが、時にこの『病院の看護婦に片思いの思慕をよせ』たりもしている。『四月以降も眼疾、耳疾になやみ、病院通い』が続いた。他方、『五月、「白い月」と題する和綴じノート(詩集体裁)をつくり、秋ごろまで』詩作し、九月には白秋・山田耕作主宰の『詩と音楽』創刊号に「仏蘭西薔薇の香料」(死後の『藍色の蟇』所収)『ほか三篇を発表。以下、同誌に毎号、詩を発表』するようになった。また、この頃、『ライオン児童歯科医院(ライオン歯磨本館焼失のため広告部は一時ここの二階で業務をとった)勤務の女性と』、別に『新人女性社員(山本安英)』(後に舞台「夕鶴」の主演女優として知られる彼女その人である)『に、同時に熱烈な片思いの思慕を寄せ』、それがまた、『数多くの詩に反映』したとある。大正一二(一九二三)年も、雑誌『詩と音楽』に精力的に詩を発表した。九月一日の関東大震災では、『勤務先は全焼』、『丸ビル内に移った仕事場に通』っていたが、『依然として医者通いは』続いた。大正十三年『二月、画家の戸田達雄と「詩集・薄雪草」と題する詩画集(スケッチブック)をつく』り、『「抒情小曲集、まぼろしの花」を作成(いずれも肉筆)』しており、この頃から『文語詩を書きはじめる』とある。この文語詩の主篇群と拓次のデッサンが、死後に刊行された逸見享編「大手拓次詩畫集 蛇の花嫁」(私のサイト縦書PDF版。ブログ分割版もある)に載る。七月には同じ逸見と『二人雑誌『詩情』(詩版画集)を発行(詩情社)、山田耕作から好評激励の書簡をもら』っている。また、『短歌雑誌『日光』に詩「悲しみの枝に咲く夢」ほか四篇を発表』している(この「悲しみの枝に咲く夢」詩集「藍色の蟇」に所収する)。そして、この『八月月、白秋より詩集出版に話があり、すぐ自選の作品の浄書にかか』り、『九月、「長い耳の亡霊」を総題として浄書原稿を白秋に送』ったが、原氏は注記で、『白秋に送った原稿は握りつぶされたかたちで、詩集出版は実現し』なかった、とある。大正十四年には詩作がコンスタントに続く。私生活では、『五月、ライオン歯磨、本所の本店にもど』り、そこへ勤務した。同年十一月には、この年の夏以来、『文通していた従妹と会』っている。彼女とは『結婚を意識して恋愛関係にあったが、結婚には至らなかった』とある。この年、一方で、『女性への思慕の情をこめた発表のあてもない文語詩小曲が、しだいに多くなる』とあり、相変わらず、『医者通いつづく』とある。大正一五・昭和元(一九二六)年の条には、『四月文藝雑誌『戦車』に詩「顔」』(私は未読)『を発表、大木惇夫との交際がはじまる。五月、大木の計らいではじめて白秋に会う(二十九日、谷中天王寺の白秋宅で徹宵、話しこむ)。六月、白秋よりの来信で、再度詩集出版を激励され』、『同月、百八十余篇を浄書して白秋に送る。総題は『藍色の蟇(ひき)』』であった。原氏のこの年の最後の附記に、『(白秋に送った「自序にかへて」と「おぼえがき」付きの詩稿は、またもや握りつぶされたかたちで、再度詩集出版は実現されなかった。ただし、死後自費刊行される同名詩集の礎稿となる。)』とはある。私は昔から大手拓次は北原白秋の嫉妬によって世に出ることを邪魔された――白秋に「呪われた詩人」であると思っているのでる。]

 

 靑い異形の果物

 

むらがる果物のこゑ、

果物は手に手に、

まぼろしの矛(ほこ)を取り、

あをじろい月夜の雪なだれのやうに、

ものすごくもえながら走る。

 

2023/04/22

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「喫煙雜筆」

 

[やぶちゃん注: 底本のここ(本文冒頭の「一 西洋煙草」の始まりをリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。本パートは、皆、知られた作家ばかりであるから、特に作家注は附さない。

 なお、本章では「煙」の字がいっぱい出てくるが、底本では、「煙」の字は「グリフウィキ」のこの字体である。しかし表記出来ないので、「煙」を用いた。

 にしても、犀星が今の嫌煙社会に生きていたら、どう思うだろう。ちょっと聴いてみたい気はする。]

 

    喫煙雜筆

 

 

 喫煙雜筆

 

      一 西洋煙草

 

 パイプで喫む西洋煙草は一日の間に五六服あれば、自分には事足りてゐる。パイプの壺には柔らかに程よく煙草を詰め、最初の二三度喫ふ時のうまさは意想外である。主としてその煙の量が膨大であることにも甘さは原因してゐるが、それよりも西洋煙草の味ひが强いためであらう。自分は味の複雜なためにミクスチユア物を愛喫してゐる。ミクスチユアの味は優しいものや强烈なものや濃厚なものの交合的味覺であり、同時に百花一時に開くのうまみを包含してゐる。人知れず橫臥しながらこれらのミクスチユアのパイプを銜へ乍ら、恍惚としてゐる狀態は懶怠《らんたい》であるよりも非常に幻覺的な狀態であると云つてよい。

[やぶちゃん注:「ミクスチユア物」パイプ煙草で、煙草の葉の黄色種に、ペリキュー葉(アメリカのルイジアナ州産で、生葉を強制発酵させた黒色の葉)やラタキア葉(シリア産で、薫煙乾燥し,薫臭を伴う芳香を持つ)を配合した荒刻みの製品をスモーキング・ミクスチャー(Smoking Mixture)と言うが、幾つかの種類をミックスしたそうした系統の市販品、或いは、複数の単体葉を買って自分で調合するのであろう。「二」の冒頭に後者のそれらしい謂い方がちらりと出てくる。

「懶怠」「懶惰」に同じ。なまけ怠(おこた)ること。]

 パイプは俗にマドロス・パイプと稱へられてゐるが、自體夥しい西洋臭昧を持つてゐる故に、俗流ハイカラのそしりを免れないのは爲方《しかた》のないことである。町の散步道路などでは甚しく氣障《きざ》に見えるが、之れも亦仕方のないことである。書齋の中で一人でふかしてゐる分には天下晴れて喫《の》み樂しむことができるやうである。パイプの形體はそれ自身古風な海洋航海者の愛藏品のやうに、或東洋的なとまで言はれる程の面白さと稍骨董的な品格とを持つてゐる爲に、自分には最早ハイカラの意識的謙遜をもたないやうになつてゐる。パイプのための著書や寫眞帳やパイプ簞笥や磨き膏《あぶら》や掃除道具のあることは云ふまでもない。

 パイプの愛用者の恐しい病氣は舌癌であらう。舌端がいつもパイプの吸口に戲れるために永年《ながねん》の間に稀に起る病氣らしい。下の方へ彎曲されたパイプの吸口は就中《なかんづく》此種の疾患に襲はれ易いと云はれてゐる。此間來朝したアインスタインは終日パイプを磨いてゐたさうであるが、支那人が終日玉《ぎよく》をまさぐるやうに、西歐人はパイプを弄《らう》し慰むらしいやうである。日本人が煙管《きせる》を愛用するやうに。

 

      二 煙管(キセル)に就て

 

 自分は煙草は好きであるが喫煙道樂ではない。それ故高價なものは餘り喫まぬことにしてゐる。たまにミクスチユアを造る以外、大槪クレエブンミクスチユアで我慢してゐる。マイミクスチユアは時時喫むがそれを絕やさずに買入れて置く程度で、高價なマイミクスチユアでなければならぬことはない。

[やぶちゃん注:「クレエブンミクスチユア」クレイヴン・ミックスチェア(Craven Mixture)嘗つてロンドンにあったタバコ会社Carreras Tobacco Companyのブランドで、その主力パイプ・タバコだったもの。グーグル画像検索「Craven Mixture」で当時の市販品のケースを見ることが出来る。

「マイミクスチユア」前章で注したスモーキング・ミクスチャーのことか。私は今でも一日に三、四本紙巻き煙草を吸う。嘗つてはパイプ煙草も喫したが、教員をやめた時に、断捨離して持っていたパイプ三本も捨ててしまったので、よく判らない。]

 煙草は自分には樣樣なことを「考へる」ためにも必要であるが、惡辣なニコチン夫人の手にしがみ付かれてゐることが快樂である外、胃の底まで脂《やに》で染めることは恐しいに違ひない。然し此ニコチン夫人の手管《てくだ》の中に恍惚としてゐる味ひは到底忘られぬ。紙卷の風味は何か甚だ手賴りないが其手賴りないところが又好ましい。スターが稀にうまい味ひをもつてゐるが、パイプで喫むほどの甘美さは到底無いやうである。

[やぶちゃん注:「ニコチン夫人」という文字列を見るとと、私は反射的にチェーホフの一人芝居の戯曲「煙草の害について」を想起してしまう。ブログで「煙草の害について アントン・チェーホフ作・米川正夫譯」を電子化注してあるので、未読の方は、どうぞ。嘗つて、現代文の教科書にこれが載っていた(授業はしたことはないが、一度だけ、四十年前、女生徒から懇願されて、表現読みで朗読はしたことはあった。喝采を浴びた。

「スター」イギリスのタバコ・メーカーW.D. & H.O. Wills社製の紙巻き煙草“STAR”であろう。グーグル画像検索「W.D. & H.O. Wills STAR」をリンクさせておく。]

 日本の煙管(きせる)趣味は、文明開化と共に遂に今日では遺憾乍ら沒落した。西鶴や近松の酒落者のまさぐる銀細工の煙管の意氣は、今日の自分に何等の同情を惹くに至らないのは、一つには自分等は文明開化の奴隷であり得たこと、又一つは實用的に不便な煙草を弄する必要がなくなつた爲であらう。あれらの繊首《ほそくび》の煙管で喫煙することは今の我我には想像もできない苛苛しさである。あれらは喫煙的遊戯に近いと云つてもよい。併乍ら我我の父祖は斯如き優雅な一美術品の媒介で悠然として喫煙の中に消光《せうくわう》してゐた。その談裡に煙管の輝きを見せながら、喜怒哀樂の三百年を閱《けみ》してゐたのであつた。

[やぶちゃん注:「消光」月日を送ること。日を過ごすこと。]

 金唐皮《きんからかは》の煙草入に數百兩を揃げ打ち、その根〆《ねじめ》や目釘に金銀を鑄《ちりば》ばめたのも、もはや相應の骨董店か或は賣立以外で見られなくなつたのも時勢であらう。煙草の歷史の短い我國の慶長以來の贅澤三昧も、その比較を見ない奢りの中に一朝の煙草の如く沒落した。我我がこの三百年を一瞥する時に美しい工藝の園生《そのふ》である一極島を夢のやうに想ふのも無理のないことである。慶長以來煙草入れの金具は力の目拔や女の髮の裝飾具から、その形や姿を代へて樣樣に進化もし發明もされたのであつた。その布地は女持は女の衣裳や能衣裳から工風《くふう》され、男持に陣羽織や馬の道中覆ひから支那朝鮮の唐皮類にまで、その珍奇の用材を求め涉獵してゐた。金唐皮は一寸四方百圓もするのも素人には信じられぬことであらう。斯樣な烈しい傲奢の沙汰も明治の開花によつて殆ど形なきまでに淘汰された。といふより紙卷の流行は此煙管趣味の王國に遊ぶことを禁じたのである。自《おのづか》ら此喫煙の園生にも猶且明治初年の生活苦が浸透してゐたと云ふ見方も、一應は首肯《うなづ》くことができることであらう。

[やぶちゃん注:「金唐皮」サイト「文化遺産データベース」の「金唐皮」に、『仔牛などのなめし皮に、銀箔を貼りワニス(ニス)を塗り、模様を彫った方にプレスして、最後に手彩色して仕上げると黄金に輝く壁皮になる。金唐皮は』十六『世紀初め、イタリアで生まれ「黄金の皮革」と呼ばれ』、十七『世紀、オランダの特産となった。非常に高価で、貴族の間では「富の象徴」と呼ばれた』。本邦では、『当初、需要が少なかったが、西洋趣味の流行とともに、煙草入れや紙入れを始め、陣羽織にまで使用され、爆発的な人気を博した』とあって、『武雄鍋島家』の『武雄市図書館・歴史資料館』の金唐皮の画像が見られる。

「力の目拔」これ、「刀の目貫」の誤りではあるまいか?]

 序でだから書くが此煙管に刻む文樣は槪ね幼稺《えうち》で單純だつたのは、その煙管の極めて小さい洒落れた形の爲であつた。文樣の如きも武家の持つものは定紋章を鑄め、町家は目ら自由なものを刻んでゐた。併しこれらは悉く刀の鍔の文樣圖案から模倣されたことは、その時代の大半の風俗に較べても瞭然することである。德川中期以後これの奢が頂上だつたことも當然のことであらう。

 

      三 靜物としてのパイプ

 

 自分の目擊した或亞米利加人は五時間立てつづけにパイプを咥《くは》へ、絕えず喫煙してゐた。又西洋人は列車中の食後に心から樂しさうにマイミクスチユアを喫みながら、窓外の景色を眺めてゐた。自分は彼の橫顏にゴツホの一畫面を思ひ出し、壁にかけられてあつた數個のパイプを描いたアンリイ・マチスの心理と其動機を感じた。

 西洋のパイプなるものは其三百年以上の歷史を持つてゐるに拘らず、それ程も進步しないらしかつた。木根草皮から作られたパイプは漸くダンヒルの最上物に至るまで、形態や細工の上で我國ほど著しい進化を見ないやうである。あれらの型や形以外に進めないことは、日本の煙管が支那朝鮮の形態以上に出なかつたと同樣であらう。西歐人に比較して我國の工藝美術が肌膚(きめ)細かい自《おのづか》らな圖案や文樣を持つてゐることは、充分に注意すべきことであらう。又煙管の形が支那朝鮮では、自ら悠長な大民的な長い管と大きい壺をもつ煙管を、西洋人は最もその體質的なパイプを作り出したことも偶然ではなからう。

[やぶちゃん注:「大民的」不詳。自負心の肥大した民族意識の意か。]

 

      四 插 話

 

 自分は時時下草を買ふために植木屋の庭を訪ねた。そして其處の强慾非道の半翁に自分の入用な下草を掘らせるのが常であつた。半翁は一々奈何なる草本木皮の類にまでも、その信ずる値段を自分に告げた。自分はその度每に草本木皮が金錢の支配を受けてゐる爲めに、特にそれらの草本木皮の美しさを知るのだつた。

 然し植木屋の强慾非道は曾て自分を不愉快にしないことはなかつた。春淺い或日のこと、自分の前で美しい女の足のやうな敷島を一本袋から引きずり出し、慘酷に火をつけて燻《くゆ》らし乍ら彼は云つた。

「朝敷島一本ふかしながら芽先きを見𢌞つてゐると仲仲快い氣持です。」

[やぶちゃん注:「敷島」近代小説に最も登場することの多い、本邦の口付紙巻き煙草の銘柄。明治三七(一九〇四)年六月二十九日から昭和一八(一九四三)年十二月下旬まで製造販売していた。]

 

      五 煙草の理解

 

 自分の最初に喫煙したあやしい記億を辿るならば、異性へ近づく時の物珍しい氣持と大した變りはなかつた。加之《しかのみならず》自分は煙草を理解するために樣樣な苦心はしたものの、遂に煙草が自分だけの人生に於て何故に斯樣に貴重であり必須なものであるかが、其根本の「必要」に對して理解することが出來なかつた。それ故當時十六歲の自分はその最初の煙草を理解する努力を遂に放抛《はうき》した。自分が煙草を解するやうになつたのは幾つくらゐだつたかが、今以て甚だ漠然としてゐる。それは二十の年代に於て自分が何を考へつつ生活してゐたかといふ問題の漠然たると同樣に、極めて曖昧模糊たるものであつた。

「君は何故に煙草を好みたまふや」と往復葉書を以て囘答を促すものがあるとしたら、自分はそれは分つてゐるではないかと遂に囘答に應じないであらう。加之どの程度迄、「解つてゐる」かも能く判じがたい病疾的理解であるからである。判り過ぎてゐることは屢屢自分には無限の判明力であり、その無限故に焦點に觸れることのでき難い廣汎な意味の理解だからである。煙草の理解は最早我我が曾てダンヒル會社あたりから求めて來さうな往復葉書に對して、囘答を與へる必要のない程の愚問だとしか思へない。

 唯、自分の熟熟《つくづく》念《おも》ふのは雨の夕《ゆふべ》も風の日も煙草の朦朦《もうもう》たる煙の中から、どれだけ裏悲しい日を送つたかも知れない事實である。煙草は事實人生の詩情を盛るに猶飮酒家の如き悲しいものであつたことは、多くの人人の忘れもし想ひ起しもしないことであつた。或意味で近代の焦燥的な生活の一面に實に煙草と鬪ふ瞬間のあつたことは、何人も亦靜かに想ひめぐらすことができるであらう。そして煙草が我我の生活面に於て單に必要以上の皮肉な役目を持つてゐたことも次第に理解するであらう。

 

      六 美的感情に就て

 

 自分の紙卷煙草に對して優美の感情を誘惑される場合は、多く女の人の喫煙的ポーズの美しさにあつた。一例をあげれば今夏の或深更、信越の一山峽の驛で、自分は一老俳友を送るためにプラツトホームに佇んでゐた。送るものは自分一人であつた。自分は窓際から隔れたところで老友に一揖《いちいふ》を試みた後、不圖後方五つ目くらゐの窓ぎはから、夜半の冷たい空氣に濃い煙草の烟《けむり》が靜かに搖曳するのを何氣なく目に入れてゐた。それほど此山驛《やまえき》の夜更けは靜かだつたのである。列車の中は春のやうに明るかつたが、間もなく汽笛一聲とともに動き出した。自分の前に五つ目の窓が動いて過ぎたときに、若い婦人が白粉氣《おしろいけ》のない顏を自分の方に向け、靜かに敷島か何かをうまさうに燻らしてゐた。自分はその瞬間に可成りに放埒な優美の情を會得した。

[やぶちゃん注:「一揖」(現代仮名遣「いちゆう」。「揖」は「両手を胸の前で組み合わせて行う礼」の意。軽くおじぎをすること。一礼。]

 又一例、

 今は李園に花を競ふ人ではないが、伊太利にフランチエスカ・ベルチニといふ女優がゐた。彼女は千九百十年代の映畫の中では、鼈甲か何かの長いパイプのさきに繊いくちなしのやうな紙卷を揷《はさ》んで、靜かにトルコ絨氈《じゆうたん》の上を步く一場面があつた。自分はこの場面に同樣煙草の美しさ壯大さを理解した一看客だつたのである。歲月惱み多く今や此人も亦再び昔日の李園に艷を競ふことはないであらう。

[やぶちゃん注:「フランチエスカ・ベルチニ」フィレンツェ生まれの、無声映画時代に最も人気を博した女優の一人であったフランチェスカ・ベルティーニ(Francesca Bertin 一八八八年~一九八五年)。私は一本も見たことがない。]

 又一例、(しかしこれは美的感情を誘惑する例ではない。)

 煙草がまだ官營にならない前のことだ。自分の國の方の山間の町で煙草を產する鶴來《つるぎ》といふ處があつた。當時煙草を刻む五寸くらゐの長さの煙草刻みの庖丁があつた。其後官營になつてから此小さな庖丁はその土地の名產のやうになつて果物を剝ぐ小刀に變化した。今では金澤の城下で皮をむくための小刀は、この煙草刻みの庖丁が利用されたのである。恐らく昔の煙草が民間の手にあつた時代の遺物としては先づ此庖丁位が其著しい一つであらう。

[やぶちゃん注:「鶴來」現在の白山市鶴来町(つるぎまち)。この附近(グーグル・マップ・データ)。

 因みに――私は実は、中学二年以来、今まで、ずっと煙草を吸っている。高校教師時代、喫煙で捕まり、生徒に生活指導をする都度、心の内で、『俺は一度も見つからなかったぞ!』と喉元まで出かかることが、幾度もあった……。]

 

      七 ニコチン夫人

 

 自分の少年時代にはヒーロー、サンライズ、ホームなどの煙草があつた。煙草の箱も相應に凝つたものが多く、小さい油繪めいたカードが一枚宛插まれてゐて、美しい踊り子なぞが書かれてあつた。自分の家へ親類の者で兵隊に行つてゐるのが日曜ごとに遊びに來て、そのカードを自分に吳れたものである。

[やぶちゃん注:「自分の少年時代」犀星は明治二二(一八八九)年八月一日生まれ。

「ヒーロー」「たばこと塩の博物館」公式サイトのこちらを参照されたい。明治三七(一九〇四)年に煙草専売制が導入される以前の、村井兄弟商会の主力商品の紙巻き煙草。そこに、『輸入の葉たばこを原料に欧米の最新の技術で製造されたたばこで、中にはおまけのカードも入ってい』たとあるから、以上の「小さい油繪めいたカードが一枚宛插まれてゐて、美しい踊り子なぞが書かれてあつた」というそれは、本品のそれであった可能性が高いように思う。リンク先のパッケージのそれも、それらしい。

「サンライズ」サイト「世界のたばこ」の「日本タバコの歴史」に、前注の『村井兄弟商会の両切たばこ「カメオ」のデザインを模倣し』て、婦人の『肖像を村井吉兵衛本人の写真に差し替え』たもので、『国産の在来葉たばこを原料としている』とある。

「ホーム」不詳。]

 煙草が官營になつてから煙草に用ひられるものの、工藝的現象が亡びたことは煙管や煙草入れの需用を尠《すくな》くしたことを見ても判る。自分等が少年時代に見た煙草に對する幻像すら、既にあの美しいカードの失はれてゐることだけでも、重大な意味を持つてゐる。同時に今から十年の後には全然煙管や煙草入れを懷中にする古風な婦人の好みも、必ず失はれるに違ひない。又それらの工藝品は全然滅亡するであらう。近い一例は羅宇屋《らうや》の車を引く老翁を殆ど見なくなり、昔日一片の古詩は既に埃巷《あいかう》にその姿を失うてゐる。

[やぶちゃん注:「羅宇屋」「らう」は煙管の火皿と吸口の間を繋ぐ竹管で、インドシナ半島のラオス産の黒斑竹(くろまだらたけ)を用いたのがこの名の起こりとされる。江戸時代に喫煙が流行するとともに、三都などで「らう」のすげ替えを行う羅宇屋が露店や行商で生まれた。]

 自分は二年程前に省線電車の中で、熱心に一職人風な男が敷島の箱を覗いてゐるのを見て、不思議な氣がした。次ぎの瞬間にその男が煙草の數を調べてゐることに氣づいて、自分は謙遜の德を間接に感じたのだつた。自分もそれらの煙草の數を算へながら喫煙したことがあつたが、今から思ふと鳥渡懷しい氣がしないでもない。――自分が市井に筆硯を引提げて放浪してゐたころは、一個の卷煙草にも或時は押戴いて喫煙するに近い氣持であつた。時勢は移つても今の靑少年諸君にもこれらの謙遜の美德は持ち合してゐるだらう。

 自分は先年呼吸器が弱つているやうだつた時に、紙卷の純白な筒を見て何か直覺的に毒筒《どくづつ》のやうな氣がした。又、反對に年のせゐか夜中に眼を覺して一服喫ふ甘さは、毒とは知りながら廢《すた》らずにゐるのも、よくよくニコチン夫人に愛せられてゐるからであらう。

 

 煙草に就て

 

 自分の煙草を好愛したのは十六七歲の頃に始つてゐる。自分のその頃の記憶に據れば煙草を好愛するのはハイカラを理解することであり、文明の精神を會得することでもあつた。煙草は今では自分には音樂でもあり繪畫でもある樣樣《さまざま》な空想を刺戟し、妄想をたくらむ物のごときものであつた。

 煙草は有史以前から好煙されてゐるものであることは人の知るところであるが、日本に入つて來たのは天正年間か慶長の頃であらう。ポルトガル人が持つて來たことは疑ひもないことである。自分等の祖先の體内に有害な支那地方、朝鮮地方、又歐州婦人等の血液が浸潤してゐるやうに、永い天正の頃から煙草の害と毒が流れてゐるのである。自分等が煙草を好愛するのは實に今日の趣昧ではない。

 煙草は淫《みだ》りがましい心が銜へるやうである。煙草を好愛する我國婦人の階級は殆ど上流に行はれてゐないと云つてよい。自分は煙草が非常に性慾と密接な密度を持ち喫煙の過度な疲勞は一種の性欲的なるものであることは否まれない。自分の煙草を好む所以のものは或は一事に卽してゐるかも知れないのである。

 或情死者を二十分後に檢診した一醫師は、まだその男の方の肺臟から烈しいニコチンの臭氣を感じたことを報じてゐる。情死前に如何に烈しい喫煙の快樂を擅《ほしいまま》にしたかが分る。死刑囚が一本の煙草をほのぼのと喫みふける氣持は我我喫煙家の能く理解する心持である。

 自分は此頃パイプで西洋の刻み煙草を吸うてゐる。自分の如き閑暇人《ひまじん》はパイプを左の手にしながら永日《えいじつ》閑《かん》の文を綴るに相應しく思はれる。パイプで煙草を吸ふことは何か知ら「物語」を感じるからである。煙草は心の物語を調和するものだ。人悲しめば又煙草も悲しまねばならぬ。心に憂ひを有《も》つ人の煙草の苦さは、その腸《はらわた》に滲《しみ》るやうである。酒杯を手にしながら酒に斷腸の思ひを遣るのは最早時代遲れであらう。今の世はすべからく一本の煙草に天地有情を感じ又世態《せたい》人情の儘ならぬのを嘆くのに相應しいやうである。

 自分はパイプを所藏する人人による每月の會合に出て、自分もそれらの喫煙倶樂部の一員になり、手垢や焦げや齒の痕や、煙草の脂やにまみれたパイプをお互に吸ひ乍ら、半夜の卓に對ひ何か知ら雜談を交すことを愉快に思うてゐる。これらの會員は悉くパイプを携《も》たねばならぬ。かれらはの燐寸《マツチ》に三個のパイプの壺を合《あは》して喫煙するに機敏なるものでなければならぬ。又、かれらは均しく此半夜の喫煙を以て飮酒の宴に勝る愉しさを迎へねばならぬ。かれらは均しく貧乏人でなければならぬ。

 唯われわれ會員はその焦げと手垢に古びたところの、しかもあまり高價でない薔薇の根のパイプを銜へ、電燈を眺めたり往來する婦人連を眺めたり、極めて騷騷しい喫茶店の一隅に坐つてゐるだけである。人人は嗤《わら》ふにちがひない。併しながら我我は宴會や會合の皿や匙をがちやつかすよりも、心ばかり喫煙して居ればよいのである。それは靜かでもあり本能的でもあり、又醉ふこともできるからである。

[やぶちゃん注:「自分はパイプを所藏する人人による每月の會合に出て」先行する「月光的文献」の「一 喫煙と死」を参照。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 四七番 旗屋の鵺

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。なお、本篇の附記は特異的に長く、類型話が紹介されているので、ポイント落ちはやめにして(底本では一行目のみ本文相当一字下げで、二行目以降は全体が二字下げである)、本文と同じポイントで頭の一字下げのみを再現し、後は行頭まで引き上げてある。太字は底本では、傍点「﹅」。

 標題の「鵺」は「ぬえ」と読む。但し、これは狩人(マタギ)の綽名であって、例の源三位頼政が退治した南殿(なでん)のハイブリッドの怪鳥「鵺」とは関係性は、ない。そちらの「鵺」は私の「柴田宵曲 續妖異博物館 化鳥退治」を、鳴き声のモデルの鳥については、「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵼(ぬえ) (怪獣/鳴き声のモデルはトラツグミ)」を、どうぞ。]

 

   四七番 旗屋の鵺

 

 昔、上鄕村細越(ホソゴヘ[やぶちゃん注:ママ。])、旗屋(ハタヤ)といふ所に、鵺(ヌエ)と云ふ狩人(マタギ)の名人があつた。この狩人には一人の娘があつた。娘が或日家の窓際で機《はた》を織つていながら、時々機を打つ手を休めては、獨語《ひとりごと》を言つてケタケタと笑ひ獨語を言つてはケタケタと笑つて居た。父の鵺はそれを見てこれには何か譯があることと思つて、物蔭から窺つて見て居ると、一足[やぶちゃん注:ママ。「ちくま文庫」は『一疋』とする。誤植であろう。]の小蛇が窓際に絡《から》まつて居て、尾端《をはし》をプルプルと顫動(フリウゴ)かすと、その度每《たびごと》に娘が笑つたり囁《ささや》いたりした。鵺は彼奴《きやつ》の仕業だと思つて、直ぐに鐵砲を持つて來て射殺《うちころ》した。そして其屍《しかばね》を前の小川に投げ棄てた。

 その翌年の雪消《ゆきげ》の頃になると、前の小川に今迄見たことの無い小魚が無數に群れ集まつた。あまりに珍しいので獲(ト)つたが、なんと云ふ魚だか名も知らないから、鵺は先祖から口傳へになつて居る呪《まじな》ひ事をして、それから茅の箸でガラガラと搔廻《かきまは》してみた。すると今迄魚とばかり見えて居たものが、盡《ことごと》く小蛇に化(ナ)つた。鵺は前の秋の事を思ひ出して、驚き恐れてそれを近くの野に持つて行つて棄てた。夏になると其の邊にまた異樣な草が生へてひどく繁茂(シゲ)つたが、その草を食つた牛馬は皆死んだ。

        ×

 鵺はある日山へ狩獵に行つた。そしてマタギの法のサンズ繩を張り、枯木を集めて焚火《たきび》をしてから鐵砲を枕にして寢て居た。すると夜半にぱツちりと目が覺めた。何氣《なにげ》なしに向ふを見ると、一疋の小蟲が自分の方に這ひ寄つて來るのを見付けた。そこで鵺が其蟲を取つて外へ投げると、又直ぐ這ひ寄つて來たが、最初よりは少し體《からだ》が大きくなつて居た。鵺がまた取つて外へ投げると、直ぐに引つ返して這ひ寄つて來た。その時にも先刻よりはずつと體が大きくなつて居た。斯《か》ういふことが五六度繰り返されると蟲の體はずんずん大きくなつて、既に手では取つて投げられない程になつた。

 鵺も氣味が惡くなつたので起き上つて、其の蟲を足で踏み潰さうとしたが仲々《なかなか》潰れない。かへつて踏む度《たび》に體が大きく伸びて、しまひには一間[やぶちゃん注:約一・八二メートル。]餘りの奇怪な大蟲になつた。鵺もこれは大變だと思つて鐵砲を取つて擊(ウ)つたが、彈丸ははぢけて少しも通らなかつた。鵺は初めて恐しくなつて、急いで其所を立ち退いて、家へ歸らうとどんどん駈け出した。ところが元《もと》來た路も變り山のアンバイも別になつてゐてひどく深山《しんざん》の中に迷ひ込んでしまつた。仕方がないから、谷川に添ふて逃げ下《お》りたが、終《しま》ひには山が立締(タテシバ)つて來たから此邊《このあたり》で川を渡るべと思つて川に入ると水がひどく漲《みなぎ》つてどうしても涉《わた》れなかつた。さアどうしたらえゝかと思つてまた岸へ上つて無理矢理に步かれない所を步いて行くと、幸ひに大木《たいぼく》が倒れて川に橋渡しになつてゐるのを見つけた。それを渡る。不思議なことには其所に一匹の白馬(アシゲウマ)が、丁度自分を待つて居るやうに立つて居た。鵺はこれを幸ひと其の馬に乘つて家に歸つた。そして家の門口(カドグチ)で下りると其馬が忽ち飜《ひるがへ》つてもと來た方《はう》へ駈け戾つて行つた。

 鵺は怪蟲におびやかされたのが口惜しくて、それから再三山に射止(シトメ)に行つたが、其の時の姿の山や川はもとより、自分が助けられた白馬にもとうとう[やぶちゃん注:ママ。後文も同じ。]出會はなかつた。

        ×

 鵺がある時狩山に行つて泊つて居た。すると近くの大きな樹から光が射(サ)して、其側に一人の女が糸車で糸を紡《つむ》つて居た。これはてツきり狐か狸の仕業だと思つて鐵砲で擊(ウ)つと、女はケタケタと笑つて動かなかつた。再三擊つても女はやツぱりケタケタと笑つてばかり居た。呆れて其夜は家に歸つた。

 翌朝鵺が親父に昨日の夜山(ヨヤマ)の事を話すと、そんな物には普通の鐵の丸(タマ)で普通の射方《うちかた》では當らないもんだ。同じ鐵の丸(タマ)でも五月節句の蓬《よもぎ》、菖蒲《しやうぶ》にクルンデ込め、鐵砲の筒穴に草葉でも木の葉でも詰めて擊つとよく命中(アタ)るものだ。尙それでも魔物が平氣だら取置(トツト)きの黃金《きん》の丸(タマ)で打つより仕方がないと敎へた。その外種々《いろいろ》なことや祕傳を敎はつて、其夜復《また》その山へ行つた。するとやつぱり前夜と同樣に大木から光が射(サ)して、其側で女が糸車をくるくると廻して居た。父親から敎はつた通り五月節句の蓬、菖蒲にクルンダ彈丸(タマ)を込めて打つたが、其女は一寸顏を上げて此方《こちら》を見たばかりで、矢張りケタケタと笑つてばかり居た。斯うなつては仕方がないから思ひ切つて先祖傳來の祕藏の黃金の彈丸を込めて、しつかり狙ひを定めて火繩を切つた。すると女はギヤツと一聲銳く叫んで光も何もペサツと搔き消えてしまつた。

 翌朝夜が明けてから血の引いた通りに探し求めて行くと、或る岩窟(ユワアナ[やぶちゃん注:ママ。])の中に見たことのない怪獸が斃《たふ》れて居た。それを背負つて來て父親に見せると、猿の經立(フツタチ)とはこれのことなんだと云つた。皮を殿樣に献上すると、ひどく褒められたあげくに、鵺といふ名前を其時與へられた。

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 或夜鶴の夢枕に山ノ神樣が現はれて、これから東南(ヒガシミナミ)の深山に大樹があるが、その朽穴《くちあな》に恐しい毒蛇が棲んで居る。俺が力を貸すから明日雷が鳴り出すのを合圖に、機(トキ)を逸(ハズ)さぬやうに鐵砲で打つて殺せ、さうして其山は斯う謂ふアンバイの山で、かういふ風の樹木だと、その態(アリサマ)まで、まざまざと告げられた。[やぶちゃん注:ここは行末で句点はないが、「ちくま文庫」版で補った。]鵺は不思議な事もあればあるものだと思つて、翌日夢の御告げのあつた方角の深山へ行くと、木も石も果して夢に見た通りであつた。その奧に恐しい大樹があつた。あの樹の中に居るなと思つて、物蔭に匿れて窺つて居ると、俄《にはか》に天が暗くなつて、ガラガラガラと雷が鳴り轟いた。すると大樹が二ツに裂けて靑い焰を吹き出すこと頻りであつた。雷樣《かみなりさま》が解(ト)けたな[やぶちゃん注:「収まったな]」。と思ふ間《ま》に、恐しい大蛇が朽穴から躍り出た。昨夜の山ノ神樣のお告げはこれだなと思つて、鐵砲を擊(ウ)つと、彈丸(タマ)は誤らないで大蛇の胴を貫いた。すると大蛇は猛《たけ》り狂つて、鵺をたゞの一呑みと躍りかゝつて來た。さすがの鵺もその勢ひに怖れて逃げると、大蛇は大口を開いて後からどんどん追(ボ)ツかけて來た。鵺はとうとう家まで逃げて來て門を締切ると、大蛇は垣根を乘越へて[やぶちゃん注:ママ。]内へ入らうとした。其の時玄關から黃金(キン)の丸(タマ)で大蛇の咽喉笛から頭を射貫《うちぬ》いて首尾よく射殺《うちころ》した。その大蛇のろくろ骨を玄關の踏臺にして遂《つ》ひ近年まで其家にあつた。

 其山は今の氣仙郡の五葉山《ごえふざん》であるとも、また閉伊(ヘイ)の仙盤ケ嶽《せんばんがたけ》であるとも謂ふ。とにかく古來鬱氣《うつき》のために入つた人は橫死すると謂はれたこれらの山が、其後何事もなくなつたと村人は語る。

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 鵺が或時、片羽山《かたばやま》の深澤の沼のほとりで狩獵をして居た。其日鵺は大きな十六肢[やぶちゃん注:ママ。「ちくま文庫」版では『十六枝』となっており、鹿の角分岐したそのことと判るので、誤植であろう。]の白い鹿を射止めた。そこで皮を剝ぐと、片側剝げば片側が元のやうに癒着(クツツ)き、片方を剝ぐと片方が又元のやうな附着いた[やぶちゃん注:ママ。「ちくま文庫」版では『元のようにくっついた』である。]。そして蘇生(イキカヘ)つて走《は》せた。鵺はそれを追ふて、今の死助(シスケ)權現の嶺まで追つかけて來て遂々《たうとう》斃した。其鹿の眼玉は如意の珠《たま》と謂ふ物であつた。手に取ると忽ちに其所に葦毛の駒が現はれたから、その背に乘つて家に歸つた。そして下りると又忽ちに其の駒は山の方へ駈けて行つて見えなくなつた。

 鵺それからマタギの事は何でも意の如くになつた。この珠は代々この家の寶物であつたが、大正五年頃の火事の時、何處へか飛んで行つてしまつた。それからは矢張り家運が昔日《せきじつ》のようでないと村人は語る。

        ×

 鵺は仙盤ケ嶽に古鹿《ふるじか》が居ると云ふことを聞いて、喜び勇んで直ぐ山へ出掛けた。そして神樣に何卒此深山に居る古鹿を得させ給へと祈願して待つて居たが、鹿の姿は見えなかつた。仙盤ケ嶽の大石の上に登つて每日每夜待つて待つて、恰度九百九十九晚(バン)、その其石の上に居た。さうして恰《あたか》も千晚目の眞夜中頃に、えらい山鳴《やまなり》と共に現はれたのが、額に小松の生えたやうな十二枝の角(ツノ)のある大鹿であつた。

 鵺が狙ひを定めて放つた彈丸はたしかに手答へがあつたが、鹿は倒れない、血を流しながら逃げた。鵺がその後を追ひかけて行くと、山を越え谷を渡つて、遂に一つの大きな嶺の頂上で倒れた。鹿が餘り大きなために皮だけを獲(ト)ろうと思つて、皮を剝ぎかけると、今迄死んで居たのが立ち上つてまた逃げ出した。

 鵺はまた其の鹿を追ひ追ひ、今の笛吹峠の邊まで來ると、忽然として鹿の姿も足跡も搔き消すやうに見《みえ》なくなつた。それで、これは只の鹿ではないと思つて、其の山の頂上に祠《ほこら》を建てゝ祀つたのが、今の死助權現である。

 そして千晚籠(コモ)つた放に其の山は千晚ケ岳、鹿の片羽(カタハ)を剝いだ山をば片葉山と稱して、土地でのいわゆる御山(オヤマ)である。三山共に權現を祭つた祠がある。

[やぶちゃん注:この山中の奇怪談は、後半が諸地名の由来譚となっており、それも面白い。

「上鄕村細越(ホソゴヘ)、旗屋(ハタヤ)」ここは幾つかのネット記載から、現在の岩手県遠野市上郷町(かみごうちょう)細越三十五地割(グーグル・マップ・データ航空写真。以下、無指示は同じ)がそこである。マタギの住むだけあって、遠野市街区の南東の山間を入った山腹の斜面である。

「サンズ繩」『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 六〇~六二 山の怪』の「サンヅ繩」の注を参照されたい。

「猿の經立(フツタチ)」「二三番 樵夫の殿樣」で既出既注。

        ×

「山ノ神樣が現はれて、これから東南(ヒガシミナミ)の深山に……」旧旗屋地区から東南を見ると、「山神宮」があり、そのさらに先に後で出る「五葉山」(ごようざん:標高千三百五十一メートル)がある。ウィキの「五葉山」によれば、『藩政時代は伊達藩直轄の山であり、火縄の材料となるヒノキ、ツガなどの林産資源が重要視されて「御用山」と呼ばれていた。後にこの山で多く見られるゴヨウマツ(五葉松)』(裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科マツ属ゴヨウマツ Pinus parviflora )『に因んで「五葉山」と呼ばれるようになった』とある。

ろくろ骨」頭部と脊椎骨をジョイントする部分の太い頸骨か。

「氣仙郡の五葉山」現在の五葉山は岩手県気仙郡住田町と旧気仙郡の大船渡市及び釜石市の境に位置する。

「閉伊(ヘイ)の仙盤ケ嶽」これは「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 三一~三五 山中の怪」の「三二」に酷似した白鹿と「片羽山」命名譚がある。そちらでは「千晚ケ嶽(センバガダケ)」であるが、これは現在の仙磐山(せんばんやま)。標高千十六・二メートル。この山は「仙葉山」「仙羽山」(せんばやま)とも呼ばれるようである。ここ。その西六キロメートル強の位置に「片羽山」がある(双子峰で北にある雄岳が最高標高点で千三百十三メートル。「ひなたGPS」の戦前の地図で確認出来る)。現地では「片葉山」と書くようである。登山記録記事を見たが、孰れも上級者向きのコースで、航空写真を見ても、この間の尾根と谷は見るからに難所という感じがする。ある方の仙磐山登山の記載では、まさに「鹿道」(ししみち:獣道)に入り込んで迷ったとさえあるのである。

「鬱氣《うつき》のために入つた人は橫死する」この謂いは、ちょっと解せない部分ある。憂鬱になって山に入るというのは、世を儚んで深山幽谷に入って遁世するということか? そんな気持ちで入山すると、瞬く間に、山の魔によって行路死亡人と化すというのか? そもそも隠遁の究極は行き倒れに尽きると思うから、この言いは警告とならないのでは? と私は思ったのである。

「片羽山の深澤の沼」上の「ひなたGPS」の戦前のそれで探してみたが、「深澤」の地名も沼らしいものも見当たらなかった。

「死助(シスケ)權現」やはり「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 三一~三五 山中の怪」の「三二」に出る。そちらの注を参照されたい。但し、現在は別な場所にある。

「笛吹峠」ここ。]

大手拓次 「『惡の華』の詩人ヘ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。なお、本篇を以って、「藍色の蟇」に所収しない同パートの詩篇は終わりである。]

 

 『惡の華』の詩人ヘ

 

    

 

たそがれの色はせまり、

紅貝(べにがひ)のやうなおまへの爪はやはらかい葡萄色になみだぐむ。

おまへの手は空をさし、

おまへの足は地をいだき、

おまへのからだは野の牝兎(めうさぎ)のやうにくらがりの韻をはらむ。

さて、わたしは眼のなかにひとつの手斧をもち、

このからだを、このたましひを、

みづから斷頭臺のそよぎのうへにはこぶ。

斷頭臺はゆれてはためき、血の噴水をみなぎらし、

亡靈のやうに死のおびきをしめすとき、

わたしの生命(いのち)鳥のやうにまひたつてとびかかりながら、

地の底にねむる母體の神性をよびさますのである。

無言の神性はますますはびこつて蔓草(つるくさ)となり、水となり、霧となり、

大空の凝視となつてあゐ色のゆたかなる微笑にふけつてゐる。

なつかしいひとりの友ボオドレエルよ、

わたしはおまへの幻怪のなかに床をとつてねてゐる。

おまへの手づくりの香のふしぎに醉(ゑ)うてゐる。

おまへはそのながくのびたうつくしい爪をだして美女の肢體をひきかく。

とび色のおまへの眼はつねに泉のごとく女のうしろ姿を創造する。

神話的なおまへの鼻はいろいろのお伽噺をかぎわけ、

あるひは、巢のなかでかへる卵の牝牡(めすをす)をききしる。

年とつた鷺のことく、またわかい小猿のごとく路ばたにころびねをして、

神神の手にいだかれておこされる。

わたしの魂にあやしい美酒をつぐボオドレエルよ、

おまへのうしろには醜い罪の乳房が鳴り、

暗綠色の乳液がながれてゐる。

けれどもそれは、まことに地上に悲しい奇蹟の道化をうんだ胎盤である。

 

    

 

ボオドレエルよ、

わたしはEmile de Royのかいたおまへの畫をみてはあこがれてゐた。

白茶色のかりとぢのLes fleurs du malをかたときもはなしたことはない。

さうして酒のみが酒をのむやうに、

また男がうつくしい女のからだをだくやうに、

おまへの思想をむさぼりくつてゐる。

はてはつれづれのあまりに、

紙のにほひをかぎしめて思ひをやり、

ひとつひとつ活字の星からでる光りをあぢはふ。

夜ねむるときLes neurs du malはわたしの枕べにあり、

ひるは香爐のやうに机のすみにおかれてある。

旅するときLes neurs du malと字引とはいつもわたしのふところにはひつてゐる。

 

    

 

靑灰色の昆蟲、

銀と緋色の生物、

鴉と猫とのはらみ子、

大僧正の臨終にけむりのごとくたちのぼる破戒の妖氣、

雨ごとにおひたつ畑の野菜はめづらしい痼疾をもつてゐる。

 

[やぶちゃん注:「紅貝(べにがひ)」標準和名のそれは、斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目ニッコウガイ超科ニッコウガイ科ベニガイ属ベニガイ Pharaonella sieboldii『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 巻絹(マキギヌ・キヌタ) / ベニガイ』を参照されたい。学名のグーグル画像検索もリンクさせておく。……この貝は私の遠い二十歳の時の淡い思い出でと繋がる……

「とび色」鳶色。猛禽のトビ(タカ目タカ科トビ亜科トビ属トビ亜種トビ Milvus migrans lineatus。属名の「ミルウス」は「猛禽」の意のラテン語で、和名は一説では、「遠く高く飛ぶ」の意の古語「遠(とほ)く沖(ひひ)る」(とおくひいる:「沖」(「冲」とも書く)は「広々とした海や田畑・野原の遠い所」の転訛とも言う)の羽毛の色のような赤暗い茶褐色。江戸初期より「茶色」を代表する色として、男性を中心に愛用されてきたが、実際のトビの羽色より、少し赤みが強い。参照した「伝統色のいろは」の「鳶色」のページに拠った。

Emile de Roy」エミール・ドロイ(Émile Deroy 一八二〇年~一八四六年)はパリ生まれの画家。十九世紀フランスのロマン主義を代表する画家フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène Delacroix 一七九八年~一八六三年)の弟子で、多くの肖像画で知られる。ボードレールの友人でもあった。二十六歳で早逝した。ここで言うボードレール(当年満二十三歳。ドロイは二十四歳)の肖像画は一八四四年に描かれた‘Portrait de Charles Baudelaire’ を指す。フランス語の彼のウィキのこちらで当該原画画像(ベルサイユのフランス歴史博物館蔵)を見ることが出来る。

Les fleurs du mal」シャルル=ピエール・ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire 一八二一年~一八六七年)の名詩集「悪の華」。一八五七年初版刊行。私はフランスで一九三六年に限定版(1637印記番本)で刊行されたカラー挿絵入りで、個人が装幀をした一冊(四十年前に三万六千円で古書店で購入)と、翻訳本は四種を所持する程度にはフリークである。]

大手拓次 「血をくむ柄杓」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。

 太字は底本では傍点「﹅」。]

 

 血をくむ柄杓

 

おまへは柄杓をもつてわたしの胸から血をくみとる、

おまへのきたないかさぶたの手は

死んだけものの腰骨でこしらへたひしやくの柄をとつて、

小鬼(こおに)のやうに空のなかにをどつてゐる。

腹のへつた蛇のむれは

あちらにもこちらにも環(わ)をゑがいてあつまる。

 

大手拓次 「銀色のかぶりもの」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 銀色のかぶりもの

 

空はこつくりとはれてゐる。

ものものしいものは、みんな光線のうちにかくれ、

とほくとほく、ともがらをよぶ靈氣のこゑ、

わたしのよろこびとくるしみとは、

これも、れいろうとした靈氣のほとぼりをうけて、

アミーバのやうにのびてひろがる。

さても、ふしぎなのは、

この感じにわたしのからだがひろがるとき、

まばゆい、銀いろのものが、

かろく、わたしのあたまのうへにのつかつた。

これはおそらく神の榮光であらう。

空をとぶ鳥よ、地をはふ蟲よ、

それはみんなわたしの化身である。

 

[やぶちゃん注:「アミーバ」。アメーバ。綴りは「amoeba」「ameba」「amœba」と複数ある。当該ウィキによれば、『単細胞で基本的に鞭毛や繊毛を持たず、仮足で運動する原生生物の総称である。また仮足を持つ生物一般や細胞を指して』、『この言葉を使う場合もある。ギリシャ語で「変化」を意味する』(ラテン文字転写)『(amoibē) に由来する』とある。嘗つては、原生動物葉状根足綱アメーバ目Mastigamoebidaに一括されていたが、現在は分類が再編され、分類は未だ進行中である(同前リンク先の「分類」を参照されたい)。肉質類の原生動物の総称。単細胞で、大きさは〇・〇二(二十μ(ミクロン))~〇・五ミリメートル。増殖は分裂による。外殻を持たず、絶えず形を変化させる。仮足と呼ばれる原形質の突起を伸ばして運動・捕食する。淡水・海水・土壌中に広く棲息し、寄生性で病原性を持つ種もあるのは御存じの通り。]

大手拓次 「ゆあみする蛇」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 ゆあみする蛇

 

じや香のにほひ、

しなやかに彈力にみちあふれた女蛇のからだは、

あつたかい水のなかにひたつて、

うつらうつらと夢をみる。

みどりのうろこにかくれた、うぶ毛は芽をふいておきあがる、

ひち、ひち、といふ肉のきしむおと、

女蛇が身をくねらせると、

あだかも弓づるのやうに血しほがはりきつて、

山をうごかす。

そのふくれてる腹は、たぶたぶとしてはゐるが、

なほ、あらあらしく戀の火皿をよびよせる。

肌身の沼、体熱の船、

女蛇のむれは、むごたらしくあそび、

花粉のいなづまは彼等をおびやかす。

うごめくたびに

からだのくらがりのにほひ、

女體(ぢよたい)の蛇はいちやうにまぼろしとなつてかをり、

とこしへに春の金鼓をならす。

 

[やぶちゃん注:「じや香」麝香。♂のジャコウジカ(鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ属 Moschus に七種が現生する)の腹部にある香嚢(こうのう:麝香腺)から得られる分泌物を乾燥したもので、主に香料や薬の原料として用いられてきた。甘く粉っぽい香りを持ち、香水の香りを長く持続させる効果があるため、香水の素材として古くから重要なものであった。また、興奮作用・強心作用・男性ホルモン様作用といった薬理作用を持つとされて、本邦でも伝統的な秘薬として使われてきた。ジャコウジカ及び麝香の詳しい博物誌は、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」を参照されたい。

「女蛇」原氏はルビを振っていない。「めへび」か。「ぢよじや」は硬いし、聴いたことがなく、「をんなへび」では韻律が悪い。私の知る限りでは、拓次の詩でルビを振ったものはない。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 針山供養針千本

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。今回は、ここから

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。太字は底本では、傍点「﹅」である。

 なお、「選集」では、標題の後に下方インデントで初出誌の丸括弧表記を二行目として、その前行に並べて同じ下インデントで『京都風来坊「針山供養針千本」参照』とある。筆者も内容も不明。]

 

     針山供養針千本 (大正三年十一月『鄕土硏究』第二卷第九號)

          (『鄕土硏究』第一卷第十號六三二頁參照)

 

 針千本(はりせんぼん)は河豚(ふぐ)類の魚で、學名ヂオドン・ヒストリクス、英語でシーヘヂホグ(海猬)、又、ポーキュパインフィシュ(豪猪魚)。此針だらけの魚が、河豚同樣、毬《まり》狀に膨(ふく)れて、每冬、海荒れる時、北國の濱に打《うちあぐ》るより、嫁の怨みと云ふやうな俗信を生じたものだらう。「日本書紀」卷二十六に、齊明天皇四年、出雲國言、於北海濱魚死而積、厚三尺許、其大如ㇾ鮐(あひ)、雀喙針鱗、鱗長數寸、俗曰雀入於海化而爲魚、名曰雀魚。〔出雲の國より言(まを)す。北海の濱に、魚、死にて積めり。厚さ三尺ばかり、其の大いさ鮐(あひ)のごとく、雀の啄(はし)、針(はり)の鱗(うろこ)あり、鱗の長さ、數寸(あまたき)なり。俗(くにびと)曰はく、「雀の、海に入りて化して魚(うを)と爲(な)れり。名づけて雀魚(すずみを)と曰ふ。」と。〕今云ふ雀魚(すゞめうを)は、學名オストラチオン・ジアファヌス、やはり河豚の類だが、鱗(うろこ)、無し。「和漢三才圖會」卷五十一にも、日本紀所謂者與今雀魚異〔「日本紀」に謂ふ所は、今の『雀魚』と異なる。〕とある。針鱗鱗長數寸〔針の鱗あり、長さ數寸〕とあれば、今の「針千本」を「雀魚」と謂ひ、『雀が化した』と云つたんだらう。「本草啓蒙」卷四十には、ハリフグ、雲州、每年十二月八日、波風、暴《あら》く、此魚、多く打上げられ、又、唐津でも四月八日に、此魚、自ら陸《をか》に上り死す、と出て居る。

[やぶちゃん注:「針千本(はりせんぼん)は河豚(ふぐ)類の魚で、學名ヂオドン・ヒストリクス」フグ目ハリセンボン科ハリセンボンDiodon holocanthus 。シノニムにDiodon hystrix holocanthus はあるが、熊楠の示した Diodon hystrix はシノニムではなく、誤用である(英文サイト“FishBase”の“Synonyms of Diodon holocanthus Linnaeus, 1758”を参照した)。

「英語でシーヘヂホグ(海猬)」Sea hedgehog。“Hedgehog”は哺乳綱真無盲腸目Eulipotyphlaハリネズミ科ハリネズミ亜科 Erinaceinaeのハリネズミ類を指す。当該ウィキによれば、『日本語では「ネズミ」と付くが、実際はモグラ』(真無盲腸目モグラ科 Talpidae)『に近』く、『ミミズなどを捕食する』点も似ている。『英語名のHedgehog(生垣のブタ)はブタのように鼻を鳴らしながら生垣をかぎ回ることに由来する』とある。

「ポーキュパインフィシュ(豪猪魚)」Porcupine fish。“Porcupine”は齧歯(ネズミ)目ヤマアラシ亜目ヤマアラシ科Hystricidae及びアメリカヤマアラシ科 Erethizontidaeに属するヤマアラシ類を指す。同種は漢字では「山荒」の他、「豪猪」とも書く。後者はヤマアラシの中文名でもある。

「日本書紀」の引用の訓読の一部は、国立国会図書館デジタルコレクションの黒板勝美編「日本書紀 訓読」下巻(昭和七(一九三二)年岩波文庫刊)の当該部を参考にした。問題は「鮐」の「あひ」という熊楠のルビであるが、そのままとした。但し、この「鮐」の音は「タイ」或いは「イ」であり、「あひ」という表記とは一致しない。仮に本邦の意義としても「ふぐ」或いは「さめ」他に「老人」の意である。「選集」では、この「鮐」には訓読した文(「選集」は漢文脈部分は原漢文を載せず、総て編者が勝手に訓読してしまってある。この訓読、時に原拠にちゃんと当たらずに、非専門家が勝手に訓読しているとしか思われない、誤読がしばしばあるのは甚だ困ったことだと考えている。今までの私の電子化注でも何度もそうした呆れかえる箇所が、多数、あった。次回に改修版を作る際は、専門家に総てチェックして貰うよう、強く要請するものである)の中で、能天気に「鮐(ふぐ)」と振ってある。それはしかし、私には近現代の解釈上の問題の内容に当てて都合よく読むためのお手軽な読みであり、出雲人たちや、「日本書紀」の記者たちが、そう発音していた、或いは、読んでいたとは、私にはそこまで能天気に読むことは、到底、出来ないのである。因みに、上記の黒板氏のそれでは、『鮐(えび)』と振ってある。「鮐」を「えび」と読む用例を知らないが、ここは大きさを示すのだから、寧ろ、ちょっと大きめの海老であってもおかしくはないとは言えるか。

『「和漢三才圖會」卷五十一にも、……』私のサイト版「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「すゞめうを うみすゞめ 綳魚」を見られたいが、私は、良安がそこで引いている元の李杲(りこう)「食物本草」及び「日本紀」の記述しているものは、

フグ目ハリセンボン科ハリセンボンDiodon holocanthus

若しくは、その近縁種である、

ネズミフグDiodon hystrix

ヒトヅラハリセンボンDiodon liturosus

イシガキフグChilomycterus reticulates

等を指しており、良安自身が記載している種は、眼上棘の記載に不審はあるものの、同フグ目の、

ハコフグ科コンゴウフグ属ウミスズメLactoria diaphana

若しくはその近縁種である、

シマウミスズメLactoria fornasini

コンゴウフグLactoria cornuta

等を指していると考えて間違いない、と比定した。今も私の比定は修正する必要を感じない。

『「本草啓蒙」卷四十には、ハリフグ、雲州、每年十二月八日、波風、暴《あら》く、此魚、多く打上げられ、又、唐津でも四月八日に、此魚、自ら陸《をか》に上り死す、と出て居る』とあるが、これは抄録切り張りで、引用とは言えないので、『 』で示すのをやめた。小野蘭山の「本草綱目啓蒙」には、無許可である弟子が編纂したものを含め、複数の版があるが、これと同文のものは見当たらないのではないかと思う。私は国立国会図書館デジタルコレクションの以下の二種を確認したが(リンクは南方の示した当該部相当箇所)、

「本草綱目啓蒙」四十一巻(文化二(一八〇五)年跋)「河豚」の項では、ここの右丁四行目下方から

で、

「重訂本草綱目啓蒙」同巻同前(弘化四(一八四七)年刊)では、ここの左丁五行目下方から

である。孰れも非常に読み易いので比較されたい。]

〔(增)(大正十五年九月記)大正十年十二月、紀州日高郡南部町(みなべ《ちやう》)日高實業學校女子校友會發行『濱ゆふ』に、由良興國寺寶物に、法燈國師傳來の九條袈裟あり、京極女院《にようゐん》一針三禮の作といふ。「俳諧歲時記」、二月事納め、武江の俗、二月八日、婦人は針の折れたるを集めて、淡島の社へ納め、一日、絲針の業を停《とど》む。是を針供養といふ。南部(みなべ)地方でも、お針屋で、折れ針を集めて、蒟蒻《こんにやく》にさし、之を海へ、はめる。之を針供養といふ、とあり。「話俗隨筆」蒟蒻の條(本書二〇八頁「紀州の民間療法記」)を參看せよ。〕

[やぶちゃん注:「紀州日高郡南部(みなべ)町日高實業學校」現在の和歌山県立日高高等学校・附属中学校(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の前身である和歌山県立日高高等女学校が大正三(一九一四)年に創立されているが、場所が異なるので違う。現行の和歌山県日高郡みなべ町はここ

「由良興國寺」和歌山県日高郡由良町(ゆらちょう)にある臨済宗妙心寺派鷲峰山(しゅうほうざん)興国寺。地元では「由良開山(ゆらかいさん)」と呼ばれて親しまれている。当該ウィキによれば、同寺は安貞元(一二二七)年、『高野山金剛三昧院の願生』(俗名は葛山景倫(かずらやまかげとも)が、『主君であった源実朝の菩提を弔うために創建したもので、創建時は真言宗寺院で西方寺と称していた。葛山景倫は承久元』(一二一九)年、『実朝の暗殺を機に出家』し、『実朝の生母』『北条政子は願生の忠誠心に報い、願生を西方寺のある由良荘の地頭に任命した』。『願生は親交のあった心地覚心(法燈国師)』(本文にも出るが、当該ウィキを参照されたい)『が宋から帰国すると、正嘉』二(一二五八)年に『西方寺の住職に迎えて開山とした。その後、後醍醐天皇より寺号の興国寺を賜ったという。覚心は、普化尺八を奏する居士』四『名を宋から連れ帰り、興国寺に住まわせたので、以後』、『当寺は普化尺八の本山的な役割を持つようになった。その弟子の一人、虚竹禅師(寄竹)が尺八の元祖といわれている』とある。

「京極女院」洞院佶子(とういんきつし/藤原佶子 寛元三(一二四五)年~文永九(一二七二)年)は亀山天皇皇后にして後宇多天皇生母。京極女院は女院号。二十八で早逝している。

「一針三禮の作」『濱ゆふ』は見出せなかったが、「紀州文化讀本」(南紀土俗資料刊行會編昭和二(一九二七)年刊)の渡辺みさを女史の「一針三禮」を見つけた。この左ページから、その謂われが記されてある。

「はめる」海に沈めるということであろう。

「淡島の社」ウィキの「淡島神」(あわしまのかみ)によれば、『和歌山県和歌山市加太の淡嶋神社』(ここ)『を総本社とする全国の淡島神社や淡路神社の祭神であるが、多くの神社では明治の神仏分離などにより少彦名神等に置き変えられている。淡島神を祀る淡島堂という寺も各地にある』。『婦人病治癒を始めとして安産・子授け、裁縫の上達、人形供養など、女性に関するあらゆることに霊験のある神とされ、江戸時代には淡島願人(あわしまがんにん)と呼ばれる人々が淡島神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻った事から信仰が全国に広がった』とある。

「針供養」当該ウィキを参照されたい。もう疲れた。

『「話俗隨筆」蒟蒻の條(本書二〇八頁「紀州の民間療法記」)』この指示しているのは、『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 紀州の民間療法記』の「補訂」部の「蒟蒻」に関わる記載だが、針供養とは関係がないので。参看する必要はない。]

2023/04/21

大手拓次 「冬のはじめ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 冬のはじめ

 

まどよりはひつてくる冬のことづて、

まづしさとくるしみのうへに

なほひとつの重荷をかさね。

さびしくさびしくこの心をそそけさす。

 

大手拓次 「とも寢の丘」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 とも寢の丘

 

雨のなかを裂いて鐘はきこえる、

まるくふとつた鐘のおと。

をか目するふたつの眼が始終わたしについてゐて、

きらりきらりと光る。

鬱屈したはだしの心は

血のやうな淚をながして

眞珠の戀をもとめる。

をとめよ、をとめよ、

おまへの豐頰にわたしの舌をうゑさしてくれ。

脣は野飼ひの馬のやうにあばれる、

薰香の熱氣は白い焰のしぶきをおこしてきほひたつ。

かなしいただひとりのをとめよ、

時劫の圈外に法樂(ほふらく)のとも寢の床をとらう。

ほころびるをかのうへに、

みどりの羽をおまへにきせてやらう。

 

[やぶちゃん注:「焰」の字は底本で使用されている字体である。

「をか目」「傍目」「岡目」。「をか(おか)」は「傍・局外」の意で、「他人の行為を脇から見ていること・局外者の立場から見ること・傍観」の意であるが、今は「傍目八目」(おかめはちもく)位でしか使わないだろう。

「時劫」「じごふ(じごう)」「じこふ(じこう)」で、「劫(こふ)」は「極めて長い時間」の意であり、「永遠に続く時間」のこと。]

大手拓次 「𢌞廊のほとり」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 𢌞廊のほとり

 

なにごころなく眼をとめれば、

すみなれた𢌞廊のめぐりにはつねに白衣の行列がゆき交(か)うてゐる、

うすい影のやうでありながら消えもしないで、

つながりつながりつづいてゐる。

𢌞廊の内がはには瘦せた鼠色の衣をきた女がひとり、さまよひながら見とれてゐる。

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 四六番 島の坊

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。なお、本篇の附記は特異的に長く、類型話が紹介されているので、ポイント落ちはやめにして(底本では一行目のみ本文相当一字下げで、二行目以降は全体が二字下げである)、本文と同じポイントで頭の一字下げのみを再現し、後は行頭まで引き上げてある。]

 

      四六番 島の坊

 

 昔の話である。閉伊郡山田の關口(セキグチ)の岩窟(イワヤ)の中に、何處から來たか一人の大入道が來て住んで居た。桐の御紋の附いた鍋などを持つて居て、誰云ふとなく島の坊と呼んで居た。

 ある時土地の者どもが、坊の留守中に岩窟へ行つて、鍋の中に糞などをして惡戯をして歸つた。すると坊は甚(ヒド)く怒つて、山田の町に下つて來て放火をしたりして暴れ廻つた。そこで捨て置けず捕手《とりて》が差し向くと、坊は大きな棒を手にして一枚齒の高足駄を履いて、町屋の屋根などを自由自在に飛び步き、その態(サマ)はまるで神のやうであつた。けれども遂に衆人のために撲り殺されてしまつた。

 ところが其れからは濱に漁が無かつた。誰云ふとなく島の坊の怨靈の祟りだと云ふやうになつて、大島といふ所に葬つた屍體を掘り起して、大杉神社に移して祀つた。後には專ら漁夫の神となつた。

 (これは山田町佐々木喜代治氏の談である。大正九年八月二十二日の夜聽いた。然し之れは矢張りトウセン坊系統の御靈《ごりやう》信仰から出た譚であらう。今次《ついで》に奧州に殘つて居るトウセンボウの話の荒筋を記して見る。昔稈貫郡[やぶちゃん注:ママ。「稗貫郡」(ひへぬきぐん)の誤字か誤植。]の高松《たかまつ》の高松寺《かうしやうじ》と云ふに宗元と云ふ坊が居た。性來の愚鈍で、聖經《しやうきやう》を學んでも更に一字一點も暗《あん》ぜない[やぶちゃん注:暗誦出来ない]。宗元は一層《いつそ》のこと學問等は止《よ》して、別の道で、天下後世《こうせい》に名を擧げた方が近道だと思つて、靈驗無双の聞えの高い、寺内の觀音堂に行つて、私に天下無双の大力を授け給へと百日の願をかけた。すると滿願の曉に觀音樣からいろいろな戒《いまし》めがあつたあげく、手毬《てまり》の精《せい》なる物を投げてよこされたので、其れを取つて服《ぶく》すると思つて、夢から覺めた宗元は、これはいよいよ俺は力を授《さづか》つたのだなアと思つて、試みに庭へ下りて、力足《ちからあし》を踏んで見ると、足は大地に一尺ばかりも踏み込んでしまつた。

其後諸人と力を爭ふて見るが何人《なんぴと》も宗元に勝つ者がなかつた。方々《はうばう》の田の草相撲《くさずまふ》では宗元の爲に小脛《こはぎ》を折られたり肋骨(アバラボネ)を摑み挫《くだ》かれて死んだりする者が多く出るので、後《のち》には鬼元《おにげん》と言ふて誰も相手にする者がなかつた。

爰に三月二十五日は高淸水の天神樣の祭禮であるによつて、年每に方々の村々から諸人群集して押し寄せる。宗元も見物しやう[やぶちゃん注:ママ。]と出かけて行つた。此の邊《あたり》は春が遲いから、恰度《ちやうど》桃櫻の花盛り、人々は喜びさざめいて居るけれども、宗元はもとより連れもないから、社《やしろ》の傍らへ廻り人目を憚つて、其所にある一抱許《ひとかかへばか》りもあらうと思はれる櫻の老木をやおら捻《ね》ぢ折り、地上に伏せて其の上に悠々と、腰をかけて知らん振りをして向ふの方《はう》を眺めて居た。諸人はそれが宗元のわざだとは氣が付かぬから、ハテ不思議なこともあればあるものだ。今朝までは何事もなかつた此の木が、何故《なぞ》にかく折れたであらう、怪しい怪しいとて人々が大勢寄つて來て、宗元のやうに木に腰をかけたり、若者や童子は花の小枝[やぶちゃん注:底本「小板」。誤植と断じ、「ちくま文庫」版で訂した。]を折らうとして、爭つて木にたかつた。それを宗元は默つて見て居たが、いゝかげんに人だかりのした頃を見計らつてサラリと腰を外(ハヅ)すと、其の樹が元のやうに起き直るはづみに、其の樹に取りついて居た多くの人々は老若《らうにやく》共に中天に打ち上げられて、礫《つぶて》のやうに吹ツ飛んだ。

 萬人肝をつぶして宗元の仕打を憎み憤つたけれども、鬼神のやうな男であるから、一人も手出しをする者がなかつた。その樣な事が度重《たびかさ》なり自分の力を自慢しての惡業も積り積つたので、鄕人に嫌はれ相手にされなくなつた。宗元も流石に高松の居住《ゐずまひ》が面白くなくなつたので、一山《いちざん》に名を得た稚兒(チゴ)を一人盜み出して秋田の仙北《せんぼく》へ立ち越えた。それから又能登の石動(イスルギ)の山に行つてトウセン坊と名乘つて居たが、其所にも永住が出來ず、越前の三國(ミクニ)の浦に行つて居た。此所でもいろいろな惡業ばかりしていたので、里人はどうして之れを除《のぞ》かうかと相談した結果、四月八日の花見に事寄せ、濱の者大勢が打ち連れて宗元を誘ひ出し、絕景な海岸の斷崖の上の巖《いはほ》の上に登つて、酒盛をした。兼ねての計畫であるから宗元には皆でウント酒を飮ませて、千鳥足になつた時分を見計《みはか》らひ、景色を眺める風《ふう》をして宗元を巖頭《がんとう》に誘ひ出した。そして宗元が何氣《なにげ》なく海の景色を見て居るところを剛《かう》の者八人がかりでいきなり背後から不意を喰《くら》はせると、宗元は心得たりとて左右にそれらの人間を搔き抱《いだ》いて海の藻屑と消え失せた。このトウセンボウの怨靈《をんりやう》が、その入水《じゆすい》した四月八日前後に北國の海面を吹き荒らすのだと謂ふのである。(吾妻昔物語、トウセン坊風《ばうのかぜ》の由來摘要。)

[やぶちゃん注:「閉伊郡山田の關口(セキグチ)」現在の岩手県下閉伊郡山田町山田関口附近(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)のどこか。拡大して少し西を見ると、山深い関口不動尊奥宮の西方から関口川が流れており、それが下って、大島(現在の岩手県下閉伊郡山田町船越地区に属する。本文に出る「大島」であろうか?)を浮かべる山田湾に注いでいることが判る。

「岩窟(イワヤ)」所在不詳。しかし「山田の町に下つて來て」とあることから、関口川の上流か、或いは、もっと下った、現在の「関口」バス停のある附近にあるか、あったか?

「大杉神社」ここ。関口川河口直近の右岸にある。地図上に、その東の海辺に「大杉神社例大祭海上渡御」というポイントが作られているのが見てとれるが(サイド・パネルで山田湾の海上を渡御する神輿の写真がある)、サイト「いわて文化情報大事典」の「山田八幡宮祭典・大杉神社祭典」の「山田八幡宮祭典・大杉神社祭典」のページに、九月十四『日は山田八幡宮例祭』(ここ)、翌十五『日は大杉神社例祭という』二『日間の祭りである。目玉は町中を走り回る暴れ神輿』で、二『日目の大杉神社の神輿は、山田湾内を渡御したあと、船にのり』、『明神崎へ参る迫力ある祭り』であるとあり、さらに、「祭りの起源・由来」の項には、まさに、『天命』天明(一七八一年~一七八九年の誤りか)『年間に放浪の修験者が殺される事件があり、以後、不漁続きとなった』ことから、その『怨霊を慰めるため』、『祠をたて、漁の神とした。これが大杉神社。以来、海上安全と大漁を祈っての祭りとなった』とあり、まさに正しくこの大杉神社は、「異人殺し」に基づく御霊信仰から発していることが確認出来る。御霊信仰は菅原道真が最も知られ、平将門・崇徳院・鎌倉権五郎景正などのそれがよく知られる、私の最も興味を持っている荒神・鬼神を祀ることでその災厄を封じ込める巧みな信仰形態である。御存じない方は、当該ウィキを見られたい。

「稈貫郡」は注した通り、稗貫郡(ひえぬきぐん)で、現在の花巻市の一部に相当する。旧郡域は当該ウィキの地図を参照されたい。

「高松の高松寺」岩手県花巻市円万寺にある高松寺(こうしょうじ)であるが、事実上の本来の高松寺は、おぞましい廃仏毀釈によって寺としては存続しておらず、岩根神社及び白根神社に分割されてしまっている。この山(観音山)に江戸時代にあったそれは、真言宗醍醐派の大寺院であった。

「小脛」狭義には「捲くり上げた袴の裾から少し見えている脛(すね)の部分」を言うが、ここは脛でよい。

「高淸水の天神樣」これは佐々木の誤読であろう。先に言ってしまうと、最後に引用元として示す「吾妻昔物語、トウセン坊風《ばうのかぜ》の由來」は、国立国会図書館デジタルコレクションの『南部叢書』第九冊(昭和三(一九四八)年刊)に載る本書の「解題」によれば、「吾妻むかし話」は京都の医師で絵もよくした松井道円の著になる民譚・逸話集で、松井は元禄の初めに漫遊の旅に出て、南部藩の花巻に至り、藩主南部重信の一門であった南部直政の命を承けて、花巻城内の「松の間」・「菊の間」の襖絵を写して名声を挙げ、また、歴史を好み、文筆にも長じ、特に、広く地方の伝承・伝説・逸事を聴いて記すことを好んだことから、南部の異聞を蒐集し、旅の途中の他国の物語をも併せ書いたものであった。同書は別に「古咄伝記」「東奥古伝記」とも称し、また、元禄一一(一六九九)年九月に南部藩士藤根吉晶の筆録したものとする異説もある、とあった。当該話は「上之卷」の「第二 とうせん坊の風の由來」で、ここから視認出来る。なお、その冒頭の「とうせん坊」の割注には、『謠』(うたひ)『幷』(ならびに)『西國盛衰記』では、『東心坊』とある。古文が苦手な方には、サイト「3分で読める!昔話の簡単あらすじ」の「【とうせん坊】昔話のあらすじをサクッと簡単にまとめてみた!」が、なかなかしっかり判り易く解説も含めてよく出来ているので、どうぞ! なお、既に大方の方はお気づきであろうが、附記の最後の「断崖」から突き落とすというロケーションは、福井県坂井市三国町安島の名所東尋坊のことであろうし(私は高校三年の遠足で一度だけ行ったことがある)、されば、「とうせん坊」とは「東漸坊(とうぜんばう)」ではなかったかと推理されるのである。さて、話を元に戻すと、以上の「高淸水の天神樣」の当該部はここの二行目であるが(【 】は二行割注)、

   *

斯波【○志和】郡高水寺の鎭守天神の會日[やぶちゃん注:「ゑにち」。]【○志和の文珠會】なり

   *

とあるからである。この場所は現在の岩手県紫波郡(しわぐん)紫波町(しわちょう)高水寺(こうすいじ)なのだが、以上の引用からみて、これは神仏習合時代の鎮守の天神と文珠菩薩の祭日であり、現在の高水寺地区を見るに、高水寺はここにあり(しかし、ネット上に情報が少なく、現在の宗派さえ判らなかった)、その北直近に木宮(きのみや)神社がある。「紫波町観光交流協会」公式サイト内の同神社のページに境内社として天満宮があるから、或いは、江戸時代には高水寺は木宮神社の別当寺であった可能性はあろう。

「秋田の仙北」現在の秋田県の南東部にある仙北市。山越えにはなるが、秋田市より岩手県の雫石や盛岡の方が、直線的には近い。

「能登の石動(イスルギ)の山」石川県鹿島郡中能登町石動山(せきどうざん)にある石動山(せきどうさん)。「いするぎやま」或いは「ゆするぎやま」は、その古名とするが(当該ウィキを見よ)、私は富山県高岡市伏木にいた六年間、誰も「せきどうさん」とは呼ばず、「いするぎやま」と呼んでいたがなぁ?

「越前の三國(ミクニ)の浦」福井県坂井市三国町地区。東尋坊の周辺広域。]

下島勳著「芥川龍之介の回想」より「芥川龍之介の書𤲿」

 

[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載によれば、昭和一〇(一九三五)年三月九日発行の『文藝春秋』初出で、後の下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。

 著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た(但し、単行本刊行時期のため、正字と新字が混淆してはいるので、そこにはママ注記を入れた)。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。一部に注を挿入した。また、本篇にはルビが一切ないが、なくても概ね読めるが、一応、若い読者のために、ストイックに《 》で推定で歴史的仮名遣で読みを振った。なお、「𤲿」と「畫」の混在はママである。]

 

芥川龍之介の書𤲿

 

 文士學者必ずしも書𤲿の愛好者ではあり得ない。現代の文士殊に小說家には、案外この方面に無頓着といふより寧ろ、かういふものを輕視したり、或は强ひて近づけない人すらあるかのやうに思はれるが、それむあながち理由のないわけではないらしい。

 芥川君も藝術感情からは、化政度の文人趣味などを單なる道樂といふ點から輕蔑の餘り「妄に予を以て所謂文人と倣《みな》すことなかれ。予を以て詐僞師と倣すは可なり。謀殺犯人となすは可なり。やむを得ざれば大學敎授の適任者と做すも忍ばざるにあらず。唯幸ひに予を以て所謂文人と倣すこと勿れ。十便十宜あるが故に、大雅と蕪村とを竝稱するは所謂文人の爲す所なり」と憤慨してゐる。

[やぶちゃん注:「化政度」「化政文化」を指す。江戸後期の文化・文政時代(一八〇四年~一八三〇年)を最盛期として、江戸を中心として発展した町人文化。当該ウィキによれば、『浮世絵や滑稽本、歌舞伎、川柳など、一般に現代に知られる江戸期の町人文化の全盛期にあたり、国学や蘭学の大成した時期でもある。広義の定義では』、十八『世紀後半から』十九『世紀前半の非常に長い期間を含む場合がある』とある。

「「妄に予を以て所謂文人と倣すことなかれ。……」この引用は、大正一三(一九二四)年二月発行の『中央公論』に発表した「梅花に對する感情」(添題「このジヤアナリズムの一篇を謹現嚴なる西川英次郞君に獻ず」)の第四段落の途中の一節だが、所持する岩波旧全集で校合したところ、引用に不全がある。第四段落全体を示しておく。

   *

 予の梅花を見る每ごとに、文人趣味を喚び起さるるは既に述べし所の如し。然れども妄に予を以て所謂文人と做すこと勿れ。予を以て詐僞師と做すは可なり。謀殺犯人と做すは可なり。やむを得ずんば大學敎授の適任者と做すも忍ばざるにあらず。唯幸ひに予を以て所謂文人と做すこと勿れ。十便十宜帖あるが故に、大雅と蕪村とを竝稱するは所謂文人の爲す所なり。予はたとひ宮せらるると雖も、この種の狂人と伍することを願はず。

   *

以上の「十便十宜帖」(歴史的仮名遣「じふべんじふぎでふ」)は、所持する筑摩全集類聚版「芥川龍之介全集」第四巻の注に、『清の文人李笠翁が山地に庵を結び、山居に十便と十宜があることを説いた』(というより、「作った詩の」である。ウィキの「十便十宜」を見られたい)『故事により描』かれた画題で、『この題で大雅と蕪村との合作がある』とあるものを指す。なお、この一篇は、同年九月十七日に刊行した随筆集「百艸」に収録する際し、他に十三篇を合わせて、総標題を「續野人生計事」として、その「十一」に所収させてある。私は、正編「野人生計事」はサイト版で古くに電子化注しており、「續野人生計事」の幾つかも、独立して電子化してあるが、残念なことに、本篇は洩れている。新字であるが、「青空文庫」に「百艸」のそれが纏めて電子化されてあるので参照されたい。]

 彼は「文學好きの家庭から」の中で「私の家は代々舊幕臣、卽ち御奥坊主だつた、父も母も甚特徴のない平凡な人間です」などと云つてゐるが、どうしてどうして、父君はもと官吏で、一中節・圍碁將棋・盆栽・俳句などのほか、ときに南𤲿の山水を描き、彫刻までやるといふ器用な通人肌の老人であつた。

[やぶちゃん注:「文學好きの家庭から」大正七(一九一八)年一月発行の雑誌『文章倶樂部』初出。これは私のサイト版の古い電子化注があるので見られたい。そこで注したものは、ここでは繰り返さない。

「父君」養父芥川道章(どうしょう 嘉永二(一八四九)年~昭和三(一九二八)年)は、龍之介を預かった際には東京府内務部技手二級判人官であった。]

 母君といふのは、鷗外先生の筆によつて有名になつた幕末の大通、津の國屋兵衞即ち津藤で通つた人の姪である。ことによると鳶魚先生あたりでさへ、一寸油斷が出來ないほどの江戶通だつた。然もまた其伯母は、彼《か》の有名な木挽町狩野家の一族、狩野勝玉に嫁《か》してゐる。この勝玉は明治の大家狩野芳崖・橋本雅邦と同門の親友だつたが、惜しむべし早世してゐるらしい。猶早世した叔父の一人は、判事としてよりも、南𤲿家として有名な河村雨谷に就て南𤲿を學んだ人ださうである。

[やぶちゃん注:「母君」養母芥川儔(トモ 安政四(一八五七)年~昭和一二(一九三七)年)。

「津の國屋兵衞即ち津藤で通つた人」細木香以。ここは私の「芥川龍之介 孤獨地獄  正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附」を参照されたい(前のリンク先はサイト版であるが、他に同PDF縦書版、及び、同ブログ版も用意してある)。

「狩野勝玉」(かのうしょうぎょく 天保一一(一八四〇)年~明治二四(一八九一)年)は日本画家。駿河出身。深川水場町狩野家の狩野貞信(梅春)の子。名は昭信。狩野雅信(ただのぶ)に学び、維新後は内務省地理局雇となり、外国に贈る屏風などを制作した。また、フェノロサの新日本画創造運動にも加わり、狩野芳崖・橋本雅邦・木村立岳(りゅうがく)とともに「勝川院門下の四天王」と称された。享年五十二であるから、「早逝」と言うのは如何か。芳崖と雅邦は調べれば、すぐ判るので、注さない。

「河村雨谷」姓名は川村雨谷(天保九(一八三八)年~明治三九(一九〇六)年)が正しい。江戸出身。名は応心。司法官にして画家。慶応元(一八六五)年、長崎奉行支配定役となり、在任中に木下逸雲・鉄翁(てっとう)祖門に文人画を学んだ。明治二(一八六九)年、刑部(ぎょうぶ)省に務め、大審院判事に進んだ。明治三一(一八九八)年の退官後は、文人画界の重鎮として活躍した。]

 一體私がなぜかやうなことを擧げるかといへば、元來趣味などといふものは。天禀《てんぴん》の性情はさることながら、多くはその環境から生れて來る情操的なもので、かういふ血緣と家庭に育くまれた芥川君の文學者になつたのも寔《まこと》に自然なことでもあり、又假りに𤲿家となつゐたとしてからが、決して不自然ではなからうと思はれるからである。

 芥川君は既に「我が家の古玩」の中で――「蓬平《ほうへい》作墨蘭圖一幀《いつたう》、司馬江漢作秋果圖一幀、仙厓作鐘鬼圖一幀、愛石の柳陰呼渡圖一幀、巢兆《さうてう》、樗良《ちよら》、蜀山、素檗《そばく》、乙二《おつに》等《ら》の自詠を書せるもの各《かく》一幀、高泉《かうせん》、慧林《ゑりん》、天祐《てんいう》等の書各一幀、――わが家《や》の藏幅はこの數幀のみなり。他《た》にわが伯母の嫁《とつ》げる狩野勝玉作小楠公圖《せうなんこうづ》一幀、わが養母の父なる香以の父龍池《りゆうち》作福祿壽圖一幀等《とう》あれども、こはわが一族を想ふ爲に稀に壁上に揭ぐるのみ。中略――[やぶちゃん注:この「中略――」は下島の注。]。われは又子規居士の短尺の如き、夏目先生の書の如き、近人の作品も藏せざるにあらず、然れども未だ古玩たらず。(半ば古玩たるにもせよ)」といつてゐる。

[やぶちゃん注:「我が家の古玩」正しくは「わが家の古玩」。遺稿。旧全集では末尾に編者による『(昭和二年)』のクレジットがある。「青空文庫」のこちらで新字であるが、全集類聚版底本のものが読める。

「蓬平」佐竹蓬平(寛延三(一七五〇)年~文化四(一八〇七)年)は画家。信州下伊那郡生まれ。名は正夷。池大雅に文人画を学び、また、篆刻にも優れた。天明三(一七八三)年、肥前長崎から肥後熊本などに遊び、一時は上野(こうずけ)沼田に住んだが、晩年は郷里信濃の飯田で過ごした。

「愛石」(生没年未詳)は江戸後期の画僧。紀伊生まれ。名は真瑞。文化・文政の頃に活躍した。野呂介石(のろかいせき)に学び、池大雅の画風を慕った。水墨・淡彩の山水画を得意とした。

「巢兆」建部(たけべ)巣兆(宝暦一一(一七六一)年~文化一一(一八一四)年)は俳人・画家。江戸生まれ。名は英親。加舎白雄(かやしらお)に俳諧を学び、夏目成美・鈴木道彦とともに「江戸俳諧の三大家」と称された。また、谷文晁の門人でもあり、書にも優れた。

「樗良」(享保一四(一七二九)年~安永九(一七八〇)年)は俳人。鳥羽生まれ。本名は三浦元克。俳諧を百雄(ひゃくゆう)に学び、蕪村一派とも交わり、俳壇の重要な位置を占めた。

「蜀山」太田蜀山人南畝。

「素檗」藤森素檗(宝暦八(一七五八)年~文政四(一八二一)年)は俳人。濃上諏訪生まれ。名は由永。油商人。父や同地の俳人に手解きを受け、後に加藤暁台(きょうたい)・井上士朗に学んだ。同郷の「奥の細道」で芭蕉に同行した河合曾良の百回忌に記念集「續(ぞく)雪まろげ」を刊行。俳画にも優れた。

「乙二」岩間乙二 (宝暦六(一七五六)年~文政六(一八二三)年)は俳人。陸奥白石(現在の宮城県)の千手院住職。本姓は亘理(わたり)、名は清雄。俳諧は父に学び、江戸で夏目成美・鈴木道彦らと交わった。東北・蝦夷地を巡り、箱館で『斧の柄社』を結成し、同地の俳壇の指導に当たった。与謝蕪村に私淑し、最初の蕪村注釈書「蕪村発句解」を著わしたことで知られる。

「高泉」高泉性潡(こんせんしょうとん 一六三三年(寛永十年相当)~元祿八(一六九五)年)は江戸前期に渡来した黄檗宗の帰化僧。姓は林。明の福建の生まれ。慧門の法を受け、来朝して山城に仏国寺を創建、後に黄檗山万福寺第五世を継ぎ、黄檗山中興の祖とされる。「慧林」慧林性機(えりんしょうき 一六〇九年(慶長十四年相当)~天和元(一六八一)年)は明からの黄檗宗の渡来僧。福建省生まれ。四十一歳で出家し、四十六歳の時、かの隠元隆琦に從って来日した。摂津豊島(てしま)郡仏日寺の住持となり、隆琦の法を継いだ。延宝八(一六八〇)年、山城万福寺三世となっている。所持する「筑摩書房全集類聚版「芥川龍之介全集」の注では、江戸中期の浄土真宗本願寺派の僧で西本願寺学林四世能化を務めた法霖(ほうりん 元禄六(一六九三)年~寛保元(一七四一)年)を比定しているが、彼は「慧琳」であり、しかもそれは諱であるから、私はとらない。

「天祐」天祐思順(生没年未詳)は鎌倉時代の臨済僧。当初は天台宗を修学し、宋に渡り、十三年間、修行し、大慧派の北礀(ほくかん)居簡の法を嗣いだ。帰国後、京に勝林寺を開いた。通称は真観上人。「筑摩」版もこの人物に比定している。しかし、龍之介は「高泉、慧林、天祐」の順に非時系列に並べてあるところは、何だか、ちょっと違和感がある。]

 然し、猶、このほか先代より傳はるものや、支那から持ち歸つたものなどもあるのだから古人の意志如何に拘らず、古玩と新玩とを問はず、この機會に私の知つてゐるもののあらましを記すことにした。尤も假に生前人に贈つたもので、その出所と人名のわかつてゐるもの、また現在保存されてゐるもので其出所のわかつてゐるものは、それも略記することにした。

 一、龍池作福祿壽圖一幅

 一、勝川法眼《ほふげん》雅信𤲿一幅。

[やぶちゃん注:「勝川法眼雅信」先に出た狩野雅信と同一人物。「勝川」は号の一つ。弘化元(一八四四)年に法眼に叙せられている。]

 一、狩野松玉作小楠公ほか三幅。

 一、谷文晁咋鍾馗圖一幅。母君所藏たりしもの。

 一、曰(わく[やぶちゃん注:ルビ。])人作蛙の圖二幀。現在保存の一點は額仕立にて自身東京にて買ひしもの、他の軸物一點は、岸浪百草居より贈りしを更に室生犀星君に贈りしもの。

[やぶちゃん注:「曰人」遠藤曰人(あつじん 宝暦八(一七五八)年~天保七(一八三六)年)は俳人。本姓は木村。陸奥仙台藩士。松尾芭蕉の門人らの伝記「蕉門諸生全伝」を編集したことで知られる。門人は数千人と言われた。詩文・書画もよくした。ルビの誤植か。]

 一、愛石作山水圖一幅。京都或は東京で買ひ受けしもの。

 一、安田老山作松溪山水圖一幅。父君の得られりもの。

[やぶちゃん注:「安田老山」(文政一三(一八三〇)年~明治一六(一八八三)年)は画家。美濃生まれ。名は養。長崎で鉄翁(てっとう)祖門に学び、元治元(一八六四)年、清に渡り、胡公寿に師事した。明治六(一八七三)年に帰国、東京に住んだ。文人画に優れた。]

 一、兒玉果亭作梅溪山水圖一幅。父君の得られしもの。

[やぶちゃん注:「児玉果亭」(天保一二(一八四一)年~大正二(一九一三)年)は日本画家。信州渋温泉生まれ。名は道広。明治一三(一八八〇)年、郷里に竹僊山房を作り、おおくの弟子を育てた。]

 一、河村雨谷作墨蘭二幅、山水圖二幅、蘆雁二幅、其他一點。亡叔父の得たるもの。

 一、釋宗演書二幅。父君の得たるもの。

[やぶちゃん注:「釋宗演」(安政六(一八六〇)年~大正八(一九一九)年)は明治二五(一八九二)年に満三十二の若さで臨済宗瑞鹿山円覚興聖禅寺(藪野家菩提寺)管長となった人物。若狭国大飯郡高浜村生まれ。出家前の俗名は一瀬常次郎。日本人僧として初めて「禅」を「ZEN」として欧米に伝えた禅師としてよく知られ、山岡鉄舟や福沢諭吉らと親しく、夏目漱石は禅の弟子であり、漱石の導師も彼が勤めた。]

 一、成拙書一行一幅。自身得たるもの。

 一、夏目漱石書二幀。一は額。一は幅。

[やぶちゃん注:「額」は「風月相知 漱石」の書額。『小穴隆一 「二つの繪」(5) 「自殺の決意」』の私の注で画像を掲げてある。]

 一、菅白雲額一幀。自身請ひ受けしもの。

[やぶちゃん注:「菅白雲」芥川龍之介の一高時代の恩師でドイツ語学者・書家の菅虎雄(すがとらお 元治元(一八六四)年~昭和一八(一九四三)年)の号。名物教授として知られた。夏目漱石の親友で、芥川龍之介も甚だ崇敬し、処女作品集「羅生門」の題字の揮毫をしたことで知られる。「芥川龍之介書簡抄19 / 大正二(一九一三)年書簡より(6) 十一月十九日附井川恭宛書簡」の私の注を参照されたい。]

 一、齋藤茂吉自詠書三四幅。他に壱碧童句讚一幅。

[やぶちゃん注:「碧童」芥川龍之介最年長の友人で「入谷の兄い」と呼んだ俳人の小澤碧童。]

 一、子規居士短册一點。たしか香取秀眞《ほつま》君より贈られしもの。

[やぶちゃん注:「香取秀眞」芥川家の隣人にして知られた鋳金工芸作家。]

 一、井月稻の花句切れ一點。

[やぶちゃん注:井上井月の知られた一句ならば、「駒ヶ根に日和定めて稻の花」である。]

 一、下島空谷澄江堂書額一幀。

 一、董九如作山水橫物二幅。自身長崎にて得しもの。

[やぶちゃん注:「董九如」(延享二(一七四五)年~享和二(一八〇二)年)は幕臣で画人。本姓は井戸で、名は直道・弘梁。宋紫石(そうしせき)に学んで、清の沈南蘋(しんなんぴん)風の花鳥画に優れ、晩年は墨竹を描いた。]

 一、金冬心人物橫物二幅。支那にて得たるもの、一幅は百草居に贈しかと思ふ。

[やぶちゃん注:「金冬心」清代の文人で「揚州八怪」の一人である金農(一六八七年~一七六三年)の号。一生を処士として終わったが、古代の美を愛賞し、その詩文・書画総てに高尚な趣を示す。

「百草居」日本画家岸浪百草居(きしなみひゃくそうきょ 明治二二(一八八九)年~昭和二七(一九五二)年)。館林生まれ。龍之介が親しかった日本画家小杉放菴(未醒)と親しかったので、その関係で知り合ったものであろう。]

 一、吳昌碩作墨蘭圖一幅。上海にて直接買ひしもの、晚年室生犀星君に贈る。

[やぶちゃん注:「吳昌碩」(一八四四年~一九二七年)は清末から近代にかけて活躍した画家・書家・篆刻家。「清代最後の文人」と称され、詩・書・画・篆刻ともに精通し、「四絶」と称賛された、中国近代で尤も優れた芸術家と評価が高い人物である。]

 一、陳寶琛《ちんほうちん》詩一幅。芥川仁兄正書陳寳琛と署するもの。(陳寳琛は支那第一の學者と稱 せられ、滿洲國皇帝の師傅《しふ》たりし人。北京滯在中訪問して古書𤲿なども見せて貰ひ、書を請ふたところ、二三日すると良紙を得る筈だからといつて書いて贈られた立派な書幅である)

[やぶちゃん注:「陳寳琛」(一八四八年~一九三五年)は清末の官僚・詩人・歴史家。私の「芥川龍之介漢詩全集 二十七」の注を参照されたい。

「師傅」養育係。]

 一、鄭孝胥詩書一幅。芥川仁兄大雅辛酉暮春孝胥と署したもので、北京で書いて贈られしもの。

[やぶちゃん注:「上海游記 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」の「十三 鄭孝胥氏」を参照されたい。]

 「我家の古玩」の中に蓬平の墨蘭は、北原大輔君が贈つたもので、蓬平は池大雅の門人の一人だが、芥川君は大雅の氣魄ありとして珍重し、遺書により小穴隆一君に贈つたものである。江漢の秋果圖橫物は、何處で得られたか不明だが恐らく東京かも知れぬ。仙厓の鍾馗圖は、長崎の永見德太郞君から余ほど犠牲を拂つて得たもののやうに聞いてゐる。蜀山人の狂歌の幅は、確か小澤碧童君の贈つたものではないかと思つてゐる。巢兆・樗良・素檗・乙二などは多く俳書堂の賣立《うりたて》で入札したもののやうである。慧林、天祐の書幅は、京都で得たものと記憶してゐる。高泉の軸は、大正八年二月ある靑年𤲿家の手から風外の達磨と天祐の大橫物と同時に私の手に這入《はい》つたものだが、天祐は自笑軒の主人が是非にといふのでお讓りし、高泉は芥川君が欲しいといふのでお讓りしたもので、芥川君が自身で幅物を得られた最初のものである。

[やぶちゃん注:「北原大輔」「古織部の角鉢」で既出既注

「永見德太郞」(明治二三(一八九〇)年~昭和二五(一九五〇)年)は劇作家・美術研究家。長崎生まれで生地で倉庫業を営んでいた。俳句・小説を書く一方、大正八(一九一九)年五月に最初に芥川龍之介が長崎を訪れた際に宿所を提供して以来、親交を結んでいた。南蛮美術品の収集・研究家としても知られた。龍之介より二歳年上。

「賣立」売立会。入札会・競売のこと。書肆「俳書堂」の譲渡に至る内情の話は、OdaMitsuo氏のブログ「出版・読書メモランダム」の「古本夜話1164 高浜虚子、俳書堂、『ホトトギス』」に詳しい。

「風外」風外本高(ふうがいほんこう 安永八(一七七九)年~弘化四(一八四七)年)は曹洞僧。俗名は東泰二。池大雅の書画に私淑した画僧でもあった。]

 愛石の柳蔭呼渡の圖は、或とき私の所へ遊びに來て、懸つてゐたこの軸に惚れこみ、望むがまゝに献上したものである。これは装幀が傷んでゐたのを新しく仕替へ、桐の箱まで作つて私が箱書までしたのであるが、自決當時その室に懸つてゐたといふ、因緣淺からぬ軸なのである。

 芥川君は、大正五年に大學を出られて二三年の間は(一寸學校の英語の先生もしてゐられたが、間もなくやめた)、勿論既に新進氣銳の鏘々《さうさう》[やぶちゃん注:「錚々」に同じ。]たる靑年文士には違ひなかつたが、より以上にあの恐るべき讀書力を以て東西殊に西洋の書物を讀破したもので、その知識慾の旺盛なることは大旱《たいかん》の雲霓《うんげい》にも比すぺきもの凄さだつた。だから繪𤲿や藝術に關する書物をも讀むばかりでなく、ルネツサンス前後から近代に至る有名な繪𤲿の寫眞や複製を買ひ集め(その國の本屋にまで註文して取り寄せ)その知識慾を充たしたものだつた。併し如何に天才兒芥川君も、反《かへつ》てお膝もとの我邦や支那の繪𤲿に就ては、まだまだ幼稚なもので、私のやうなものの話にさへ熱心に耳を傾けられたものである。とは云ヘ、さすがあの天禀《てんりん》をもつて、漱石の門に出入してゐたのだから、幼稚なりに違つてゐたのは勿論である。

[やぶちゃん注:「大旱の雲霓」「ある物事を強く待ちこがれること」の喩え。「孟子」の「梁恵王下」の一節に、「善政を行ってくれる君主を庶民が待ち望んでいることを、『大旱の雲霓を望むがごときなり(ひどい日照りの際に、雨の前兆となる雲や、日暈(ひがさ)を待ち望むのと同じことである)」と喩えたことによる故事成語。]

 大正七年の暮に私が神田の本屋で手に入れた、十便十宜の最初の複製書帖の大雅の𤲿を見て、彼は非常な衝動を受けたのである。といふのは、專らといつていゝくらゐ西洋𤲿の方にのみ氣を奪はれてゐた眼に、思ひも設けぬあるものを發見したからであらう。確か翌大正八年芝の雙軒庵で十便十宜の原帳を見て、今更ながらその駭きを新たにし、同時に蕪村との[やぶちゃん注:「の」は欠字で空白。推定で補った。]對比を心ゆくまで味つたのである。猶このとき多數の竹田《ちくでん》や草坪《さうへい》、山陽《さんやう》なども展ぜられてゐたので、我邦南𤲿の粹を觀賞することが出來たわけである。

[やぶちゃん注:「雙軒庵」実業家で書画骨董を趣味とした松本枩蔵(まつぞう 明治三(一八七〇)年~昭和一一(一九三六)年)の号。彼は後の昭和六(一九三一)年に先に彼が専務取締役であった九州電気軌道の株主の一人から横領罪・背任罪で訴えられ(起訴猶予)、枩蔵から九州電気軌道から収受した書画・骨董品は、売立会にかけられている(ウィキの「松本枩蔵」を参照した)。

「草坪」南画家高橋草坪(享保二(一八〇二)年頃~天保四(一八三三)年頃)は豊後杵築 の商家の出。名は雨。 十九歳の時、田能村竹田の門に入り、師とともに旅を重ね、画技を磨いて、門弟中、最も嘱望されていたが,胸を病み、竹田に先立って早世した。

「山陽」頼山陽。]

 その後翠軒あたりで得た支那𤲿の複製や、我邦で開かれた支那𤲿展の複製𤲿帖、我邦古代繪卷、古𤲿の複製を買ふばかりでなく、(博物館あたりで實物も勿論多少見てゐる)木版の浮世繪の會にまで這入つたのだから、如何に知識慾の旺盛だつたかを窺ふこと出來よう。

 かくてこの天才兒は、不思議にも我が邦の繪畫の鑑賞段階を、現代の軸畫、四條丸山派の繪畫、狩野雪谷《せつこく》派繪畫、土佐派、倭繪《やまとゑ》を一足飛びに乘り越えて、直ちに池大雅に打ち當てだのだからたまらない。「骨董羹」の中で、「東海の畫人多しとい、ども、九霞山磁の如き大器又あるべしとも思はれず」云々と云はせてゐる。また「澄江堂雜記」の中では、「僕は大雅の畫を欲しい、しかし金がないからせいぜい五十圓位な大雅を一幅得たい。大雅の畫品を思へば、たとへ五百萬圓を投ずるも安いといふ點では同じかも知れぬ。。藝術品の價値を小切手や紙幣に換算出來ると考へるのは、度し難い俗物ばかりだからである」といつてゐる。また「雜筆」の中では、「竹田は善き畫描き以上の人なり。大雅を除けばこの人だと思ふ。山陽の才子ぶりたるは竹田より遙かに品下れり云々」ともいつてゐる。ここに一寸面白い揷話がある。それはあの有名な赤星家の入札會のときであつた。うち連れて見物してあるいたのだつたが、我々にはどれも結構なものばかりで、聊か眩惑を覺えるくらゐだつた。觀覽を了へてさて何か欲しいものがあつたかと問へば、彼の曰く「欲しいの玉澗の蘭だけだ」といふのだつた。――元信も雪舟も牧溪も梁廆楷も馬麟についても何とも云はなんだ。

[やぶちゃん注:「狩野雪谷派」信濃松代藩士で画人であった酒井雪谷(天保四(一八三三)年~明治九(一八七六)年)。ブログ「UAG美術家研究所」の「松代藩の閨秀画家・恩田緑蔭」内の記事によれば、名は妙成。別号に竹蔭甘泉。嘉永末年(嘉永七年ならば一八五四年)に『江戸に赴き』、『藩の下屋敷深川小川町に居住していたが、その頃、松代藩士の樋畑翁輔に絵を習い、その後は歌川広重の門にも入ったという。しばらくして松代に戻り、藩務についてからも絵を嗜み、九代藩主・真田幸教にも絵を教えていたという』とあった。

「骨董羹」大正九(一九二〇)年四・五・六月発行の雑誌『人間』に「壽陵余子」の署名で(芥川龍之介のクレジットなしに)連載された随筆。サイト版で電子化注してあり、また、特異的に私が現代語訳し、当時、高校三年生であった教え子(彼はこの協力を終えた直後に東京大学理科に現役で合格した)の協力を得て作成した、『芥川龍之介「骨董羹―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案した「骨董羹(中華風ごった煮)―寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと―という無謀不遜な試み やぶちゃん』もある。やはり下島の引用には不全がある。当該章を総て引く。

   *

 

       大雅

 

 東海の畫人多しとは云へ、九霞山樵の如き大器又あるべしとも思はれず。されどその大雅すら、年三十に及びし時、意の如く技の進まざるを憂ひて、敎を祇南海に請ひし事あり。血性大雅に過ぐるもの、何ぞ進步の遲々たるに焦燥の念無きを得可けんや。唯、返へす返すも學ぶべきは、聖胎長養の機を誤らざりし九霞山樵の工夫なるべし。(二月七日)

   *

私の暴虎馮河訳も添えておく。

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       大雅

 

 本邦に画家多しと言えども、池大雅九霞山樵のような大人物は二人といないと言ってよい。しかしその大雅ですら、三十歳になるに及んで、思い通りに筆が進まないことを憂えて、七十三歳の南画家祇園南海に教えを請うたことがあった。昨今の血気だけは大雅より旺盛な芸術家連が、どうして自身が遅々として進歩しないことに焦燥を感じずにいられるのであろうか、まことに不可思議なことと言わざるを得ない――。ただただ、こうした輩が返す返すも学ばねばならないこと、それは、聖胎長養の機――禅僧が悟達した後も座禅修養を怠らないように、南画の大成者として既に崇められれていた彼が、初心に還って謙虚に南海に教えを請うた、生涯修練という真摯な覚悟の中で選び取った「時」――を誤らなかった九霞山樵の芸術家としての「人生の手法」である。(二月七日)

   *

『「澄江堂雜記」の中では、「僕は大雅の畫を欲しい、……』大正一一(一九二二)年四月発行の雑誌『新潮』に掲載された最初の「澄江堂雜記」(同題の記事は複数あり、なかなか煩わしい。その読み方の順を私なりに示し、リンクも張ったブログ記事「芥川龍之介 澄江堂雜記拾遺四篇」を参照されたい)の冒頭の「大雅の畫」だが、やはり引用が不全私のサイト版の当該作を見られたい。

『「雜筆」の中では、「竹田は善き畫描き以上の人なり。……』大正九(一九二〇)年の九・十・十一月発行の雑誌『人間』に三回に亙って掲載されたものの、初回冒頭の「竹田」。但し、やはり、恣意的に途中を抜いているので、私のサイト版電子化注「雜筆」でちゃんと見られたい。

「赤星家」美術・骨董の「松本松栄堂」公式サイト内の「赤星家」によれば、『薩摩出身の軍需商人で、薩摩の人脈を使って大砲成金とな』った人物で、『古神戸港の築港工事で大金を得て上京、日清戦争後は海軍が英国に発注した軍艦に取り付ける銃器全般の代理店を偶然つとめて』、『巨万の財を築き』、『その資金力で日本美術を買い占め、鑑識眼に優れた収集家として知られ』たとあり、『息子の鉄馬は自らは美術品の趣味がない為、愛好者の保護を期してそのコレクションを、三度の売立により手放し』たが、『赤星家の売立は、総額三百九十三万八千円となり、戦前の売立で』、『この額を超える売立は鴻池男爵家(六百八十九万二千四百八十六円)のみで』あったとある。

「玉澗」(生没年不詳)は宋末元初の禅画をよくした僧で、八十歳で没したとされる。室町以降の日本では、本文で後に出る牧溪と併称された画僧である。なお、以下の作家は龍之介がここでは関心を持たなかったのだから、私は注する気はない。御自身でお調べあれかし。]

 大正十一年には支那を漫遊したのだつた。上海では有名な吳昌碩を訪問して翰墨談も聞いたらしい。そして墨蘭の力作を貰ひうけた。盧山ヘは當時支那漫遊中の竹内栖鳳氏と同伴だつたと書いた廬山の繪はがきを送つてくれた。北京では陳寶琛や鄭孝胥をも訪ねて種々の話を聞いたり御馳走になつたり、又祕藏の書𤲿なども見せてもらひ、そして前掲のやうな書畫を貰ひうけてゐる。

[やぶちゃん注:「盧山ヘは當時支那漫遊中の竹内栖鳳氏と同伴だつたと書いた廬山の繪はがきを送つてくれた」私のサイト版の「芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈」には下島宛書簡は、五通、載るが、その「九〇三」がそれ。

「北京」滞在中のことは、私の「北京日記抄 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」を見られたい。但し、陳寶琛はそちらに出ず、私の前注の書簡にも、また、「芥川龍之介中国旅行関連(『支那游記』関連)手帳(計2冊)」にも出現しないので、この下島の話は貴重ではある。]

 「支那の𤲿」といふ彼の文章には、「雲林を見たのは唯一つである。その一つは宣統帝の御物、今古奇觀といふ畫帖の雄勁《ゆうけい》な松の圖で、文華段[やぶちゃん注:「殿」の誤植か誤字。それ以上に、この引用は激しい問題がある。後注を参照のこと。]の三四幅は𤲿品の低いものである。わたしは梅道人の墨竹を見、黄大癡《くわうたいち》の山水を見、王叔明の瀑布を見た(王叔明の𤲿は陳寶琛氏藏)。が、頭の下つたのは雲林の松に及ぶものはない云々。――南畫は胸中の逸氣《いつき》を寫せば他は措いて問はないといふが、この墨しか着けない松にも自然は髣髴と生きてゐはしないか、  [やぶちゃん注:二字空けはママ。下島が「……」或いは「――」を打ったのを、誤植で脱記号したか?]モネの薔薇を眞といふか、雲林の松を假《か》と云ふか、所詮は言葉の意味次第ではあるまいか」といつてゐる。

[やぶちゃん注:「支那の𤲿」以下は大正十一(一九二二)年十月発行の『支那美術』に掲載された「支那の畫」の冒頭の「松樹圖」である。私はその部分だけを、「芥川龍之介漢詩全集 二十七」(リンク先はブログ版。サイト一括版もある)の注で引用してあるので見られたいが、下島は文章を弄った挙句、「頭の下つたのは雲林の松に及ぶものはない」という半可通な変な表現になってしまっている。表記も引用としては、そこら中に問題があり、これは以上の私の電子化を見て戴かないと、芥川龍之介の真意はまるで伝わらないと言える。

 支那から歸つて來た彼は氣分の上にも多少變化があつたものと見える。その一例は書齋の我鬼窟を改めて澄江堂とするななどがそれである。佐佐木茂索君が「澄江なんていふ藝者にでも惚れたのか」などと戲れたのだつた。不思議なのは澄江堂などといふ支那臭い一名をつけておきながら、芭蕉をはじめ元祿の俳諧硏究などが始まつや。(勿論以から俳諧には深い關心を持つてはゐたが)何だか西洋から支那、それから自分自身の邦へ、といつたやうな感じがないでもなかつた。俳畫や俳句の軸の欲しくなつたのはこの頃のやうに思はれる。まやこの頃既に洋畫家の小穴隆一君と懇親になつてゐて、近代フランス畫を對象として日本の洋畫を論じたり、ルノワルの中に大雅の共通點を見出したりしたものである。

 震災後山本悌次郞氏邸で、その夥しい別莊の支那畫の一部を見たといつてゐたが、別に大した感銘の話もなかつた。それは恐らく、支那で見たり、或いは我邦でも支那畫の展觀が隨分あつて、ひとわたり見てゐるから、特に感心したものがなかつたといふことになるのであらう。

[やぶちゃん注:「山本悌二郞」(明治三(一八七〇)年~昭和一二(一九三七)年)は新潟生れの実業家・政治家。独逸学協会学校卒業後、宮内省御料局給費生としてドイツに留学、帰国後、御料局勤務を経て、第二高等学校(東北大学の前身)教授・日本勧業銀行鑑定課長・台湾製糖社長などを歴任。 明治三七(一九〇四)年、衆議院議員となり、以来、当選十一回で、この間、田中義一内閣及び犬養毅内閣の農相となった。晩年は大東文化協会副会頭となり、国体明徴運動に参画した。]

 不思議なことには、現代の日本畫の批評といふやうなことは餘りしなかつた。唯僅かに靱彥《ゆきひこ》・百穗《ひやくすい》・古徑《こけい》・御舟《ぎよしう》などについて話があつたくらゐである。洋畫の方はよくは知らぬが、小穴君のほか、よく梅原龍三郎君、時としては岸田劉生君あたりの噂さがあつた。

[やぶちゃん注:「靫彥」安田靭彦。名はこの「靭」の字が正しい。

「百穗」平福百穂。

「古徑」小林古径。

「御舟」速水御舟。]

 瀧田樗蔭氏の畫册に、各種風骨帖といふのがあつた。それは百穗・古徑・靱彦・恒友・芋錢六家の畫を收めたもので、瀧田氏は芥川君にその序を請うて書いて貰つた。その序に――「諸公の畫を看るは諸公の面を看るが如し、眼橫鼻直、態相似たり。骨格血色、情一にあらず。我は嗤ふ、杜陵の老詩人、晝中馬を看て人を看ざる事を。秋夜燈下に此册を披けば、一面は夭夭一面は老ゆ云々」と書いてゐるから面白い。

[やぶちゃん注:「各種風骨帖」「の序」ネット上には電子化されていないので、先ほど、電子化注をしておいたので読まれたい。原文は漢字カタカナ交りで、読点等、下島の引用はやはり不全である。]

 芥川君は云ふまでもなく、どこまでも學者で同時に藝術家だつた。そして誰もが望むやうに最高を目標として精進した。だが、所謂藝術至上主義者などといふなまぬるい批評は當つてゐない。彼の讀書も體驗も勿論藝術のための滋養物であの驚くべき廣く且つ深い讀書から得た知識の輝きのほか、書畫や骨董などから得た彼の知識が、如何に創作の上に光つてゐるかは知るものは知つてゐやう。所謂書畫骨董趣味などと云ヘば、金持や貴族のお道樂か、或は單に所蔵慾の滿足ぐらゐに考へられてゐるのだが、ひとたび芥川君のやうな藝術家にふれると、そのものゝ生命が躍動する。例へばこゝに一例を擧げよう。

 彼の作「玄鶴山房」のあるシーンに「床には大德寺の一行ものが懸つてゐる」と書いたのだが、この大德寺の一行ものがどうもしつくりしないといつて氣にしてゐるから、それでは黃檗ものゝ一行としたらどうかと云ふと、あゝそれでしつくりした、といつてすぐ訂正した。一體大德寺の一行ものも黃檗の一行ものも、荼懸けの通り詞《ことば》のやうになつてゐてこんな場合どちらでもよささうなものだが、そこが彼の細かい神經は承知しないのだ。そして實際その室やら環境が、黃檗ものでなくてはしつくりこないといふやうなきわどいデリケートなところが、所謂翰墨趣味を活かした大事なところだと思つたのである。

[やぶちゃん注:『「玄鶴山房」のあるシーン』「五」の一節。『玄鶴はこの褌を便りに、――この褌に縊れ死ぬことを便りにやつと短い半日を暮した。しかし床の上に起き直ることさへ人手を借りなければならぬ彼には容易にその機會も得られなかつた。のみならず死はいざとなつて見ると、玄鶴にもやはり恐しかつた。彼は薄暗い電燈の光に黃檗の一行ものを眺めたまま、未だ生を貪らずにはゐられぬ彼自身を嘲つたりした。』とあるシークエンスである。私のサイト版「玄鶴山房 附草稿」で確認されたい。]

 一體ある時期の芥川君を、書畫骨董の蒐集家のやうに評判したのは、彼は書畫骨董にもある意味の關心を持つてゐるといふことを、彼の名望に結びつけた俗說で、私が暴露に近い書畫目錄やうのものまで揭げたのは、ひとつは、さういふ人たちを失望させる効能があらうと思つたからである。彼は「續野人生計事」の中で、「僕は如何なる時代でも蒐集癖と云ふものを持つたことはない。成程書物だけは幾らか集まつてゐるかも知れない。しかしそれも集まつたのである。落葉の風だまりへ集まるやうに自然に……書物さへさうである。況や書畫とか骨董とかは一度も集めたいと思つたことはない云々」彼の自記は決して虛言をついてゐないのである。

[やぶちゃん注:『「續野人生計事」の中で、「僕は如何なる時代でも蒐集癖と云ふものを持つたことはない。……」前に示した「青空文庫」に「百艸」のそれが纏めて電子化されてあるので参照されたい。当該項は「七 蒐集」である。例によって下島の引用は不全というか、前後の文章を弄っている。]

 彼は繪を描いたか! といふ問題だが、小學時代の彼はこの道にも傑出した所謂天才のきらめきらしいものがほの見える。併し中學以後に餘りその蹟を示してゐないやうだ。どうもあれだけの素質を持つてゐるからには興至れば描かざるを得なかつたであらうと思はれるに拘らず、ところが、小穴隆一君と交遊するやうになつてから、いつとはなしに例の河童やら何やらを描きだした。河童は「水虎晩歸圖」と題して得意であり堂に入つたもので、當時すでに有名だつた。このほか傘を描いて「時雨るゝや堀江の茶屋に客ひとり」といふ句を題したものなどは、書畫共にほれぼれするやうな風格をあらはしてゐる。馬の圖や猫の圖、蜻蛉なども得意なもので、自嘲的な自畫像などもかいてゐる。例れも風韻豐かな書と共に個性のよく現はれてゐる尊い墨蹟である。大正十四年五月、修善寺の温泉宿から、佐佐木茂索君と私へ送つてくれた修善寺圖卷などは、ペン畫ではあるが、卓越せる天禀を窺ふのに充分である。私は常に思ふ。彼若し畫家たらば、必ず第一流になつてゐるであらうと……。

[やぶちゃん注:「水虎晩歸圖」「小穴隆一「鯨のお詣り」(11) 「芥川龍之介全集のこと」で「蜻蛉」の句に添えた絵などとともに掲げてあるので見られたい。

「修善寺圖卷」『芥川龍之介書簡抄124 / 大正一四(一九二五)年(五) 修善寺より佐佐木茂索宛 自筆「修善寺画巻」(初稿)+自作新浄瑠璃「修善寺」』と、『芥川龍之介書簡抄125 / 大正一四(一九二五)年(六) 修善寺より下島勳宛 自筆「修善寺画巻」(改稿版)』で掲げてあるので見られたい。]

 終りに、彼が書畫鑑賞の對象は、直に大雅、直に雲林、直に玉澗の蘭、直に良寬といつたやうなわけで、いゝころ加減のものや職工畫などには決して心を動かさなんだ、といふことである。

 附け加へておくことは、古陶磁の面白いのは十分わかつてゐるが、文藝作家があゝいふ固定したものに囚へられたら最後、ほんとの小說が書けなくなる、僕はそれを恐れると云つてゐたやうにに思ふが、書齋や骨董に對しても、幾らか同じやうな考へ方ではなかつたかと思はれる。

(昭和十三・六。文藝春秋)

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版)各種風骨帖の序

 

[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集(第十二卷・一九七八年七月刊)の編者「後記」によれば、大正一三(一九二四)年十一月発行の雑誌『人物往來』第五冊に「澄江堂餘墨壹」の大見出しのもとに紹介されたもの、とあって、同誌では、『文末に小字で「各種風骨帖は瀧田樗陰君藏の畫册なり。百穗、古徑、靭彦、未醒、恒友、芋錢六家の畫を收む。」とある』と記し、さらに、『大正十三年二十九日(推定)の小穴隆一宛書簡に「僕瀧田の画帖に叙する文二篇を作り大いに疲る 但し作るのに疲れたるに非ず畫箋へ書するのに疲れたる也』とある。ところが、底本では、岩波の旧新書版全集第十四巻に拠って、その報知に過ぎない『人物往來』を参考にした旨の記載がある。則ち、底本では、旧瀧田樗蔭蔵の現物の「各種風骨帖」に当たることが出来なかったことを意味している。そもそも、当たるべき「各種風骨帖」の現存について、なんらの記載が「後記」にはないことから、所在不明か、既に失われた可能性が字背に窺われるのである(この画冊名と瀧田樗陰のフレーズでネット検索をかけても、画像一つ、解説一つ、見当たらない)。さらに、小穴宛書簡を考えると、本「序」には、もう一つの案文があったことが判る。さらに、この「序」は、芥川龍之介自身が、現物の「各種風骨帖」へ揮毫したことも判るのである。

 なお、本画帖の所蔵者瀧田樗陰(明治一五(一八八二)年~大正一四(一九二五)年)は、芥川龍之介も頻繁に作品を発表した『中央公論』の名編集者(主幹)として知られる。秋田市生まれで、本名は哲太郎。東京帝大在学中から『中央公論』で翻訳の仕事を始め、明治三七(一九〇四)年十月に正式に中央公論社に入社し、晩年まで編集を担当した。本願寺系の雑誌であった『反省雑誌』から改題したばかりの『中央公論』に文芸欄を設け、部数の拡大に成功した。新人作家の発掘に尽力し、同誌を新人作家の登龍門へと押し上げ、小説家は彼の来訪を心待ちにした伝説の編集者として知られる。以下、同帖所収の挙げられてある画家は、「百穗」は平福百穂(ひらふくひゃくすい)、「古徑」は小林古径、「靭彥」は安田靭彦(ゆきひこ)。「未醒」は小杉放菴(「未醒」の号が知られるが、後にかく変えている)、「恒友」は森田恒友(つねとも 明治一四(一八八一)年~昭和八(一九三三)年:ここで並んだ画家の中では唯一、洋画家であるが、ヨーロッパ遊学でセザンヌの影響を強く受け、リアリズムを基本として、西洋画の写生を水墨画の上に生かし、自ら「平野人」と号して利根川沿いの自然を写生した画家であった)、「芋錢」は小川芋銭(うせん:ここに挙げられてある画家の中で私が唯一人、メチャクチャ好きな画家である)。]

 

 各種風骨帖の序

 

 諸公ノ畫ヲ看ルハ諸公ノ面ヲ看ルガ如シ。眼橫鼻直、態相似タリ。骨格血色、情一ニアラズ。我ハ嗤フ、杜陵ノ老詩人。晝中馬ヲ看テ人ヲ看ザル事ヲ。秋夜燈下ニ此册ヲ披ケバ、一面ハ夭夭、一面ハ老ユ。借問ス、靈臺方寸ノ鏡、我面ハ抑誰ノ面ニカ似タル。

   大正十三年十月上浣

               澄 江 生 筆 記   

 

[やぶちゃん注:「風骨帖」「風骨」は元は「人物の姿・風体(ふうてい)」を指したが、転じて「詩歌や芸術などの作風と詩想・精神」を言う語ともなった。

「面」「おもて」。顔。

「眼橫鼻直」「がんわうびちよく」。

「態相似タリ」「たい、あひにたり」。

「情一ニアラズ」「じやう、いつにあらず」。

「嗤フ」「わらふ」。

「杜陵」「とりよう」(とりょう)。かの杜甫の号。筑摩全集類聚版「芥川龍之介全集」第五巻(昭和四六(一九七一)年刊)ではここに編者が『とりやう』と振っているが、その歴史的仮名遣は誤りである。

「晝中馬ヲ看テ人ヲ看ザル事ヲ」これは、私は、杜甫の五言古詩(例外的に彼のものとしては非常に長く、三十四句から成る)「韋諷錄事宅觀曹將軍畫馬圖引」(韋諷錄事(いふうろくじ)の宅にて曹將軍(さうしやうぐん)の畫馬(ぐわば)の圖(づ)を觀る引(いん))を指しているように私には思われる。杜甫晩年の広徳二(七六三)年五十三歳の時、成都での作である(杜甫は五十九で客死している)。「唐詩選」に収録され、所持する「杜詩」(一九六五年岩波文庫刊・鈴木虎雄訳注)の第五冊にも載っているのだが、余りに長いので、古くよりお世話になっている「Web漢文大系」の同篇をリンクさせておく。一九六一年岩波文庫刊「唐詩選」上(前野直彬注解)の解説によれば、絵の持ち主韋諷録事はよく判らない人物であるが、『成都の東北にあたる閬(ろう)州』(四川省北東部)『の役人で、成都に家を持っていたらしい』人物で『地方官庁の庶務課長といったところである』とあり、一方、『曹将軍は名は覇(は)』で、『玄宗から左武衛将軍という官位をもらった』人で、かの『曹操』『の曽孫である曹髦(そうぼう)(一度は帝位についたが暗殺されて天子の位も奪われ、高貴郷公と呼ばれた人物。絵の名手であった)の子孫といわれ、やはり絵の名人で、ことに馬を描かせては当時の第一人者として評判が高かった』とあり、『この人がかいた馬の絵を、韋諷が持っていた』のを見せて貰ったのであったとある。さらに、『曹髦は落ちぶれて四川の地方へ流されて来たので、そのときに描かせたものかもしれない』とし、杜甫が『その絵を見ながら作ったのがこの詩で、終りには安禄山の叛乱ののち、玄宗の花やかな時代があとかたもなくなくなったことへの感慨がこめられている』とあることから、その馬の絵を描いた曹髦の数奇な人生に思い致すよりも、杜甫自身の落魄の感に重ねている点を芥川は指弾しているようにも私には思われるからである。

「夭夭」「えうえう」(ようよう)は「若い女の瑞々しいさま」が原義。「健康的な清新さ」を言っていよう。

「借問ス」「しやくもんす」。「試みに問う」。

「靈臺方寸ノ鏡」「靈臺」は「魂のある所・霊府・精神」の意であるから、「その描いた人の心を表わすところの鏡」としてそれらの絵を見たものであろう。

「我面」「わがつら」。

「抑」「そも」。

「上浣」上旬。この大正一三(一九二四)年十月上旬を、新全集の宮坂覺氏の年譜で見ると、興味深い事実が見えてくる。この十月七日、『志賀直哉が古美術の写真帳作成のため上京し』(当時、志賀は京都郊外の宇治郡山科村に住んでいた)、『一緒に目黒の山本悌一郎』(実業家で政治家)『宅へ中国画』(☜)『を見に行く』とあり、同九日の条の最後には、『この頃、再び志賀直哉とともに、赤坂の黒田家』(ここには旧福岡藩黒田家の中屋敷が嘗つてあった)『へ筆耕図と唐画鏡』(サイト「日本美術の記録と評価」の「昭和五年十一月-昭和六年六月」の「調査・見学記録」に、『考古学会大会黒田侯爵家画幅展観昭和六年五月』の条に、『筆耕図/唐画鏡一帖』とあった)『を見に行く』とあるのである。則ち、この序が書かれた時期、芥川は偶然にも中国画に幾つも親しく鑑賞していたことが判明するのである。]

2023/04/20

佐々木喜善「聽耳草紙」 四五番 南部の生倦と秋田のブンバイ

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

     四五番 南部の生倦と秋田のブンバイ

 

 或時、南部の生倦(イキアキ)だと云ふ看板を掛けて、方々を廻國する亂暴者があつた。いつもかつも、あゝ俺は生倦きた、生倦きたと云ひのさばつて押し步き、誰(ダン)でもええから殺されたい。はてさて俺を殺せる奴が、この世界中に一匹も居やがらないのかなア。どうだいと天下を踏反(コンゾリ)かへつてギシコイたてて威張つて步き廻つてゐた。併しこの亂暴者には、何處でも誰一人として負かされぬ者はなかつたので、ますます傍若無人になつて、諸國を步き廻つたあげく、遂に秋田の國まで行つた。[やぶちゃん注:「ギシコイ」意味不明。]

 その時、秋田に、ブンバイと云ふ劍術使ひの達人が居た。そして生倦の傲慢を聞いて、世間には隨分人を喰つた大馬鹿者もあるもんだなア、いゝから俺が一ついじめてケると云つて、南部の生倦、秋田のブンバイがお前を殺してケルから、何時でも來うと云ふ立札を家の門前に立てゝ置いた。方々の國を廻つて其所に行き當つた生倦は、ブンバイの立札を見て、あゝ俺を殺してケルぢ人もある風(フウ)だ。さあ早く殺されたい、俺は南部の生倦だと言つて、そのブンバイの家へ行つた。ブンバイはアヽお前が南部の生倦か、俺は秋田のブンバイだ。俺が一つお前の命を仕止めてやるから安心しろと云つた。すると生倦はそれでは尋常に勝負をして、お前に殺されたい。何日(イツ)がいゝか訊くと、それでは明日この下の川原サ來う、其所で尋常に勝負すべえとブンバイは云つた。

 その日は朝から、川原サいつぱひ[やぶちゃん注:ママ。]に見物人が集まつて居た。ブンバイは大刀を引ツつま拔いて身構へをして、さあ南部の生倦、かかつて來うと云ふ。生倦は素手で何にも持たず、たゞ川原に薪木を山と積んで、それに火をつけて、どがどがと燃やし始めた。ブンバイがさあ始めろツ、かかつて來うと呶鳴ると、生倦は何時でもよいと云つて、その燃え木尻(キニシリ)を執つて、相手目がけてブンブンと投げつけた。其の術(ワザ)のすばやいこと、とても人間業とは見えなかつた。さすがの劍術使ひの名人、ブンバイもとても及ばなくなつて、しまひには眉間に燃え木を撲(ウ)つ付けられて、打(ブ)ツ飛んで仰向けに轉んで息が絕えてしまつた。

 生倦も、その時は餘程ひどかつたものと見えて、燃え木を投げつけ、投げつけしては居たが、遂に全身まるで火になつて、これもやつぱり息が絕えてしまつた。

 (家の老母の話。)

 

大手拓次 「密獵者」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 密 獵 者

 

瓔珞(やうらく)の珠をおとすひよわなたそがれに。

かろやかに打つ鷓鴣(しやこ)の羽ばたき、

眼のおほきい密獵者の足はうゑたる戀にをののくごとく、

水のながれをなして踊躍(ゆやく)の花をとびちらす。

手のほそい、眼のおほきい二人づれの密獵者よ、

見つからないやうにお前の獲物を獵(か)りとれ。

 

[やぶちゃん注:「瓔珞」珠玉や貴金属を編んで、頭・首・胸に掛ける装身具。古く仏・菩薩などの身を飾るものとして用いられ、寺院内でも天蓋などの装飾に用いる。元来は古代インドの上流階級が身につけた装飾品であった。

「鷓鴣」本邦に於いて「シャコ」という呼称は、狭義にはキジ科Phasianidaeシャコ属Francolinus に属する鳥を言い、広義にはキジ科の中のウズラ( Coturnix 属)よりも大きく、キジ( Phasianus 属)よりも小さい鳥類をも指す。但し、拓次が愛したフランス文学に登場するそれは、例えば、私の偏愛するジュール・ルナール(Jules Renard)の小説「にんじん」(“Poil de carotte”一八九四年刊)に出る「鷓鴣」は“perdreau”(ペルドロー)で、これは、一般的にフランスの鳥料理の中でも、ヤマウズラ Perdix 属、及び、その類縁種の雛を指す語である(親鳥の場合は “perdrix” (ペルドリ))。食材としては、“grise”(グリース。「灰色」という意味)と呼ぶヤマウズラ属ヨーロッパヤマウズラ Perdix perdix と、“rouge”(ルージュ。「赤」)と呼ぶアカアシイワシャコ Alectoris rufa が挙げられる。拓次がここで「鷓鴣」を使うった際には、まず、後者の由来の「鷓鴣」のイメージによって使われものとは思われる。しかし、到底、拓次がヨーロッパにしか棲息しない最後の二種などを知っていたわけもなく、また、真正の「シャコ」類で「シャコ」を和名に持ち、しかも日本の棲息する種は、調べた限り、いないはずである。従って、拓次のイメージのそれは、ウズラの子どものようなイメージであろうと推察するものである。以上の一部は私の古いサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン (注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」の「鷓鴣」の私の注を元にした。]

大手拓次 「野よ立てよ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 野よ立てよ

 

野よ立てよ、

かぎりなくみどりにぬれて交感のこゑをうむ野の翁(おきな)よ、

わたしは白い帆柱のやうにうごいてゐる。

命の姿は羽ばたきに似て

とらへがたく闇をつみかさねる。

永遠のくゆりを吐く野のたそがれよ、

すこやかに立つて

かをりゆけ、神の國へかをりゆけ。

 

大手拓次 「轉生の歌」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 轉生の歌

 

亡びを示すなめらかな鳥のさへづり、

茶ばんだ水色のこけらは遠方の、

芽をふくむ樂しい魚苗(うをなへ)の肌によりつどひ、

すずしい銀のひびきをもらす。

よろこびはひらけ、消滅のさしひく忍び音(ね)は、

おどろきを生む花しべのあたりに香爐の霧をふく。

 

[やぶちゃん注:「魚苗(うをなへ)」「魚の子」。魚苗(ぎよべう)。幼魚。この一行、違和感はない。則ち、「茶ばんだ水色のこけ」(蘚/苔)「ら」(等)は、「遠方の」(蘚/苔)の「芽」(幼魚の鱗の間に早くも忍び込んだ「こけ」等が萌芽しているのである)を既に啣(「ふく」)「む」「樂し」さうなその幼魚と、顕微鏡的にクロース・アップされるその「こけ」らの芽生えの歓喜に満ちている幼魚の「肌によりつどひ」「すずしい銀のひびきをもらす」のである。幻想の博物学者の天馬空を翔(ゆ)く如き自在なモンタージュが素晴らしい!]

大手拓次 「のび上る無智の希望」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 のび上る無智の希望

 

黃金色(こがねいろ)の鍋のなかに泡立つて

純麗な姿をのばしてゆく幼い盲目の希望よ、

錚錚と鳴る鍊鐵の鍵(くさり)のかすれにも似て

迷妄を押しのけてひろがる强いリズムのおもざし、

五月の庭に咲く薔薇のほこりをうかべて。

この、智慧なく、力なく、目(め)あてなき怪しい迫進の夢魔におそはれ

赤い瓣のやうな脣をうながしてよろめく。

實(みの)る木の實の果皮(かは)はやぶれて果肉はただれおち、

日にうつりうなだれるとき、

命のない、けれど幸福なる影は蟲のやうに這(は)ふ。

 

[やぶちゃん注:「瓣」「はなびら」。]

大手拓次 「くさむらよ!」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 くさむらよ!

 

白い指をつたはつて、

にほひ深い情趣のなかに縫ひこまれる

さらさらとして、くすぐつたい少女の髮の毛ょ、

わたしの指の腹を撫でてうごき、

わたしの指の背と爪とをさすつてすぎゆく、

やはらかい、そして永劫の粗野をふくんでゐる感じやすい髮のくさむらょ、

その髮のひとすぢの觸れるごとに、

からだをながれる夕暮の心は

とぼとぼと木(こ)の閒(ま)がくれに顏をあかめつつ步みはじめる。

 

[やぶちゃん注:「閒」は詩集「藍色の蟇」での用字に従った。]

2023/04/19

畔田翠山「水族志」 アブラダヒ (スズメダイ(✕)→フエダイ(○))

(二五)

アブラダヒ 一名アブラ魚【紀州田邊】

形狀棘鬣ニ似テ濶厚鱗淡褐色ニシテ淺黒色ヲ帶背紅紫褐色腹白色腹上淡褐色ニ乄淡紅ヲ帶脇翅ノ前後底ニ藍色ヲ帶眼淡黑色ニ乄紅斑アリ瞳藍黑色腹下翅刺白色ヲ帶餘ハ紅黃色脇翅長ク紅黃色背鬣本淡黑斑アリテ端淡紅黃色尾棘鬣ノ如ク岐少シ淺ク本淡黑條縱ニアリテ端紅黃色其少ナル者二三寸腰ニ白星㸃一ツアリ腮ヨリ尾ニ至リ淡紅色ノ條アリテ條ノ邊藍色ヲ帶背灰褐色腹白色

○やぶちゃんの書き下し文

あぶらだひ 一名「あぶら魚」【紀州田邊。】。

形狀、棘鬣(まだひ)に似て、濶(ひろ)く厚し。鱗(うろこ)、淡褐色にして、淺黒色を帶ぶ。背、紅紫褐色。腹、白色。腹の上、淡褐色にして、淡紅を帶ぶ。脇翅(わきびれ)の前後の底に藍色を帶ぶ。眼、淡黑色にして紅斑あり。瞳(ひとみ)、藍黑色。腹の下、翅(ひれ)・刺(とげ)、白色を帶ぶ。餘(よ)は紅黃色。脇翅(わきびれ)、長く、紅黃色。背鬣(せびれ)、本(もと)は淡黑、斑(まだら)ありて、端(はし)、淡紅黃色、尾、棘鬣(まだい)のごとく、岐(き)、少し淺く、本(もと)は淡黑。條(じやう)、縱(たて)にありて、端(はし)、紅黃色。其の少(ちひさ)なる者、二、三寸。腰に白星(しろぼし)の㸃、一つあり。腮(あぎと)より、尾に至り、淡紅色の條ありて、條の邊(あたり)、藍色を帶ぶ。背、灰褐色。腹、白色。

[やぶちゃん注:宇井縫蔵氏は「紀州魚譜」で三箇所に、この方言異名である「アブラウヲ」を出している(分類と学名は現行のものを示す。丸括弧は宇井氏の「方言」の「アブラウヲ」の場所)。まずはここで、

スズキ目スズキ亜目カワビシャ科テングダイ属テングダイ属テングダイ Evistias acutirostris (田辺)

次に、ここで、

スズキ亜目ハタ科キハッソク亜科ルリハタ属ルリハタ Aulacocephalus temmincki(田辺・周参見)

最後はここで、

スズキ亜目チョウチョウウオ科チョウチョウウオ属シラコダイ Chaetodon nippon(田辺)

である。しかし、以上の叙述と一致する種は、私には認められない。されば、これらの種の孰れかではないと私は退ける

 しかし、現行の「アブラウオ」の方言名の魚類を調べたが、やはり形状の一致する種を私は見出せなかった。そもそも畔田の叙述は、今までの各魚の叙述をご覧になって判る通り、一見、どの項でも色や形状を細かく記しているのだが、何となく、皆、似たような感じを与えてしまう点で、甚だ悩ましいものなのである。特に彼の悪い癖は、すぐに、「棘鬣(まだひ)に似て」という表現を連発する点で、これは寧ろ、無視した方が無難である。では、この場合、絞り込み可能な特異点はどこかと言えば、お判りの通り、「腰に白星(しろぼし)の、一つあり。腮(あぎと)より、尾に至り、淡紅色の條ありて、條の邊(あたり)、藍色を帶ぶ」という特徴である。まず、この「腰の白星」で探してみた。すると、目がとまったのは、

スズキ目ベラ亜目スズメダイ科スズメダイ亜科スズメダイ属スズメダイChromis notatus notatus

であった。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見られたいが、体長は十センチメートル『前後』で『側扁する(左右に平たい)。くすんだ色合いで黒っぽく見える。鱗が大きい。生きているときや』、『鮮度のいいときには』、『背鰭の後ろの白い小さな斑紋が光って見える』とある。これはまさに「白星」である。しかし、「体色が地味過ぎて、叙述に合わない。」とされる御仁もあろう。だが、例えば、ブログ「美しい海が永遠でありますように」の「スズメダイ Chromis notatus」を見られたいが、本種の生体個体は、かなり色彩的には美しいのである。しかも畔田が盛んに「紅黃色」と指示するのと、本種のこの画像はよく一致するのである。さらに言えば、畔田が、わざわざ、「其の少(ちひさ)なる者、二、三寸」と述べているのは、大型成体が、それほど大きくないことを意味している点で、やはり合うように思うのである。比定に疑義のある方は、是非、相応しい別種を指示されたい。【二〇二四年五月二十六日追記】四日前、Xの「DECO」氏より、以下の投稿を頂戴した。

   《引用開始》

突然の無礼申し訳ありません
魚の語源を調べる事を趣味としている者です
イソダヒ・アブラダヒについてですが、釣りではフエダイの事をシブダイとかシロテンとか言いますが、「アブラダイ」という人もいます
アブラダヒはフエダイではないでしょうか
またイソダヒはゴマフエダイだと推察してます

   《引用終了》

「イソダヒ」の方は、先ほど、比定後候補を「DECO」氏の指摘に従い、アカマンボウからゴマフエダイへ修正したが、こちらの「アブラダヒ」は元より、以上の迂遠な私の自信のない注で暴露されているように、スズメダイ比定にはもともと自信がなかった。而して、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のフエダイを見るに、畔田の解説は九割方(何より腰の「白星」だ!)、一致すると言ってよいことが判った。私の見当違いの注は、戒めとして残しておく。なお、孤独な私の記事に指摘を下さった「DECO」氏に心から御礼申し上げるものである。

佐々木喜善「聽耳草紙」 四四番 御箆大明神

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。この標題の「御箆」は本文にも「ちくま文庫」版にもルビがない。本文中での、使用法から、所謂「へら」で、竹・木・象牙・金属などを細長く薄く平らに削り、先端を少し尖らせた、或いは、平たく薄めにした道具で、布や紙に折り目や印をつけ、又は、物を練ったり、塗ったりするのに用いるそれである。されば、「おんへらだいみやうじん」と読んでおく。或いは「おへら」かも知れない。]

 

      四四番 御箆大明神

 

 或所に大法螺吹きがあつた。あまり僞言(ボカ)ばかり吐き步くものだから、世間では誰も相手にする者がなくなつて、ひどく貧乏になつた。法螺吹きもその事にやつと氣がついて、これは不可(イケ)ない。俺も何とかして世間並の付合ひが出來るやうにならなくてはいけないと思つて、改心して、村の觀音堂へ行つて、七日七夜のお籠りをした。そしてどうぞ觀音樣もうし、俺を世間並の眞人間にしてクナさいと願つた。

 一夜二夜三夜とお籠りをして、七日七夜の滿願の日の朝になつたけれども、別段これぞと云ふ靈驗(シナシ)もなかつた。そこで少々向つ腹で、ぶらぶらと御堂の前坂を下《お》りて來ると、偶然に鳥居の下に赤い小箆《こべら》が一丁落ちて居た。ぜえツこんな物かと思つたけれども、いやいやこれでも何かの役に立つこともあるかと、それを拾つて、ふところに入れて、又ぶらぶらと廣い野中を步いて行つた。すると急に裏心がさして來たので、路傍の藪蔭に入つた。そして用をすませてから何かないかなアと思つて、腰のあたりを探ると、先刻《さつき》の小箆に手が觸れた。仕方がないからそれで尻を拭いた。するとお臀《しり》がいきなりこんな調子で鳴り出した。[やぶちゃん注:「裏心」にはルビがなく、「ちくま文庫」でも振られていない。普通なら、「うらごころ」と読むところだが、実は「心」自体も「うら」と読む。従って、私はここは「うらががさして來た」ではないかと考えた。「心(うら)」は一般的には、「うら悲し」「うら淋し」「うら荒(さ)ぶ」等のように、形容詞・動詞に付いて、本来は、「心の中で・心の底から」の意を表わし、さらに。その意が弱まって、「何ということなく・何とはわからず・おのずからそのように感じられる」の意を表わす。されば、ここはシチュエーションから「何となく、便意を催して、何んとも我慢出来ずなった」ことを言っているものと判断した。]

   オツポコ

   コツポコ

   すツてンねンジン

   白樂源治のさんがんか

   淸水觀音の六角堂の

   鳴らば鳴れ鳴れ

   タケツ

   シツチリ

   四五六ろツパイ

   ガタビチ

   ガタビチ

 法螺吹きはひどく魂消《たまげ》てしまつた。これはことだ。ナゾにするこつたでエやい、と思つたがどうすることも出來なかつた。閉口して呆氣《あつけ》にとられて其の箆を見ると、其の箆は片面が朱塗りで片面は黑塗りであつた。これには何か譯があることだべと思つて、今自分が拭いた赤い方ではなく、裏の黑い方でテラリと撫でて見ると[やぶちゃん注:自分の「尻」を撫でたのである。]、今迄の大變な鳴り音がピツタリと止まつてしまつた。フフンこれは成程面白いものだと思つた。

 法螺吹きどのは、それを持つてぶらぶらと町の方へ行つた。すると町端《まちはづ》れにジヨヤク馬(雌馬)が一匹、ざアざアと小便をして居た。そこで試みに其の小箆で、テラツと馬の尻を撫でてみる。と、案に違はず、

   オツポコ

   コツポコ

   すツてンねンジン

 とそれが馬の尻であれば尙更どえらい音を出して鳴り渡つた。小店前《こみせまへ》に腰をかけて、辨當の蕎麥燒餅を食つて居た馬主《うまぬし》は、飛び上つて魂消て、ああこの馬が何(ナン)に憑《つ》かれたべやい。事なことア起つた、山伏法印樣さ行つて來なくてはならぬと、大騷ぎで狼狽(アワ)て出した。そこで法螺吹きは、何これしきの事でさう騷ぎなさんな、俺が直してやるからと云つて、蔭へ廻つて、例の小箆の裏の方でテラリと撫でると、ぴたツとその大きな鳴音《なりね》が止まつた。馬主はひどく喜んで、法螺吹きに酒を買つてお禮をした。法螺吹きはますますこれはいゝ物だと喜んで家に歸つた。

 法螺吹きと同じ村の長者どんに美しい娘があつた。法螺吹きは、かねて其の娘に惚れていたが、言ひかける折りが無くて、愁へて居た。そして何とかして娘の聟殿になりたいものだと常に考へて居た。

 そこで或る夜、長者どんの雪隱《せつちん》に忍び入つて匿れて居ると娘が小走りで入つて來た。法螺吹きは待ちかねて居たので、物蔭からそろりと出て、娘の白い尻を小箆でテラリと撫でた。するといきなり

   オツポコ

   コツポコ

   すツてンねンジン

   ガタビチ

   ガタビチ

 と鳴り出した。娘はひどく魂消て、おいおいと泣いて奧の座敷に駈け込んだ。それから娘の鳴物《なりもの》が一向止め度《ど》なく夜晝さう鳴り續けるので、お笑止(カシ)がつて、靑くなつて、座敷から一向出ハらなくなつた。長者どんではそれで大騷ぎが持ち上つた。型通り醫者よ法者よと呼び寄せて手を代へ品を代へ療治をして見たけれども、何の甲斐もなかつた。仕方がないから門前に高札を立てゝ、此家の一人娘の不思議な病氣を直した者には、何でも望み次第と云ふ文句を書きつけた。

 其の立札を見て、日々每日(ヒニチマイニチ)、俺こそ、俺こそと云つて、いろいろな人がやつて來たが、誰一人として滿足に行(ヤ)つた者がなかつた。一家親類が寄り集まつて、顏を集めて靑息ばかり吐いて居た。其所へ法螺吹きが行つた。そして俺は表の高札の文句の事で來たのだが、娘樣の病氣を直して見せると云つた。長者どんでは、來る者來る者必度(キツト)さうフレ込んで來るので、またかと宛(アテ)にもしなかつたが、表の高札の手前もあるものだから、ともかくも、そんだらと云つて、法螺吹きを奧座敷に通した。

 法螺吹きが奧座敷へ通《とほ》つて見ると、あたりに金屛風を立て廻《まは》し、大勢の法印や醫者どもが詰めかけて、皆靑い面をして居た。そして俺達でさへ此の病氣は直せぬものを、お前の樣な素人になんで直せるもんかと、云ふ顏をして、じろじろ見るのであつた。その態(サマ)を見ると可笑《をか》しくてならなかつたが、我慢をして、娘の側に摺《す》り寄つた。そして周圍にさらりと屛風を立て廻させて、何所からも見えなくして置いて、娘の小さい尻を、小箆でテラリと撫でた。すると今迄あんなに大鳴りをして居つたものが、蓋をしたやうに、ぱたツと止まつてしまつた。娘は、あれやツ、おら直つたツと云つて、踊を踊つて奧座敷から駈け出した。長者どん夫婦も大喜びで、お蔭樣だ、お蔭樣だと云つて小踊りをした。其所に控ひて[やぶちゃん注:ママ。]居た者は面目玉《めんぼくだま》をつぶしてしまつて、こそこそと何時《いつ》の間にか、皆逃げて居なくなつて居た。

 斯《か》う云ふ譯で、法螺吹き男は遂に長者どんの聟殿となつて、えらい出世をした。それも何もかにも其の小箆のお蔭だと謂ふので、後でそれを神樣に祀つて、御箆大明神樣と申し上げた。

 (二番同斷の五。)

此の話は拙著、紫波《しは》郡昔話の中の(九九)にも朱塗小箆、もんぢやの吉片[やぶちゃん注:ママ。]噺《ばなし》其の四、として其の類話を出して置いた。其の方の話では、法螺吹き男に當るのが、モンジヤの吉と云ふ博突打《ばくちう》ちになつて居《をり》、石地藏樣と博打をして朱塗小箆を取ることになつて居る。そして娘の尻の鳴り樣《やう》も違ふ。これも人によつて態々《さまざま》に聽き覺えて居るたうである。私の母の語るのを聽くと、

   ヒツチコ

   ケエツチコ

   トンゲエヂイ

   あひうちうちの團扇は

   淸水觀音の御夢想だ

   ドツチビチ

   ドツチビチ

 と鳴つたと云ひ、又村の野崎の佐々木長九郞と云ふ爺樣のは、斯う語つて居た。

   ぶりつぶウつ大佛

   スツポンベエチ

   淸水ノ觀音堂の

   六角堂の太鼓の皮にも

   鳴らば鳴レ

   鳴らば鳴レ

   さくらくデツチの三貫かェ

   ゴフクヤミにア

   こツたんない

   はくらくデツチのデツチデツチ

   ドフンドフン

 又村の大洞犬松爺樣の話では、

   淸水觀音ヤ

   すてビんのウ

   どんがらやいッ

   どんがらやいッ

   ベツチコ

   ヘツチコ

 と鳴つたと謂ふ。私の「紫波郡昔話」(參照)

[やぶちゃん注:今回の附記は非常に長く、底本通りのポイント落ち全体二字下げで示すと、非常に読み難くなるので、ポイントを落とさず、引き上げて示した。なお、そこで示された佐々木の「紫波郡昔話」の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションのここから視認出来る。但し、標題は『(九九) 朱塗小箆(もんぢやの吉噺其四)』である(附記の「片」は衍字とも、ちょっとした話ということで「片噺」と佐々木が言い換えた可能性もある)。なお、その附記に出る旧紫波郡内の地名「野崎」「大洞」の読みは判らず、「ひなたGPS」で調べたが、旧紫波郡は広域に過ぎ、私の視力では探すのには無理があり、諦めた結果、位置も判明しなかった。

 また、作中に出る囃子のようなものの意味はよく判らない。そもそも「村」が特定されていないから、「村の觀音堂」も判らない。原ソースは遠野での採話だが、だからといって、遠野に限ることは出来ないからである。されば、その妖しい囃子に出る固有名詞なども注は附けられなかった。悪しからず。

「二番同斷の五」「觀音の申子」と同じソースで、そちらの附記には、『遠野町、小笠原金藏と云ふ人の話として松田龜太郞氏の御報告の一。大正九年の冬の採集の分。』とある。]

大手拓次 「五月の姉さんへ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 五月の姉さんヘ

 

わたしの好きな五月の姉さん、

せうせうお待ちください、

あなたのおみやげをよろこんで拜見いたしますから。

さつぱりとした五月の姉さん、

おわらひにならないで、

わたしの妙な物言ひぶりをごらんください。

おお もうあなたはお口のあたりに微笑をたたへていらつしやる。

わたしはいま、あさみどりのふくろから いろいろの物をとりだしました。

そつとわたしの手につかんだのは

やはらかな それでゐてしやんとした白いつつじの男花、

それから 手のひらにのせてみたのは

あをい木蔦(きづた)にからまれた眞珠のやうなマアブルのきざみ像、

サイネリアと、あやしい吸枝(きふし)をふくらませる黃色い蘭の大輪の花、

それから すつとわたしの指にふれてなまめいたのは

わかい女の人たちのよくゆめにみるチユウリツプ、

またにやにやとうすわらひするのは

毛むくぢやらな室咲(むろさ)きのイスピシア、

おとなしくわたしの手にだかれたのは

おもはゆいやうな顏をした淡紅色(ときいろ)のばらの花、

そのあとにおともしたのがヒアシンスの紫の花、

ああうれしい、わたしの好きな五月の姉さん、

あさみどりのふくろからまだころびでるのはなんだらう、

水色と紺との羽根をはやし すいすいととぶ銀とんぼ、

ぱらぱらとまくやうにおちてくるのは

さくらんぼ、いちごやぐみの漿果(このみ)のあられ、

夜(よる)と晝とをからみつける

うすくらがりの沈丁花、

くらい樹立(こだち)にまようてゆく隱し兒のやうないぢらしい

野のあらそだちの白い小花の名無し草、

ああ だれもみんなおいで、

わたしはお前たちをみんな抱いてやる、

さうしてかはいがつてやりませう、

ひとりごと言ひながらはしやいでをりますと、

いつとはなしに

しめつぽい雨がふる、

閒遠に屋根をうつひつそりかんとした雨が

五月の姉さんの背中をはつてゆく。

わたしの好きな五月の姉さん、

五月はゆめをみる月です、

黃色い花や白い花がみじまひをして

たちうちをする男こひしい闇の月。

 

[やぶちゃん注:この詩、妙に私は惹かれる。太字は底本では傍点「﹅」。「姉」には「姊」の異体字があるが、「閒」とともに、詩集「藍色の蟇」での用字に従った。「姉さん」は私は「ねえさん」と読んでいる。「あねさん」では、ヤクザの舎弟みたようで、気持ちが悪いから。

「つつじの男花」「男花」は「雄花」で「をばな」、双子葉植物綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属 Rhododendron の合弁花の雄蕊(おしべ)部分。なお、僕らはよく、花を摘んでその花弁元を吸ったものだが、ツツジ科 Ericaceaeの全種の全草に有毒なグラヤノトキシン(Grayanotoxin)を持っている。これは細胞膜上のナトリウム・イオンチャネルに結合し、興奮と膜電位の変調を継続させ、カルシウム・イオンを流入させるため、骨格筋や心筋の収縮を強めたり、迷走神経を刺激した後に麻痺させる作用も持っており、蜜にも含まれる。ツツジ由来の蜂蜜から検出されることがあり、蜂蜜店では、よく小児向けの注意喚起があるのはご存知であろう。この毒性は、古くから知られており、古代ローマの博物学者プリニウスが、既に、ツツジ属Rhododendronの蜜由来の蜂蜜による中毒例を記録している(この毒性についてはウィキの「グラヤノトキシン」を参照した)。

「木蔦(きづた)」セリ目ウコギ科 Aralioideae亜科キヅタ属キヅタ Hedera rhombea 。常緑蔓性木本。落葉性の蔦(ブドウ目ブドウ科 Vitaceae)と異なり、常緑性で、冬でも葉が見られるので「フユヅタ」(冬蔦)の別名がある(当該ウィキに拠った)。

「マアブル」marble。大理石。

「サイネリア」キク亜綱キク目キク科キク亜科ペリカリス属シネラリア Pericallis × hybrida。北アフリカ・カナリヤ諸島原産。冬から早春にかけて開花、品種が多く、花の色も白・靑・ピンクなど多彩。別名フウキギク(富貴菊)・フキザクラ(富貴桜)。英名を“Florist's Cineraria”と言い、現在、園芸店などで「サイネリア」と表示されるのは、英語の原音「シネラリア」が「死ね」に通じることから忌まれるためである。しかし乍ら、“Cineraria”という語自体が“cinerarium”、実に「納骨所」の複数形であるから、“Florist's Cineraria”とは英名自体が「花屋の墓場」という「死の意味」なのである――余りに美しすぎて他の花が売れなくなるからか?  グーグル画像検索「Cineraria」をリンクさせておく。拓次は詩集「藍色の蟇」の「香料の顏寄せ」に「うづをまくシネラリヤのくさつた香料、」と登場させている。

「吸枝(きふし)」植物学・園芸用語。英語では“sucker”(サッカー)或いは“Primocane”(プライモーケン)と称し、植物の根元や地下茎から生えだす枝を指す(時に切り株や幹・枝から出る不要な枝についてもかく呼ぶ)。植物本体から栄養を奪うことから、除去の対象となることが多い。

「蘭」単子葉植物綱キジカクシ(雉隠し)目ラン科 Orchidaceae

「チユウリツプ」単子葉植物綱ユリ目ユリ科チューリップ属 Tulipa

「室咲(むろさ)き」温室咲き。

「イスピシア」単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科イキシア属 Ixia のことか(タイプ種はIxia polystachya )。総て南アフリカ、特にケープタウン付近が原産。花は当該ウィキを参照されたい。

「ばら」バラ目バラ科バラ属 Rosa

「ヒアシンス」キジカクシ目キジカクシ科ツルボ亜科ヒヤシンス連ヒヤシンス亜連ヒヤシンス属ヒヤシンス Hyacinthus orientalis

「銀とんぼ」蜻蛉(トンボ)目不均翅(トンボ)亜目ヤンマ科ギンヤンマ属ギンヤンマ亜種(東アジア産)Anax parthenope julius

「さくらんぼ」本邦では、ヨーロッパ・北西アフリカ・西アジアに自生するバラ亜綱バラ科サクラ亜科サクラ属サクラ亜属セイヨウミザクラ(西洋実桜)Prunus avium の果実を指す。

「いちご」狭義には栽培種であるバラ科バラ亜科オランダイチゴ属オランダイチゴ Fragaria × ananassa を指すが、広義にはオランダイチゴ属 Fragaria 全体を指す。移入は明治以降。

「ぐみ」バラグミ科グミ属 Elaeagnus の総称で、ここはその果実。漢字表記は「胡頽子」で、「ぐみ」は大和言葉である。本邦では十数種がある。当該ウィキによれば、『方言名に「グイミ」がある』。「グイ」は「とげ」(刺)の意、「ミ」は「実」を指し、『これが縮まってグミとなったといわれる。その他』、『中国地方ではビービー、ブイブイ、ゴブなどとも呼ばれている』とあった。

「沈丁花」フトモモ(蒲桃)目ジンチョウゲ科ジンチョウゲ属ジンチョウゲ Daphne odora 。]

2023/04/18

大手拓次 「ちらちら見える死」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 ちらちら見える死

 

罪のをとめは思ふことなく、知ることなく、

ながれ去る海路(うみぢ)をゆけば、

ただ、かろくとびかふ白い鳥がゐる。

うづまきをしてもえる狂氣は

靑白い館(やかた)のなかにうなだれて

ちらちら見える死にあそばされる。

 

只野真葛 むかしばなし (59)

 

一、片山東藏と云(いふ)、徂徠學者の先生、有(あり)し。父樣、十六、七より、御懇意と被ㇾ仰し。同年の人なり。正身(しやうしん)は、かたけれども、學流故、弟子は、ほうらつ人(にん)、多し。長庵を、はじめには物讀(ものよみ)につかはされしが、後、服部、隣(となり)へ、こしてより、隣のかたへ、遣(つかは)されし。今の四郞左衞門樣、此先生の弟子なりし。

 此先生の、わか盛(ざかり)の事とぞ【十八にて、先生に成(なれり)。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]。麹町、住居(すまひ)なり。

 折も折、時も時とて、麹町に富家(ふか)といはるゝが、十軒ばかり、親なくて、むだ金、遣ふ人ありし、となり。年は、廿四、五から三十までの間なるべし。金に飽(あき)して、遊んでも、吉原にては、藏前者(くらまへもの)の方(はう)、もてる故、

「どうぞ、あれを、ふみたい。」

と、寄合(よりあひ)、寄合、談合することなりし。

 文盲がはやる世の中、どうしてか、其内、壱人(ひとり)、先生の弟子に成(なつ)て見た所が、殊の外、はやわかりなり。

「是は、おもしろい。」

と、其仲間中(うち)を弟子にして、學文にかゝり、眞黑に成て、はげみし程に、百日、半年と云(いふ)内、とんだ、

「ぴんぴん」

とした、口が、きれるやふ[やぶちゃん注:ママ。]になり、藏前の文盲てやい[やぶちゃん注:ママ。「手合ひ」。連中。者ども。]を、

「唐言葉(からことば)[やぶちゃん注:漢語。]で、おし付(つけ)ろ。」

と、一度に押(おし)ていつた所が、吉原者の、よつてつかれぬ言葉遣い[やぶちゃん注:ママ。]【其世には、物しり人(びと)をば、「おくかなし。」と恐れしなり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。「おくかなし」は「恐(おつ)かなし」。]、たいこ持・女郞共、

「めつたな事いつて、笑はれやうか。」

と爪をくう[やぶちゃん注:ママ。]故、押(おし)が聞(きき)だし、

「何でも、唐流(からりう)に仕(つままつり)やしやう。」

と云合(いひあは)せ、吉原ものが、きてみれば、唐机(からづくゑ)の上に、孔雀の羽根を飾り、四角な字を書散(かきちら)して有(ある)ゆへ、よいか、わるいか、知れず、藏前者の、めて[やぶちゃん注:「馬手」「右手」。「右に出る者」の意。]に成し事、有しとぞ。「先生にも、逢方(あひかた)無くては。」

とて、寄合て、晝三(ちうさん)を揚(あげ)てやり、花々(はなばな)しき遊びなりし、とぞ。

 さるたのしみも、つきる時節、來り、あそび仲間一統に、たから、乏しく成し時、各々、橫根・べんどくのうれい[やぶちゃん注:ママ。]となり、むごきや、先生は、おせう番[やぶちゃん注:「御相伴(おしやうばん)」。]に、色に、はまり、瘡《かさ》は、かく、暮し方も、ならぬていで有しを、父樣、壹年ばかり、手前へ御引取(おひきとり)、療治被ㇾ成(なられて)て、御遣(おつかは)し、となり。

 母樣、御咄(おはなし)に、

「誠の『かた山』にて有し。壹年餘(あまり)もゐし内、終(つひ)に、袴(はかま)とりしを見ず。」

と被ㇾ仰し。

[やぶちゃん注:「片山東藏」不詳。真葛の父工藤平助と同年とあるので、生まれは享保一九(一七三四)年となる。

「徂徠學者」古文辞学派の儒者荻生徂徠(寛文六(一六六六)年~享保一三(一七二八)年)の思想を受け継ぐ蘐園(けんえん)学派の学者(徂徠は、後年、日本橋茅場町で私塾「蘐園塾」(地名の「茅」の異体字が「蘐」)の地に居を構えて子弟に講義したことにから、その門流をかく称した)。徂徠のそれは、基本に政治社会に対する有用性を据えた政治社会の現実的統一と安定性を保持した「経世済民」の儒学であり、具体的には歴史的実証的態度が認められるものの、その最終的な理想の核心には真の聖人への絶対的信奉があったとされる。

「學流故、弟子は、ほうらつ人」「ほうらつ」は「放埒」。原義は「勝手気儘でしまりのないこと」だが、転じて、「身持ちの悪いこと・酒色に耽ること」の意もある。東蔵は両義を生きたと言えよう。徂徠自身も、自負心が異常に強く、本邦の儒学の主流であった朱子学を徹底的に批判し(朱熹は本来の中国の古文字学を全く知らないとまで言い放っている)、敵も多かった。

「長庵」何度も出ている、真葛の弟で、長男であった長庵元保(幼名は安太郎。七草名「藤袴」。真葛より二歳下)。才知に富んだ神童であったが、二十二歳で早逝した。

「服部」既出既注の、平助が漢学を学んだ儒者服部栗斎(元文元(一七三六)年~寛政一二(一八〇〇)年)であろう。名は保命(「やすのり」か)で、通称は善蔵である。平助の師ではあるが、平助より二歳年下である。上総飯野藩の飛地摂津浜村(大阪府豊中市)で藩士服部梅圃の子として生まれた。若くして大坂の五井蘭洲に師事、中小姓として勤仕してからは、主に久米訂斎ら崎門(きもん)派の儒者に教えを受け、江戸では村士玉水に兄事した主君保科正富と、その子正率(まさのり)に書を講じたが、正率に疎まれ、三十八で致仕し、浪人中は築地の家塾信古堂に教えた(ここが平助の家に近かった)。寛政三(一七九一)年、幕府は学問所の直轄教授所を深川・麻布・麹町に設置したが、特に才を認められ、栗斎は麹町教授所の長を命ぜられた。崎門派の朱子学者であったが、字義・文義を抜きにして理を説きがちな崎門末流には批判的で、詩文に遊ぶ雅人でもあった(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「今の四郞左衞門」「今の」と言っているので、父平助の長兄の子孫か。

「藏前者」「日本庶民生活史料集成」の中山栄子氏の、この本文の後ろの方に出ている「藏前の文盲てやい」への注で、『倉前は今もその名が残っているが』(現在の東京都台東区蔵前のこと)、『雷門の南から須賀橋に至る場所』(この中央附近。グーグル・マップ・データ)『に幕府の米蔵があり、その差札の役をした人々は金持』ち『ではあるが』、『無学文盲の連中ばかりであった』とある。

「もてる」言わずもがなだが、「女に人気がある」の意。

「ふみたい」「踏みたい」。「一つ、同じ境遇を体験したいもんだ」の意であろう。

「唐言葉」ウィキの「荻生徂徠」によれば、『徂徠は、古代中国の古典を読み解く方法論としての古文辞学(蘐園学派』は『日本の儒教学派においては古学に分類される)を確立した』。彼自身、強い『支那趣味を持ち、文学や音楽を好んだ徂徠は、漢籍を読む』際にも『訓読』を『せず、元の発音のまま読むことによって本来の意味が復元できると考えた』とあるので、この片山東蔵も、漢語には、取り分けて通暁していたであろう。

「爪をくう」「爪を銜へる」と同義。「気おくれしてはにかみ、もじもじすることを言う。

「晝三」現代仮名遣「ちゅうさん」で、昼夜に於いて、それぞれの揚げ代が「三分」であったところに由来する、江戸新吉原での遊女の階級の一つの名、或いは、その遊女を指す。宝暦(一七五一年~一七六四年)以降は、最高の階級となった。

「橫根・べんどく」両足の付け根のリンパ節が炎症を起こして腫れる症状を言う。梅毒など性病が原因で起こるものが多い。便毒・横痃 (おうげん)

「瘡」通常は広く「皮膚のできもの、はれもの」を言うが、ここは梅毒の症状及び俗称を指す。

「誠の『かた山』にて有し」「肩山」は「和服の前身頃 (まえみごろ) と、後身頃の、肩での境目」を言うが、ここは、そうした、見分けのちゃんとした服を着たことがないことを、姓の「片山」に洒落て言ったもの。]

譚海 卷之五 上古卜部亀卜の事

 

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。標題は「上古(じやうこ)卜部(うらべ)亀卜(きぼく)の事」と読む。]

 

○本朝にて、上古、卜部の龜卜を用られしには、對馬の人、その事に召かゝヘられたる事、今の「義解」にも、みえたり。今なほ、對馬には、古の龜トの法を傳へたる家、二軒有(あり)、社人にて、世々、子孫、是をつたへ、神祕として、ほかにもらさず、甚(はなはだ)龜卜の事、功驗(こうげん)ありて、比類なき事なり。龜をやく「うらかた」も、上古のまゝに殘りたり、とぞ。對州(つしう)の儒者兩伯陽といふもの、はじめは信ぜざりしが、功驗を見て感服せし、とぞ。また、豐前宇佐八幡宮の社家にも、龜卜の法を傳へたるあり、享保年中、江戶へ召せられ、上覽ありし事也。當時、吉田家につたへたるは、龜卜の甲の形に、紙をきりて置(おき)、かたはらにて、香を焚(たき)、其煙(けむり)の、紙に燋(せう)ずるをもつて、吉凶をさだむる事也。其かたばかりを行(おこなひ)て、甚しき驗は、なし、對馬に殘りたるは、誠に上古の傳にして、吉凶を、たがへず、めづらしきことなりとぞ。

[やぶちゃん注:底本の竹内利美氏の注に、『対馬には』中国伝来の古式の正統な『それがたまたま伝承されていた』とある。「長崎新聞」公式サイト内の「亀卜神事で吉凶占う」と冒頭題とした二〇一九年二月八日附の記事に、『長崎県対馬市厳原町豆酘(つつ)の雷神(いかづち)社で』七『日、焼いた亀の甲羅の色やひび割れで一年の吉凶を占う亀卜(きぼく)神事「サンゾーロー祭」があった。今年の豆酘地区は「吉」、対馬全体については「水産業 良」「経済 上々」「農業 平年作」「天候 並」という結果が示された』。『亀卜神事の占いは、古くから地元の岩佐家が世襲している。江戸時代の対馬藩では、政治動向や天変地異などを占う重要な行事と位置付けられ、毎年旧正月』三『日に古式にのっとって執り行われている』。『占いを担う「卜者(ぼくしゃ)」は』、第六十九『代目の岩佐教治さん』(六十七歳)『だが、病気療養中のため』、二〇一〇『年から』甥『の会社員』で福岡市在住の『土脇博隆さん』(三十八歳)『が務めている』。『神事には地元住民ら約』三十『人が参列。神殿に酒や米、塩などを供えた。土脇さんは「トホカミエミタメ」と』、三『度唱えた後、火鉢であぶった桜の木を六角形をしたアカウミガメの甲羅の一片に押し当てた。占いの結果は、土脇さんが筆で半紙にしたためた』。『神事の後、住民はたき火を囲み、「おー、サンゾーロー」と祝言を唱えた』。『土脇さんは「昨年と比べ、全体的に良い占いができた。対馬の大事な神事として、地元の方と一緒に継続していきたい」と話した』とあった。今も正しく受け継がれているのである。

「紙に燋ずるをもつて」煙で生じた焦げ或いは変色した痕(あと)を以って。]

譚海 卷之五 武藏野幷ほりかねの井の事

 

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]

○武藏野の跡、殘りたる所は、江戶靑山より、稻毛(いなげ)の方へ、六里ばかり行(ゆく)時は、玉川に至る、川の前後、今に廣野にして、萩・薄、おほし、このあたり、それ也。四谷より高井戶道中に出る所も曠野(ひろの)あり、これも稻毛につゞきて、「武藏野」といへり。又、川越より八王寺へゆく間、三、四里、曠野にして、「武藏野」といひつたふ。是は、誠に人家もなく、むかしのまゝなるものと、おもはるゝとぞ。その道に「ほりかねの井」といふ物あり、大きなる井にて、摺鉢の如く、内ヘ、すぼく、外へ、廣く、地中へ掘入《ほりいれ》たる事、壹丈餘(あまり)にみゆる井なり、むかしは、水をくむ所まで、はるかに地中へくだりて、汲《くみ》たる事と見えたり。今は井、埋(うづ)もれて、落葉・あくたなどに、夫(それ)ともみえず、その井の面影のみ殘りてある事とぞ。

[やぶちゃん注:「稻毛」これは示された距離と「玉川」から、現在の多摩地域南部に位置する東京都稲城市(いなぎし)のことである。この地域は中世に稲毛氏(平安時代に支配していた小山田氏が鎌倉時代に改姓して稲毛氏を名乗った)の所領であった。

「ほりかねの井」中古より東国の歌枕として知られ、清少納言の「枕草子」にも載るが、八王子のそれは不詳。方角違いであるが、現在の埼玉県狭山市堀兼の堀兼神社の境内に「ほりかねの井」の伝承を持つ、その一つがあるがあって、ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)だが、「狭山市」公式サイト内の「指定文化財」の「堀兼之井」(跡)を読むに(写真有り)、『この井戸は北入曽にある七曲井』(ななまがりのい)『と同様に、いわゆる「ほりかねの井」の一つと考えられていますが、これを事実とすると、掘られた年代は平安時代までさかのぼることができます』。『井戸のかたわらに』二『基の石碑がありますが、左奥にあるのは宝永』五(一七〇八)年三『月に川越藩主の秋元喬知(あきもとたかとも)が、家臣の岩田彦助に命じて建てさせたものです。そこには、長らく不明であった「ほりかねの井」の所在を』、『この凹(おう)形の地としたこと』、『堀兼』とい地名は、「掘り難かった」と『いう意味であることなどが刻まれています。しかし、その最後の部分を見ると、これらは俗耳にしたがったまでで、確信に基づくものではないともあります。手前にある石碑は、天保』一三(一八四二)年『に堀金(兼)村名主の宮沢氏が建てたもので、清原宣明(きよはらのぶあき)の漢詩が刻まれています』。『それでは、都の貴人や高僧に詠まれた「ほりかねの井」は、ここにある井戸を指すのでしょうか。神社の前を通る道が鎌倉街道の枝道であったことを考えると、旅人の便を図るために掘られたと思われますが、このことはすでに江戸時代から盛んに議論が交わされていたようで、江戸後期に』編纂された「新編武蔵風土記稿」(林述斎編・文政一一(一八二八)年成立)を『見ても「ほりかねの井」と称する井戸跡は各地に残っており、どれを実跡とするかは』、『定めがたいとあります。堀兼之井が後世の文人にもてはやされるようになったのは、秋元喬知が宝永』五『年に石碑を建ててから以後のことと考えられます』とあった。この「七曲井」は埼玉県狭山市北入曽(きたいりそ)に跡がある。「江戸名所図会」(寛政期(一七八九年~一八〇一年)に編纂が始まったが、全冊の刊行は天保七(一八三六)年)の「卷之四 天權(てんけん)部」の「堀兼の井」には、先の堀兼村のそれを掲げ、「千載和歌集」を始めとして、最後に「枕草子」を引用、その後には、当地の土俗の言として「往古(そのかみ)日本武尊(やまとたてけるのみこと)東征のとき、武藏野、水、乏(とも)しく、諸軍、渴(かつ)に及びければ、尊(みこと)、民をしてここかしこに井を掘らしむるに、つひに水を得ざれば、龍神に命じて流れを引かしむる、となり【いまの不年越川(としこさずがは)あるいは入間川のことなりともいへり。】。』と記した後、「太平記」・「日光山紀行」を引きつつ、他の場所の「堀兼の井」(「堀」はママ)結果して、『堀兼の一所ならず』とし、畳み掛けて、『さればこの井一所に限るべからずといひて可ならんか』と結んでいる(本文は所持する「ちくま文芸文庫」版の本文を正字化して引いた)。]

大手拓次 「妖氣」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 妖 氣

 

赤い頭、黃金(こがね)の齒、

お前はわたしの子だ。

古い、しをん色に染めた木靴をはいて、

物事のあつまる病閒へ行く。

それでいいのだよ、

綠はけむりをはいてほろびる。

たましひは快い羽をつけてまひ立つ。

 

[やぶちゃん注:「しをん色」サイト「伝統色のいろは」のこちらで色が確認でき、そこには『紫苑色(しおんいろ)とは、紫苑の花の色のような少し青みのある薄い紫色のことです。紫苑はキク科シオン属』(キク目キク科キク亜科シオン連シオン属シオン Aster tataricus :和名異名には「ジュウゴヤソウ」(十五夜草)・「オモイグサ」(思い草)の他に、「オニノシコグサ」(鬼の醜草)という有難くないものもある。但し、これについては、小学館「日本国語大辞典」の「おにのしこぐさ」の「語誌」に『「万葉集」に見える「鬼乃(之)志許草(しこノシコぐさ)」(七二七』・『三〇六二)の「鬼」を』「オニ」『と読んだところから生じた語。元来は』、『不快や嫌悪を表わす』「シコ」『を重ねた「しこのしこ草」で』、『役立たずのいとわしい草の意』とする一方、『「俊頼髄脳」では親を失った兄弟の孝養譚を引いて紫苑の異名としている。その話は、兄は親の死を忘れるために墓に萱草(わすれぐさ)を植え、弟は忘れないために紫苑を植えたので』、『墓の屍をまもる鬼が弟の孝心に感じて予知夢を授けるというもの』としつつ、これは『他に龍胆(りんどう)』を指すと『する説もある』とあった)『の多年草で、古名を「のし」といい、平安時代には「しおに」とも呼ばれていました。秋には薄紫色の美しい花を咲かせることから、古くからとても愛されており、紫苑色の色名はその可憐な花の色からきています』。『紫苑色は、紫根で染めて椿の灰汁で媒染した物。特に紫を賛美した平安期に愛好され、秋に着用されていました。『源氏物語』などの王朝文学にも「紫苑の織物」「紫苑の袿(うちぎ)」「紫苑の指貫」などと』、『たびたび登場します。重(かさね)』(襲)『の色目(いろめ)としても秋を表わし、「表・薄色、裏・青」、「表・紫、裏・蘇芳」などの組み合わせがありました』とある。

「病閒」の「閒」は詩集「藍色の蟇」での用字に従った。]

大手拓次 「あゆみ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 あ ゆ み

 

神よ、うれふる心を抑へて

ひとつ、ひとつ醗酵してゆく、

緋の衣笠のしたに未知の世界をさすり、

よろめいてゐる足を泥地(どろち)のなかへいれる。

 

[やぶちゃん注:「緋の衣笠」「緋」にちょっと引っかかるが、この「衣笠」は、高山性の大きな独特の白い萼片を持つ単子葉植物綱ユリ亜綱ユリ目科メランチウム科 Melanthiaceaeキヌガサソウ(衣笠草)属キヌガサソウ Paris japonica か。同種のそれは、初めは白いが、芯にある本当の花(内花被片。糸状で目立たない)の開花した後に萼片部は紅紫色になるからである。当該ウィキを参照されたい。形状から、「未知の世界を」摩(さ)する幻想へ導く花となれば、これは、形状ともに違和感がなく、しっくりくるからである。他にバラ目バラ科サクラ属ヤマザクラ品種キヌガサ(衣笠) Cerasus jamasakura var. jamasakura ‘Kinugasa’があるが(サイト「桜図鑑」の同品種の画像を参照されたい)、同品種の花は薄紅色であり、如何にも「桜」であり、これといって、幻想性に必ずしも結びつかないもののように私には思われるし、別に知られた奇体なレース状の菌網(きんもう)を開くキノコに、なかなか普通には開いたところは見られない、竹林に多く植生する(私も嵯峨野で一度だけ見た)菌界担子菌門菌蕈(きんじん)亜門真正担子菌綱スッポンタケ目スッポンタケ科キヌガサタケ(衣笠茸)属Phallus(タイプ種キヌガサタケ Phallus indusiatus )等もあるが(同属の菌網(きんもう)部分は種によっては橙色や桃色になることがあるようである)、だったら、拓次は「衣笠」に「茸」を添えて三字で「きぬがさ」として、はっきりさせるように私には思われる(当該ウィキを見られたい。う~ん、幻想性からは、これは「群抜」と言え、一読、私が想起したのは、これなのだけれど)。……いや……それとも……これは――そのまま、素直にとるべきか?……天の羽衣の如く、天からぶら下っている、幻しの手弱女の上に差しかける絹を張った長柄の傘……或いは、女神の頭の上にある神々しい天蓋(てんがい)のそれを……漠然とイメージすればよいのかも知れぬ……大方の御叱正を俟つものである。]

大手拓次 「綠の締金 ――私の愛する詩人リリエンクローンヘ――」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 綠の締金

   ――私の愛する詩人リリエンクローンヘ――

 

葡萄の實をふくんだやうにすずしく、

おまへの唇がわたしの思ひでとなつて生きるとき、

太陽はきいろく、マルメロのやうにかをりはじめる。

太陽は上手な庭師のやうに樹樹(きぎ)に花をつけ、葉をつける。

かげをつくつて、そのしたにゆきどころのない憂鬱をあそばせる。

太陽は わたしの胸へ勿忘草(わすれなぐさ)の芽をうゑる。

おお おお よろこばしい黃色い太陽よ、

わたしはこのうすいろの帶についた綠の締金(しめがね)をかたくしめて、

ゆかうよ、堆肥(つみごえ)のあたたかく蒸(む)れる畑の隅へ、

ゆかうよ、ねむさうな眼をした牛がおたがひに顏をなめあつてゐるところへ。

 

[やぶちゃん注:「リリエンクローン」ドイツの詩人デトレフ・フォン・リーリエンクローン(Detlev von Liliencron 一八四四年~一九〇九年)。当該ウィキによれば、『キール出身』で、一八六六『年より軍隊に入り』、『普墺戦争』・『普仏戦争に従軍』し、『負傷』した。『軍隊を退いたあとは』、『一時』、『アメリカ合衆国に渡った。帰国後』、『プロイセンの官吏となり』、三十『代で詩作を始め』、「副官騎行」(Adjutantenritte:一八八三年刊)で『注目を集めた。軍人気質の実直さや』、『文学的な伝統にとらわれない感覚的な詩風で、印象主義の詩人として人気があった。劇作や小説も残している』とある。既電子化注の『大手拓次譯詩集「異國の香」 麥畑のなかの死(デトレフ・フォン・リーリエンクローン)』を参照されたい。

「マルメロ」漢字表記「榲桲」。バラ目バラ科シモツケ亜科ナシ連ナシ亜連マルメロ属マルメロ Cydonia oblonga。一属一種。ウィキの「マルメロ」によれば、中央アジアを原産とし、『果実は偽果で、熟した果実は明るい黄橙色で洋梨形をしており』、長さ七~十二センチ、幅六~九センチあり、『果実は緑色で灰色~白色の軟毛(大部分は熟す前に取れる)でおおわれている』。『果実は芳香があるが』、『強い酸味があり、硬い繊維質と石細胞のため生食はできないが、カリンと同じ要領で果実酒(カリン酒に似た、香りの良い果実酒になる)や蜂蜜漬け、ジャムなどが作れる』とある。江戸時代に既に渡来している。私の「耳嚢 巻之七 かくいつの妙藥の事」を参照されたい。

「勿忘草(わすれなぐさ)」シソ目ムラサキ科ワスレナグサ属 Myosotis の総称。和名シンワスレナグサ(真勿忘草)Myosotis scorpioides に与えられているものの、園芸界で「ワスレナグサ」として流通している種は、ノハラワスレナグサ Myosotis alpestris・エゾムラサキ Myosotis sylvatica、或いはそれらの種間交配種である。]

下島勳著「芥川龍之介の回想」より「古織部の角鉢」

 

[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載によれば、昭和一〇(一九三五)年九月二十五日発行の『茶わん』初出で、後の下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。

 著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た(但し、単行本刊行時期のため、正字と新字が混淆してはいるので、そこにはママ注記を入れた)。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。一部に注を挿入した。また、本篇にはルビが一切ないが、なくても概ね読めるが、一応、若い読者のために、ストイックに《 》で推定で歴史的仮名遣で読みを振った。]

 

古織部の角鉢

 

 鹽田力藏翁の著「陶磁器硏究」の資料として、芥川龍之介君所藏古織部の角鉢を撮影させて貰ふために、樂之軒だか北原君だかの代理として、私がその借り受けの役目を承はり、澄江堂へ出かけて行つたのは昭和二年のたしか四月の――ちようど[やぶちゃん注:ママ。]鵠沼から歸つてゐられたある日の午後であつた。

 客間の椽《えん》に將棋盤を据えて、ご老父と珍らしく戰ひの最中だつた芥川君に――豫《かね》てお話しておいた例の品を唯今拜借に出かけたのだが――といふと、これは如何なこと、いつもならば氣輕く應じてくれる筈の芥川君が突然、『先生――あんなものはさう大したものじやないんですよ。――北原大輔君はお世辞[やぶちゃん注:ママ。]に褒めてゐるので、決してあんなものを心からさう尊《たつと》く思つてゐるわけがないんです。何だか莫迦にされるような氣がするから、やめにして下さい』といふのである。

 私はオヤ今日はどうかしていゐるな――聊か意外な感に打たれたので――

 『僕は一體あの品がほんとう[やぶちゃん注:ママ。]ぬ良いか惡いか知らないが、北原君はその道の專門家で、現に帝室博物館の陶磁器主任ですよ。ほかのことならいざ知らず、苟《いやしく》も陶磁器についてお世辭を言ふやうな人物であるかどうかはわかつてゐられる筈だがな……』と、私の言葉の終るか了《をは》らぬうちに突然

 『おばあさんおばあさん』と、大きな聲で母堂を呼び、早速取り出して頂いたのは見覺えの古色蒼然どころか、頗る眞つくろけな箱であつた。

 そのとき冷然一瞥を與へた芥川君の眼が平穩に復したと見る間に、もう將棋盤の上を見つめてゐた。

 實をいふとこの頃の芥川君は、既に書畫や古器などには殆ど興味も執着も失はれてゐたぱかりか、甚だうるさいものに思つてゐたらしい――のみなちず、時に玩《もてあそ》ぶ人をさへ竊《ひそ》かに輕蔑してゐるのではないかと思はせることすらないではなかつた。だからあの刹那の言行もそんな悲しい現れの一端と見るべきではなからうか?

 一體この古織部の角鉢は、室生犀星君などもよく行つた團子坂上の古道具屋で買つたもので、佐藤春夫編「おもかけ」[やぶちゃん注:ママ。]の中の愛玩品の始めの頁に載つてゐる。その解說に「古織部角鉢。骨董屋の塵のなかゝら彼が自ら得たもの。」これは彼の最も自慢の品であつた。全集第六卷三六七ページ「わが家の古玩」にいふ「陶器もペルシヤ、ギリシヤ、ワコ、新羅、南京古赤繪、白高麗を藏すれども、古織部の角鉢の外は言ふに足らず」といつてゐるのがこれである。

 ……が、この自慢の愛器どころか、既に總てのものから執着の離れてゐた芥川君は、鹽田翁の著害の出版されないうちにあの世の人となつてしまつたのである。

    (昭和一〇・九・二五・茶わん)

[やぶちゃん注:『鹽田力藏翁の著「陶磁器硏究」』陶磁器研究家で美術評論家でもあった鹽田力藏(しほだりきざう 元治元(一八六四)年~昭和二一(一六四六)年:陸奥安達郡(後の福島県内)出身。福島師範を卒業後、岡倉天心の知遇を得て、東京美術学校(現在の東京芸大)で陶磁講座を担当し、日本美術院の編集部を主宰した。明治四〇(一九〇七)年から「日本近世窯業史」編集のため、全国の陶窯地の実地調査に当たった)が、芥川龍之介自死の五ヶ月後の昭和二(一九二七)年十二月にアルスから出版した「陶磁工藝の硏究」のこと(人物については、講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。

「樂之軒」「脇本樂之軒」(わきもとらくしけん 明治一六(一八八三)年~昭和三八(一九六三)年)は美術史家。山口県出身。本名は十九郎(そくろう)。藤岡作太郎に国文学を、中川忠順に美術史を学び、大正四(一九一五)年、美術攻究会(後の東京美術研究所)を設立し、昭和一一(一九三六)年には機関誌『画説』(後の『美術史学』)を創刊した。昭和二五(一九五〇)年、東京芸大教授。重要美術品等調査委員・国宝保存会委員も務めた。著作に「平安名陶伝」がある(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。」

「北原君」後に出る通り、北原大輔(明治二二(一八八五)年~昭和二六(一九五一)年)。日本画家。長野県生まれ。東京美術学校予科日本画科卒。下島勳の紹介で、芥川と面識を持った。龍之介も参加していた文人・財界人の「道閑会」にも加わっており、龍之介の大正一四(一九二五)年二月『中央公論』初出の「田端人」の掉尾に彼が挙げられ、寸評されてある(リンク先は「青空文庫」。新字旧仮名)。

「昭和二年のたしか四月の――ちようど鵠沼から歸つてゐられたある日の午後であつた」芥川龍之介自死の四カ月前。芥川龍之介新全集の宮坂覺氏の年譜を見るに、鵠沼から帰ったのは、四月二日で、その後の同年譜では、まず、四月六日に下島が来訪しているが、この時は甥の連(むらじ:後に勳が養子とした)を連れであり、ちょっとこのシークエンスとは合わないように思われる。その後では、四月十四日の午後二時頃に来訪、室生犀星も来て(同行ではないように思われる)、『夕方まで俳談などをする』とあり、これも合わない感じがする。その後の四月二十七日の条を見ると、『夕方、下島勲が来訪する。』とあって、続けて、『所蔵の陶磁器を見るため、平松麻素子が下島宅を訪れている』とあることから、この日がその日のように見える。とすれば、ほぼ自死三ヶ月前となる。なお、この四月七日には、芥川龍之介は『「歯車」の最終章「飛行機」を脱稿した後、田端の自宅から帝国ホテルに向かう。この日、帝国ホテルで平松麻素子と心中することを計画していたとされる』が、『平松は、芥川の気持ちを静め、自殺を食い止めようとしていたものと考えられ』、『平松が』、急遽、ホテルから場を外して、『小穴隆一の下宿を訪ね、文、小穴、葛巻義敏の三人が』ホテルに『駆けつけて、未遂に終わる』とある。この自殺未遂事件は別説では、この時でないとするものもあるが、私はこの宮坂氏の時期指定を正当と考えている。

「ご老父」言わずもがな、養父芥川道章。

「おばあさん」「母堂」後者から道章の妻で、龍之介の養母芥川儔(とも)である。前者は龍之介の子らが生まれてからの芥川家内での呼び名として違和感がない。なお、龍之介が最も愛した同居している伯母フキのことは、龍之介は、決して、「おばあさん」とは呼ばない。そのような記載は一度も見たことがない。

「團子坂」現在の東京都文京区千駄木のここ(グーグル・マップ・データ)。この「古道具屋」は、芥川龍之介がかなりの骨董物を購入していることが、彼自身や知人らの記事で確認出来るが、後に、龍之介は、この店の信用性を疑う発言もしている。

『佐藤春夫編「おもかけ」』「おもかげ」が正しい。昭和四(一九二九)年座右宝刊行会刊。限定百五十部で和綴じで布張帙入り。芥川龍之介の一周忌に合わせて、佐藤が編んだ記念冊子。故人を偲ぶ種々の写真と、その解説が載る。

「わが家の古玩」遺稿。旧全集では末尾に編者による『(昭和二年)』のクレジットがある。「ワコ」調べて見たが、よく判らない。所持する筑摩全種類聚版「芥川龍之介全集」の注でも『不詳』とある。「青空文庫」のこちらで新字であるが、全集類聚版底本のものが読める。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 四三番 僞八卦

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

      四三番 僞八卦

 

 或所に大層悋氣病《りんきや》みなゴテ(夫)があつた。いつも外から歸つて來ると、おい見屆けたぞ、今日は誰某(ダレソレ)が來たなアと言ふのが癖であつた。それが又よく當るので女房も呆れて、なに、この僞(ウソ)八卦がと言つて居た。[やぶちゃん注:「悋氣病み」この場合は焼餅きが病的なほど強いことを指す。]

 恰度《ちやうど》其の頃、仙臺の殿樣の金倉《かねぐら》を破つて千兩箱を十箱盜んだ者があつた。いくら嚴しい詮議をしても泥棒が捕まらないので、殿樣は近所近國によい八卦置きはないかと訊ねた。家來の者がいゝ八卦置きが南部の國にあるヅ話で御座りますと申上げたら、そんだら一刻も早くその八卦置きの處へ行つて八卦を置いてもらつて來《こ》ウと仰せ出られた。そこで重立つた家來どもが勢揃ひをして、南部の八卦置きの所サぞろぞろとやつて來た。

 或る日、僞八卦置き夫婦が家で話をして居ると、表サ立派なお侍樣達が駕籠に乘つて、大勢どやどやと御座つて、南部の名高い八卦置き殿は御在宅かと言つて入つて來た。夫婦は魂消《たまげ》てハイ居りますと申し上げると、それでは申入れるが、今度仙臺樣の金倉から千兩箱が十箱盜まれたによつて、それでお前を賴んで八卦置いて貰ふベエと思つて、斯《か》うして吾々がお前を迎へに來たのだ、早く仕度をして俺達と一緖に行(アユ)でケろと言つた。女房はそれを聽いて驚いて、そだからお前が僞八卦など置かねばアええのにと悲しんだけれどもハヤ追ツつかないから、ともかく仕度をさせて、お前度胸をきめてしつかり八卦を置いて來もセと言つて、夫を送り出した。僞八卦は迎への駕籠に乘せられて、仙臺のお城下指して連れて行かれた。

 僞八卦の乘つた駕籠が、南部と仙臺との國境の五輪峠でしばらく一時(イツトキ)の憩みをした。中間《ちゆうげん》や雲助どもは木蔭へ行つて休みながら、アノ男はタダの八卦置きではなかンベえ、なんでも神憑《かみつき》に相違ない。アレが行つたらきつと金箱《かねばこ》もオキ出されるに違いない。早く咎人《とがにん》のお仕置きを見物したいもんだと語り合つて居た。それを聽いて頭のお侍は、僞八卦の駕籠の側へ寄つて來て、ちよツとお前に折入つて賴みたい事があるが、聽いてくれまいかと言つた。僞八卦がそれは何だと云ふと、侍は人拂ひをしてから、さてさて八卦置き殿やい、アレあの家來どもが今云ふて居る通り、お前が行けば殿樣の盜まれた金箱も見現はされるに違ひがない。さうするとこの俺の首も胴中《どうなか》さついては居まい。そこでお願ひだが、實は俺はその千兩箱の在る所をチヤンと知つて居る。その中《うち》一箱はお前が取り一箱は俺が貰つて、あとの八箱はお前が八卦で當てたやうに見せかけて殿樣サ返して遣るベエ。どうだこの相談に乘る氣はないか、若《も》しも不承知なら、不憫ながら今此所でお前の生命(イノチ)を俺がもらうベアと云ふのであつた。ソレを聽いて僞八卦は靑くなつて、よいからお前樣の云ふ通りにすベエが、ほんだらその金箱が何所に匿してあると訊くと、お城の後(ウシロ)の泥の中サ匿して置いたからと云ふ。そんだら俺が其の通りに云ふからよいと云ふと、お侍はお前のおカゲで俺も助かると云つて大層喜んだ。それから僞八卦を連れて勢いよく殿樣のお城に乘り込んで行つた。[やぶちゃん注:「オキ」意味不明。「直(じき)に」の意か。]

 僞ハ卦は仙臺の殿樣の御殿に行つて、八卦をオイて、盜まれた金箱はお城の堀の中にあるが、十箱のうち二箱は既に人手に渡つて西國に行つたので探しても無駄である。八箱だけ早く引き上げろと云つた。殿樣はもう少し早かつたら十箱の金みんなを取り返せたのに、お前を賴むことが少し遲かつた、それでも八箱あるならモツケの幸ひである。シテその泥棒は何所の者で如何《どう》なつたと訊いた。僞八卦は、それは今云ふ通り西國の大泥棒で今西國の方サ行つて居る。探しても無駄だと答へた、殿樣はそれでは仕方がない、アトを取られない中《うち》に早く其の八箱を引き上げろと云つた。そこで多勢《おほぜい》の人夫どもが堀の中に入つて探すと、いかにも金箱が八箱ソツクリとしてあつた。(二箱は前夜の中に侍と僞八卦とが取り出して匿して置いたから無かつた。)

 殿樣は大層喜んで、お前のやうな偉い八卦置きは世界中にアンベかなアと言つて、禮に千兩箱一箱を與へた。僞八卦は見たことも聞いたこともない金箱を二ツまでも持つて小踊りしながら家へ歸つた。そしたら嬶《かかあ》も喜んで、ソレ程お前は偉い技倆のある人とは思はなかつたと云つて、夫婦仲よく暮した。

  (二番同斷の四。)

[やぶちゃん注:「二番同斷」「觀音の申子」と同じソースで、そちらの附記には、『遠野町、小笠原金藏と云ふ人の話として松田龜太郞氏の御報告の一。大正九年の冬の採集の分。』とある。]

2023/04/17

甲子夜話卷之七 10・11 長村鑑がこと幷林子對州歸泊のとき於壱州水軍の訓練を觀る事・又壱州旅泊の間、林子、長村と應酬の事

 

[やぶちゃん注:今回は特異的に記号等を用いて読み易くし、句読点も変更・追加した。また、《 》で推定で歴史的仮名遣で補った。二篇を合わせたのは、内容が、孰れも静山が愛惜した平戸藩重臣であった故長村鑑(鑒)(ながむらあきら)の追懐記事であるからである。漢文部は後で訓読した。その内の訓点の踊り字「〱」は「〻」に代えた。]

 

7―10 長村鑑がこと幷《ならびに》林子《りんし》對州歸泊のとき於壱州水軍《いつしうにおいてすいぐん》の訓練を觀る事

 長村鑑は【内藏助。】少年のとき、予が側に左右し、才量、有《あり》て、學を好めり。長じて京師に遊學し、淇園《きゑん》に師事し、學術、長進す。後、擢《ぬきん》でゝ家老とし、年來、政治に、功勞、多し。予、退隱の後は、平戶に在《あり》て、專ら、心を家譜修撰のことに盡す。近年、國用不足のことに因《つき》て、都に出づ。林氏も、從來の相識《さうしき》にて、亦、其器度の不凡を以て、屢《しばしば》、邸に招《まねき》て懇遇す。常に云《いふ》、

「諸家の家老、知る者、多し。鑑においては、屈指、三、四人の中なり。」

と。

 鑑、近來、善《よく》病《やみ》、久《ひさしく》して、都に出《いづ》るによつて、面接して、喜ぶ。病後、衰狀なく、仍ㇾ舊《きうにより》て、力を經濟に盡す。都下の事、終《をはら》ずと雖も、姑《しばら》く歸國して事を遂《とげ》んとす。然《しかる》に、歸途にして、病、發し、平戶に抵《いた》り、尋《つい》で、沒す。可ㇾ悲《かなしむべし》。途《みち》に在て所ㇾ賦《ふするところ》あり。

   庚辰西歸、關左黃疸ㇾ京二旬、

   竣ㇾ事ヲ南下、留ルコト浪華又二旬餘。所ㇾ

   患依然。因賦。

 官道ㇾ轎ㇾ騰ント、老羸無ㇾ奈トモスルコト

 病相憑ルヲ。液乾黃金佛、心熱白玉

 氷。京洛花殘テ行クニ不ズㇾ耐ヘ、浪華酒美ニシテ

 喫ルコトㇾ能。奮然トシテケドモㇾ事多勞倦、臥

 閱シテ方書

此詩は、鑑が西歸のとき、佐藤坦、請《コフ》て其弟子某を從行せしむ。不日にして、鑑、疾《ヤ》む。某、此詩を錄して、都におくる。坦、

「第三句は詩讖《ししん》ならん。

と掛念す。後、果して、訃、至る。

 予、始《はじめ》、此詩を不ㇾ知《しらず》。坦が言《げん》に因《より》て、始て聞き、澘然《さんぜん》として、涕《なみだ》、下る。

 因て、記す。

 鑑が下世《かせい》においては、林氏、

「甚だ痛惜して、これ、一人の不幸に非ず、平戶藩の不幸なり。」

と云へり。

 鑑が國事に於る、般々《はんぱん》の功績あり。

 武備のことに至《いたり》ては、殊更に苦心して、後法《こうはふ》を遺すこと、多し。

 辛未の年、津島韓聘《かんへい》の時、上使を始め、官の諸有司、予が壱州領を經過すれぱ、諸事指揮の爲めに鑑を壱州に出役せしむ。聘事、畢《をは》りて、林氏、壱州に停泊するとき、風本《かざもと》一組の水軍、演習をして、林氏に見せしむ。林氏、歸後、その事を話して、操練の熟したると、指麾《しき》の體《てい》を得たるを激賞す。予は領内のことなれども、却《かへり》て、見ず。林氏が話を間く而已《のみ》。

 その日、午牌《ごはい》やゝ下《さか》りたる頃、林氏は、客舍にて喫飯の折から、鑑、來れり。元より懇交のことなれば、飯中に對面せしに、鑑、云ふ。

「水軍の、人も舟も、備へたり。折よく、好晴なれば、神皇山に上りて見玉へ。」

と云ふ。

 飯、終りて、出行《いでゆ》く。

 鑑は、一人の大筒打《おほづつうち》を從へて、林氏の從者と共に出て、神皇山に抵《いた》る。

 此地は風本の湊を目下に俯觀する所なり。かねて幕次《ばくし》を設けたる所に、林氏、坐す。

 鑑、指揮して、相圖の砲を發せしむれば、遙《はるか》のあなたにて、答《こたへ》の砲聲、響くと、湊の内の川に用意したる軍船大小とも、次第を追《おひ》て、徐々に漕出《こぎいで》、山右より山左に、漕行《こぎゆ》く。士卒、皆、戎服《じゆうふく》して、兵器を執り、旌旗《せいき》計《ばかり》は眞を用ひず、各《おのおの》、色の紙を以て、製造せり。これにて演習の意を表《あらは》せり。船、大小、凡《およそ》七、八十、先後の順を違《たが》ヘず、行列を正《ただし》くして、山左の海灣に漕入《こぎい》りて屯《とん》す。扨、海中には、船、二、三嫂を舫《もや》ひ、その上に、席を、高く張連《はりつら》ねて、かりの敵船に設《まう》けなす。夫《それ》を目當《めあて》として、先手船《さきてぶね》より、順々に漕出《こぎいだ》す。先手は、皆、大筒なり。その玉行《ぎよくかう》、山の見物所《けんぶつどころ》の目通り、少し下る程なり。貫目《かんめ》のある玉は、一塊の黑雲となりて馳《は》す。砲聲、山海《さんがい》に振ふ勢《いきほひ》、婾快《ゆくわい》、云《いふ》ばかりなし。目當へ打付《うちつけ》たる船は、開《ひらき》て、山右のもとの川に入り、その跡より、段々に出船して、打かくる。夫より、小筒の船は、數十丸を亂發し、鎗・長刀の船は、各、その長兵《ちやうへい》を執りて漕寄《こぎよす》る。終りに壱州城代の船、金鼓を具して漕出るが、結局なり。各船、湊中《みなとうち》に往來して、五彩の旌旗、夕陽に映發《えいはつ》し、大小の砲響《はいきやう》、山海も動搖する計《ばかり》に覺へて、

「かゝる壯觀は、未曾有の事なりし。」

とて、林氏、悅懌《えつえき》せり。又、

「この演習を組立てゝ、己《おのれ》は、聲色《せいしよく》をも動かさず、幕次に在りながら、其指揮の屆きたること、手足を使ふ如くなりしは、鑑に非ずして、爲《なす》べきの人は、あるまじ。」

とて、林氏、荐《しき》りに賞讚なりし。

■やぶちゃんの呟き

 漢文の賦と前書部分は、ブラウザの不具合を考えて、底本とは異なった字配とした。以下にその長村の賦を前書ともに推定訓読しておく。

      *

 庚辰の西歸(せいき)に、關左(くわんさ)に

 黃疸を發し、京に入りて、二旬、事を竣(をは)

 りて南下し、浪華(なには)に留(とど)まる

 こと、又、二旬餘り。患(わづら)ふる所、依

 然たり。因つて、賦す。

 官道に轎(きやう)を馳(は)せて、氣は騰(のぼ)らんと欲するも、老羸(らうるい)、奈(いかん)ともすること、無し、病ひの相(あ)ひ憑(つか)るるを。液(えき)、乾きて、漸(やうや)う化(くわ)す、黃金佛(わうごんぶつ)、心、熱(あつ)して、常に思ふ、白玉(はくぎよく)の氷(ひやう)。京洛(けいらく)、花、殘りて、行くに耐へず、浪華(なには)も、酒、美にして、喫(きつ)すること、能(よ)くし難し。奮然として、事に就(つ)けども、事、勞倦(たらけん)多し。臥して、方書(はうしよ)を閱(けみ)して、試みに自(おのづか)ら徵(しる)す。

      *

以下、賦の語注しておく。「庚辰」(こうしん/かのえたつ)は静山の生没年から文政三(一八二〇)年となる。これによって長村鑑の没年が判明する。「關左」関東。「轎」本来は中国で神輿型の前後を人が担ぐ乗り物を指す。ここは駕籠のこと。「液」身に漲る陽気の体液。「白玉の氷」「白玉」は、「白玉楼中の人」の白玉楼で、ここに確かに死を予感したニュアンスが見てとれる。「方書」医書。

「淇園」武士で文人画家・漢詩人として知られた柳沢淇園(元禄一六(一七〇三)年~宝暦八(一七五八)年)

「予、退隱の後」松浦清(静山)は文化参(一八〇六)年に隠居している。

「國用不足」如何ともし難い藩財政の不足。

「林氏」お馴染みに林述斎。

「器度」器量。

「善病」病気がちであったことを言っているのであろう。

「佐藤坦」儒学者佐藤一斎(明和九(一七七二)年~安政六(一八五九)年)か。美濃国岩村藩出身。同藩松平乗薀(のりもり)の三男乗衡(のりひら)の近侍となったものの、一年で免職となり、その後、大坂に遊学し、皆川淇園に学んでいるからである。しかも彼は林述斎の高弟であり、さらに彼の本名は坦(たいら)である。

「第三句は詩讖《ししん》ならん」「讖」は「予言すること」「未来の吉凶・運不運などを説くこと」を言う。「第三句」というのは、句の切れ目からなら「液乾黃金佛」とあろうが、私は続く「心熱白玉氷」を含めて、第三句と第四句とを指すべきと考える。

「澘然として涕下る」、今まで堪(こら)えていた感情が一度に迸り、激しく涙を流すことを言う。

「下世」ここは、時代が下った「現代」の意。

「般々」色々な局面。

《はんぱん》の功績あり。

「辛未」(かのとひつじ/しんび)は同前から文化八(一八一一)年。

「津島韓聘」室町時代から江戸時代にかけて朝鮮から日本へ派遣された外交使節団朝鮮聘礼使の招聘ことであろう。ウィキの「朝鮮通信使」によれば、この年に第十二回のそれが行われ、朝鮮聘礼使は、それまでは、本邦の将軍の代替わりの際に対馬から壱岐を経て、江戸城に向かったが、この時は対馬差し止めで、これを以って従来の使節来訪は断絶している。

「風本」壱岐島の北西部の江戸以前の旧広域地名。現在の長崎県壱岐市勝本(かつもと)町附近相当(グーグル・マップ・データ)。

「午牌」正午。

「神皇山」不詳。場所柄、神功皇后絡みの伝承地であろうが、「ひなたGPS」を見ても、見当たらない。但し、「此地は風本の湊」(現在の勝本港のある湾)「を目下に俯觀する所なり」とあることから、自ずと限られてくる。位置的に見下ろせる格好の場所は、「ひなたGPS」のここの「城山」である。ここの北方の海岸近くには「神功皇后の馬蹄石」(グーグル・マップ・データ航空写真)もある。

「幕次」本来の軍将軍が陣を置くところの陣幕のことであろう。

「戎服」鎧。

「旌旗」戦場などで用いる正規軍を示す軍旗。

「貫目のある玉」重量の重い大砲の弾丸。

「長兵」鑓(やり)や長刀などの長い白兵武具。

 

7―11 又、壱州旅泊の間、林子、長村と應酬の事

 話次《はなしついで》に、林氏も、悵然として感舊の情に堪《たへ》ず、又、物語ありしは、

「西役の來路は、初夏なりしが、壱州泊船の頃、連日の雨にて、風信を失《しつ》し、數日《すじつ》、船居《ふなゐ》せし時、鑑《あきら》、小舟に乘りて、來り訪ひ、海鱗《いろくづ》、數頭《すとう》を攜贈《けいざう》せしに、臺に積《つみ》て、其席にある内、魚、躍り、墜《おち》て、なを、潑剌《はつらつ》し、海老は、其邊を、這ひ𢌞りけり。かゝる新鮮、都下には見ざることなり。此等、今に至りて囘顧すれば、隔世の事とは、なりぬ。尓時《このとき》、予が席上の詩、ありき。

   勝本浦ラルㇾ雨。長邨仲槃見ㇾ訪

   欵晤之次、出近製數篇。乃用

   其首章、以攄衷抱

 雨暗シテ瀛壖晝欲ルニㇾ眠ラント

 欣盪漿シテルヲ蕭然

 計ㇾ程滄溟タル

 談ㇾ故歲月ルヲ

 志氣從來爲シカ劍合

 江山早晚又鑣聯セン

 明朝滿ㇾ意セバ津島

 新著只須潮信ヘン

やうやう、天、晴《はる》れば、

「兼て、平戶侯より鑑《あきら》に命ぜられたり。」

とて、岸上《がんしやう》の樓に招請す。その所より、鑑と同行して、傍近の勝所に遊ぶ。一高處の眺觀に堪《たへ》たる地、あり。「三石《みついし》」と云《いふ》。山上に大石《だいせき》あり。其時、予、詩一首を賦す。鑑、

「その詩を石に鐫《ゑ》り、永く此地の故事とせん。」

と云。予、書字に拙《つたけ》なれば、書丹《しよたん》し難し。」

とて、辭す。

「然《しか》らば、歸路に、紙に書して示すべし。それを以て、刻せん。」

と云しが、歸時《かへるとき》、倥傯《こうそう》にて、かの水軍演習の翌朝、順風を得しかば、その儘、開帆して、其事を果《はた》さゞりき。遊嚢《いうなう》の中に、草案あり。」とて寫して示さる。

 祗役度ルニ滄瀛、風潮滯客程

 家山雲自、舟檝鳥

 浪三韓海、壘一夜城。

 雄圖已陳迹、拊ㇾ髀且馳ㇾ情

   文化辛未、韓使聘津島

   余奉ㇾ命ㇾ事、停-

   斯浦、登ㇾ山以眺。心

   甚樂也。四月某日題。時

   海晴氣燠ナリ

「かく、跋言《ばつげん》して、書草《かきさう》せしまゝにて、止みぬ。かゝる心友の、いつか、鬼簿に上りしと思へば、懷舊の感、止《やむ》べからず。」

とて、頻りに、林氏、浩歎《かうたん》せり。

■やぶちゃんの呟き

 漢詩と漢文後書部分は、ブラウザの不具合を考えて、底本とは異なった字配とした。以下に後書ともに推定訓読しておく。但し、「翻」は訓ずることが出来ないので、「チ」は「テ」の誤字か誤植と断じた。

     *

   勝本の浦にて、雨に阻(はばま)まらる。

   長邨仲槃(ちやうそんちゆうばん)、

   訪(おとな)はらる。欵晤(かんご)の

   次(つい)で、近製の數篇(すへん)を

   出だす。乃(すなは)ち、其の首章の

   韵(ひびき)を用ひ、以つて、衷抱

   (ちふはう)を攄(ちよ)す。

雨 暗(くら)くして 瀛壖(えいそ) 晝 眠らんと欲するに

欣(よろこ)ぶ君が 盪漿(たうしやう)して 蕭然(せうぜん)として破るを

程(ほど)を計りて 坐(ざ)に指す 滄溟(さうめい)の渺(びやう)たる

故(ふる)きを談(かた)りて 翻(ひるが)へりて驚く 歲月の遷(うつ)るを

志氣は 從來 劍合(けんがふ)たりしか

江山(かうざん) 早晚(さうばん)か 又 鑣聯(ひようれん)せん

明朝 意に滿ちて 津島に帆(ほ)せば

新たに著(つ)く 只(ただ)須(すべか)らく 潮信(てうしん)に傳へん

     *

同前で注す。「長邨仲槃」長村鑑の異名(韓の使者と遭うための漢名っぽい)であろう。「欵晤」親しく逢うことを言う語。「韵」ここは、その近作の持っている詩想・詩情を指していると推定して、かく訓じた。「衷抱」思い抱くところの感懐。「攄」「述べる」の意がある。「瀛壖」海岸。「盪漿」「温かい汁物を作る」の意か。「蕭然」もの静かに。「滄溟」青海原。「劍合」意味不明。「実際の太刀の打ち合い」の意か。「鑣聯」意味不明。「鑣」は「こじり」で刀の鞘の末端を言う。されば、この一句、無理矢理に解釈するなら、「対照的な河と山というものは、早晩には、また、きっちりと合って一つのものに連なり合うものなのか?」の意かと、ふと、思った。また、最終の一句もよく判らぬが、「『初めて対馬に着いた』と、幕府に海流を通じて伝えて呉れ」といった謂いか。よく判らぬ。ともかくも、林述斎の漢詩は、どうも、上手いとは私には、思えない。

     *

祗役(しえき) 滄瀛(さうえい)を度(わた)るに

風潮(ふうてう) 客程(かくてい)を滯(とどこほ)らす

家山(かざん) 雲(くも) 自(おのづか)ら遠く

舟檝(しふしう) 鳥と倶(とも)に輕(かろ)し。

浪(なみ)は捲(ま)く 三韓の海

壘(るい)は殘る 一夜(いちや)の城

雄圖(ゆうと) 已に陳迹(ちんせき)

髀(もも)を拊(つか)みて 且つ 情を馳(は)す

  文化辛未(しんび)、韓使、津島に聘す。

  余、命(めい)を奉じて、事に赴き、

  斯(か)の浦に停泊し、山に登りて、

  以つて、眺む。心、甚だ樂し。

  四月某の日、題す。

  時に、海、晴れ、氣、燠(あたた)かなり。

     *

同前で注す。「祗役」王命。「滄瀛」青海原。「家山」故郷。「舟檝」船と楫(かじ)。「壘」元寇の際の土塁であろう。「雄圖」壮大な計画。元の日本侵略を指すのであろう。「陳迹」旧跡。最後の一句だけ、映像的でいい。

「三石」不詳。現在の壱岐島にこの名は確認出来ない。

「書丹」後漢の蔡邕(さいよう)が丹朱を以って経を石に書いたという故事により、「誌や銘を石碑に書くこと」を言う。

「倥傯」「非常に忙しいこと」を意味する漢語。

「遊嚢」旅行用の収納袋のことであろう。

 

 最後に一言。この長村鑑……とても、逢ってみたくなった……

 

大手拓次 「女よ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 女 よ

 

淫慾の木陰に

さはやかな鍋を用意して

亂れゆく小花の魚を煮る。

蜂蜜のやうにねばり强い幻は裳をひき、

狂氣は自由に神の如く動く。

女よ、

お前の姿は寶玉の鳴る夜の音(おと)である。

 

[やぶちゃん注:「淫慾」の「慾」は底本のママ。

「寶玉」の「寶」の字体は詩集「藍色の蟇」での用字に従った。]

大手拓次 「わたしは盲者」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 わたしは盲者

 

感覺から思想へ、

わたしは自ら盲者と自任して

朝と夜とが懸崖の光點にたはむれるとき

はるかに、感覺の細い絃(いと)にひびく危案を感じ

ひとりはなれた黑い大鴉(おほがらす)の衰へた嘴(くちばし)の慈愛のやうに

命を獻じ、命を火焰の護送馬車のなかにいれて

さめざめと刹那の苦惱と冥合する向後(かうご)の愉樂をおぼえ、

自らは、大洋の潮(うしほ)にひかれる小魚の悲しみを保つて

神祕な、そしてろうろうとしてる存在の明け方に坐つてる。

わたしは自ら盲者と自任してる。

婚約の日に降りそそぐ魂の燈火(ともしび)のやうに靜寂の門口(かどぐち)に勇ましい二頭の馬をつなぐ。

 

[やぶちゃん注:「盲者」原氏がルビを振っていないことから、これは「まうじや」(もうじゃ)と読んでおく。

「火焰」底本は「火焔」である。「焔」の字には「熖」「燄」等の字体があるが、詩集「藍色の蟇」の「黃色い帽子の蛇」の五行目「火と焰との輪をとばし、」というフレーズの中の表記があることから、私は「焰」を選んだ。

「ろうろうとしてる存在の明け方」というフレーズから「ろうろう」は仮名遣からも「朧朧」(薄明るいさま)と断定してよいと思われる。

「燈火」の「燈」の字は底本に従ったものである。]

大手拓次 「砂人形」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 

 砂 人 形

 

溫室のなかに茶色の刺があるやうに思はれる、

お前さんは、水すましの影のやうに淺い池の日和に浮かんでゐる。

お前さんはほんとに瓢逸な浮かれとんぼ。

お前さんは壁にこつそり這ひよるかたつむり。

お前さんはギターを持つた印度乞食の隱れ笑ひ。

お前さんは浴槽(ゆぶね)にねむる露西亞女の力わざ。

 

柴笛を吹いて眞黃色(まつきいろ)な木陰をゆくのは

お前さんの影繪だ。

いつまでもいつまでもぶらぶらと遊んでゐたいお前さんの魂の影繪だ。

お前さんは流れるままに落葉の船にのる砂人形だ。

 

大手拓次 「靑銅の丘」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 靑銅の丘

 

靑銅の丘に

赤い馬にのつて緘默(かんもく)の騎手は綱をきめる。

黃鈍(きにび)の風に馬は整然たる進路をとる。

鬱血した木蓮の花びらは

淫女のやうに風をあふぐ。

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 四二番 夜稼ぐ聟

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

      四二番 夜稼ぐ聟 

 或所に、非常にセツコキな聟があつた。晝間は寢ていて、夜は遊んで步く、何か仕事を言いつけると、かえつて惡い事をするというようで、博打などばかり好きで、打つて廻つていた。[やぶちゃん注:「セツコキ」現代仮名遣「せっこき」「せっこぎ」で、岩手方言で「怠けること・怠け者・面倒臭がり・ 物ぐさ・ 手間を惜しむこと或いはその行為や人」を指す。]

 或る時、舅《しうと》が夜になつて働きに行つて來いと云ふと、お寺の墓場へ行つて死人《しびと》を掘ツくり返して擔《かつ》いで來て、戶口に置いた。

 翌朝、舅が、聟に、お前は昨晚、何を稼《かせ》いで來たかと聞くと、昨夜の仕事は戶口にありますと言つた。戶口へ行つて見ると、一人の若い女の死骸があつた。舅はその死人をよく洗ひ淨めて、髮を立派に結つて美しく着飾らせて、駕籠に乘せて、あるお宮のお祭禮にかついで行つた。そしてお宮の玄關で、其の死人を出してオイオイと泣いて居ると、御參詣にお出でになつた殿樣がこれを見て、その譯をたづねた。そこで舅が今日の御祭りに娘を連れて參詣に來たが、娘が玄關でつまづいて死んだので、斯《か》うして泣いて居ると申し上げると、殿樣は不憫に思つて澤山の金を與へて行つた。

  (雫石村の話、田中喜多美氏の御報告の分の七。)

[やぶちゃん注:「雫石村」岩手県岩手郡雫石町(しずくいしちょう:グーグル・マップ・データ)。

「田中喜多美」既出既注。]

2023/04/16

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 鴻の巢

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。今回は、ここから

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、「選集」では標題次行の丸括弧附記(そちらではずっと下方)の右手に『川村杳樹「鴻の巣」参照』と添えてある。この川村杳樹は柳田國男のペン・ネームの一つ。則ち、これはその柳田の論考に対する熊楠の応答論考である。先だって、柳田國男の方の、その先行論考「鴻の巢」を電子注しておいたので、まずは、そちらを読またい。特に以下で熊楠で挙げる鳥類の種については、そちらの私の注で挙げてあり、リンク先でも私が詳細に検討し、種同定をしているので、その過程は繰り返すつもりはないからである。なお、これは柳田の確信犯の仕儀で、そちらの記載の中で、『自分は兼兼これに就て南方氏などの御意見が聞きたいと思つて居た』と、名指しで、やらんでいい挑発を柳田はヤラかしてしもうているからである。なお、最初に言っておくが、「鸛」の「こうのとり」の正しい歴史的仮名遣としては「こふのとり」である。表記上、怪しい読みがあるのは、みな、ママであるので注意されたい。

 

      鴻  の  巢 (大正三年十一月『鄕土硏究』二卷九號)

           (『鄕土硏究』第一卷第十號五九七頁)

 

 「本草啓蒙」に、鴻(こう)は鵠《こく》と同物で、ハクチョウの事とし、「和漢三才圖會」には、鴻は雁の大なるもの、ヒシクイ、と言ふ。何れも、水を游ぐ者で、蛇と仇《かたき》を爲すを聞かぬ。本話言ふ所は、鴻や鵠でなく、鸛(こう)(英語でストーク、佛語でシゴニユ)の事だ。「和名抄」にオホトリと訓じてある。和泉の大鳥神社、又、大鳥と云ふ苗字などに緣ある鳥らしい。この鳥、鳴かず、嘴《くちばし》を敲いて聲を出す。其聲に擬して「コウ」と呼んだか、又はどちらも水鳥故、鴻鵠《こうこく》の音を取つて「鸛」を「コウ」と呼ぶに至つたものか(「南留別志《なるべし》」に、『「鸛」を「コウ」とは「鴻」を誤れるなるべし。』)。兎に角、「古今著聞集」に、「トウ」を射た話があつて、その「トウ」は「コウ」らしいから、鎌倉時代、既に、「鸛」を「コウ」と通稱したと見ゆ。(後日、訂正す。「トウ」は「トキ」、乃《すなは》ち、「日本紀」の「桃花鳥《たうくわてう》」の古名の由、「本草啓蒙」に見ゆれば、「コウ」と別なり。兼良《かねら》公の「尺素往來《せきそわうらい》」に「鵠の霜降り」・「トウの焦《こが》れ羽」と、矢に着け用ゆる羽の名を列ねた中にあれば、足利氏の世には、「鸛」を「コウ」と呼び、「鵠」の字を用いた事と知れる。)

[やぶちゃん注:『「本草啓蒙」に、鴻(こう)は鵠《こく》と同物で、ハクチョウの事とし』国立国会図書館デジタルコレクションの「重訂本草綱目啓蒙」の版本(弘化四(一八四七)年)のここで、『鵠 ハクテウ クヾヒ古書』立項して、以下に『一名』として諸漢籍から別名を引く中の二番目に、『鴻【急就篇註】』とある。「急就篇註」は、前漢末の元帝(在位:紀元前四八年~紀元前三三年)の宦官であった史游の作と伝えられる漢字学習書が「急就篇」で、これは、その後代(宋代か)の註。ここで言っている「ハクテウ」を安易には、現在の狭義の、

カモ科ハクチョウ属Cygnus或いは同属オオハクチョウ Cygnus Cygnus

に同定は出来ないものの、まあ、とんでもなく外れた見解でもあるまい。少なくとも、熊楠はそのつもりで言っているはずだ。

『「和漢三才圖會」には、鴻は雁の大なるもの、ヒシクイ、と言ふ』私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴻(ひしくひ)〔ヒシクイ・サカツラガン〕」の本文と私の考証注を必ず見られたいが、そこで考証した結論として、私は、最終的にそこに記された種を一種と認めず、

カモ目カモ亜目カモ科マガン属ヒシクイ(菱喰) Anser fabalis serrirostris 

及び

同属オオヒシクイ Anser fabalis middendorffii

と、ヒシクイ類ではない別種の

マガン属サカツラガン(酒面雁)Anser cygnoides

を同定(候補)としている。

「蛇と仇を爲すを聞かぬ」柳田の論考の応じて、蛇を退治するシチュエーションに習性が合わないから除外したもの。

「鸛(こう)(英語でストーク、佛語でシゴニユ)」「鸛」の「音は「くわん(かん)」。英語は“stork” (ストゥク:この単語は米俗語で「~を妊娠させる」という動詞になっているのが面白い!)、フランス語は“cigogne”(シゴーニュ)。これは、江戸後期の「重訂本草綱目啓蒙」でも先の国立国会図書館デジタルコレクションの「鴻」よりも少し前のここに「鸛 コウ コウノトリ」として立項しており、以下、本邦の地方名と所載書名の混淆で、『コノトリ【秋田】 シリグロ【詩經名物辨解】 ヘラハズシ【筑後久留米】 クヾヒ【大和本草】 コウヅル』ある。これらの名と以下の本文を見ても、これは、

コウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属コウノトリ Ciconia boyciana

を指しているとは思われる。而して、江戸中期の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸛(こう)〔コウノトリ〕」でもやはり同種コウノトリを指している。柳田論文でも注で述べたが、これに違和感を持つ読者は恐らく有意にいるだろう。何故と言えば、殆んどの今の日本人は野生のコウノトリなんぞ、見たことも聴いたこともないからである。それだけ、現在では本邦では個体群分布が消滅してしまったからである。当該ウィキを見られたいが。近代以前はコウノトリは本邦に、かなり、いたのである。なお、そちらによれば、コウノトリはかなり荒っぽい性質のようで、『同種間で激しく争うこともあり、中華人民共和国での報告例』(二羽で争い、一羽が頭部を嘴で突かれて死亡したケース)『や、日本では』二〇〇二『年に兵庫県豊岡市に飛来して』二〇〇七『年に死亡するまで留まっていた野生オス(通称ハチゴロウ)の死因として、検死から』、『病気や重金属・汚染物質などが死因ではないこと』、二〇〇六年から翌『年に』、『主に野生オスが再導入オスを攻撃した目撃例が計』三十六『回あること、最後の争いの目撃例で』は『再導入オスが野生オスを撃退したところが目撃されたことから、再導入されたオスとの縄張り争いによる死亡が示唆されている』。『成鳥になると鳴かなくなる。代わりに「クラッタリング」と呼ばれる行為が見受けられる。嘴を叩き合わせるように激しく開閉して音を出す行動で、威嚇、求愛、挨拶、満足、なわばり宣言等の意味がある』とあり、食性は『魚類、カエル類、ヘビ類、鳥類の卵や雛、齧歯類、昆虫などを食べる』。『水生動物は浅瀬で、ヘビ・鳥類の卵や雛・ネズミや昆虫などは乾燥した草地で捕食する』。『主にザリガニなどの甲殻類やカエル、魚類を捕食する。ネズミなどの小型哺乳類を捕食することもある』とあって、かなり強力な肉食性が認められ、蛇退治する神使の鳥としては、相応しい。以上にある通りで、熊楠も本種は鳴かないと言ってしまおっており、ネットでも平然とコウノトリは鳴かず、代わりにクラッタリングでさまざまな意味を持った音を出す、と、まことしやかに書いているのは、正しくない。正確には幼鳥の時は鳴けるが、ある一定段階まで成長すると鳴けなくなり、クラッタリングを代用するようになるのである。「兵庫県立コウノトリの郷公園」公式サイト内の『No.4「コウノトリのコミュニケーション方法 ~クラッタリングと鳴き声~」』の動画を、是非、視聴されたい。

「南留別志」荻生徂徠が書いた考証随筆。宝暦一二(一七六二)年刊。元文元(一七三六)年「可成談」という書名で刊行されたが、遺漏の多い偽版であったため、改名した校刊本が出版された。題名は各条末に推量表現「なるべし」を用いていることによる。四百余の事物の名称について、語源・転訛・漢字の訓などを記したもの。

『「古今著聞集」に、「トウ」を射た話があつて』これは、「卷第九 弓箭」の中にある、巻内通し番号で「第十三」、岩波「日本古典文学大系」本の通し番号で「三四九」の、所持する「新潮日本古典集成」版で「上六大夫、たうの鳥の羽を損ぜぬやう遠矢にて射落とす事」とする一話である。最初に言っておくと、この熊楠の指した「トウ」は、丸括弧内で熊楠自身が訂正している通り、

「トウ」≠「コウ」「鸛」

で、

「トウ」は我々が絶滅させてしまった「トキ」=朱鷺・鵇・ペリカン目トキ科トキ亜科トキ属トキ Nipponia nippon

(この学名はなんと美しいことか!)である。参看したあらゆる同書の注で「トキ」としている。以下、国立国会図書館デジタルコレクションの国民図書版『日本文學大系 校註』の 第十巻(大正一五(一九二六)年刊)を視認して示す。読み易さを考えて、段落を成形し、記号も追加した。なお、「新潮日本古典集成」版(昭和五八(一九八三)年刊・広島大学附属図書館蔵の九条本底本)では「とう」は総て「たう」となっている。

   *

 この昵(むつる)の兵衞尉(ひやうゑのじよう)、

「懸矢(かけや)を、はがす。」[やぶちゃん注:底本頭注に、『遠距離に放つ矢に羽をつけさせる』とある。新潮版では、『射捨て征矢(そや)をいう。羽のいたむのを避けるために、十筋、十五筋とたばねて壁などに懸けおくことからの呼称、また空を翔ける鳥を射るのに用いる矢だからともいう』。「はく」は「矧ぐ」で、『竹に矢尻(やじり)や羽などをつけて矢を作ること』を言うとある。]

とて、「とう」の羽を求めけるが、足らざりければ、郞等どもに、

「もしや、持ちたる。」

と尋ねければ、上六大夫(じやうろくたいふ)といふ、弓の上手(じやうず)、聞きて、

「この邊に『たう』やは、見候ふ。見よ。」[やぶちゃん注:「この辺りでトキを見かけた者はおらぬか? ちょっと見て来い。」。]

といひければ、下人、立ち出でて見て、

「たゞ今、河より、北の田には、見候ふ。」

といふを聞きて、卽ち、弓矢を取りて出でたるに、「とう」、立ちて、南へとびけるを、上六、矢をはげて、左右(さう)なくも射ず、[やぶちゃん注:直ぐには射放たずに。]

「いづれかは、こがれたる。」[やぶちゃん注:「今、飛んで御座る「とう」のうち、孰れの「とう」の羽根が御所望か?」。]

といひければ、

「最後(しり)に飛ぶを、こがれたる。」

といふを聞きて、なほもいそがず、遙かに遠くなりて、川の南の岸の上飛ぶほどになりにける時、能く引きて放ちたるに、あやまたず射おとしてけり。

 むつる、感興のあまり、不審(ふしん)をいだして、問ひけるは、

「など、近かりつるをば、射ざりつるぞ。遙かには遠くなしては射るぞ。心得ず。」

と尋ねければ、

「そのこと候。近かりつるを射落したらば、川に落ちて、その羽、濡れ侍りなん。むかひの地につきて、射落したればこそ、かく、羽は損ぜぬ。」

とぞいひける。

 心にまかせたるほど、誠にゆゝしかりける上手なり。

   *

トキについては、私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 朱鷺(トキ)」を参照されたい。

『鎌倉時代、既に、「鸛」を「コウ」と通稱したと見ゆ』以下の訂正で、これも無効となったので、熊楠は、改めて、『足利氏の世には、「鸛」を「コウ」と呼び、「鵠」の字を用いた事と知れる』としたのである。

『「日本紀」の「桃花鳥」の古名の由、「本草啓蒙」に見ゆれば、「コウ」と別なり』前掲の国立国会図書館デジタルコレクションの「重訂本草綱目啓蒙」の版本(弘化四(一八四七)年)では、見出し立項になっていないので、探し難い。蘭山は「鷺」の項に一種として入れ込んしまっているからである。当該部はここの右最終行から次ページにかけてで、『一種ツキ古名ハ一名トウ同上トウノトリ トキ 桃花鳥【日本紀】ハナクタ【江州】ダヲ【奥州】』として、以下に解説が続く。

『兼良公の「尺素往來」に「鵠の霜降り」・「トウの焦《こが》れ羽」と、矢に着け用ゆる羽の名を列ねた中にあれば』室町後期に公卿で古典学者でもあった一条兼良によって編纂されたとされる往来物(学習書)。当該ウィキによれば、『全文が』一『通の書簡となっており、その中に年始の儀礼から日常生活までの』六十八『条目における単語の解説・用例が織り込まれている。当時の支配層である公家や武家の文化・生活・教育の水準を知る上での貴重な資料』とされる。国立国会図書館デジタルコレクションの「羣書類從」第九輯 訂正版(一九六〇年刊)のこちらの右ページ上段の四~五行目に出現する。「トウ」の部分は「鴾」とあっているが、これもトキを指す漢字であるから問題ない。]

 「本草綱目」に、藏器曰、人探ㇾ巢取鸛子、六十里旱、能群飛、激散ㇾ雨也、其巢中以ㇾ泥爲ㇾ池、含ㇾ水滿ㇾ中、養魚蛇以哺ㇾ子。〔陳藏器曰はく、「人、巢を探つて鸛(くわん)の子を取れば、六十里[やぶちゃん注:明代の一里は五百五十九・八メートル。約三十三・六キロ弱。]、旱(ひでり)す。能く群れ飛びて、激(げき)して雨を散らすなり。其の巢の中(うち)、泥を以つて池と爲し、水を含みて中(なか)に滿た