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2023/04/30

大手拓次 「Fantastique な卵」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 Fantastique な卵

 

ひかりをおそうてくる思念の窓に

いま とぎすまされた影はこゑをはなち、

いろどりをくらます襞(ひだ)はのびひろげられ、

晝の日のこころを虹にする。

すがたは草の葉のなやみ、

ひかりのうへに ひかりをつみかさね、

いやさらに くらくする このほのぼのしさ。

 

ひかりは わたしの心に扇をあたヘ

微風をうちのめして

時のうへに ほそぼそとした峰をきづく。

 

[やぶちゃん注:「Fantastique」フランス語。音写は「フォンタスティーク」が近い。話し言葉では、「途方もない・信じられないほどの・素晴らしい・凄い」で、一般の形容詞としては「空想上の・架空の・幻想的な・不可思議な・怪奇幻想の」の意。お好きなものを、どうぞ! 私は「不思議な」では今一つで、「幻妖な」ぐらいかな。「フォンタスティークな」では本邦の外来語としては、既に安っぽいぺらぺらした語感に変質しているそれをダブらせるから、Non!

大手拓次 「靑い鐘のひびき」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 靑い鐘のひびき

 

そのあをじろさの

それとなく うつつににほふつばさのかげに

もれもれする葉かげの細い月のやうに

おまへの眼が かなしみにわらつてゐる

あからむ花のやうに また ひそまりしづむなげきの羽のやうに

やはらかく わたしの胸にときめきをせまり

くるしさのつぶてを かなたこなたのゆめにちらして

おまへは めぐる日のやうにもえてくる

まぢかに そよそよとゆれてくる 美しい眼の戀人よ

わたしのむねは 靑い鐘のひびきにぶるぶるとふるへてゐる

 

大手拓次 「心を化粧する」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 心を化粧する

 

らうらうと きこえる かすかなおと、

ひとへに さびはててゆく

この すべる ひとつの手のひらをもつて

あらはに ふるへる心を化粧する。

 

大手拓次 「時の香」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 時 の 香

 

この ひとわたりすぎさつた時のにほひは

うらさびれた奧庭のなかにちらばふ影

そのあしあともなく うしなはれる

まどろみの ねむりの花

 

[やぶちゃん注:ルビがないが、標題は「ときのかをり」と訓じておく。]

大手拓次 「しろい影」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 しろい影

 

なにものともしれない影におひかけられ

眼をひらいて あしもとにたたずみ

うつらうつらと むらさきの時をきざむただよひ

影はしろくあり

色もなくあり

葉ずゑにわらふ ひざしのにほひ

わたしのうしろから やさしくつもる このしろい影

地のなかにのびあがりゆく しろい笛のね

おしたわめられ なでやはめられ

そのあぎとのなかに のまれる現(うつつ)の花びら

 

「教訓百物語」始動 / 上卷(その1 百物語或いは『「化け物」とは何か』)

「教訓百物語」始動 / 上卷(その1 百物語或いは『「化け物」とは何か』)

[やぶちゃん注:「教訓百物語」は文化一二(一八一五)年三月に大坂で板行された。作者は村井由淸。所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」の校訂者太刀川清氏の「解題」によれば、『心学者のひとりと思われるが伝記は不明である』とある。

 底本は「広島大学図書館」公式サイト内の「教科書コレクション画像データベース」のこちらにある初版版本の画像をダウン・ロードして視認した。なお、表紙題箋は左上端が折れているため、字が判らないので省略した(同じく前掲「解題」には『題箋には「「教訓絵入百物語」』とあるのだが、「教」が確かに「敎」でないのか、「絵」は「繪」でよいのかが、判らないからである)。但し、上記の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)の本文をOCRで読み込み、加工データとした。

 本篇は、書名からして「敎」ではなく、現在と同じ「教」の字を用いているように、表記が略字形である箇所が、ままある。その辺りは注意して電子化するが、崩しで判断に迷った場合は、正字で示した。また、かなりの漢字に読みが添えてあるが、そこは、難読或いは読みが振れると判断したもののみに読みを添えた。

 また、本書はこの手の怪談集では、例外的で、上・下の巻以外(但し、それは、「続百物語怪談集成」でのことであって、実は底本では、その分かれ目さえもなく、ベタで繋がっているのである!!)には章立て・パート形式を採用しておらず、序もなく、本文は直にベタで続いているため(但し、冒頭には「百物語」の説明があって、それとなく序文っぽくはあり、また、教訓の和歌が、一種のブレイクとなって組み込まれてある)、私の判断で適切と思われる箇所で分割して示すこととし、オリジナルなそれらしい標題を番号の後に添えておいた

 さらに、挿絵が八枚(二幅セットで四種)あるが、底本は画像使用には許可が必要なので、やや全体に薄い箇所があるものの、視認には耐えるので、「続百物語怪談集成」のもの(太刀川氏蔵本底本)を読み込んで、トリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。いや、というより、底本の画像の状態が非常によいので、そちらを見られんことを強くお勧めするものではある。

 読み易さを考え、段落を成形し、句読点も「続百物語怪談集成」を参考にしつつも、追加・変更をし、記号も使用した。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化或いは「々」等に代えた。ママ注記(仮名遣の誤りが多い)は五月蠅いので、下附にした。

 なお、このブログ・カテゴリ「続・怪奇談集」なのであるが、一千件を越えたカテゴリ「怪奇談集」とリスト内で離れてしまっていて、私自身、何かと探すのに苦労するという、大いなるド阿呆状態に陥っているため、「怪奇談集Ⅱ」と変えることとする。

 

教訓百物語

 むかしから、『「百物がたり」すると、化物が出(で)る。』といふ事を云傳(いゝつた)へますが、是れは、はなはだ難有(ありがた)ひ[やぶちゃん注:ママ。]教(をしへ)なれど、是を実(まこと)にしる人が、なひ[やぶちゃん注:ママ。]。其(その)「百物がたり」の仕(し)やうはと、いへば、先(まづ)、大(をゝ[やぶちゃん注:ママ。])かはらけに、油を、一ぱい、さして、とうしんを、百すじ、入(いれ)、燈(とも)し置(をき[やぶちゃん注:ママ。])、さて、それから、こわひ[やぶちゃん注:ママ。]噺(はな)しを、一ッにしては、一筋、けし、又、一ッしては、一筋、けし、段々、次第に、けして、眞(ま)くらがりになると、それから、「化ものが、出る。」といふ。

 是れ、則ち、人の心の譬(たとへ)をいふたものじや。

 

Hyakumonogatari1

 

 先づ、天地(てんち)の變化(へんくわ)といふて、一切、万物(ばんぶつ)、みな、ばけざるものは、ない。

 先づ、春、夏、秋、冬と、ばける。四季の變化(うつりかは)るに、したがふて、草木さうもく)、花咲き、実のり、また、葉が落つる、盛へる、是れ、皆、ことごとく、化ものじやが、其中に、人は「萬物の長(ちやう)」といふて、身も心も、ともに、ばけものゝ根元じや。

 先づ、生れた時は、赤子(あかご)にて、身も心も、かわひ[やぶちゃん注:ママ。]らしいものじや。「やゝさん」と、いふ。

 扨(さて)、しばらくの間(ま)に、はや、步行(あるく)やうになると、色々の、わやくをすれば、人も「やゝさん」とはいはん、早(はや)、「ぼんさん」・「いとさん」と名が替るじや。[やぶちゃん注:「わやく」「枉惑(わうわく(おうわく):道義に反する言動によって人を惑わすこと)」の変化した語で、ここでは「悪ふざけ・悪戯(いたずら)」の意。]

 又、七ッにもなれば、はや、「七里(なゝさと)𢙣(にく)む」といふて、「由松(よしまつ)さん」の、「おぎんさん」のと、ばける。[やぶちゃん注:「七里(なゝさと)𢙣」(「惡」の異体字)「(にく)む」諺の「七(なな)つ七里(ななさと)憎まれる」がもとで、「数え七歳頃の男の子は悪戯盛りで、近くの村々の憎まれっ子になるということを言う成句。「七里」は数ではなく「多くの村々」の意。]

 それから、「息子殿」・「娘御(むすめご)」と、ばける間(ま)もなふ、「嫁どの」「聟樣」のと、化ける。

 又、間(ま)ものふ、「ぼん」が、「とゝ」と、いはれ、「嫁御」が、又、ばけて、「御内儀さん」の、「御家(をいへ[やぶちゃん注:ママ。])さん」の、「おかみさま」の、と、段々、ばけるじや。

 又、ばけよ[やぶちゃん注:ママ。「化け樣(やう)」の意。]が惡いと、「山の神」と、ばけるじや。

 こわひものナ。

 夫(それ)から、段々、白髮(しらが)が、はへ[やぶちゃん注:ママ。]て、しは[やぶちゃん注:「皺」。]がよる、齒がぬける。是れ、皆、自身、好んで、ばけるにも、あらず、しはをよせたり、白髮をこしらへ、目をかすめ、耳をば、遠(とふ)ふ[やぶちゃん注:ママ。聴力が減衰することを言う。]したり、歯を、ぬき、腰をかゞめ、とうどう[やぶちゃん注:「到頭(たうとう)」の誤記であろう。後半は底本では踊り字「〲」である。]、「祖父(ぢぢ)」・「祖母(ばば)」と、ばかさるゝ、此(この)ばかす次者(もの)を、しらず。[やぶちゃん注:「続百物語怪談集成」では、この最の箇所を「此ばかす者(もの)をしらず」と起こしているのだが、どうも、それだと、意味が通らないと私は思った。暫く底本の文字と睨めっこした。確かに「須」の字を崩したひらがな「す」には見える。しかし、これはまた、「次」の崩し字にも酷似すると感じた。「ぢぢ」「ばば」になったら、曾祖父母やその先代は、十把一絡げで「ぢぢ」「ばば」のまんまであるから、その「次」に化け物になって化かす「者」の存在を「知」らない、則ち、「次者」を「つぎのもの」と読んでみたのである。大方の御叱正を俟つものではある。

 〽あさおきて夕(ゆふ)べに顏はかはらねどいつの間にやら年は寄りけり

 〽はかなしや今朝(けさ)見し人の面影の立(たつ)はけむりの夕ぐれの空

 

フライング単発 甲子夜話卷之四十九 40 天狗、新尼をとる

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「天狗の情郞」(てんぐのかげま)の注に必要となったため、急遽、電子化する。特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も変更・追加し、鍵括弧記号も用い、段落も成形した。実は、これは二〇一七年に『柴田宵曲 妖異博物館 「天狗の誘拐」(2)』の注で電子化しているのだが、ここで、正規表現で仕切り直して示すこととした。但し、そこで私が述べた感じは、今も全く変わっていないので、転用してある。]

 

49-40 天狗、新尼をとる

 嵯峨天龍寺中《ちゆう》、瑞應院と云《いふ》より、六月の文通とて、印宗和尙、話《かた》る。

――天龍寺の領内、山本村と云に、尼庵《にあん》あり。「遠離庵《をんりあん》」と云。その庵に、年十九になる、初發心《しよほつしん》の尼あり。

 この三月十四日、哺時《ほじ》のほどより、尼、四、五人連《つれ》て、後山《うしろのやま》に蕨《わらび》を採《とり》にゆき、歸路には、散行《さんぎやう》して庵に入る。然るに、新尼《しんに》、ひとり、歸らず。人、不審して、

「狐狸のために惑はされしか。又は、災難に遭《あひ》しか。」

と、庵尼、うちよりて、祈禱・宿願せしに、明日に及《およん》でも、歸らず。

 その十七日の哺時比《ごろ》、隣村淸瀧村の樵者《きこり》、薪採《たきぎとり》にゆきたるに、深溪《ふかきたに》の邊《あたり》に、少尼《わかきあま》の、溪水《たにみづ》に衣《ころも》を濯《あら》ふ者、あり。

 顏容、芴然《こつぜん》たり。

 樵、

「かゝる山奧に、何《い》かにして、來《きた》れりや。」

と問へば、尼、

「我は、愛宕山《あたごやま》に籠居《こもりを》る者なり。」

と云。

 樵、あきれて、彼《か》れを、すかして、淸瀧村まで、つれ還り、

「定めし、かの庵の尼なるべし。」

と告《つげ》たれば、其夜、駕(かご)を遣はして、迎《むかへ》とりたり。

 尼、常は實體《じつてい》なる無口の性質《たち》なるが、何か、大言《だいげん》して罵《ののし》るゆゑ、「藤七」と呼ぶ俠氣(きやうき)なる者を招《まねき》て、これと對《たい》させたれば、尼、

「還《かへ》る、還る、」

云《いふ》て、

「去らば、飯を食せしめよ。」

と云ふ。

 乃《すなはち》、食を與へたれば、山盛なるを、三椀、食し終り、卽《すなはち》、仆《たふ》れたり。

 其後《そののち》は、狂亂なる體《てい》も止《やみ》て、一時《いつとき》ばかりたちたる故、最初よりのことを尋問《たづねとひ》たれば、

「蕨を採《とり》ゐたる中《うち》、年頃四十ばかりの僧、杖をつきたるが、

『此方《こなた》へ來るべし。』

と言ふ。その時、何となく貴《たふと》く覺へて、近寄りたれば、彼《かの》僧、

『この杖を、持《もち》候ヘ。』

と云て、又、

『眼を鿃《ふさ》ぐべし。』

と云しゆゑ、其《その》若《ごと》く爲《なし》たれば、暫しと覺へし間に、遠方に往《ゆき》たりと見へて、金殿・寶閣のある處に到り、

『此所は禁裡なり。』

と申し聞かせ、又、團子のやうなる物を、

『喰ふべし。』

とて與へたるゆゑ、食ひたる所、味、美《うま》くして、今に、口中に、その甘み殘りて忘られず、且《かつ》、少しも空腹なること、なし。

 又、僧の云ひしは、

『汝は、貞實なる者なれば、愛宕へ往きて籠《こも》らば、善き尼と、なるべし。追々《おひおひ》、諸方を見物さすべし。讚岐の金毘羅へも參詣さすべし。』

など、心好《こころよ》く申されたる。」

よし云《いひ》て、歸庵の翌日も、又、

「僧の御入《おはいり》じや。」

と云ゆゑ、見れども、餘人の目には、見へず。

 因《よつ》て、

「これ、天狗の所爲《しよゐ》。」

と云《いふ》に定め、新尼を親里《おやさと》に返し、庵をば、出《いだ》せし――

と、なり。

 或人、云ふ。

「是《これ》まで、天狗は、女人《によにん》は取行《とりゆ》かぬものなるが、世も澆季《げうき》に及びて、天狗も女人を愛することに成行《なりゆき》たるならんか。」

■やぶちゃんの呟き

「嵯峨天龍寺」「瑞應院」右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)にある臨済宗天龍寺派大本山霊亀山天龍寺(グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)。但し、塔頭「瑞應院」は現存しない。

「印宗和尙」不詳。

「天龍寺の領内、山本村」距離の近さからは、現在の亀岡市篠町山本であろうか。但し、幕末には亀山藩領であった。また、尼僧らの庵があったとすれば、殆んどが山林なので、この附近(グーグル・マップ・データ航空写真)に限られる。ロケーションとしては納得出来る。

「遠離庵」「をんりあん」と読んだ理由は「厭離」と音通するからである。

「哺時」は午後の非時(ひじ)である「晡時」。音は「ホジ」で申(さる)の刻。現在の午後四時前後を指す。但し、広く「日暮れ時」を言うので、ここは「ひぐれどき」と訓じている可能性もある(「東洋文庫」版ではそうルビを振る)。但し、私は、ここは尼寺でのシチュエーションであるからには、「晡」ではなく「哺時」(ホジ:食事の時間。本来は仏僧は午前中一回の食事しか摂らず、それを「斎(とき)」と称するが、それでは実際にはもたないので、午後に正規でない「非時」として晩飯を摂る)の意であると(同じく午後四時頃になる)考える。

「淸瀧村」現在の京都市右京区嵯峨清滝町(グーグル・マップ・データ航空写真)。旧山本村からは、相応な尾根を幾つも超えた場所ではある。

「芴然」の「芴」は「野菜」、特に「蕪(かぶら)の類」を指す。私は根茎の白さで、「青白い顔つき」ととる。

「澆季」現代仮名遣「ぎょうき」。「澆」は「軽薄」、「季」は「末」の意で、原義は「道徳が衰え、乱れた世」で「世も末(すえ)だ」と嘆息するところの「末世」(まっせい)を指す。単にフラットな「後の世・後世・末代」の意もあるが、ここで静山が言っているのは、鎖国で閉塞して爛れきった江戸時代の末期の世相を前者として捉えていたものでもあろう。

 最後に。私は、この怪異は擬似的なもののように思われる。則ち、『柴田宵曲 妖異博物館 「天狗の誘拐」(2)』の注で述べた通りで、寧ろ、佯狂(ようきょう)を疑うのである。善意に解釈するなら、この、なったばかりの若き尼は、実は尼になりたいなどとは思っていなかったか、同じ修行の尼僧らとの関係に於いて、実は激しいストレスを持っていたことから、一種の精神的な拘禁反応による心因性精神病から、ヒステリー症状を発し、突発的に山中へ遁走してしまい、保護されて庵に戻ってからも、病態が変化しただけで、遂には幻視(僧の来庵)を見るようになったのだ、と診断出来なくもないが、それより、全部が尼をやめるための大芝居だったと考えた方が、遙かに、ずっと、腑に落ちるのである静山が或る人の言葉を借りて言い添えた最後の皮肉も、実はそうした悪心を、この尼の心底に見たからではあるまいか、とも思われるのである。

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 五八番 お仙ケ淵

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

     五八番 お仙ケ淵

 

 小友(オトモ)村に上鮎買(《かみ》アユカヒ)と云ふ家があつた。此家の全盛の頃、お仙と云ふ下婢があつた。此女は每日々々後(ウシロ)の山へ往《い》つて小半時《こはんとき》も居て歸るのが癖であつたが、遂々《たうとう》そのまゝ還つて來なかつた。未だ乳放れのしない幼兒があるので、その夫は悲しみ且つ困つて、子供を背負つて山へ登り、

   お仙お仙、

   童(ワラシ)さ乳(チヽ)けてけろオ

と呼ぶと常の姿の儘で出て來て、子供に乳を與へた。お前が居ないと俺も此の子も困るから速(ハヤ)く家へ還つてくれと賴むと、もう物も言へなくなりたゞ頭を振るだけであつた。そのやうな事が四五日も續いた最後の日には、お仙の胸に蛇の鱗が生え出して居た。そして手眞似で、もう二度と此所へ來るな、いくら自分の子でも夫でも、段々と吾が性《しやう》が變つて來ると取つて食ひたくなると言ふやうで、形相《ぎやうさう》恐しく其所にある池の中に入つてしまつた。其後は夫も子供を連れて行かなくなつた。

 それから七日ばかり經つて大雨が降つて、大供水が出た時、お仙は立派な蛇體になつて、主家の前を流れて通り、そして小友川の水口(ミナグチ)の淵と云ふ淵に入《はい》ると、元のお仙の姿になつて水上《みなかみ》に立ち上つたが、忽ち淵底に身を隱して其所の主《ぬし》となつた。其所をお仙ケ淵と云ふ。

 お仙が子供に乳を與へた山を蛇洞といつて、今も古池がある。此話は餘り古い事ではないらしい。

 (大正十年十一月、同村松田新五郞氏からの報告に據れば、
 このお仙は物を云はぬやうになつたと云ふ事はなく立派な
 我が性を換へて蛇性《じやせい》となつたので、實子でも
 人間は食ひたくなる。それで以後決して當山に來るな云々
 と云つたと謂ふ。本話の分は松田龜太郞氏の母堂から聽い
 たのを記す。松田氏御報告分の六。)

[やぶちゃん注:この話、「遠野物語拾遺」の「三〇」に載るが、そこでは、「上鮎買」に相当する部分が『上鮎貝』となっており、『小友村字上鮎貝に、上鮎貝という家がある』と地名もその名であることが示されてあり、『上鮎貝の家の今の主人を浅倉源次郎という』とする。少なくとも地名は「ひなたGPS」のこちらを見られたいが、現存し、「鮎貝」が正しい。但し、家の名が「鮎買」と表記を変えていた可能性は十分にあり得ることではある(以上の引用は、所持する新潮文庫「遠野物語」(「再版」の「遠野物語拾遺」とのカップリング版・昭和四八(一九七三)年刊)に拠った)。いつもお世話になるdostoev氏のブログ『不思議空間「遠野」 ―「遠野物語」をwebせよ!―』のこちらで電子化されてあるので、比較されたい。

「小友村」現在の遠野市街の南西の山間部、岩手県遠野市小友町(おともちょう:グーグル・マップ・データ航空写真)。

「水口(ミナグチ)の淵」「お仙ケ淵」不詳。但し、同村の小友川と鷹鳥屋川(たかとりやかわ)の分岐地点の右岸に「厳龍神社」(グーグル・マップ・データ)がある。先のdostoev氏の記事でも、ローケーションとして、ここを挙げておられ、『おせんが蛟だとして、小友には古くから蛟を祀る神社がある。それは厳龍神社だ。御神体の不動岩の根元から湧き出る水は神水と云われ、岩にに刻まれている蛇腹の痕は、蛟(ミズチ)が昇降した痕であるという。そう氷口』(現在地名読み「すがぐち」:「ひなたGPS」のこちらを見ると、戦前の地図では「氷」には『シガ』のルビが振られている。これは訛りをそのまま振ったものに違いあるまい。面白い。なお、ここは「遠野遺産」指定の地域遺産「氷口御祝」(すがぐちいわい:祝宴に先立って歌われる式歌)で知られる)『も含め小友の信仰の中心は、この厳龍神社となる』とある。

「蛇洞」「じやほら」と読んでおく。山の位置は不詳。ちょっと目が留まったのは、「ひなたGPS」を調べていて見つけた「大洞」の地名(現在もある)と、その北の上にある630.8のピークであった。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 五七番 搗かずの臼

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

     五七番 搗かずの臼

 

 氣仙郡竹駒村無極寺《むごくじ》に殘つている譚である。昔此寺では每朝每朝未明から小僧どもに踏唐臼(スミカラウス)で米を搗かせた。或る時此邊では見慣れぬ美しい女が寺へ來て、どうかお住持樣に逢はせてクナされと言つた。何事かと思つて和尙樣が逢ふと、其女の云ふには、妾《わらは》は眞(ホント)に恥かしいが人間ではない。幾年となく此寺の眞下になつてゐる淵底に棲んで居る主《ぬし》である。妾は今身重《みおも》になつて臨月も最近になり產室《うぶや》に籠つて居るけれども、お寺で每朝每朝米を搗く杵《きね》の音が體に響いてたまらない。何卒慈悲をかけて身が二ツになるまで、米を搗く事を延ばしてはクナさらぬか、お願ひであると嘆くのであつた。和尙樣は快く其乞ひを入れて翌朝から臼を搗かぬと約束すると、女は喜んで其儘歸つて行つた。

 それから幾日も經たない或日の事亦其女がお寺に來たが、其時は玉の樣な赤兒《あかご》を抱いて居た。そして先日の禮を云ひ、一個の包み物を置いて還つた。後で開いて見ると、龍の玉、龍の爪、縫目なしの帷子《かたびら》の三品《みしな》であつた。之れは此の寺の寶物《はうもつ》として今でもある。さうして其の踏唐臼は永久に搗かずの臼として繩で縛つて置いた。

 (同村生れにて私の村へ聟に來た菊池田四郞翁の話。
 然《しか》し及川與惣治氏からの報告に據ると、氣
 仙沼の記事か何かからに據つて、無極寺のドウヅキ
 ツキの場合に女が出で來たと謂ふ風になつて、搗か
 ずの條は無い。蓋《けだ》し別譚であらうか、調査
 すれば直ぐ分る話でありながら、此所《ここ》には
 自分の蒐集した儘の物を書いて見る。)

[やぶちゃん注:「氣仙郡竹駒村無極寺」現在の岩手県陸前高田(りくぜんたかた)市竹駒町(たけこまちょう)下壺(しもつぼ)のここ(グーグル・マップ・データ)にある曹洞宗の寺院。弘安年間(一二七八年~一二八七年)の開山。但し、寺宝に以上の三品が現在もあるとする記載はネット上では見当たらない。

「踏唐臼(スミカラウス)」「ちくま文庫」版ではルビは『フミカラウス』とあるが、画像調整をして拡大して見ても、明かに「フ」ではなく「ス」である。誤植の可能性もあるが、暫くこのままとしておく。

「氣仙沼」現在の気仙沼市は陸前高田市の南に接する。

「ドウヅキツキ」「堂撞突き」か。『鐘「堂」(しょうどう)の鐘(かね)を「撞」(つ)くの役僧が)「突」(つ)くこと』の意か。]

大手拓次 「はるかに偲ぶこゑ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 はるかに偲ぶこゑ

 

このながれのなかに わたしはうかび

あわだつみづのなかに ひたひたとうかび

こゑのなかに咲く ひといろのにほひをもとめる

このくづれるこゑのとほざかり

また ちかづくこゑのつやめくほがらかさ

わたしはつつましい願ひのうちに

そのこゑのしぶきをしたふ

 

大手拓次 「靑くいろどられた瞼」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 靑くいろどられた瞼

 

やはらかさは

霧のなかにこもる月のひかり、

ふしめして とほくの心をよむおまへは

うごくともなく

うれひのなかに ゆれてゐる。

おまへの心にさはるために

わたしは そよ風のやうな手とならう。

 

大手拓次 「脣の刺」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 脣 の 刺

 

なにごともなく こゑをふまへて

うちかさなる なやみのそばをもとほりゆく。

 

うつろの花をゑがいて

旅から旅へおしせまる くちびるのとげ。

 

[やぶちゃん注:「もとほりゆく」「𢌞り行く」。「もとほる」は、多くの場合、「立つ」・「行く」・「這(は)ふ」などの連用形について「巡る・回(廻:まは)る」の意。「古事記」に既に見られる上代語である。]

大手拓次 「病氣の魚」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 病氣の魚

 

ひとつの 渚(なぎさ)のなかに暮れ、

はぎとられた 靑い鱗を鳴らしてかなしむ

病氣の魚(うを)の やさしい顏。

 

大手拓次 「白布にとりまかれた靈魂」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。

 標題の「はくふ」の読みは五月蠅いので、ポイントを下げた。]

 

 白布(はくふ)にとりまかれた靈魂

 

ひとむらの雜草の ながくのびたくびのほとりに、

まがまがしいうめきをたてつらねるのは

とげだつた くされかかつた魂の流れ身だ。

たえまもなく けむりかかる そのだらだらと呵責(さいな)まれた身體(からだ)ぢゆうに

よごれた白い布をまきつけて、

ただ ひとめのない時空のなかに

石のやうに おともなくたたずんでゐるのだ。

 

大手拓次 「陰鬱な羽根をひろげた烏蛇」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 陰鬱な羽根をひろげた烏蛇

 

なんといふこともない この怖ろしい戰慄のおとづれは

三つも四つもの眼(め)をもつた ある動物の肉體の襲擊のやうに

ひどく おしかぶさる重量を感じる。

咆哮してゐる夜陰の妖精どもをかりあつめて

一枚の翅のしたにしのばせ、

幻覺の太陽のやうに嫋嫋(でうでう)と口笛をひらく 鳥蛇の匍匐(ほふく)が

死の國の 白い音信(いんしん)をつたへてくる。

烏蛇の羽は未然の殺戮に醉(よ)つて轟轟(がうがう)とそよいでゐる。

 

[やぶちゃん注:「烏蛇」これはアオダイショウ(青大将:ナミヘビ科ナミヘビ亜科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora )、及び、シマヘビ(ナメラ属シマヘビ Elaphe quadrivirgata 。本種は普通は淡黄色の体色に四本の黒い縦縞模様が入る)種小名「 quadrivirgata 」は「四本の縞」の意)が、縞が全くない個体や頤の辺りが黄色い個体もおり、腹板が目立つ模様はなく、クリーム色・黄色・淡紅色を呈することもある]、或いはニホンマムシ(クサリヘビ(鎖蛇)科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii 。「マムシ」は恐らく有毒の広義の一部獣類を含む「蟲類」の強毒のチャンピオンという意味の「眞蟲」が語源と推定される)の孰れかを指す広汎な地方名である。「カラスヘビ」は文字通り、烏のように「黒い蛇」を通称総称するものであり、種名ではない。ここは私は毒蛇のニホンマムシをモデルにしつつ、羽を持った幻蛇としておく。メキシコ中央高原に栄えたトルテカ・アステカ両文明で信じられたハイブリッドの蛇神「ケツァルコアトル」(アステカ(ナワトル)語で「ケツァル鳥の羽を持つ蛇」。ケツァル(英語・スペイン語: quetzal)はメキシコ南部からパナマにかけての山岳地帯の森林に棲息し、鮮やかな色彩をもつ美しい鳥として知られるキヌバネドリ目或いはブッポウソウ目キヌバネドリ科ケツァール属ケツァール Pharomachrus mocinno :全長九十~百二十センチメートルにもなる大型の鳥で、頭から背にかけてが光沢のある濃緑色、腹部が鮮やかな赤色を呈する)や、中世ヨーロッパ(イギリスでは紋章の図柄とされた)の狂暴な幻獣「翼を持った蛇(ドラゴン)」「アムフィプテーレ(アンピプテラ:Amphiptere)がイメージとしてあるのだろう。

「嫋嫋」現代仮名遣「じょうじょう」。「裊裊」とも書く。①風がそよそよと吹くさま。②長くしなやかなさま。③ 音声が細く長く、尾を引くように響くさま。ここは、③の意が表で、裏で、「烏蛇」で②を、「口笛」「音信」で③を嗅がせた多重な形容表現である。]

大手拓次 「野を匍ひ步く耳」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

  

 野を匍ひ步く耳

 

葡萄のふさのやうにふんわりと ころもをきてうごき

金色(このじき)の木の實をうめて竪笛を吹きならす

この 旅路のなかに明滅する悲しい生きものよ、

うすい帽子の かすかにうかぶ

忘却のはてしない風景に

わたしの耳は 犬のやうにはひあるくのである。

 

2023/04/29

只野真葛 むかしばなし (61)

 

一、父樣、年わかの時分、專ら、師の如く被ㇾ成て、醫術御學被ㇾ成し人に、遠藤三省と云し町醫、有(あり)き。

 ある時、「病氣」のよし、引込(ひきこみ)ゐしを、尋られしに、三省、近くよび、聲をひそめ、いふ、

「此ほど、大きに仕(し)そこねし事、ありし。去(さる)かたの病人に、附子(ぶし)、少(すこし)、用ひ見たく思ひし故、生附子(せいぶし)を三分(ぶ)[やぶちゃん注:「一分」は〇・三八グラム。]、粉にして持行(もちゆき)、一分、試に吞(のま)せしに、其病人、卽死なり。家内、おどろき、疑ひ、『毒藥を飮せしならん。』と恨(うらみ)かゝりし故、其うたがひをなだめん爲、『全く、毒に非ず。いひわけのため、見る前にて吞てみするぞ。』と云(いひ)さま、はたきのみて、立(たち)しが、門を出(いづ)る比より、其腹痛、事、こらい[やぶちゃん注:ママ。]がたく、やうやう、床へはひ入(いり)しが、如ㇾ此(かくのごと)し。わづかの附子の爲、すでに死んとせしなり。必々(かならずかならず)、附子と云(いふ)もの、おろそかに思ふべからず。是は、醫のはづる事故、他言無用なり。」

と、をしへかたりしとぞ。

 とかくする内、外より、人音(ひとおと)して、

「御不快のよし、御見舞申(まうす)。」

とて、入來(いりき)たるは、兼て懇意にせし老醫なりし。

 一卜間へ通り、容子、見て、藥法を聞(きき)、

「それでは、行(ゆく)まへ[やぶちゃん注:ママ。]。附子さ、附子さ。」

と云を聞(きき)、

「アヽ、附子は、いやだ。」

と、病人、小聲にいひしを、父樣、きゝし時、

「をかしさ、こらへられざりし。」

と被ㇾ仰し。

 此人は、元來、堀田相模守樣の百姓にて、數代(すだい)、富家なりしを、三省、書學に達し、醫を好(このみ)て、百姓の人別(にんべつ)をも拔けずに、髮をそり、江戶に出張して、樂に醫をせし人なりしが、いかゞしてか、地頭に深く、にくまれて、沙汰なしに、三省が持山(もちやま)を伐りあらされしとぞ。

[やぶちゃん注:「堀田相模守」堀田正亮(正徳二(一七一二)年~宝暦一一(一七六一)年)。老中首座(寛延二(一七四九)年就任)。出羽国山形藩三代藩主・下総国佐倉藩初代藩主。因みに真葛の父工藤平助は享保一九(一七三四)年生まれで、宝暦四(一七五四)年、二十一歳で工藤家の家督を継ぐと、その頃から医師となっていた。]

 妻子、あわてゝ、此由(このよし)、三省につげしかば、いそぎ、下りて、さまざま申上しかども、取上(とりあげ)なかりしとぞ。

 其内に、江戶より、病用、しきりに申來りし故、先(まづ)、そのまゝにして、江戶へ行し跡にて、此度(このたび)は、先祖よりある墓所を、ほり穿(うが)ち、石碑を打碎(うちくだ)きなどして、傍若無人の振舞なりしとぞ。

 妻子、又、この由を、つげしかば、

「最早、堪忍成難(なりがた)し。めざす敵(かたき)は相模殿よ。」

と、いきどほり、公儀へ、其由、訴へ申上(まふしあげ)しとぞ。

 かくと聞(きく)より、堀田屋敷には、とりかたを差(さし)むけて、三省を召捕(めしとり)しとぞ。

 公儀よりは、

「三省は、一度、公儀へ願(ねがひ)申上しものなれば、このかた御牢入(ごらういり)と成(なる)、しかるべし。」

と被ㇾ仰しを、相模樣にては、

「大切の召人(めしうど)、もし、御取(おとり)にがし有(あり)ては、ならず。」

とて出されざりしを、重(かさね)て公儀より申來る。

「それは、過言なるべし。公儀御牢、何の麁略(そりやく)の有べき。」

と、いはれし故、差出(さしいだ)され、三省、公儀牢入と成しとぞ。

 公儀の御吟味は、

「三省が申上るは、一々、尤なり。地頭は、むたいなり。さる故、地頭の手にあらば、三省、不慮の死も、せんか。」

と、かくべつの御いたわり[やぶちゃん注:ママ。]にて、公儀へ取上られしなり。

 此あたり、金森樣といふ十萬石の大名、同じ百姓さわぎにて、つぶれし故、いかに尤の筋にても、何(なにがし)の守(かみ)の勤られし時、十萬石の大名、幾けん潰れしと、いはるゝ事を、其世(そのせい)の老中方(がた)、遠慮、有(あり)て、三省、勝(かち)には、なされ難く、しばらく御吟味の事なりしに、三省、御牢入の日より、水瀉(すいしや)、絕食にて、大病なり。日をヘて、よわるに付(つき)、保養のため、下宿させられしとぞ。

[やぶちゃん注:「水瀉」水様性の激烈な下痢をすること。]

 父樣は、師の如く被ㇾ成し人故、下宿まで御尋被ㇾ成しに、

「肉の落し事、人無(ひとなき)床(とこ)の如く、重病のていなりし。」

とぞ。

「いかゞしたる。」

と御尋有しに、

「扨(さて)、ふしぎなる事、あり。先達(せんだつ)て、附子、わづか、用(もちひ)て、已に死(しぬ)べく思ひし故、『命を絕(たた)んに、宜しきもの。』と、おもひて有しほどに、捕方(とりかた)來りし時、附子の粉を、壱包、下帶にはさみて出(いで)しに、牢入後、吞(のみ)たりしに、只、一通の水瀉に成(なり)て、少しも、腹中にとゞまらず、其後(のち)、食をたちて、病氣のていにもてなせども、心中、恙(つつが)なし。いまだ、人の試みぬ事を、我、試みたり。年わかき人の修行の爲、傳(つたへ)たく思(おもひ)しに、能(よく)も尋ねたり。」

とて、悅(よろこび)しとぞ。

「少しなれば、あたり多ければ、さわらぬ所、よく工夫、有べし。」

とて別れし後、大病人とおもひ、番人の、心ゆるせしを見すまして、夜中、ひそかにおき出、墨、くろぐろと、押(おし)すり、枕上の障子に、

  大家さんわしや遠藤へ行程に跡をゆるりと尋三省(たづねさんせい)

と、書(かき)て、行衞なく成しとぞ。

 相模樣よりは、

「それ見たか。申せしが、たがわず、取にがされたり。早速、尋ねいださるゝか、又、御役(おやく)退(しりぞ)くか、ニッ壹ッたるべし。」

と、火の付(つく)よふに[やぶちゃん注:ママ、]、催促なり。

 町奉行衆、當惑にて、草を分(わけ)て御せんぎ嚴しかりしが、終(つひ)に、行衞は、知れざりし、となり。

 三省が弟子に、よほど名有(なある)町醫、有(あり)しを、奉行所へ召(めし)て、三省が事、御尋ねありしに、少しもおくれたる色なく、詳(つまびらか)に申上たりしとぞ。

「其方宅へは、立(たち)よらざりしや。」

と被ㇾ仰しに、

「私事(わたくしこと)は、市中に住居仕(すまゐつかまつり)候へば、左樣の忍(しのび)もの、立よるべくも候はず。」

「いづくにむきて、行(ゆき)しや。」

と有しに、

「八王寺[やぶちゃん注:ママ。]に享宇と申(まうす)弟子御座候間、山を越、是が方(かた)をさして參りしならん。同人事は、老母御坐候が、孝子にて候得(さうらえ)ば、内へは入申(いりまうす)まじ。されど、師弟のよしみを以て、門口にて、茶漬めしをふるまふほどの事は致し申べし。それより三里ばかりへだちて、弟子の候が、金持にて、小馬鹿なる者に候へば、是が方に、四、五日、滯留、身體を養ひて、金にても借り候はゞ、乍ㇾ憚(はばかりながら)、御手には入申(いりまうす)まじ。」

と申上しが、後、御たゞし有しに、申上候に、少しも、たがはざりしとぞ。

「かほどに口聞(くちきく)町醫も、今は、なし。」

と被ㇾ仰し。

 父樣にも、下宿迄、御尋被ㇾ成し故、御疑(おうたがひ)かゝりしなるべし。其比、折々、おもてより、ふと、人の入來(いりきたり)ては、下男・下女の宿を聞(きき)し、となり。誰(たれ)も誠(まこと)の事をいひ聞(きこへ)しものもなかりしが、壱人、りちぎの女有て、誠にかたりしに、翌日、

「母、病氣の由、三、四日、御暇(おいとま)いたゞきたし。」

とて、願來(ねがひきた)りし故、つかはされしに、其女、歸りきて、母、病氣と申(まうす)は、僞(いつはり)、まことは、此間かけ落(おち)せし三省とやらいふ人の事、

「知りたるか。」

と御尋ねの爲、町奉行所へ出(だ)されしなりし。

「あらおそろし、おそろし。」

とて、色も靑く成りてゐたりしとぞ。

 外の者も、顏、見合(みあはせ)、

「能(よく)ぞ、宿をかたらざりし。」

と云合(いひあ)ひしとぞ。

[やぶちゃん注:「遠藤三省」不詳。ただ、幕末から明治初期の蘭方医で、医学塾「順天堂」第二代堂主で、大学東校(東大医学部の前身)初代校長などを歴任した佐藤尚中(しょうちゅう 文政一〇(一八二七)年~明治一五(一八八二)年)の顕彰碑(都立谷中霊園にある)のサイトの「碑石の裏面(建碑寄付者、発起人、幹事氏名)」のリストに、「遠藤三省」の名が見える。医名を継いだ後代の弟子か?

「附子」モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum のトリカブト類。「ぶす」でもよいが、通常は生薬ではなく、毒物としてのそれを指す場合に「ぶす」と呼ぶので、ここは「ぶし」と読んでおくべきであろう。本邦には約三十種が自生する。漢方ではトリカブト属の塊根を「附子」(ぶし)と称して薬用にする。本来は、塊根の子根(しこん)を「附子」と称するほか、「親」の部分は「烏頭」(うず)、また、子根の付かない単体の塊根を「天雄」(てんゆう)と称し、それぞれ。運用法が違う。強心作用・鎮痛作用があり、他に皮膚温上昇作用・末梢血管拡張作用による血液循環改善作用を持つ。しかし、毒性が強いため(主成分はアコニチン(aconitine)で、経口から摂取後数分で死亡する即効性があり、解毒剤はない)、附子をそのまま生薬として用いることは殆んどなく、「修治」と呼ばれる弱毒化処理が行われる。]

只野真葛 むかしばなし (60)

 

一、村田春海(はるみ)が父は、ほしか問屋にて、數代(すだい)の富家なり。代々、風流人なりし故、兄弟共、眞淵の弟子とせしなり。父なくなりて後、兄も三十の年にて、子もなくて病死す。春海は公儀御連哥師(れんがし)の家を繼(つぎ)しが、兄のなくなりし時、其家を捨て、町家をつぎしなり。生付(うまれるき)、かやうに分(ぶん)なき所有(あり)し人なり。其心から[やぶちゃん注:底本は「其心がから」。「日本庶民生活史料集成」で訂した。]、富家をも、また、潰して、流浪したり。

「大家をつぶせし人のしわざは、かくべつの事なり。」

と、父樣、被ㇾ仰し。

 たゞ壱(ひとつ)を聞(きく)に、吉原晝三(よしはらのちうさん)に、なじみ、通ひて、根引(ねびき)のつもりに成り、手付金二百兩、渡せしに、其後、音づれなかりしを、

『一日、二日は、何かとゞこほる事もや。』

と思(おもひ)て有(あり)しに、あまり程ふる故、人をやりてきかせたれば、

「此ほど、よきつれ有(あり)て、熱海へ湯治に行(ゆき)し。」

とて、留守なり。二百兩を、すて金にして、かまはぬ心なり。されば、哥も、人がら、よかりしなり。

 濱町のかり宅の近所に、春海、親類有し故、そこにかゝりて有しが、餘り、もの不自由のてい故、昔、父の代に、さる大名に、用金、多くいだせしを、返濟なかりし故、ひとつは家もつぶれし事と、段々、申(まうし)たて、

「俗名村田平四郞儀、只今、流浪致居候間、何卒御合力金(かふりききん)いたゞき度(たく)。」

と願(ねがひ)て、三十兩被ㇾ下はづ[やぶちゃん注:ママ。]にて有しが、

「受取(うけとる)時は、同人自身に出(いづ)べし。」

と、役人、いはれしとぞ。

「かしこまりし。」

とて、歸り、

「明後日は、ぜひぜひ受取にでられよ。」

と云(いひ)しに、其日に成(なり)て、

「いやなり。」

とて出ず。

「其元(そこもと)の爲、三度、五度、やしきへ通ひ、漸々(やうやう)成難(なりがた)き事を、こしらい[やぶちゃん注:ママ。]しに、餘りしき事なり。」

と腹立(はらたてれ)ば、

「心ざしは、かたじけなし。其金、得たるも、同じ事なり。されど、三拾兩ばかりの金、受取に、頭を下て出る事、何とも、はづかし。ゆるし給(たまは)れ。」

とて、出ざりしとなり。其親類、父樣に逢ふて、

「ケ樣の人故(ゆゑ)、こまる。」

と咄したりとぞ。

[やぶちゃん注:「春海」「只野眞葛 いそづたひ」で既注の、国文学者で歌人の村田春海(延享三(一七四六)年~文化八(一八一一)年)。

「ほしか」「干鰯」江戸時代、鰊(にしん)・鰯(いわし)などの乾燥肥料で、油粕とともに金肥(購入肥料)の中心商品作物で、特に木綿栽培の肥料として多く利用された。初めは九州・北国ものが多かったが、元禄(一六八八〜一七〇四年)頃から、九十九里や三陸方面で発達し、幕末は松前物が支配し、商業的農業の発達を齎した(「旺文社日本史事典」に拠った)。

「晝三」前回に既出既注

「根引」「身請」(みうけ)に同じ。芸娼妓(げいしようぎ)を落籍させることを言う。

「こしらいしに、餘りしき事なり」「無理をして、ようやっと、かく仕舞わしてやったのに、ここに至って、余りのことじゃないか?! どういう料簡かッツ?!」。怒ったのは、その手筈をわざわざやってやった春海の親類。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート ヒジリと云ふ語

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、「選集」標題後の参照附記の右に『柳田国男「聖という部落」参照』とある。これは、先に電子化した「柳田國男 鉢叩きと其杖」を含む連載の直前の一章「聖と云ふ部落」を指す。初出は『郷土研究』大正三(一九一四)年八月初出で、後の著作集では「毛坊主考」の一篇として収録されている。当該の柳田の論考は、国立国会図書館デジタルコレクションの「本登録」で見られる「定本柳田国男集」第九巻(一九六二年筑摩書房刊)のここから視認出来るので見られたい。今までのように、それを電子化すると、結局、一日仕事になるので、やらない。悪しからず。]

 

     ヒジリと云ふ語 (大正四年四月『鄕土硏究』第三卷第二號)

          (『鄕土硏究』第二卷第六號三二七頁參照)

 柳田君の論文に、小山田與淸《ともきよ》が『日知(ひとり)は日之食國(ひのをすくに)を知看(しろしめ)す日神(ひのかみ)に比したる美稱也」と云ふは、聖帝(せいてい)と書いてヒジリノミカド抔と訓んだ場合には當嵌《あてはま》るが、「日本紀」の古訓に、『大人』、又、『仙衆』を『ヒジリ』と讀み、後に、『人丸は歌の聖(ひじり)』抔云ふに適用し得ぬ、と有る。

[やぶちゃん注:以上は、冒頭注の当該書のここの段落冒頭『ヒジリと云ふ語が佛敎の中で發生したものでないことは、其語義の方からも證明し得るやうに思ふ。……』以下に出る。

「小山田與淸」国学者・故実家であった小山田与清(天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)。号は松屋(まつのや)。江戸の高田氏の養子となり、漕運業を営み、後に隠居して小山田の本姓に復し、学問に専念した。村田春海門下であるが、漢籍にも造詣が深く、博覧を以って知られ、特に考証に力を尽した。蔵書五万巻に及び、「群書捜索目録」の編纂に心血を注いだ。平田篤胤・伴信友とともに春海・加藤千蔭以後の大家と称される。「考証随筆松屋筆記」(文化末年(一八一八)頃から弘化二年(一八四五)頃までの約三〇年間に和漢古今の書から問題となる章節を抜き書きし、考証評論を加えたもの。元は百二十巻あったが、現在知られているものは八十四巻)が著名(概ね「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)であるが、以上の引用は柳田論考の方に、これは孫引きで、『燕居雜話引十六夜日記抄』を出典とする。「燕居雜話」(天保八(一八三七)年自序)は江戸後期の儒者日尾荊山(ひおけいざん:本名は瑜(「ゆ」と読んでおく)の考証随筆。所持する吉川弘文館随筆大成版で確認した。「卷之四」の「聖字和訓」である。短いので、国立国会図書館デジタルコレクションの正字表現の「日本隨筆大成 卷八」(昭和二(一九二七)年)所収の当該部を視認して以下に示す。【 】は底本では二行割注。

   *

   ○聖字和訓

小山田與淸が、十六夜日記抄に、日知(ヒシリ)は日之食國を知看(シロシメ)す日神に比したる美稱なり。神武紀己未の年に、大人【ヒジリ、】垂仁紀九十九年に、神仙【ヒジリ、】云々。また聖帝【ヒジリノミカド、】云々。續日本紀十九に、聖之御子曹云々。萬一に日知之御世徒云々。此外いと多かり。歌仙にいへるは、古今の序に、柿本人丸なむうたのひじりなりけると有といひて、ひじりといふことは、日ノ神に比したるといへるは如何にぞや。[やぶちゃん注:以下は底本には『頭書』とある。鍵括弧閉じるまでが、それ。]瑜おもヘらく、是壯歲忽々の考删なるべし。」こは生知の聖の義にして、獨知の略語也。まして歌の名人なればとて、かけまくも賢き日神にたぐへ奉るべきことかは、萬葉に日知とかけるは、訓を借りたるにて、例のことなり。宇義もていふべきことにあらぬぞかし。

   *

この「壯歲忽々」(さうさいこつこつ)「の考删」(かうさつ)というのは、「壮年の頃の早まった思い込み」という意であろう。]

 予、「古事記」を見るに、故其大年神。娶二神活須毘神之女伊怒比賣一、生二子大國御魂神一、次韓神。次曾富理神、次白日神、次聖神。〔故(かれ)、其の大年神(おほとしのかみ)、神活須毘神(かむいくすびのかみ)の女(むすめ)、伊怒比賣(いのひめ)を娶(めと)りて生める子は、大國御魂神(おほくにみたまのかみ)、次に韓神(からのかみ)、次に曾富理神(そほりのかみ)、次に白日神(しらひのかみ)、次に聖神(ひじりのかみ)。〕本居宣長の「記傳」十二に、『白日神の「白」の字は「向」にて「牟加比(むかひ)」なるべし。』とて、山城の向日明神《むかひのみやうじん》などを傍證として擧居《あげを》る。「古事記」に載せた同父兄弟の諸神の事功、相類《あひるゐ》せるが多い。大年神(おほとしのおかみ)は穀(たなつもの)の神で、向日神(むかひのかみ)と聖神(ひじりのかみ)の外に、園(その)の神、山里(やまさと)開(ひら)いた神、竈(かまど)の神、井の神、田地の神等を生んだ。乃《すなは》ち其兄弟が多くは田宅に關するから、類推すると、件《くだん》の二神も村落開設に功有《あつ》た神だらう。「記傳」卷六に、『上代日向(ひむか)ふ所を賞稱(ほめたゝ)へたる事多し』と云ひ、卷十五、『此地』『朝日之直刺(たゞさす)國。夕日之日照(ひてる)國』〔此の地は朝日の直(た)だ刺す國、夕日の日照る國」〕の傳に、龍田風神祭祝詞《たつたのかぜのかみのまつりのりと》「吾宮は朝日の日向(ひむか)ふ處、夕日の日隱(ひかく)る處」等の古辭を引いて、古く、或は「日向(ひなた)」或は「日影(ひかげ)」を讃《ほめ》た由、いひ、「萬葉集」に、家や地所を詠む迚《とて》、「日に向ふ」とか、「日に背《そむ》く」とか言うたのが、屢ば見ゆ。日當りは耕作畜牧に大影響有るのみならず、家事經濟未熟の世には、家居《いへゐ》と健康にも、大利害を及ぼせば、尤も注意を要した筈だ。又。日景(ひあし)の方向と、增減を見て、季節・時日を知ること、今も、田舍に少なからぬ。隨つて察すれば、頒曆(はんれき)抔、夢にも行《おこなは》れぬ世には、此點に注意して、宮や塚を立て、其影を觀て、略《ほぼ》時節を知《しつ》た處も本邦に有ただらう。されば、向日神(むかひのかみ)は、日の方向から、家相・地相と曆日を察するを司つた神と愚考す(「エンサイクロペジア・ブリタニカ」十一板、卷廿、オリエンテイションの條、サー・ノルマン・ロキャー「ストーンヘンジ」參看)。

[やぶちゃん注:『本居宣長の「記傳」十二に、『白日神の「白」の字は「向」にて「牟加比(むかひ)」なるべし。』とて、……』国立国会図書館デジタルコレクションの「古事記傳」(向山武男校訂・昭和五(一九三〇)年日本名著刊行会刊)の「第二」のここ(左ページ)で当該部が視認出来る。

「卷十五、『此地』『朝日之直刺(たゞさす)國。夕日之日照(ひてる)國』の傳に、龍田風神祭祝詞……」同前の著書のここで視認出来る。右ページの「○夕日之照國」の注の中に出現する。

『「エンサイクロペジア・ブリタニカ」十一板、卷廿、オリエンテイションの條』「Internet archive」の原本のここから(右ページ右段下方)から視認出来る。

『サー・ノルマン・ロキャー「ストーンヘンジ」』イギリスの天文学者ジョセフ・ノーマン・ロッキャー(Sir Joseph Norman Lockyer 一八三六年~一九二〇年)が一九〇六年に刊行した‘Stonehenge, and Other British Monuments Astronomically Considered’ (ストーンヘンジ、天文学的に考慮されたそれ及びその他のイギリスの石造建造物)。幸いなことに、英文サイトこちらで、電子化されたものが分割して読めるようになっている。]

 予は、柳田君の前に、君同樣、「ヒジリは『日を知る人』、卽ち、漢語で書けば『日者(につしや)』と云ふ語抔が、其初《はじめ》の意味。」と解いた人有るを、聞《きか》ず。隨《したがつ》て、柳田君の此解說を近來の大發明と感じ入り、其から類推して向日神(むかひのかみ)を上の如く釋《とい》たのだ。而して、向日神が、日の方角を察して家・地・曆日を知る神で、其弟、聖神(ひじりのかみ)は、日の次第で善惡を知つた神で、頗る似寄つた職を兄弟が司つたものに相違無い。日の次第や善惡を知悉する、乃《すなは》ち、曆と占《うらなひ》とを兼ねた者を聖人(せいじん)とするは、柳田君が擧げた新羅王の外に多々例有り。支那の上古、三皇五帝は、多く律・曆制定に功有《あり》て聖人たり。後代にも、刑和璞(けいくわはく)、曆の名人僧一行(いちぎよう)を、聖人ならんと歎じた事、「酉陽雜俎」に見ゆ。其頃の曆は、孰れも曆と占を混《こん》じた者だ。ヨセフスの語に、上帝、大洪水前の諸聖父(パトリアルクス)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]を長生せしめたは、其發明した幾何學と星學を成就せしむる爲で、六百年歷《へ》て、一運、過《すぐ》るから、せめて六百歲生きねば此成就は望まれぬに由《よ》ると云《いつ》たのも、是等の智識富める者を、神異の人とするに出たのだ(一八七七年板、フラムマリオン「星學譚奇(アストロノミカル・ミツス)」二五頁)。プレスコットの「祕魯征服史(ヒストリー・オヴ・ゼ・コンクエスト・オヴ・ペルー)」一卷四章に、古祕魯《ペルー》國人の曆學が、甚だ未熟だつた事を評して、古墨西哥(こメキシコ)の僧は若干の曆學智識に基いて星占術を立て、他から神聖らしく見られたが、祕魯の僧徒は、悉く、日の後裔と仰がるゝ貴族の出身ばかりだつたので、別段、星占術(アストロロギー)で身に威光を添ふるを要せなんだからだ、と說いた。向日神や聖神が、天照大神の末でなくて、素盞嗚尊《すさのをのみこと》の胤(すゑ)だつたのも、古祕魯同前の理由に出たものか。

[やぶちゃん注:「柳田君が擧げた新羅王」冒頭注の当該書のここの左ページ十行目下方以降に記されてある。

『刑和璞(けいくわはく)、曆の名人僧一行(いちぎよう)を、聖人ならんと歎じた事、「酉陽雜俎」に見ゆ』「中國哲學書電子化計劃」のこちらの二行目から影印本原文が視認出来る。第五巻の「怪術」パートにある。但し、この部分は長い話の一節で、開始箇所は、この後ろから二行目である。所持する今村与志雄訳注の「東洋文庫」版(一九八〇年平凡社刊)の同書の巻一の注によれば、「刑和璞」(そちらでは、「刑」ではなく「邢」である)は盛唐の道士で、『人の寿命を予知する能力に恵まれていた』とあり、「一行」(六七三年~七二七年)については、僧で科学者。特に暦象・陰陽五行に詳しかったため、玄宗皇帝の治世の開元暦を作っている。この僧は我々の想像を絶する有名人で、『現在、中国古代の代表的科学者のひとりとして、郵便切手(一九六二年一二月一日発行)にもなっている』(この切手は彼の中文ウィキに掲げられてある)。『一行については、唐代、一種の magician として目されていたのか、超現実的な奇異な逸話が多く語りつがれていた』とあった。本邦でも「真言八祖」(伝持の八祖)の一人に数えられている。

「聖父(パトリアルクス)」カタカナはラテン語。“patriárkhês”。人類の父と考えられている、聖書初期の登場人物の名でもあり、現在は「総大司教」を指す。

『一八七七年板、フラムマリオン「星學譚奇(アストロノミカル・ミツス)」二五頁)』これは、書誌データが正しくない。確かに、原著はフランスの天文学者で作家でもあったニコラ・カミーユ・フラマリオン(Nicolas Camille Flammarion 一八四二年~一九二五年)が書いた‘Histoire du ciel’(「天国の歴史」:一八七二年刊)ものだが、これはそれをもとに、イギリスの地質学者で、聖公会聖職者でもあったジョン・フレデリック・ブレイク(John Frederick Blake 一八三九年~一九〇六年)が英語に翻案した‘Astronomical myths : based on Flammarion's History of the heavens’ (「天文学の神話――フラマリオンの「天国の歴史」に基づく」)である。「Internet archive」のこちらでブレイクの原本が見られ、ここが当該部である。

『プレスコットの「祕魯征服史(ヒストリー・オヴ・ゼ・コンクエスト・オヴ・ペルー)」一卷四章』底本ばかりでなく、「選集」も書名を、それぞれ「祕魯制服史」「秘魯制服史」とやらかしているのには呆れ果てた。同書はアメリカの歴史家で、特にルネッサンス後期のスペインとスペイン帝国初期を専門としたウィリアム・ヒックリング・プレスコット(William Hickling Prescott 一七九六年~一八五九年)が書いた‘The Conquest of Peru’(「ペルーの征服」:一八四七年刊)。「Internet archive」の一九〇八年版だが、当該章はここから。]

 兎に角ヒジリは日知(ひじり)で、曆書無い代には、中々、尊ばれた事、今日、田舍で「槌《つち》の入り」とか、「八專(はつせん)が來た」とか、心得た者は、梅雨(つゆ)明かぬに、糊を拵へず、種蒔き時を間違へぬほどの益は、必ず、有り。是等の心得無き者は、每々《たびたび》大齟齬(おほすかまた)をやらかすので、察すべし。是を以て、「古事記」の筆者、業(すで)にヒジリに「聖」の字を宛てたは、孔子以後、聖人と無し抔いふ儒說《じゆせつ》から見たら、餘りの事だらうが、常人に勝れた物知りを賢人と見立てて、拔群の賢人を聖と做《みな》す眼には、物知つたばかりの賢人の上に、特種の神智を備へたらしい日者を聖と立てたは尤もな仕方だ。扨、其日知りの道を司るとか、始めたとかの意で、聖神を立てたのだろ。近い話は、英語や佛語の Sage を聖人と譯した人も有るが、原(もと)拉丁《ラテン》の Sapiens(博識(ものしり))から出たので、聖賢孰れにも充て得る。英語で Wise Man と釋(しやく)するから、先《まづ》は賢人に當《あた》る。然《しか》るに、英語で Wise Woman 、佛語で Sage Femme 、孰れも、字の儘では、「賢女」(若《もし》くは聖女)だが、前者は「巫女(みこ)」又は「卜女(うらなひをんな)」、又、「魔術女」、後者は「產婆」に限られた名と成居《なりを》る。是はラテン語 Saga 、複數で Sagae が、產婆・卜女・媒女《なこうどをんな》・香具(かうぐ)媚藥賣(ほれぐすりう)り・墮胎師(こおろし)等に涉《わた》れる總名で、老衰した娼妓抔が、此等の如何《いかが》はしい藝道なら、何でも知《しつ》て居《をつ》た「怪《けし》しからぬ物知り女」を指した名で、其を「賢女」、又、「聖女」と英・佛に譯した所が、「日知り」を「聖」に充《あて》た「古事記」筆者の用意に似て居《を》る(一八五一年板、ジュフール「賣靨史(イストア・ド・ラ・プロスチチユシヨン)」二卷一二五頁參取)。

[やぶちゃん注:『一八五一年板、ジュフール「賣靨史(イストア・ド・ラ・プロスチチユシヨン)」』不詳。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 五六番 母の眼玉

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから(本文はそこで終わりだが、次のコマに附記がある)。]

 

     五六番 母の眼玉

 

 ある山里に、ひどく仲の良い夫婦があつた。別段何の不自由なこともなく暮しておつたが、ただ夫婦の間に子供の無いのが不足だつた。そのうちにあれ程丈夫であつた妻がフトした風邪がもとで死んでしまつた。

 夫は泣く泣く野邊の送りを濟ませた。けれどもそれからは全く氣が拔けたやうに、ぼん

やりとして月日を送つて居た。すると或日のこと、何處から來たのか、若い美しい姉樣が來て一夜の宿を貸してクナさいと賴んだ。男も淋しくて居た時だから、入つて泊つてもよいと云つた。其晚女は泊つて、翌朝になつたが立つて行くフウもなく、いろいろと家の仕事をして居た。其翌日も女はさうして居るので、何時の間にか二人は夫婦になつてしまつた。

 月日は經つて女は懷姙をしたと云つた。やがて生み月になつた。女が夫に云ふには、妾《わらは》のお產の時には圍《かこひ》を造つてクナさい。そして妾が產の紐を解いて出て來るまで、產室の中を決して決して覗いて見ないでクナさいと諄《くど》く諄く云つて賴んだ。夫はそれを承知して、俄に圍を造つて其中に女房を入れた。女はなほも繰返し繰返し決して此内を覗いて見てクナさるなと念に念を押して產室に入つた。

 男は初めのうちは女の云ふことを聽いて產室の中を見ないで居たが、一日經ち二日經ちするうちに、どうしても内の樣子が心配でたまらず、ハテ女房は今頃は子供を生んだか、それとも病んで苦しんで居るのではないかと思つて、女には決して氣づかれないやうに、コソツと忍び寄つて行つて、靜かに圍の板の小さな節穴コから窃《そ》つと内の樣子を覗いて見た。すると中には一疋の恐ろしい恐ろしい大蛇が赤子を眞中に置いてとぐろを卷いて居た。それを見て男はあまりの恐ろしさに思わず聲を立てやう[やぶちゃん注:ママ。]としたが、否々《いやいや》こゝで心を落着けなくてはならぬと思つて、なほまた例へどんな魔性の物だとは云へ、一度は夫婦の契りを結んだものだもの、あゝ俺は見ては惡い物を見てしまつたと後悔して、そのまゝ又そつと足音を立てないようにして母屋《おもや》の方に引ツ返して來て默つて居た。

 その中《うち》に七日の枕下げも過ぎたから、女は圍の中から綺麗な男の子を抱いて出て來た。そして暫時《しばらく》さめざめと泣いて居たが、妾はお前と末永く夫婦の契りを結びたいと思つて子供まで生んだが、もう今日きりこれで別れねばならない。どうしてお前はあれ程見てくれるなと賴んだ產室の中を覗いて見たかと歎いた。それでお前に妾の本體を見られゝば、もう恥かしくて此所に止まつて居ることが出來ないし、又永く人間の姿もして居られないから、妾はもとの山の沼へ還るから、この子供ばかりは大事にして育てゝクナさいと言つて泣いた。男は待て々々、見るなと云ふたのを見たのは俺が惡かつた。それもこれもみんな俺がお前の體を案じてしたことであるからどうか惡く思つてくれるな。今お前に此の赤子を置いて行かれたら乳も無いし、俺がナゾにして育てることが出來るか、せめて此子が三つ四つになる齡頃《としごろ》まで居てくれろと賴むと、女はそれでも妾は一旦本性《ほんしやう》を見られゝば、どうしても行かねばならぬから行くことは行くが、本當にこの子もムゾヤ(可愛想)だから、それでは此子が泣く時にはこれを甞《な》めさせてクナさいと言つて、女は手づから自分の左の眼玉をクリ拔いて取つて置いて、忽ち大蛇に化(ナ)つてずるずると山の沼ヘ走つて行つてしまつた。

 男は子供の名前を、坊太郞とつけて、泣く時は、そのオフクロ(母親)の眼玉をサヅラセて育てて居た。坊太郞は其眼玉をサズツたり持つて遊んだりして育つて居たが、日數《ひかず》が經つうちに眼玉がだんだん小さくなつて、遂々《たうとう》みんなシヤブリ上げてなくしてしまつた。眼玉が無くなると、坊太郞は泣いてどんなにダマシ(あやし)ても泣き止まぬので、父親は仕方なく、坊太郞をオブつて坊太郞の母を尋ねに出かけた。たづねてたづねて山の奧の奧の沼に行つた。そして沼のほとりに立つて、坊太郞アオガア(母)どこだべなア、坊太郞アオガアどこだべなアと呼ばると、沼の中から大蛇が出て來て何しに來たマスと言つた。夫は俺ア何しにも來ないがお前が居なくなつてから、此子に每日每日お前の眼玉をサヅらせて、今日まで育てて來たけれども、もうその眼玉も甞めあげてしまつたので、坊太郞が泣いて仕方がないから來たと云ふと、大蛇は悲しさうなフウをして居たが、父《とと》な、それではもう一ツの眼玉をあげるが、これで妾の眼玉はもう一ツも無くなつて、夜明けも日暮れも解らなくなり、不自由になるから、お前がこの沼のほとりに鐘を釣るして、明け六ツ、暮れ六ツの時刻に、その鐘をついて鳴らして知らせてクナさいと言つて、手ずから自分の殘りの右の眼玉をクリ拔いて、それを坊太郞の手に持たした。そして別れるのは悲しいがコレで妾は還ると言つて顏を血だらけにして沼の中に沈んでしまつた。[やぶちゃん注:「明け六ツ、暮れ六ツ」不定時法。「明け六ツ」は夏至の頃(①)で午前四時頃、春分・秋分の頃(②)で五時半頃、冬至の頃(③)で午前六時半過ぎ頃、一方、「暮れ六ツ」は①で午後八時前、②で午後六時半過ぎ、③で午後五時半頃となる。]

 父親は妻の大蛇が目が無くて不自由だらうと思つて、沼のほとりの峯寺《みねでら》に大鐘を納めて明けの六ツ、暮れの六ツにその鐘搗いて、時刻を知らせた。

 坊太郞は眼玉をサヅつてだんだん大きく育つた。そして俺の母が沼の中に入つて居ると云ふことを聞き、或日沼のほとりへ行つて、坊太郞アオガア出ておでアれ、坊太郞アオガア出ておでアれと呼ぶと、大蛇の母はもとの人間の姿になつて出て來た。それでも盲目だから坊太郞が見れないので、坊太郞の顏を手さぐりにさぐつて見た。坊太郞はお母をおぶつて家に連れて歸つて、座敷を造つて其所に入れて置いて、每日々々母の好きな物を食はせて孝行した。

 (江剌郡梁川《やながは》村口内《くちない》邊《あ
 たり》にあつた話、菊池一雄氏が母上から聽かれて知ら
 してくれたものである。昭和三年の冬の分。同氏御報告
 分の二。)

[やぶちゃん注:なにか、しみじみとした哀感のある異類婚姻譚である。大蛇が人の「女」となって男と交わるという型は、全国的に見れば、それほどポピュラーではないと思われる。ただ、最終段落で、夫が語られないのは、ちょっと残念である。夫は坊太郎が成長して程なく、亡くなったということだろうか。にしても、後に別な話者によって子ども向けに追加されたハッピー・エンドデ追加されたのだろうが、何となく唐突な感は免れない。なお、「盛岡市上下水道局」公式サイト内に「盛岡弁で聞く水にまつわる岩手の民話 ~水と私たちの今、昔~」があり、畑中美耶子さんの朗読になる、本話の話が「6」の「おがぁの目玉」で聴ける。是非、お聴きあれかし!

「江剌郡梁川村字口内」旧梁川村は旧江刺郡で、奥州市江刺地区の北北東に当たる、現在の岩手県北上市口内町(くちないちょう:グーグル・マップ・データ航空写真)。中央と南東を除く三方は山間地である。「ひなたGPS」で戦前の地図と国土地理院図並べて見ると、溜池とは思われるが、谷奥に多数の池沼らしきものが、今も現認出来る。

「菊池一雄氏」「御報告分の二」「一」は「五二番 蛇息子」で、話柄内容の類似性は認められないが「蛇」絡みという点では通性はある。]

大手拓次 「骸骨は踊る」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 骸骨は踊る

 

ぺき ぺき ぺき と

うすい どうんよりとした情景につれてをどる

いつぴきの しろい骸骨(がいこつ)が、

ぬしの知れない ながい舌がふらりと花のやうにたれさがり

蕭蕭(せうせう)と風をあふるのだ。

ふくらみきつた夜(よる)の胴體のまんなかに

しろい ふにやふにやした骸骨は、

螢のやうな魂を手にぶらさげて

きやらきやらと をどりまはるのだ。

 

大手拓次 「腐つた月光」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 腐つた月光

 

くさつた月のひかりだ

魚(うを)が

一疋 一疋 一疋 一疋 一疋 一疋 一疋 一疋 一疋

 

靑錆色(あをさびいろ)にくさつた月のひかりだ

魚が

一疋 一疋 一疋

一疋 一疋 一疋 一疋 一疋 一疋

 

魚が つながつてゐる

一疋 一疋 一疋 一疋 一疋

 

泥のやうにくさつた月の光の泡だ

魚が ぴんとはねる

一疋 一疋 一疋 一疋 一疋 一疋

 

しわだらけな月の光だ!

 

大手拓次 「戀人のにほひ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 戀人のにほひ

 

こひびとよ、

おまへのにほひは とほざかる むらさきぐさのにほひです、

おまへのにほひは 早瀨のなかにたはむれる 若鮎のといきのにほひです、

おまへのにほひは したたる影におどろく 閨鳥(ねやどり)のゆめのにほひです。

 

こひびとよ、

おまへのにほひは うすくなりゆく朝やけの ひかりの靄(もや)のひとときです、

おまへのにほひは ふかれふかれてたかまりゆく 小草(をぐさ)のみだれです、

おまへのにほひは すみとほる かはせみの ぬれた羽音です。

 

こひびとよ、

おまへのにほひは きこえない祕密の部屋の こゑの美しさです、

おまへのにほひは ひとめひとめにむれてくる ゆきずりの姿です、

おまへのにほひは とらへがたない ほのあをの けむりのゆくへです。

 

こひびとよ、

おまへのにほひは ゆふもや色の 鳩の胸毛のさゆれです。

 

[やぶちゃん注:「むらさきぐさ」「紫草」。「むらさき」という場合、標準和名には、既に古代から染料として栽培され(かの「万葉集」の「紫野」がその栽培地を指す語)、後に所謂、「江戸紫」とよばれる色名で知られる現植物に双子葉植物綱シソ目ムラサキ科ムラサキ属ムラサキ Lithospermum erythrorhizon があるが、この草花は香気があるわけではないから、違う。この場合、日本固有種で、丁度、今、紫色の花を咲かせている「藤」、マメ目マメ科マメ亜科フジ連フジ属フジ Wisteria floribunda を指す。「Glycine の香料」の私の注の冒頭を参照。

「閨鳥(ねやどり)」日本語では特に特定の種を指す語ではない。単語から受ける印象の一つは、フクロウ目フクロウ科フクロウ属 Strix 或いはタイプ種であるフクロウ Strix uralensis を想起させるようにも思えるが、そもそも、ここは、この「鳥」は「閨」房の中にいるの鳥であり、それはしどろに眠っており、夢を見ているというシチュエーションであるから、「梟」(ふくろう)はそれほど相応しくない。しかし、一つ考えるのは、本邦には棲息しないヨーロッパ中央部・南部や地中海沿岸と中近東からアフガニスタンまで分布する、西洋のウグイスとも言われるほど鳴き声の美しいスズメ目ヒタキ科 Luscinia 属サヨナキドリ Luscinia megarhynchos、小夜啼鳥、所謂、「ヨナキウグイス」(夜鳴鶯)、所謂、「ナイチンゲール」(英語:Nightingale)の名で知られるそれを思い浮かべる方もあろう。フランス語では“Rossignol”(ロシニョォル)。当該ウィキによれば、『森林や藪の中に』棲息し、『その名の』通り、『夕暮れ後や夜明け前によく透る声で鳴く』とあるのだが、その鳴き声は例えば、YouTube のNevezetes Névtelen 氏の“Csalogány (Luscinia megarhynchos) 2.”をお聴きになれば、ナイチンゲールの声は、美しいが、賑やかであり、「閨」に夢を見ている「鳥」を目覚めさせてしまう鳴き声であって、やはり「閨鳥」とは、逆立ちしても言えない。蛇足だが、寧ろ、夢を誘うなら、フクロウの方が相応しい。私の寝室のすぐ上の山蔭に十年以上、フクロウが棲んでいるが、私はその声を聴きながら眠りにつくのを常としているからである。以上から、ここは種を同定する必要はなく、先の太字下線の意でとっておけば、それで、その場面はすんなりと読めるものと思う。]

2023/04/28

譚海 卷之五 江戶彥根領むべの事

 

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。思うに、以上の目次にある標題中の「江戶」は「江州」の誤りかとも思われる。なお、彦根藩の場合、元和二 (一六一六) 年以降、周辺の幕府直轄領からの年貢米二万石を毎年備蓄することが定められていたと、QAサイトの回答にはあったが、彦根藩内に天領があったという記載には行き当たらなかった。]

 

○江州彥根に、禁裏へ「むべ」を獻ずるものあり。大津の宮の御宇より、こゝに住居して、子孫、絕えず、今に每年、供御(くご)に獻上して、「むべの御朱印」といふ物を、つたへたるものなれば、由緖ある家なるゆゑ、數世(すうせい)の子孫の中には、惡行の者も有(あり)て、斷絕に及(およば)んとせし事、しばしば成(なり)しかども、領主よりも宥免(いうめん)ありて、今に家を傳へたり。彼が先祖、はじめて天智天皇へ供御に奉(たてまつり)し時、「むべ成(なる)もの也。」と勅諚(ちよくぢやう)ありしより、此樹の名と成(なり)し事とぞ。此(この)「むべの木」、其家にばかりあり、殊の外、大切にして、外(ほか)へちらさず、「さし木」にすれば、能(よく)生ずる物也と、いへり。

[やぶちゃん注:「むべ」常緑蔓性木本の双子葉植物綱キンポウゲ目アケビ科ムベ属ムベ Stauntonia hexaphylla 。漢字は「郁子」「野木瓜」などと書く。参照した当該ウィキによれば、『和名「ムベ」は、古くに果実を朝廷に献上したオオムベが転じたものとされる』。『また』、『アケビ』(アケビ科Lardizabaloideae 亜科Lardizabaleae連アケビ属アケビ Akebia quinata )『に似ていて常緑なので、別名「トキワアケビ」(常磐木通)ともいう』。『方言名はグベ(長崎県諫早地方)、フユビ(島根県隠岐郡)、ウンベ(鹿児島県)、ウベ』、『イノチナガ、コッコなどがある』とあり、]『日本の関東地方南部以西の本州・四国・九州・沖縄』。『その他』、『メディアで取り上げられる地域は京都府福知山市夜久野地区、日本国外では朝鮮半島南部』、『台湾、中国に分布する。暖地の山地や山野、海岸近くに自生する』。『果期は』九~十月で、果実は五~七センチメートルの『楕円形で』、『暗紅紫色に熟す。この果実は同じ科のアケビに似ているが、果皮はアケビに比べると』、『薄く柔らかく、熟しても』、『心皮の縫合線に沿って裂けることはない』。『果皮の内側には、乳白色の非常に固い層がある。その内側に、胎座に由来する半透明の果肉をまとった小さな黒い種子が多数あり、その間には甘い果汁が満たされている。果肉は甘く食用になるが』、『種がしっかり着いており、種子をより分けて食べるのは難しい。自然状態ではニホンザルが好んで食べ、種子散布に寄与しているようである』とある一方、『日本では伝統的に果樹として重んじられ、宮中に献上する習慣もある』とし、上記のような理由から、『商業的価値はほとんどないが、現在でも生産農家はあり、皇室のほか、天智天皇を祭る近江神宮、靖国神社に献上している』とある。また、脚注5にある、「産経新聞」公式サイト内の「関西の議論」の『不老不死の実「ムベ」 古代から皇室に献上された伝説の果実求め全国から人が絶えず…』の二〇一五年十一月十六日附の和野康宏氏の記事に、『琵琶湖の東岸に位置する滋賀県近江八幡市で、「ムベ」と呼ばれる伝説の果実が栽培されて』おり、『ニワトリの卵よりやや大きく、熟すと赤紫色になるこの実は、「食べると長生きする」という言い伝えから不老長寿(不死)の実といわれ、古代から昭和』五七(一九八二)年『まで皇室に献上されてきた。その後、献上はいったん途絶えたが、地元の宮司らが「地域の伝統を取り戻そう」と』、平成一四(二〇〇二)年、約二十年振りに献上を『復活させた』とあり、『ムベという名の由来は近江八幡にあ』って、『言い伝えによると、天智天皇』(在位:六六八年~六七二年)『が琵琶湖南部の蒲生野(かもうの)(現滋賀県東近江市一帯)へ狩りに出かけた際、奥島山(現近江八幡市北津田町)に立ち寄った』ところ、『そこで』八『人の息子をもつ元気な老夫婦に出会い、「お前たちはなぜ、このように元気なのか」と尋ねたところ、老夫婦は「この地で採れる無病長寿の果物を、毎年秋に食べているからです」と答え、果物を献上した。それを賞味した天皇が「むべなるかな(もっともだな)」と言ったことから、この果物が「ムベ」と呼ばれるようになったという』とあって、『以来、毎年秋になると同町の住民から皇室にムベが献上されるようになったとされる。平安時代に編纂』『された法令集「延喜式」』の三十一『巻には、諸国からの供え物を紹介した「宮内省諸国例貢御贄(れいくみにえ)」の段に、近江国からフナ、マスなどの琵琶湖の魚とともに、ムベが献上されていたという記録が残っている』とあった。

「大津の宮」天智天皇のこと。彼は天智天皇六年三月十九日(六六七年四月十七日)に近江大津宮(現在の大津市)へ遷都し、そこで亡くなったことによる。

「供御」天皇の飲食物を指す尊敬語。

「宥免」(現代仮名遣「ゆうめん」)罰などを緩やかにして宥(ゆる)すこと。寛大に罪を免汁じること。

「勅諚」「勅命」に同じ。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 五二番 蛇息子

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから(本文はそこで終わりだが、次のコマに附記がある)。]

 

   五五番 蛇 息 子

 

 閉伊ノ郡《こほり》に刈屋長者と云ふ長者があつた。或時ツボマエで一疋の蛇を叩き殺したら、三ツに切れて死んだ。長者には子供が無かつたがそれから間もなく妻女が懷姙した。今まで欲しい欲しいと思つて居たのだから、其喜び樣はなかつた。其中《そのうち》に月が充ちて、玉のやうな男の子が生れた。それから年々通し子に先にもまさるような美しい男の子を二人生んだ。男の子ばかりの三人兄弟だものだから、長者はなんぼか心丈夫に思つて大事に育てゝ居た。三人の兄弟はまた類《るゐ》の無いほど仲が良かつた。長者夫婦も非常に喜んで居ると、總領が二十歲《はたち》の時に死んだ。それからは續けて二十歲になれば子供が死に死にして、遂に三人とも亡くしてしまつた。

[やぶちゃん注:「年々通し子に」「としどし、とほしごに」(=年子(としご)に)恵まれて、の読みと意味であろう。]

 長者夫婦はそれをひどく泣き悲しんで、どうしても亡くなつた子供の事は忘れられない、忘れられないと言つて嘆いて居た。すると旅の六部《ろくぶ》が來て、田名部《たなぶ》の恐山《おそれざん》にお詣りをすると、死んだ子供等の姿が見えると言つた。そこで長者は身上《しんしやう》を皆賣つて、妻を連れて恐山詣《まゐ》りに出かけた。

[やぶちゃん注:「閉伊ノ郡」当該ウィキによれば、近代の明治一一(一八七八)年に行政区画として発足した当時の「閉伊郡」の『郡域は、遠野市・宮古市・上閉伊郡・下閉伊郡および釜石市の大部分(唐丹町を除く)に』相当し、『分割以前の陸奥国内で』は、『津軽郡に次いで』、『面積が大きく、陸中国では最も面積の大きい郡であった』とある。そちらの地図を参照されたい。

「六部」既出既注

「田名部の恐山」現在の青森県むつ市田名部(たなぶ)宇曽利山(うそりやま)にある恐山(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。私も訪れたことがある。なお、ここは田辺部の飛び地で、恐山の手前の「三途の川」から南東の短い国道四号が貫通する部分の間は、青森県むつ市大畑町である。これは、各地の飛び地によくある理由で、古くから主な関係を持っていた地域に近代以降も所属するそれとして、こうなったものであろう。霊場としての恐山の歴史的・民俗学的な内容(知られたイタコの口寄せ等。但し、そこにある通り、『恐山で口寄せが行われたのは戦後になってから』である。以下でも、霊を呼び出すのはイタコではない)は、当該ウィキ及び、そこの各種リンク先を参照されたい。]

 恐山に行つて、お上人樣にかくかくの譯であるから、どうぞ子供等の姿を一目なりとも見せて下されと、願つたら、お上人樣はそれでは見せてやるが、姿を現はした時、少しでも聲を出してはならぬ。そして儂《わし》の衣の袖の下から顏を出して見て居ろと言つた。そしてお上人樣がお經を上げ始めると、遠くからにぎやかな音が、だんだんこちらに近づいて來るのであつた。いよいよ須彌壇《しゆみだん》の所まで來て、壇をぐるぐると廻るのは、懷かしい吾子三人であつた。夫婦は初めのうちは、お上人樣の衣の袖の下から默つて見て居たが、あんまり懷かしさに、思はず知らず子供等の名前を呼んだ。すると忽然と三人の姿が一ツになつて大きな蛇に化(ナ)つた。そしてその大蛇が、長者殿實は俺等はお前に殺された蛇である。それでお前だち[やぶちゃん注:ママ。]の子供に生れ變つて讐《かたき》を取らうと思つて、天を探しても地を分けても草葉の露ほども子種《こだね》とてないお前だちの子供として生れたのだが、お前だちにあんまり大事にされるので、俺等の本望を遂げかねたのが口惜しいぞやと言つて、ベカツと消えてしまつた。

 (閉伊郡橋野通にあつた話。菊池一雄氏御報告の分の一。)

[やぶちゃん注:「須彌壇」(現代仮名遣「しゅみだん」)仏像を安置する台。元来は仏教の世界観で世界の中心に聳えるとされる高山である須彌山に象った台座のこと。ネットの小学館「精選版 日本国語大辞典」によれば、寺の『仏堂内の仏像の台座をいうが、内陣の中心位置に造り付けられ、その上に安置した仏像を載せるものと、仏像の台座としてのものの二種類があり、一般には前者を指す』とあり、また『「須彌壇」という語自体は近世になってから用いられ始めたようで、それ以前は「仏壇」と称している』とあった。リンク先には図がある。なお、恐山にある恐山菩提寺については、ウィキの「菩提寺(むつ市)」によれば、『この寺の創建年代等については不詳であるが、寺伝によれば』、貞観四(八六二)年に『天台宗の僧円仁がこの地を訪れ創建したと伝えられる』が、『その後』、『衰退していたが』、戦国時代中期の大永二(一五二二)年、『曹洞宗の僧』宏智聚覚(わんちじゅがく)『が南部氏の援助を受け』、現在のむつ市市街地にある『円通寺』(ここ)『を建立して』、『恐山菩提寺を中興し、曹洞宗に改められた』とあるので、この話の成立は、まずは、それ以降と考えていいだろう。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 五四番 蛇の聟

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。] 

 

     五四番 蛇の聟 (其の一)

 

 或山里の家に一人の美しい娘があつた。齡頃《としごろ》になると每夜何處からとなく美しい若者が通ふて來るやうになつた。母親は其れに氣がついて心配して、每夜お前の室に話聲がして居るが、誰か來るのかと訊いた。娘は先達《せんだつて》から每夜何所の人だとも分らない人が來るが、名前も所もどうしても話さないますと言ふと、母親はそれでは今夜來たら、其男の衣物の襟に縫針を刺してミズ(糸)を長くつけて置けと敎へた。娘はその通りにした。

 翌朝起きてみると、昨夜歸つて行つた男の衣物の襟に刺した針のミズが障子の穴から通ふて外へ引かれ、そして何所までも何所までもずつと長々と引かれてあつた。娘は怪しんで其のミズ糸の通りに何所までも何所までも其の跡を求めて行つて見た。

 其糸は奧山の岩窟の中に引き入れられてあつた。その岩窟の入口には格子戶が立つて居て中々入れなかつた。中には何者かがうんうん苦しさうな唸り聲を出して居た。娘が、俺ア來あんしたと言つて訪れると、中からいつもの男の聲だけして、あゝお前が來たか、お前が來るべえと思つて居た。俺は今大變な負傷(ケガ)をして居るからお前に逢はれない。今日は默つて歸れ。そしてもう二度とお前には逢はれないスケこれが緣の切れ目だと言つた。娘は悲しくなつて、俺アどんなことアあつても魂消(タマゲ)なえシケ話すとがんせ。そしてもう一遍どうか顏見せてがんせと言ふと、男はどんな事アあつても魂消んなと言つて顏を出した。すると昨夜衣物《きもの》の襟だと思つて刺した縫針が、大蛇の眉間《みけん》に剌さつて顏が血みどろとなつて居た。大蛇は、俺は斯《こ》んなになつてしまつたが、一向お前を怨まない。それどころかお前の腹に宿つた子を大事にして生んでくれ。きつと偉い者になるべえシケにと言つて命(メ)を落した。

 (昭和五年七月二日夜。野崎君子氏の談話の五。下閉
 伊郡岩泉地方の譚。)

[やぶちゃん注:全国的にある蛇の異類婚姻譚の一つ。

「野崎君子」今までにこれを含めて四話の提供者である。

「下閉伊郡岩泉地方」現在の岩手県下閉伊郡岩泉町(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。]

 

        (其の二)

 

 昔、タカバタケと云ふ所に一軒家があつた。夫婦の中に美しい娘が一人あつた。或時兩親が親類のところに御法事があつて行つて居る留守の間に、娘がただ一人で麻糸(アサ)を紡《う》んで居ると、其所へ立派なお侍樣が、居たかと言つてひよツこらと入つて來た。そしてヂエヂエお娘と聲をかけて、笑ひ小立てゝ側へ寄つて來た。娘が返辭もしないで居ると、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]爐傍に上つて來て、娘の帶を解くべとした。娘は魂消《たまげ》たが、どうもそのお侍樣の樣子が變なので、ハリ(縫針)にミヅ(絲)を通してそつとお侍の氣のつかぬやうに袴の裾に、それを深く刺し通した。するとお侍は顏色を惡くして居たが、間もなく娘の側を放れて立ち去つた。

 親類の法事から兩親が歸つて來ると、娘が靑い顏をして萎《しを》れていた。なにしたと訊くと、娘はお前たちの居ないところへ、何所かの立派なお侍樣が來たつた。それでおれが其人の袴の裾にミズを突剌《つつさ》してやつたと言つた。それで父親は翌朝、ミズ糸の通り何處までもとめて[やぶちゃん注:「とめて」は「尋(と)めて」。知られたカール・ブッセの「山のあなた」で使用されてある。]行つて見たら、裏の藪の中に大きな蛇が腦天に止目(トヾメ)を刺されて、轉び廻つて苦しがつて居たが、間もなく命を落した。

 (タカバタケ、岩手郡西山村大字長山の殆《ほとんど》
 中央部の野原で、今の小岩井農場の域内である。昭和二
 年十月十六日。大坊直治御翁報告に據るもの一。)

[やぶちゃん注:「ヂエヂエ」今、再放送中の「あまちゃん」でブレイクした感動詞用法だが、私の知人で岩手出身の方(先日、亡くなられた)は、同ドラマの始まった頃、「驚く時にジェジェとは言わないよ」と不満げに仰っていた。「大修館書店 総合サイト」の「WEB国語教室」の竹田晃子氏の「第5回 東北北部の方言より ジェジェジェ! ジャジャジャ! ―― 驚くほどに繰り返す感動詞の世界」によれば(語形変化表・分布地図有り)、驚きを示す感動詞としての用法もあるが、『意味用法からみると、実は、「呼びかけ」の用例数が圧倒的に多く、「驚き」の意味で使われた用例はその半分以下で』あるとされ、『ここで言う「呼びかけ」とは、出会いや話題転換の場面で相手に話しかけるときに、挨拶や新しい話題内容などの表現と一緒に用いられる用法で』、『新しい話題内容の場合には、感動詞の後に、質問・依頼・勧誘・命令・謝罪のように相手に働きかける表現が続く例が多くでて』くる、とあった。まさにここは、その性的な誘いを促すための、始めの「呼びかけ」が相応しい。

「タカバタケ、岩手郡西山村大字長山の殆中央部の野原で、今の小岩井農場の域内」現在の小岩井農場のあるのは、岩手県岩手郡雫石町(しづくいしちょう)丸谷地(まるやち)附近であるが、「西山」「長山」の地名としては、少し雫石町長山西寄内(ながやまんしよりない)のこの附近に当たるようである。「ひなたGPS」の戦前の地図では、ここに「西山村」が確認でき(南北に広域であったようである)、ウィキの「西山村(岩手県)」に『現在の雫石町西根・長山にあたる』とあったので納得された。「タカバタケ」相当の地名は見出せなかったが、ちょっと目がとまったのは、「ひなたGPS」で見つけた「高八卦」(たかはっけ:現在もある)である。]

 

       (其の三)

 

 近年、遠野町の某《なにがし》と云ふ侍の家に美しい女房があつた。夫が江戶の方へ行つて留守のうちに、何處からか知らぬが、見たことのない美男が每夜通つて來た。その女房がよくよく考へてみると、どうも其男の通ふて來るのに戶障子を開け立てする樣子は少しもなかつた。ただ寢室から庭前に向つた椽側《えんがは》の障子の穴が濡れてゐるだけであつた。女房が每夜のやうに、お前樣は何所の人で、私の許に何所から忍び入つて來ると聞いても、なんとも返辭をしなかつた。その上に其男は每夜來て泊つても物一言も言はないのが不思議でならなかつた。

 女房は兼て聞いて居たことがあるものだから、或時男の知らないやうに、その衣物の裾に縫針にミヅを通したのを突き通してやつた。すると其男はいつもの障子の穴から出てずつと庭前にその糸を引いて行つた。そして庭の片隅のマダノ木株の穴に入つて、中でウンウンと唸つて苦悶して居る樣子であつた。そして夕方にはその唸聲《うなりごゑ》も聞えなくなフた。掘つて見ると穴の中には大きな蛇が眼に針を突刺《つつさ》されて斃《たふ》れて居た。

 後で氣がつくと、其蛇は、女房が每夜腰湯をつかつて、其盥《たらひ》の湯をこぼさないで椽側に置くのに體を浸して溫《ぬる》めてから入るのであつた。

 (大正十四年の冬頃。遠野町、岩城氏談の中の一。)

[やぶちゃん注:「マダノ木株」「マダノキ」は日本固有種のアオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ(科の木・科(しなのき)・級の木・榀の木)属 Tilia(タイプ種はシナノキ Tilia japonica )の別名である。参照したウィキの「シナノキ」によれば、『樹皮は暗褐色から茶褐色で、表面は若木では滑らかで、成木では薄い鱗片状で縦に浅く裂ける』とあり、そちらの画像を見ても、木自体が蛇に、少し似ているようにも私には見える。なお、「マダノキ」というのは、調べて見ると、「シナノキ」と同じく語源は判らないようである。

「後で氣がつくと、其蛇は、女房が每夜腰湯をつかつて、其盥の湯をこぼさないで椽側に置くのに體を浸して溫《ぬる》めてから入るのであつた」というのは、時制を遡って、蛇が、女房に恋慕したきっかけを語り添えたものである。]

 

       (其の四)

 

 或所に美しい娘があつた。齡頃になると每夜何處からともなく名も知らぬ美男が通ふて來た。每晚娘の室から睦まじそうな話聲が洩れるので、兩親は心配して障子の𨻶穴《すきあな》から覘《のぞ》いて見ると、美しい若者が來て居るが、どうも樣子が變つて居た。そこで娘にこの次ぎに來たら何かで試してみろと言ひつけた。

 その次ぎの夜、娘は爐《ひぼと》に鍋をかけて豆を炒つて居た。そこへ男が來たから、おれは裏さ行つて來るから、お前がちよつとこの豆を炒つて居てケてがんせと言つて、裏の方へ立つて行つた。さうして裏口の障子の破穴《やぶれあな》から覘いて見て居ると、其美男は一疋の蛇になつて、釣鈎(ツリカギ)にからまつて尾(ヲツペ)で鍋の中の豆をがらがらと搔き廻してゐた。娘はそれを見て魂消て母親に謂つて聞かせた。すると母親はそれではえゝから黍團子《きびだんご》をこしらへて食はせて見ろと言つた。娘は今夜はお前にご馳走するからと言つて、黍團子をこしらへて食はせた。すると男は食つて居《ゐ》たつたが[やぶちゃん注:ママ。「ゐ」は「ちくま文庫」版の『いたったが』を参考に振ったが、「をつたのだが」の方言だろうか。]、今夜は俺は急に腹が痛くなつたと言つて、泊らないで出て行つた。

 その翌朝娘の父親は、はてあの蛇は何所に行つたべと思つて、家の周圍(グルリ)の土を見ると、土に何かのたうち廻つたやうな跡がついてゐた。それからずつと捧切《ぼうきれ》でも引張つたやうな跡がついてをつたから、それをとめて行くと、裏のマダノ木株の根もとの穴の中に大きな蛇がのたうち廻つて苦悶して居た。それを鎌でジタジタに切り裂いて殺した。それからは娘の許《もと》に美男が通つて來なくなつた。

 (母の話。私の古い記臆。)

 [やぶちゃん注:「糸」の「ミズ」と「ミヅ」の混淆はママ。]

大手拓次 「動物自殺俱樂部」

大手拓次 「動物自殺俱樂部」

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 動物自殺俱樂部

 

この頃

まいばんのやうにおれの耳に映(うつ)つてくるのは

なまなましい はてしない光景だ。

猿はくびをくくつて死に、

蛇はからみあつたまま泥に沈み、

馬は足を折つて眼をふさいだ。

犬は舌をだして息がたえた。

蛙はくさむらで姿を失ひ、

とかげは石の下に生きながら乾いてしまつた。

象は太陽の槍に心臟をやられるし、

狐は花の毒氣にあてられた。

狼は共喰(ともぐひ)をしてくたばつた。

蝙蝠は煙突のなかにとびこんだ。

鴉(からす)は荊棘(いばら)のなかにとびこんだ。

なめくぢは竹の葉のくされのなかにすべりおちた。

三角形の大きな鉈(なた)で

くびをたたつきられる牛だ。

 

大手拓次 「五月は裸體である」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 五月は裸體である

 

かはのおもてをすべつてくる

このやはらかい五月のすがたは、

りんごの花のやうにあをじろく、

はだかのままに そぞろとして

ひかりのなかにながしめをかくす。

 

大手拓次 「かをる四月」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 かをる四月

 

くさのにほひをたたへ、

こころなく あたりへうごき、

さわさわとしてかぜをよび、

四月のなかをゆく をとめは

季節の月をかをらせる。

 

大手拓次 「煙草の時」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。

 なお、「晝の時」の私の冒頭注も参照されたい。]

 

 煙草の時

 

ささささささささ

りりりりり りりりりり

ささ ささ ささ

り・り・り・り・り・り・り

 

大手拓次 「朝の時」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。

 なお、「晝の時」の私の冒頭注も参照されたい。]

 

 朝 の 時

 

あ あ あ あ あ

ろ ろ ろ  ろろろ  ろ ろ ろ

  め ろ  め ろ

  ろろろろろ  ろろろろ  ろろろ

 

大手拓次 「晝の時」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。

 以下、オノマトペイア詩を三種続ける。一九一六年に「ダダイスム宣言」(Dada Manifesto )を起草したドイツの作家・詩人フーゴ・バル(Hugo Ball 一八八六年~一九二七年)の音響詩(Gadji beri bimba:ガジー・ベリ・ビンバ)を髣髴させる。同系列の詩としては、詩集「藍色の蟇」では、「夜の時」(ブログ版)が同時期のものである。]

 

 晝 の 時

 

あを あを あを あを あを

いを いを いを

 はむ はむ   はむ はむ

 

あう あう

 ふ ふ ふ ふ ふ ふ ふ

 

大手拓次 「Néant」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。

 なお、標題の「Néant」(音写「ネオン」)は「虚無・空(くう)なること」の意である。底本の後に原氏も『Néantはフランス語で虚無』と注されておられる。]

 

 Néant

 

くちびるを ながくだして、

わたしは空をよびむかへた。

ねむりは鴉(からす)のやうにとほざかり、

ことごとく地のうへにひきずられる。

髮をみだした生存のくさりである。

 

大手拓次 「心のなかの風」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 心のなかの風

 

風です、

風です、

どこからともなくふきめくる風です。

いたづらにしろいものをおひかけてゆく、

とほどほとしたかるい風です。

おまへの耳をあててきいてごらん、

なにもない このひろびろとしたひろがりのなかに

はてもなく宿世(すくせ)の蟲のねがながれてゐます。

 

[やぶちゃん注:「とほどほとした」老婆心乍ら、「遠遠とした」。遙かに遠く離れている。

「宿世(すくせ)」前世(ぜんせ)。或いは、前世からの因縁・宿業(しゅくごう)。ここは理屈では、「前世からの宿業によって畜生としての虫になったその鳴き音(ね)」とインキ臭くはとれるようにも見えるが、寧ろ、拓次のパースペクティヴは、前世・現世を遙かに見(聴き)通したものであって、そのまま素直に「前世の世界から流れてくる虫の音」をこそ聴くべきであろう。]

大手拓次 「空華」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 空 華

 

こころは ことわりもないひびきをつれ、

あさのくらがりのかなしみのなかに

つめをたて たてがみをそよがせて、

空華(くうげ)をちらし、

足はそよろとほそりゆくひとつのいきもの。

 

[やぶちゃん注:「空華(くうげ)」仏教用語。空中に存在すると幻想錯誤される花。仏教では現象世界の総ての事象は、本来、実体のない仮象過ぎないが、それを正しく認識せず、あたかも実体をもって存在しているかのように考える誤りを喩えるのに用いる語。則ち、ある種の眼病に罹ると、実際には存在しない花が空中にあたかも在るかの如く見えるという,その花を指す(ネットの「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。拓次の幻想の詩想は純粋に空に舞う花と限るのは勝手だが、詩想全体には幻想自体の悲哀が濃厚であり、以上の仏語の持つそれを重ねて何ら問題はない。]

大手拓次 「ふりつづくかげ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 ふりつづくかげ

 

この かげのやうにふるものは

みちてくるそらのあしあと。

 

ふりつづくかげ、

ぼうぼうとゆれてゐるかげ。

 

[やぶちゃん注:「ぼうぼうと」歴史的仮名遣が正しいのであれば、「火が盛んに燃えるように」の意である。]

大手拓次 「夜の薔薇」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 夜の薔薇

 

やはらかに

ひとつのたまのやうにしづまり、

おまへは ふかいさかづきのおもひをかもしてゐる。

なんといふ美しいおまへのくちびるだらう。

絹のやうにつめたく、

ふくらみのあるおもたさ、

さうして こころもちゆらゆらするやうに

かげをひきながらしづんでゐる。

 

大手拓次 「昨日の薔薇」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 昨日の薔薇

 

日はさかりをすぎ、

ねむい眼(め)をしてゐる昨日(きのふ)のばら、

かげにかくれてわたしのそばをすりぬける

うとうととする昨日のばら、

眼をあいたままでうなだれる昨日のばら、

おまへのにほひは晝の空のしろい月、

眼をあいたまま 手をひらいたまま

ゆれようともしない昨日のばら。

 

大手拓次 「明日を待つ薔薇」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 明日を待つ薔薇

 

しろけれど こころをこめて色にぬれ、

ひかりをつつみ、

ひびきはむらむらとまようて

たのしいときめきの瞼(まぶた)をひたす。

ゆれるやうにひらくばらのはづかしさよ、

明目の日に おまへはゆれるよ、

おまへは ほのぼのとあかくなるよ、

ふかいにほひに おまへははてしなくながれてゆくよ。

あすの日に鳥のはおとのやうにひらくばらのゆめ。

 

2023/04/27

下島勳著「芥川龍之介の回想」より「濱豌豆」

 

[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載に『昭和五・七・春泥』(『春泥』は籾山書店発行の俳句及び随筆雑誌)初出で、後の下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。

 著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た(但し、単行本刊行時期のため、正字と新字が混淆してはいるので、そこにはママ注記を入れた)。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。一部に注を挿入した。また、本篇にはルビが一切ないが、なくても概ね読めるが、一応、若い読者のために、ストイックに《 》で推定で歴史的仮名遣で読みを振った。]

 

濱  豌  豆

 

 五月七日、〇時二十五分の束京驛發で、芥川の奥さんと鵠沼へ行く。

 平塚と藤澤の丘の新綠は眼醒むるばかり美しい。藤澤で電車に乘替へ鵠沼の塚本邸ヘ着いたのは二時半ごろでもあつたらう。私の用事は、芥川の奧さんの弟君のご病氣を拜見するためであつたが、一診の結果非常におよろしいので、まづは安堵といつたやうな、氣安さをおぼえた。

 時間の餘裕もゐるので、次手《ついで》ながら故人の跡を尋ねることにした。――勿論、奥さんに同伴を願つて………

 なにがしの宮さま、御別邸のおはせし御跡ときく、松林の前にありし、

 

   蒲の穗はなびきそめつつ蓮の花

 

 の句をなした小沼も、今は埋められて、家が建てられてゐる。

 橋を渡り、蘆と蒲との新芽ののびた堀割の堤を傳ふて、旅館あづま家の後ろ橫の砂濱ヘ出た。

 ここから江の島は、呼べば答へん目睫の間といつても誇張ではあるまい。今日はことさら風もなく、實に靜かな晚春の海ずらである。……が、芥川氏の

 

   白南風《しらばえ》の夕浪高うなりにけり

 

 は恐らく、このあたりで作つた句に違ゐない[やぶちゃん注:ママ。]、とまで感じられた。

 この邊の砂丘の陰や砂原には、到る處に濱婉豆の花が濃紫を誇つてゐた。

 ふと空を仰げば、大小いくつかの凧が上つてゐる。――この地方は、節句に凧を上げるのが、習慣ださうですと奥さんがいはれた。

 あづま家の庭に沿ふた砂道を拔けて、左へ曲る小路の右手に、小穴隆一氏の居た家がある。その時分は租末な家だつたが、今は一寸立派な貸家となつてゐる。

 この家の門から覗いて、つきあたりに家根の一端の見えるのが、芥川氏の初めに住んだ家である。その座敷の前に小さな池がある。

 

   野茨にからまる荻のさかりかな

 

 の句は、この池邊で作つたと、曾ての話しであつた。

 そこの小路を前の道路へ通り拔け、少し空地のある右角の建仁寺垣の二階家が、芥川氏の長く住んだ家なのである。二階の戶は閉されてゐたが、柴といふふさな門札が丸木の門柱に揭げられ、戶口の右よりの、あの碧童氏の句に咏《よ》まれた百日紅《さるすべり》も、今は若葉にもえてゐる。

 ――あの二階の座敷で議論を鬪はし、六百ケンを敎へてもらひ、そして、枕を並べて話しながら眠つた當時のことが、まざまざと甦つてくる。………

 奧さんはと見れぱ、怖いものでも眺めるやうな樣子をみせて、つと、あづま家の方へ行かれたので、殘りおしくもあとを追つた。

 つきあたりの醫院の門前を右に曲つて出たところが、小穴氏の畫にした小松林の間道である。そこをまた堀割の堤へ出て、もと來た道の先を迂𢌞して、塚本邸へ歸つたのは、五時に近い頃であつた。――前の田では頻りに蛙が鳴いてゐる。

 松の大樹に圍まれた離れのお座數で、ゆつくり晩餐をご馳走になり、七時を過ぎてから母堂と愛犬とに送られて電車の停車場へ出たのである。

 途《みち》すがらも、停留場へ來てからも、犬の泣き方や擧動が變なので、私は不思議に思つてゐたが、それは奥さんと私が母堂をつれて行くのであらうとの、いらざる不安の敎示だつたことが間もなく知れて、とんだ愛嬌のシインを見せたものだと、笑つてお別れした。藤澤での連絡に約二十五分ばかりを費したので、奧さんに田端の臺でお別れして、歸つたのは、九時五分過ざであつた。

 

     鵠  沼  (三句)

    芥川氏の鳶居をだづねて

   とざされしままの二階や松の花

     海  岸

   磯くづのかげに咲きけり濱豌豆

   蒲の芽や晝蛙なく浦たんぼ

(昭和五・七・春 泥)

 

[やぶちゃん注:最初の芥川龍之介の句の前後は空きがないが、後の二句のそれとバランスが悪いので、前後を一行空けた。掲げられた龍之介の句は総て龍之介が厳選した自選句稿に含まれている。私の「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」を検索されたい。

「濱豌豆」マメ目マメ科レンリソウ(連理草)属ハマエンドウ Lathyrus japonicus 。北海道から九州までの日本各地の海岸に分布する海浜植物である。

「鵠沼の塚本邸」「芥川の奧さんの弟君のご病氣を拜見するため」妻文の母鈴と弟八洲(やしま)がいた塚本家(結核であった八洲の療養のために龍之介の晩年に鵠沼に移っていた)のこと。塚本八洲(やしま 明治三六(一九〇三)年三月八日~昭和一九(一九四四)年)。塚本文の弟。長崎県生まれ。書簡当時は満十四歳。父善五郎が戦死したため、母鈴の実家であった本所の山本家(龍之介の親友山本喜誉司の父母)に家族と身を寄せていた。一高に入学し、将来を期待されたが、結核に罹患、大正一三(一九二四)年頃に喀血し、翌年の三度目の喀血の際には、下島とともに塚本家に駆けつけて見舞っている。結局、快方に向かわず、没年まで闘病生活を送った。大正一五(一九二六)年には療養のために鵠沼に移住したが、之介は鵠沼での塚本家の家探しにも協力しており、この転地が芥川最晩年の鵠沼滞在のきっかけともなっている。このロケーションになっている鵠沼については、『小穴隆一「鯨のお詣り」(19) 「二つの繪」(8)「鵠沼」』、及び、『小穴隆一 「二つの繪」(10) 「鵠沼」』で、小穴の略図が載り(二篇とも)、そこで私が詳細な解説もしてあるので、参照されたい。

佐々木喜善「聽耳草紙」 五三番 蛇の嫁子

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

      五三番 蛇の嫁子(其の一)

 

 或所に長者があつて、美しい娘を三人持つて居た。或日ツボマヘ(庭)を眺めて居ると、池のほとりで蛇がビツキ(蛙)を呑むべとしてゐた。蛙が苦しがつて悶《もが》いて居るので、長者は見るに見かねて蛇々、そのビツキ放してやれ、その代り俺に娘ア三人あツから、その中の一人をお前のオカタ(女房)にけツからと言つた。すると蛇は呑みかけた蛙を放して、草叢の中へするすると入つて行つた。

 翌朝になつたが、長者が朝飯時になつても起きないので、娘どもは心配して、一番上の姉が父親の寢床に行つて、父(トヽ)な起きて飯食べてがんせと言ふと、父親は、起きて飯食ふこともいゝが、實は俺《おら》は蛇さ娘一人をオカタに遣ることに約束した。汝(ウナ)行つてくれないかと云つた。娘はそれを聞いて誰ア蛇などのオカタに行く者があるべ、俺ア嫌ンだと言つて、ドタバタと足音を立て其所を去つてしまつた。

 その次に二番目の娘が父親を起しに行つたが、其事を聞いて、やつぱり姉と同じく、誰ア蛇などの嫁に行く者があるもんだえと云つて、足音荒く枕元を立ち去つた。その次ぎに三番目の娘が父親を起しに行つたので、父親は蛇に娘一人を嫁に遣る約束をした話をすると、娘はそれでは俺が蛇のところへ嫁に行くから、はやく起きて御飯をあがつてがんせ。其かはり俺に縫針千本と、瓢簞《ふくべ》[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版のルビに従った。]さ水銀《みすがね》一杯を入れてケてがんせと言つた。父親は喜んで起きて御飯を食つて、それから縫針千本に瓢簞や水銀などを買ひに町さ行つた。

 其日の夕方、蛇は羽織袴で、立派なお侍樣になつて玄關に來て、昨日お約束した娘を一人嫁に貰ひに來たと言つた。そこで三番目の娘は赤い絹子小袖(キンココソデ)を着て、縫針千本と水銀の入つた瓢簞を持つて、其男の後について行くと、男はずつとずつと奧山の深い溪合ひの沼のほとりに行つて、娘に、此所が俺の家だから入れと言つた。娘は入ることもよいが、この瓢簞を水の中に沈ませたら入ると言つて、沼さ瓢簞を投げ入れると、それを沈ませべえとして、聟殿が一匹の大きな蛇の姿になつて、沼に飛び込み、嚙み沈めようとした。瓢簞はなかなか沈むどころか、チンプカンプと水の上をあちらこちらへ浮び踊り廻つた。すると沼の中から大勢の蛇どもが出て來て、瓢簞を眞中にしてグレグレめかした。その時娘は縫針千本を、バラリ、バラリと水の上に撒くと、鐵の毒氣が蛇の體に刺さつて、それほどの多くの蛇どももみんな死んでしまつた。

 娘はさうして蛇の難をばのがれたが、夜ふけの奧山なので、どこへ行つてよいか訣《わか》らなくて[やぶちゃん注:「訣」はママ。佐々木の慣用表現。]、泣きながらとぼとぼと步いてゐると、遙か向ふの方にぺカぺカと赤い灯(ヒ)の明りコが見えた。あれあそこに人の家がある、あれを便りに行くべと思つて行つて見ると、一軒の草のトツペ(結び)小屋があつて、内に一人の婆樣がいた。その婆樣は大層親切に泊めてくれた。そしてその翌朝、お前樣がそんな美しい姿をして居ては、この先難儀をするから、これを着て行けと言つて、今まで自分が着て居たツヅレ衣物《ごろも》を脫いで着せて、娘の赤い衣物をば笹の葉につつんで背負はしてくれた。そしてこの婆々は實はお前樣の父親に先達《せんだつて》助けられた蛙だ。この後も、さし困つた事があつたら、俺の名前を呼べ、そしたら何所にいても必ず行つて助けて上げると言つた。

 娘は蛙の婆樣からもらつたツヅレ衣物を着ると、蛙の婆々と寸分違はぬ齡寄(トシヨリ)の汚い姿になつた。そして婆樣から敎はつた通りの路筋を通つて谷を下りて行くと、山々にいる鬼どもが、あれあれ彼所《あそこ》を人間が通ふる[やぶちゃん注:ママ。]。よい酒の肴だと言つて集まつて來た。するとその中から一人の鬼が、何だあれはこのカツチの古蝦蟇《ふるがま》だ。とても小便臭くて食はれた品物ぢやないと言つて笑ひながら、またどやどやと戾つて行つた。又行くと今度は大きな川があつた。困つたと思つて其岸にウツクダマツテ(躇《うづくま》つて[やぶちゃん注:「躇」はママ。読みは「ちくま文庫」版で補ったが、「躇」にはその意はない。「蹲」「踞」の誤字であろう。])居ると、其所にもまた山の鬼どもがどやどやと來かゝつて、あれア此所に見慣れない石がある。力較べをすべえと言つて、取つてブンと川向ふに投げ越して行つた。そこで娘は無事に川を渡つて里邊《さとべ》に出て行つた。

 里邊に出て、大きな館の前まで來て佇んで居ると、其家の門から一人の男が出て來て、婆樣々々お前は何處から來たか知らないが、この家の釜の火焚きになつてくれないか、この家の釜の火焚き婆樣が急に家さ歸つたので、俺が今《いま》人賴みに行くところだと言つた。娘は言はれるまゝに、其家の釜の火焚き婆々になつた。そして夜晝蔭日向なく立ち働いた。夜になると窃《そ》つとツヅレを脫いで、笹葉に包んだ絹子小袖を出して着て、皆が寢靜まると書物を讀んでゐた。

 或夜、長者の和子樣《わこさま》が手水《てうづ》[やぶちゃん注:厠。便所。]に起きると、火焚き婆樣の室から、灯影《ひかげ》が洩れてゐるので、不思議に思つて𨻶間から窺いて見ると、とても美しい娘が立派な衣裳を着て、書物を讀んで居た。それから每夜夜中に起き出《いで》て、娘の室を𨻶見《すきみ》して居たが、遂に戀の病となつて床についてしまつた。

 そんなことは何にも知らない長者夫婦は、大事な和子の病氣に魂消《たまげ》て、每日每日醫者よ法者《ほふしや》よと大騷ぎしたが、少しも利き目がなかつた。さうしてゐると或日、門前に八卦置《はつけおき》[やぶちゃん注:八卦見。易者。]婆樣が來た。困まつて居る時だから、早速呼び入れて、和子の病氣を卜(ウラナ)つて貰ふと、これは召使ひの者についての戀の病《やまひ》であるから、其者と夫婦にすればすぐに直ると置いた。そこで明日と云はず直ぐに七十五人もある下婢下女を一日休ませて、湯に入らせ化粧させて、一人々々和子樣の座敷に御機嫌伺ひに出したが、誰が行つても一向見向きもせず、頭を振るばかりであつた。七十五人の召使ひが七十四人まで行つて、殘つたのはたつた一人釜の火焚き婆樣だけになつた。女子《をなご》どもは笑つて、俺達が行つても和子樣は見向きもしてくれない。どうだ火焚き婆樣が行つて、此家の花嫁子《はなあねこ》になつてはと言つて、肱《ひぢ》突き袖引きをした。釜の火焚き婆樣の娘が遠慮して居ると、長者夫婦は例へ何であらうとて婆樣も女だ。和子の生命《いのち》には替へられないから、婆樣も早く仕度して和子のところに行つて見てくれと言つた。そこで娘は一番後から湯に入つてお化粧して、笹の葉つつみから赤い絹子小袖を出して着て、靜々と座敷へ通る姿を見ると、皆は魂消て開いた口が塞がらなかつた。和子樣のお座敷に行つて、和子樣の枕元に膝をついて、和子樣御案配(ゴアンバイ)がいかがで御座りますと言ふと、和子樣は初めて顏を上げて、ニコニコと笑つて、話をして一寸《ちつと》も娘を自分の側から離すべとはしなかつた。さうして和子の病氣がけろりと良くなつた。長者夫婦も大喜びで、直ぐに婚禮の式を擧げて七日七夜の御祝ひをした。

  (私が子供の時の遊び友達のハナヨと云ふ娘から
  聽いた話。此女は早く死んだが、不思議にも多く
  の物語を知つてゐた。今思ひ出すと百合若大臣の
  話なども完全に覺えてゐた。私の古い記臆と云ふ
  のは大凡《おほよそ》此娘から聽いたものである
  らしかつた。
  田中喜多美氏の話集にも此譚があつた。紫波《し
  は》郡昔話にある譚と略々《ほぼ》同じであつた。
  たゞ蛇の嫁子《あねこ》が、蛇の婆樣から姥皮《う
  ばがは》の外に浮靴《うきぐつ》と謂ふものを貰
  つてゐて、其靴で谷川を渡つたと云ふのが異つて
  ゐた。)

[やぶちゃん注:この話、全般が「猿婿入り」譚の定型であり、後半は先の「扇の歌」の話を男女入れ替えた話譚であることが判る。それにしても、不審なのは、水銀を入れた瓢箪が沼の水に浮かんで沈まないという部分である。水の比重の十三・六倍の水銀を入れた瓢箪は水には浮かばないのだが?

「ハナヨ」昔話を驚くほど知っている夭折の少女というのは、これ、何んとも惹かれるフェァリーではないか!

「百合若大臣」ご存知ない方は当該ウィキを参照されたい。

「田中喜多美」既出既注

「紫波郡昔話にある譚と略々同じ」佐々木喜善の本書より五年前の著「紫波郡昔話」(大正一五(一九二六)年郷土研究社刊)。国立国会図書館デジタルコレクションの原本を見る「六九」話の「姥皮」である。コンセプトは、ほぼ一致するが、そこでは、蛇を退治するアイテムは「縫針千本」のみであり、佐々木が附記で言う「浮靴」は出てこないのは不審である。酷似する話の中に出るのを記憶していて、うっかり行ってしまったものか。]

 

         (其の二)

 

 或山里に美しい一人娘を持つた爺樣があつた。この爺樣は前田千刈《まへたちかり》後田千刈《うしろたちかり》[やぶちゃん注:「た」の清音は「ちくま文庫」版の「後田」にのみ振られたルビを参考にした。]の田地を持つて居た。其田に水が一滴もないやうなギラギラ旱(ヒデリ)續きで、爺樣は每日每日田圃に出て見たり、天を仰ふで見たりして居たが、田の苗は段々と枯れて行くばかりであつた。旱なので遂に思案に餘つて、近くの山の谷合《たにあひ》にある大沼に行つて、何の後前(アトアキ)の考へもなくたゞたゞ田に水をかけたいばかりに、實際恐しい賴み事を其沼の主にしてしまつた。

 主(ヌシノ)殿主殿お願ひだから、俺の二千刈の田に水を引いてくれぬか、若し此事が叶つたら俺の可愛い娘をお前の嫁に遣るから、どうか俺の田にばかりでもいゝから、雨を降らせてくれと言ふと、其晚方から空が一ペンに曇つて大雨がザアザアと降り出した。そして一夜のうちに爺樣の田にばかり水がタツプリと湛(タマ)つた。

 爺樣はそれを見て一方では喜び一方では大層悲しんで、娘の座敷へ行つて、昨夜自分の持田にばかり雨が降つて水が湛つた事の譯を話し、どうか可愛想だがお前はあの沼の主殿の所へお嫁に行つてはくれぬかと言ふと、平素(フダン)から親孝行である娘であつたから、厭な氣もなく返辭をして、ではお父樣の言ふことだから行きませう。だが私に瓢簞《ふくべ》千個に小刀《こがたな》千丁、これだけ買つて來てくださいと言ふので、爺樣は直ぐ町へ行つて云ふ通りの品物を買つて來た。

 さうして居る所へ表玄關に立派な若侍が傘をさしてやつて來て、お賴み申す、お賴み中申す、約東の娘さんを嫁に貰ひにまゐりましたと言つた。娘は瓢簞千個、小刀千丁を持つて其侍に連れられて山奧の大沼のほとりへ行つた。すると其男は、娘に此所が我が家だから入れと言ふので、主殿々々私は入つてもよいが、其前にこの瓢簞を沼の底に沈めさせ、この小刀を水の上に浮べてくれたら何でもお前の言ふ通りになりますと言ふと、侍は大きに喜んで、其瓢簞を沈めやう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、小刀を浮べやうとあせつて居るうちに、段々本性を現はして大蛇となり、一生懸命にグレグレめかして働いたけれども、遂に瓢簞は水の中に沈まず、小刀は水に浮ばず、自分は疲れ切つて苦悶したあげくに死んでしまつた。

  (秋田縣仙北郡角館町、高等小學一年生の鈴木貞
  子氏の筆記摘要。昭和四年頃。武藤鐵城氏御報告
  の分の四。)

[やぶちゃん注:第一話の「水銀」と、この話の「小刀」を水に浮かべよという条件、二話に共通する鉄製の針から、どうも、不審な「水銀」は水銀に鉄が浮く事実を知っていた原話者が、そうした水銀に針や小刀が浮ぶというシークエンスを持ち込んで話を作ったものの、伝承過程で、圧倒的に水銀の特性を認識していない伝承者が、訳が分からないうちに話を誤って作り変えてしまったのではないかという気が、私にはしてきた。

「武藤鐵城」既出既注。]

大手拓次 「さかづきをあたへよ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 さかづきをあたへよ

 

手にさかづきをあたへよ、

この あをくふくらんだ憂鬱のかほが

なみをうつてよろぼふとき。

そして しばらくはふりかかる死の花粉をさけようではないか。

ながながとした髮のやうに

みづにべたべたとながれる憂鬱を脫がうではないか。

手にさかづきをあたへよ、

うすい ほろほろとしたさかづきをあたへよ。

 

大手拓次 「ペルシヤ薔薇の香料」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ(数篇である。原氏はそこで、詩集「藍色の蟇」について、『内容自体に問題がある』とされ、『自選詩稿をもとにしたとはいえ、配列の順序を変え、それ以後の作品をなかば恣意的二編集者』(友人逸見享)『が加えて、四半世紀にもわたる詩集を整理もせず一冊に盛りつけている』と痛烈に批判され、『したがって、本文庫の作品選択は、既刊本『藍色の蟇』の内容に左右されていない』と断り書きさえ記されておられる)が、一番最後に配する予定の「みづのほとりの姿」は同詩集にあるものの、表記が有意に異なることに気づいたので、特異的に採ることとした

 底本の底本の原氏の詳細な年譜によれば、昭和二年は、『健康すぐれず』、『長期欠勤をくりかえすが、詩作はかえって旺盛』であったとする。昭和三年も引き続き詩作がなされ、『この年、下宿に朔太郎、犀星の訪問を受けているが、月日不詳』とある。昭和四年の条には、引き続き、『健康すぐれず、会社欠勤の日が多いが、仕事に熱心で、社内の広告洋書研究会で「広告に対する心理的態度」「『近代感覚』と鋭覚的表現に就いて」等の研究発表を』しており、『前者は『ライオンだより』第』二十一『号に掲載される』とあって、さらに『詩作はこの年、本格詩のほか文語詩、口語詩の小曲が多作され「ふるへる微笑」(四十四篇)ほかの詩作ノートを残す』とある。昭和五(一九三〇)年一月には、『日本橋の』『病院に入院、痔の手術をする。三月より出社』している。この年は多数の文語詩を創作した。『また、昭和二年以降のおびただしい文語体小曲を「九月の悲しみ」と題する詩集仕立てのノート数冊に、浄書して残す』とあり、注記で『死後、昭和十五年に刊行された詩画集『蛇の花嫁』』(私のサイト内の「心朽窩新館」に、正規表現・PDF縦書ルビ・オリジナル注附版で公開済み)『は、「九月の悲しみ」稿より採られたものである。なお、これらのおびただしい文語詩は、すべて特定の女性目あてに書かれたもの。「わたしはつねに思ふのは相変らずひとりの人である。そしてその人を対象として詩ができるのである。無限に出来るのである」(詩稿欄外メモより)』とある。昭和六年には、『ふたたび本格的な口語詩作活発化するが、心境的な文語詩は、別に日記にも多くを残す』とある。昭和七年、『一月、白秋会に出席』、『八月』には、『ライオンだより』六十三号に『「『朝は子供に』に就て」(会社が白秋にいらして五月にできた虫歯予防のPRソング「朝は子供に」の解説文)を書く。研究論文「一九三二年の広告と近代画との関係」を、同誌』六十二号と六十四号に『分載』したとあり、他にも同氏への執筆作が挙げられてある。拓次は相応に自社への貢献をしていることが判る。しかし、『十一月、結核の症状』、『悪化し、転地療養おため伊豆山温泉、中田屋旅館に投宿、そのまま越年』したが、翌昭和八年『二月、寒気と粗食に耐えられず帰京』した。『二月』に『兄孫平』が郷里『磯部で死去』したが、拓次は『高熱のため葬儀にも出席不能』であったとあり、『会社にも出勤できず、下宿で療養する』も、『三月、茅ヶ崎、南湖院十二号室に入院。病床で六月まで連詩「薔薇の散策」』(詩集「藍色の蟇」に所収)『ほかを力をふりしぼって制作、八月『中央公論』に詩「そよぐ幻影」(絶筆)』(詩集「藍色の蟇」に所収)『を発表』とある。昭和九(一九三四)年、『四月十八日、午前六時三十分、南湖院にて誰にも見とられず死去』したのであった。]

 

 ペルシヤ薔薇の香料

 

小鳥よ はねをぬらせよ、

をかのかなたに 日はあたたかに

銀の冠毛のふはふはとして、

草はとびらをひらき、

むらさきいろの月をさがす。

 

[やぶちゃん注:「ペルシヤ薔薇」サイト「LOYAL BAZAR」の「about rose」の「バラの歴史」に、『ペルシャなど中東地域では』、『古くから宗教儀式や生活の一部にバラを取り入れていました。バラの花びらを蒸留した透明なローズウォーターが生産され、その蒸留方法は、十字軍の遠征をきっかけに広くヨーロッパに伝えられます。この頃からもうペルシャはバラの蒸留の高い技術を誇り、現在に至っています。今でも一年に一回メッカのカアバ神殿のすす払いが行われるときにはイラン産のバラ水による清めが行われているのです』。『バラはペルシャ絨毯の模様としてもひんぱんに用いられます』。『イスラム世界では白バラはムハンマドを表し、赤バラは神アラーを表します。「千夜一夜物語」やウマル・ハイヤームの「ルバイヤート」にもバラについての記述があります』とある。ペルシャ產のバラとして、現在、よく知られるのは、「ダマス・クローズ」(Damask rose)の別名を持つバラ目バラ類バラ科バラ属バラ品種ロサ・ダマスケナ Rosa × damascena であろう。当該ウィキを見られたい。]

大手拓次 「ふかみゆく秋」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。

 上記に従った本パートからの詩篇は、これが最後である。]

 

 ふ か み ゆ く 秋

 

とほくおとなひの手をのぞかせて、

あらはにもさびしさをのべひろげる祕密の素肌(すはだ)、

あしおともかろくながれて空の虹をいろどり、

砂地のをかにもみぢする木の葉をみおくり、

ちからのないこころのとびらをあけて、

わたしは、ふかみゆく秋のねにききとれる。

 

[やぶちゃん注:コーダの一行は、私には、表現上、ちょっと躓く感じがある。拓次の詩想の表現選択から考えると、まず、「ききとれる」は「ききほれる」の誤字ではあるまい。しかし、「わたしは」→「ふかみゆく秋のね」→「に」→「ききとれる」というのは、意味としては、「わたし」に「は、」「ふかみゆく秋のね」→「に」=「として」→「ききとれる」の意であろうと、私はとっている。]

大手拓次 「よみがへり」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 よみがへり

 

すべてのものをすてて、

わたしはよみがへる。

 

ものをすて、身をすて、たましひをすて、

うつし世のなごりをすてて、

わたしは野邊の草のやうによみがへる。

 

けれども、そのさびしさは黃金(こがね)の月のやうに、

過去のほほゑみをわたしの胸にこぼしてゆく。

 

大手拓次 「日光の靴をはいて」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 日光の靴をはいて

 

ひびきでさへもぬれるものを、

まして、やさしい女靴のひもはほどけて、

なみだのやうな粉雪のうづもれるぬかるみに、

そのとげとげのきらめく舌を出し、

赤にけむる銀いろの露をはじいて、

ほがらかに、影のきものをはねのけ、

よろこばしくのびのびとうすあをの色大理石の肌に、

きこえてもきこえてもたえまない小鳥の唄ををさめる。

 

大手拓次 「石竹の香料」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 石竹の香料

 

らんらんともえる眼(め)の牡牛は、

幻想の手をのばして、その爪(つめ)をひろげ、

風はあたらしい神祕をよんで、

裸體の相貌(さうばう)をうらづけ、

手槍(てやり)のやうな梵音(ぼんおん)の棘(とげ)を縫(ぬ)ひつくろふ。

 

[やぶちゃん注:「石竹」ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis。初夏に紅・白色などの五弁花を咲かせる。葉が竹に似ていることが名の由来とされる。中国原産。同属の知られたカーネーション Dianthus caryophyllus に似ている。私はいい香りとはは思わないが、これらの近縁種の花はバニラ・エッセンスの製造原料であるオイゲノール(Eugenol)を含むため、チョウジ(丁子/クローブ(Clove):フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum の花蕾を乾燥させた香辛料)の香りがする。

「梵音」「ぼんおん」。鐘の音。ここは、それの視覚的に物体化した幻想表現である。]

大手拓次 「赤い幽靈」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 赤い幽靈

 

おまへは星のさきみだれる沼からあがつてきた

一ぴきの幽靈だ。

封じられた感覺をのりこえて、

さびしいいなづまのやうにとびさる。

おまへは一ぴきの赤い幽靈だ。

あでやかにとぎすまされた白い骨壺のなかへ、

ふたたび影をおとさうとするのか。

 

ああ、おまへは瘴地(しやうち)にさく緋色の蘭のやうに、

そのくちびるに水をふくみ、

ふはふはとうかんで、

にげてゆく月の舌をおひかけるのだ。

 

[やぶちゃん注:「壺」異体字に「壷」があるが、詩集「藍色の蟇」での用字に従った。

「瘴地」(現代仮名遣「しょうち」)は、汎世界的に、熱帯及び亜熱帯地方に於ける熱病等を起こさせるものとされた、悪気や毒気を発するところの霧の如き「瘴気」を生み出す山川の地を指す。漢語で「瘴気」「瘴氛」(しょうふん)などとも言った(漢籍でも頻繁に出現する)。ウィキの「瘴気」によれば、欧米などでは、『「マイアズマ」「ミアスマ」「ミアズマ 」』『miasma』とも称し、『これはギリシア語で「不純物」「汚染」「穢れ」を意味する。漢字の「瘴」は、マラリアなど熱帯性の熱病とそれを生む風土を』指すので「地」は畳語と言える。代表的な対象疾患はマラリア』(ドイツ語:Malaria/英語:malaria)『であり、この名は古いイタリア語で「悪い空気」という意味の mal aria から来ている』とある。]

大手拓次 「靈の食器」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 靈の食器

 

髮のくさむらのなかにジヤスマンの香料は追ひこまれ、

あせばんだ寶石はしきりに夢のしぶきをはく。

をんなよ、

おまへのももをあをく化粧してねむれ。

おんなよ、

おまへのももをうすい絹でいたはつてねむれ。

それこそは此世で最もうつくしい靈の食器だ。

神と惡魔との交通する靈の食器だ。

夜はふかく地の底へ底へとながれ、

あをくぶよぶよする靈の食器は、

三つの手をのべて、

さめざめと遠くをまねいて吐息する。

 

[やぶちゃん注:「食器」には「器」の他、新字体の「器」の他に旧字には「噐」があるが、詩集「藍色の蟇」での用字に従った。

「ジヤスマン」フランス語で花の「ジャスミン」は“Jasmin”であるが、音写すると、「ジャスマン」である。シソ目モクセイ科 Jasmineae 連ソケイ(素馨)属 Jasminum のジャスミン(アジアからアフリカの熱帯及び亜熱帯地方が原産で、本邦には自生しない)類、或いは、ソケイ Jasminum grandiflorum であろう。先の「Jasmin Whiteの香料」の冒頭に附した注を参考にされたい。]

2023/04/26

下島勳著「芥川龍之介の回想」より「芥川龍之介のこと」

 

[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載に『昭和二・八・三・改造』とあるのだが、これ、諸資料を調べるに、昭和二(一九二七)年九月発行の『改造』が初出が正しい。或いは、下島の記憶違いではなく、執筆のそれを記してしまったものかも知れない。この八月三日には先の『下島勳「芥川龍之介終焉の前後」』(『文藝春秋』昭和二(一九二七)年九月発行の『文藝春秋』の「芥川龍之介追悼號」に寄稿されたもの)の下島の末尾クレジットと一致するからである。後の下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。或いは、本篇の内容のから見ると、先に以上の『文藝春秋』の依頼原稿を受けた直後に改造社からの依頼が舞い込み、まず、『文藝春秋』の原稿を書いてあったか、書いたかした後に、続けて、内容がダブらないように気を使って書いた可能性が高いようにも思えるのである。頭で「雜用も多く、それに心身も疲勞してゐるので、落ちついて書くことが出來ない」という言い訳は、同じクレジットを持つ『下島勳「芥川龍之介終焉の前後」』の書き振りとは、余りにも差があり過ぎるからである。

 なお、私はサイト版で本篇を十一年前に電子化しているが、これが決定版となる。

 著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た(但し、単行本刊行時期のため、正字と新字が混淆してはいるので、そこにはママ注記を入れた)。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。一部に注を挿入した。また、本篇にはルビが一切ないが、なくても概ね読めるが、一応、若い読者のために、ストイックに《 》で推定で歴史的仮名遣で読みを振った。]

 

芥 川 龍 之 介 の こ と

 

 芥川氏のことについては、書きたいことは隨分あるやうな氣もするが、今は雜用も多く、それに心身も疲勞してゐるので、落ちついて書くことが出來ない。これは改造社に對しまた讀者に對し、相すまぬことである。

 芥川氏と私とは十二年の長い間の接觸で、單に醫者としてばかりでなく、老友として、また年こそ違へ私の師として、種々の敎へを受けてゐたのである。

 世間の人々は、私が醫者であるがために、直ぐ芥川氏の體質や病氣のことを聞きたがる。現に改造記者も、そんなことが注文の主要事項のやうだつた。

 芥川氏の體質や病氣については、世閒にいゝ加減な臆說や誤りが流布されてゐる。また種々の尾鰭がつて、肺結核だの甚だししきは精神病者とまで傳へられてゐる。これは醫者としてまた友人としても忍びがたいことであるから、この機會においてその妄《まう》を辨じておく。

 その一は肺結核說である。なるほど、あの瘦せた身長五尺四寸以上[やぶちゃん注:一メートル六十三・六センチメートル超え。]、頸のたけまでひよろ長い、しかも聊か前屈の姿勢で、日本人には稀に見る、あのバイロン卿の寫眞でも拔け出したやうな、眼の麗はしい白哲の美貌家に接したなら、誰でもが一見、肺でも惡るさうな第一印象をうけるに不思議はない。現にさう云ふ私でさへ、初對面がそれであつた。

[やぶちゃん注:「バイロン卿」イギリス・ロマン主義を代表する詩人で、ロシアを含むヨーロッパ諸国の文学に影響を与え、本邦でも明治以来、英詩人中、最もよく知られたイングランドの詩人ジョージ・ゴードン・バイロン(バイロン卿・第六代バイロン男爵)(George Gordon Byron, Lord Byron , 6th Baron Byron  一七八八年~一八二四年)のこと。バイロンは「ギリシャ独立戦争」へ身を投じたが、現地で熱病により亡くなった。満三十六であった。]

 併し見ると實際とは違ふことがある。殊に藝術家の體格や體質は、餘程注意しないと、見そこなひに終ることがある。尤も芥川氏などは、幼年時代に頭腦の發達が早い方で、斯ういふ人の常として兎角、肉體の方は餘り健康ではなかつたらしい。よく風邪をひく、氣管支加答兒《カタル》に罹る。と云つたやうなことから、ほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に肺でも惡くすると困るといふので、もとの高輪病院の院長瀨脇ドクトルの注射治療を受けたことがあるさうでゐる。

[やぶちゃん注:「加答兒」英語「catarrh」とは、一般には、粘膜で起こる滲出性炎症を指す。

「高輪病院の院長瀨脇ドクトルの注射治療を受けたことがある」このような事実は私は知らない。この「瀨脇」医師の名も初めて聴いた。一応、下島が芥川家主治医になる頃までの、新全集の年譜を確認したが、そのような事実は記されていない。]

 先年支那視察に行かれたときは、感冒後の氣管支加答兒が全治しないのを、種々の都合で決行した。案じた如く大阪の宿で發熱する。無理に船に乘つて上海へ上陸早々肺炎を起して入院する。と云つたやうなことではあつたが、それも間もなく治療して、あの困難な支那旅行を終へて歸つたほどである。

[やぶちゃん注:「芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈」の「八七五」から「八八三」までの芥川龍之介書簡を読むのが、経過を細かに知るには最適である。但し、龍之介が入院した病院の現在の状態などを見たければ、「上海游記   芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」(教え子の撮ってくれた写真が多数ある)の「五 病院」までの部分を読むに若くはない。

 その後も流行感冒に罹つたこともめるが。大した後害など貽《のこ》さずに治癒してゐる。から、假りに少牟時代に疆い肺炎加答兒ぐらいやつたことがあつたにしても、少くと私の知つてからの芥川氏に、肺結核の症狀のなかつたことだけは、保證出來る。

 その二は胃のアトニーである。この病氣は三年ばかりこのかたのことで、始めは獨立してゐたわけではなく、神經症狀に伴なつてゐた。即ち神經症狀のよいときには胃もよく惡いときにはいけないといつたやうなことで、胃のアトニーとして症狀の獨立したのは、最近一年ぐらいのことである。

[やぶちゃん注:「胃のアトニー」「アトニー」は “atony” “Atonie”で「非活動的状態」を意味するギリシア語「アトニア」由来。過去に「胃下垂」「胃痙攣」「胃酸過多」「神経性胃炎」というように呼ばれていた症状と同義で、現在は医学的には「機能性ディスペプシア」(Functional Dyspepsia)と呼ぶ。「済生会」公式サイト内の新潟病院消化器内科医長岩永明人氏の本疾患についての解説によれば、『「機能性」は形態的異常、つまり形が変わったり、傷がついていたりといったことがないにもかかわらず』、『症状を起こす状態のことを指し』、『「ディスペプシア」はギリシャ語に由来し、dysbad=悪い)+ pepteindigestion=消化)、すなわち』、『胃や十二指腸に関連した「消化不良」を意味』し、『機能性ディスペプシアとは、検査で異常が確認できないにもかかわらず、胃もたれや胃痛といった症状が続く病気』を指すとあり、附記があって、『「慢性胃炎」という聞き慣れた病名もあ』るが、『これはピロリ菌による病気で、胃もたれや胃痛といった症状とは直接関連しないことが分かってき』た、とあった。]

 食事は隨分注意する方で、もう二年ぐらい一日二食であつた。酒は飮まず特別これと云ふ嗜好を持つてゐない同氏にとつての唯一の嗜好は莨《たばこ》であつた。莨は洋の東西を問はず何でも用ひられたが、晚年はおもに日本製であつた。殊に創作は多く夜中になるので、朝の莨の吸ひ殼の量は、讀者の想像におまかせする。だから、芥川氏の莨の消費量は恐らく創作に比例したものと云つても差し閊《つか》へないであらう。

 時をりは苦《つら》い忠告を試みたが、こればかりはと哀願しものである。云ふまでもなく藝術家の生命は創作である。よし胃はおろか、體全體に良くない影響があるとしてからが、創作を妨げるのは忍びないことであり。芥川氏の場合など實にそれであつた。

 その三は痔疾である。これは脫肛として現はれる種類のもので、寒い夜中の勉强が過ぎたり、或は氣候の惡い時分に創作をしたりするときに起る。時々疼痛の劇しいため苦しむこともあるが、出血したり或はコンニヤクやハツプなどで溫めて、安臥してゐれば充血が去つて收縮する程度のもので、手術の必要ありなど認めたことは一度もない。この起り始めは胃病と同時ごろか、或は少し前であつたか判然しない。

 その四は神經衰弱である。芥川氏の神經衰弱は頗る有名なものである。だが、同氏の神經衰弱を談《かた》る前に是非知つておかねばならないのは、同氏がもつ腦神經の作用である。私は私の乏しい經驗の上において、異常な神經の作用を持つものも少しは識つてゐた。併し末だ曾て芥川氏の如き異常な神經のの所有者に接したことはない。西歐のことは暫くおき我日本にあつて、天才の有無など餘り問題にしなかつた私が、一たび芥川氏に接してからは、始めて天才と云ふものもあると云ふことを識つたのである。なぜなら、それは單に謂ゆる頭腦がイイとか記臆力[やぶちゃん注:ママ。]が非常に發達してゐるとか云ふ種類のものでなく、異常の上の異常、寧ろ不可思議な作用を持つてゐたからである。このことについては、何れ書くつもりでゐるから、こゝに、唯一二の例を擧げるに止《とど》める。

 試みに芥川氏の讀書するところ一見したもので、その速度に愕かぬものはないであらう。それは普通に云ふ早さなどではなくて、邦文ものなどは、恰《あたか》も銀行會社の職員が計算表でもめくつてゐるのと同じやうである。また雜誌の小說などは、人と談話をしながらサツサと讀むし、それでゐながら確實なことは愕くべきものがある。

 曾て大阪の新聞社に用事があつて出張したときの如き、京都に一週間ばかり滯在を見こんで、部厚な洋書を五六册携帶したのであつたが、列車が京都の停車場へ到着するころは、のこらずそれを読みつくして、滯在中は京都にゐる友人から借りて讀んだといふやうな直話がある。

 また元祿以後明治大正に至るまで著名な俳人の俳句の代表的のものなどは、年代を逐《お》つて記憶しをり、俳談の場合などには、隨一分人を愕かすことがあつた。室生犀星氏など時々――嫌になつてしまう[やぶちゃん注:ママ。]と、嘆聲を發したこともある。

 故鷗外先生も當時記憶力の雄をもつて聞へた[やぶちゃん注:ママ。]人でゐるが、迚《とて》も芥川氏のやうな異常性はなかつたらしい。

 氏は自分でよく云つた。――俺の神經は細くて弱いが、腦髓の丈夫失なことは誰にもまけないと。これは一寸非科學的のやうに聞こえるが、實は芥川氏の腦神經はこれで說明が出來るのである。例へば二晝夜の不眠不休も、腦そのものは大した疲勞を感じない、即ち腦の中樞はまだ充分餘裕があるのに、神經の疲勞が來ると云ふやうなわけである。頭痛などといふことは、一度も聞いたためしがない。

 時として、――俺は氣ちがい[やぶちゃん注:ママ。]になるかも知れない、などと云ふこともあつた。さういふときには私は、――その埋智の飽くまで發達してゐる頭腦と、その聰明さでは、迚も氣ちがひなどにはなれ得ないと云つたものである。だから芥川氏の神經衰弱は、普通の意味の神經衰弱などとは大いにその趣きを異にしてゐる。況んや、精神錯亂などとはとんでもない誣妄《ふまう》といはねぱならぬ。その證據は、「舊友に送る手記」でも遺書でも、また「西方の人」などを讀んでみても略《ほぼ》わかることであらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「誣妄」偽って言うこと。ないことをあるように言って、人を落とし入れること。

「舊友に送る手記」「或舊友へ送る手記」の誤り。私のサイト版をどうぞ。

「遺書」私の強力なサイト版「芥川龍之介遺書全六通 他 関連資料一通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん詳細注2009年版≫」を参照されたい。

「西方の人」私のサイト版「西方の人(正續完全版)」を見られたい。]

 遺傳については近いところに存在する。併し芥川氏の如き人にとつて、それが果して重大な意義をもつだらうか、なぜなれば、精神病の遺傳或は神經性遺傳などといふものは、實はいゝ加減なもので、嚴密に檢べたら、遠近の差こそあれ必ず出てくると云ふても、過言とは思はれぬ。要するに人間は或る意味において、悉く精神病者たり得べき素質をもつてゐからである。

[やぶちゃん注:「遺傳については近いところに存在する」芥川龍之介自身が恐れた、実母フクのそれを指す。しかし、私は、フクの精神疾患については、遺伝性のものではないと考えている。それはさんざん書いているので、ここでは控える。]

 終りに芥川氏は菊池氏の謂《いは》ゆる文壇第一の學者であつた。このかくれもなき博學賢明の小說家に、自殺問題について批判のないわけがない。現に彼《か》の有名な某將軍の自殺にも、或は某文學者の死にも、禮讃することの出來なかつた芥川氏が、恬然《てんぜん》として自殺するに至つたのは、果して何を語つてゐるのであらうか? 謎は自然に解かるべきである。

(昭和二・八・三・改造)

[やぶちゃん注:「有名な某將軍の自殺」乃木希典の殉死を指す。

「某文學者の死」有島武郎の心中自殺を指す。

「恬然」 何事も気にすることなく、平然としているさま。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 松山鏡の話

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。太字は底本では、傍点「﹅」である。

 なお、冒頭に出る「『鄕土硏究』第二卷第八號四七四頁」に載るのは、「選集」によれば、『越原富雄「松山鏡の話」』という論考とある。この越原富雄というのは、児童劇作家・同研究家であった長尾豊(明治二二(一八八九)年~昭和一一(一九三六)年)のことかと思われる。東京浅草生まれで、旧制中学三年中退。大正三(一九一四)年に有楽座の「こどもの日」のために演劇脚本を書き、研究劇団『トリデ社』で俳優活動しながら、独学し、「マコモ生」「和田唯四郎」「孫董」「尾島満張慶亭」「要二郎」「越原富雄」「長尾まこも」などのペンネームで著述。後、児童文学・児童演劇に文筆を揮った。著作に「お話あそびと小さい劇」・「児童劇指導の実際」などがある。]

 

     松 山 鏡 の 話 (大正四年三月『鄕土硏究』第三卷第一號)

         (『鄕土硏究』二卷八號四七四頁)

 一八五三年板、パーキンスの「亞比西尼亞住記(ライフ・イン・アビシニア)」(五八―九頁)に、囘敎徒の傳說を載せて、婦女の嫉妬は最初の女人イーヴが創《はじ》めだ、とある。アダム夫婦、樂土に在つて、當初、暫くの間、頗《すこぶ》る和融したが、アダムは、每夕、祈念の爲、天に上《のぼ》つた。魔王、疾《はや》くより、女人の心底の弱點を知悉し、『是が、人間に災難を播(ひろ)むべき好機會。』と見て取り、イーヴを訪うて、「アダムさんは、御動靜、如何《いかん》。」と、問うた。イーヴ、「亭主は只今、祈念の爲、上天したところ。」と答ふると、魔王、信ぜぬ顏つきで、微笑した。「何故、いやに、笑ふか。」と問返《とひかへ》すと、「イーヴの氣を惡くしたり、アダムの名を損ずる樣な事は述べたくない。」と答へた。イーヴが益々聞きたくなるを見濟(みすま)し、いと氣の毒な振《ふり》して、御前樣(おまへさま)はまだ知らぬが、アダムさんは祈念に託して、每夕、情女を訪《おとな》ふのだと告げると、イーヴ、嘲笑して、上帝が作つた女とては、予、一人だ。アダム、爭(いか)でか、他に女を拵へ得ん。」と言ふと、「論より證據、本人を招いて見すべし。」とて、鏡を見せ、イーヴ、自分の形像を見て、『アダムの情女《いろ/いろをんな》、實在す。』と信じたのが、女人嫉妬の始りだつたさうな。

[やぶちゃん注:「松山鏡」所持する小学館「日本国語大辞典」(昭和五一(一九七六)年初版)を引く。第「一」義に、『昔話』として、『①鏡を知らないことを趣向とする笑話。親爺が上方見物に行って鏡を見、父親がいると思って買って帰るが、娘が見て、若い女を連れて来たと思う筋の話』とし、次に、『②越後国松の山の姫が、母に形見にもらった鏡に映る姿を母と思ってなつかしんでいたという話』とし、第「二」義の「一」に、先の『②から取材した謡曲。五番目物。観世・金剛・喜多流。作者不詳。先妻の三年忌に焼香のため持仏堂に行くと、姫が何かを隠すのでこれを怪しむ。しかし、姫が、母の形見の鏡に映る自分の姿を母と思って追慕していたことがわかり、鏡のいわれを教えてやる。そこに母の亡霊が現われ、娘の回向する功徳によって霊は成仏するという筋』とある。なお、ネットの「精選版 日本国語大辞典」(第二版)では、解説が少し追加されてあり、第「一」義に「三」があって、『③ ②の筋を大伴家持に付合したもので、家持が篠原刑部左衛門と改名、娘京子は形見の鏡で母をなつかしむが、継母のいじめに耐えきれず、鏡ケ池に入水する話』とあり、さらに『そこに母の亡霊が現われ、』の後が、『倶生神』(閻魔庁の書記官)『がこれを追って来るが、姫の回向する功徳によって母は成仏し、倶生神も地獄へ帰る。』とシノプシスの追加がある。また、リンク先には、小学館「日本大百科全書」の以下の落語の「松山鏡」がある。『落語。原話は仏典の』「百喩経」(ひゃくゆきょう)『にあり、中国明』『末の笑話集』「笑府」に入っており、それが『日本で民話になった。能』「松山鏡」や、狂言「鏡男」も『成立し、類話が各地に残るが、その落語化である。越後』『の松山村の正助は、親孝行で領主に褒められ、望みの品を問われたので、亡父に会いたいと答えた。そのころ村に鏡がなかったので領主は鏡を与えた。正助は鏡に写る自分を父と思って、ひそかに日夜』、『拝んでいた。女房が不審がり、夫の留守に鏡を見ると女の顔が写るので、けんかになった。比丘尼』『が仲裁に入り』、『鏡をのぞき』、『「二人とも心配しなさるな。中の女は、きまりが悪いといって坊主になった」』とあり、八『代目桂文楽』『が得意とした』とある。この落語の方は当該ウィキが詳しい。これらに出る、「松の山」「松山村」というのは、現在の新潟県十日町市松之山(グーグル・マップ・データ)で、そこに伝わる先の大伴家持絡みの伝承(家持がここ松之山に来たという史実はない)については、新潟県十日町市松之山のポータルサイト「松之山ドットコム」の「伝説 松山鏡」を見られたい。

『一八五三年板、パーキンスの「亞比西尼亞住記(ライフ・イン・アビシニア)」(五八―九頁)』「アビシニア」はエチオピアの別名。これはイギリスの上流階級の出身で旅行家であったマンスフィールド・ハリー・イシャム・パーキンス(Mansfield Harry Isham Parkyns 一八二三年~一八九四年)が書いた最も知られたエチオピア紀行(一八四三年から一八四六年まで滞在)Life in Abyssiniaの初版。熊楠の指すのは、「Internet archive」の原本ではこちらである。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 五二番 扇の歌

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

      五二番 扇の歌

 

 或所の、此所ならば八幡樣のやうな大きなお宮の秋祭禮(マツリ)を見に、美しい和公樣《わこさま》が行くと、五六人のお伴を連れた美しい姬樣から一本の扇子をもらつた。その扇の表には、

   吹けば飛ぶ

   吹かずば飛ばぬへの國の

   千本林を右手(ユデ)に見て

   ヒイロロ川に架けたる

   腐れの橋を渡つて

   たずね御座れや……

と謂ふ文句の歌が書いてあつた。若者は扇子の歌が何のことだか解《と》けなかつた。そしてそれをくれた姬(アネ)樣の美しい顏や姿が目にちらついて、どうしても忘れられないので、その姬樣の家を尋ねて旅に出た。そして二日も三日も旅を續けて行つたが、どこの里の長者の姬樣だか少しも訣《わか》からなかつた[やぶちゃん注:「訣」はママ。この字は「別れる」「奥の手」の意はあるが、「判る」の意はないので、当て字誤記か誤植である。]。すると或る日六部《ろくぶ》に逢つたから、扇を出してその歌の意解《いと》きを賴むと、六部はそれを讀んで、これは斯《か》うだと敎へてくれた。卽ち吹けば飛ぶ吹かずば飛ばぬへの國とは、糠部《ぬかのぶ》の郡で、千本林とあるからは、それは竹林のことであろう。そしてヒイロロ川とは鳶川(トビカワ[やぶちゃん注:ママ。])で、腐れの橋とは勿論石の橋である。其所の長者どんのお姬樣であると解いてくれた。若者は其所を尋ねて行つた。けれども身分の相違や何かでどうしても名乘り出ることが出來ないので、長者どんの門前を行つたり來たりして居ると門前の小さな家から婆樣が出て來て、これこれお前樣は何して朝からさうして、何度も何度も其所を行つたり來たりして居申《ゐまう》セやと聲をかけた。若者が私は何か仕事をしたいが何か無いものやらと言ふと、婆樣はそれは恰度よい所だつた。實は前の長者どんでこの頃、竃《かまど》の火焚き男をほしいと言つて居たが、お前がやつてみる氣はないかと訊いた。若者は俺は何でもよいから是非賴むと言ふと、婆樣は直ぐに長者どんへ行つて話をきめて來てくれた。

[やぶちゃん注:「此所ならば八幡樣のやうな大きなお宮」とあるが、末尾に採話情報の附記がないので、「此所」は不明である。一応、それがない状態で佐々木が示したのなら、遠野であると考えてよいだろうとは思う。

「和公樣」「和子・若子」で、ここは「身分の高い人の貴人の男子」「御曹司」のこと。

「右手(ユデ)」不審。「ゆ(ん)で」は「弓手」で左手。右手を表わす「馬手」(めて)を「ユデ」と激しく訛ったとなら、それでは「ゆで」と区別がつかなくなるから、よく判らない。

「六部」「八番 山神の相談」で既出既注。

「吹けば飛ぶ吹かずば飛ばぬへの國とは、糠部の郡」糠は吹けばぱっと飛んでしまうが、吹かないとならば、或いは、吹いたとしても、飛ばない、「へ」(遍・僻)の地にある「郡(こほり)」で、嘗つて平安後期から中世に存在した陸奥国の「糠部郡(ぬかのぶのこほり)」のこと。現在の青森県東部から岩手県北部にかけてあった広域であった。平凡社「世界大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)、『岩手県北部の二戸郡、九戸郡あたりと、下北半島を含む青森県東部一帯の地域の中世の郡名。郡とはいっても』、『古代には見えないもので、平安時代末以後の中世に特有のものである。古代の律令制下の郡は岩手郡(盛岡市のあたり)が北限で』、十『世紀までには建置されていた。それ以北の地は』、『蝦夷(えみし)の居住地で、律令制にもとづく支配の及ばないところであった。糠部は、そのような蝦夷の居住地の汎称であったものが』、十二『世紀に』至って、『郡として把握されるようになったものであろう』とある。

「鳶川(トビカワ)」不詳。青森県十和田市に渓流の蔦川(つたがわ)ならあるが、北過ぎる。

「腐れの橋とは勿論石の橋」意味不明。超古代の木橋が化石化したという伝承でもあるものか?]

 若者は長者どんの竃の火焚き男に住み込んでから、ナゾにかして姬樣の姿を見たいものだと思つたが、なかなか見る時がなかつた。或時、門前の婆樣に訊くと、長者どんには確かに美しい姬樣があると言つた。その姬樣を一目見たいと思ふけれどもそれも出來ない。何も斯《か》にも時節を待つより仕方がないとあきらめて、一生懸命に働いて居た。晝は竃の火を焚き、手面目面(テズラメズラ)に眞黑く炭を塗つて働いて居ても、夜になれば人仕舞ひながら湯に入つて、髮を上げて、自分の室に引籠《ひきこも》つて書物を讀んで居た。ある夜長者どんのお姬樣が遲く厠《かはや》に起きると、珍らしくも下男部屋から燈影(アカリ)が見えるので、何をして居るかと思つて窃《そつ》と忍び寄つて、戶の節穴から内を覗いて見ると、いつか秋の祭禮で見てからと謂ふものは片時も忘れたことの無い何所の和公樣が其室(ソコ)に居た。姬樣は魂消《たまげ》て自分の座敷へ戾つて來ると、そのまゝ病氣になつてしまつた。

 長者どん御夫婦は、娘の病氣が何だかは知らないから、大層心配して、ありとあらゆる醫者や法者《ほふしや》を呼んで見せるが、少しの驗(ケン)もなかつた。ところが門前の婆樣が來て、お姬樣の病ひは醫者でも法者でも直らない。館中の多くの召使《めしつかひ》の中に、思ふ人があるから、其の人と夫婦にすればよいと言つた。長者どん御夫婦は娘の生命(イノチ)には何事も替え[やぶちゃん注:ママ。]られないから、そんだら早く多くの召使ひの者どもに娘の機嫌を伺はせて見ろと言つた。そして七十五人もあつた男どもに、一人一人湯に入れて髮を上げさせて、奧の座敷へ姬樣の御機嫌伺ひに出させた。

[やぶちゃん注:「法者」何度も出たが、再掲しておくと、民間の呪術者、山伏や巫女(みこ)のような連中を指す。]

 七十五人の下男共は俺こそは、ここの長者どんの美しい姬樣の花聟になりたいと、湯に入つて顏を洗ひ、奧の姬樣の寢て居る座敷に、しよナくナ[やぶちゃん注:意味不明。「やりようが最早ないまで」「めちゃくちゃに」「徹底的に」「すっかりしっかりと」辺りか。]めかして行つて、お姬樣もしおアンバイは如何めされましたと言つても、姬樣は脇面《そつぽ》[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版のルビを参考にした。]向いたきりで返事もしなかつた。入り變り立ち變り一人々々、お姬樣もしおアンバイは如何めされましたと、行くが、[やぶちゃん注:底本は句点だが、「ちくま文庫」版で訂した。]誰一人として返事をかけられた者はない。さうして遂に七十五人の者が七十四人まで行つたけれども、誰もかれも見向きもされない。返事をかけられた者もなかつた。次のお座敷にひかへて居た長者どん御夫婦は、これでも分らないかと思つて大層心配していた。そしてもうあとには誰も居ないかと訊くと、彼《か》の竃の火焚き男の外には誰も居ない、あの竃の火焚き男を出したなら、かへつてお姬樣のおアンバイがワリくなるベエと答へた。すると門前の婆樣がいや否々《いやいや》さうではない。是非あの男も出せと言つた。そこで竃の火を焚いて居た男を風呂に入れて、髮を取り上げさせて、お姬樣の座敷に伺ひ出ろと呼び出した。

 竃の火焚き男は風呂に入つて、髮を取り上げて、靜々と座敷に入つて來た。それを見ると、見たことも聞いたこともないほどの美男であつた。若者は奧の姬樣の座敷に行つて、屛風の蔭から、お姬樣もしおアンバイは如何で御座いますか言ふと、姬樣は顏を眞赤にして、お前樣はどうして此所に來ましたと訊いた。若者はお前樣を見たいばかりに永い旅を續けて來て、斯《か》く斯くの苦勞をして居ると物語つた。それを聽いて姬樣は初めてにかにかと笑つた。

 長者どん御夫婦はあれだあれだといつて喜んで、その和公樣と姬樣は目出度く夫婦となつて孫《まご》繁《し》げた。

[やぶちゃん注:最終段落の冒頭は一字下げがないが、下げた。]

大手拓次 「色彩料理」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 色彩料理

 

人間の眼玉をあをあをと水のやうに

藍繪(あいゑ)の支那皿にもりそへ、

すずろに琴音(ことね)をひびかせる蛙のももをうつすりとこがして、

みづつぽいゆふべの食欲をそそりたてる。

あぶらぎつた蛇の花嫁のやうな黑い海獸の舌、

むしやきにしたやはらかい子狐の皮のあまさ、

なめくぢのすのものは灰色の銀の月かげ、

とかげのまる煮はあをざめた紫の星くづ、

むかでの具足煮は情念の剌(とげ)、

かはをそのそぎ身はしらじらしい朝のそよ風、

まつかな極彩色の大どんぶりのなかに、

帶のやうにうづくまる蛙の卵はきらめく寶石のひとむれだ。

病毒にむくんだ手首の無花果(いちじゆく)は今宵の珍果、

金いろにとけるさかづきにはみどりの毒酒、

ふかい飽くことをしらない食欲は

山ねずみのやうにたけりくるつてゐる。

 

[やぶちゃん注:「食欲」の「欲」の単漢字は、詩集「藍色の蟇」では、「欲」と「慾」の両字が併用されているが、「食欲」の熟語の場合は、「洋裝した十六の娘」(ブログ単独版)の一篇のみで使用されおり、ご覧の通り、「欲」となっていることから、「食欲」で表字した。また、「とかげのまる煮」と「むかでの具足煮」の「煮」は、字としては「煑」の異体字もあるが、詩集「藍色の蟇」では、そもそも「煮」「煑」の使用例がない。また、大手拓次譯詩集「異國の香」(リンクはサイトPDF縦書版)の一篇、『古い眞鍮の壺(ヒルダ・コンクリング)』(ブログ単独版)の詩篇中で、「壺はお米を煮てくれる。」の一行があることから、底本の「煮」の字を変えずに用いた。

「かはをそのそぎ身はしらじらしい朝のそよ風、」は、前の並列対応する五行、名詞節ブレイクの、それを見るに、それぞれの食材対象を、「黑い海獸の舌」・「子狐の皮」・「なめくじのすのもの」・「とかげのまる煮」・「むかでの具足煮」と指示していることから、この一行は、私は「《かはをそ》の《そぎ身》」――川獺(かはをそ)の削ぎ身――の意ととった。獺(わうそ)は、日本人が滅ぼしてしまった食肉目イタチ科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon。博物誌は「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」を見られたい。なお、正しい歴史的仮名遣は「かはをそ」とされ、例えば、所持する大学以来の愛用の角川新版「古語辞典」(久松潜一・佐藤健三編・昭和五一(一九六六)年五十五版)の見出し語は、確かに「かはをそ」である。しかし、所持する小学館「日本国語大辞典」の「かわうそ」では歴史的仮名遣を「かはうそ」とし、「かはをそ」を歴史的仮名遣の表記として載せていない。一般に、「かは」は「川」であるが、「をそ」或いは「おそ」の語源の方は実は不確かで、「恐ろしい」の意とも、人を騙(だま)して「襲う」妖獣であると考えられたことから、「襲ふ」の意とも、また、人を騙すことから、「嘘」や「嘯く」に由来するなど、諸説があり、未詳である。但し、これらの語源説は、「かはをそ」を正規の歴史的仮名遣とする根拠には、ならないので、私には不審ではある。]

大手拓次 「木立をめぐる不思議」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 木立をめぐる不思議

 

鳥のさわぎたつこのしめつぽい木立の心臟のなかに、

黃金(きん)の針をたてて、

つめたくわたしをおびやかすあを色の不思議が叫んでゐる。

わたしは眞赤なくちびるをぬらして、

その熟した不思議の橫顏をべつとりとなめる。

ほそい月のあしあとが、

そらのおほきな腹のうへを漕いでゆくやうに、

わたしのおどおどした舌の聽力は、

木立のかもす料理のあまさに溶けてゐるのだ。

何物ともしれない、さやかな不思議のおとづれが、

日光のしづかなしづかな雨のやうに、

また小鳥の遠いさへづりのやうに、

こころよく、かろく、濡(ぬ)れながら、

わたしの、ひびきにふるへる舌のうへに流れでくる。

 

大手拓次 「ちりぎはのばらの香」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 ちりぎはのばらの香

 

ちりぎはのまつかなばらのにほひは、

あをざめたとむらひ僧の顏をゆびさし、

あるひは、七色のおしろいをつけた、

くらやみの女の眼をあらはす。

さてそこに、靑銅のよろひをつけ、

あまい死のねどこへいそぐ騎士のみぶるひを嗅ぐ。

 

大手拓次 「氷河の馬」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 氷河の馬

 

眼がふしぎの草をはやし、

耳が大空にかくれる月のにほひをかぎわける

やせた美しいをとこの馬。

あをざめた霧のしきりにとびかふ氷河のうへに、

おもおもしい過去のゆめはたれかかり、

つめたい命のらふそくをかみくだく馬は、

ひづめのおとをたて、

たれかかるその夢のなかにあらはれる。

馬はひとすぢの霧、

きりはまた、めづらしい花をひらくひとつの草、

ひづめのおとは寶石のつながりとなつて、

氷河のうへにうごく亡魂を追ひちらし、

さて、しづかに呼びかへしてともどもにひかりのみちにかけてゆく。

 

2023/04/25

佐々木喜善「聽耳草紙」 五一番 荒瀧の話

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

      五一番 荒瀧の話

 

 靑笹村に荒瀧と謂ふ力士があつた。子供の時から小力《こぢから》が强くて、村の祭場《まつりば》などでは常に角力《すまふ》の大將になつて居た。そして方々のスバ(角力場)を踏んで步き廻つたが、どの村ヘ行つても荒瀧に勝つ者がなかつた。そこで俺は餘程の大力なんだなアと思つた。

 荒瀧はますます大力になりたいと思つて、遠野郡での御山(高山)六角牛山《ろつこうしさん》に願をかけて、冬の雪山を、裸體(ハダカ)で素足(ハダシ)で每夜御山《おやま》かけをした。雪山はいつも腰きり深かつたが、精神を籠めて居たから體には少しも障《さは》らなかつた。或夜、常のやうに御山の御頂《ゴテン》へ行つて、御堂の内で一生懸命に拜んで居るとこの山の主《ぬし》の若い女の神樣が現はれて、肩肌を脫いで白い乳房を出して飮ましてくれた。それからは每夜神樣が乳を飮ましてくれた。この山の神樣は他《ほか》の石上山《いしかみさん》、早池峯山《はやちねさん》の山々の女神達と御姉妹で、その中の一番の姉樣であつた。荒瀧に逢ふ時には大變黑い長い髮を引いて居つた。

 荒瀧はどんな强敵に出會つても、土俵で六角牛山の方を向いてジダシブミ(四股《しこ》)をすると、必ず勝つたと謂ふ。或る年その當時江戶相撲で橫綱の日ノ下開山秀之山《ひのしたかいさんひでのやま》といふ角力取りが來たことがあつた。その時荒瀧は飛入りに入つて秀の山の一番弟子を難無く負かしてやつた。そして土俵を廻つて降(オリ)やう[やぶちゃん注:ママ。]とする時、秀の山が立つて來て、どうもお前はよい體格(カラダ)だなアと言つて背をそツと撫でた。ただ撫でたやうに見えたのだつたが、その實は荒瀧の肋骨(アバアボネ)が二三本折られて居た。それから病氣になつて遂々《たうとう》死んだ。まだ生き居る老人で、この人を覺えて居る人たちもある。七十年ほどばかり昔のことでもあらうか。とにかく遠野鄕ではそれから荒瀧と謂ふ角力名《しこな》を禁じて居る。

 (故鄕の傳說であると謂ふ點で採錄する。敢て珍しい
 譚ではないが、彼《か》の秋田の三吉神《みよしのか
 み》の話等を思ひ起させる。彼の山ノ女神と里の男と
 の關係を話した赤子抱きの話などを參照して見て下さ
 い。)

[やぶちゃん注:「靑笹村」遠野市青笹町(あおざさちょう)地区(青笹の東を含む広域。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ。)。

「六角牛山」岩手県遠野市青笹町糠前(ぬかまえ)にある六角牛山(ろっこうしさん)。

「石上山」ここ

「早池峯山」ここ

「日ノ下開山」「天下無双の強者」「優れた者」の称。現在の横綱力士の代名詞。天和2(一六八二)年、江戸幕府は、武芸者・芸能者らが「天下一」の呼称を乱用するので、禁止命令を布告し、その後は「天下」と同義語の「日の下」を冠し「日下開山」と言い換えるようになった。元禄年間(一六八八年~一七〇四年)に勧進相撲の興行の際、抜群の強さをみせた大関や、何年も負けたことのない力士を「日下開山」または「日下相撲開山」と褒めそやしたことから、後に横綱を指すようになった(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「秋田の三吉神」秋田県秋田市広面字赤沼にある太平山三吉神社総本宮の一柱である三吉神。同神社公式サイトのこちらの「御由緒」に、『霊峰太平山に祀る当社は、天武天皇の白鳳』二(六七三)年五月、『役の行者小角の創建と伝えられ、桓武天皇』の治世の延暦二〇(八〇一)年の『征夷大将軍坂上田村麻呂東夷征討の際、戦勝を祈願して堂宇を建立、奉納された御鏑は神宝として今に伝えられてい』るとし、『古くからの薬師の峰・修験の山としての≪太平山信仰≫と、力の神・勝負の神を崇める≪三吉信仰≫があいまって、累代秋田藩主佐竹公の崇敬篤く、また』、『戊辰の役では』、『奥羽鎮撫総督九條道孝卿』が『里宮に祈願されるなど、古来より勝利成功・事業繁栄の霊験高い守護神として広く崇敬を受けて』いるとし、祭神は三柱で、大己貴大神(おおなむちのおおかみ)(=大国主命)・少彦名大神(すくなひこなのおおかみ)・三吉霊神(みよしのおおかみ)とし、最後のそれは『秋田で生まれた守護神』で『力の神・勝負の神・勝利成功・事業繁栄の神』とし、さらに「三吉信仰について」という項を設け、『三吉霊神は力の神、勝負の神、破邪顕正の神である。曲がった事が大嫌いで、力持ち。弱きを助け、邪悪のものをくじく神様である』。『太平の城主藤原鶴寿丸三吉は郷人の面倒を良くみた名君であったが、他の豪族にねたまれ』、『追い出されたため、世を捨てて太平山に篭り、太平山の神様即ち大己貴大神、少彦名神様を深く信仰し、修行せられて力を身につけ神様として祀られた郷土の神である』。『霊験談は数多いが、明治元年』の『戊辰役の際の霊験はあらたかであり、神さまの御神徳に感謝した秋田藩主佐竹侯より太平山を遥拝する雪見御殿、すなわち現在の里宮の地を奉賽され』、『以来、特に勝利成功、事業繁栄のお社として、地元はもとより、北海道、東北、関東などの遠方よりも熱烈なる信仰を持った崇敬者が訪れ、年々ご祈願の方々も多くなり現在に至っている』とある。

「山ノ女神と里の男との關係を話した赤子抱きの話」佐々木喜善著の「東奥異聞」(大正一五(一九一六)年三月坂本書店刊『閑話叢書』の一篇)の「赤子抱きの話」。国立国会図書館デジタルコレクションの平凡社『世界教養全集』第二十一巻(一九六一年・新字新仮名)のここから視認でき、その「二」の後半では、本話も紹介されてあり、また、同書底本で「東奥異聞」全部が「青空文庫」のこちらで電子化されてもあるので見られたい。]

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「日錄」

 

[やぶちゃん注: 底本のここ(本文冒頭の「一 西洋煙草」の始まりをリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。

 知られた作家や、私の興味がないものには注は附さない。]

 

      日錄

 

 四月日錄

 

 四月一日

 庭のもの皆芽を吹く。土割れたる有樣は暖かさ搔き上り行く如し。

 夜、パイプの會のため三橋亭に行く。

 パイプの會は「驢馬《ろば》」同人の煙草を喫む會合也。料理は各各好きに攝り好きを飮み、己の分のみを拂ふ。今宵はクレブン・ミクスチユアの試煙にして、各自の出金によりて一鑵買ひ求むる也。

 煙草の濃厚なる食後のうまさは何に譬へん樣なし。茶を料理のあとにて味ふは茶人の心得なるが、煙草もまた料理の後その味優れたり。ことに西洋の刻みは大味の内、こまかき味をふくめりと雖も、槪ね料理の後に喫ふに相應しかるべし。クレブン・ミクスチユアは愛情あり人懷《ひとなつ》こき煙草也。その味ひ春のごとき溫かさあり。また或種類の戀愛的なる甘さをふくめるは最も愛煙に適したるものなるべし。

 歸らんとせるに北原白秋君に會ふ。

 醉餘の白秋君と暫らく話す、却却《なかなか》離さず漸漸《ぜんぜん》の𨻶を見て去る。諸同人と黑門町の或喫茶會に小憩するうち、ややありて暖かき春雨となる。

[やぶちゃん注:以上のそれは、文末に記されてあるが、昭和二年のもの。芥川龍之介が自死した年である。

「パイプの會」「月光的文献」の「一 喫煙と死」及び、前回の掉尾の「煙草に就て」を参照。]

「驢馬」詩雑誌。大正一五(一九二六)年四月創刊、昭和三(一九二八)年五月終刊で、全十二冊。編集兼発行人は十号までが窪川鶴次郎、十一号以後は宮木喜久雄が務めた。室生犀星のもとに集まっていた中野重治・堀辰雄・窪川・西沢隆二・宮木・平木二六(ひらきじろう)らが創刊した同人雑誌で、誌名は堀の提案により、表紙題字は芥川龍之介の主治医で俳人の下島空谷勳が揮毫した。伝統文学の良質部分を受け継ぎつつも、やがて革命文学を担うことになる中野と、二十世紀文学を担う気概の堀との同居が、大正末から昭和初期への同人雑誌群のなかでも重要な史的位置を占めた。中野の詩「歌」、評論「詩に関する二三の断片」や、堀のコクトー・アポリネール・ジャムなどの翻訳詩や詩論の他、犀星を介し、芥川・萩原朔太郎・佐藤春夫なども寄稿した。また、準同人格で田島(佐多)いね子(後に窪川と結婚するも、窪川が田村俊子と浮気したことが原因で離婚している)も詩を発表している。中野を筆頭に、堀を除く他の同人たちは、後にプロレタリア運動に参加していった(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「クレブン・ミクスチユア」前回の「喫煙雜筆」の「二 煙管(キセル)に就て」の「クレエブンミクスチユア」の私の注を参照。]

 二日

 杏咲く、杏の枝を折りて生ける。杏は花咲けるよりも蕾の色濃きが美しき也。

 昨夜の喫煙過度にて舌の上ざらつき荒れたる如し。

 「文藝道」の記者見えられ、短册かくことを依賴さる。

 稻垣足穗君來る。例に依り稻垣君に酒を出す。靜かなるこの酒客は予が友の中の珍らしき酒豪也。けふ二日會なれば行かずやと誘ふに行くべしと言ふ。

 森川町に行きしに既に夜食始まれり。暫くの後、中村武羅夫氏見え廣津和郞君來る。小會なりしが靜かにしてよろし。

 歸途廣津君稻垣君と白十字にて茶をのむ。廣津君と親しく話したるは今夜がはじめて也。

[やぶちゃん注:「文藝道」文芸雑誌らしいが、不詳。

「二日會」錚錚たる面子だが、不詳。

「森川町」現在の文京区本郷の東大の東向かい旧町名(グーグル・マップ・データ)。]

 三日

 春陽堂の笹本君小說全集の件にて來る。要談の後、宮木喜久雄君來る。

[やぶちゃん注:「宮木喜久雄」(明治三八(一九〇五)年~?)は台湾生まれの日本人詩人。大正一四(一九二五)年二十歳の時、室生犀星を訪ね、先に注した『驢馬』の創刊に参加した。同誌終刊後は、プロレタリア文学運動に参加し、『戦旗』に作品を発表、昭和四(一九二九)年刊の『日本プロレタリア詩集』にも彼の詩が収録されている(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。]

 四日

 「不同調」の嘉村君原稿の件にて來る。

 下島先生子供の來診に見えらる。

[やぶちゃん注:「不同調」右派の評論家中村武羅夫が大正一四(一九二五)年にプロレタリア文学の勃興と『文藝春秋』への抵抗として新潮社から発行した雑誌。

「下島」先の注に出た下島勳。彼は芥川だけでなく、田端文士村の御用達医師であった。]

 五日

 櫻やや色に出づ。

 夜來の春雨小止みなく庭後の杏の散ること荐《しき》りなり。

 新潮合評會に行く。

 初めての出席なればうかうかと喋りて後悔す。宮地嘉六君、心に溫みを持ち乍ら話せる有樣予の好感を惹く。廣津君の正直一圖なるもよし。

[やぶちゃん注:「宮地嘉六」先行する「人物と印象」の「宮地嘉六氏」を参照。]

 六日

 「古風な寫眞」の校正刷を中央公論社へ持つて行く。島中氏に三年振りにて會ふ。

 平木二六《じらう》君來る。引越しをなす由、詩二篇を書き平木君のため「女性」の古川君に手紙を書く。

 宮木君來る。芥川君下島先生同道にて來る。短册など書きて興を遣りたり。

  空あかり幹にうつれる木の芽かな

[やぶちゃん注:「古風な寫眞」雑誌『文藝通信』昭和二年六月発行のそれに発表している。因みに、同誌の七月発行のそれには、まさにこの「四月日錄」が載る。

「島中氏」中央公論社の編集者で、この翌年に中央公論社社長となる嶋中雄作のことであろう。

「芥川君下島先生同道にて來る。短册など書きて興を遣りたり」芥川龍之介新全集の宮坂覺氏の年譜で確認したところ、『この時、犀星の机上にあった書簡箋を手にとり、河童の絵を描いた。午後』九『時頃、帰宅』とあった。]

 七日

 堀辰雄君來る。國元の母より干鰈《ほしがれひ》到く。

  干鰈桃落る里の便かな

 八日

 春暖漸く臻《いた》る。

 淺草東京館に「人罠」を見る。詰らず。

 中田忠太郞、宮崎孝政君來る。

  春雨や明け方近き子守唄

 

 銀座田屋にてパイプを一本買ふ。散步用の輕き小型のロンドン製也。パイプは齒に重みを感じざる程度のものをよしとなす。齒に疲勞を感じるものは重き也。散步になるべくパイプを銜へざるやうにせるは、氣障《きざ》になること屢屢なれば也。なるベく人無きところ、あるひは自宅にて喫《す》ひたしと思ふ。

 尾張町の角にて修繕したるパイプを受取り、ローマイヤにてベーコンを買ふ。

 植木屋けふにて春の手入れを終へたり。此間より竹の句作らんとして遂に三句を得るのみ。

  竹林や石叩き行く竹の風

  竹の葉に辷《すべ》る春日ぞ藪すみれ

  藪中や石投げて見る幹の音

[やぶちゃん注:「人罠」Mantrap。ヴィクター・フレミング監督作品。一九二六年公開。「映畫時評」の「九 文藝映畫の製作」でも映画名を出している。なお、私の「人生興奮(その二) 尾形亀之助」の中で尾形は、『先に「人罠」を見、その次に見た赤ちやん母さん――で、私はクララ・ボーが好きになつてしまつた。彼女の演技が、と、いふ意味ではなく恋心に似た気持になつてしまつた』以下、彼女への傾倒を語っている。]

 九日

 髮の毛伸び鬱陶しければヤング理髮店に行く。龜屋でバタを木村屋にてパンを買ひ、藤屋にて茶をのむ。久保田万太郞君に會ふ。

 夕方、中野重治君來る。學校なんぞ出鱈目也と新文學士嘯《うそぶ》く。

[やぶちゃん注:「龜屋」不詳。舶来品の店舗か。]

 十日

 けふ三春の行樂を追ふひと多し。庭後の沈丁花散る。

 宮崎孝政君來る。午前より日沒まで七時間坐り居れり。創庵以來の長尻の客也。窪川鶴次郞、宮木君來る。

 坂井柳々君來る。俳論あり。

「文藝時報」の中山君來る。氣の毒なれど談話を斷る。

  枯笹や氷室《ひむろ》すたれし蕗の薹

[やぶちゃん注:「宮崎孝政」(明治三三(一九〇〇)年~昭和五二(一九七七)年)は再生と同じ石川県生まれの詩人。書肆「龜鳴屋」のサイトのこちらによれば、七尾中学校中退。大正八(一九一九)年、『『短歌雑誌』に投稿した詩「汝れよ貧しき者よ」が三木露風の選で入賞』、『この年、能登島小学校の准訓導心得とな』り、後、『母校徳田小学校の代用教員とな』った。大正十年には、『『現代詩歌』に詩を発表し』た。大正十五年には『教職を辞し』、『上京』、本篇で後に出る詩人『田中清一が創刊した『詩神』に作品を発表し始め』、同年九『月、第一詩集』「風」を刊行、昭和三(一九二八)年には『『詩神』の編集を担当。編集者としても才能を発揮する』。昭和四年九月には第二詩集「鯉」を出し、昭和六年、第三詩集「宮崎孝政詩集」を『天平書院より刊行。またこの年、京橋で「運命予言日本気学院」の看板をあげ、占い業も開始』している。『昭和』十『年正月、東京暮らしに見切りをつけ』、『帰郷したが、その後も東京へはしばしば出かけ』てはいた。昭和十二年、『自宅裏庭に「万葉荘」を建て、近所の子供たちを集めて文学の手ほどきを』始めた。『詩作活動は戦中を含み』、『続けられ、第四詩集』「寺子屋草子」を『まとめる意向があったが、陽の目を見ず、作品は』敗戦後の『昭和』二八(一九五三)『年を最後に』、『一作も発表されていない』とあった。

「坂井柳々」不詳。]

 十一日

 落花しきり也。

 宮地嘉六君來る。百田君來る。

 宮地君と動坂を步く。

[やぶちゃん注:「百田君」詩人百田(ももた)宗治。]

 十二日

 森林社同人、松江、宮崎、大黑の三君詩集の會合のため來る。

 夜、驢馬社に行き同人と散步に出づ。

 十三日

 午前、竹を伐る。庭後明るく春の日透る。

 楓の芽漸くほつれ始む。

 百田君田中淸一君と來る。田中君とは初對面也。竹村俊郞君來る。石原亮詩集の序を依賴に來る。

 けふ錢湯に行きしに高き硝子窓より落花吹き入り、浴槽に泛《うか》びたり。春やや深き思ひをなす。

 百田君の贈物、マイ ミクスチユアを喫煙す。味ひ素直にして高雅の趣あり。クレブン ミクスチユアの人懷こき味ひもよけれど、マイ ミクスチユアに越したることなし。サンキユアードは素氣なく、ゴオルデン ハバナは柔らか過ぎるきらひあり。一度マイ ミクスチユアを喫煙しては他の何物も及ばざるごとく思はる。

 ミクスチユアは味ひ複雜にして、あまさ、にがみ、强さ各各渾然たる如くして然らず。別別に舌の上に味ひ殘りゐて愛煙すべし。又パイプの暇暇《ひまひま》に紙卷を喫へばパイプの味ひ夢の如く戾り來りて愉快也。十七八年前、デザアンクルと云へる佛蘭西の租惡なる煙草を喫ひたることを思へば、マイ ミクスチユアの如きは宮殿裡にこそ喫煙すべきものならんか。

 パイプの煙は一つにはその姿美しく、又量に於て朦朧として何か旺《さか》んなるところあり。自らその煙を眺むるは悠長なりといふべし。

[やぶちゃん注:「竹村俊郞」(明治二九(一八九六)年~昭和一九(一九四四)年は詩人。山形中学卒。朔太郎・犀星らの詩誌『感情』に参加し、大正8年に詩集「葦茂る」を刊行している。その後、英・仏に遊学後、数冊の詩集を出したが、その間の昭和一四(一九三九)年には郷里山形に帰り、大倉村村長を務めた。]

 十四日

 重重しく曇れる日。

 芥川君のところへ行く。まだ炬燵の中にあり、庭前の落花しきりなるに呆然たり。

 夜雨を遠く聞きて早く寢る。

[やぶちゃん注:前記の宮坂年譜によれば、下島も合流したようで、『夕方まで俳談などをする』とある。]

 十五日

 夜、三橋亭にてパイプの會あり、マイ ミクスチユアを試煙す。澄江堂も參會、古風なるパイプを銜へたり。

 自動車にて銀座に出、日比谷から小川町に拔け、池の端を廻り公園をぬけて、元の三橋亭にて別る。十二時七分前也。

[やぶちゃん注:宮坂年譜で確認。]

 十六日

 昨日の過度の喫煙にて舌爛れて痛し。

 久しぶりに午睡をなす。午睡のできぬ癖なれど、卅分くらゐ眠りたり。うつつに風荒れるを聞く、これ春眠といふべきか。

 澄江堂よりの臼人蛙の戲畫をかける。お隣より貰へる白の大輪の椿一本を生ける。

むしろ牡丹のごとき椿なり。

 改造社の古木君用件にて來る。

 妻の姉よりさしあみ鰯送り來る。さしあみ鰯の漁れるころは金澤も春の最中なり。

李や杏も散りはてし頃ならん。來月早早に行きたしと思ふ。

[やぶちゃん注:「臼人蛙の戲畫」私は小穴隆一の「芥川龍之介遺墨」と、最新の二玄社の「芥川龍之介の書画」を所持するが、当該する戯画はなく、この謂いも初めて見た。識者の御教授を切に乞うものである。グーグル画像検索で「臼人蛙 芥川龍之介」を掛けると、呆れたことに、三分の一の画像は、何故か私のブログの関係のない絵が掛かってくる。全く以って困ったもんだ。]

 十七日

 朝子風邪の氣味也。

 主義者と名のるもの三名來る。斷然金員援助拒絕す。

 中田、黑田、相川、窪川、栗田の諸君來る。

 人浴後、新茶をのむ。昨年は五月の上旬に初めて新茶を喫みたり、走りなれど初夏の心意氣あふれゐる心地す。

[やぶちゃん注:「朝子」犀星の長女。後に随筆家になった。]

 十八日

 金澤へ搬《はこ》ぶ下草の植ゑかへをする。庭のものの若芽美しく、幸福らしきものを感ず。竹には筍《たけのこ》生えたり。

 岸田劉生氏へ打電、「庭をつくる人」の裝幀を急がしたるなり。裝幀送れりとの返電來る。

 「大調和」の記者來る。平木、窪川の二君來る。下島先生、朝子來診に見え、大したことなしと言はる。

 夜、宗紙の寬文版の句集及梅室選の嘉永版を本鄕にて買ふ。

[やぶちゃん注:「庭をつくる人」犀星の随筆集。彼のものでは、私は最も抵抗なく、なかなか面白く読み、いつか電子化してもいいと思っている作品である。国立国会図書館デジタルコレクションの全集のこちらから視認出来る。]

 十九日

 春やや闌《た》けしが如し。

 未知の紳士訪ね來りて、このたび庭つくらんと思へるが予が意見と築庭の程《ほど》話されたしと言ふ。庭はすきずきなり、人の意見聞かんより先づ己《おのれ》が好きになされよと言ひ、歸したり。予の築庭の如きは全く詰らぬものにて、斯道《しだう》の達人の如く思はるは迷惑なり。予に聽かんより寧ろ市上一介の植木屋を對手《あひて》にしたる方餘程それらしきもの作られんこと必定なり。予のごときはつねに頭にて描ける庭にのみ遊ぶ輩《やから》なり。

 岸田氏より「庭をつくる人」裝畫來る。予の好みの程あらはれ喜びとはなすなり。

西澤、宮木の二君來る。風邪の氣味なり、昨夜鼻のなか痛みしが今朝なほいたむ。

 夕方風出でて竹の鳴るのを聞けば、晚春のこころ深きをおぼゆ。夜に入り頭痛烈しく下島先生に藥餌を乞ふ。

 二十日

 昨夜より頭痛烈しく起きられず臥床す。

 窓硝子を掠《かす》めて楓の芽ひらく。龜屋よりオート・ソーテルヌ到《つ》く。

 昨日より風歇《や》まず、花の屑、木の芽、緣側に埃とともに舞ふ。新茶の味ひ今日却却にうまし。

[やぶちゃん注:「オート・ソーテルヌ」不詳。ソーテルヌ(Sauternes)というと、ボルドー地方のソーテルヌ地区で造られる極甘口貴腐ワインの名だが? ソーテルヌ地方の燕麦かぁ? 「シャート・ソーテルヌ」の誤記かとも考えたが、そんなシャートはないみたいだし……]

 金澤大火の號外出づ。朝日新聞の予が故鄕の大火を號外に出して報ずるは喜しき限也。古き町家の又失はれしかと思へば果敢《はか》なし。六百戶燒けしと云へば金澤にては古今稀れなる大火也。來月金澤に行くこと思ひ止まる。故鄕の人ら家を失ひしを眺めつつ、我が庭つくらんと思ふは氣遲れを感ずるなり。

 夜、風邪を冒して陶々亭の「森林」の會に行く。

 諸銀行休業の號外出づ。

[やぶちゃん注:昭和二(一九二七)年四月二十一日に石川県金沢市で発生した「彦三大火(ひこそたいか)」(「彦三」は出火から延焼が広がったした町名と思われる。グーグル・マップ・データのここを見られたい。現在の「横安江町商店街振興組合」から東へ向かうと、彦三町(ひこそまち)である)。午前三時半頃、横安江町の雑貨商から出火し、秒速十五メートルの急風に、忽ち、燃え広がり、全焼七百三十三戸、焼失面積五万八千坪、推定損害額三百二十二万円という宝暦九(一七五九)年四月十日の金沢の「宝暦の大火」以来の大火となった(以上のデータは「国立国会図書館」の「レファレンス協同データベース」のこちらの回答を参考にした)。

『陶々亭の「森林」の會』不詳。

「諸銀行休業の號外出づ」昭和二(一九二七)年三月、第一次若槻礼次郎内閣の片岡直温大蔵大臣の議会での「失言」が発信源となり、銀行の取付けが相次ぎ、金融恐慌が始まった。詳しくは当該ウィキを参照されたい。]

 二十一日

 風邪快き方也。

 昨日の暴風にて庭荒れたれば、掃除をするに稍《やや》寒さを感ず。柔らかき芽生えの折れたるが哀れ也。一人にて叶はざれば妻及女中に手傳はす。

(昭和二年)   

 

 

 輕井澤日錄

 

 七月六日、七十度。雨。輕井澤に着く。去年の別莊に入る。まだ初夏の風情也。セルに着換へ、子供らも着換へをなさしむ。西洋人など避暑客未だ少數なり。

[やぶちゃん注:次の断絶して続いている「續輕井澤日錄」から、やはり昭和二(一九二七)年の芥川龍之介自死の月の、その前の日録である。なお、幾つか注を附したい衝動にかられた箇所もあるのだが、芥川龍之介自死の後の「續輕井澤日錄」と「神無月日錄」は犀星の思いを受けとめることに専念して読んで貰いたく、注は、ほぼ附けないことにした。悪しからず。

  七日、七十二度。雨。

 町にて買物をする。荷物を解くため去年來て貰ひしお捨さんに來て貰ふ。

 畑の葱をぬき肉を煮る。

 夕方、向ひ別莊に西洋人の一行着く。

  八日、雨。七十度。

 障子を閉め火鉢に火を起しても寒し。

 けふから仕事。

 夜、薄き月出づ。

  九日、快晴。七十六度。

 朝早く山ぜみ啼く。

   山蟬のきえ入るところ幹白し

 赤腹といふ鳥終日啼き夕方霧下る。上海あたりより避暑と動亂を避ける派手なる外人門前を過ぐ。

[やぶちゃん注:「赤腹」スズメ目スズメ亜目ツグミ科ツグミ属アカハラ Turdus chrysolaus「和漢三才圖會第四十三 林禽類 𪃹(しなひ) (アカハラ・マミチャジナイ)」を参照されたい。

「上海」「動亂」「四・一二事件」。この一九二七年四月十二日、蒋介石が上海で引き起こした反革命クーデター。詳しくは、参考にしたウィキの「上海クーデター」を見られたい。]

  十日、快晴。七十七度。やや暑し。

 午後霧下る。終日客無く山中の閑暇擅《ほしいまま》也。

 森の中、林の奧の別莊の燈火次第に點《とも》る。

 日曜の晚なれば讃美歌とオルガン聞ゆ。

  十一日、晴。七十七度。

 朝よく聽けば色色の小鳥啼く。

 雷鳴の後夕立あり、晴れて後《のち》通りに散步に出づ、正宗白鳥氏に會ふ。正宗氏咄嵯に菊屋を指差す。喫茶部あり小憩。再會を約して別る。

  十二日、晴。

 向ひの西洋人の女の子、うちの子と遊びませうと呼びに來る。

 

 

 續輕井澤日錄

 

 

  八月一日、晴、七十二度。

 誕生日なれば赤飯を焚く。誕生日の祝に子供からスター一個を貰ふ。

 芥川君の追悼文書かぬことに心を定む。故人を思へば何も書きたくなし。「中央公論」「改造」へ事情を云ひ斷る。

 この日、中河興一君一家族來る。

 志賀直哉氏庭前に來て長與氏へ來れる途すがらなりとて寄らる。

  同じく二日。晴。七十度。

 西洋人の子供大勢花をもらひに來る。

「文藝春秋」の菅君に自分の意思をつたへ悼文を書かぬことにする。「文章倶樂部」へも同斷。

 午後小畠義種歸京。送りながらプールに山根義雄君と行く。

  同じく三日。七十度。雨。

 山根君歸京。洋村秀剛君來る。

 中河君の奧さん別莊見つかりしとて見えらる。

  同じく四日。七十度。雨折折、霧。

 午後すぐ上手の長與善郞氏を訪ふ。病中にてすぐ歸る。

 夜、聖路加《せいルカ》病院の池田博士と助手と共に話に見えられる。數刻の後病人ありて歸らる。

 「新潮」の追悼座談會明日あれど出席しがたく返電を打つ。

  同じく五日。雨折折晴天。七十二度。

 仕事。改造の下山君來る。悼文やはり書かぬこととする。

    悼澄江堂

  新竹のそよぎも聽きてねむりしか

 中河君來る。新著「恐ろしき私」を貰ふ。村井武生君歸省の途中なりとて寄る。夕食の後別る。

 

 

 神無月日錄

 

 

 十一月二日 はれ。

 庭の奧は落葉を見んため掃かぬこととはせり。赤松月船君來る。妻子を國にかヘせしが妻子なくては淋しきなりといふ。僕も同感也。――田中淸一、淸水暉吉兩君來る。雜誌詩神改革せんとのことなり。今夜二日會なれど、話疲れて再び人中に出る勇氣なし。失禮する。

 三日 晴。梅もどき紅くなる。

 稻垣足穗君來る。例により稻垣君湯に行き僕も入浴す。食後神明町の時計屋に行き眼鏡の修繕を依賴す。高柳君の奧さん湯にはひりに見えらる。

 四日

 はらはちと時雨もよひの空なり。「新潮」の小說を書いて疲れ、淺草に「カルメン」と「魔炎」を見る。「カルメン」は最も映畫らしき映畫以上のものにあらず。「魔炎」は美しきものなれど詰らず。ロナルド・コールマンは單なる流行俳優たるのみ。其末路目に見ゆるごとし。最近に見たる「椿姬」はよき抒情詩也。ノーマ・タルマツヂの柔らかき素直なる藝風は、「椿姬」をよく生かしたり。

 五日 しぐれ。石蕗《つはぶき》の花くろずむ。

 雨の中に藥買ひに出でしに芥川君の比呂志君の學校がへりにあひしかば、お母さまによろしく言ひてよと云ひて別れたり。我死にて彼生きてもあらば、わが娘に彼のまた斯くは言はんものをと、歸りて妻に話しぬ。

 六日 快晴。庭前の楓散落す。

 瞼のマイボーム氏腺昨夜より痛みしが又腫物となりたり。七月より七囘目也。――堀辰雄君來り夕食後窪川君夫妻來る。乾鬼子君來る。夜、瞼の腫物疼《うづ》きて眠《ねむり》を得ず。されど此痛みの中に小說書くは自ら嚴しさを感ず。

 七日 快晴。地震あり。

 每年經師屋に障子張を命ぜしかど、今年は妻とともに張りたり。下島先生來る。宮木君來る。

 障子張るやつや吹きいでし梅の枝

 夜、宮本君と動坂に出で汁粉食べたり。「砂繪呪縛」を見しかど甚しく詰らず。

 八日 けふ立冬也。

 朝の内例により仕事。後、昨日の殘りの障子張りかへたり。うそ寒き曇天にて糊加減滑らかなり。掛軸の表裝も亦糊加減なりといへば障子張りも亦糊加減ならんや。

 夜、田村松魚氏宅にて駱駝の銅印めいたるものを購《あがな》ふ。卦算《けさん》[やぶちゃん注:文鎮。]に用ひんためなり。かへりて瞼の腫物の療治をなせり。其疼痛云はむ方なし。

 九日 快晴。

 昨夜の銅印今朝の明りに眺めしに詰らず、むしろリンガムの佛像めける銅印と取換へるべく妻を使《つかひ》に出す。かへれば松魚氏いまだ床中にありといふ。午後脫稿の上、若松町の百田君を訪ねかたがた新潮社に赴く。

 

 

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 山神の小便

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。今回は、ここ

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。太字は底本では、傍点「﹅」である。

 なお、冒頭に出る「『鄕土硏究』二卷三號」に載る「實盛塚」という論考は柳田國男のそれである。この柳田の論考自体は、「虫送り」の民俗との関連もさることながら、齋藤別當實盛は私の好きな武将ではあるのだが、どうも、以下の熊楠の小論とは連関性が頗る弱いものであることから、柳田のそれは、また、別の機会に電子化したい(それを電子化注するとなると、またまた、それだけで一日仕事になってしまうので厭だからというのが本音である)。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で「定本柳田国男集」第九巻(国立国会図書館内/図書館・個人送信限定)の「毛坊主考」の中にある柳田の当該論考をリンクさせてはおく。悪しからず。]

 

     山 神 の 小 便 (大正三年十一月『鄕土硏究』第二卷第九號)

 

 是は、近刊、白井博士の「植物妖異考」にも載せてないが、熊野で、往々、見る。樹枝が折れて垂下《たれさが》つたり、藤葛(かづら)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]が立枯れになつたのが、一面に白色で、多少、光澤あり、遠く望むと、造り物の小さい飛泉(たき)のやうなものだ。以前はこれを山神(やまのかみ)の小便と稱へ、其邊に山の神が住むと心得たが、今は土民も是は一種イボタに類した蟲白蠟(ちうはくらう)と知つて、那智村大字市野々(いちのゝ)で、或人が採つて來て、座敷の敷居に塗抹し、障子が快く動くと悅んで居《を》るのを見た。

[やぶちゃん注:『白井博士の「植物妖異考」』白井光太郎(文久三(一八六三)年~昭和七(一九三二)年)は、越前福井出身の、本邦の植物病理学者の草分けで、本草学者・菌類学者でもあった。東大理学部植物学科の二人目の卒業で、その卒業論文は、東京と、その周辺の蘚(せん)類の研究で、これは日本に於ける蘚類の学術的研究の先駆けと評価されている。その後、ドイツに留学し、植物病理学を移入した。明治四〇(一九〇七)年、母校農学部教授となった。「餅病」・「てんぐ巣病」の研究を行い、「植物病理学」(一九〇三年刊)の著がある。森林植物学の開拓者とも見做され、また、植物の奇形や、本草学の研究にも造詣が深く、植物学と文化とを結びつける著述活動で功績を残した(以上は主文を平凡社「世界大百科事典」に拠った)。「植物妖異考」は大正三(一九一四)年甲寅叢書刊行所から刊行されたもので、謂わば、植物学者による、優れた植物の民俗伝承研究書として名高い。いつか電子化したいと思っている興味深い著作である。国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらで一九六七年有明書房の復刻本と思われるもので視認出来る。

「イボタ」イボタロウムシ。「疣取蠟蟲」。半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目カイガラムシ上科イボタロウムシ Ericerus pela で、当該ウィキによれば、『北海道から沖縄県まで日本に広く分布するほか、朝鮮半島やヨーロッパにも生息する。冬眠中の雌成虫は体長』五『ミリメートルほどの楕円形で、成熟個体は直径』一『センチメートル程度の球形になる』。『日本の本州では』五『月下旬頃に産卵し』、六月から七月頃に『孵化する。幼虫はモクセイ科』Oleaceae『の樹木の枝に密集してロウ状の物質を分泌する。枝がロウ物質により白くなるため』、『落葉後に発見されることが多いが、樹木の生育への影響は小さい。ロウ物質は』嘗ては『薬用・工業用に用いられており、その採取を目的に養殖が行われたこともある』。古くは日本刀の手入れにも用いられた。『雄幼虫のロウ物質の構成成分を検査したところ、構成する成分はワックスエステルが』九十%『以上を占め、他に遊離高級アルコールや炭化水素が含まれていることが明らかになった。これはトリアシルグリセロール(中性脂肪)が』八十%『以上を占める幼虫本体の脂質とは大きく異なる組成を示している』とある。辞書には、イボタロウムシについて、の成虫は暗褐色の約一センチの丸い殻を作り、五月頃に産卵し、は七月頃からイボタノキ(キク亜綱ゴマノハグサ目モクセイ科イボタノキ属イボタノキ Ligustrum obtusifolium )・ネズミモチ(イボタノキ属ネズミモチ Ligustrum japonicum )などに寄生し、白色の蝋を分泌し、中で蛹(さなぎ)となる。成虫は体長三ミリメートルほどで、透明な二枚の翅(はね)を有する、とある。イボタノキは「疣取木」或いは「水蠟木」と漢字表記する。この虫の和名イボタロウムシは、その蠟物質が、古来、「塗ると疣が取れる」とされたことによる。この蝋は福島県会津地方産が知られ、イボタロウムシの分泌物が原料で上質であり、絵蝋燭を造るほか、医薬用・工業用とする。会津に行った際、その蝋燭を買わんとして老舗に入ったが、私にはどうもあの絵柄と色が生理的に好きになれず、買わずにしてしまった。

「蟲白蠟」以上のような虫類群の種が寄生することで生じる虫瘤(むしこぶ)から得られるロウ成分を指す。]

大手拓次 「木の葉のしげりのなかをゆく僧侶」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 木の葉のしげりのなかをゆく僧侶

 

大空のひかりにそむいて、

たわわにしげる木立のしたをえらび、

足音さへも自分の心にしのんで、そろそろとあるいてゆく。

神のかきしめしたあらはな文字をさとらないで、

いたづらにかさなる運命のけものにおさへつけられ、

しろい淚を衣のそでにしめらせ、

人人のよそながらの笑ひにおくられながら、

日ごとにくもりを增す木の葉のしげりのなかを、

ひそかにひそかに生れながらの寶石のゆくへをさがして、

わかい僧はひとりどこまでもあるいてゆく。

 

大手拓次 「そだつ焰」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 そだつ焰

 

手と足とが五つのほのほとなつてからみつく、

女は夜(よる)の海をゆく舟、

男は朝の木立をのぼる犬、

あをさびたくらげの鐘がなりひびいて、

まつくろな五つのほのほをもりそだてる。

女は水をくぐる鳩、

男はめくらの河の水、

雨はをやみなくしめじめとふりつづいて、

まつくろな五つのほのほをもりそだてる。

 

[やぶちゃん注:「焰」は底本の用字。]

大手拓次 「一人のために萬人のために」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 一人のために萬人のために

 

一人の生きるために、

萬人の生きるために、

民衆のうへにみどりの火をかざせ。

 

一人の死をとむらふために、

萬人の死をとむらふために、

民衆のうへに靑銅の鉦をならせ。

 

[やぶちゃん注:「萬」は詩集「藍色の蟇」の表記字に従った。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 五〇番 絲績み女

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから

 標題は「いとうみをんな」。「絲績み」とは。「麻・苧(からむし)などの繊維を細く長くより合わせること・紡(つむ)ぐこと」を言う。但し、以下の本文の方言に従うなら、「いとおみをんな」となろう。]

 

   五〇番 絲績み女

 

 鼠入(ソニウ)に卯平と云ふマタギがあつた。殿樣の前でもこの卯平は、世の中のことで知らないことはない。又俺の思うことで何でもできないことはない。只だ惜しいことには天を飛ぶことばかりがまだ出來ないと豪語して笑はれたと云ふ人物であつた。

 この卯平マタギが友人の川臺の小作マタギと云ふ人と二人で、松格(マツカク)嶽へ鹿打ちに出かけた時のことであつた。二人が山小屋に泊つて居ると、或夜の夜更けに何處からか若い女が出て來て、小屋の爐《ひぼと》に燃えてゐる火を盜んで、すたすたと山を登つて行つた。

 二人のマタギがこれは怪しいゾと話をして居ると、小屋から見える向ふのソネに火が燃え出した。見ると先刻の女が座(ネマ)つて麻絲なオンでいながら、度々小屋の方を向いてニヤリニヤリと笑つてゐた。

 卯平は小作に、お前アレを打つて見ろと言つた。小作が其の女を狙つて鐵砲を打つたが、[やぶちゃん注:底本は読点。「ちくま文庫」版で訂した。]幾度打つても其の都度ただ此方《こちら》を向いてニヤリニヤリと笑ふばかりで、少しも手答へがなかつた。卯平はそれでア分(ワカ)んねえ、彼《あ》の女でなく橫の績桶(おむけ)を狙つて打つてみろと言つた。績桶を打つと火も女もペカリと消えてなくなつてしまつた。

 翌朝其所へ行つて見たら、大きな木の切株のやうな大きな古狸が死んでゐた。

  (前話同斷の四。)

[やぶちゃん注:「前話同斷の四」とあるが、前話「四九番 呼び聲」には採取附記がない。但し、その前の「四八番 トンゾウ」には、『(陸中閉伊郡岩泉地方の話。野崎君子さんの御報告分の二。)』とあるので、「四九番 呼び聲」がその三であり、これが「四」で辻褄が合う。以上三話はロケーションも旧岩泉村で違和感がない。

「鼠入(ソニウ)」「四八番 トンゾウ」に既出の「鼠入(ソニウ)川」地区(現在の岩手県下閉伊郡岩泉町(いわいずみちょう)岩泉鼠入川(いわいずみそいりがわ)(グーグル・マップ・データ航空写真)から、小本川(おもとがわ)に南から合流する「鼠入川」を上流に遡って、西の山間部に現在もかなり広大な、しかし、殆んどが山間地である岩泉町鼠入(そいり)が確認出来る。但し、読み方が上記の通り、変わっている。

「川臺」この漢字表記では不詳だが、地名と思われるところから、調べたところ、現在の鼠入地区の尾根を南西に少し越えた近くに(マタギにとってはこの尾根は屁でもない)、岩泉町川代(かわだい)地区が現存する。私は、ここのような気がする。

「松格(マツカク)嶽」鼠入と川代附近を「ひなたGPS」の戦前の地図で調べたが、このピークは見当たらない。

「向ふのソネ」登山用語としては「曽根」「埆」で、「尾根」・「低く長く続く尾根」或いは「ガラ場になった石の多い場所」を指す。ずっと離れるが島根方言で「尾根」を「そね」と呼ぶことが確認出来た。

「ペカリ」副詞の「ぱっと」相当であろう。]

2023/04/24

大手拓次 「Tilleul の香料」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 Tilleul の香料

 

微笑のおくにうづまくかなしみの谷、

みづ色の鳥はとびかひ、

蛇のやうにふとい鎖はおもくなりひびいて、

わたしの肉身をゆすぶる。

 

[やぶちゃん注:「Tilleul」音写は「ティリュル」が近いか。フランス語で「菩提樹」を指す。ここは「香料」とあることから、花の香りが有意にある、双子葉植物綱ビワモドキ亜綱アオイ目シナノキ(科の木)科シナノキ属ナツボダイジュ(夏菩提樹) Tilia platyphyllos をまず挙げてよいか。同種は別名「西洋菩提樹」とも言う。当該ウィキによれば、『ヨーロッパ中央部および南部原産の落葉高木。世界の温帯で、街路樹や庭園樹としても多く植えられている』。『日照を好むが、強健で耐寒性が非常に高く、北海道中部以南であれば栽培可能』とあり、『フユボダイジュ』(冬菩提樹:Tilia cordata :ヨーロッパからコーカサスに分布。本種の花も香るので候補となる)『に比べると』、『やや樹高が高くなりやすく、高さ』三十五メートル『に達する高木になる場合もある』。『葉形は大きめの広卵型で先端が短く尖り、表面はざらつきがある両面有毛。花には芳香があり、開花は』六~七『月頃』で、『花色は淡黄色』である。『秋には紅葉し、若木の時は円錐形、成木になると卵型の樹型になる』とある。但し、以上のナツボダイジュとフユボダイジュの雑種で、中世ヨーロッパでは「自由の象徴」とされ、かのベルリンの大通りウンター・デン・リンデンの両側に街路樹として植えられていることで知られ、またシューベルトの歌曲集『冬の旅』( Winterreise )の「菩提樹」( Der Lindenbaum )でも有名なセイヨウシナノキ Tilia × europaea も候補となる。]

大手拓次 「溫室の亡靈」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 溫室の亡靈

 

花がいちやうにゆれて、

うすむらさきのゆふやみが、

やはらかい毛のいきもののやうにあつまつてきた。

まつきいろにたれさがる異形の蘭の花、

恐ろしい繁みのまぼろしをうむ羊齒(しだ)の葉のそよぎ、

まつかな夢をひらめかす名もしらぬ毒草の花、

けむりのやうに手をのばす蔓草(つるくさ)のあをあをしさ、

むらがりきえるにほひのつよいまどはしに、

あたまをうたれ、

眼(め)をうたれ、

しびれる手をうたれれて、

わたしはをんなの蜘蛛のやうにおづおづとうづくまる。

わたしは、この溫室のなかにうまれでた、

かたちもないひとつの亡靈だ。

わたしはじめじめとした六月の濕氣のかげに、

うすばかげろふのやうな透明のからだをねかせて、

にがにがしくあまいもろもろの花のにほひをかぎながら、

ふけてゆくわたしの年月(としつき)のうへに笑ひと夢とをなげる。

 

[やぶちゃん注:「溫」の字体は詩集「藍色の蟇」に従った。

「をんなの蜘蛛」節足動物門鋏角亜門クモ綱クモ目クモ亜目クモ下目コガネグモ上科ジョロウグモ科ジョロウグモ属ジョロウグモ Trichonephila clavata を指していよう。なお、和名は一般には「女郎蜘蛛」と考えられてはいるが、「上臈(じやうらう(じょうろう))蜘蛛」とする説もある。なお、「おづおづとうづくまる」という比喩からは、網を張って、凝っと動かずに、体幹部を低くして、獲物の掛かるのを待っているそれをイメージするのだが、これが確かにジョロウグモを指すのだとすれば、このジョロウグモは高い確率で、♂であると言える。同種ははっきりとした性的二形で、♀の方が大きいからである。成体でも♂の体長は〇・六~一・三センチメートルしかないのに対し、♀は二倍超の一・七~三センチメートルもあるからである。しかも、我々が想起する、腹部が黄色と暗青色の縞模様で、長い脚が黒地に黄色いラインが巻かれている如何にも毒々しいあれは、♀のそれであって、♂は、体が小さいだけでなく、ずっと地味な色合いであって、腹部は褐色がかった黄色に縦縞が入った姿をしている。さすれば、ますます「おづおづとうづくまる」という形容がいやが上にもマッチしてくるからである。

「うすばかげろふ」「薄羽蜉蝣」。昆虫綱内翅上目アミメカゲロウ目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidaeに属する種の総称、又はその代表種であるウスバカゲロウ Hagenomyia micans を指す。しばしば勘違いされるが、和名で「ウスバカゲロウ」と呼び、形状が酷似はするが、正統な「カゲロウ」(蜉蝣(カゲロウ)目 Ephemeroptera)類とは、これ、極めて縁遠い(なお、本科全ての種の幼虫がアリジゴクを経るわけでもない)。因みに、如何に多くの日本人がこれらを一緒くたにして誤認しているかは、私が現代文の授業で朗読しなかったことがない梶井基次郎の偏愛の名短篇「櫻の樹の下には」(リンク先は私の古いサイト版)の痛い誤りが、それを証明している。ここは比喩だし、まず正しくウスバカゲロウを指すと、一応は、好意的には認め得るから、それを語ることは控える。興味のある方――というより、種として全く異なるということがよく判っておられない方、梶井の誤りが判らない方は、是非、『橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(23) 昭和二十三(一九四八)年 百十七句』の私の「薄翅かげろふ」の注を見られたい。]

大手拓次 「白面鬼」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 白 面 鬼

 

あをい顏ぢやないか、

しろつぽいくすんだ顏をしてゐるぢやないか、

どうしたのだ、

どうしたのだ、

すきとほる靈魂の塔のうへでは、

めづらしく大鴉(おほがらす)がないてゐる。

おまへの顏はしなびてゆくぢやないか、

冬の夜のばらの花のやうに、

まつくろにしをれてゆくぢやないか、

まつしろい顏の魔鬼ょ、

どうしたのだ、

なみだぐむやうなさびしいおまへの顏は。

きいてごらん、

とほくで、

ふんすゐがあがる、

黃色いうめきをたてるふんすゐがあがる。

 

[やぶちゃん注:「ふんすゐ」現在の正しい歴史的仮名遣は「ふんすい」でよい。現代では中国の中古音韻の研究が進んだ結果として「水」の音は「スイ」と既に確定されているからである。但し、嘗つては、「水」の音は「スヰ」と考えられていた経緯があり、明治・大正などの文献では、かく「すゐ」「スヰ」とするものが実は甚だ多いのである。]

大手拓次 「をとめのひざ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 をとめのひざ

 

やはらかな、をとめのひざ、

まるいふくらみと、

はれやかな、また内氣のやうな微動(そよぎ)とを持つてゐるひざ、

グロキシニヤの葉のやうにむづかゆく、

きぬのうぶ毛につつまれて、

かすかに、かすかにふるへるひざ、

ものうげに、かなしげに、

夕暮をなめてはわらふ をとめのひざ。

 

[やぶちゃん注:「グロキシニヤ」Gloxinia。ブラジル原産。シソ目イワタバコ(岩煙草)科オオイワギリソウ(大岩桐草)属オオイワギリソウSinningia speciosa 。小学館「日本国語大辞典」によれば、イワタバコ科Gesneriaceaeの多年草で、『ブラジルを原産とする園芸植物で』、『日本には明治初年に渡来し、観賞用に温室で栽培される。茎は短く』、『葉は根生状に対生する。全体に短毛を密布』し、『葉は長柄をもち、長さ』十『センチメートルの広楕円形で縁に鈍い鋸歯(きょし)がある。葉の間から長さ』十五『センチぐらいの花茎をのばし、頂に、先が五裂した径七~八センチメートルの鐘形花を開く。花はビロード状で紫、白、紅、赤色などになり、八重咲きなど変化が多い』とある。当該ウィキによれば、『元々はグロキシニア属』Gloxinia『に分類されていたが、グロキシニア属が再編されたのに伴ってオオイワギリソウ属へ編入された。このため、今でも「グロキシニア」と呼ばれることが多いが、現在のグロキシニア属は Gloxinia perennis など』五『種のみであり、本種のように栽培される機会は少ない』とあった。旧分類のグロキシニア属については、英文ウィキの「Gloxinia (genus)」に詳しい。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 四九番 呼び聲

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   四九番 呼 び 聲

 

 タラギの右源太と云ふ人があつた。下岩泉《しもいはいづみ》の下《しも》のカゲに鱒梁《ますやな》をかけておつたので、每夜水マブリに出かけておつた。

[やぶちゃん注:「下岩泉」岩手県下閉伊郡岩泉町(いわいずみちょう)岩泉新町のこの附近(グーグル・マップ・データ航空写真)。読みはポイントした「町民バス」のバス停名「下岩泉」で確認した。「ひなたGPS」の戦前の地図のここで旧地名が確認出来る。

「カゲ」「人目につかないところ」の意か。後に「カゲの山」とあるから、岩や藪などでで「陰ったところ」の意かも知れない。

「鱒梁」「梁」(やな)は、川の瀬に杭を打ち並べて水を堰き止め、一ヶ所だけを開けて簀(す)を張り、川を上り下りする魚を、そこに受けて取る仕掛けを言う。「鱒」は実は一種の和名ではない。詳しくは「日本山海名産図会 第四巻 鱒」の私の冒頭注を参照されたい。]

 或る夜も水マブリに行くと、ソウジボナイと云ふ澤の方から、大きな行燈《あんどん》に似た不思議な光物《ひかりもの》がブラブラと出て來た。そして自分の步く一間[やぶちゃん注:約一・八二メートル。]ばかり前を、ユラリユラリと恰度《ちやうど》同じやうな合間(アヒマ)を置いて飛んで行く。奇態なものもあるもんだ。これアヘタをするとダマされるか、カカられて殺されてしまう[やぶちゃん注:ママ。]かも知れないと思つて、用心して居たが、別段そんなやうな模樣もない。たゞ足もとを明るくしてくれながら行く。右源太も怖れながら其のアトについて行くと、やがてカゲに着いて梁場《やなば》へ下りる細道に入つた。すると其の火塊(ヒダマ)はツツと飛び方を速めて遠くへ消えて行つた。氣味は惡かつたが、これアお蔭で助かつたと、一晚げえ梁場を守(マブ)つて翌朝家に歸つた。

[やぶちゃん注:「水マブリ」「野田村通信ブログ」(岩手県九戸郡野田村)の「ワンポイント野田弁☆野田村の方言(前編)」に、「『まぶる』 見守る 「まぶってください」(神仏に守ってもらうよう祈る言葉)」とあったので、「梁場を守(マブ)つて」から見ても、簗の附近の「水」辺を「見張り」「見回り」することととれる。

「ソウジボナイ」先の「ひなたGPS」で調べたが、それらしい場所は見当たらなかった。

「一晚げえ」岩手県宮古地方のJin氏 編の「宮古弁 小辞典」に『ばんげ ばんげえ』があり、『晩景(ばんけい)』・『夕方』・『晩方』・『夜』とあったので、「一晩中」の意ととれる。]

 其の次の晚からは先祖傳來の銘刀を腰に打ち込んで梁場に行つた。ある夜水際で火を焚いて守つて居ると、夜更けにカゲの山から、ホイホイと呼ぶ者がある。この夜更けに不思議だナ、ゾウヤこれア俺を呼んで居るベエが、若しかしたら化物ではなかんベエかと思つて、腰の刀に手をやつて握り締めてゐた。向ひ山からは頻りに、ホイホイと呼ぶ、暫時(シバラク)經《た》つてその呼び聲が止んだと思つたら、今度はとても大きな聲で

  銘はあるにはあるが

  手のうち三寸に疵(キヅ[やぶちゃん注:ママ。])があるツ

 と三遍繰り返して叫んだ。これアいよいよ奇態なことだ。銘はあるにはあるが手の内三寸に疵がある……きつと俺の刀を見て云ふのだらうか、一體何物だベエと思つたら、とても怖くて、直ぐに大急《おほいそぎ》で家に歸つて來た。そして思ひついて刀を拔いて檢べてみたら、なるほど鍔際《つばぎは》から三寸ばかりの所に刄《は》こぼれがあつた。これは俺もさつぱり知らないで居つたのに、よくも之を見すかしたもんだ。あれは屹度《きつと》化物だと言つて、その翌夜からは一人では梁場に行かなかつた。

[やぶちゃん注:「ホイホイと呼ぶ者」私は一読、鬼火の一種である妖火「ホイホイ火(び)」を想起したが、ウィキの「じゃんじゃん火」によれば、それは、奈良県天理市柳本町・田井庄町・橿原市の伝承とし、『雨の近い夏の夜、十市城の跡に向かって「ほいほい」と声をかけると飛来して、「じゃんじゃん」と音を立てると消える。ホイホイ火(ホイホイび)とも呼ばれる』とあり、一般的な掛け声の一致に過ぎず、怪火でもないので、違うようだ。寧ろ、「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらにある「ほいほい」或いは「白むじな」と項立てする福島県相馬郡飯館村の山の怪異の一種で、『まぐろ売りからまぐろを買って食べ、寝ていると』、『夜中に「ほーい、ほい、ほい」という声が谷のほうからする。声は普通の人とちがって何か変である。枯れ木に火をつけ谷底に落とすと、がさがさ逃げる音がして静まった。白むじなであろうと言い合った』とある方が遙かに親和性が強いかも知れない。因みに、「白むじな」というのは、想像上の幻獣か、或いは、狸の老成したと信じられた妖怪か(白はアルビノというより、老成した猿の変化(へんげ)を白猿と伝えたのと同じ民俗伝承上の怪獣かも知れない)、又は食肉目ジャコウネコ科パームシベット亜科 Paradoxurinaeハクビシン属ハクビシン Paguma larvata がモデル候補にはなるか。孰れにせよ、人知を超えた神通力を持った人語を操れる「声」だけの妖異というのは、なかなかに凄腕ではある。]

大手拓次 「ヘリオトロピンの香料」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 ヘリオトロピンの香料

 

銀の鐘をうちたたく音(おと)、

銀の匙(さじ)で白い砂糖をかきまはす心地、

銀の小皿に白葡萄をのせた趣き、

ばうばうとむらがりとぶパンヤの實、

つつましく顛巾をかぶる冬の夜の女の顏。

 

[やぶちゃん注:「ヘリオトロピン」フランス語“héliotropine”(音写「エリォトロピン」)は香料名ヘリオトロピン。現行のヘリオトロピン(英語: heliotropine)は、当該ウィキによれば、『有機化合物の一種でピペロナール』( piperonal)『とも呼ばれ』、『フローラル系調合香料の保留剤として広く用いられるほか、フレーバーとしても』『使用され』、『向精神薬の』『原料ともなる。工業的』な『還元分解による製造が主である』とあり、『天然にはバニラ』単子葉植物綱キジカクシ目ラン科バニラ属バニラ Vanilla planifoliaの果実や『セイヨウナツユキソウ』(双子葉植物綱バラ目バラ科バラ亜科シモツケソウ属セイヨウナツユキソウ Filipendula ulmaria )『の花、ニセアカシア』(マメ目マメ科マメ亜科ハリエンジュ属ハリエンジュ Robinia pseudoacacia )『の精油に存在する』とあった。但し、本来は、双子葉植物綱ムラサキ目ムラサキ科キダチルリソウ属キダチルリソウ(ヘリオトロープ) Heliotropium arborescens (フランス語で“héliotrope。音写「エリオトロップ」)の花由来の香水であった。ウィキの「ヘリオトロープ」(英語:HeliotropeCherry-pie とも呼ぶ)そのリンク先等によれば、『ペルー原産』で、フランスの植物学『ジョゼフ・ド・ジュシュー』(Joseph de Jussieu 一七〇四年~一七七九年) 『によって初めてパリに種子がもたらされた。その後』、一七五七『年の報告に基づき』、一七五九『年にリンネが記載』し、『ヨーロッパほか』、『世界各国に広まった。日本には明治時代に伝わり、今も栽培されている』。『日本語で「香水草」「匂ひ紫」、フランス語で「恋の花」などの別名がある』。『バニラのような甘い香りがするが』、『その度合いは品種によって異なる』。『花の咲き始めの時期に香り、開花後は、香りが薄くなってしまう特徴がある』とあり、フランスの香水メーカー「ロジェ・ガレ社」(ROGER & GALLET)製の“Heliotrope Blanc(「白いヘリオトロープ」。フランスでは一八九二年(明治二十五年相当)に発売)は、『日本に輸入されて初めて市販された香水といわれている』とある(下線太字は私が附した)。『大昔は南フランスなどで栽培されており、天然の精油を採油していた』が、『収油率の低さ、香りの揮発性の高さというデメリットから、合成香料で代用して香水が作られるようにな』り、それが先に示した『有機化合物』としての『ヘリオトロピン』で、同薬物が『ヘリオトロープの花の香りがすることが』一八八五年(明治十八年相当)『に判明し、それを天然香料の代用として普及した』とある。なお、夏目漱石の「三四郎」(明治四一(一九〇八)年発表)に『ヘリオトロープの香水が登場する』ことはよく知られる。ともかくも、本詩篇当時に拓次が嗅いだことがある「香水」であるとすれば、既にして、以上の合成されたそれであることにはなる。しかし、拓次が既に日本に移入されて栽培されたヘリオトロープ=キダチルリソウ=木立瑠璃草の実花を嗅いで幻想した「ヘリオトロピン」詩篇であるとするなら、同種の花が詩想の元であろうと推定し得るし、そう私はとりたい気がする。病気がちで、しかも安月給の困窮に喘いでいた彼が、容易に親しく“Heliotrope Blanc”の香りを「聞き」得たとはちょっと思われないからである。

大手拓次 「Glycine の香料」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 Glycine の香料

 

やきつくした凝視のかげに、

ふるぃ織布(おりぎれ)をひろげて、またたたみこむ。

海の潮鳴のおとをきき、

魚どものおよぎまはる形を聽く。

さうさうとしてふる雨の腹に、

喪心の神の悲願をたたへて、

うづまきめぐる水の死相をときしめす。

 

[やぶちゃん注:「Glycine」グリシンは、この場合、フランス語の“glycine” (音写「グゥリィシーヌ」)で、日本固有種である「藤」、マメ目マメ科マメ亜科フジ連フジ属フジ Wisteria floribunda を指す。サイト「COLORIA MAGAZINE(カラリアマガジン)」の「藤の花はどんな香り?香水やアロマなどのおすすめグッズも紹介」によれば、『藤の花の香りは、ひと言で表すならば』、『「甘く爽やかなジャスミンに似た芳香」で』、『咲きたての頃にはほのかな香りですが、満開の時期に藤棚へ近づくと、ジャスミンに似たほのかな甘さのあるお花の香りがふわっと漂ってきます』。『とはいえ』、『ジャスミンほどエキゾチックでまったりとした甘さではなく、控えめで奥ゆかしさのあるパウダリーな甘さがあり、「上品」や「気品」といった言葉がよく似合います』。『この品のある甘い香りが、古くから日本人の心を掴んで離さないのでしょう』。『藤の花の香りは人によって感想が異なる複雑な香りでもあります』。『藤の花の香りの香水やトイレタリー』(toiletry:身体の洗浄や身嗜み、嗜好などを目的とした商品の総称。パーソナルケア(personal care)用品とも呼ばれ、基本的に身嗜みのため、身体を手入れするためのものを言う語。当該ウィキに拠った)『などが販売されていますが、じつは藤の花からは直接香料を抽出することはほとんどありません』。『藤の花からは強い芳香を感じますが、実際に抽出しようとするとかなり難しいらしいのです』。『そのため』、『香水などに使われる藤の花の香りは、いくつかの合成香料と天然香料を掛け合わせて作られています』。但し、二〇一二『年には化粧品会社のコーセーが藤の花の香りを解析することに成功しており、香りの成分をもとに藤の花の香りを再現することに成功しています。これから、より忠実に藤の花の香りを完全に再現した香水が登場する日も近いかもしれませんね』とあったから、この拓次の言う「Glycine の香料」は実際のフジの花から抽出されたそれを指すのではないことになる。彼が幻想した藤の花の香りの幻想の「香料」ということになる。それはそれで面白い。因みに言っておくと、この「Glycine」という綴りは、実はマメ目マメ科ダイズ属 Glycine (原種とされるものはツルマメ Glycine soja )の属名として同一であり、これはギリシャ語(ラテン文字転写)「glycys」(「甘い」の意)」が語源であるが、この場合は実の味のことを指すのであろう。大豆類の花が甘く香るというのは、私は聴いたことがないし、ネットで、一応は調べたが、見当たらない。]

大手拓次 「Jasmin Whiteの香料」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 Jasmin Whiteの香料

 

わたしは今ゆめからさめて、

黃色くみのる果物の樹をよぢのぼる。

あを空の微笑と

蜂のうなりとがわたしをひつそりとかこむ。

きいろいくだものや、

あかむらさきのくだものや、

あをむらさきのくだものや、

めいめいが息をとめたやうにひつそりと、

おもくぽつくりとみのつてゐる。

そのたわわにみのる果物のなかに、

みづのやうにすんだ眼をしてわたしは過去のゆめをさます。

 

[やぶちゃん注:「Jasmin White広義には、シソ目モクセイ科 Jasmineae 連ソケイ(素馨)属 Jasminum のジャスミン(アジアからアフリカの熱帯及び亜熱帯地方が原産で、本邦には自生しない)の内、白色の花を咲かせるものを指すが、狭義に英語で「White Jasmine」と呼ぶ種は、蔓性常緑性灌木のソケイ属ハゴロモジャスミン Jasminum polyanthum を指す。ウィキの「ハゴロモジャスミン」によれば、同種は中国原産で、『オーストラリアとニュージーランドに帰化し、外来種となって』おり、『アメリカやヨーロッパで観賞用植物として栽培されている』とあって、『花は直径約』二センチメートルで『香りがよい、五芒星のような薄いピンクや白い花を咲かす。晩冬から早春にかけて』、『赤やピンク色の花のつぼみを豊富に生成する』とある。ここはしかし、前者の広義のそれか、以下に示すソケイ Jasminum grandiflorum が相応しいようだ。ウィキの「ジャスミン」(ソケイ属の記載)によれば、『ほとんどの種は白色または黄色の花を咲かせ』、『いくつかの種では花は強い芳香を持ち、香水やジャスミン茶(茉莉花茶)の原料として使用され』、『主な香気成分は、ジャスモン酸メチル』methyl jasmonate『である』とあり、『ほとんどの種が観賞用として栽培されている。栽培の歴史は古く、古代エジプトですでに行われていたといわれている。ソケイ』(ソケイ属ソケイ Jasminum grandiflorum )『とマツリカ』(ソケイ属マツリカ(茉莉花) Jasminum sambac)『の』二『種については、香料原料として大規模な栽培が行われている』。属としての『ソケイは』十六『世紀中ごろからフランスのグラースで香料原料として大規模に栽培されるようになった。現在では、主な産地はエジプトやモロッコ、インドなどに移っている。花は夜間に開くので、開ききった明け方に人手により摘み取られ、有機溶媒による抽出が行われる。抽出後、溶媒を除去すると「コンクリート」と呼ばれるワックス状の芳香を持つ固体が得られる。これをエタノールで再度抽出し、エタノールを除去したものが、香料として使用される「ジャスミン・アブソリュート」である。花約』七百『キログラムからジャスミン・アブソリュート』(Jasmin Absolute:室温でジャスミンの香りを溶媒に移し、抽出した香料で、高温の水蒸気蒸留で抽出する精油と区別される)一『キログラムが得られる。ジャスミン・アブソリュートを使った香水としては、ジャン・パトゥ』(Jean Patou)『社の「Joy」が著名である』。但し、『化粧品・医学部外品成分の香料の中で、ジャスミン・アブソリュートはアレルゲン陽性率が高く、注意を要する』とある。『ジャスミンの花にはいくつかの香気成分が含まれているが、その中でもジャスミンの香りを特徴づける独特な香気成分であるcis-ジャスモンは、未だ工業的生産法は確立されておらず、自然の花から抽出し精製するしか方法がないため、cis-ジャスモンを主原料とした香料は非常に高価である。それと比べ、工業的生産法が確立されているジャスモン酸メチル系の香料は安価で入手可能で、香水やアロマオイルなどとして一般に広く出回っている』。十六『世紀中国の官能小説』「金瓶梅」『には、女がジャスミンの蕊(めしべ、おしべ)とバターとおしろいを混ぜて』、『体中に塗り付け』、『男を楽しませる場面が登場する』とあった。なお、属中文名の素馨(花)については、ウィキの「ソケイ」(ソケイ属の記載)によれば、『中国、五代十国時代の劉隠』『の侍女に』、『素馨という名の少女がいて、死んだ彼女を葬った場所に素馨の花が咲き、いつまでも香りがあったという伝説が由来という説』と、『花の色が白く(素)、良い香り(馨)がする花という意を語源とする説』が挙げられてある。]

大手拓次 「白薔薇の香料」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 白薔薇の香料

 

ためらひながら他見(よそみ)する戀のうつり氣、

ひとりの少女(をとめ)から、

またほかの少女へと心をうつすたのしさ。

つつましいひかへめがちの娘から、

はれやかな吸ひよせるやうな脣の娘へと、

とりとめもなくとんでゆく心の憂鬱。

 

あをい葉はしげりあつてわたしをおほひかくし、

いつとなく流れでるわたしの祕密をまもる、

うつくしく化粧した叔母さんのやうに、

わたしの慈悲をそだて、

わたしのほのじろい背中に健康の祈りをさしむける。

けれどわたしの破れゆく心はとまらない、

あめ色のはだかの馬のやうに眼(め)もなくはねまはり、

そのきずついた蹄(ひづめ)のそばに戀のまぼろしを織りつづける。

 

[やぶちゃん注:「白薔薇」白色のバラは、フランス語のウィキの「Rosa × albaの記載を見るに、現在のバラ亜綱バラ目バラ科バラ属ロサ・アルバ Rosa alba の交配種アルバ・セミプルナ Rosa × alba 'Semiplena' (蔓性バラ)が古形の白バラに最も近いとされている基本品種とされているらしく、その元は Rosa gallica × Rosa corymbifera 又は Rosa × damascena × Rosa canina 間の自然交雜に起因するものとされる。「ヨークの白いバラ」(rose blanche d'York)と呼ばれ、ローマ人によって既に栽培されていたとも、また、現在もクルジスタンに自生しているとも記す。「姫野ばら園 八ヶ岳農場」公式サイト内の「アルバ セミプレナ – Alba Semi-plena」のページを見ると、『古代のロサ・アルバに最も近いと思われる種で、白い花弁におしべが目立つ、非常に美しい花で』、『青味を帯びた典型的なアルバローズの葉も美しく、レモンを含むような、独特の爽やかな芳香があ』るとし、『作出年』の欄には一六九二年(本邦では元禄二年相当)よりも以前とする。別に同サイトの「神秘的な伝説が残る 白ばらの祖―アルバローズ」には、アルバローズは『赤ばらの祖であるガリカローズ』Gallica Rose『と双璧をなす白ばらの祖』とし、『聖母マリアがヴェールをかけたばらは白いばらになったという伝説も残る神秘のばら』であり、また十五『世紀イギリスで起こった』「薔薇戦争」(Wars of the Roses:イングランド中世封建諸侯による王朝の執権争奪の内乱)の『ヨーク家の紋章であったことも有名で』、『現在においてもアルバローズはその清らかな花容や爽やかな香り、青みを帯びた葉など、その独特の個性で多くのばら愛好家たちを魅了してい』るとあり、さらに『アルバローズのおいたちはガリカローズほどはっきりとはしておらず、また』、『生粋の原種ではなく』、『交雑で生じたものと推定されて』おり、『交配親はロサ・ガリカとロサ・アルウェンシス、またはロサ・ダマスケナとロサ・カニナの交雑で生じたなど諸説あ』るとする。『はっきりとした記録はルネッサンス時代の名画「ヴィーナスの誕生」などに見られ、画面に描かれた白いばらはアルバセミプレナではないかと推測されてい』るとある。『アルバローズ全体の特徴』は『清らかな花姿』で『花色は白または淡いピンクであることが多く、一部濃いピンクの品種も存在する』。『多くは青みがかった灰緑色の葉を有し、アルバローズの大きな特徴となって』おり、『株元からガリカローズより太めの枝を発生させ、早くから自立する品種が多い』。『また、アルバローズの多くは独特のさわやかなレモン香を含む芳香を有し、現在も白ばらの香りとして、ハイブリッド・ティ種などモダンローズの白ばらの中にも、その影響を見ることが出来』るとある。まず、これをこの「白薔薇」のモデルの代表品種候補として問題はないと思う。なお、白薔薇の花言葉は、「クリエイティブ・フラワー・コーポレーション株式会社」公式サイト「FLOWER」のこちらが、詳細を窮める。また、サイト「KOUSUI」の「ローズ(バラ)の人気おすすめ香水12選!《女性の品格を上げる香り》」もある。]

2023/04/23

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 實盛屋敷

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。今回は、ここから

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。太字は底本では、傍点「﹅」である。

 なお、冒頭に出る「『鄕土硏究』二卷三號」に載る「實盛塚」という論考は柳田國男のそれである。この柳田の論考自体は、「虫送り」の民俗との関連もさることながら、齋藤別當實盛は私の好きな武将ではあるのだが、どうも、以下の熊楠の小論とは連関性が頗る弱いものであることから、柳田のそれは、また、別の機会に電子化したい(それを電子化注するとなると、またまた、それだけで一日仕事になってしまうので厭だからというのが本音である)。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で「定本柳田国男集」第九巻(国立国会図書館内/図書館・個人送信限定)の「毛坊主考」の中にある柳田の当該論考をリンクさせてはおく。悪しからず。]

 

     實 盛 屋 敷 (大正三年十一月『鄕土硏究』第二卷第九號)

 

 『鄕土硏究』第二卷第三號の「實盛塚」の篇に、實盛山・實盛岩・實盛堂など見えるが、實盛屋敷は見えぬやうだ。鈴木正三《しやうさん》の「因果物語」卷中に、『播州にて或僧の夢に、我は實盛也、我《わが》屋敷に錢を埋み置きたり、朽ち去らんこと、悲し、と告げたり。此事、語り廣めて、越前へ聞こえ、國主の耳に立ち、怪しき事なれども、自然、有りもやすらん、屋敷を掘らせて見よ、と仰せけり。花輪何某と云ふ人、奉行にて、掘らせけるに、蓋もなき甕一つ、掘出《ほりいだ》しけり。錢は、腐りて、土の如し。鑄物師に下され、鐘の中に入れよ、と仰付《おほせつ》けられたり。實盛屋敷は、こんこく七箇所の内に、乙阪(おとさか)村と云ふ處なり。樋口村の雙(なら)び平山の上也。元和の末の事也云々』と出づ。「こんこく」は近國か。又、何か金鼓(こんく)に緣ある意か。彼《かの》邊の事を知る人の示敎を俟つ。

[やぶちゃん注:『鈴木正三の「因果物語」卷中に、「播州にて或僧の夢に、我は實盛也、……」全くの偶然だが、この「因果物語」は、昨年十月にブログ・カテゴリ「続・怪奇談集」で全電子化を終っており、熊楠の引くのは、『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「十八 實盛、或僧に錢甕を告ぐる事」』である。注もしてある。よし! この既電子化で、恐らく、南方熊楠の論考中、最速で公開することが出来た。目出度し、目出度し。]

下島勳著「芥川龍之介の回想」より「たつ秋」

 

[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載によれば、昭和九(一九三四)年九月発行の『かびれ』(「加毘禮」加毘禮社発行の俳誌。国立国会図書館デジタルコレクションの戦後の表紙を見ると、誌名の下には『新人育成の俳句指導雜誌』という如何にも学習塾の宣伝みたような副題があったのには呆れた)初出で、後の下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。

 著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た(但し、単行本刊行時期のため、正字と新字が混淆してはいるので、そこにはママ注記を入れた)。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。一部に注を挿入した。また、本篇にはルビが一切ないが、なくても概ね読めるが、一応、若い読者のために、ストイックに《 》で推定で歴史的仮名遣で読みを振った。]

 

 

た  つ  秋

 

 芥川龍之介君は元祿俳人殊に芭蕉の崇敬者であると同時に、芭蕉の硏究家としても有名で、その獨自の觀察眼は前人未踏の境地を拓《ひら》いてゐゐ。然も芭蕉の作句態度については、――かくありてこそ……推服措かず、自分もまた芭蕉の態度にならつて作句したのである。だから、彼ほどの天才をもつてして猶その一句を成すまでの苦心は寧ろ慘憺というても過言ではなかつた。

 彼は常に言うてゐた。――僕の俳句は、これでも全く眞劍だ。人は何といふかも知れぬが、僕の一句はこれでも、僕の小說一篇と拮抗すべきもので、兩者もとより輕重はない。……と、その心構への尋常でなかつたことは槪めかくの如くである。

 世には俳句を卽興詩と稱し、その態度で句作する人もあり、また俳句はそう堅くなるべき筈のものでない、擧ろ自然や人生を氣易く歌ふべきものであるなどと、すましてゐる向きもあるが、勿論ものは解釋である。それはそれで結構かも知れぬが、さりとて餘技氣分や、安易な妥協氣分から生れる作が、どんなものかは玆《ここ》に述べるまでもあるまい。

 彼の一生は短かつた。隨て俳句も尠なかつた。だが、自撰の句集が僅かに七十七句をもるに過ぎぬといつたら、知らぬ人は信じないかも知れぬ。――七十七句……少し達者な人なら。恐らく半年か一年の處作に過ぎないであらう、併しその七十七句は、彼の小說や文章と同じく、永久に光輝を放つ寶玉として尊重せられ、俳人芥川龍之介の不滅なるわけもまたこゝに存するのである。

 洋畫家の小穴隆一君は、もと碧梧桐門下で、同門の瀧井孝作君の紹介で芥川君と親しくなり、ついにあの淺からぬ交友關係にまで發展したのである。

 小穴君はいふまでもなく新傾向の作家であつたが、芥川君と交を結ぶように[やぶちゃん注:ママ。]なつてからは、同君の感化によつて正調の句を作るようになつた。然もその時分の彼の作は一種の新味と奇妙な臭ひとで、我々を感心させたのである。ある時芥川君に、――小穴君の句は中々うまいところがゐる。そしてあの無鐵砲なところに我々のまねの出來ない妙味がある……といつたところが、彼の曰く――小穴君は俳句の傳統も歷史も何も知らん。卽ち何も識らんから無鐵砲で大膽だ。そして白紙だからあの純なものが出來る。何も知らんといふことは最も强みのあることで、我々の及びがたいところだ……と、いつたのである。

 これは至言でゐると思つた。勿論天分によることではあるが、――なまじ種々な智識を得れば得るほど反《かへつ》て智識の束縛を受け、身動きの出來なくなるのが普通である。果せるかな、數年後の小穴君の句のうまさは以前ほどの光彩かなくなつた。これは勉强して段々もの識りになつたためではないかと思はれる。(勉强してうま味がなくなつたといふことを誤解されては困る)また小穴君の句は活字になると一段のうま味が加はるので、あるときまたその話をすると、――それもよくわかつてゐる……とはいつたが、說明もせずまた私も强《しひ》て聞く必要もなかつた。

 小澤碧童君の碧梧桐門の高足たることは誰知らぬものもない筈である。同君は小穴君の紹介で芥川君の處へ出入してゐるうちに、何時とはなく芥川君の主張に傾倒共鳴の結果、終《つひ》に正調の作家に轉向するといふ、眞《まこと》に駭くべき事件を惹起したのである。當時新傾向俳壇の振《ふる》はなくなつたのは、他に幾多の原因はあるであらうが、城代格の碧童の轉向は一層その不振を早めたかの感がある。それは兎に角、新俳壇の曉將《げうしやう》碧童を轉向させた芥川君の力量は、なんといつてもすばらしいものである。また同時に碧童君の轉向ぶりのあざやかさも推賞に堪へぬものがあると思つてゐる。

 この事件は恐らく一殼にはまだ如れてゐないと思ふから、後《の》ちの疑問を招かぬために、この機會に述べておきたい。

 室生犀星君は、もと俳人として何《いづ》れかといへば、新傾向の臭ひの高い人であつたが、芥川君との交友が深くなるにつれ、互に熱心に硏究の結果、初めて俳句に對する識見が生じてきたといふ意味を、彼の句集魚眠洞發句集の自序で述べてゐる。だから、室生君の俳句に對する自覺も實は芥川君に負ふところ尠なくないと言つて差支ないであらう。

[やぶちゃん注:「魚眠洞發句集の自序」国立国会図書館デジタルコレクションの『室生犀星全集』第八巻に所収する同句集の「序文」を見たところ、「新傾向の臭ひの高い人」どころか、『當時碧梧桐氏の新傾向俳句が唱導され、自分も勢ひ此の邪道の俳句に投ぜられた』と犀星自身の述懐があって、下島の、知らんふりの、あたかも自身が犀星のやや古い句を鑑賞吟味したところの印象である《かのように》書いているのには鼻白んだ。しかも、さらに後を読んでゆくと、ここ(上段九行目)には、『芥川龍之介氏を臀、空谷、』(「空谷」は下島の俳号)『下島勳氏と交はり、發句道に打込むことの眞實を感じた』(終りのクレジットは昭和四(一九二九)年二月)とあって、これまた噴飯物だった。私はこうした『どうせ読者は知らぬもの』といった立ち位置でものを書く人間を甚だ嫌悪する人種である。]

 私は靑年時代から俳句が好きで、常に心を放れぬ趣味の一つであつた。勿論時代關係からいつても、子現から影響されたことは言ふまでもない。併し幸か不幸か俳句の師といふものがなかつたので――尤も古人今人師とすべきは皆師ではあるが。他の俳人のやうに傾向とか主張とかいふものゝ渦中に卷きこまれずにすんだ。卽ち雜誌を中心とした俳句運動といふものゝ圏外にあつて、靜かに明治以來俳壇の推移變遷を傍聽することが出來たのである。そして自由に批評し考察しながら樂しんでゐたといふやうな、‐いはば俳優ではなくして芝居の見物人だつたのである。

 だから、芥川君や室生君と俳句をやるように[やぶちゃん注:ママ。]なつてから、始めて眞劍に古俳句の再吟味を試み、また比較的純な心から俳句を始めたといつたやうなわけで、私の中の俳人はやはり、芥川室生の兩君に負ふところが多いのである。

(昭和九・九・かびれ)

[やぶちゃん注:私は富山県高岡市立伏木中学校二年の時、国語の小島心水先生から授業で尾崎放哉の句を教えられて感銘、授業後、直ちに先生に句集の拝借を願って以来、中三の時に放哉の所属していた『層雲』の誌友となり、二十代半ばまで続け、自由律俳句に親しんだ。大学一年の夏には強力な出不精の私であるが、放哉の墓参りもして墓も洗ったし、私の大学の卒論も「尾崎放哉論」であった。

 なお、作句の方は、その後、概ね無季定型型の俳句に転じて、数年に数句ものす程度である(私の「句集 鬼火」を御笑覧あれ)。

 尾崎放哉はHP内に「全句集 やぶちゃん版新版」の数種と、終焉の地となった小豆島の西光寺の南郷庵に入った際の「入庵雜記」(全)を用意してある(前者は、例えば、「尾崎放哉全句集 やぶちゃん版新版正字體PDF縦書版」)。

 また、「心朽窩旧館 心朽窩主人藪野唯至 やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇 縦書完備」では、芭蕉の紀行等の電子化注の数篇の他、惟然坊・丈草・木導、近現代では村上鬼城・泉鏡花・伊良子淸白・萩原朔太郎(全句集)・畑耕一・富田木歩(私が以依頼原稿で書き、『俳句界』第百七十八号二〇一一年五月号「魅惑の俳人㉜ 冨田木歩」に掲載された富田木歩論「イコンとしての杖」の初稿も公開している)・久女(全句集)・橋本多佳子(全句集)・三鬼・尾形龜之助・篠原鳳作(全句集)・原民喜・鈴木しづ子らの句集を公開してある。

 而して、その「俳句篇」での私の最大の自身作は、二〇〇六年から六年かけて構築した(その後も新発見句を補充し続けている)★「定本 やぶちゃん版芥川龍之介全句集」全五巻★(「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」以下を参照)である。これは、過去・現在、如何なる出版された芥川龍之介句集よりも句数に於いて、最も多い芥川我鬼/澄江堂の発句・連句を渉猟したものという自負があるものである。

 なお、以上の下島の文章に芥川龍之介晩年の盟友であった画家小穴隆一(芥川龍之介の遺書の内には、遺族によって焼却された失われた部分があるのだが、一説に、そこには、妻文に対して、小穴と結婚せよ、という遺言があったとも言われている)のことが出てくるが、私はブログ・カテゴリ「芥川龍之介盟友 小穴隆一」で彼の芥川龍之介に関連する記事の多い二作品等を電子化注している。しかし、まず、現在、以上で下島の言うところの、小穴隆一の俳句を見ることは、図書館であっても至難の業であろう。――いや、ご安心あれ! 私のブログの「鄰の笛(芥川龍之介・小穴隆一二人句集推定復元版)」で小穴の句群を電子化注してあるのである。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 四八番 トンゾウ

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。なお、本篇の附記は特異的に長く、類型話が紹介されているので、ポイント落ちはやめにして(底本では一行目のみ本文相当一字下げで、二行目以降は全体が二字下げである)、本文と同じポイントで頭の一字下げのみを再現し、後は行頭まで引き上げてある。]

 

      四八番 トンゾウ

 

 鼠入(ソニウ)川の館石の分家に、佐平殿(ドン)とて世の中のこともよく分つた、[やぶちゃん注:底本は句点だが、「ちくま文庫」版で読点に代えた。]衆人にすぐれて力も强いマタギがあつた。ある日の夕方宮ノ澤と云ふ所ヘオキジシに出かけたが、其の夜に限つてさつぱり鹿が寄らない。そのうちに、もう夜も明けて朝日も登らうとする頃、家に歸るベエと思つて、山を下つて來たら、傍らのムヅスから突然に眞黑いコテエのやうな大きな物が飛び出して來た。

[やぶちゃん注:「鼠入(ソニウ)川」現在の岩手県下閉伊郡岩泉町(いわいずみちょう)岩泉鼠入川(いわいずみそいりがわ)附近(グーグル・マップ・データ航空写真)。小本川(おもとがわ)に南から合流する川に「鼠入川」が確認出来る。

「館石」氏姓名か。「たていし」と仮に読んでおく。

「宮ノ澤」「ひなたGPS」の戦前の地図で鼠入川周辺を調べたが、見当たらなかった。

「オキジシ」不詳。探すのではなく、鹿の通る道筋で待ち伏せするか、「括り罠」を掛けて置く(後で「オキジシかけ」「オキを立てていたら」と出る)狩法か。

「ムヅス」不詳。叢(くさむら)或いは藪や低灌木のそれか。

「コテエ」最終段落に「コテエ(牡牛)」と出る。私自身、幾つかの古文資料や諸地方の民俗資料の中で、「牡牛」「特牛」を「こつとい」(こっとい)「こてい」と読むのを見た。山口県下関市豊北町大字神田上にある「道の駅 北浦街道 豊北 ほうほく」公式サイト内の中野氏の記事『「こっとい」の由来 (※諸説あり)』に、『① 「特牛」には 港がありますが、この「港」を型取る入江のことを「琴江=コトエ」とも呼ぶこと』、『② 「特牛」の周辺が古い時代から和牛の牧畜が盛んな地域で、「牡牛」を「コテイ」と呼んでいたこと』、『③ 重い荷物を背負って運ぶ強靭な牡牛を「こといの牛」「こって牛」などと呼んでいたこと』という『諸説ありますが、 これらの語呂が変化して「特牛」を「こっとい」と読むようになったといわれています』とあった。]

 佐平殿はそれを見て魂消(タマゲ)てしまつた。鐵砲も何も向けられない程近づいたし、これア俺ア之れに取つて食はれて仕舞ふベエかと思つたら、急に怖(オツカナ)くなつて、腰の切刄(キリハ)に手をかけて後尻退(アトシザ)りしてゐた。ところが其のバケモンが人間のやうな大きな聲を出して、俺アトンゾウだ。貴樣俺を打つて見ろ、打つたもんなら握り潰して仕舞アベアと呶鳴つた。佐平殿はオツカナマギレに夢中で山から逃げて戾つた。さうして考へてみると、今まで獸が物云ふたのを聞いたことも見たこともない。どうも奇態なことだ。[やぶちゃん注:底本は行末で句読点はない。句点で応じた。「ちくま文庫」版は読点。]屹度(キツト)あれア化物(バケモノ)に相違ないと思つて居た。

 暫日(シバラク)經つてからまた橫長嶺と云ふ所ヘオキジシかけに出かけた。長根の一本栗の樹のところで、オキを立てゝ居たら、大きな大きな地搖《ぢゆる》ぎをさせて、何處からかその栗の樹目がけて飛びついて來た物があつた。そして其の樹をブツコロバスほど搖《ゆす》りつけると、枝がばりばりとヘシ折れて下に落ちた。佐平がよく見るとそれは此の前の化物だから靑くなつてしまつた。トンゾウはまた大きな聲で、貴樣アよくもよくも先達中《せんだつてうち》から此の山を荒しやがるなア、これから來て見ろ、來たらば今度こそツカミ殺してくれツから、さう思へツと言つた。佐平は怖くて堪《たま》らない。これから以來來ねアすケ、勘忍してくだンせえと言つて、そのまま又家へ逃げ歸つたが、それから此の人は病みついて十日ばかり經つと死んだ。

 トンゾウとは何物であるか、ただコテエ(牡牛)のやうなもので、そして飛ぶ化物だと云ひ傳はつて居るばかりである。

 (陸中閉伊郡岩泉地方の話。野崎君子さんの御報告分の二。)

[やぶちゃん注:「橫長嶺」やはり、「ひなたGPS」の戦前の地図で鼠入川周辺を調べたが、見当たらなかった。]

大手拓次 「スヰートピーの香料」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 スヰートピーの香料

 

くづれる花束、

くづれる草の葉、

くらげ色のうす闇のなかを

ちやうちんをさげてゆく小坊主、

忘れものをしたやうな心が

ゆつくりゆつくり涌いてくる。

おまへの肌はあまいさびしさがいつぱいにふさがつてゐる。

 

[やぶちゃん注:「スヰートピーの香料」イタリアのシチリア島原産の一年草で、観賞用として栽培されるマメ目マメ科マメ亜科レンリソウ属スイートピー Lathyrus odoratusツイッターの「調香師ユタカ」氏のツイートによれば、『軽やかなフルーティーフローラルに少しグリーンを足した香りがあります。スイートピーの香り成分のひとつであるメチルアンスラニレートはフルーティーな甘い香りで、葡萄の香り成分に含まれるほか、オレンジフラワーの香りの再現に用いられる香料です』とあった。また、「スイートピーの香り」PDF)には、『スイートピーは豊かな香りをもつ花のひとつで、バラにも負けず香りを楽しむことが出来る花』とあり、その香りは、一つは、『フルーティーな香り』で、『葡萄に似た甘い香りで拡散性に優れ』、謂わば、『葡萄のガムやジュースの香料であるグレープフレーバーのような人工的な香り』とし、今一つは、『グリーンな香り』で、『レモンに似た柑橘系の香り』で、『シャープで拡散性もよい』とあった。なお、当該ウィキによれば、スイートピーは『有毒植物であり、成分は同属の種に広く含まれるアミノプロピオニトリル(β-aminopropionitrile)で、豆と莢に多く含まれる。多食すれば』、『ヒトの場合、神経性ラチリスム(neurolathyrism)と呼ばれる痙性』(脳・脊髄の障害のために手足が突っ張るようになり、手足を曲げられない、関節が屈曲・伸展してしまい、思うように動かせない等の運動障害の原因になる症状を指す語)『麻痺を引き起こし、歩行などに影響が出ることがある。他の動物では骨性ラチリズム』(Osteolathyrism)『と呼ばれる骨格異常が生じることがある』とあるので、ご用心。]

大手拓次 「リラの香料」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]

 

 リ ラ の 香 料

 

小徑(こみち)をはしりゆく金色のいたちの眼、

ほそい松の葉のいきいきした眼、

物のながれをとどめ、

やさしく明るみへみちびいてゆく。

タンバールの打ちだす

古風な、そしてしづかな騷擾のやうに、

わたしの胸をなみだたせる。

 

[やぶちゃん注:「リラ」モクセイ目モクセイ科ハシドイ属ムラサキハシドイ(紫丁香花)Syringa vulgaris 。標準和名よりも英語のライラック(Lilac)で呼ばれることが多い。リラ(Lilas)はフランス語での呼称。当該ウィキ(「ライラック」である)によれば、『ヨーロッパ原産。春』『に紫色・白色などの花を咲かせ、香りがよく、香水の原料ともされる。香気成分の中からライラックアルコール』Lilac alcohol『という新化合物が発見された』。『耐寒性が強く』、『花期が長いため、冷涼な地域の代表的な庭園木である』。『花冠の先は普通』四『つに裂けているが、まれに』五『つに裂けているものがあり、これは「ラッキーライラック」と呼ばれ、恋のまじないに使われる』。『日本には近縁種ハシドイ Syringa reticulata が野生する。開花はライラックより遅く』六~七『月に花が咲く。ハシドイは、俗称としてドスナラ(癩楢、材としてはナラより役に立ちにくい意味)とも呼ばれることがある』。『ハシドイの名は、木曽方言に由来する』ともされるらしい。『属の学名 Syringa は笛の意で、この木の材で笛を作ったことによるという』とあった。

「いたち」食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科イタチ属ニホンイタチ(イタチ)Mustela itatsi 以下の四種七亜種ほどが自生棲息する。詳しい博物誌は、私の「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)」を見られたい。なお、寺島長安はイタチを鼠類に入れているのは、見た目から判らぬではない。そちらでも書いたが、近代まで、鼬(いたち)は狐狸同様、人を騙す妖怪獣として捉えられてきた経緯がある。特に、チョウセンイタチ亜種ニホンイイズナ Mustela itatsi namiyei (青森県・岩手県・山形県(?):日本固有亜種。キタイイズナより小型で、日本最小の食肉類とされる)は古くは最強の呪的生物であった。ウィキの「イイズナ」によれば、『東北地方や信州では「飯綱(いづな、イイズナ)使い」「狐持ち」として管狐(くだぎつね)を駆使する術を使う家系があると信じられていた。長野県飯綱(いいづな)山の神からその術を会得する故の名とされる』。『民俗学者武藤鉄城は「秋田県仙北地方ではイヅナと称し』、『それを使う巫女(エチコ)〔イタコ〕も」いるとする』。『また』、『北秋田郡地方では、モウスケ(猛助)とよばれ、妖怪としての狐よりも恐れられていた』とある。拓次の意識の底には、そうした民俗社会的ニュアンスが感じられるように思う。

「タンバール」フランス語“timbales”の音写。打楽器のティンパニ(timpani)のこと。]

大手拓次 「靑い異形の果物」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。

 底本の原氏の詳細な年譜によれば、大正七年の春頃、同僚で画家でもあった『逸見享と詩画集『黄色い帽子の蛇』、詩版画集『あをどり』を発行(いずれも自家版)』、ここまで詩活動は至って旺盛であった。一方で、同年『十二月、「ライオン当用日記」(ライオン歯磨刊)の編集』・『執筆に苦心する』という現実もあった。大正八年には、『作品の数も激減し、発表もし』ていない。これは『同僚の女性を思慕し、会社員としての仕事と、詩作との矛盾に苦悩』したこと、『祖祖母の死や祖父のおとろえも気を重く』させたとあり、注記で、『拓次は早く両親を失ったこともあって、想像以上に家族思いであった。祖父母を思っては許しを乞い、わけても祖母は彼の死の一つの母体でさえあった』と述べておられる。大正九年には、『四月、福島、仙台、秋田を単身旅行』し、この『春ごろ「未完の詩集・蛇の花嫁」と題する皮表紙ノートの詩作を残す』とあるものの、これは『死後刊行された『蛇の花嫁』とは内容的には無関係』であると注記しておられ、『七月から九月にかけて、耳鼻科や歯の治療で医者通いをする』とあり、一方、『この年、社内の文学愛好者らと回覧雑誌「アメチスト」をつくり、詩(作品名未詳)を寄せる』とあった。大正十年の項には、『二月から四月なかばまで眼疾のため会社を欠勤。三月、白秋より来信』があり、『新詩会への参加を勧誘される』とある。『四月中旬、一時出社』したが、同『下旬、ふたたび眼疾(結核性)悪化、麹町』『富士見町の朝倉病院に入院』、『七月、退院』するも、『十月、急性中耳炎のため本郷区』『真砂町の小此木病院に入院』している。一方、『同月、『現代詩集』(アルス刊、第二輯)に詩「彫金の盗人」ほか五篇が収録され』ている。十二月に小此木病院を退院しているものの、翌大正十一年も、『一月中旬まで毎日病院通いをしながら』の出勤が続き。『現順には』また、『小此木病院に入院』し、『三月末、退院』したが、時にこの『病院の看護婦に片思いの思慕をよせ』たりもしている。『四月以降も眼疾、耳疾になやみ、病院通い』が続いた。他方、『五月、「白い月」と題する和綴じノート(詩集体裁)をつくり、秋ごろまで』詩作し、九月には白秋・山田耕作主宰の『詩と音楽』創刊号に「仏蘭西薔薇の香料」(死後の『藍色の蟇』所収)『ほか三篇を発表。以下、同誌に毎号、詩を発表』するようになった。また、この頃、『ライオン児童歯科医院(ライオン歯磨本館焼失のため広告部は一時ここの二階で業務をとった)勤務の女性と』、別に『新人女性社員(山本安英)』(後に舞台「夕鶴」の主演女優として知られる彼女その人である)『に、同時に熱烈な片思いの思慕を寄せ』、それがまた、『数多くの詩に反映』したとある。大正一二(一九二三)年も、雑誌『詩と音楽』に精力的に詩を発表した。九月一日の関東大震災では、『勤務先は全焼』、『丸ビル内に移った仕事場に通』っていたが、『依然として医者通いは』続いた。大正十三年『二月、画家の戸田達雄と「詩集・薄雪草」と題する詩画集(スケッチブック)をつく』り、『「抒情小曲集、まぼろしの花」を作成(いずれも肉筆)』しており、この頃から『文語詩を書きはじめる』とある。この文語詩の主篇群と拓次のデッサンが、死後に刊行された逸見享編「大手拓次詩畫集 蛇の花嫁」(私のサイト縦書PDF版。ブログ分割版もある)に載る。七月には同じ逸見と『二人雑誌『詩情』(詩版画集)を発行(詩情社)、山田耕作から好評激励の書簡をもら』っている。また、『短歌雑誌『日光』に詩「悲しみの枝に咲く夢」ほか四篇を発表』している(この「悲しみの枝に咲く夢」詩集「藍色の蟇」に所収する)。そして、この『八月月、白秋より詩集出版に話があり、すぐ自選の作品の浄書にかか』り、『九月、「長い耳の亡霊」を総題として浄書原稿を白秋に送』ったが、原氏は注記で、『白秋に送った原稿は握りつぶされたかたちで、詩集出版は実現し』なかった、とある。大正十四年には詩作がコンスタントに続く。私生活では、『五月、ライオン歯磨、本所の本店にもど』り、そこへ勤務した。同年十一月には、この年の夏以来、『文通していた従妹と会』っている。彼女とは『結婚を意識して恋愛関係にあったが、結婚には至らなかった』とある。この年、一方で、『女性への思慕の情をこめた発表のあてもない文語詩小曲が、しだいに多くなる』とあり、相変わらず、『医者通いつづく』とある。大正一五・昭和元(一九二六)年の条には、『四月文藝雑誌『戦車』に詩「顔」』(私は未読)『を発表、大木惇夫との交際がはじまる。五月、大木の計らいではじめて白秋に会う(二十九日、谷中天王寺の白秋宅で徹宵、話しこむ)。六月、白秋よりの来信で、再度詩集出版を激励され』、『同月、百八十余篇を浄書して白秋に送る。総題は『藍色の蟇(ひき)』』であった。原氏のこの年の最後の附記に、『(白秋に送った「自序にかへて」と「おぼえがき」付きの詩稿は、またもや握りつぶされたかたちで、再度詩集出版は実現されなかった。ただし、死後自費刊行される同名詩集の礎稿となる。)』とはある。私は昔から大手拓次は北原白秋の嫉妬によって世に出ることを邪魔された――白秋に「呪われた詩人」であると思っているのでる。]

 

 靑い異形の果物

 

むらがる果物のこゑ、

果物は手に手に、

まぼろしの矛(ほこ)を取り、

あをじろい月夜の雪なだれのやうに、

ものすごくもえながら走る。

 

2023/04/22

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「喫煙雜筆」

 

[やぶちゃん注: 底本のここ(本文冒頭の「一 西洋煙草」の始まりをリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。本パートは、皆、知られた作家ばかりであるから、特に作家注は附さない。

 なお、本章では「煙」の字がいっぱい出てくるが、底本では、「煙」の字は「グリフウィキ」のこの字体である。しかし表記出来ないので、「煙」を用いた。

 にしても、犀星が今の嫌煙社会に生きていたら、どう思うだろう。ちょっと聴いてみたい気はする。]

 

    喫煙雜筆

 

 

 喫煙雜筆

 

      一 西洋煙草

 

 パイプで喫む西洋煙草は一日の間に五六服あれば、自分には事足りてゐる。パイプの壺には柔らかに程よく煙草を詰め、最初の二三度喫ふ時のうまさは意想外である。主としてその煙の量が膨大であることにも甘さは原因してゐるが、それよりも西洋煙草の味ひが强いためであらう。自分は味の複雜なためにミクスチユア物を愛喫してゐる。ミクスチユアの味は優しいものや强烈なものや濃厚なものの交合的味覺であり、同時に百花一時に開くのうまみを包含してゐる。人知れず橫臥しながらこれらのミクスチユアのパイプを銜へ乍ら、恍惚としてゐる狀態は懶怠《らんたい》であるよりも非常に幻覺的な狀態であると云つてよい。

[やぶちゃん注:「ミクスチユア物」パイプ煙草で、煙草の葉の黄色種に、ペリキュー葉(アメリカのルイジアナ州産で、生葉を強制発酵させた黒色の葉)やラタキア葉(シリア産で、薫煙乾燥し,薫臭を伴う芳香を持つ)を配合した荒刻みの製品をスモーキング・ミクスチャー(Smoking Mixture)と言うが、幾つかの種類をミックスしたそうした系統の市販品、或いは、複数の単体葉を買って自分で調合するのであろう。「二」の冒頭に後者のそれらしい謂い方がちらりと出てくる。

「懶怠」「懶惰」に同じ。なまけ怠(おこた)ること。]

 パイプは俗にマドロス・パイプと稱へられてゐるが、自體夥しい西洋臭昧を持つてゐる故に、俗流ハイカラのそしりを免れないのは爲方《しかた》のないことである。町の散步道路などでは甚しく氣障《きざ》に見えるが、之れも亦仕方のないことである。書齋の中で一人でふかしてゐる分には天下晴れて喫《の》み樂しむことができるやうである。パイプの形體はそれ自身古風な海洋航海者の愛藏品のやうに、或東洋的なとまで言はれる程の面白さと稍骨董的な品格とを持つてゐる爲に、自分には最早ハイカラの意識的謙遜をもたないやうになつてゐる。パイプのための著書や寫眞帳やパイプ簞笥や磨き膏《あぶら》や掃除道具のあることは云ふまでもない。

 パイプの愛用者の恐しい病氣は舌癌であらう。舌端がいつもパイプの吸口に戲れるために永年《ながねん》の間に稀に起る病氣らしい。下の方へ彎曲されたパイプの吸口は就中《なかんづく》此種の疾患に襲はれ易いと云はれてゐる。此間來朝したアインスタインは終日パイプを磨いてゐたさうであるが、支那人が終日玉《ぎよく》をまさぐるやうに、西歐人はパイプを弄《らう》し慰むらしいやうである。日本人が煙管《きせる》を愛用するやうに。

 

      二 煙管(キセル)に就て

 

 自分は煙草は好きであるが喫煙道樂ではない。それ故高價なものは餘り喫まぬことにしてゐる。たまにミクスチユアを造る以外、大槪クレエブンミクスチユアで我慢してゐる。マイミクスチユアは時時喫むがそれを絕やさずに買入れて置く程度で、高價なマイミクスチユアでなければならぬことはない。

[やぶちゃん注:「クレエブンミクスチユア」クレイヴン・ミックスチェア(Craven Mixture)嘗つてロンドンにあったタバコ会社Carreras Tobacco Companyのブランドで、その主力パイプ・タバコだったもの。グーグル画像検索「Craven Mixture」で当時の市販品のケースを見ることが出来る。

「マイミクスチユア」前章で注したスモーキング・ミクスチャーのことか。私は今でも一日に三、四本紙巻き煙草を吸う。嘗つてはパイプ煙草も喫したが、教員をやめた時に、断捨離して持っていたパイプ三本も捨ててしまったので、よく判らない。]

 煙草は自分には樣樣なことを「考へる」ためにも必要であるが、惡辣なニコチン夫人の手にしがみ付かれてゐることが快樂である外、胃の底まで脂《やに》で染めることは恐しいに違ひない。然し此ニコチン夫人の手管《てくだ》の中に恍惚としてゐる味ひは到底忘られぬ。紙卷の風味は何か甚だ手賴りないが其手賴りないところが又好ましい。スターが稀にうまい味ひをもつてゐるが、パイプで喫むほどの甘美さは到底無いやうである。

[やぶちゃん注:「ニコチン夫人」という文字列を見るとと、私は反射的にチェーホフの一人芝居の戯曲「煙草の害について」を想起してしまう。ブログで「煙草の害について アントン・チェーホフ作・米川正夫譯」を電子化注してあるので、未読の方は、どうぞ。嘗つて、現代文の教科書にこれが載っていた(授業はしたことはないが、一度だけ、四十年前、女生徒から懇願されて、表現読みで朗読はしたことはあった。喝采を浴びた。

「スター」イギリスのタバコ・メーカーW.D. & H.O. Wills社製の紙巻き煙草“STAR”であろう。グーグル画像検索「W.D. & H.O. Wills STAR」をリンクさせておく。]

 日本の煙管(きせる)趣味は、文明開化と共に遂に今日では遺憾乍ら沒落した。西鶴や近松の酒落者のまさぐる銀細工の煙管の意氣は、今日の自分に何等の同情を惹くに至らないのは、一つには自分等は文明開化の奴隷であり得たこと、又一つは實用的に不便な煙草を弄する必要がなくなつた爲であらう。あれらの繊首《ほそくび》の煙管で喫煙することは今の我我には想像もできない苛苛しさである。あれらは喫煙的遊戯に近いと云つてもよい。併乍ら我我の父祖は斯如き優雅な一美術品の媒介で悠然として喫煙の中に消光《せうくわう》してゐた。その談裡に煙管の輝きを見せながら、喜怒哀樂の三百年を閱《けみ》してゐたのであつた。

[やぶちゃん注:「消光」月日を送ること。日を過ごすこと。]

 金唐皮《きんからかは》の煙草入に數百兩を揃げ打ち、その根〆《ねじめ》や目釘に金銀を鑄《ちりば》ばめたのも、もはや相應の骨董店か或は賣立以外で見られなくなつたのも時勢であらう。煙草の歷史の短い我國の慶長以來の贅澤三昧も、その比較を見ない奢りの中に一朝の煙草の如く沒落した。我我がこの三百年を一瞥する時に美しい工藝の園生《そのふ》である一極島を夢のやうに想ふのも無理のないことである。慶長以來煙草入れの金具は力の目拔や女の髮の裝飾具から、その形や姿を代へて樣樣に進化もし發明もされたのであつた。その布地は女持は女の衣裳や能衣裳から工風《くふう》され、男持に陣羽織や馬の道中覆ひから支那朝鮮の唐皮類にまで、その珍奇の用材を求め涉獵してゐた。金唐皮は一寸四方百圓もするのも素人には信じられぬことであらう。斯樣な烈しい傲奢の沙汰も明治の開花によつて殆ど形なきまでに淘汰された。といふより紙卷の流行は此煙管趣味の王國に遊ぶことを禁じたのである。自《おのづか》ら此喫煙の園生にも猶且明治初年の生活苦が浸透してゐたと云ふ見方も、一應は首肯《うなづ》くことができることであらう。

[やぶちゃん注:「金唐皮」サイト「文化遺産データベース」の「金唐皮」に、『仔牛などのなめし皮に、銀箔を貼りワニス(ニス)を塗り、模様を彫った方にプレスして、最後に手彩色して仕上げると黄金に輝く壁皮になる。金唐皮は』十六『世紀初め、イタリアで生まれ「黄金の皮革」と呼ばれ』、十七『世紀、オランダの特産となった。非常に高価で、貴族の間では「富の象徴」と呼ばれた』。本邦では、『当初、需要が少なかったが、西洋趣味の流行とともに、煙草入れや紙入れを始め、陣羽織にまで使用され、爆発的な人気を博した』とあって、『武雄鍋島家』の『武雄市図書館・歴史資料館』の金唐皮の画像が見られる。

「力の目拔」これ、「刀の目貫」の誤りではあるまいか?]

 序でだから書くが此煙管に刻む文樣は槪ね幼稺《えうち》で單純だつたのは、その煙管の極めて小さい洒落れた形の爲であつた。文樣の如きも武家の持つものは定紋章を鑄め、町家は目ら自由なものを刻んでゐた。併しこれらは悉く刀の鍔の文樣圖案から模倣されたことは、その時代の大半の風俗に較べても瞭然することである。德川中期以後これの奢が頂上だつたことも當然のことであらう。

 

      三 靜物としてのパイプ

 

 自分の目擊した或亞米利加人は五時間立てつづけにパイプを咥《くは》へ、絕えず喫煙してゐた。又西洋人は列車中の食後に心から樂しさうにマイミクスチユアを喫みながら、窓外の景色を眺めてゐた。自分は彼の橫顏にゴツホの一畫面を思ひ出し、壁にかけられてあつた數個のパイプを描いたアンリイ・マチスの心理と其動機を感じた。

 西洋のパイプなるものは其三百年以上の歷史を持つてゐるに拘らず、それ程も進步しないらしかつた。木根草皮から作られたパイプは漸くダンヒルの最上物に至るまで、形態や細工の上で我國ほど著しい進化を見ないやうである。あれらの型や形以外に進めないことは、日本の煙管が支那朝鮮の形態以上に出なかつたと同樣であらう。西歐人に比較して我國の工藝美術が肌膚(きめ)細かい自《おのづか》らな圖案や文樣を持つてゐることは、充分に注意すべきことであらう。又煙管の形が支那朝鮮では、自ら悠長な大民的な長い管と大きい壺をもつ煙管を、西洋人は最もその體質的なパイプを作り出したことも偶然ではなからう。

[やぶちゃん注:「大民的」不詳。自負心の肥大した民族意識の意か。]

 

      四 插 話

 

 自分は時時下草を買ふために植木屋の庭を訪ねた。そして其處の强慾非道の半翁に自分の入用な下草を掘らせるのが常であつた。半翁は一々奈何なる草本木皮の類にまでも、その信ずる値段を自分に告げた。自分はその度每に草本木皮が金錢の支配を受けてゐる爲めに、特にそれらの草本木皮の美しさを知るのだつた。

 然し植木屋の强慾非道は曾て自分を不愉快にしないことはなかつた。春淺い或日のこと、自分の前で美しい女の足のやうな敷島を一本袋から引きずり出し、慘酷に火をつけて燻《くゆ》らし乍ら彼は云つた。

「朝敷島一本ふかしながら芽先きを見𢌞つてゐると仲仲快い氣持です。」

[やぶちゃん注:「敷島」近代小説に最も登場することの多い、本邦の口付紙巻き煙草の銘柄。明治三七(一九〇四)年六月二十九日から昭和一八(一九四三)年十二月下旬まで製造販売していた。]

 

      五 煙草の理解

 

 自分の最初に喫煙したあやしい記億を辿るならば、異性へ近づく時の物珍しい氣持と大した變りはなかつた。加之《しかのみならず》自分は煙草を理解するために樣樣な苦心はしたものの、遂に煙草が自分だけの人生に於て何故に斯樣に貴重であり必須なものであるかが、其根本の「必要」に對して理解することが出來なかつた。それ故當時十六歲の自分はその最初の煙草を理解する努力を遂に放抛《はうき》した。自分が煙草を解するやうになつたのは幾つくらゐだつたかが、今以て甚だ漠然としてゐる。それは二十の年代に於て自分が何を考へつつ生活してゐたかといふ問題の漠然たると同樣に、極めて曖昧模糊たるものであつた。

「君は何故に煙草を好みたまふや」と往復葉書を以て囘答を促すものがあるとしたら、自分はそれは分つてゐるではないかと遂に囘答に應じないであらう。加之どの程度迄、「解つてゐる」かも能く判じがたい病疾的理解であるからである。判り過ぎてゐることは屢屢自分には無限の判明力であり、その無限故に焦點に觸れることのでき難い廣汎な意味の理解だからである。煙草の理解は最早我我が曾てダンヒル會社あたりから求めて來さうな往復葉書に對して、囘答を與へる必要のない程の愚問だとしか思へない。

 唯、自分の熟熟《つくづく》念《おも》ふのは雨の夕《ゆふべ》も風の日も煙草の朦朦《もうもう》たる煙の中から、どれだけ裏悲しい日を送つたかも知れない事實である。煙草は事實人生の詩情を盛るに猶飮酒家の如き悲しいものであつたことは、多くの人人の忘れもし想ひ起しもしないことであつた。或意味で近代の焦燥的な生活の一面に實に煙草と鬪ふ瞬間のあつたことは、何人も亦靜かに想ひめぐらすことができるであらう。そして煙草が我我の生活面に於て單に必要以上の皮肉な役目を持つてゐたことも次第に理解するであらう。

 

      六 美的感情に就て

 

 自分の紙卷煙草に對して優美の感情を誘惑される場合は、多く女の人の喫煙的ポーズの美しさにあつた。一例をあげれば今夏の或深更、信越の一山峽の驛で、自分は一老俳友を送るためにプラツトホームに佇んでゐた。送るものは自分一人であつた。自分は窓際から隔れたところで老友に一揖《いちいふ》を試みた後、不圖後方五つ目くらゐの窓ぎはから、夜半の冷たい空氣に濃い煙草の烟《けむり》が靜かに搖曳するのを何氣なく目に入れてゐた。それほど此山驛《やまえき》の夜更けは靜かだつたのである。列車の中は春のやうに明るかつたが、間もなく汽笛一聲とともに動き出した。自分の前に五つ目の窓が動いて過ぎたときに、若い婦人が白粉氣《おしろいけ》のない顏を自分の方に向け、靜かに敷島か何かをうまさうに燻らしてゐた。自分はその瞬間に可成りに放埒な優美の情を會得した。

[やぶちゃん注:「一揖」(現代仮名遣「いちゆう」。「揖」は「両手を胸の前で組み合わせて行う礼」の意。軽くおじぎをすること。一礼。]

 又一例、

 今は李園に花を競ふ人ではないが、伊太利にフランチエスカ・ベルチニといふ女優がゐた。彼女は千九百十年代の映畫の中では、鼈甲か何かの長いパイプのさきに繊いくちなしのやうな紙卷を揷《はさ》んで、靜かにトルコ絨氈《じゆうたん》の上を步く一場面があつた。自分はこの場面に同樣煙草の美しさ壯大さを理解した一看客だつたのである。歲月惱み多く今や此人も亦再び昔日の李園に艷を競ふことはないであらう。

[やぶちゃん注:「フランチエスカ・ベルチニ」フィレンツェ生まれの、無声映画時代に最も人気を博した女優の一人であったフランチェスカ・ベルティーニ(Francesca Bertin 一八八八年~一九八五年)。私は一本も見たことがない。]

 又一例、(しかしこれは美的感情を誘惑する例ではない。)

 煙草がまだ官營にならない前のことだ。自分の國の方の山間の町で煙草を產する鶴來《つるぎ》といふ處があつた。當時煙草を刻む五寸くらゐの長さの煙草刻みの庖丁があつた。其後官營になつてから此小さな庖丁はその土地の名產のやうになつて果物を剝ぐ小刀に變化した。今では金澤の城下で皮をむくための小刀は、この煙草刻みの庖丁が利用されたのである。恐らく昔の煙草が民間の手にあつた時代の遺物としては先づ此庖丁位が其著しい一つであらう。

[やぶちゃん注:「鶴來」現在の白山市鶴来町(つるぎまち)。この附近(グーグル・マップ・データ)。

 因みに――私は実は、中学二年以来、今まで、ずっと煙草を吸っている。高校教師時代、喫煙で捕まり、生徒に生活指導をする都度、心の内で、『俺は一度も見つからなかったぞ!』と喉元まで出かかることが、幾度もあった……。]

 

      七 ニコチン夫人

 

 自分の少年時代にはヒーロー、サンライズ、ホームなどの煙草があつた。煙草の箱も相應に凝つたものが多く、小さい油繪めいたカードが一枚宛插まれてゐて、美しい踊り子なぞが書かれてあつた。自分の家へ親類の者で兵隊に行つてゐるのが日曜ごとに遊びに來て、そのカードを自分に吳れたものである。

[やぶちゃん注:「自分の少年時代」犀星は明治二二(一八八九)年八月一日生まれ。

「ヒーロー」「たばこと塩の博物館」公式サイトのこちらを参照されたい。明治三七(一九〇四)年に煙草専売制が導入される以前の、村井兄弟商会の主力商品の紙巻き煙草。そこに、『輸入の葉たばこを原料に欧米の最新の技術で製造されたたばこで、中にはおまけのカードも入ってい』たとあるから、以上の「小さい油繪めいたカードが一枚宛插まれてゐて、美しい踊り子なぞが書かれてあつた」というそれは、本品のそれであった可能性が高いように思う。リンク先のパッケージのそれも、それらしい。

「サンライズ」サイト「世界のたばこ」の「日本タバコの歴史」に、前注の『村井兄弟商会の両切たばこ「カメオ」のデザインを模倣し』て、婦人の『肖像を村井吉兵衛本人の写真に差し替え』たもので、『国産の在来葉たばこを原料としている』とある。

「ホーム」不詳。]

 煙草が官營になつてから煙草に用ひられるものの、工藝的現象が亡びたことは煙管や煙草入れの需用を尠《すくな》くしたことを見ても判る。自分等が少年時代に見た煙草に對する幻像すら、既にあの美しいカードの失はれてゐることだけでも、重大な意味を持つてゐる。同時に今から十年の後には全然煙管や煙草入れを懷中にする古風な婦人の好みも、必ず失はれるに違ひない。又それらの工藝品は全然滅亡するであらう。近い一例は羅宇屋《らうや》の車を引く老翁を殆ど見なくなり、昔日一片の古詩は既に埃巷《あいかう》にその姿を失うてゐる。

[やぶちゃん注:「羅宇屋」「らう」は煙管の火皿と吸口の間を繋ぐ竹管で、インドシナ半島のラオス産の黒斑竹(くろまだらたけ)を用いたのがこの名の起こりとされる。江戸時代に喫煙が流行するとともに、三都などで「らう」のすげ替えを行う羅宇屋が露店や行商で生まれた。]

 自分は二年程前に省線電車の中で、熱心に一職人風な男が敷島の箱を覗いてゐるのを見て、不思議な氣がした。次ぎの瞬間にその男が煙草の數を調べてゐることに氣づいて、自分は謙遜の德を間接に感じたのだつた。自分もそれらの煙草の數を算へながら喫煙したことがあつたが、今から思ふと鳥渡懷しい氣がしないでもない。――自分が市井に筆硯を引提げて放浪してゐたころは、一個の卷煙草にも或時は押戴いて喫煙するに近い氣持であつた。時勢は移つても今の靑少年諸君にもこれらの謙遜の美德は持ち合してゐるだらう。

 自分は先年呼吸器が弱つているやうだつた時に、紙卷の純白な筒を見て何か直覺的に毒筒《どくづつ》のやうな氣がした。又、反對に年のせゐか夜中に眼を覺して一服喫ふ甘さは、毒とは知りながら廢《すた》らずにゐるのも、よくよくニコチン夫人に愛せられてゐるからであらう。

 

 煙草に就て

 

 自分の煙草を好愛したのは十六七歲の頃に始つてゐる。自分のその頃の記憶に據れば煙草を好愛するのはハイカラを理解することであり、文明の精神を會得することでもあつた。煙草は今では自分には音樂でもあり繪畫でもある樣樣《さまざま》な空想を刺戟し、妄想をたくらむ物のごときものであつた。

 煙草は有史以前から好煙されてゐるものであることは人の知るところであるが、日本に入つて來たのは天正年間か慶長の頃であらう。ポルトガル人が持つて來たことは疑ひもないことである。自分等の祖先の體内に有害な支那地方、朝鮮地方、又歐州婦人等の血液が浸潤してゐるやうに、永い天正の頃から煙草の害と毒が流れてゐるのである。自分等が煙草を好愛するのは實に今日の趣昧ではない。

 煙草は淫《みだ》りがましい心が銜へるやうである。煙草を好愛する我國婦人の階級は殆ど上流に行はれてゐないと云つてよい。自分は煙草が非常に性慾と密接な密度を持ち喫煙の過度な疲勞は一種の性欲的なるものであることは否まれない。自分の煙草を好む所以のものは或は一事に卽してゐるかも知れないのである。

 或情死者を二十分後に檢診した一醫師は、まだその男の方の肺臟から烈しいニコチンの臭氣を感じたことを報じてゐる。情死前に如何に烈しい喫煙の快樂を擅《ほしいまま》にしたかが分る。死刑囚が一本の煙草をほのぼのと喫みふける氣持は我我喫煙家の能く理解する心持である。

 自分は此頃パイプで西洋の刻み煙草を吸うてゐる。自分の如き閑暇人《ひまじん》はパイプを左の手にしながら永日《えいじつ》閑《かん》の文を綴るに相應しく思はれる。パイプで煙草を吸ふことは何か知ら「物語」を感じるからである。煙草は心の物語を調和するものだ。人悲しめば又煙草も悲しまねばならぬ。心に憂ひを有《も》つ人の煙草の苦さは、その腸《はらわた》に滲《しみ》るやうである。酒杯を手にしながら酒に斷腸の思ひを遣るのは最早時代遲れであらう。今の世はすべからく一本の煙草に天地有情を感じ又世態《せたい》人情の儘ならぬのを嘆くのに相應しいやうである。

 自分はパイプを所藏する人人による每月の會合に出て、自分もそれらの喫煙倶樂部の一員になり、手垢や焦げや齒の痕や、煙草の脂やにまみれたパイプをお互に吸ひ乍ら、半夜の卓に對ひ何か知ら雜談を交すことを愉快に思うてゐる。これらの會員は悉くパイプを携《も》たねばならぬ。かれらはの燐寸《マツチ》に三個のパイプの壺を合《あは》して喫煙するに機敏なるものでなければならぬ。又、かれらは均しく此半夜の喫煙を以て飮酒の宴に勝る愉しさを迎へねばならぬ。かれらは均しく貧乏人でなければならぬ。

 唯われわれ會員はその焦げと手垢に古びたところの、しかもあまり高價でない薔薇の根のパイプを銜へ、電燈を眺めたり往來する婦人連を眺めたり、極めて騷騷しい喫茶店の一隅に坐つてゐるだけである。人人は嗤《わら》ふにちがひない。併しながら我我は宴會や會合の皿や匙をがちやつかすよりも、心ばかり喫煙して居ればよいのである。それは靜かでもあり本能的でもあり、又醉ふこともできるからである。

[やぶちゃん注:「自分はパイプを所藏する人人による每月の會合に出て」先行する「月光的文献」の「一 喫煙と死」を参照。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 四七番 旗屋の鵺

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。なお、本篇の附記は特異的に長く、類型話が紹介されているので、ポイント落ちはやめにして(底本では一行目のみ本文相当一字下げで、二行目以降は全体が二字下げである)、本文と同じポイントで頭の一字下げのみを再現し、後は行頭まで引き上げてある。太字は底本では、傍点「﹅」。

 標題の「鵺」は「ぬえ」と読む。但し、これは狩人(マタギ)の綽名であって、例の源三位頼政が退治した南殿(なでん)のハイブリッドの怪鳥「鵺」とは関係性は、ない。そちらの「鵺」は私の「柴田宵曲 續妖異博物館 化鳥退治」を、鳴き声のモデルの鳥については、「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵼(ぬえ) (怪獣/鳴き声のモデルはトラツグミ)」を、どうぞ。]

 

   四七番 旗屋の鵺

 

 昔、上鄕村細越(ホソゴヘ[やぶちゃん注:ママ。])、旗屋(ハタヤ)といふ所に、鵺(ヌエ)と云ふ狩人(マタギ)の名人があつた。この狩人には一人の娘があつた。娘が或日家の窓際で機《はた》を織つていながら、時々機を打つ手を休めては、獨語《ひとりごと》を言つてケタケタと笑ひ獨語を言つてはケタケタと笑つて居た。父の鵺はそれを見てこれには何か譯があることと思つて、物蔭から窺つて見て居ると、一足[やぶちゃん注:ママ。「ちくま文庫」は『一疋』とする。誤植であろう。]の小蛇が窓際に絡《から》まつて居て、尾端《をはし》をプルプルと顫動(フリウゴ)かすと、その度每《たびごと》に娘が笑つたり囁《ささや》いたりした。鵺は彼奴《きやつ》の仕業だと思つて、直ぐに鐵砲を持つて來て射殺《うちころ》した。そして其屍《しかばね》を前の小川に投げ棄てた。

 その翌年の雪消《ゆきげ》の頃になると、前の小川に今迄見たことの無い小魚が無數に群れ集まつた。あまりに珍しいので獲(ト)つたが、なんと云ふ魚だか名も知らないから、鵺は先祖から口傳へになつて居る呪《まじな》ひ事をして、それから茅の箸でガラガラと搔廻《かきまは》してみた。すると今迄魚とばかり見えて居たものが、盡《ことごと》く小蛇に化(ナ)つた。鵺は前の秋の事を思ひ出して、驚き恐れてそれを近くの野に持つて行つて棄てた。夏になると其の邊にまた異樣な草が生へてひどく繁茂(シゲ)つたが、その草を食つた牛馬は皆死んだ。

        ×

 鵺はある日山へ狩獵に行つた。そしてマタギの法のサンズ繩を張り、枯木を集めて焚火《たきび》をしてから鐵砲を枕にして寢て居た。すると夜半にぱツちりと目が覺めた。何氣《なにげ》なしに向ふを見ると、一疋の小蟲が自分の方に這ひ寄つて來るのを見付けた。そこで鵺が其蟲を取つて外へ投げると、又直ぐ這ひ寄つて來たが、最初よりは少し體《からだ》が大きくなつて居た。鵺がまた取つて外へ投げると、直ぐに引つ返して這ひ寄つて來た。その時にも先刻よりはずつと體が大きくなつて居た。斯《か》ういふことが五六度繰り返されると蟲の體はずんずん大きくなつて、既に手では取つて投げられない程になつた。

 鵺も氣味が惡くなつたので起き上つて、其の蟲を足で踏み潰さうとしたが仲々《なかなか》潰れない。かへつて踏む度《たび》に體が大きく伸びて、しまひには一間[やぶちゃん注:約一・八二メートル。]餘りの奇怪な大蟲になつた。鵺もこれは大變だと思つて鐵砲を取つて擊(ウ)つたが、彈丸ははぢけて少しも通らなかつた。鵺は初めて恐しくなつて、急いで其所を立ち退いて、家へ歸らうとどんどん駈け出した。ところが元《もと》來た路も變り山のアンバイも別になつてゐてひどく深山《しんざん》の中に迷ひ込んでしまつた。仕方がないから、谷川に添ふて逃げ下《お》りたが、終《しま》ひには山が立締(タテシバ)つて來たから此邊《このあたり》で川を渡るべと思つて川に入ると水がひどく漲《みなぎ》つてどうしても涉《わた》れなかつた。さアどうしたらえゝかと思つてまた岸へ上つて無理矢理に步かれない所を步いて行くと、幸ひに大木《たいぼく》が倒れて川に橋渡しになつてゐるのを見つけた。それを渡る。不思議なことには其所に一匹の白馬(アシゲウマ)が、丁度自分を待つて居るやうに立つて居た。鵺はこれを幸ひと其の馬に乘つて家に歸つた。そして家の門口(カドグチ)で下りると其馬が忽ち飜《ひるがへ》つてもと來た方《はう》へ駈け戾つて行つた。

 鵺は怪蟲におびやかされたのが口惜しくて、それから再三山に射止(シトメ)に行つたが、其の時の姿の山や川はもとより、自分が助けられた白馬にもとうとう[やぶちゃん注:ママ。後文も同じ。]出會はなかつた。

        ×

 鵺がある時狩山に行つて泊つて居た。すると近くの大きな樹から光が射(サ)して、其側に一人の女が糸車で糸を紡《つむ》つて居た。これはてツきり狐か狸の仕業だと思つて鐵砲で擊(ウ)つと、女はケタケタと笑つて動かなかつた。再三擊つても女はやツぱりケタケタと笑つてばかり居た。呆れて其夜は家に歸つた。

 翌朝鵺が親父に昨日の夜山(ヨヤマ)の事を話すと、そんな物には普通の鐵の丸(タマ)で普通の射方《うちかた》では當らないもんだ。同じ鐵の丸(タマ)でも五月節句の蓬《よもぎ》、菖蒲《しやうぶ》にクルンデ込め、鐵砲の筒穴に草葉でも木の葉でも詰めて擊つとよく命中(アタ)るものだ。尙それでも魔物が平氣だら取置(トツト)きの黃金《きん》の丸(タマ)で打つより仕方がないと敎へた。その外種々《いろいろ》なことや祕傳を敎はつて、其夜復《また》その山へ行つた。するとやつぱり前夜と同樣に大木から光が射(サ)して、其側で女が糸車をくるくると廻して居た。父親から敎はつた通り五月節句の蓬、菖蒲にクルンダ彈丸(タマ)を込めて打つたが、其女は一寸顏を上げて此方《こちら》を見たばかりで、矢張りケタケタと笑つてばかり居た。斯うなつては仕方がないから思ひ切つて先祖傳來の祕藏の黃金の彈丸を込めて、しつかり狙ひを定めて火繩を切つた。すると女はギヤツと一聲銳く叫んで光も何もペサツと搔き消えてしまつた。

 翌朝夜が明けてから血の引いた通りに探し求めて行くと、或る岩窟(ユワアナ[やぶちゃん注:ママ。])の中に見たことのない怪獸が斃《たふ》れて居た。それを背負つて來て父親に見せると、猿の經立(フツタチ)とはこれのことなんだと云つた。皮を殿樣に献上すると、ひどく褒められたあげくに、鵺といふ名前を其時與へられた。

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 或夜鶴の夢枕に山ノ神樣が現はれて、これから東南(ヒガシミナミ)の深山に大樹があるが、その朽穴《くちあな》に恐しい毒蛇が棲んで居る。俺が力を貸すから明日雷が鳴り出すのを合圖に、機(トキ)を逸(ハズ)さぬやうに鐵砲で打つて殺せ、さうして其山は斯う謂ふアンバイの山で、かういふ風の樹木だと、その態(アリサマ)まで、まざまざと告げられた。[やぶちゃん注:ここは行末で句点はないが、「ちくま文庫」版で補った。]鵺は不思議な事もあればあるものだと思つて、翌日夢の御告げのあつた方角の深山へ行くと、木も石も果して夢に見た通りであつた。その奧に恐しい大樹があつた。あの樹の中に居るなと思つて、物蔭に匿れて窺つて居ると、俄《にはか》に天が暗くなつて、ガラガラガラと雷が鳴り轟いた。すると大樹が二ツに裂けて靑い焰を吹き出すこと頻りであつた。雷樣《かみなりさま》が解(ト)けたな[やぶちゃん注:「収まったな]」。と思ふ間《ま》に、恐しい大蛇が朽穴から躍り出た。昨夜の山ノ神樣のお告げはこれだなと思つて、鐵砲を擊(ウ)つと、彈丸(タマ)は誤らないで大蛇の胴を貫いた。すると大蛇は猛《たけ》り狂つて、鵺をたゞの一呑みと躍りかゝつて來た。さすがの鵺もその勢ひに怖れて逃げると、大蛇は大口を開いて後からどんどん追(ボ)ツかけて來た。鵺はとうとう家まで逃げて來て門を締切ると、大蛇は垣根を乘越へて[やぶちゃん注:ママ。]内へ入らうとした。其の時玄關から黃金(キン)の丸(タマ)で大蛇の咽喉笛から頭を射貫《うちぬ》いて首尾よく射殺《うちころ》した。その大蛇のろくろ骨を玄關の踏臺にして遂《つ》ひ近年まで其家にあつた。

 其山は今の氣仙郡の五葉山《ごえふざん》であるとも、また閉伊(ヘイ)の仙盤ケ嶽《せんばんがたけ》であるとも謂ふ。とにかく古來鬱氣《うつき》のために入つた人は橫死すると謂はれたこれらの山が、其後何事もなくなつたと村人は語る。

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 鵺が或時、片羽山《かたばやま》の深澤の沼のほとりで狩獵をして居た。其日鵺は大きな十六肢[やぶちゃん注:ママ。「ちくま文庫」版では『十六枝』となっており、鹿の角分岐したそのことと判るので、誤植であろう。]の白い鹿を射止めた。そこで皮を剝ぐと、片側剝げば片側が元のやうに癒着(クツツ)き、片方を剝ぐと片方が又元のやうな附着いた[やぶちゃん注:ママ。「ちくま文庫」版では『元のようにくっついた』である。]。そして蘇生(イキカヘ)つて走《は》せた。鵺はそれを追ふて、今の死助(シスケ)權現の嶺まで追つかけて來て遂々《たうとう》斃した。其鹿の眼玉は如意の珠《たま》と謂ふ物であつた。手に取ると忽ちに其所に葦毛の駒が現はれたから、その背に乘つて家に歸つた。そして下りると又忽ちに其の駒は山の方へ駈けて行つて見えなくなつた。

 鵺それからマタギの事は何でも意の如くになつた。この珠は代々この家の寶物であつたが、大正五年頃の火事の時、何處へか飛んで行つてしまつた。それからは矢張り家運が昔日《せきじつ》のようでないと村人は語る。

        ×

 鵺は仙盤ケ嶽に古鹿《ふるじか》が居ると云ふことを聞いて、喜び勇んで直ぐ山へ出掛けた。そして神樣に何卒此深山に居る古鹿を得させ給へと祈願して待つて居たが、鹿の姿は見えなかつた。仙盤ケ嶽の大石の上に登つて每日每夜待つて待つて、恰度九百九十九晚(バン)、その其石の上に居た。さうして恰《あたか》も千晚目の眞夜中頃に、えらい山鳴《やまなり》と共に現はれたのが、額に小松の生えたやうな十二枝の角(ツノ)のある大鹿であつた。

 鵺が狙ひを定めて放つた彈丸はたしかに手答へがあつたが、鹿は倒れない、血を流しながら逃げた。鵺がその後を追ひかけて行くと、山を越え谷を渡つて、遂に一つの大きな嶺の頂上で倒れた。鹿が餘り大きなために皮だけを獲(ト)ろうと思つて、皮を剝ぎかけると、今迄死んで居たのが立ち上つてまた逃げ出した。

 鵺はまた其の鹿を追ひ追ひ、今の笛吹峠の邊まで來ると、忽然として鹿の姿も足跡も搔き消すやうに見《みえ》なくなつた。それで、これは只の鹿ではないと思つて、其の山の頂上に祠《ほこら》を建てゝ祀つたのが、今の死助權現である。

 そして千晚籠(コモ)つた放に其の山は千晚ケ岳、鹿の片羽(カタハ)を剝いだ山をば片葉山と稱して、土地でのいわゆる御山(オヤマ)である。三山共に權現を祭つた祠がある。

[やぶちゃん注:この山中の奇怪談は、後半が諸地名の由来譚となっており、それも面白い。

「上鄕村細越(ホソゴヘ)、旗屋(ハタヤ)」ここは幾つかのネット記載から、現在の岩手県遠野市上郷町(かみごうちょう)細越三十五地割(グーグル・マップ・データ航空写真。以下、無指示は同じ)がそこである。マタギの住むだけあって、遠野市街区の南東の山間を入った山腹の斜面である。

「サンズ繩」『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 六〇~六二 山の怪』の「サンヅ繩」の注を参照されたい。

「猿の經立(フツタチ)」「二三番 樵夫の殿樣」で既出既注。

        ×

「山ノ神樣が現はれて、これから東南(ヒガシミナミ)の深山に……」旧旗屋地区から東南を見ると、「山神宮」があり、そのさらに先に後で出る「五葉山」(ごようざん:標高千三百五十一メートル)がある。ウィキの「五葉山」によれば、『藩政時代は伊達藩直轄の山であり、火縄の材料となるヒノキ、ツガなどの林産資源が重要視されて「御用山」と呼ばれていた。後にこの山で多く見られるゴヨウマツ(五葉松)』(裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科マツ属ゴヨウマツ Pinus parviflora )『に因んで「五葉山」と呼ばれるようになった』とある。

ろくろ骨」頭部と脊椎骨をジョイントする部分の太い頸骨か。

「氣仙郡の五葉山」現在の五葉山は岩手県気仙郡住田町と旧気仙郡の大船渡市及び釜石市の境に位置する。

「閉伊(ヘイ)の仙盤ケ嶽」これは「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 三一~三五 山中の怪」の「三二」に酷似した白鹿と「片羽山」命名譚がある。そちらでは「千晚ケ嶽(センバガダケ)」であるが、これは現在の仙磐山(せんばんやま)。標高千十六・二メートル。この山は「仙葉山」「仙羽山」(せんばやま)とも呼ばれるようである。ここ。その西六キロメートル強の位置に「片羽山」がある(双子峰で北にある雄岳が最高標高点で千三百十三メートル。「ひなたGPS」の戦前の地図で確認出来る)。現地では「片葉山」と書くようである。登山記録記事を見たが、孰れも上級者向きのコースで、航空写真を見ても、この間の尾根と谷は見るからに難所という感じがする。ある方の仙磐山登山の記載では、まさに「鹿道」(ししみち:獣道)に入り込んで迷ったとさえあるのである。

「鬱氣《うつき》のために入つた人は橫死する」この謂いは、ちょっと解せない部分ある。憂鬱になって山に入るというのは、世を儚んで深山幽谷に入って遁世するということか? そんな気持ちで入山すると、瞬く間に、山の魔によって行路死亡人と化すというのか? そもそも隠遁の究極は行き倒れに尽きると思うから、この言いは警告とならないのでは? と私は思ったのである。

「片羽山の深澤の沼」上の「ひなたGPS」の戦前のそれで探してみたが、「深澤」の地名も沼らしいものも見当たらなかった。

「死助(シスケ)權現」やはり「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 三一~三五 山中の怪」の「三二」に出る。そちらの注を参照されたい。但し、現在は別な場所にある。

「笛吹峠」ここ。]

大手拓次 「『惡の華』の詩人ヘ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。なお、本篇を以って、「藍色の蟇」に所収しない同パートの詩篇は終わりである。]

 

 『惡の華』の詩人ヘ

 

    

 

たそがれの色はせまり、

紅貝(べにがひ)のやうなおまへの爪はやはらかい葡萄色になみだぐむ。

おまへの手は空をさし、

おまへの足は地をいだき、

おまへのからだは野の牝兎(めうさぎ)のやうにくらがりの韻をはらむ。

さて、わたしは眼のなかにひとつの手斧をもち、

このからだを、このたましひを、

みづから斷頭臺のそよぎのうへにはこぶ。

斷頭臺はゆれてはためき、血の噴水をみなぎらし、

亡靈のやうに死のおびきをしめすとき、

わたしの生命(いのち)鳥のやうにまひたつてとびかかりながら、

地の底にねむる母體の神性をよびさますのである。

無言の神性はますますはびこつて蔓草(つるくさ)となり、水となり、霧となり、

大空の凝視となつてあゐ色のゆたかなる微笑にふけつてゐる。

なつかしいひとりの友ボオドレエルよ、

わたしはおまへの幻怪のなかに床をとつてねてゐる。

おまへの手づくりの香のふしぎに醉(ゑ)うてゐる。

おまへはそのながくのびたうつくしい爪をだして美女の肢體をひきかく。

とび色のおまへの眼はつねに泉のごとく女のうしろ姿を創造する。

神話的なおまへの鼻はいろいろのお伽噺をかぎわけ、

あるひは、巢のなかでかへる卵の牝牡(めすをす)をききしる。

年とつた鷺のことく、またわかい小猿のごとく路ばたにころびねをして、

神神の手にいだかれておこされる。

わたしの魂にあやしい美酒をつぐボオドレエルよ、

おまへのうしろには醜い罪の乳房が鳴り、

暗綠色の乳液がながれてゐる。

けれどもそれは、まことに地上に悲しい奇蹟の道化をうんだ胎盤である。

 

    

 

ボオドレエルよ、

わたしはEmile de Royのかいたおまへの畫をみてはあこがれてゐた。

白茶色のかりとぢのLes fleurs du malをかたときもはなしたことはない。

さうして酒のみが酒をのむやうに、

また男がうつくしい女のからだをだくやうに、

おまへの思想をむさぼりくつてゐる。

はてはつれづれのあまりに、

紙のにほひをかぎしめて思ひをやり、

ひとつひとつ活字の星からでる光りをあぢはふ。

夜ねむるときLes neurs du malはわたしの枕べにあり、

ひるは香爐のやうに机のすみにおかれてある。

旅するときLes neurs du malと字引とはいつもわたしのふところにはひつてゐる。

 

    

 

靑灰色の昆蟲、

銀と緋色の生物、

鴉と猫とのはらみ子、

大僧正の臨終にけむりのごとくたちのぼる破戒の妖氣、

雨ごとにおひたつ畑の野菜はめづらしい痼疾をもつてゐる。

 

[やぶちゃん注:「紅貝(べにがひ)」標準和名のそれは、斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目ニッコウガイ超科ニッコウガイ科ベニガイ属ベニガイ Pharaonella sieboldii『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 巻絹(マキギヌ・キヌタ) / ベニガイ』を参照されたい。学名のグーグル画像検索もリンクさせておく。……この貝は私の遠い二十歳の時の淡い思い出でと繋がる……

「とび色」鳶色。猛禽のトビ(タカ目タカ科トビ亜科トビ属トビ亜種トビ Milvus migrans lineatus。属名の「ミルウス」は「猛禽」の意のラテン語で、和名は一説では、「遠く高く飛ぶ」の意の古語「遠(とほ)く沖(ひひ)る」(とおくひいる:「沖」(「冲」とも書く)は「広々とした海や田畑・野原の遠い所」の転訛とも言う)の羽毛の色のような赤暗い茶褐色。江戸初期より「茶色」を代表する色として、男性を中心に愛用されてきたが、実際のトビの羽色より、少し赤みが強い。参照した「伝統色のいろは」の「鳶色」のページに拠った。

Emile de Roy」エミール・ドロイ(Émile Deroy 一八二〇年~一八四六年)はパリ生まれの画家。十九世紀フランスのロマン主義を代表する画家フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène Delacroix 一七九八年~一八六三年)の弟子で、多くの肖像画で知られる。ボードレールの友人でもあった。二十六歳で早逝した。ここで言うボードレール(当年満二十三歳。ドロイは二十四歳)の肖像画は一八四四年に描かれた‘Portrait de Charles Baudelaire’ を指す。フランス語の彼のウィキのこちらで当該原画画像(ベルサイユのフランス歴史博物館蔵)を見ることが出来る。

Les fleurs du mal」シャルル=ピエール・ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire 一八二一年~一八六七年)の名詩集「悪の華」。一八五七年初版刊行。私はフランスで一九三六年に限定版(1637印記番本)で刊行されたカラー挿絵入りで、個人が装幀をした一冊(四十年前に三万六千円で古書店で購入)と、翻訳本は四種を所持する程度にはフリークである。]

大手拓次 「血をくむ柄杓」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。

 太字は底本では傍点「﹅」。]

 

 血をくむ柄杓

 

おまへは柄杓をもつてわたしの胸から血をくみとる、

おまへのきたないかさぶたの手は

死んだけものの腰骨でこしらへたひしやくの柄をとつて、

小鬼(こおに)のやうに空のなかにをどつてゐる。

腹のへつた蛇のむれは

あちらにもこちらにも環(わ)をゑがいてあつまる。

 

大手拓次 「銀色のかぶりもの」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 銀色のかぶりもの

 

空はこつくりとはれてゐる。

ものものしいものは、みんな光線のうちにかくれ、

とほくとほく、ともがらをよぶ靈氣のこゑ、

わたしのよろこびとくるしみとは、

これも、れいろうとした靈氣のほとぼりをうけて、

アミーバのやうにのびてひろがる。

さても、ふしぎなのは、

この感じにわたしのからだがひろがるとき、

まばゆい、銀いろのものが、

かろく、わたしのあたまのうへにのつかつた。

これはおそらく神の榮光であらう。

空をとぶ鳥よ、地をはふ蟲よ、

それはみんなわたしの化身である。

 

[やぶちゃん注:「アミーバ」。アメーバ。綴りは「amoeba」「ameba」「amœba」と複数ある。当該ウィキによれば、『単細胞で基本的に鞭毛や繊毛を持たず、仮足で運動する原生生物の総称である。また仮足を持つ生物一般や細胞を指して』、『この言葉を使う場合もある。ギリシャ語で「変化」を意味する』(ラテン文字転写)『(amoibē) に由来する』とある。嘗つては、原生動物葉状根足綱アメーバ目Mastigamoebidaに一括されていたが、現在は分類が再編され、分類は未だ進行中である(同前リンク先の「分類」を参照されたい)。肉質類の原生動物の総称。単細胞で、大きさは〇・〇二(二十μ(ミクロン))~〇・五ミリメートル。増殖は分裂による。外殻を持たず、絶えず形を変化させる。仮足と呼ばれる原形質の突起を伸ばして運動・捕食する。淡水・海水・土壌中に広く棲息し、寄生性で病原性を持つ種もあるのは御存じの通り。]

大手拓次 「ゆあみする蛇」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 ゆあみする蛇

 

じや香のにほひ、

しなやかに彈力にみちあふれた女蛇のからだは、

あつたかい水のなかにひたつて、

うつらうつらと夢をみる。

みどりのうろこにかくれた、うぶ毛は芽をふいておきあがる、

ひち、ひち、といふ肉のきしむおと、

女蛇が身をくねらせると、

あだかも弓づるのやうに血しほがはりきつて、

山をうごかす。

そのふくれてる腹は、たぶたぶとしてはゐるが、

なほ、あらあらしく戀の火皿をよびよせる。

肌身の沼、体熱の船、

女蛇のむれは、むごたらしくあそび、

花粉のいなづまは彼等をおびやかす。

うごめくたびに

からだのくらがりのにほひ、

女體(ぢよたい)の蛇はいちやうにまぼろしとなつてかをり、

とこしへに春の金鼓をならす。

 

[やぶちゃん注:「じや香」麝香。♂のジャコウジカ(鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ属 Moschus に七種が現生する)の腹部にある香嚢(こうのう:麝香腺)から得られる分泌物を乾燥したもので、主に香料や薬の原料として用いられてきた。甘く粉っぽい香りを持ち、香水の香りを長く持続させる効果があるため、香水の素材として古くから重要なものであった。また、興奮作用・強心作用・男性ホルモン様作用といった薬理作用を持つとされて、本邦でも伝統的な秘薬として使われてきた。ジャコウジカ及び麝香の詳しい博物誌は、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」を参照されたい。

「女蛇」原氏はルビを振っていない。「めへび」か。「ぢよじや」は硬いし、聴いたことがなく、「をんなへび」では韻律が悪い。私の知る限りでは、拓次の詩でルビを振ったものはない。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 針山供養針千本

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。今回は、ここから

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。太字は底本では、傍点「﹅」である。

 なお、「選集」では、標題の後に下方インデントで初出誌の丸括弧表記を二行目として、その前行に並べて同じ下インデントで『京都風来坊「針山供養針千本」参照』とある。筆者も内容も不明。]

 

     針山供養針千本 (大正三年十一月『鄕土硏究』第二卷第九號)

          (『鄕土硏究』第一卷第十號六三二頁參照)

 

 針千本(はりせんぼん)は河豚(ふぐ)類の魚で、學名ヂオドン・ヒストリクス、英語でシーヘヂホグ(海猬)、又、ポーキュパインフィシュ(豪猪魚)。此針だらけの魚が、河豚同樣、毬《まり》狀に膨(ふく)れて、每冬、海荒れる時、北國の濱に打《うちあぐ》るより、嫁の怨みと云ふやうな俗信を生じたものだらう。「日本書紀」卷二十六に、齊明天皇四年、出雲國言、於北海濱魚死而積、厚三尺許、其大如ㇾ鮐(あひ)、雀喙針鱗、鱗長數寸、俗曰雀入於海化而爲魚、名曰雀魚。〔出雲の國より言(まを)す。北海の濱に、魚、死にて積めり。厚さ三尺ばかり、其の大いさ鮐(あひ)のごとく、雀の啄(はし)、針(はり)の鱗(うろこ)あり、鱗の長さ、數寸(あまたき)なり。俗(くにびと)曰はく、「雀の、海に入りて化して魚(うを)と爲(な)れり。名づけて雀魚(すずみを)と曰ふ。」と。〕今云ふ雀魚(すゞめうを)は、學名オストラチオン・ジアファヌス、やはり河豚の類だが、鱗(うろこ)、無し。「和漢三才圖會」卷五十一にも、日本紀所謂者與今雀魚異〔「日本紀」に謂ふ所は、今の『雀魚』と異なる。〕とある。針鱗鱗長數寸〔針の鱗あり、長さ數寸〕とあれば、今の「針千本」を「雀魚」と謂ひ、『雀が化した』と云つたんだらう。「本草啓蒙」卷四十には、ハリフグ、雲州、每年十二月八日、波風、暴《あら》く、此魚、多く打上げられ、又、唐津でも四月八日に、此魚、自ら陸《をか》に上り死す、と出て居る。

[やぶちゃん注:「針千本(はりせんぼん)は河豚(ふぐ)類の魚で、學名ヂオドン・ヒストリクス」フグ目ハリセンボン科ハリセンボンDiodon holocanthus 。シノニムにDiodon hystrix holocanthus はあるが、熊楠の示した Diodon hystrix はシノニムではなく、誤用である(英文サイト“FishBase”の“Synonyms of Diodon holocanthus Linnaeus, 1758”を参照した)。

「英語でシーヘヂホグ(海猬)」Sea hedgehog。“Hedgehog”は哺乳綱真無盲腸目Eulipotyphlaハリネズミ科ハリネズミ亜科 Erinaceinaeのハリネズミ類を指す。当該ウィキによれば、『日本語では「ネズミ」と付くが、実際はモグラ』(真無盲腸目モグラ科 Talpidae)『に近』く、『ミミズなどを捕食する』点も似ている。『英語名のHedgehog(生垣のブタ)はブタのように鼻を鳴らしながら生垣をかぎ回ることに由来する』とある。

「ポーキュパインフィシュ(豪猪魚)」Porcupine fish。“Porcupine”は齧歯(ネズミ)目ヤマアラシ亜目ヤマアラシ科Hystricidae及びアメリカヤマアラシ科 Erethizontidaeに属するヤマアラシ類を指す。同種は漢字では「山荒」の他、「豪猪」とも書く。後者はヤマアラシの中文名でもある。

「日本書紀」の引用の訓読の一部は、国立国会図書館デジタルコレクションの黒板勝美編「日本書紀 訓読」下巻(昭和七(一九三二)年岩波文庫刊)の当該部を参考にした。問題は「鮐」の「あひ」という熊楠のルビであるが、そのままとした。但し、この「鮐」の音は「タイ」或いは「イ」であり、「あひ」という表記とは一致しない。仮に本邦の意義としても「ふぐ」或いは「さめ」他に「老人」の意である。「選集」では、この「鮐」には訓読した文(「選集」は漢文脈部分は原漢文を載せず、総て編者が勝手に訓読してしまってある。この訓読、時に原拠にちゃんと当たらずに、非専門家が勝手に訓読しているとしか思われない、誤読がしばしばあるのは甚だ困ったことだと考えている。今までの私の電子化注でも何度もそうした呆れかえる箇所が、多数、あった。次回に改修版を作る際は、専門家に総てチェックして貰うよう、強く要請するものである)の中で、能天気に「鮐(ふぐ)」と振ってある。それはしかし、私には近現代の解釈上の問題の内容に当てて都合よく読むためのお手軽な読みであり、出雲人たちや、「日本書紀」の記者たちが、そう発音していた、或いは、読んでいたとは、私にはそこまで能天気に読むことは、到底、出来ないのである。因みに、上記の黒板氏のそれでは、『鮐(えび)』と振ってある。「鮐」を「えび」と読む用例を知らないが、ここは大きさを示すのだから、寧ろ、ちょっと大きめの海老であってもおかしくはないとは言えるか。

『「和漢三才圖會」卷五十一にも、……』私のサイト版「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「すゞめうを うみすゞめ 綳魚」を見られたいが、私は、良安がそこで引いている元の李杲(りこう)「食物本草」及び「日本紀」の記述しているものは、

フグ目ハリセンボン科ハリセンボンDiodon holocanthus

若しくは、その近縁種である、

ネズミフグDiodon hystrix

ヒトヅラハリセンボンDiodon liturosus

イシガキフグChilomycterus reticulates

等を指しており、良安自身が記載している種は、眼上棘の記載に不審はあるものの、同フグ目の、

ハコフグ科コンゴウフグ属ウミスズメLactoria diaphana

若しくはその近縁種である、

シマウミスズメLactoria fornasini

コンゴウフグLactoria cornuta

等を指していると考えて間違いない、と比定した。今も私の比定は修正する必要を感じない。

『「本草啓蒙」卷四十には、ハリフグ、雲州、每年十二月八日、波風、暴《あら》く、此魚、多く打上げられ、又、唐津でも四月八日に、此魚、自ら陸《をか》に上り死す、と出て居る』とあるが、これは抄録切り張りで、引用とは言えないので、『 』で示すのをやめた。小野蘭山の「本草綱目啓蒙」には、無許可である弟子が編纂したものを含め、複数の版があるが、これと同文のものは見当たらないのではないかと思う。私は国立国会図書館デジタルコレクションの以下の二種を確認したが(リンクは南方の示した当該部相当箇所)、

「本草綱目啓蒙」四十一巻(文化二(一八〇五)年跋)「河豚」の項では、ここの右丁四行目下方から

で、

「重訂本草綱目啓蒙」同巻同前(弘化四(一八四七)年刊)では、ここの左丁五行目下方から

である。孰れも非常に読み易いので比較されたい。]

〔(增)(大正十五年九月記)大正十年十二月、紀州日高郡南部町(みなべ《ちやう》)日高實業學校女子校友會發行『濱ゆふ』に、由良興國寺寶物に、法燈國師傳來の九條袈裟あり、京極女院《にようゐん》一針三禮の作といふ。「俳諧歲時記」、二月事納め、武江の俗、二月八日、婦人は針の折れたるを集めて、淡島の社へ納め、一日、絲針の業を停《とど》む。是を針供養といふ。南部(みなべ)地方でも、お針屋で、折れ針を集めて、蒟蒻《こんにやく》にさし、之を海へ、はめる。之を針供養といふ、とあり。「話俗隨筆」蒟蒻の條(本書二〇八頁「紀州の民間療法記」)を參看せよ。〕

[やぶちゃん注:「紀州日高郡南部(みなべ)町日高實業學校」現在の和歌山県立日高高等学校・附属中学校(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の前身である和歌山県立日高高等女学校が大正三(一九一四)年に創立されているが、場所が異なるので違う。現行の和歌山県日高郡みなべ町はここ

「由良興國寺」和歌山県日高郡由良町(ゆらちょう)にある臨済宗妙心寺派鷲峰山(しゅうほうざん)興国寺。地元では「由良開山(ゆらかいさん)」と呼ばれて親しまれている。当該ウィキによれば、同寺は安貞元(一二二七)年、『高野山金剛三昧院の願生』(俗名は葛山景倫(かずらやまかげとも)が、『主君であった源実朝の菩提を弔うために創建したもので、創建時は真言宗寺院で西方寺と称していた。葛山景倫は承久元』(一二一九)年、『実朝の暗殺を機に出家』し、『実朝の生母』『北条政子は願生の忠誠心に報い、願生を西方寺のある由良荘の地頭に任命した』。『願生は親交のあった心地覚心(法燈国師)』(本文にも出るが、当該ウィキを参照されたい)『が宋から帰国すると、正嘉』二(一二五八)年に『西方寺の住職に迎えて開山とした。その後、後醍醐天皇より寺号の興国寺を賜ったという。覚心は、普化尺八を奏する居士』四『名を宋から連れ帰り、興国寺に住まわせたので、以後』、『当寺は普化尺八の本山的な役割を持つようになった。その弟子の一人、虚竹禅師(寄竹)が尺八の元祖といわれている』とある。

「京極女院」洞院佶子(とういんきつし/藤原佶子 寛元三(一二四五)年~文永九(一二七二)年)は亀山天皇皇后にして後宇多天皇生母。京極女院は女院号。二十八で早逝している。

「一針三禮の作」『濱ゆふ』は見出せなかったが、「紀州文化讀本」(南紀土俗資料刊行會編昭和二(一九二七)年刊)の渡辺みさを女史の「一針三禮」を見つけた。この左ページから、その謂われが記されてある。

「はめる」海に沈めるということであろう。

「淡島の社」ウィキの「淡島神」(あわしまのかみ)によれば、『和歌山県和歌山市加太の淡嶋神社』(ここ)『を総本社とする全国の淡島神社や淡路神社の祭神であるが、多くの神社では明治の神仏分離などにより少彦名神等に置き変えられている。淡島神を祀る淡島堂という寺も各地にある』。『婦人病治癒を始めとして安産・子授け、裁縫の上達、人形供養など、女性に関するあらゆることに霊験のある神とされ、江戸時代には淡島願人(あわしまがんにん)と呼ばれる人々が淡島神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻った事から信仰が全国に広がった』とある。

「針供養」当該ウィキを参照されたい。もう疲れた。

『「話俗隨筆」蒟蒻の條(本書二〇八頁「紀州の民間療法記」)』この指示しているのは、『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 紀州の民間療法記』の「補訂」部の「蒟蒻」に関わる記載だが、針供養とは関係がないので。参看する必要はない。]

2023/04/21

大手拓次 「冬のはじめ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 冬のはじめ

 

まどよりはひつてくる冬のことづて、

まづしさとくるしみのうへに

なほひとつの重荷をかさね。

さびしくさびしくこの心をそそけさす。

 

大手拓次 「とも寢の丘」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 とも寢の丘

 

雨のなかを裂いて鐘はきこえる、

まるくふとつた鐘のおと。

をか目するふたつの眼が始終わたしについてゐて、

きらりきらりと光る。

鬱屈したはだしの心は

血のやうな淚をながして

眞珠の戀をもとめる。

をとめよ、をとめよ、

おまへの豐頰にわたしの舌をうゑさしてくれ。

脣は野飼ひの馬のやうにあばれる、

薰香の熱氣は白い焰のしぶきをおこしてきほひたつ。

かなしいただひとりのをとめよ、

時劫の圈外に法樂(ほふらく)のとも寢の床をとらう。

ほころびるをかのうへに、

みどりの羽をおまへにきせてやらう。

 

[やぶちゃん注:「焰」の字は底本で使用されている字体である。

「をか目」「傍目」「岡目」。「をか(おか)」は「傍・局外」の意で、「他人の行為を脇から見ていること・局外者の立場から見ること・傍観」の意であるが、今は「傍目八目」(おかめはちもく)位でしか使わないだろう。

「時劫」「じごふ(じごう)」「じこふ(じこう)」で、「劫(こふ)」は「極めて長い時間」の意であり、「永遠に続く時間」のこと。]

大手拓次 「𢌞廊のほとり」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 𢌞廊のほとり

 

なにごころなく眼をとめれば、

すみなれた𢌞廊のめぐりにはつねに白衣の行列がゆき交(か)うてゐる、

うすい影のやうでありながら消えもしないで、

つながりつながりつづいてゐる。

𢌞廊の内がはには瘦せた鼠色の衣をきた女がひとり、さまよひながら見とれてゐる。

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 四六番 島の坊

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。なお、本篇の附記は特異的に長く、類型話が紹介されているので、ポイント落ちはやめにして(底本では一行目のみ本文相当一字下げで、二行目以降は全体が二字下げである)、本文と同じポイントで頭の一字下げのみを再現し、後は行頭まで引き上げてある。]

 

      四六番 島の坊

 

 昔の話である。閉伊郡山田の關口(セキグチ)の岩窟(イワヤ)の中に、何處から來たか一人の大入道が來て住んで居た。桐の御紋の附いた鍋などを持つて居て、誰云ふとなく島の坊と呼んで居た。

 ある時土地の者どもが、坊の留守中に岩窟へ行つて、鍋の中に糞などをして惡戯をして歸つた。すると坊は甚(ヒド)く怒つて、山田の町に下つて來て放火をしたりして暴れ廻つた。そこで捨て置けず捕手《とりて》が差し向くと、坊は大きな棒を手にして一枚齒の高足駄を履いて、町屋の屋根などを自由自在に飛び步き、その態(サマ)はまるで神のやうであつた。けれども遂に衆人のために撲り殺されてしまつた。

 ところが其れからは濱に漁が無かつた。誰云ふとなく島の坊の怨靈の祟りだと云ふやうになつて、大島といふ所に葬つた屍體を掘り起して、大杉神社に移して祀つた。後には專ら漁夫の神となつた。

 (これは山田町佐々木喜代治氏の談である。大正九年八月二十二日の夜聽いた。然し之れは矢張りトウセン坊系統の御靈《ごりやう》信仰から出た譚であらう。今次《ついで》に奧州に殘つて居るトウセンボウの話の荒筋を記して見る。昔稈貫郡[やぶちゃん注:ママ。「稗貫郡」(ひへぬきぐん)の誤字か誤植。]の高松《たかまつ》の高松寺《かうしやうじ》と云ふに宗元と云ふ坊が居た。性來の愚鈍で、聖經《しやうきやう》を學んでも更に一字一點も暗《あん》ぜない[やぶちゃん注:暗誦出来ない]。宗元は一層《いつそ》のこと學問等は止《よ》して、別の道で、天下後世《こうせい》に名を擧げた方が近道だと思つて、靈驗無双の聞えの高い、寺内の觀音堂に行つて、私に天下無双の大力を授け給へと百日の願をかけた。すると滿願の曉に觀音樣からいろいろな戒《いまし》めがあつたあげく、手毬《てまり》の精《せい》なる物を投げてよこされたので、其れを取つて服《ぶく》すると思つて、夢から覺めた宗元は、これはいよいよ俺は力を授《さづか》つたのだなアと思つて、試みに庭へ下りて、力足《ちからあし》を踏んで見ると、足は大地に一尺ばかりも踏み込んでしまつた。

其後諸人と力を爭ふて見るが何人《なんぴと》も宗元に勝つ者がなかつた。方々《はうばう》の田の草相撲《くさずまふ》では宗元の爲に小脛《こはぎ》を折られたり肋骨(アバラボネ)を摑み挫《くだ》かれて死んだりする者が多く出るので、後《のち》には鬼元《おにげん》と言ふて誰も相手にする者がなかつた。

爰に三月二十五日は高淸水の天神樣の祭禮であるによつて、年每に方々の村々から諸人群集して押し寄せる。宗元も見物しやう[やぶちゃん注:ママ。]と出かけて行つた。此の邊《あたり》は春が遲いから、恰度《ちやうど》桃櫻の花盛り、人々は喜びさざめいて居るけれども、宗元はもとより連れもないから、社《やしろ》の傍らへ廻り人目を憚つて、其所にある一抱許《ひとかかへばか》りもあらうと思はれる櫻の老木をやおら捻《ね》ぢ折り、地上に伏せて其の上に悠々と、腰をかけて知らん振りをして向ふの方《はう》を眺めて居た。諸人はそれが宗元のわざだとは氣が付かぬから、ハテ不思議なこともあればあるものだ。今朝までは何事もなかつた此の木が、何故《なぞ》にかく折れたであらう、怪しい怪しいとて人々が大勢寄つて來て、宗元のやうに木に腰をかけたり、若者や童子は花の小枝[やぶちゃん注:底本「小板」。誤植と断じ、「ちくま文庫」版で訂した。]を折らうとして、爭つて木にたかつた。それを宗元は默つて見て居たが、いゝかげんに人だかりのした頃を見計らつてサラリと腰を外(ハヅ)すと、其の樹が元のやうに起き直るはづみに、其の樹に取りついて居た多くの人々は老若《らうにやく》共に中天に打ち上げられて、礫《つぶて》のやうに吹ツ飛んだ。

 萬人肝をつぶして宗元の仕打を憎み憤つたけれども、鬼神のやうな男であるから、一人も手出しをする者がなかつた。その樣な事が度重《たびかさ》なり自分の力を自慢しての惡業も積り積つたので、鄕人に嫌はれ相手にされなくなつた。宗元も流石に高松の居住《ゐずまひ》が面白くなくなつたので、一山《いちざん》に名を得た稚兒(チゴ)を一人盜み出して秋田の仙北《せんぼく》へ立ち越えた。それから又能登の石動(イスルギ)の山に行つてトウセン坊と名乘つて居たが、其所にも永住が出來ず、越前の三國(ミクニ)の浦に行つて居た。此所でもいろいろな惡業ばかりしていたので、里人はどうして之れを除《のぞ》かうかと相談した結果、四月八日の花見に事寄せ、濱の者大勢が打ち連れて宗元を誘ひ出し、絕景な海岸の斷崖の上の巖《いはほ》の上に登つて、酒盛をした。兼ねての計畫であるから宗元には皆でウント酒を飮ませて、千鳥足になつた時分を見計《みはか》らひ、景色を眺める風《ふう》をして宗元を巖頭《がんとう》に誘ひ出した。そして宗元が何氣《なにげ》なく海の景色を見て居るところを剛《かう》の者八人がかりでいきなり背後から不意を喰《くら》はせると、宗元は心得たりとて左右にそれらの人間を搔き抱《いだ》いて海の藻屑と消え失せた。このトウセンボウの怨靈《をんりやう》が、その入水《じゆすい》した四月八日前後に北國の海面を吹き荒らすのだと謂ふのである。(吾妻昔物語、トウセン坊風《ばうのかぜ》の由來摘要。)

[やぶちゃん注:「閉伊郡山田の關口(セキグチ)」現在の岩手県下閉伊郡山田町山田関口附近(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)のどこか。拡大して少し西を見ると、山深い関口不動尊奥宮の西方から関口川が流れており、それが下って、大島(現在の岩手県下閉伊郡山田町船越地区に属する。本文に出る「大島」であろうか?)を浮かべる山田湾に注いでいることが判る。

「岩窟(イワヤ)」所在不詳。しかし「山田の町に下つて來て」とあることから、関口川の上流か、或いは、もっと下った、現在の「関口」バス停のある附近にあるか、あったか?

「大杉神社」ここ。関口川河口直近の右岸にある。地図上に、その東の海辺に「大杉神社例大祭海上渡御」というポイントが作られているのが見てとれるが(サイド・パネルで山田湾の海上を渡御する神輿の写真がある)、サイト「いわて文化情報大事典」の「山田八幡宮祭典・大杉神社祭典」の「山田八幡宮祭典・大杉神社祭典」のページに、九月十四『日は山田八幡宮例祭』(ここ)、翌十五『日は大杉神社例祭という』二『日間の祭りである。目玉は町中を走り回る暴れ神輿』で、二『日目の大杉神社の神輿は、山田湾内を渡御したあと、船にのり』、『明神崎へ参る迫力ある祭り』であるとあり、さらに、「祭りの起源・由来」の項には、まさに、『天命』天明(一七八一年~一七八九年の誤りか)『年間に放浪の修験者が殺される事件があり、以後、不漁続きとなった』ことから、その『怨霊を慰めるため』、『祠をたて、漁の神とした。これが大杉神社。以来、海上安全と大漁を祈っての祭りとなった』とあり、まさに正しくこの大杉神社は、「異人殺し」に基づく御霊信仰から発していることが確認出来る。御霊信仰は菅原道真が最も知られ、平将門・崇徳院・鎌倉権五郎景正などのそれがよく知られる、私の最も興味を持っている荒神・鬼神を祀ることでその災厄を封じ込める巧みな信仰形態である。御存じない方は、当該ウィキを見られたい。

「稈貫郡」は注した通り、稗貫郡(ひえぬきぐん)で、現在の花巻市の一部に相当する。旧郡域は当該ウィキの地図を参照されたい。

「高松の高松寺」岩手県花巻市円万寺にある高松寺(こうしょうじ)であるが、事実上の本来の高松寺は、おぞましい廃仏毀釈によって寺としては存続しておらず、岩根神社及び白根神社に分割されてしまっている。この山(観音山)に江戸時代にあったそれは、真言宗醍醐派の大寺院であった。

「小脛」狭義には「捲くり上げた袴の裾から少し見えている脛(すね)の部分」を言うが、ここは脛でよい。

「高淸水の天神樣」これは佐々木の誤読であろう。先に言ってしまうと、最後に引用元として示す「吾妻昔物語、トウセン坊風《ばうのかぜ》の由來」は、国立国会図書館デジタルコレクションの『南部叢書』第九冊(昭和三(一九四八)年刊)に載る本書の「解題」によれば、「吾妻むかし話」は京都の医師で絵もよくした松井道円の著になる民譚・逸話集で、松井は元禄の初めに漫遊の旅に出て、南部藩の花巻に至り、藩主南部重信の一門であった南部直政の命を承けて、花巻城内の「松の間」・「菊の間」の襖絵を写して名声を挙げ、また、歴史を好み、文筆にも長じ、特に、広く地方の伝承・伝説・逸事を聴いて記すことを好んだことから、南部の異聞を蒐集し、旅の途中の他国の物語をも併せ書いたものであった。同書は別に「古咄伝記」「東奥古伝記」とも称し、また、元禄一一(一六九九)年九月に南部藩士藤根吉晶の筆録したものとする異説もある、とあった。当該話は「上之卷」の「第二 とうせん坊の風の由來」で、ここから視認出来る。なお、その冒頭の「とうせん坊」の割注には、『謠』(うたひ)『幷』(ならびに)『西國盛衰記』では、『東心坊』とある。古文が苦手な方には、サイト「3分で読める!昔話の簡単あらすじ」の「【とうせん坊】昔話のあらすじをサクッと簡単にまとめてみた!」が、なかなかしっかり判り易く解説も含めてよく出来ているので、どうぞ! なお、既に大方の方はお気づきであろうが、附記の最後の「断崖」から突き落とすというロケーションは、福井県坂井市三国町安島の名所東尋坊のことであろうし(私は高校三年の遠足で一度だけ行ったことがある)、されば、「とうせん坊」とは「東漸坊(とうぜんばう)」ではなかったかと推理されるのである。さて、話を元に戻すと、以上の「高淸水の天神樣」の当該部はここの二行目であるが(【 】は二行割注)、

   *

斯波【○志和】郡高水寺の鎭守天神の會日[やぶちゃん注:「ゑにち」。]【○志和の文珠會】なり

   *

とあるからである。この場所は現在の岩手県紫波郡(しわぐん)紫波町(しわちょう)高水寺(こうすいじ)なのだが、以上の引用からみて、これは神仏習合時代の鎮守の天神と文珠菩薩の祭日であり、現在の高水寺地区を見るに、高水寺はここにあり(しかし、ネット上に情報が少なく、現在の宗派さえ判らなかった)、その北直近に木宮(きのみや)神社がある。「紫波町観光交流協会」公式サイト内の同神社のページに境内社として天満宮があるから、或いは、江戸時代には高水寺は木宮神社の別当寺であった可能性はあろう。

「秋田の仙北」現在の秋田県の南東部にある仙北市。山越えにはなるが、秋田市より岩手県の雫石や盛岡の方が、直線的には近い。

「能登の石動(イスルギ)の山」石川県鹿島郡中能登町石動山(せきどうざん)にある石動山(せきどうさん)。「いするぎやま」或いは「ゆするぎやま」は、その古名とするが(当該ウィキを見よ)、私は富山県高岡市伏木にいた六年間、誰も「せきどうさん」とは呼ばず、「いするぎやま」と呼んでいたがなぁ?

「越前の三國(ミクニ)の浦」福井県坂井市三国町地区。東尋坊の周辺広域。]

下島勳著「芥川龍之介の回想」より「芥川龍之介の書𤲿」

 

[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載によれば、昭和一〇(一九三五)年三月九日発行の『文藝春秋』初出で、後の下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。

 著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た(但し、単行本刊行時期のため、正字と新字が混淆してはいるので、そこにはママ注記を入れた)。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。一部に注を挿入した。また、本篇にはルビが一切ないが、なくても概ね読めるが、一応、若い読者のために、ストイックに《 》で推定で歴史的仮名遣で読みを振った。なお、「𤲿」と「畫」の混在はママである。]

 

芥川龍之介の書𤲿

 

 文士學者必ずしも書𤲿の愛好者ではあり得ない。現代の文士殊に小說家には、案外この方面に無頓着といふより寧ろ、かういふものを輕視したり、或は强ひて近づけない人すらあるかのやうに思はれるが、それむあながち理由のないわけではないらしい。

 芥川君も藝術感情からは、化政度の文人趣味などを單なる道樂といふ點から輕蔑の餘り「妄に予を以て所謂文人と倣《みな》すことなかれ。予を以て詐僞師と倣すは可なり。謀殺犯人となすは可なり。やむを得ざれば大學敎授の適任者と做すも忍ばざるにあらず。唯幸ひに予を以て所謂文人と倣すこと勿れ。十便十宜あるが故に、大雅と蕪村とを竝稱するは所謂文人の爲す所なり」と憤慨してゐる。

[やぶちゃん注:「化政度」「化政文化」を指す。江戸後期の文化・文政時代(一八〇四年~一八三〇年)を最盛期として、江戸を中心として発展した町人文化。当該ウィキによれば、『浮世絵や滑稽本、歌舞伎、川柳など、一般に現代に知られる江戸期の町人文化の全盛期にあたり、国学や蘭学の大成した時期でもある。広義の定義では』、十八『世紀後半から』十九『世紀前半の非常に長い期間を含む場合がある』とある。

「「妄に予を以て所謂文人と倣すことなかれ。……」この引用は、大正一三(一九二四)年二月発行の『中央公論』に発表した「梅花に對する感情」(添題「このジヤアナリズムの一篇を謹現嚴なる西川英次郞君に獻ず」)の第四段落の途中の一節だが、所持する岩波旧全集で校合したところ、引用に不全がある。第四段落全体を示しておく。

   *

 予の梅花を見る每ごとに、文人趣味を喚び起さるるは既に述べし所の如し。然れども妄に予を以て所謂文人と做すこと勿れ。予を以て詐僞師と做すは可なり。謀殺犯人と做すは可なり。やむを得ずんば大學敎授の適任者と做すも忍ばざるにあらず。唯幸ひに予を以て所謂文人と做すこと勿れ。十便十宜帖あるが故に、大雅と蕪村とを竝稱するは所謂文人の爲す所なり。予はたとひ宮せらるると雖も、この種の狂人と伍することを願はず。

   *

以上の「十便十宜帖」(歴史的仮名遣「じふべんじふぎでふ」)は、所持する筑摩全集類聚版「芥川龍之介全集」第四巻の注に、『清の文人李笠翁が山地に庵を結び、山居に十便と十宜があることを説いた』(というより、「作った詩の」である。ウィキの「十便十宜」を見られたい)『故事により描』かれた画題で、『この題で大雅と蕪村との合作がある』とあるものを指す。なお、この一篇は、同年九月十七日に刊行した随筆集「百艸」に収録する際し、他に十三篇を合わせて、総標題を「續野人生計事」として、その「十一」に所収させてある。私は、正編「野人生計事」はサイト版で古くに電子化注しており、「續野人生計事」の幾つかも、独立して電子化してあるが、残念なことに、本篇は洩れている。新字であるが、「青空文庫」に「百艸」のそれが纏めて電子化されてあるので参照されたい。]

 彼は「文學好きの家庭から」の中で「私の家は代々舊幕臣、卽ち御奥坊主だつた、父も母も甚特徴のない平凡な人間です」などと云つてゐるが、どうしてどうして、父君はもと官吏で、一中節・圍碁將棋・盆栽・俳句などのほか、ときに南𤲿の山水を描き、彫刻までやるといふ器用な通人肌の老人であつた。

[やぶちゃん注:「文學好きの家庭から」大正七(一九一八)年一月発行の雑誌『文章倶樂部』初出。これは私のサイト版の古い電子化注があるので見られたい。そこで注したものは、ここでは繰り返さない。

「父君」養父芥川道章(どうしょう 嘉永二(一八四九)年~昭和三(一九二八)年)は、龍之介を預かった際には東京府内務部技手二級判人官であった。]

 母君といふのは、鷗外先生の筆によつて有名になつた幕末の大通、津の國屋兵衞即ち津藤で通つた人の姪である。ことによると鳶魚先生あたりでさへ、一寸油斷が出來ないほどの江戶通だつた。然もまた其伯母は、彼《か》の有名な木挽町狩野家の一族、狩野勝玉に嫁《か》してゐる。この勝玉は明治の大家狩野芳崖・橋本雅邦と同門の親友だつたが、惜しむべし早世してゐるらしい。猶早世した叔父の一人は、判事としてよりも、南𤲿家として有名な河村雨谷に就て南𤲿を學んだ人ださうである。

[やぶちゃん注:「母君」養母芥川儔(トモ 安政四(一八五七)年~昭和一二(一九三七)年)。

「津の國屋兵衞即ち津藤で通つた人」細木香以。ここは私の「芥川龍之介 孤獨地獄  正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附」を参照されたい(前のリンク先はサイト版であるが、他に同PDF縦書版、及び、同ブログ版も用意してある)。

「狩野勝玉」(かのうしょうぎょく 天保一一(一八四〇)年~明治二四(一八九一)年)は日本画家。駿河出身。深川水場町狩野家の狩野貞信(梅春)の子。名は昭信。狩野雅信(ただのぶ)に学び、維新後は内務省地理局雇となり、外国に贈る屏風などを制作した。また、フェノロサの新日本画創造運動にも加わり、狩野芳崖・橋本雅邦・木村立岳(りゅうがく)とともに「勝川院門下の四天王」と称された。享年五十二であるから、「早逝」と言うのは如何か。芳崖と雅邦は調べれば、すぐ判るので、注さない。

「河村雨谷」姓名は川村雨谷(天保九(一八三八)年~明治三九(一九〇六)年)が正しい。江戸出身。名は応心。司法官にして画家。慶応元(一八六五)年、長崎奉行支配定役となり、在任中に木下逸雲・鉄翁(てっとう)祖門に文人画を学んだ。明治二(一八六九)年、刑部(ぎょうぶ)省に務め、大審院判事に進んだ。明治三一(一八九八)年の退官後は、文人画界の重鎮として活躍した。]

 一體私がなぜかやうなことを擧げるかといへば、元來趣味などといふものは。天禀《てんぴん》の性情はさることながら、多くはその環境から生れて來る情操的なもので、かういふ血緣と家庭に育くまれた芥川君の文學者になつたのも寔《まこと》に自然なことでもあり、又假りに𤲿家となつゐたとしてからが、決して不自然ではなからうと思はれるからである。

 芥川君は既に「我が家の古玩」の中で――「蓬平《ほうへい》作墨蘭圖一幀《いつたう》、司馬江漢作秋果圖一幀、仙厓作鐘鬼圖一幀、愛石の柳陰呼渡圖一幀、巢兆《さうてう》、樗良《ちよら》、蜀山、素檗《そばく》、乙二《おつに》等《ら》の自詠を書せるもの各《かく》一幀、高泉《かうせん》、慧林《ゑりん》、天祐《てんいう》等の書各一幀、――わが家《や》の藏幅はこの數幀のみなり。他《た》にわが伯母の嫁《とつ》げる狩野勝玉作小楠公圖《せうなんこうづ》一幀、わが養母の父なる香以の父龍池《りゆうち》作福祿壽圖一幀等《とう》あれども、こはわが一族を想ふ爲に稀に壁上に揭ぐるのみ。中略――[やぶちゃん注:この「中略――」は下島の注。]。われは又子規居士の短尺の如き、夏目先生の書の如き、近人の作品も藏せざるにあらず、然れども未だ古玩たらず。(半ば古玩たるにもせよ)」といつてゐる。

[やぶちゃん注:「我が家の古玩」正しくは「わが家の古玩」。遺稿。旧全集では末尾に編者による『(昭和二年)』のクレジットがある。「青空文庫」のこちらで新字であるが、全集類聚版底本のものが読める。

「蓬平」佐竹蓬平(寛延三(一七五〇)年~文化四(一八〇七)年)は画家。信州下伊那郡生まれ。名は正夷。池大雅に文人画を学び、また、篆刻にも優れた。天明三(一七八三)年、肥前長崎から肥後熊本などに遊び、一時は上野(こうずけ)沼田に住んだが、晩年は郷里信濃の飯田で過ごした。

「愛石」(生没年未詳)は江戸後期の画僧。紀伊生まれ。名は真瑞。文化・文政の頃に活躍した。野呂介石(のろかいせき)に学び、池大雅の画風を慕った。水墨・淡彩の山水画を得意とした。

「巢兆」建部(たけべ)巣兆(宝暦一一(一七六一)年~文化一一(一八一四)年)は俳人・画家。江戸生まれ。名は英親。加舎白雄(かやしらお)に俳諧を学び、夏目成美・鈴木道彦とともに「江戸俳諧の三大家」と称された。また、谷文晁の門人でもあり、書にも優れた。

「樗良」(享保一四(一七二九)年~安永九(一七八〇)年)は俳人。鳥羽生まれ。本名は三浦元克。俳諧を百雄(ひゃくゆう)に学び、蕪村一派とも交わり、俳壇の重要な位置を占めた。

「蜀山」太田蜀山人南畝。

「素檗」藤森素檗(宝暦八(一七五八)年~文政四(一八二一)年)は俳人。濃上諏訪生まれ。名は由永。油商人。父や同地の俳人に手解きを受け、後に加藤暁台(きょうたい)・井上士朗に学んだ。同郷の「奥の細道」で芭蕉に同行した河合曾良の百回忌に記念集「續(ぞく)雪まろげ」を刊行。俳画にも優れた。

「乙二」岩間乙二 (宝暦六(一七五六)年~文政六(一八二三)年)は俳人。陸奥白石(現在の宮城県)の千手院住職。本姓は亘理(わたり)、名は清雄。俳諧は父に学び、江戸で夏目成美・鈴木道彦らと交わった。東北・蝦夷地を巡り、箱館で『斧の柄社』を結成し、同地の俳壇の指導に当たった。与謝蕪村に私淑し、最初の蕪村注釈書「蕪村発句解」を著わしたことで知られる。

「高泉」高泉性潡(こんせんしょうとん 一六三三年(寛永十年相当)~元祿八(一六九五)年)は江戸前期に渡来した黄檗宗の帰化僧。姓は林。明の福建の生まれ。慧門の法を受け、来朝して山城に仏国寺を創建、後に黄檗山万福寺第五世を継ぎ、黄檗山中興の祖とされる。「慧林」慧林性機(えりんしょうき 一六〇九年(慶長十四年相当)~天和元(一六八一)年)は明からの黄檗宗の渡来僧。福建省生まれ。四十一歳で出家し、四十六歳の時、かの隠元隆琦に從って来日した。摂津豊島(てしま)郡仏日寺の住持となり、隆琦の法を継いだ。延宝八(一六八〇)年、山城万福寺三世となっている。所持する「筑摩書房全集類聚版「芥川龍之介全集」の注では、江戸中期の浄土真宗本願寺派の僧で西本願寺学林四世能化を務めた法霖(ほうりん 元禄六(一六九三)年~寛保元(一七四一)年)を比定しているが、彼は「慧琳」であり、しかもそれは諱であるから、私はとらない。

「天祐」天祐思順(生没年未詳)は鎌倉時代の臨済僧。当初は天台宗を修学し、宋に渡り、十三年間、修行し、大慧派の北礀(ほくかん)居簡の法を嗣いだ。帰国後、京に勝林寺を開いた。通称は真観上人。「筑摩」版もこの人物に比定している。しかし、龍之介は「高泉、慧林、天祐」の順に非時系列に並べてあるところは、何だか、ちょっと違和感がある。]

 然し、猶、このほか先代より傳はるものや、支那から持ち歸つたものなどもあるのだから古人の意志如何に拘らず、古玩と新玩とを問はず、この機會に私の知つてゐるもののあらましを記すことにした。尤も假に生前人に贈つたもので、その出所と人名のわかつてゐるもの、また現在保存されてゐるもので其出所のわかつてゐるものは、それも略記することにした。

 一、龍池作福祿壽圖一幅

 一、勝川法眼《ほふげん》雅信𤲿一幅。

[やぶちゃん注:「勝川法眼雅信」先に出た狩野雅信と同一人物。「勝川」は号の一つ。弘化元(一八四四)年に法眼に叙せられている。]

 一、狩野松玉作小楠公ほか三幅。

 一、谷文晁咋鍾馗圖一幅。母君所藏たりしもの。

 一、曰(わく[やぶちゃん注:ルビ。])人作蛙の圖二幀。現在保存の一點は額仕立にて自身東京にて買ひしもの、他の軸物一點は、岸浪百草居より贈りしを更に室生犀星君に贈りしもの。

[やぶちゃん注:「曰人」遠藤曰人(あつじん 宝暦八(一七五八)年~天保七(一八三六)年)は俳人。本姓は木村。陸奥仙台藩士。松尾芭蕉の門人らの伝記「蕉門諸生全伝」を編集したことで知られる。門人は数千人と言われた。詩文・書画もよくした。ルビの誤植か。]

 一、愛石作山水圖一幅。京都或は東京で買ひ受けしもの。

 一、安田老山作松溪山水圖一幅。父君の得られりもの。

[やぶちゃん注:「安田老山」(文政一三(一八三〇)年~明治一六(一八八三)年)は画家。美濃生まれ。名は養。長崎で鉄翁(てっとう)祖門に学び、元治元(一八六四)年、清に渡り、胡公寿に師事した。明治六(一八七三)年に帰国、東京に住んだ。文人画に優れた。]

 一、兒玉果亭作梅溪山水圖一幅。父君の得られしもの。

[やぶちゃん注:「児玉果亭」(天保一二(一八四一)年~大正二(一九一三)年)は日本画家。信州渋温泉生まれ。名は道広。明治一三(一八八〇)年、郷里に竹僊山房を作り、おおくの弟子を育てた。]

 一、河村雨谷作墨蘭二幅、山水圖二幅、蘆雁二幅、其他一點。亡叔父の得たるもの。

 一、釋宗演書二幅。父君の得たるもの。

[やぶちゃん注:「釋宗演」(安政六(一八六〇)年~大正八(一九一九)年)は明治二五(一八九二)年に満三十二の若さで臨済宗瑞鹿山円覚興聖禅寺(藪野家菩提寺)管長となった人物。若狭国大飯郡高浜村生まれ。出家前の俗名は一瀬常次郎。日本人僧として初めて「禅」を「ZEN」として欧米に伝えた禅師としてよく知られ、山岡鉄舟や福沢諭吉らと親しく、夏目漱石は禅の弟子であり、漱石の導師も彼が勤めた。]

 一、成拙書一行一幅。自身得たるもの。

 一、夏目漱石書二幀。一は額。一は幅。

[やぶちゃん注:「額」は「風月相知 漱石」の書額。『小穴隆一 「二つの繪」(5) 「自殺の決意」』の私の注で画像を掲げてある。]

 一、菅白雲額一幀。自身請ひ受けしもの。

[やぶちゃん注:「菅白雲」芥川龍之介の一高時代の恩師でドイツ語学者・書家の菅虎雄(すがとらお 元治元(一八六四)年~昭和一八(一九四三)年)の号。名物教授として知られた。夏目漱石の親友で、芥川龍之介も甚だ崇敬し、処女作品集「羅生門」の題字の揮毫をしたことで知られる。「芥川龍之介書簡抄19 / 大正二(一九一三)年書簡より(6) 十一月十九日附井川恭宛書簡」の私の注を参照されたい。]

 一、齋藤茂吉自詠書三四幅。他に壱碧童句讚一幅。

[やぶちゃん注:「碧童」芥川龍之介最年長の友人で「入谷の兄い」と呼んだ俳人の小澤碧童。]

 一、子規居士短册一點。たしか香取秀眞《ほつま》君より贈られしもの。

[やぶちゃん注:「香取秀眞」芥川家の隣人にして知られた鋳金工芸作家。]

 一、井月稻の花句切れ一點。

[やぶちゃん注:井上井月の知られた一句ならば、「駒ヶ根に日和定めて稻の花」である。]

 一、下島空谷澄江堂書額一幀。

 一、董九如作山水橫物二幅。自身長崎にて得しもの。

[やぶちゃん注:「董九如」(延享二(一七四五)年~享和二(一八〇二)年)は幕臣で画人。本姓は井戸で、名は直道・弘梁。宋紫石(そうしせき)に学んで、清の沈南蘋(しんなんぴん)風の花鳥画に優れ、晩年は墨竹を描いた。]

 一、金冬心人物橫物二幅。支那にて得たるもの、一幅は百草居に贈しかと思ふ。

[やぶちゃん注:「金冬心」清代の文人で「揚州八怪」の一人である金農(一六八七年~一七六三年)の号。一生を処士として終わったが、古代の美を愛賞し、その詩文・書画総てに高尚な趣を示す。

「百草居」日本画家岸浪百草居(きしなみひゃくそうきょ 明治二二(一八八九)年~昭和二七(一九五二)年)。館林生まれ。龍之介が親しかった日本画家小杉放菴(未醒)と親しかったので、その関係で知り合ったものであろう。]

 一、吳昌碩作墨蘭圖一幅。上海にて直接買ひしもの、晚年室生犀星君に贈る。

[やぶちゃん注:「吳昌碩」(一八四四年~一九二七年)は清末から近代にかけて活躍した画家・書家・篆刻家。「清代最後の文人」と称され、詩・書・画・篆刻ともに精通し、「四絶」と称賛された、中国近代で尤も優れた芸術家と評価が高い人物である。]

 一、陳寶琛《ちんほうちん》詩一幅。芥川仁兄正書陳寳琛と署するもの。(陳寳琛は支那第一の學者と稱 せられ、滿洲國皇帝の師傅《しふ》たりし人。北京滯在中訪問して古書𤲿なども見せて貰ひ、書を請ふたところ、二三日すると良紙を得る筈だからといつて書いて贈られた立派な書幅である)

[やぶちゃん注:「陳寳琛」(一八四八年~一九三五年)は清末の官僚・詩人・歴史家。私の「芥川龍之介漢詩全集 二十七」の注を参照されたい。

「師傅」養育係。]

 一、鄭孝胥詩書一幅。芥川仁兄大雅辛酉暮春孝胥と署したもので、北京で書いて贈られしもの。

[やぶちゃん注:「上海游記 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」の「十三 鄭孝胥氏」を参照されたい。]

 「我家の古玩」の中に蓬平の墨蘭は、北原大輔君が贈つたもので、蓬平は池大雅の門人の一人だが、芥川君は大雅の氣魄ありとして珍重し、遺書により小穴隆一君に贈つたものである。江漢の秋果圖橫物は、何處で得られたか不明だが恐らく東京かも知れぬ。仙厓の鍾馗圖は、長崎の永見德太郞君から余ほど犠牲を拂つて得たもののやうに聞いてゐる。蜀山人の狂歌の幅は、確か小澤碧童君の贈つたものではないかと思つてゐる。巢兆・樗良・素檗・乙二などは多く俳書堂の賣立《うりたて》で入札したもののやうである。慧林、天祐の書幅は、京都で得たものと記憶してゐる。高泉の軸は、大正八年二月ある靑年𤲿家の手から風外の達磨と天祐の大橫物と同時に私の手に這入《はい》つたものだが、天祐は自笑軒の主人が是非にといふのでお讓りし、高泉は芥川君が欲しいといふのでお讓りしたもので、芥川君が自身で幅物を得られた最初のものである。

[やぶちゃん注:「北原大輔」「古織部の角鉢」で既出既注

「永見德太郞」(明治二三(一八九〇)年~昭和二五(一九五〇)年)は劇作家・美術研究家。長崎生まれで生地で倉庫業を営んでいた。俳句・小説を書く一方、大正八(一九一九)年五月に最初に芥川龍之介が長崎を訪れた際に宿所を提供して以来、親交を結んでいた。南蛮美術品の収集・研究家としても知られた。龍之介より二歳年上。

「賣立」売立会。入札会・競売のこと。書肆「俳書堂」の譲渡に至る内情の話は、OdaMitsuo氏のブログ「出版・読書メモランダム」の「古本夜話1164 高浜虚子、俳書堂、『ホトトギス』」に詳しい。

「風外」風外本高(ふうがいほんこう 安永八(一七七九)年~弘化四(一八四七)年)は曹洞僧。俗名は東泰二。池大雅の書画に私淑した画僧でもあった。]

 愛石の柳蔭呼渡の圖は、或とき私の所へ遊びに來て、懸つてゐたこの軸に惚れこみ、望むがまゝに献上したものである。これは装幀が傷んでゐたのを新しく仕替へ、桐の箱まで作つて私が箱書までしたのであるが、自決當時その室に懸つてゐたといふ、因緣淺からぬ軸なのである。

 芥川君は、大正五年に大學を出られて二三年の間は(一寸學校の英語の先生もしてゐられたが、間もなくやめた)、勿論既に新進氣銳の鏘々《さうさう》[やぶちゃん注:「錚々」に同じ。]たる靑年文士には違ひなかつたが、より以上にあの恐るべき讀書力を以て東西殊に西洋の書物を讀破したもので、その知識慾の旺盛なることは大旱《たいかん》の雲霓《うんげい》にも比すぺきもの凄さだつた。だから繪𤲿や藝術に關する書物をも讀むばかりでなく、ルネツサンス前後から近代に至る有名な繪𤲿の寫眞や複製を買ひ集め(その國の本屋にまで註文して取り寄せ)その知識慾を充たしたものだつた。併し如何に天才兒芥川君も、反《かへつ》てお膝もとの我邦や支那の繪𤲿に就ては、まだまだ幼稚なもので、私のやうなものの話にさへ熱心に耳を傾けられたものである。とは云ヘ、さすがあの天禀《てんりん》をもつて、漱石の門に出入してゐたのだから、幼稚なりに違つてゐたのは勿論である。

[やぶちゃん注:「大旱の雲霓」「ある物事を強く待ちこがれること」の喩え。「孟子」の「梁恵王下」の一節に、「善政を行ってくれる君主を庶民が待ち望んでいることを、『大旱の雲霓を望むがごときなり(ひどい日照りの際に、雨の前兆となる雲や、日暈(ひがさ)を待ち望むのと同じことである)」と喩えたことによる故事成語。]

 大正七年の暮に私が神田の本屋で手に入れた、十便十宜の最初の複製書帖の大雅の𤲿を見て、彼は非常な衝動を受けたのである。といふのは、專らといつていゝくらゐ西洋𤲿の方にのみ氣を奪はれてゐた眼に、思ひも設けぬあるものを發見したからであらう。確か翌大正八年芝の雙軒庵で十便十宜の原帳を見て、今更ながらその駭きを新たにし、同時に蕪村との[やぶちゃん注:「の」は欠字で空白。推定で補った。]對比を心ゆくまで味つたのである。猶このとき多數の竹田《ちくでん》や草坪《さうへい》、山陽《さんやう》なども展ぜられてゐたので、我邦南𤲿の粹を觀賞することが出來たわけである。

[やぶちゃん注:「雙軒庵」実業家で書画骨董を趣味とした松本枩蔵(まつぞう 明治三(一八七〇)年~昭和一一(一九三六)年)の号。彼は後の昭和六(一九三一)年に先に彼が専務取締役であった九州電気軌道の株主の一人から横領罪・背任罪で訴えられ(起訴猶予)、枩蔵から九州電気軌道から収受した書画・骨董品は、売立会にかけられている(ウィキの「松本枩蔵」を参照した)。

「草坪」南画家高橋草坪(享保二(一八〇二)年頃~天保四(一八三三)年頃)は豊後杵築 の商家の出。名は雨。 十九歳の時、田能村竹田の門に入り、師とともに旅を重ね、画技を磨いて、門弟中、最も嘱望されていたが,胸を病み、竹田に先立って早世した。

「山陽」頼山陽。]

 その後翠軒あたりで得た支那𤲿の複製や、我邦で開かれた支那𤲿展の複製𤲿帖、我邦古代繪卷、古𤲿の複製を買ふばかりでなく、(博物館あたりで實物も勿論多少見てゐる)木版の浮世繪の會にまで這入つたのだから、如何に知識慾の旺盛だつたかを窺ふこと出來よう。

 かくてこの天才兒は、不思議にも我が邦の繪畫の鑑賞段階を、現代の軸畫、四條丸山派の繪畫、狩野雪谷《せつこく》派繪畫、土佐派、倭繪《やまとゑ》を一足飛びに乘り越えて、直ちに池大雅に打ち當てだのだからたまらない。「骨董羹」の中で、「東海の畫人多しとい、ども、九霞山磁の如き大器又あるべしとも思はれず」云々と云はせてゐる。また「澄江堂雜記」の中では、「僕は大雅の畫を欲しい、しかし金がないからせいぜい五十圓位な大雅を一幅得たい。大雅の畫品を思へば、たとへ五百萬圓を投ずるも安いといふ點では同じかも知れぬ。。藝術品の價値を小切手や紙幣に換算出來ると考へるのは、度し難い俗物ばかりだからである」といつてゐる。また「雜筆」の中では、「竹田は善き畫描き以上の人なり。大雅を除けばこの人だと思ふ。山陽の才子ぶりたるは竹田より遙かに品下れり云々」ともいつてゐる。ここに一寸面白い揷話がある。それはあの有名な赤星家の入札會のときであつた。うち連れて見物してあるいたのだつたが、我々にはどれも結構なものばかりで、聊か眩惑を覺えるくらゐだつた。觀覽を了へてさて何か欲しいものがあつたかと問へば、彼の曰く「欲しいの玉澗の蘭だけだ」といふのだつた。――元信も雪舟も牧溪も梁廆楷も馬麟についても何とも云はなんだ。

[やぶちゃん注:「狩野雪谷派」信濃松代藩士で画人であった酒井雪谷(天保四(一八三三)年~明治九(一八七六)年)。ブログ「UAG美術家研究所」の「松代藩の閨秀画家・恩田緑蔭」内の記事によれば、名は妙成。別号に竹蔭甘泉。嘉永末年(嘉永七年ならば一八五四年)に『江戸に赴き』、『藩の下屋敷深川小川町に居住していたが、その頃、松代藩士の樋畑翁輔に絵を習い、その後は歌川広重の門にも入ったという。しばらくして松代に戻り、藩務についてからも絵を嗜み、九代藩主・真田幸教にも絵を教えていたという』とあった。

「骨董羹」大正九(一九二〇)年四・五・六月発行の雑誌『人間』に「壽陵余子」の署名で(芥川龍之介のクレジットなしに)連載された随筆。サイト版で電子化注してあり、また、特異的に私が現代語訳し、当時、高校三年生であった教え子(彼はこの協力を終えた直後に東京大学理科に現役で合格した)の協力を得て作成した、『芥川龍之介「骨董羹―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案した「骨董羹(中華風ごった煮)―寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと―という無謀不遜な試み やぶちゃん』もある。やはり下島の引用には不全がある。当該章を総て引く。

   *

 

       大雅

 

 東海の畫人多しとは云へ、九霞山樵の如き大器又あるべしとも思はれず。されどその大雅すら、年三十に及びし時、意の如く技の進まざるを憂ひて、敎を祇南海に請ひし事あり。血性大雅に過ぐるもの、何ぞ進步の遲々たるに焦燥の念無きを得可けんや。唯、返へす返すも學ぶべきは、聖胎長養の機を誤らざりし九霞山樵の工夫なるべし。(二月七日)

   *

私の暴虎馮河訳も添えておく。

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       大雅

 

 本邦に画家多しと言えども、池大雅九霞山樵のような大人物は二人といないと言ってよい。しかしその大雅ですら、三十歳になるに及んで、思い通りに筆が進まないことを憂えて、七十三歳の南画家祇園南海に教えを請うたことがあった。昨今の血気だけは大雅より旺盛な芸術家連が、どうして自身が遅々として進歩しないことに焦燥を感じずにいられるのであろうか、まことに不可思議なことと言わざるを得ない――。ただただ、こうした輩が返す返すも学ばねばならないこと、それは、聖胎長養の機――禅僧が悟達した後も座禅修養を怠らないように、南画の大成者として既に崇められれていた彼が、初心に還って謙虚に南海に教えを請うた、生涯修練という真摯な覚悟の中で選び取った「時」――を誤らなかった九霞山樵の芸術家としての「人生の手法」である。(二月七日)

   *

『「澄江堂雜記」の中では、「僕は大雅の畫を欲しい、……』大正一一(一九二二)年四月発行の雑誌『新潮』に掲載された最初の「澄江堂雜記」(同題の記事は複数あり、なかなか煩わしい。その読み方の順を私なりに示し、リンクも張ったブログ記事「芥川龍之介 澄江堂雜記拾遺四篇」を参照されたい)の冒頭の「大雅の畫」だが、やはり引用が不全私のサイト版の当該作を見られたい。

『「雜筆」の中では、「竹田は善き畫描き以上の人なり。……』大正九(一九二〇)年の九・十・十一月発行の雑誌『人間』に三回に亙って掲載されたものの、初回冒頭の「竹田」。但し、やはり、恣意的に途中を抜いているので、私のサイト版電子化注「雜筆」でちゃんと見られたい。

「赤星家」美術・骨董の「松本松栄堂」公式サイト内の「赤星家」によれば、『薩摩出身の軍需商人で、薩摩の人脈を使って大砲成金とな』った人物で、『古神戸港の築港工事で大金を得て上京、日清戦争後は海軍が英国に発注した軍艦に取り付ける銃器全般の代理店を偶然つとめて』、『巨万の財を築き』、『その資金力で日本美術を買い占め、鑑識眼に優れた収集家として知られ』たとあり、『息子の鉄馬は自らは美術品の趣味がない為、愛好者の保護を期してそのコレクションを、三度の売立により手放し』たが、『赤星家の売立は、総額三百九十三万八千円となり、戦前の売立で』、『この額を超える売立は鴻池男爵家(六百八十九万二千四百八十六円)のみで』あったとある。

「玉澗」(生没年不詳)は宋末元初の禅画をよくした僧で、八十歳で没したとされる。室町以降の日本では、本文で後に出る牧溪と併称された画僧である。なお、以下の作家は龍之介がここでは関心を持たなかったのだから、私は注する気はない。御自身でお調べあれかし。]

 大正十一年には支那を漫遊したのだつた。上海では有名な吳昌碩を訪問して翰墨談も聞いたらしい。そして墨蘭の力作を貰ひうけた。盧山ヘは當時支那漫遊中の竹内栖鳳氏と同伴だつたと書いた廬山の繪はがきを送つてくれた。北京では陳寶琛や鄭孝胥をも訪ねて種々の話を聞いたり御馳走になつたり、又祕藏の書𤲿なども見せてもらひ、そして前掲のやうな書畫を貰ひうけてゐる。

[やぶちゃん注:「盧山ヘは當時支那漫遊中の竹内栖鳳氏と同伴だつたと書いた廬山の繪はがきを送つてくれた」私のサイト版の「芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈」には下島宛書簡は、五通、載るが、その「九〇三」がそれ。

「北京」滞在中のことは、私の「北京日記抄 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」を見られたい。但し、陳寶琛はそちらに出ず、私の前注の書簡にも、また、「芥川龍之介中国旅行関連(『支那游記』関連)手帳(計2冊)」にも出現しないので、この下島の話は貴重ではある。]

 「支那の𤲿」といふ彼の文章には、「雲林を見たのは唯一つである。その一つは宣統帝の御物、今古奇觀といふ畫帖の雄勁《ゆうけい》な松の圖で、文華段[やぶちゃん注:「殿」の誤植か誤字。それ以上に、この引用は激しい問題がある。後注を参照のこと。]の三四幅は𤲿品の低いものである。わたしは梅道人の墨竹を見、黄大癡《くわうたいち》の山水を見、王叔明の瀑布を見た(王叔明の𤲿は陳寶琛氏藏)。が、頭の下つたのは雲林の松に及ぶものはない云々。――南畫は胸中の逸氣《いつき》を寫せば他は措いて問はないといふが、この墨しか着けない松にも自然は髣髴と生きてゐはしないか、  [やぶちゃん注:二字空けはママ。下島が「……」或いは「――」を打ったのを、誤植で脱記号したか?]モネの薔薇を眞といふか、雲林の松を假《か》と云ふか、所詮は言葉の意味次第ではあるまいか」といつてゐる。

[やぶちゃん注:「支那の𤲿」以下は大正十一(一九二二)年十月発行の『支那美術』に掲載された「支那の畫」の冒頭の「松樹圖」である。私はその部分だけを、「芥川龍之介漢詩全集 二十七」(リンク先はブログ版。サイト一括版もある)の注で引用してあるので見られたいが、下島は文章を弄った挙句、「頭の下つたのは雲林の松に及ぶものはない」という半可通な変な表現になってしまっている。表記も引用としては、そこら中に問題があり、これは以上の私の電子化を見て戴かないと、芥川龍之介の真意はまるで伝わらないと言える。

 支那から歸つて來た彼は氣分の上にも多少變化があつたものと見える。その一例は書齋の我鬼窟を改めて澄江堂とするななどがそれである。佐佐木茂索君が「澄江なんていふ藝者にでも惚れたのか」などと戲れたのだつた。不思議なのは澄江堂などといふ支那臭い一名をつけておきながら、芭蕉をはじめ元祿の俳諧硏究などが始まつや。(勿論以から俳諧には深い關心を持つてはゐたが)何だか西洋から支那、それから自分自身の邦へ、といつたやうな感じがないでもなかつた。俳畫や俳句の軸の欲しくなつたのはこの頃のやうに思はれる。まやこの頃既に洋畫家の小穴隆一君と懇親になつてゐて、近代フランス畫を對象として日本の洋畫を論じたり、ルノワルの中に大雅の共通點を見出したりしたものである。

 震災後山本悌次郞氏邸で、その夥しい別莊の支那畫の一部を見たといつてゐたが、別に大した感銘の話もなかつた。それは恐らく、支那で見たり、或いは我邦でも支那畫の展觀が隨分あつて、ひとわたり見てゐるから、特に感心したものがなかつたといふことになるのであらう。

[やぶちゃん注:「山本悌二郞」(明治三(一八七〇)年~昭和一二(一九三七)年)は新潟生れの実業家・政治家。独逸学協会学校卒業後、宮内省御料局給費生としてドイツに留学、帰国後、御料局勤務を経て、第二高等学校(東北大学の前身)教授・日本勧業銀行鑑定課長・台湾製糖社長などを歴任。 明治三七(一九〇四)年、衆議院議員となり、以来、当選十一回で、この間、田中義一内閣及び犬養毅内閣の農相となった。晩年は大東文化協会副会頭となり、国体明徴運動に参画した。]

 不思議なことには、現代の日本畫の批評といふやうなことは餘りしなかつた。唯僅かに靱彥《ゆきひこ》・百穗《ひやくすい》・古徑《こけい》・御舟《ぎよしう》などについて話があつたくらゐである。洋畫の方はよくは知らぬが、小穴君のほか、よく梅原龍三郎君、時としては岸田劉生君あたりの噂さがあつた。

[やぶちゃん注:「靫彥」安田靭彦。名はこの「靭」の字が正しい。

「百穗」平福百穂。

「古徑」小林古径。

「御舟」速水御舟。]

 瀧田樗蔭氏の畫册に、各種風骨帖といふのがあつた。それは百穗・古徑・靱彦・恒友・芋錢六家の畫を收めたもので、瀧田氏は芥川君にその序を請うて書いて貰つた。その序に――「諸公の畫を看るは諸公の面を看るが如し、眼橫鼻直、態相似たり。骨格血色、情一にあらず。我は嗤ふ、杜陵の老詩人、晝中馬を看て人を看ざる事を。秋夜燈下に此册を披けば、一面は夭夭一面は老ゆ云々」と書いてゐるから面白い。

[やぶちゃん注:「各種風骨帖」「の序」ネット上には電子化されていないので、先ほど、電子化注をしておいたので読まれたい。原文は漢字カタカナ交りで、読点等、下島の引用はやはり不全である。]

 芥川君は云ふまでもなく、どこまでも學者で同時に藝術家だつた。そして誰もが望むやうに最高を目標として精進した。だが、所謂藝術至上主義者などといふなまぬるい批評は當つてゐない。彼の讀書も體驗も勿論藝術のための滋養物であの驚くべき廣く且つ深い讀書から得た知識の輝きのほか、書畫や骨董などから得た彼の知識が、如何に創作の上に光つてゐるかは知るものは知つてゐやう。所謂書畫骨董趣味などと云ヘば、金持や貴族のお道樂か、或は單に所蔵慾の滿足ぐらゐに考へられてゐるのだが、ひとたび芥川君のやうな藝術家にふれると、そのものゝ生命が躍動する。例へばこゝに一例を擧げよう。

 彼の作「玄鶴山房」のあるシーンに「床には大德寺の一行ものが懸つてゐる」と書いたのだが、この大德寺の一行ものがどうもしつくりしないといつて氣にしてゐるから、それでは黃檗ものゝ一行としたらどうかと云ふと、あゝそれでしつくりした、といつてすぐ訂正した。一體大德寺の一行ものも黃檗の一行ものも、荼懸けの通り詞《ことば》のやうになつてゐてこんな場合どちらでもよささうなものだが、そこが彼の細かい神經は承知しないのだ。そして實際その室やら環境が、黃檗ものでなくてはしつくりこないといふやうなきわどいデリケートなところが、所謂翰墨趣味を活かした大事なところだと思つたのである。

[やぶちゃん注:『「玄鶴山房」のあるシーン』「五」の一節。『玄鶴はこの褌を便りに、――この褌に縊れ死ぬことを便りにやつと短い半日を暮した。しかし床の上に起き直ることさへ人手を借りなければならぬ彼には容易にその機會も得られなかつた。のみならず死はいざとなつて見ると、玄鶴にもやはり恐しかつた。彼は薄暗い電燈の光に黃檗の一行ものを眺めたまま、未だ生を貪らずにはゐられぬ彼自身を嘲つたりした。』とあるシークエンスである。私のサイト版「玄鶴山房 附草稿」で確認されたい。]

 一體ある時期の芥川君を、書畫骨董の蒐集家のやうに評判したのは、彼は書畫骨董にもある意味の關心を持つてゐるといふことを、彼の名望に結びつけた俗說で、私が暴露に近い書畫目錄やうのものまで揭げたのは、ひとつは、さういふ人たちを失望させる効能があらうと思つたからである。彼は「續野人生計事」の中で、「僕は如何なる時代でも蒐集癖と云ふものを持つたことはない。成程書物だけは幾らか集まつてゐるかも知れない。しかしそれも集まつたのである。落葉の風だまりへ集まるやうに自然に……書物さへさうである。況や書畫とか骨董とかは一度も集めたいと思つたことはない云々」彼の自記は決して虛言をついてゐないのである。

[やぶちゃん注:『「續野人生計事」の中で、「僕は如何なる時代でも蒐集癖と云ふものを持つたことはない。……」前に示した「青空文庫」に「百艸」のそれが纏めて電子化されてあるので参照されたい。当該項は「七 蒐集」である。例によって下島の引用は不全というか、前後の文章を弄っている。]

 彼は繪を描いたか! といふ問題だが、小學時代の彼はこの道にも傑出した所謂天才のきらめきらしいものがほの見える。併し中學以後に餘りその蹟を示してゐないやうだ。どうもあれだけの素質を持つてゐるからには興至れば描かざるを得なかつたであらうと思はれるに拘らず、ところが、小穴隆一君と交遊するやうになつてから、いつとはなしに例の河童やら何やらを描きだした。河童は「水虎晩歸圖」と題して得意であり堂に入つたもので、當時すでに有名だつた。このほか傘を描いて「時雨るゝや堀江の茶屋に客ひとり」といふ句を題したものなどは、書畫共にほれぼれするやうな風格をあらはしてゐる。馬の圖や猫の圖、蜻蛉なども得意なもので、自嘲的な自畫像などもかいてゐる。例れも風韻豐かな書と共に個性のよく現はれてゐる尊い墨蹟である。大正十四年五月、修善寺の温泉宿から、佐佐木茂索君と私へ送つてくれた修善寺圖卷などは、ペン畫ではあるが、卓越せる天禀を窺ふのに充分である。私は常に思ふ。彼若し畫家たらば、必ず第一流になつてゐるであらうと……。

[やぶちゃん注:「水虎晩歸圖」「小穴隆一「鯨のお詣り」(11) 「芥川龍之介全集のこと」で「蜻蛉」の句に添えた絵などとともに掲げてあるので見られたい。

「修善寺圖卷」『芥川龍之介書簡抄124 / 大正一四(一九二五)年(五) 修善寺より佐佐木茂索宛 自筆「修善寺画巻」(初稿)+自作新浄瑠璃「修善寺」』と、『芥川龍之介書簡抄125 / 大正一四(一九二五)年(六) 修善寺より下島勳宛 自筆「修善寺画巻」(改稿版)』で掲げてあるので見られたい。]

 終りに、彼が書畫鑑賞の對象は、直に大雅、直に雲林、直に玉澗の蘭、直に良寬といつたやうなわけで、いゝころ加減のものや職工畫などには決して心を動かさなんだ、といふことである。

 附け加へておくことは、古陶磁の面白いのは十分わかつてゐるが、文藝作家があゝいふ固定したものに囚へられたら最後、ほんとの小說が書けなくなる、僕はそれを恐れると云つてゐたやうにに思ふが、書齋や骨董に對しても、幾らか同じやうな考へ方ではなかつたかと思はれる。

(昭和十三・六。文藝春秋)

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版)各種風骨帖の序

 

[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集(第十二卷・一九七八年七月刊)の編者「後記」によれば、大正一三(一九二四)年十一月発行の雑誌『人物往來』第五冊に「澄江堂餘墨壹」の大見出しのもとに紹介されたもの、とあって、同誌では、『文末に小字で「各種風骨帖は瀧田樗陰君藏の畫册なり。百穗、古徑、靭彦、未醒、恒友、芋錢六家の畫を收む。」とある』と記し、さらに、『大正十三年二十九日(推定)の小穴隆一宛書簡に「僕瀧田の画帖に叙する文二篇を作り大いに疲る 但し作るのに疲れたるに非ず畫箋へ書するのに疲れたる也』とある。ところが、底本では、岩波の旧新書版全集第十四巻に拠って、その報知に過ぎない『人物往來』を参考にした旨の記載がある。則ち、底本では、旧瀧田樗蔭蔵の現物の「各種風骨帖」に当たることが出来なかったことを意味している。そもそも、当たるべき「各種風骨帖」の現存について、なんらの記載が「後記」にはないことから、所在不明か、既に失われた可能性が字背に窺われるのである(この画冊名と瀧田樗陰のフレーズでネット検索をかけても、画像一つ、解説一つ、見当たらない)。さらに、小穴宛書簡を考えると、本「序」には、もう一つの案文があったことが判る。さらに、この「序」は、芥川龍之介自身が、現物の「各種風骨帖」へ揮毫したことも判るのである。

 なお、本画帖の所蔵者瀧田樗陰(明治一五(一八八二)年~大正一四(一九二五)年)は、芥川龍之介も頻繁に作品を発表した『中央公論』の名編集者(主幹)として知られる。秋田市生まれで、本名は哲太郎。東京帝大在学中から『中央公論』で翻訳の仕事を始め、明治三七(一九〇四)年十月に正式に中央公論社に入社し、晩年まで編集を担当した。本願寺系の雑誌であった『反省雑誌』から改題したばかりの『中央公論』に文芸欄を設け、部数の拡大に成功した。新人作家の発掘に尽力し、同誌を新人作家の登龍門へと押し上げ、小説家は彼の来訪を心待ちにした伝説の編集者として知られる。以下、同帖所収の挙げられてある画家は、「百穗」は平福百穂(ひらふくひゃくすい)、「古徑」は小林古径、「靭彥」は安田靭彦(ゆきひこ)。「未醒」は小杉放菴(「未醒」の号が知られるが、後にかく変えている)、「恒友」は森田恒友(つねとも 明治一四(一八八一)年~昭和八(一九三三)年:ここで並んだ画家の中では唯一、洋画家であるが、ヨーロッパ遊学でセザンヌの影響を強く受け、リアリズムを基本として、西洋画の写生を水墨画の上に生かし、自ら「平野人」と号して利根川沿いの自然を写生した画家であった)、「芋錢」は小川芋銭(うせん:ここに挙げられてある画家の中で私が唯一人、メチャクチャ好きな画家である)。]

 

 各種風骨帖の序

 

 諸公ノ畫ヲ看ルハ諸公ノ面ヲ看ルガ如シ。眼橫鼻直、態相似タリ。骨格血色、情一ニアラズ。我ハ嗤フ、杜陵ノ老詩人。晝中馬ヲ看テ人ヲ看ザル事ヲ。秋夜燈下ニ此册ヲ披ケバ、一面ハ夭夭、一面ハ老ユ。借問ス、靈臺方寸ノ鏡、我面ハ抑誰ノ面ニカ似タル。

   大正十三年十月上浣

               澄 江 生 筆 記   

 

[やぶちゃん注:「風骨帖」「風骨」は元は「人物の姿・風体(ふうてい)」を指したが、転じて「詩歌や芸術などの作風と詩想・精神」を言う語ともなった。

「面」「おもて」。顔。

「眼橫鼻直」「がんわうびちよく」。

「態相似タリ」「たい、あひにたり」。

「情一ニアラズ」「じやう、いつにあらず」。

「嗤フ」「わらふ」。

「杜陵」「とりよう」(とりょう)。かの杜甫の号。筑摩全集類聚版「芥川龍之介全集」第五巻(昭和四六(一九七一)年刊)ではここに編者が『とりやう』と振っているが、その歴史的仮名遣は誤りである。

「晝中馬ヲ看テ人ヲ看ザル事ヲ」これは、私は、杜甫の五言古詩(例外的に彼のものとしては非常に長く、三十四句から成る)「韋諷錄事宅觀曹將軍畫馬圖引」(韋諷錄事(いふうろくじ)の宅にて曹將軍(さうしやうぐん)の畫馬(ぐわば)の圖(づ)を觀る引(いん))を指しているように私には思われる。杜甫晩年の広徳二(七六三)年五十三歳の時、成都での作である(杜甫は五十九で客死している)。「唐詩選」に収録され、所持する「杜詩」(一九六五年岩波文庫刊・鈴木虎雄訳注)の第五冊にも載っているのだが、余りに長いので、古くよりお世話になっている「Web漢文大系」の同篇をリンクさせておく。一九六一年岩波文庫刊「唐詩選」上(前野直彬注解)の解説によれば、絵の持ち主韋諷録事はよく判らない人物であるが、『成都の東北にあたる閬(ろう)州』(四川省北東部)『の役人で、成都に家を持っていたらしい』人物で『地方官庁の庶務課長といったところである』とあり、一方、『曹将軍は名は覇(は)』で、『玄宗から左武衛将軍という官位をもらった』人で、かの『曹操』『の曽孫である曹髦(そうぼう)(一度は帝位についたが暗殺されて天子の位も奪われ、高貴郷公と呼ばれた人物。絵の名手であった)の子孫といわれ、やはり絵の名人で、ことに馬を描かせては当時の第一人者として評判が高かった』とあり、『この人がかいた馬の絵を、韋諷が持っていた』のを見せて貰ったのであったとある。さらに、『曹髦は落ちぶれて四川の地方へ流されて来たので、そのときに描かせたものかもしれない』とし、杜甫が『その絵を見ながら作ったのがこの詩で、終りには安禄山の叛乱ののち、玄宗の花やかな時代があとかたもなくなくなったことへの感慨がこめられている』とあることから、その馬の絵を描いた曹髦の数奇な人生に思い致すよりも、杜甫自身の落魄の感に重ねている点を芥川は指弾しているようにも私には思われるからである。

「夭夭」「えうえう」(ようよう)は「若い女の瑞々しいさま」が原義。「健康的な清新さ」を言っていよう。

「借問ス」「しやくもんす」。「試みに問う」。

「靈臺方寸ノ鏡」「靈臺」は「魂のある所・霊府・精神」の意であるから、「その描いた人の心を表わすところの鏡」としてそれらの絵を見たものであろう。

「我面」「わがつら」。

「抑」「そも」。

「上浣」上旬。この大正一三(一九二四)年十月上旬を、新全集の宮坂覺氏の年譜で見ると、興味深い事実が見えてくる。この十月七日、『志賀直哉が古美術の写真帳作成のため上京し』(当時、志賀は京都郊外の宇治郡山科村に住んでいた)、『一緒に目黒の山本悌一郎』(実業家で政治家)『宅へ中国画』(☜)『を見に行く』とあり、同九日の条の最後には、『この頃、再び志賀直哉とともに、赤坂の黒田家』(ここには旧福岡藩黒田家の中屋敷が嘗つてあった)『へ筆耕図と唐画鏡』(サイト「日本美術の記録と評価」の「昭和五年十一月-昭和六年六月」の「調査・見学記録」に、『考古学会大会黒田侯爵家画幅展観昭和六年五月』の条に、『筆耕図/唐画鏡一帖』とあった)『を見に行く』とあるのである。則ち、この序が書かれた時期、芥川は偶然にも中国画に幾つも親しく鑑賞していたことが判明するのである。]

2023/04/20

佐々木喜善「聽耳草紙」 四五番 南部の生倦と秋田のブンバイ

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

     四五番 南部の生倦と秋田のブンバイ

 

 或時、南部の生倦(イキアキ)だと云ふ看板を掛けて、方々を廻國する亂暴者があつた。いつもかつも、あゝ俺は生倦きた、生倦きたと云ひのさばつて押し步き、誰(ダン)でもええから殺されたい。はてさて俺を殺せる奴が、この世界中に一匹も居やがらないのかなア。どうだいと天下を踏反(コンゾリ)かへつてギシコイたてて威張つて步き廻つてゐた。併しこの亂暴者には、何處でも誰一人として負かされぬ者はなかつたので、ますます傍若無人になつて、諸國を步き廻つたあげく、遂に秋田の國まで行つた。[やぶちゃん注:「ギシコイ」意味不明。]

 その時、秋田に、ブンバイと云ふ劍術使ひの達人が居た。そして生倦の傲慢を聞いて、世間には隨分人を喰つた大馬鹿者もあるもんだなア、いゝから俺が一ついじめてケると云つて、南部の生倦、秋田のブンバイがお前を殺してケルから、何時でも來うと云ふ立札を家の門前に立てゝ置いた。方々の國を廻つて其所に行き當つた生倦は、ブンバイの立札を見て、あゝ俺を殺してケルぢ人もある風(フウ)だ。さあ早く殺されたい、俺は南部の生倦だと言つて、そのブンバイの家へ行つた。ブンバイはアヽお前が南部の生倦か、俺は秋田のブンバイだ。俺が一つお前の命を仕止めてやるから安心しろと云つた。すると生倦はそれでは尋常に勝負をして、お前に殺されたい。何日(イツ)がいゝか訊くと、それでは明日この下の川原サ來う、其所で尋常に勝負すべえとブンバイは云つた。

 その日は朝から、川原サいつぱひ[やぶちゃん注:ママ。]に見物人が集まつて居た。ブンバイは大刀を引ツつま拔いて身構へをして、さあ南部の生倦、かかつて來うと云ふ。生倦は素手で何にも持たず、たゞ川原に薪木を山と積んで、それに火をつけて、どがどがと燃やし始めた。ブンバイがさあ始めろツ、かかつて來うと呶鳴ると、生倦は何時でもよいと云つて、その燃え木尻(キニシリ)を執つて、相手目がけてブンブンと投げつけた。其の術(ワザ)のすばやいこと、とても人間業とは見えなかつた。さすがの劍術使ひの名人、ブンバイもとても及ばなくなつて、しまひには眉間に燃え木を撲(ウ)つ付けられて、打(ブ)ツ飛んで仰向けに轉んで息が絕えてしまつた。

 生倦も、その時は餘程ひどかつたものと見えて、燃え木を投げつけ、投げつけしては居たが、遂に全身まるで火になつて、これもやつぱり息が絕えてしまつた。

 (家の老母の話。)

 

大手拓次 「密獵者」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 密 獵 者

 

瓔珞(やうらく)の珠をおとすひよわなたそがれに。

かろやかに打つ鷓鴣(しやこ)の羽ばたき、

眼のおほきい密獵者の足はうゑたる戀にをののくごとく、

水のながれをなして踊躍(ゆやく)の花をとびちらす。

手のほそい、眼のおほきい二人づれの密獵者よ、

見つからないやうにお前の獲物を獵(か)りとれ。

 

[やぶちゃん注:「瓔珞」珠玉や貴金属を編んで、頭・首・胸に掛ける装身具。古く仏・菩薩などの身を飾るものとして用いられ、寺院内でも天蓋などの装飾に用いる。元来は古代インドの上流階級が身につけた装飾品であった。

「鷓鴣」本邦に於いて「シャコ」という呼称は、狭義にはキジ科Phasianidaeシャコ属Francolinus に属する鳥を言い、広義にはキジ科の中のウズラ( Coturnix 属)よりも大きく、キジ( Phasianus 属)よりも小さい鳥類をも指す。但し、拓次が愛したフランス文学に登場するそれは、例えば、私の偏愛するジュール・ルナール(Jules Renard)の小説「にんじん」(“Poil de carotte”一八九四年刊)に出る「鷓鴣」は“perdreau”(ペルドロー)で、これは、一般的にフランスの鳥料理の中でも、ヤマウズラ Perdix 属、及び、その類縁種の雛を指す語である(親鳥の場合は “perdrix” (ペルドリ))。食材としては、“grise”(グリース。「灰色」という意味)と呼ぶヤマウズラ属ヨーロッパヤマウズラ Perdix perdix と、“rouge”(ルージュ。「赤」)と呼ぶアカアシイワシャコ Alectoris rufa が挙げられる。拓次がここで「鷓鴣」を使うった際には、まず、後者の由来の「鷓鴣」のイメージによって使われものとは思われる。しかし、到底、拓次がヨーロッパにしか棲息しない最後の二種などを知っていたわけもなく、また、真正の「シャコ」類で「シャコ」を和名に持ち、しかも日本の棲息する種は、調べた限り、いないはずである。従って、拓次のイメージのそれは、ウズラの子どものようなイメージであろうと推察するものである。以上の一部は私の古いサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン (注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」の「鷓鴣」の私の注を元にした。]

大手拓次 「野よ立てよ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 野よ立てよ

 

野よ立てよ、

かぎりなくみどりにぬれて交感のこゑをうむ野の翁(おきな)よ、

わたしは白い帆柱のやうにうごいてゐる。

命の姿は羽ばたきに似て

とらへがたく闇をつみかさねる。

永遠のくゆりを吐く野のたそがれよ、

すこやかに立つて

かをりゆけ、神の國へかをりゆけ。

 

大手拓次 「轉生の歌」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 轉生の歌

 

亡びを示すなめらかな鳥のさへづり、

茶ばんだ水色のこけらは遠方の、

芽をふくむ樂しい魚苗(うをなへ)の肌によりつどひ、

すずしい銀のひびきをもらす。

よろこびはひらけ、消滅のさしひく忍び音(ね)は、

おどろきを生む花しべのあたりに香爐の霧をふく。

 

[やぶちゃん注:「魚苗(うをなへ)」「魚の子」。魚苗(ぎよべう)。幼魚。この一行、違和感はない。則ち、「茶ばんだ水色のこけ」(蘚/苔)「ら」(等)は、「遠方の」(蘚/苔)の「芽」(幼魚の鱗の間に早くも忍び込んだ「こけ」等が萌芽しているのである)を既に啣(「ふく」)「む」「樂し」さうなその幼魚と、顕微鏡的にクロース・アップされるその「こけ」らの芽生えの歓喜に満ちている幼魚の「肌によりつどひ」「すずしい銀のひびきをもらす」のである。幻想の博物学者の天馬空を翔(ゆ)く如き自在なモンタージュが素晴らしい!]

大手拓次 「のび上る無智の希望」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 のび上る無智の希望

 

黃金色(こがねいろ)の鍋のなかに泡立つて

純麗な姿をのばしてゆく幼い盲目の希望よ、

錚錚と鳴る鍊鐵の鍵(くさり)のかすれにも似て

迷妄を押しのけてひろがる强いリズムのおもざし、

五月の庭に咲く薔薇のほこりをうかべて。

この、智慧なく、力なく、目(め)あてなき怪しい迫進の夢魔におそはれ

赤い瓣のやうな脣をうながしてよろめく。

實(みの)る木の實の果皮(かは)はやぶれて果肉はただれおち、

日にうつりうなだれるとき、

命のない、けれど幸福なる影は蟲のやうに這(は)ふ。

 

[やぶちゃん注:「瓣」「はなびら」。]

大手拓次 「くさむらよ!」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 くさむらよ!

 

白い指をつたはつて、

にほひ深い情趣のなかに縫ひこまれる

さらさらとして、くすぐつたい少女の髮の毛ょ、

わたしの指の腹を撫でてうごき、

わたしの指の背と爪とをさすつてすぎゆく、

やはらかい、そして永劫の粗野をふくんでゐる感じやすい髮のくさむらょ、

その髮のひとすぢの觸れるごとに、

からだをながれる夕暮の心は

とぼとぼと木(こ)の閒(ま)がくれに顏をあかめつつ步みはじめる。

 

[やぶちゃん注:「閒」は詩集「藍色の蟇」での用字に従った。]

2023/04/19

畔田翠山「水族志」 アブラダヒ (スズメダイ(✕)→フエダイ(○))

(二五)

アブラダヒ 一名アブラ魚【紀州田邊】

形狀棘鬣ニ似テ濶厚鱗淡褐色ニシテ淺黒色ヲ帶背紅紫褐色腹白色腹上淡褐色ニ乄淡紅ヲ帶脇翅ノ前後底ニ藍色ヲ帶眼淡黑色ニ乄紅斑アリ瞳藍黑色腹下翅刺白色ヲ帶餘ハ紅黃色脇翅長ク紅黃色背鬣本淡黑斑アリテ端淡紅黃色尾棘鬣ノ如ク岐少シ淺ク本淡黑條縱ニアリテ端紅黃色其少ナル者二三寸腰ニ白星㸃一ツアリ腮ヨリ尾ニ至リ淡紅色ノ條アリテ條ノ邊藍色ヲ帶背灰褐色腹白色

○やぶちゃんの書き下し文

あぶらだひ 一名「あぶら魚」【紀州田邊。】。

形狀、棘鬣(まだひ)に似て、濶(ひろ)く厚し。鱗(うろこ)、淡褐色にして、淺黒色を帶ぶ。背、紅紫褐色。腹、白色。腹の上、淡褐色にして、淡紅を帶ぶ。脇翅(わきびれ)の前後の底に藍色を帶ぶ。眼、淡黑色にして紅斑あり。瞳(ひとみ)、藍黑色。腹の下、翅(ひれ)・刺(とげ)、白色を帶ぶ。餘(よ)は紅黃色。脇翅(わきびれ)、長く、紅黃色。背鬣(せびれ)、本(もと)は淡黑、斑(まだら)ありて、端(はし)、淡紅黃色、尾、棘鬣(まだい)のごとく、岐(き)、少し淺く、本(もと)は淡黑。條(じやう)、縱(たて)にありて、端(はし)、紅黃色。其の少(ちひさ)なる者、二、三寸。腰に白星(しろぼし)の㸃、一つあり。腮(あぎと)より、尾に至り、淡紅色の條ありて、條の邊(あたり)、藍色を帶ぶ。背、灰褐色。腹、白色。

[やぶちゃん注:宇井縫蔵氏は「紀州魚譜」で三箇所に、この方言異名である「アブラウヲ」を出している(分類と学名は現行のものを示す。丸括弧は宇井氏の「方言」の「アブラウヲ」の場所)。まずはここで、

スズキ目スズキ亜目カワビシャ科テングダイ属テングダイ属テングダイ Evistias acutirostris (田辺)

次に、ここで、

スズキ亜目ハタ科キハッソク亜科ルリハタ属ルリハタ Aulacocephalus temmincki(田辺・周参見)

最後はここで、

スズキ亜目チョウチョウウオ科チョウチョウウオ属シラコダイ Chaetodon nippon(田辺)

である。しかし、以上の叙述と一致する種は、私には認められない。されば、これらの種の孰れかではないと私は退ける

 しかし、現行の「アブラウオ」の方言名の魚類を調べたが、やはり形状の一致する種を私は見出せなかった。そもそも畔田の叙述は、今までの各魚の叙述をご覧になって判る通り、一見、どの項でも色や形状を細かく記しているのだが、何となく、皆、似たような感じを与えてしまう点で、甚だ悩ましいものなのである。特に彼の悪い癖は、すぐに、「棘鬣(まだひ)に似て」という表現を連発する点で、これは寧ろ、無視した方が無難である。では、この場合、絞り込み可能な特異点はどこかと言えば、お判りの通り、「腰に白星(しろぼし)の、一つあり。腮(あぎと)より、尾に至り、淡紅色の條ありて、條の邊(あたり)、藍色を帶ぶ」という特徴である。まず、この「腰の白星」で探してみた。すると、目がとまったのは、

スズキ目ベラ亜目スズメダイ科スズメダイ亜科スズメダイ属スズメダイChromis notatus notatus

であった。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見られたいが、体長は十センチメートル『前後』で『側扁する(左右に平たい)。くすんだ色合いで黒っぽく見える。鱗が大きい。生きているときや』、『鮮度のいいときには』、『背鰭の後ろの白い小さな斑紋が光って見える』とある。これはまさに「白星」である。しかし、「体色が地味過ぎて、叙述に合わない。」とされる御仁もあろう。だが、例えば、ブログ「美しい海が永遠でありますように」の「スズメダイ Chromis notatus」を見られたいが、本種の生体個体は、かなり色彩的には美しいのである。しかも畔田が盛んに「紅黃色」と指示するのと、本種のこの画像はよく一致するのである。さらに言えば、畔田が、わざわざ、「其の少(ちひさ)なる者、二、三寸」と述べているのは、大型成体が、それほど大きくないことを意味している点で、やはり合うように思うのである。比定に疑義のある方は、是非、相応しい別種を指示されたい。【二〇二四年五月二十六日追記】四日前、Xの「DECO」氏より、以下の投稿を頂戴した。

   《引用開始》

突然の無礼申し訳ありません
魚の語源を調べる事を趣味としている者です
イソダヒ・アブラダヒについてですが、釣りではフエダイの事をシブダイとかシロテンとか言いますが、「アブラダイ」という人もいます
アブラダヒはフエダイではないでしょうか
またイソダヒはゴマフエダイだと推察してます

   《引用終了》

「イソダヒ」の方は、先ほど、比定後候補を「DECO」氏の指摘に従い、アカマンボウからゴマフエダイへ修正したが、こちらの「アブラダヒ」は元より、以上の迂遠な私の自信のない注で暴露されているように、スズメダイ比定にはもともと自信がなかった。而して、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のフエダイを見るに、畔田の解説は九割方(何より腰の「白星」だ!)、一致すると言ってよいことが判った。私の見当違いの注は、戒めとして残しておく。なお、孤独な私の記事に指摘を下さった「DECO」氏に心から御礼申し上げるものである。

佐々木喜善「聽耳草紙」 四四番 御箆大明神

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。この標題の「御箆」は本文にも「ちくま文庫」版にもルビがない。本文中での、使用法から、所謂「へら」で、竹・木・象牙・金属などを細長く薄く平らに削り、先端を少し尖らせた、或いは、平たく薄めにした道具で、布や紙に折り目や印をつけ、又は、物を練ったり、塗ったりするのに用いるそれである。されば、「おんへらだいみやうじん」と読んでおく。或いは「おへら」かも知れない。]

 

      四四番 御箆大明神

 

 或所に大法螺吹きがあつた。あまり僞言(ボカ)ばかり吐き步くものだから、世間では誰も相手にする者がなくなつて、ひどく貧乏になつた。法螺吹きもその事にやつと氣がついて、これは不可(イケ)ない。俺も何とかして世間並の付合ひが出來るやうにならなくてはいけないと思つて、改心して、村の觀音堂へ行つて、七日七夜のお籠りをした。そしてどうぞ觀音樣もうし、俺を世間並の眞人間にしてクナさいと願つた。

 一夜二夜三夜とお籠りをして、七日七夜の滿願の日の朝になつたけれども、別段これぞと云ふ靈驗(シナシ)もなかつた。そこで少々向つ腹で、ぶらぶらと御堂の前坂を下《お》りて來ると、偶然に鳥居の下に赤い小箆《こべら》が一丁落ちて居た。ぜえツこんな物かと思つたけれども、いやいやこれでも何かの役に立つこともあるかと、それを拾つて、ふところに入れて、又ぶらぶらと廣い野中を步いて行つた。すると急に裏心がさして來たので、路傍の藪蔭に入つた。そして用をすませてから何かないかなアと思つて、腰のあたりを探ると、先刻《さつき》の小箆に手が觸れた。仕方がないからそれで尻を拭いた。するとお臀《しり》がいきなりこんな調子で鳴り出した。[やぶちゃん注:「裏心」にはルビがなく、「ちくま文庫」でも振られていない。普通なら、「うらごころ」と読むところだが、実は「心」自体も「うら」と読む。従って、私はここは「うらががさして來た」ではないかと考えた。「心(うら)」は一般的には、「うら悲し」「うら淋し」「うら荒(さ)ぶ」等のように、形容詞・動詞に付いて、本来は、「心の中で・心の底から」の意を表わし、さらに。その意が弱まって、「何ということなく・何とはわからず・おのずからそのように感じられる」の意を表わす。されば、ここはシチュエーションから「何となく、便意を催して、何んとも我慢出来ずなった」ことを言っているものと判断した。]

   オツポコ

   コツポコ

   すツてンねンジン

   白樂源治のさんがんか

   淸水觀音の六角堂の

   鳴らば鳴れ鳴れ

   タケツ

   シツチリ

   四五六ろツパイ

   ガタビチ

   ガタビチ

 法螺吹きはひどく魂消《たまげ》てしまつた。これはことだ。ナゾにするこつたでエやい、と思つたがどうすることも出來なかつた。閉口して呆氣《あつけ》にとられて其の箆を見ると、其の箆は片面が朱塗りで片面は黑塗りであつた。これには何か譯があることだべと思つて、今自分が拭いた赤い方ではなく、裏の黑い方でテラリと撫でて見ると[やぶちゃん注:自分の「尻」を撫でたのである。]、今迄の大變な鳴り音がピツタリと止まつてしまつた。フフンこれは成程面白いものだと思つた。

 法螺吹きどのは、それを持つてぶらぶらと町の方へ行つた。すると町端《まちはづ》れにジヨヤク馬(雌馬)が一匹、ざアざアと小便をして居た。そこで試みに其の小箆で、テラツと馬の尻を撫でてみる。と、案に違はず、

   オツポコ

   コツポコ

   すツてンねンジン

 とそれが馬の尻であれば尙更どえらい音を出して鳴り渡つた。小店前《こみせまへ》に腰をかけて、辨當の蕎麥燒餅を食つて居た馬主《うまぬし》は、飛び上つて魂消て、ああこの馬が何(ナン)に憑《つ》かれたべやい。事なことア起つた、山伏法印樣さ行つて來なくてはならぬと、大騷ぎで狼狽(アワ)て出した。そこで法螺吹きは、何これしきの事でさう騷ぎなさんな、俺が直してやるからと云つて、蔭へ廻つて、例の小箆の裏の方でテラリと撫でると、ぴたツとその大きな鳴音《なりね》が止まつた。馬主はひどく喜んで、法螺吹きに酒を買つてお禮をした。法螺吹きはますますこれはいゝ物だと喜んで家に歸つた。

 法螺吹きと同じ村の長者どんに美しい娘があつた。法螺吹きは、かねて其の娘に惚れていたが、言ひかける折りが無くて、愁へて居た。そして何とかして娘の聟殿になりたいものだと常に考へて居た。

 そこで或る夜、長者どんの雪隱《せつちん》に忍び入つて匿れて居ると娘が小走りで入つて來た。法螺吹きは待ちかねて居たので、物蔭からそろりと出て、娘の白い尻を小箆でテラリと撫でた。するといきなり

   オツポコ

   コツポコ

   すツてンねンジン

   ガタビチ

   ガタビチ

 と鳴り出した。娘はひどく魂消て、おいおいと泣いて奧の座敷に駈け込んだ。それから娘の鳴物《なりもの》が一向止め度《ど》なく夜晝さう鳴り續けるので、お笑止(カシ)がつて、靑くなつて、座敷から一向出ハらなくなつた。長者どんではそれで大騷ぎが持ち上つた。型通り醫者よ法者よと呼び寄せて手を代へ品を代へ療治をして見たけれども、何の甲斐もなかつた。仕方がないから門前に高札を立てゝ、此家の一人娘の不思議な病氣を直した者には、何でも望み次第と云ふ文句を書きつけた。

 其の立札を見て、日々每日(ヒニチマイニチ)、俺こそ、俺こそと云つて、いろいろな人がやつて來たが、誰一人として滿足に行(ヤ)つた者がなかつた。一家親類が寄り集まつて、顏を集めて靑息ばかり吐いて居た。其所へ法螺吹きが行つた。そして俺は表の高札の文句の事で來たのだが、娘樣の病氣を直して見せると云つた。長者どんでは、來る者來る者必度(キツト)さうフレ込んで來るので、またかと宛(アテ)にもしなかつたが、表の高札の手前もあるものだから、ともかくも、そんだらと云つて、法螺吹きを奧座敷に通した。

 法螺吹きが奧座敷へ通《とほ》つて見ると、あたりに金屛風を立て廻《まは》し、大勢の法印や醫者どもが詰めかけて、皆靑い面をして居た。そして俺達でさへ此の病氣は直せぬものを、お前の樣な素人になんで直せるもんかと、云ふ顏をして、じろじろ見るのであつた。その態(サマ)を見ると可笑《をか》しくてならなかつたが、我慢をして、娘の側に摺《す》り寄つた。そして周圍にさらりと屛風を立て廻させて、何所からも見えなくして置いて、娘の小さい尻を、小箆でテラリと撫でた。すると今迄あんなに大鳴りをして居つたものが、蓋をしたやうに、ぱたツと止まつてしまつた。娘は、あれやツ、おら直つたツと云つて、踊を踊つて奧座敷から駈け出した。長者どん夫婦も大喜びで、お蔭樣だ、お蔭樣だと云つて小踊りをした。其所に控ひて[やぶちゃん注:ママ。]居た者は面目玉《めんぼくだま》をつぶしてしまつて、こそこそと何時《いつ》の間にか、皆逃げて居なくなつて居た。

 斯《か》う云ふ譯で、法螺吹き男は遂に長者どんの聟殿となつて、えらい出世をした。それも何もかにも其の小箆のお蔭だと謂ふので、後でそれを神樣に祀つて、御箆大明神樣と申し上げた。

 (二番同斷の五。)

此の話は拙著、紫波《しは》郡昔話の中の(九九)にも朱塗小箆、もんぢやの吉片[やぶちゃん注:ママ。]噺《ばなし》其の四、として其の類話を出して置いた。其の方の話では、法螺吹き男に當るのが、モンジヤの吉と云ふ博突打《ばくちう》ちになつて居《をり》、石地藏樣と博打をして朱塗小箆を取ることになつて居る。そして娘の尻の鳴り樣《やう》も違ふ。これも人によつて態々《さまざま》に聽き覺えて居るたうである。私の母の語るのを聽くと、

   ヒツチコ

   ケエツチコ

   トンゲエヂイ

   あひうちうちの團扇は

   淸水觀音の御夢想だ

   ドツチビチ

   ドツチビチ

 と鳴つたと云ひ、又村の野崎の佐々木長九郞と云ふ爺樣のは、斯う語つて居た。

   ぶりつぶウつ大佛

   スツポンベエチ

   淸水ノ觀音堂の

   六角堂の太鼓の皮にも

   鳴らば鳴レ

   鳴らば鳴レ

   さくらくデツチの三貫かェ

   ゴフクヤミにア

   こツたんない

   はくらくデツチのデツチデツチ

   ドフンドフン

 又村の大洞犬松爺樣の話では、

   淸水觀音ヤ

   すてビんのウ

   どんがらやいッ

   どんがらやいッ

   ベツチコ

   ヘツチコ

 と鳴つたと謂ふ。私の「紫波郡昔話」(參照)

[やぶちゃん注:今回の附記は非常に長く、底本通りのポイント落ち全体二字下げで示すと、非常に読み難くなるので、ポイントを落とさず、引き上げて示した。なお、そこで示された佐々木の「紫波郡昔話」の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションのここから視認出来る。但し、標題は『(九九) 朱塗小箆(もんぢやの吉噺其四)』である(附記の「片」は衍字とも、ちょっとした話ということで「片噺」と佐々木が言い換えた可能性もある)。なお、その附記に出る旧紫波郡内の地名「野崎」「大洞」の読みは判らず、「ひなたGPS」で調べたが、旧紫波郡は広域に過ぎ、私の視力では探すのには無理があり、諦めた結果、位置も判明しなかった。

 また、作中に出る囃子のようなものの意味はよく判らない。そもそも「村」が特定されていないから、「村の觀音堂」も判らない。原ソースは遠野での採話だが、だからといって、遠野に限ることは出来ないからである。されば、その妖しい囃子に出る固有名詞なども注は附けられなかった。悪しからず。

「二番同斷の五」「觀音の申子」と同じソースで、そちらの附記には、『遠野町、小笠原金藏と云ふ人の話として松田龜太郞氏の御報告の一。大正九年の冬の採集の分。』とある。]

大手拓次 「五月の姉さんへ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 五月の姉さんヘ

 

わたしの好きな五月の姉さん、

せうせうお待ちください、

あなたのおみやげをよろこんで拜見いたしますから。

さつぱりとした五月の姉さん、

おわらひにならないで、

わたしの妙な物言ひぶりをごらんください。

おお もうあなたはお口のあたりに微笑をたたへていらつしやる。

わたしはいま、あさみどりのふくろから いろいろの物をとりだしました。

そつとわたしの手につかんだのは

やはらかな それでゐてしやんとした白いつつじの男花、

それから 手のひらにのせてみたのは

あをい木蔦(きづた)にからまれた眞珠のやうなマアブルのきざみ像、

サイネリアと、あやしい吸枝(きふし)をふくらませる黃色い蘭の大輪の花、

それから すつとわたしの指にふれてなまめいたのは

わかい女の人たちのよくゆめにみるチユウリツプ、

またにやにやとうすわらひするのは

毛むくぢやらな室咲(むろさ)きのイスピシア、

おとなしくわたしの手にだかれたのは

おもはゆいやうな顏をした淡紅色(ときいろ)のばらの花、

そのあとにおともしたのがヒアシンスの紫の花、

ああうれしい、わたしの好きな五月の姉さん、

あさみどりのふくろからまだころびでるのはなんだらう、

水色と紺との羽根をはやし すいすいととぶ銀とんぼ、

ぱらぱらとまくやうにおちてくるのは

さくらんぼ、いちごやぐみの漿果(このみ)のあられ、

夜(よる)と晝とをからみつける

うすくらがりの沈丁花、

くらい樹立(こだち)にまようてゆく隱し兒のやうないぢらしい

野のあらそだちの白い小花の名無し草、

ああ だれもみんなおいで、

わたしはお前たちをみんな抱いてやる、

さうしてかはいがつてやりませう、

ひとりごと言ひながらはしやいでをりますと、

いつとはなしに

しめつぽい雨がふる、

閒遠に屋根をうつひつそりかんとした雨が

五月の姉さんの背中をはつてゆく。

わたしの好きな五月の姉さん、

五月はゆめをみる月です、

黃色い花や白い花がみじまひをして

たちうちをする男こひしい闇の月。

 

[やぶちゃん注:この詩、妙に私は惹かれる。太字は底本では傍点「﹅」。「姉」には「姊」の異体字があるが、「閒」とともに、詩集「藍色の蟇」での用字に従った。「姉さん」は私は「ねえさん」と読んでいる。「あねさん」では、ヤクザの舎弟みたようで、気持ちが悪いから。

「つつじの男花」「男花」は「雄花」で「をばな」、双子葉植物綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属 Rhododendron の合弁花の雄蕊(おしべ)部分。なお、僕らはよく、花を摘んでその花弁元を吸ったものだが、ツツジ科 Ericaceaeの全種の全草に有毒なグラヤノトキシン(Grayanotoxin)を持っている。これは細胞膜上のナトリウム・イオンチャネルに結合し、興奮と膜電位の変調を継続させ、カルシウム・イオンを流入させるため、骨格筋や心筋の収縮を強めたり、迷走神経を刺激した後に麻痺させる作用も持っており、蜜にも含まれる。ツツジ由来の蜂蜜から検出されることがあり、蜂蜜店では、よく小児向けの注意喚起があるのはご存知であろう。この毒性は、古くから知られており、古代ローマの博物学者プリニウスが、既に、ツツジ属Rhododendronの蜜由来の蜂蜜による中毒例を記録している(この毒性についてはウィキの「グラヤノトキシン」を参照した)。

「木蔦(きづた)」セリ目ウコギ科 Aralioideae亜科キヅタ属キヅタ Hedera rhombea 。常緑蔓性木本。落葉性の蔦(ブドウ目ブドウ科 Vitaceae)と異なり、常緑性で、冬でも葉が見られるので「フユヅタ」(冬蔦)の別名がある(当該ウィキに拠った)。

「マアブル」marble。大理石。

「サイネリア」キク亜綱キク目キク科キク亜科ペリカリス属シネラリア Pericallis × hybrida。北アフリカ・カナリヤ諸島原産。冬から早春にかけて開花、品種が多く、花の色も白・靑・ピンクなど多彩。別名フウキギク(富貴菊)・フキザクラ(富貴桜)。英名を“Florist's Cineraria”と言い、現在、園芸店などで「サイネリア」と表示されるのは、英語の原音「シネラリア」が「死ね」に通じることから忌まれるためである。しかし乍ら、“Cineraria”という語自体が“cinerarium”、実に「納骨所」の複数形であるから、“Florist's Cineraria”とは英名自体が「花屋の墓場」という「死の意味」なのである――余りに美しすぎて他の花が売れなくなるからか?  グーグル画像検索「Cineraria」をリンクさせておく。拓次は詩集「藍色の蟇」の「香料の顏寄せ」に「うづをまくシネラリヤのくさつた香料、」と登場させている。

「吸枝(きふし)」植物学・園芸用語。英語では“sucker”(サッカー)或いは“Primocane”(プライモーケン)と称し、植物の根元や地下茎から生えだす枝を指す(時に切り株や幹・枝から出る不要な枝についてもかく呼ぶ)。植物本体から栄養を奪うことから、除去の対象となることが多い。

「蘭」単子葉植物綱キジカクシ(雉隠し)目ラン科 Orchidaceae

「チユウリツプ」単子葉植物綱ユリ目ユリ科チューリップ属 Tulipa

「室咲(むろさ)き」温室咲き。

「イスピシア」単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科イキシア属 Ixia のことか(タイプ種はIxia polystachya )。総て南アフリカ、特にケープタウン付近が原産。花は当該ウィキを参照されたい。

「ばら」バラ目バラ科バラ属 Rosa

「ヒアシンス」キジカクシ目キジカクシ科ツルボ亜科ヒヤシンス連ヒヤシンス亜連ヒヤシンス属ヒヤシンス Hyacinthus orientalis

「銀とんぼ」蜻蛉(トンボ)目不均翅(トンボ)亜目ヤンマ科ギンヤンマ属ギンヤンマ亜種(東アジア産)Anax parthenope julius

「さくらんぼ」本邦では、ヨーロッパ・北西アフリカ・西アジアに自生するバラ亜綱バラ科サクラ亜科サクラ属サクラ亜属セイヨウミザクラ(西洋実桜)Prunus avium の果実を指す。

「いちご」狭義には栽培種であるバラ科バラ亜科オランダイチゴ属オランダイチゴ Fragaria × ananassa を指すが、広義にはオランダイチゴ属 Fragaria 全体を指す。移入は明治以降。

「ぐみ」バラグミ科グミ属 Elaeagnus の総称で、ここはその果実。漢字表記は「胡頽子」で、「ぐみ」は大和言葉である。本邦では十数種がある。当該ウィキによれば、『方言名に「グイミ」がある』。「グイ」は「とげ」(刺)の意、「ミ」は「実」を指し、『これが縮まってグミとなったといわれる。その他』、『中国地方ではビービー、ブイブイ、ゴブなどとも呼ばれている』とあった。

「沈丁花」フトモモ(蒲桃)目ジンチョウゲ科ジンチョウゲ属ジンチョウゲ Daphne odora 。]

2023/04/18

大手拓次 「ちらちら見える死」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 ちらちら見える死

 

罪のをとめは思ふことなく、知ることなく、

ながれ去る海路(うみぢ)をゆけば、

ただ、かろくとびかふ白い鳥がゐる。

うづまきをしてもえる狂氣は

靑白い館(やかた)のなかにうなだれて

ちらちら見える死にあそばされる。

 

只野真葛 むかしばなし (59)

 

一、片山東藏と云(いふ)、徂徠學者の先生、有(あり)し。父樣、十六、七より、御懇意と被ㇾ仰し。同年の人なり。正身(しやうしん)は、かたけれども、學流故、弟子は、ほうらつ人(にん)、多し。長庵を、はじめには物讀(ものよみ)につかはされしが、後、服部、隣(となり)へ、こしてより、隣のかたへ、遣(つかは)されし。今の四郞左衞門樣、此先生の弟子なりし。

 此先生の、わか盛(ざかり)の事とぞ【十八にて、先生に成(なれり)。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]。麹町、住居(すまひ)なり。

 折も折、時も時とて、麹町に富家(ふか)といはるゝが、十軒ばかり、親なくて、むだ金、遣ふ人ありし、となり。年は、廿四、五から三十までの間なるべし。金に飽(あき)して、遊んでも、吉原にては、藏前者(くらまへもの)の方(はう)、もてる故、

「どうぞ、あれを、ふみたい。」

と、寄合(よりあひ)、寄合、談合することなりし。

 文盲がはやる世の中、どうしてか、其内、壱人(ひとり)、先生の弟子に成(なつ)て見た所が、殊の外、はやわかりなり。

「是は、おもしろい。」

と、其仲間中(うち)を弟子にして、學文にかゝり、眞黑に成て、はげみし程に、百日、半年と云(いふ)内、とんだ、

「ぴんぴん」

とした、口が、きれるやふ[やぶちゃん注:ママ。]になり、藏前の文盲てやい[やぶちゃん注:ママ。「手合ひ」。連中。者ども。]を、

「唐言葉(からことば)[やぶちゃん注:漢語。]で、おし付(つけ)ろ。」

と、一度に押(おし)ていつた所が、吉原者の、よつてつかれぬ言葉遣い[やぶちゃん注:ママ。]【其世には、物しり人(びと)をば、「おくかなし。」と恐れしなり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。「おくかなし」は「恐(おつ)かなし」。]、たいこ持・女郞共、

「めつたな事いつて、笑はれやうか。」

と爪をくう[やぶちゃん注:ママ。]故、押(おし)が聞(きき)だし、

「何でも、唐流(からりう)に仕(つままつり)やしやう。」

と云合(いひあは)せ、吉原ものが、きてみれば、唐机(からづくゑ)の上に、孔雀の羽根を飾り、四角な字を書散(かきちら)して有(ある)ゆへ、よいか、わるいか、知れず、藏前者の、めて[やぶちゃん注:「馬手」「右手」。「右に出る者」の意。]に成し事、有しとぞ。「先生にも、逢方(あひかた)無くては。」

とて、寄合て、晝三(ちうさん)を揚(あげ)てやり、花々(はなばな)しき遊びなりし、とぞ。

 さるたのしみも、つきる時節、來り、あそび仲間一統に、たから、乏しく成し時、各々、橫根・べんどくのうれい[やぶちゃん注:ママ。]となり、むごきや、先生は、おせう番[やぶちゃん注:「御相伴(おしやうばん)」。]に、色に、はまり、瘡《かさ》は、かく、暮し方も、ならぬていで有しを、父樣、壹年ばかり、手前へ御引取(おひきとり)、療治被ㇾ成(なられて)て、御遣(おつかは)し、となり。

 母樣、御咄(おはなし)に、

「誠の『かた山』にて有し。壹年餘(あまり)もゐし内、終(つひ)に、袴(はかま)とりしを見ず。」

と被ㇾ仰し。

[やぶちゃん注:「片山東藏」不詳。真葛の父工藤平助と同年とあるので、生まれは享保一九(一七三四)年となる。

「徂徠學者」古文辞学派の儒者荻生徂徠(寛文六(一六六六)年~享保一三(一七二八)年)の思想を受け継ぐ蘐園(けんえん)学派の学者(徂徠は、後年、日本橋茅場町で私塾「蘐園塾」(地名の「茅」の異体字が「蘐」)の地に居を構えて子弟に講義したことにから、その門流をかく称した)。徂徠のそれは、基本に政治社会に対する有用性を据えた政治社会の現実的統一と安定性を保持した「経世済民」の儒学であり、具体的には歴史的実証的態度が認められるものの、その最終的な理想の核心には真の聖人への絶対的信奉があったとされる。

「學流故、弟子は、ほうらつ人」「ほうらつ」は「放埒」。原義は「勝手気儘でしまりのないこと」だが、転じて、「身持ちの悪いこと・酒色に耽ること」の意もある。東蔵は両義を生きたと言えよう。徂徠自身も、自負心が異常に強く、本邦の儒学の主流であった朱子学を徹底的に批判し(朱熹は本来の中国の古文字学を全く知らないとまで言い放っている)、敵も多かった。

「長庵」何度も出ている、真葛の弟で、長男であった長庵元保(幼名は安太郎。七草名「藤袴」。真葛より二歳下)。才知に富んだ神童であったが、二十二歳で早逝した。

「服部」既出既注の、平助が漢学を学んだ儒者服部栗斎(元文元(一七三六)年~寛政一二(一八〇〇)年)であろう。名は保命(「やすのり」か)で、通称は善蔵である。平助の師ではあるが、平助より二歳年下である。上総飯野藩の飛地摂津浜村(大阪府豊中市)で藩士服部梅圃の子として生まれた。若くして大坂の五井蘭洲に師事、中小姓として勤仕してからは、主に久米訂斎ら崎門(きもん)派の儒者に教えを受け、江戸では村士玉水に兄事した主君保科正富と、その子正率(まさのり)に書を講じたが、正率に疎まれ、三十八で致仕し、浪人中は築地の家塾信古堂に教えた(ここが平助の家に近かった)。寛政三(一七九一)年、幕府は学問所の直轄教授所を深川・麻布・麹町に設置したが、特に才を認められ、栗斎は麹町教授所の長を命ぜられた。崎門派の朱子学者であったが、字義・文義を抜きにして理を説きがちな崎門末流には批判的で、詩文に遊ぶ雅人でもあった(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「今の四郞左衞門」「今の」と言っているので、父平助の長兄の子孫か。

「藏前者」「日本庶民生活史料集成」の中山栄子氏の、この本文の後ろの方に出ている「藏前の文盲てやい」への注で、『倉前は今もその名が残っているが』(現在の東京都台東区蔵前のこと)、『雷門の南から須賀橋に至る場所』(この中央附近。グーグル・マップ・データ)『に幕府の米蔵があり、その差札の役をした人々は金持』ち『ではあるが』、『無学文盲の連中ばかりであった』とある。

「もてる」言わずもがなだが、「女に人気がある」の意。

「ふみたい」「踏みたい」。「一つ、同じ境遇を体験したいもんだ」の意であろう。

「唐言葉」ウィキの「荻生徂徠」によれば、『徂徠は、古代中国の古典を読み解く方法論としての古文辞学(蘐園学派』は『日本の儒教学派においては古学に分類される)を確立した』。彼自身、強い『支那趣味を持ち、文学や音楽を好んだ徂徠は、漢籍を読む』際にも『訓読』を『せず、元の発音のまま読むことによって本来の意味が復元できると考えた』とあるので、この片山東蔵も、漢語には、取り分けて通暁していたであろう。

「爪をくう」「爪を銜へる」と同義。「気おくれしてはにかみ、もじもじすることを言う。

「晝三」現代仮名遣「ちゅうさん」で、昼夜に於いて、それぞれの揚げ代が「三分」であったところに由来する、江戸新吉原での遊女の階級の一つの名、或いは、その遊女を指す。宝暦(一七五一年~一七六四年)以降は、最高の階級となった。

「橫根・べんどく」両足の付け根のリンパ節が炎症を起こして腫れる症状を言う。梅毒など性病が原因で起こるものが多い。便毒・横痃 (おうげん)

「瘡」通常は広く「皮膚のできもの、はれもの」を言うが、ここは梅毒の症状及び俗称を指す。

「誠の『かた山』にて有し」「肩山」は「和服の前身頃 (まえみごろ) と、後身頃の、肩での境目」を言うが、ここは、そうした、見分けのちゃんとした服を着たことがないことを、姓の「片山」に洒落て言ったもの。]

譚海 卷之五 上古卜部亀卜の事

 

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。標題は「上古(じやうこ)卜部(うらべ)亀卜(きぼく)の事」と読む。]

 

○本朝にて、上古、卜部の龜卜を用られしには、對馬の人、その事に召かゝヘられたる事、今の「義解」にも、みえたり。今なほ、對馬には、古の龜トの法を傳へたる家、二軒有(あり)、社人にて、世々、子孫、是をつたへ、神祕として、ほかにもらさず、甚(はなはだ)龜卜の事、功驗(こうげん)ありて、比類なき事なり。龜をやく「うらかた」も、上古のまゝに殘りたり、とぞ。對州(つしう)の儒者兩伯陽といふもの、はじめは信ぜざりしが、功驗を見て感服せし、とぞ。また、豐前宇佐八幡宮の社家にも、龜卜の法を傳へたるあり、享保年中、江戶へ召せられ、上覽ありし事也。當時、吉田家につたへたるは、龜卜の甲の形に、紙をきりて置(おき)、かたはらにて、香を焚(たき)、其煙(けむり)の、紙に燋(せう)ずるをもつて、吉凶をさだむる事也。其かたばかりを行(おこなひ)て、甚しき驗は、なし、對馬に殘りたるは、誠に上古の傳にして、吉凶を、たがへず、めづらしきことなりとぞ。

[やぶちゃん注:底本の竹内利美氏の注に、『対馬には』中国伝来の古式の正統な『それがたまたま伝承されていた』とある。「長崎新聞」公式サイト内の「亀卜神事で吉凶占う」と冒頭題とした二〇一九年二月八日附の記事に、『長崎県対馬市厳原町豆酘(つつ)の雷神(いかづち)社で』七『日、焼いた亀の甲羅の色やひび割れで一年の吉凶を占う亀卜(きぼく)神事「サンゾーロー祭」があった。今年の豆酘地区は「吉」、対馬全体については「水産業 良」「経済 上々」「農業 平年作」「天候 並」という結果が示された』。『亀卜神事の占いは、古くから地元の岩佐家が世襲している。江戸時代の対馬藩では、政治動向や天変地異などを占う重要な行事と位置付けられ、毎年旧正月』三『日に古式にのっとって執り行われている』。『占いを担う「卜者(ぼくしゃ)」は』、第六十九『代目の岩佐教治さん』(六十七歳)『だが、病気療養中のため』、二〇一〇『年から』甥『の会社員』で福岡市在住の『土脇博隆さん』(三十八歳)『が務めている』。『神事には地元住民ら約』三十『人が参列。神殿に酒や米、塩などを供えた。土脇さんは「トホカミエミタメ」と』、三『度唱えた後、火鉢であぶった桜の木を六角形をしたアカウミガメの甲羅の一片に押し当てた。占いの結果は、土脇さんが筆で半紙にしたためた』。『神事の後、住民はたき火を囲み、「おー、サンゾーロー」と祝言を唱えた』。『土脇さんは「昨年と比べ、全体的に良い占いができた。対馬の大事な神事として、地元の方と一緒に継続していきたい」と話した』とあった。今も正しく受け継がれているのである。

「紙に燋ずるをもつて」煙で生じた焦げ或いは変色した痕(あと)を以って。]

譚海 卷之五 武藏野幷ほりかねの井の事

 

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]

○武藏野の跡、殘りたる所は、江戶靑山より、稻毛(いなげ)の方へ、六里ばかり行(ゆく)時は、玉川に至る、川の前後、今に廣野にして、萩・薄、おほし、このあたり、それ也。四谷より高井戶道中に出る所も曠野(ひろの)あり、これも稻毛につゞきて、「武藏野」といへり。又、川越より八王寺へゆく間、三、四里、曠野にして、「武藏野」といひつたふ。是は、誠に人家もなく、むかしのまゝなるものと、おもはるゝとぞ。その道に「ほりかねの井」といふ物あり、大きなる井にて、摺鉢の如く、内ヘ、すぼく、外へ、廣く、地中へ掘入《ほりいれ》たる事、壹丈餘(あまり)にみゆる井なり、むかしは、水をくむ所まで、はるかに地中へくだりて、汲《くみ》たる事と見えたり。今は井、埋(うづ)もれて、落葉・あくたなどに、夫(それ)ともみえず、その井の面影のみ殘りてある事とぞ。

[やぶちゃん注:「稻毛」これは示された距離と「玉川」から、現在の多摩地域南部に位置する東京都稲城市(いなぎし)のことである。この地域は中世に稲毛氏(平安時代に支配していた小山田氏が鎌倉時代に改姓して稲毛氏を名乗った)の所領であった。

「ほりかねの井」中古より東国の歌枕として知られ、清少納言の「枕草子」にも載るが、八王子のそれは不詳。方角違いであるが、現在の埼玉県狭山市堀兼の堀兼神社の境内に「ほりかねの井」の伝承を持つ、その一つがあるがあって、ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)だが、「狭山市」公式サイト内の「指定文化財」の「堀兼之井」(跡)を読むに(写真有り)、『この井戸は北入曽にある七曲井』(ななまがりのい)『と同様に、いわゆる「ほりかねの井」の一つと考えられていますが、これを事実とすると、掘られた年代は平安時代までさかのぼることができます』。『井戸のかたわらに』二『基の石碑がありますが、左奥にあるのは宝永』五(一七〇八)年三『月に川越藩主の秋元喬知(あきもとたかとも)が、家臣の岩田彦助に命じて建てさせたものです。そこには、長らく不明であった「ほりかねの井」の所在を』、『この凹(おう)形の地としたこと』、『堀兼』とい地名は、「掘り難かった」と『いう意味であることなどが刻まれています。しかし、その最後の部分を見ると、これらは俗耳にしたがったまでで、確信に基づくものではないともあります。手前にある石碑は、天保』一三(一八四二)年『に堀金(兼)村名主の宮沢氏が建てたもので、清原宣明(きよはらのぶあき)の漢詩が刻まれています』。『それでは、都の貴人や高僧に詠まれた「ほりかねの井」は、ここにある井戸を指すのでしょうか。神社の前を通る道が鎌倉街道の枝道であったことを考えると、旅人の便を図るために掘られたと思われますが、このことはすでに江戸時代から盛んに議論が交わされていたようで、江戸後期に』編纂された「新編武蔵風土記稿」(林述斎編・文政一一(一八二八)年成立)を『見ても「ほりかねの井」と称する井戸跡は各地に残っており、どれを実跡とするかは』、『定めがたいとあります。堀兼之井が後世の文人にもてはやされるようになったのは、秋元喬知が宝永』五『年に石碑を建ててから以後のことと考えられます』とあった。この「七曲井」は埼玉県狭山市北入曽(きたいりそ)に跡がある。「江戸名所図会」(寛政期(一七八九年~一八〇一年)に編纂が始まったが、全冊の刊行は天保七(一八三六)年)の「卷之四 天權(てんけん)部」の「堀兼の井」には、先の堀兼村のそれを掲げ、「千載和歌集」を始めとして、最後に「枕草子」を引用、その後には、当地の土俗の言として「往古(そのかみ)日本武尊(やまとたてけるのみこと)東征のとき、武藏野、水、乏(とも)しく、諸軍、渴(かつ)に及びければ、尊(みこと)、民をしてここかしこに井を掘らしむるに、つひに水を得ざれば、龍神に命じて流れを引かしむる、となり【いまの不年越川(としこさずがは)あるいは入間川のことなりともいへり。】。』と記した後、「太平記」・「日光山紀行」を引きつつ、他の場所の「堀兼の井」(「堀」はママ)結果して、『堀兼の一所ならず』とし、畳み掛けて、『さればこの井一所に限るべからずといひて可ならんか』と結んでいる(本文は所持する「ちくま文芸文庫」版の本文を正字化して引いた)。]

大手拓次 「妖氣」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 妖 氣

 

赤い頭、黃金(こがね)の齒、

お前はわたしの子だ。

古い、しをん色に染めた木靴をはいて、

物事のあつまる病閒へ行く。

それでいいのだよ、

綠はけむりをはいてほろびる。

たましひは快い羽をつけてまひ立つ。

 

[やぶちゃん注:「しをん色」サイト「伝統色のいろは」のこちらで色が確認でき、そこには『紫苑色(しおんいろ)とは、紫苑の花の色のような少し青みのある薄い紫色のことです。紫苑はキク科シオン属』(キク目キク科キク亜科シオン連シオン属シオン Aster tataricus :和名異名には「ジュウゴヤソウ」(十五夜草)・「オモイグサ」(思い草)の他に、「オニノシコグサ」(鬼の醜草)という有難くないものもある。但し、これについては、小学館「日本国語大辞典」の「おにのしこぐさ」の「語誌」に『「万葉集」に見える「鬼乃(之)志許草(しこノシコぐさ)」(七二七』・『三〇六二)の「鬼」を』「オニ」『と読んだところから生じた語。元来は』、『不快や嫌悪を表わす』「シコ」『を重ねた「しこのしこ草」で』、『役立たずのいとわしい草の意』とする一方、『「俊頼髄脳」では親を失った兄弟の孝養譚を引いて紫苑の異名としている。その話は、兄は親の死を忘れるために墓に萱草(わすれぐさ)を植え、弟は忘れないために紫苑を植えたので』、『墓の屍をまもる鬼が弟の孝心に感じて予知夢を授けるというもの』としつつ、これは『他に龍胆(りんどう)』を指すと『する説もある』とあった)『の多年草で、古名を「のし」といい、平安時代には「しおに」とも呼ばれていました。秋には薄紫色の美しい花を咲かせることから、古くからとても愛されており、紫苑色の色名はその可憐な花の色からきています』。『紫苑色は、紫根で染めて椿の灰汁で媒染した物。特に紫を賛美した平安期に愛好され、秋に着用されていました。『源氏物語』などの王朝文学にも「紫苑の織物」「紫苑の袿(うちぎ)」「紫苑の指貫」などと』、『たびたび登場します。重(かさね)』(襲)『の色目(いろめ)としても秋を表わし、「表・薄色、裏・青」、「表・紫、裏・蘇芳」などの組み合わせがありました』とある。

「病閒」の「閒」は詩集「藍色の蟇」での用字に従った。]

大手拓次 「あゆみ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 あ ゆ み

 

神よ、うれふる心を抑へて

ひとつ、ひとつ醗酵してゆく、

緋の衣笠のしたに未知の世界をさすり、

よろめいてゐる足を泥地(どろち)のなかへいれる。

 

[やぶちゃん注:「緋の衣笠」「緋」にちょっと引っかかるが、この「衣笠」は、高山性の大きな独特の白い萼片を持つ単子葉植物綱ユリ亜綱ユリ目科メランチウム科 Melanthiaceaeキヌガサソウ(衣笠草)属キヌガサソウ Paris japonica か。同種のそれは、初めは白いが、芯にある本当の花(内花被片。糸状で目立たない)の開花した後に萼片部は紅紫色になるからである。当該ウィキを参照されたい。形状から、「未知の世界を」摩(さ)する幻想へ導く花となれば、これは、形状ともに違和感がなく、しっくりくるからである。他にバラ目バラ科サクラ属ヤマザクラ品種キヌガサ(衣笠) Cerasus jamasakura var. jamasakura ‘Kinugasa’があるが(サイト「桜図鑑」の同品種の画像を参照されたい)、同品種の花は薄紅色であり、如何にも「桜」であり、これといって、幻想性に必ずしも結びつかないもののように私には思われるし、別に知られた奇体なレース状の菌網(きんもう)を開くキノコに、なかなか普通には開いたところは見られない、竹林に多く植生する(私も嵯峨野で一度だけ見た)菌界担子菌門菌蕈(きんじん)亜門真正担子菌綱スッポンタケ目スッポンタケ科キヌガサタケ(衣笠茸)属Phallus(タイプ種キヌガサタケ Phallus indusiatus )等もあるが(同属の菌網(きんもう)部分は種によっては橙色や桃色になることがあるようである)、だったら、拓次は「衣笠」に「茸」を添えて三字で「きぬがさ」として、はっきりさせるように私には思われる(当該ウィキを見られたい。う~ん、幻想性からは、これは「群抜」と言え、一読、私が想起したのは、これなのだけれど)。……いや……それとも……これは――そのまま、素直にとるべきか?……天の羽衣の如く、天からぶら下っている、幻しの手弱女の上に差しかける絹を張った長柄の傘……或いは、女神の頭の上にある神々しい天蓋(てんがい)のそれを……漠然とイメージすればよいのかも知れぬ……大方の御叱正を俟つものである。]

大手拓次 「綠の締金 ――私の愛する詩人リリエンクローンヘ――」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 綠の締金

   ――私の愛する詩人リリエンクローンヘ――

 

葡萄の實をふくんだやうにすずしく、

おまへの唇がわたしの思ひでとなつて生きるとき、

太陽はきいろく、マルメロのやうにかをりはじめる。

太陽は上手な庭師のやうに樹樹(きぎ)に花をつけ、葉をつける。

かげをつくつて、そのしたにゆきどころのない憂鬱をあそばせる。

太陽は わたしの胸へ勿忘草(わすれなぐさ)の芽をうゑる。

おお おお よろこばしい黃色い太陽よ、

わたしはこのうすいろの帶についた綠の締金(しめがね)をかたくしめて、

ゆかうよ、堆肥(つみごえ)のあたたかく蒸(む)れる畑の隅へ、

ゆかうよ、ねむさうな眼をした牛がおたがひに顏をなめあつてゐるところへ。

 

[やぶちゃん注:「リリエンクローン」ドイツの詩人デトレフ・フォン・リーリエンクローン(Detlev von Liliencron 一八四四年~一九〇九年)。当該ウィキによれば、『キール出身』で、一八六六『年より軍隊に入り』、『普墺戦争』・『普仏戦争に従軍』し、『負傷』した。『軍隊を退いたあとは』、『一時』、『アメリカ合衆国に渡った。帰国後』、『プロイセンの官吏となり』、三十『代で詩作を始め』、「副官騎行」(Adjutantenritte:一八八三年刊)で『注目を集めた。軍人気質の実直さや』、『文学的な伝統にとらわれない感覚的な詩風で、印象主義の詩人として人気があった。劇作や小説も残している』とある。既電子化注の『大手拓次譯詩集「異國の香」 麥畑のなかの死(デトレフ・フォン・リーリエンクローン)』を参照されたい。

「マルメロ」漢字表記「榲桲」。バラ目バラ科シモツケ亜科ナシ連ナシ亜連マルメロ属マルメロ Cydonia oblonga。一属一種。ウィキの「マルメロ」によれば、中央アジアを原産とし、『果実は偽果で、熟した果実は明るい黄橙色で洋梨形をしており』、長さ七~十二センチ、幅六~九センチあり、『果実は緑色で灰色~白色の軟毛(大部分は熟す前に取れる)でおおわれている』。『果実は芳香があるが』、『強い酸味があり、硬い繊維質と石細胞のため生食はできないが、カリンと同じ要領で果実酒(カリン酒に似た、香りの良い果実酒になる)や蜂蜜漬け、ジャムなどが作れる』とある。江戸時代に既に渡来している。私の「耳嚢 巻之七 かくいつの妙藥の事」を参照されたい。

「勿忘草(わすれなぐさ)」シソ目ムラサキ科ワスレナグサ属 Myosotis の総称。和名シンワスレナグサ(真勿忘草)Myosotis scorpioides に与えられているものの、園芸界で「ワスレナグサ」として流通している種は、ノハラワスレナグサ Myosotis alpestris・エゾムラサキ Myosotis sylvatica、或いはそれらの種間交配種である。]

下島勳著「芥川龍之介の回想」より「古織部の角鉢」

 

[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載によれば、昭和一〇(一九三五)年九月二十五日発行の『茶わん』初出で、後の下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。

 著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た(但し、単行本刊行時期のため、正字と新字が混淆してはいるので、そこにはママ注記を入れた)。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。一部に注を挿入した。また、本篇にはルビが一切ないが、なくても概ね読めるが、一応、若い読者のために、ストイックに《 》で推定で歴史的仮名遣で読みを振った。]

 

古織部の角鉢

 

 鹽田力藏翁の著「陶磁器硏究」の資料として、芥川龍之介君所藏古織部の角鉢を撮影させて貰ふために、樂之軒だか北原君だかの代理として、私がその借り受けの役目を承はり、澄江堂へ出かけて行つたのは昭和二年のたしか四月の――ちようど[やぶちゃん注:ママ。]鵠沼から歸つてゐられたある日の午後であつた。

 客間の椽《えん》に將棋盤を据えて、ご老父と珍らしく戰ひの最中だつた芥川君に――豫《かね》てお話しておいた例の品を唯今拜借に出かけたのだが――といふと、これは如何なこと、いつもならば氣輕く應じてくれる筈の芥川君が突然、『先生――あんなものはさう大したものじやないんですよ。――北原大輔君はお世辞[やぶちゃん注:ママ。]に褒めてゐるので、決してあんなものを心からさう尊《たつと》く思つてゐるわけがないんです。何だか莫迦にされるような氣がするから、やめにして下さい』といふのである。

 私はオヤ今日はどうかしていゐるな――聊か意外な感に打たれたので――

 『僕は一體あの品がほんとう[やぶちゃん注:ママ。]ぬ良いか惡いか知らないが、北原君はその道の專門家で、現に帝室博物館の陶磁器主任ですよ。ほかのことならいざ知らず、苟《いやしく》も陶磁器についてお世辭を言ふやうな人物であるかどうかはわかつてゐられる筈だがな……』と、私の言葉の終るか了《をは》らぬうちに突然

 『おばあさんおばあさん』と、大きな聲で母堂を呼び、早速取り出して頂いたのは見覺えの古色蒼然どころか、頗る眞つくろけな箱であつた。

 そのとき冷然一瞥を與へた芥川君の眼が平穩に復したと見る間に、もう將棋盤の上を見つめてゐた。

 實をいふとこの頃の芥川君は、既に書畫や古器などには殆ど興味も執着も失はれてゐたぱかりか、甚だうるさいものに思つてゐたらしい――のみなちず、時に玩《もてあそ》ぶ人をさへ竊《ひそ》かに輕蔑してゐるのではないかと思はせることすらないではなかつた。だからあの刹那の言行もそんな悲しい現れの一端と見るべきではなからうか?

 一體この古織部の角鉢は、室生犀星君などもよく行つた團子坂上の古道具屋で買つたもので、佐藤春夫編「おもかけ」[やぶちゃん注:ママ。]の中の愛玩品の始めの頁に載つてゐる。その解說に「古織部角鉢。骨董屋の塵のなかゝら彼が自ら得たもの。」これは彼の最も自慢の品であつた。全集第六卷三六七ページ「わが家の古玩」にいふ「陶器もペルシヤ、ギリシヤ、ワコ、新羅、南京古赤繪、白高麗を藏すれども、古織部の角鉢の外は言ふに足らず」といつてゐるのがこれである。

 ……が、この自慢の愛器どころか、既に總てのものから執着の離れてゐた芥川君は、鹽田翁の著害の出版されないうちにあの世の人となつてしまつたのである。

    (昭和一〇・九・二五・茶わん)

[やぶちゃん注:『鹽田力藏翁の著「陶磁器硏究」』陶磁器研究家で美術評論家でもあった鹽田力藏(しほだりきざう 元治元(一八六四)年~昭和二一(一六四六)年:陸奥安達郡(後の福島県内)出身。福島師範を卒業後、岡倉天心の知遇を得て、東京美術学校(現在の東京芸大)で陶磁講座を担当し、日本美術院の編集部を主宰した。明治四〇(一九〇七)年から「日本近世窯業史」編集のため、全国の陶窯地の実地調査に当たった)が、芥川龍之介自死の五ヶ月後の昭和二(一九二七)年十二月にアルスから出版した「陶磁工藝の硏究」のこと(人物については、講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。

「樂之軒」「脇本樂之軒」(わきもとらくしけん 明治一六(一八八三)年~昭和三八(一九六三)年)は美術史家。山口県出身。本名は十九郎(そくろう)。藤岡作太郎に国文学を、中川忠順に美術史を学び、大正四(一九一五)年、美術攻究会(後の東京美術研究所)を設立し、昭和一一(一九三六)年には機関誌『画説』(後の『美術史学』)を創刊した。昭和二五(一九五〇)年、東京芸大教授。重要美術品等調査委員・国宝保存会委員も務めた。著作に「平安名陶伝」がある(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。」

「北原君」後に出る通り、北原大輔(明治二二(一八八五)年~昭和二六(一九五一)年)。日本画家。長野県生まれ。東京美術学校予科日本画科卒。下島勳の紹介で、芥川と面識を持った。龍之介も参加していた文人・財界人の「道閑会」にも加わっており、龍之介の大正一四(一九二五)年二月『中央公論』初出の「田端人」の掉尾に彼が挙げられ、寸評されてある(リンク先は「青空文庫」。新字旧仮名)。

「昭和二年のたしか四月の――ちようど鵠沼から歸つてゐられたある日の午後であつた」芥川龍之介自死の四カ月前。芥川龍之介新全集の宮坂覺氏の年譜を見るに、鵠沼から帰ったのは、四月二日で、その後の同年譜では、まず、四月六日に下島が来訪しているが、この時は甥の連(むらじ:後に勳が養子とした)を連れであり、ちょっとこのシークエンスとは合わないように思われる。その後では、四月十四日の午後二時頃に来訪、室生犀星も来て(同行ではないように思われる)、『夕方まで俳談などをする』とあり、これも合わない感じがする。その後の四月二十七日の条を見ると、『夕方、下島勲が来訪する。』とあって、続けて、『所蔵の陶磁器を見るため、平松麻素子が下島宅を訪れている』とあることから、この日がその日のように見える。とすれば、ほぼ自死三ヶ月前となる。なお、この四月七日には、芥川龍之介は『「歯車」の最終章「飛行機」を脱稿した後、田端の自宅から帝国ホテルに向かう。この日、帝国ホテルで平松麻素子と心中することを計画していたとされる』が、『平松は、芥川の気持ちを静め、自殺を食い止めようとしていたものと考えられ』、『平松が』、急遽、ホテルから場を外して、『小穴隆一の下宿を訪ね、文、小穴、葛巻義敏の三人が』ホテルに『駆けつけて、未遂に終わる』とある。この自殺未遂事件は別説では、この時でないとするものもあるが、私はこの宮坂氏の時期指定を正当と考えている。

「ご老父」言わずもがな、養父芥川道章。

「おばあさん」「母堂」後者から道章の妻で、龍之介の養母芥川儔(とも)である。前者は龍之介の子らが生まれてからの芥川家内での呼び名として違和感がない。なお、龍之介が最も愛した同居している伯母フキのことは、龍之介は、決して、「おばあさん」とは呼ばない。そのような記載は一度も見たことがない。

「團子坂」現在の東京都文京区千駄木のここ(グーグル・マップ・データ)。この「古道具屋」は、芥川龍之介がかなりの骨董物を購入していることが、彼自身や知人らの記事で確認出来るが、後に、龍之介は、この店の信用性を疑う発言もしている。

『佐藤春夫編「おもかけ」』「おもかげ」が正しい。昭和四(一九二九)年座右宝刊行会刊。限定百五十部で和綴じで布張帙入り。芥川龍之介の一周忌に合わせて、佐藤が編んだ記念冊子。故人を偲ぶ種々の写真と、その解説が載る。

「わが家の古玩」遺稿。旧全集では末尾に編者による『(昭和二年)』のクレジットがある。「ワコ」調べて見たが、よく判らない。所持する筑摩全種類聚版「芥川龍之介全集」の注でも『不詳』とある。「青空文庫」のこちらで新字であるが、全集類聚版底本のものが読める。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 四三番 僞八卦

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

      四三番 僞八卦

 

 或所に大層悋氣病《りんきや》みなゴテ(夫)があつた。いつも外から歸つて來ると、おい見屆けたぞ、今日は誰某(ダレソレ)が來たなアと言ふのが癖であつた。それが又よく當るので女房も呆れて、なに、この僞(ウソ)八卦がと言つて居た。[やぶちゃん注:「悋氣病み」この場合は焼餅きが病的なほど強いことを指す。]

 恰度《ちやうど》其の頃、仙臺の殿樣の金倉《かねぐら》を破つて千兩箱を十箱盜んだ者があつた。いくら嚴しい詮議をしても泥棒が捕まらないので、殿樣は近所近國によい八卦置きはないかと訊ねた。家來の者がいゝ八卦置きが南部の國にあるヅ話で御座りますと申上げたら、そんだら一刻も早くその八卦置きの處へ行つて八卦を置いてもらつて來《こ》ウと仰せ出られた。そこで重立つた家來どもが勢揃ひをして、南部の八卦置きの所サぞろぞろとやつて來た。

 或る日、僞八卦置き夫婦が家で話をして居ると、表サ立派なお侍樣達が駕籠に乘つて、大勢どやどやと御座つて、南部の名高い八卦置き殿は御在宅かと言つて入つて來た。夫婦は魂消《たまげ》てハイ居りますと申し上げると、それでは申入れるが、今度仙臺樣の金倉から千兩箱が十箱盜まれたによつて、それでお前を賴んで八卦置いて貰ふベエと思つて、斯《か》うして吾々がお前を迎へに來たのだ、早く仕度をして俺達と一緖に行(アユ)でケろと言つた。女房はそれを聽いて驚いて、そだからお前が僞八卦など置かねばアええのにと悲しんだけれどもハヤ追ツつかないから、ともかく仕度をさせて、お前度胸をきめてしつかり八卦を置いて來もセと言つて、夫を送り出した。僞八卦は迎への駕籠に乘せられて、仙臺のお城下指して連れて行かれた。

 僞八卦の乘つた駕籠が、南部と仙臺との國境の五輪峠でしばらく一時(イツトキ)の憩みをした。中間《ちゆうげん》や雲助どもは木蔭へ行つて休みながら、アノ男はタダの八卦置きではなかンベえ、なんでも神憑《かみつき》に相違ない。アレが行つたらきつと金箱《かねばこ》もオキ出されるに違いない。早く咎人《とがにん》のお仕置きを見物したいもんだと語り合つて居た。それを聽いて頭のお侍は、僞八卦の駕籠の側へ寄つて來て、ちよツとお前に折入つて賴みたい事があるが、聽いてくれまいかと言つた。僞八卦がそれは何だと云ふと、侍は人拂ひをしてから、さてさて八卦置き殿やい、アレあの家來どもが今云ふて居る通り、お前が行けば殿樣の盜まれた金箱も見現はされるに違ひがない。さうするとこの俺の首も胴中《どうなか》さついては居まい。そこでお願ひだが、實は俺はその千兩箱の在る所をチヤンと知つて居る。その中《うち》一箱はお前が取り一箱は俺が貰つて、あとの八箱はお前が八卦で當てたやうに見せかけて殿樣サ返して遣るベエ。どうだこの相談に乘る氣はないか、若《も》しも不承知なら、不憫ながら今此所でお前の生命(イノチ)を俺がもらうベアと云ふのであつた。ソレを聽いて僞八卦は靑くなつて、よいからお前樣の云ふ通りにすベエが、ほんだらその金箱が何所に匿してあると訊くと、お城の後(ウシロ)の泥の中サ匿して置いたからと云ふ。そんだら俺が其の通りに云ふからよいと云ふと、お侍はお前のおカゲで俺も助かると云つて大層喜んだ。それから僞八卦を連れて勢いよく殿樣のお城に乘り込んで行つた。[やぶちゃん注:「オキ」意味不明。「直(じき)に」の意か。]

 僞ハ卦は仙臺の殿樣の御殿に行つて、八卦をオイて、盜まれた金箱はお城の堀の中にあるが、十箱のうち二箱は既に人手に渡つて西國に行つたので探しても無駄である。八箱だけ早く引き上げろと云つた。殿樣はもう少し早かつたら十箱の金みんなを取り返せたのに、お前を賴むことが少し遲かつた、それでも八箱あるならモツケの幸ひである。シテその泥棒は何所の者で如何《どう》なつたと訊いた。僞八卦は、それは今云ふ通り西國の大泥棒で今西國の方サ行つて居る。探しても無駄だと答へた、殿樣はそれでは仕方がない、アトを取られない中《うち》に早く其の八箱を引き上げろと云つた。そこで多勢《おほぜい》の人夫どもが堀の中に入つて探すと、いかにも金箱が八箱ソツクリとしてあつた。(二箱は前夜の中に侍と僞八卦とが取り出して匿して置いたから無かつた。)

 殿樣は大層喜んで、お前のやうな偉い八卦置きは世界中にアンベかなアと言つて、禮に千兩箱一箱を與へた。僞八卦は見たことも聞いたこともない金箱を二ツまでも持つて小踊りしながら家へ歸つた。そしたら嬶《かかあ》も喜んで、ソレ程お前は偉い技倆のある人とは思はなかつたと云つて、夫婦仲よく暮した。

  (二番同斷の四。)

[やぶちゃん注:「二番同斷」「觀音の申子」と同じソースで、そちらの附記には、『遠野町、小笠原金藏と云ふ人の話として松田龜太郞氏の御報告の一。大正九年の冬の採集の分。』とある。]

2023/04/17

甲子夜話卷之七 10・11 長村鑑がこと幷林子對州歸泊のとき於壱州水軍の訓練を觀る事・又壱州旅泊の間、林子、長村と應酬の事

 

[やぶちゃん注:今回は特異的に記号等を用いて読み易くし、句読点も変更・追加した。また、《 》で推定で歴史的仮名遣で補った。二篇を合わせたのは、内容が、孰れも静山が愛惜した平戸藩重臣であった故長村鑑(鑒)(ながむらあきら)の追懐記事であるからである。漢文部は後で訓読した。その内の訓点の踊り字「〱」は「〻」に代えた。]

 

7―10 長村鑑がこと幷《ならびに》林子《りんし》對州歸泊のとき於壱州水軍《いつしうにおいてすいぐん》の訓練を觀る事

 長村鑑は【内藏助。】少年のとき、予が側に左右し、才量、有《あり》て、學を好めり。長じて京師に遊學し、淇園《きゑん》に師事し、學術、長進す。後、擢《ぬきん》でゝ家老とし、年來、政治に、功勞、多し。予、退隱の後は、平戶に在《あり》て、專ら、心を家譜修撰のことに盡す。近年、國用不足のことに因《つき》て、都に出づ。林氏も、從來の相識《さうしき》にて、亦、其器度の不凡を以て、屢《しばしば》、邸に招《まねき》て懇遇す。常に云《いふ》、

「諸家の家老、知る者、多し。鑑においては、屈指、三、四人の中なり。」

と。

 鑑、近來、善《よく》病《やみ》、久《ひさしく》して、都に出《いづ》るによつて、面接して、喜ぶ。病後、衰狀なく、仍ㇾ舊《きうにより》て、力を經濟に盡す。都下の事、終《をはら》ずと雖も、姑《しばら》く歸國して事を遂《とげ》んとす。然《しかる》に、歸途にして、病、發し、平戶に抵《いた》り、尋《つい》で、沒す。可ㇾ悲《かなしむべし》。途《みち》に在て所ㇾ賦《ふするところ》あり。

   庚辰西歸、關左黃疸ㇾ京二旬、

   竣ㇾ事ヲ南下、留ルコト浪華又二旬餘。所ㇾ

   患依然。因賦。

 官道ㇾ轎ㇾ騰ント、老羸無ㇾ奈トモスルコト

 病相憑ルヲ。液乾黃金佛、心熱白玉

 氷。京洛花殘テ行クニ不ズㇾ耐ヘ、浪華酒美ニシテ

 喫ルコトㇾ能。奮然トシテケドモㇾ事多勞倦、臥

 閱シテ方書

此詩は、鑑が西歸のとき、佐藤坦、請《コフ》て其弟子某を從行せしむ。不日にして、鑑、疾《ヤ》む。某、此詩を錄して、都におくる。坦、

「第三句は詩讖《ししん》ならん。

と掛念す。後、果して、訃、至る。

 予、始《はじめ》、此詩を不ㇾ知《しらず》。坦が言《げん》に因《より》て、始て聞き、澘然《さんぜん》として、涕《なみだ》、下る。

 因て、記す。

 鑑が下世《かせい》においては、林氏、

「甚だ痛惜して、これ、一人の不幸に非ず、平戶藩の不幸なり。」

と云へり。

 鑑が國事に於る、般々《はんぱん》の功績あり。

 武備のことに至《いたり》ては、殊更に苦心して、後法《こうはふ》を遺すこと、多し。

 辛未の年、津島韓聘《かんへい》の時、上使を始め、官の諸有司、予が壱州領を經過すれぱ、諸事指揮の爲めに鑑を壱州に出役せしむ。聘事、畢《をは》りて、林氏、壱州に停泊するとき、風本《かざもと》一組の水軍、演習をして、林氏に見せしむ。林氏、歸後、その事を話して、操練の熟したると、指麾《しき》の體《てい》を得たるを激賞す。予は領内のことなれども、却《かへり》て、見ず。林氏が話を間く而已《のみ》。

 その日、午牌《ごはい》やゝ下《さか》りたる頃、林氏は、客舍にて喫飯の折から、鑑、來れり。元より懇交のことなれば、飯中に對面せしに、鑑、云ふ。

「水軍の、人も舟も、備へたり。折よく、好晴なれば、神皇山に上りて見玉へ。」

と云ふ。

 飯、終りて、出行《いでゆ》く。

 鑑は、一人の大筒打《おほづつうち》を從へて、林氏の從者と共に出て、神皇山に抵《いた》る。

 此地は風本の湊を目下に俯觀する所なり。かねて幕次《ばくし》を設けたる所に、林氏、坐す。

 鑑、指揮して、相圖の砲を發せしむれば、遙《はるか》のあなたにて、答《こたへ》の砲聲、響くと、湊の内の川に用意したる軍船大小とも、次第を追《おひ》て、徐々に漕出《こぎいで》、山右より山左に、漕行《こぎゆ》く。士卒、皆、戎服《じゆうふく》して、兵器を執り、旌旗《せいき》計《ばかり》は眞を用ひず、各《おのおの》、色の紙を以て、製造せり。これにて演習の意を表《あらは》せり。船、大小、凡《およそ》七、八十、先後の順を違《たが》ヘず、行列を正《ただし》くして、山左の海灣に漕入《こぎい》りて屯《とん》す。扨、海中には、船、二、三嫂を舫《もや》ひ、その上に、席を、高く張連《はりつら》ねて、かりの敵船に設《まう》けなす。夫《それ》を目當《めあて》として、先手船《さきてぶね》より、順々に漕出《こぎいだ》す。先手は、皆、大筒なり。その玉行《ぎよくかう》、山の見物所《けんぶつどころ》の目通り、少し下る程なり。貫目《かんめ》のある玉は、一塊の黑雲となりて馳《は》す。砲聲、山海《さんがい》に振ふ勢《いきほひ》、婾快《ゆくわい》、云《いふ》ばかりなし。目當へ打付《うちつけ》たる船は、開《ひらき》て、山右のもとの川に入り、その跡より、段々に出船して、打かくる。夫より、小筒の船は、數十丸を亂發し、鎗・長刀の船は、各、その長兵《ちやうへい》を執りて漕寄《こぎよす》る。終りに壱州城代の船、金鼓を具して漕出るが、結局なり。各船、湊中《みなとうち》に往來して、五彩の旌旗、夕陽に映發《えいはつ》し、大小の砲響《はいきやう》、山海も動搖する計《ばかり》に覺へて、

「かゝる壯觀は、未曾有の事なりし。」

とて、林氏、悅懌《えつえき》せり。又、

「この演習を組立てゝ、己《おのれ》は、聲色《せいしよく》をも動かさず、幕次に在りながら、其指揮の屆きたること、手足を使ふ如くなりしは、鑑に非ずして、爲《なす》べきの人は、あるまじ。」

とて、林氏、荐《しき》りに賞讚なりし。

■やぶちゃんの呟き

 漢文の賦と前書部分は、ブラウザの不具合を考えて、底本とは異なった字配とした。以下にその長村の賦を前書ともに推定訓読しておく。

      *

 庚辰の西歸(せいき)に、關左(くわんさ)に

 黃疸を發し、京に入りて、二旬、事を竣(をは)

 りて南下し、浪華(なには)に留(とど)まる

 こと、又、二旬餘り。患(わづら)ふる所、依

 然たり。因つて、賦す。

 官道に轎(きやう)を馳(は)せて、氣は騰(のぼ)らんと欲するも、老羸(らうるい)、奈(いかん)ともすること、無し、病ひの相(あ)ひ憑(つか)るるを。液(えき)、乾きて、漸(やうや)う化(くわ)す、黃金佛(わうごんぶつ)、心、熱(あつ)して、常に思ふ、白玉(はくぎよく)の氷(ひやう)。京洛(けいらく)、花、殘りて、行くに耐へず、浪華(なには)も、酒、美にして、喫(きつ)すること、能(よ)くし難し。奮然として、事に就(つ)けども、事、勞倦(たらけん)多し。臥して、方書(はうしよ)を閱(けみ)して、試みに自(おのづか)ら徵(しる)す。

      *

以下、賦の語注しておく。「庚辰」(こうしん/かのえたつ)は静山の生没年から文政三(一八二〇)年となる。これによって長村鑑の没年が判明する。「關左」関東。「轎」本来は中国で神輿型の前後を人が担ぐ乗り物を指す。ここは駕籠のこと。「液」身に漲る陽気の体液。「白玉の氷」「白玉」は、「白玉楼中の人」の白玉楼で、ここに確かに死を予感したニュアンスが見てとれる。「方書」医書。

「淇園」武士で文人画家・漢詩人として知られた柳沢淇園(元禄一六(一七〇三)年~宝暦八(一七五八)年)

「予、退隱の後」松浦清(静山)は文化参(一八〇六)年に隠居している。

「國用不足」如何ともし難い藩財政の不足。

「林氏」お馴染みに林述斎。

「器度」器量。

「善病」病気がちであったことを言っているのであろう。

「佐藤坦」儒学者佐藤一斎(明和九(一七七二)年~安政六(一八五九)年)か。美濃国岩村藩出身。同藩松平乗薀(のりもり)の三男乗衡(のりひら)の近侍となったものの、一年で免職となり、その後、大坂に遊学し、皆川淇園に学んでいるからである。しかも彼は林述斎の高弟であり、さらに彼の本名は坦(たいら)である。

「第三句は詩讖《ししん》ならん」「讖」は「予言すること」「未来の吉凶・運不運などを説くこと」を言う。「第三句」というのは、句の切れ目からなら「液乾黃金佛」とあろうが、私は続く「心熱白玉氷」を含めて、第三句と第四句とを指すべきと考える。

「澘然として涕下る」、今まで堪(こら)えていた感情が一度に迸り、激しく涙を流すことを言う。

「下世」ここは、時代が下った「現代」の意。

「般々」色々な局面。

《はんぱん》の功績あり。

「辛未」(かのとひつじ/しんび)は同前から文化八(一八一一)年。

「津島韓聘」室町時代から江戸時代にかけて朝鮮から日本へ派遣された外交使節団朝鮮聘礼使の招聘ことであろう。ウィキの「朝鮮通信使」によれば、この年に第十二回のそれが行われ、朝鮮聘礼使は、それまでは、本邦の将軍の代替わりの際に対馬から壱岐を経て、江戸城に向かったが、この時は対馬差し止めで、これを以って従来の使節来訪は断絶している。

「風本」壱岐島の北西部の江戸以前の旧広域地名。現在の長崎県壱岐市勝本(かつもと)町附近相当(グーグル・マップ・データ)。

「午牌」正午。

「神皇山」不詳。場所柄、神功皇后絡みの伝承地であろうが、「ひなたGIS」を見ても、見当たらない。但し、「此地は風本の湊」(現在の勝本港のある湾)「を目下に俯觀する所なり」とあることから、自ずと限られてくる。位置的に見下ろせる格好の場所は、「ひなたGIS」のここの「城山」である。ここの北方の海岸近くには「神功皇后の馬蹄石」(グーグル・マップ・データ航空写真)もある。

「幕次」本来の軍将軍が陣を置くところの陣幕のことであろう。

「戎服」鎧。

「旌旗」戦場などで用いる正規軍を示す軍旗。

「貫目のある玉」重量の重い大砲の弾丸。

「長兵」鑓(やり)や長刀などの長い白兵武具。

 

7―11 又、壱州旅泊の間、林子、長村と應酬の事

 話次《はなしついで》に、林氏も、悵然として感舊の情に堪《たへ》ず、又、物語ありしは、

「西役の來路は、初夏なりしが、壱州泊船の頃、連日の雨にて、風信を失《しつ》し、數日《すじつ》、船居《ふなゐ》せし時、鑑《あきら》、小舟に乘りて、來り訪ひ、海鱗《いろくづ》、數頭《すとう》を攜贈《けいざう》せしに、臺に積《つみ》て、其席にある内、魚、躍り、墜《おち》て、なを、潑剌《はつらつ》し、海老は、其邊を、這ひ𢌞りけり。かゝる新鮮、都下には見ざることなり。此等、今に至りて囘顧すれば、隔世の事とは、なりぬ。尓時《このとき》、予が席上の詩、ありき。

   勝本浦ラルㇾ雨。長邨仲槃見ㇾ訪

   欵晤之次、出近製數篇。乃用

   其首章、以攄衷抱

 雨暗シテ瀛壖晝欲ルニㇾ眠ラント

 欣盪漿シテルヲ蕭然

 計ㇾ程滄溟タル

 談ㇾ故歲月ルヲ

 志氣從來爲シカ劍合

 江山早晚又鑣聯セン

 明朝滿ㇾ意セバ津島

 新著只須潮信ヘン

やうやう、天、晴《はる》れば、

「兼て、平戶侯より鑑《あきら》に命ぜられたり。」

とて、岸上《がんしやう》の樓に招請す。その所より、鑑と同行して、傍近の勝所に遊ぶ。一高處の眺觀に堪《たへ》たる地、あり。「三石《みついし》」と云《いふ》。山上に大石《だいせき》あり。其時、予、詩一首を賦す。鑑、

「その詩を石に鐫《ゑ》り、永く此地の故事とせん。」

と云。予、書字に拙《つたけ》なれば、書丹《しよたん》し難し。」

とて、辭す。

「然《しか》らば、歸路に、紙に書して示すべし。それを以て、刻せん。」

と云しが、歸時《かへるとき》、倥傯《こうそう》にて、かの水軍演習の翌朝、順風を得しかば、その儘、開帆して、其事を果《はた》さゞりき。遊嚢《いうなう》の中に、草案あり。」とて寫して示さる。

 祗役度ルニ滄瀛、風潮滯客程

 家山雲自、舟檝鳥

 浪三韓海、壘一夜城。

 雄圖已陳迹、拊ㇾ髀且馳ㇾ情

   文化辛未、韓使聘津島

   余奉ㇾ命ㇾ事、停-

   斯浦、登ㇾ山以眺。心

   甚樂也。四月某日題。時

   海晴氣燠ナリ

「かく、跋言《ばつげん》して、書草《かきさう》せしまゝにて、止みぬ。かゝる心友の、いつか、鬼簿に上りしと思へば、懷舊の感、止《やむ》べからず。」

とて、頻りに、林氏、浩歎《かうたん》せり。

■やぶちゃんの呟き

 漢詩と漢文後書部分は、ブラウザの不具合を考えて、底本とは異なった字配とした。以下に後書ともに推定訓読しておく。但し、「翻」は訓ずることが出来ないので、「チ」は「テ」の誤字か誤植と断じた。

     *

   勝本の浦にて、雨に阻(はばま)まらる。

   長邨仲槃(ちやうそんちゆうばん)、

   訪(おとな)はらる。欵晤(かんご)の

   次(つい)で、近製の數篇(すへん)を

   出だす。乃(すなは)ち、其の首章の

   韵(ひびき)を用ひ、以つて、衷抱

   (ちふはう)を攄(ちよ)す。

雨 暗(くら)くして 瀛壖(えいそ) 晝 眠らんと欲するに

欣(よろこ)ぶ君が 盪漿(たうしやう)して 蕭然(せうぜん)として破るを

程(ほど)を計りて 坐(ざ)に指す 滄溟(さうめい)の渺(びやう)たる

故(ふる)きを談(かた)りて 翻(ひるが)へりて驚く 歲月の遷(うつ)るを

志氣は 從來 劍合(けんがふ)たりしか

江山(かうざん) 早晚(さうばん)か 又 鑣聯(ひようれん)せん

明朝 意に滿ちて 津島に帆(ほ)せば

新たに著(つ)く 只(ただ)須(すべか)らく 潮信(てうしん)に傳へん

     *

同前で注す。「長邨仲槃」長村鑑の異名(韓の使者と遭うための漢名っぽい)であろう。「欵晤」親しく逢うことを言う語。「韵」ここは、その近作の持っている詩想・詩情を指していると推定して、かく訓じた。「衷抱」思い抱くところの感懐。「攄」「述べる」の意がある。「瀛壖」海岸。「盪漿」「温かい汁物を作る」の意か。「蕭然」もの静かに。「滄溟」青海原。「劍合」意味不明。「実際の太刀の打ち合い」の意か。「鑣聯」意味不明。「鑣」は「こじり」で刀の鞘の末端を言う。されば、この一句、無理矢理に解釈するなら、「対照的な河と山というものは、早晩には、また、きっちりと合って一つのものに連なり合うものなのか?」の意かと、ふと、思った。また、最終の一句もよく判らぬが、「『初めて対馬に着いた』と、幕府に海流を通じて伝えて呉れ」といった謂いか。よく判らぬ。ともかくも、林述斎の漢詩は、どうも、上手いとは私には、思えない。

     *

祗役(しえき) 滄瀛(さうえい)を度(わた)るに

風潮(ふうてう) 客程(かくてい)を滯(とどこほ)らす

家山(かざん) 雲(くも) 自(おのづか)ら遠く

舟檝(しふしう) 鳥と倶(とも)に輕(かろ)し。

浪(なみ)は捲(ま)く 三韓の海

壘(るい)は殘る 一夜(いちや)の城

雄圖(ゆうと) 已に陳迹(ちんせき)

髀(もも)を拊(つか)みて 且つ 情を馳(は)す

  文化辛未(しんび)、韓使、津島に聘す。

  余、命(めい)を奉じて、事に赴き、

  斯(か)の浦に停泊し、山に登りて、

  以つて、眺む。心、甚だ樂し。

  四月某の日、題す。

  時に、海、晴れ、氣、燠(あたた)かなり。

     *

同前で注す。「祗役」王命。「滄瀛」青海原。「家山」故郷。「舟檝」船と楫(かじ)。「壘」元寇の際の土塁であろう。「雄圖」壮大な計画。元の日本侵略を指すのであろう。「陳迹」旧跡。最後の一句だけ、映像的でいい。

「三石」不詳。現在の壱岐島にこの名は確認出来ない。

「書丹」後漢の蔡邕(さいよう)が丹朱を以って経を石に書いたという故事により、「誌や銘を石碑に書くこと」を言う。

「倥傯」「非常に忙しいこと」を意味する漢語。

「遊嚢」旅行用の収納袋のことであろう。

 

 最後に一言。この長村鑑……とても、逢ってみたくなった……

 

大手拓次 「女よ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 女 よ

 

淫慾の木陰に

さはやかな鍋を用意して

亂れゆく小花の魚を煮る。

蜂蜜のやうにねばり强い幻は裳をひき、

狂氣は自由に神の如く動く。

女よ、

お前の姿は寶玉の鳴る夜の音(おと)である。

 

[やぶちゃん注:「淫慾」の「慾」は底本のママ。

「寶玉」の「寶」の字体は詩集「藍色の蟇」での用字に従った。]

大手拓次 「わたしは盲者」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 わたしは盲者

 

感覺から思想へ、

わたしは自ら盲者と自任して

朝と夜とが懸崖の光點にたはむれるとき

はるかに、感覺の細い絃(いと)にひびく危案を感じ

ひとりはなれた黑い大鴉(おほがらす)の衰へた嘴(くちばし)の慈愛のやうに

命を獻じ、命を火焰の護送馬車のなかにいれて

さめざめと刹那の苦惱と冥合する向後(かうご)の愉樂をおぼえ、

自らは、大洋の潮(うしほ)にひかれる小魚の悲しみを保つて

神祕な、そしてろうろうとしてる存在の明け方に坐つてる。

わたしは自ら盲者と自任してる。

婚約の日に降りそそぐ魂の燈火(ともしび)のやうに靜寂の門口(かどぐち)に勇ましい二頭の馬をつなぐ。

 

[やぶちゃん注:「盲者」原氏がルビを振っていないことから、これは「まうじや」(もうじゃ)と読んでおく。

「火焰」底本は「火焔」である。「焔」の字には「熖」「燄」等の字体があるが、詩集「藍色の蟇」の「黃色い帽子の蛇」の五行目「火と焰との輪をとばし、」というフレーズの中の表記があることから、私は「焰」を選んだ。

「ろうろうとしてる存在の明け方」というフレーズから「ろうろう」は仮名遣からも「朧朧」(薄明るいさま)と断定してよいと思われる。

「燈火」の「燈」の字は底本に従ったものである。]

大手拓次 「砂人形」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 

 砂 人 形

 

溫室のなかに茶色の刺があるやうに思はれる、

お前さんは、水すましの影のやうに淺い池の日和に浮かんでゐる。

お前さんはほんとに瓢逸な浮かれとんぼ。

お前さんは壁にこつそり這ひよるかたつむり。

お前さんはギターを持つた印度乞食の隱れ笑ひ。

お前さんは浴槽(ゆぶね)にねむる露西亞女の力わざ。

 

柴笛を吹いて眞黃色(まつきいろ)な木陰をゆくのは

お前さんの影繪だ。

いつまでもいつまでもぶらぶらと遊んでゐたいお前さんの魂の影繪だ。

お前さんは流れるままに落葉の船にのる砂人形だ。

 

大手拓次 「靑銅の丘」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 靑銅の丘

 

靑銅の丘に

赤い馬にのつて緘默(かんもく)の騎手は綱をきめる。

黃鈍(きにび)の風に馬は整然たる進路をとる。

鬱血した木蓮の花びらは

淫女のやうに風をあふぐ。

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 四二番 夜稼ぐ聟

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

      四二番 夜稼ぐ聟 

 或所に、非常にセツコキな聟があつた。晝間は寢ていて、夜は遊んで步く、何か仕事を言いつけると、かえつて惡い事をするというようで、博打などばかり好きで、打つて廻つていた。[やぶちゃん注:「セツコキ」現代仮名遣「せっこき」「せっこぎ」で、岩手方言で「怠けること・怠け者・面倒臭がり・ 物ぐさ・ 手間を惜しむこと或いはその行為や人」を指す。]

 或る時、舅《しうと》が夜になつて働きに行つて來いと云ふと、お寺の墓場へ行つて死人《しびと》を掘ツくり返して擔《かつ》いで來て、戶口に置いた。

 翌朝、舅が、聟に、お前は昨晚、何を稼《かせ》いで來たかと聞くと、昨夜の仕事は戶口にありますと言つた。戶口へ行つて見ると、一人の若い女の死骸があつた。舅はその死人をよく洗ひ淨めて、髮を立派に結つて美しく着飾らせて、駕籠に乘せて、あるお宮のお祭禮にかついで行つた。そしてお宮の玄關で、其の死人を出してオイオイと泣いて居ると、御參詣にお出でになつた殿樣がこれを見て、その譯をたづねた。そこで舅が今日の御祭りに娘を連れて參詣に來たが、娘が玄關でつまづいて死んだので、斯《か》うして泣いて居ると申し上げると、殿樣は不憫に思つて澤山の金を與へて行つた。

  (雫石村の話、田中喜多美氏の御報告の分の七。)

[やぶちゃん注:「雫石村」岩手県岩手郡雫石町(しずくいしちょう:グーグル・マップ・データ)。

「田中喜多美」既出既注。]

2023/04/16

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 鴻の巢

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。今回は、ここから

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、「選集」では標題次行の丸括弧附記(そちらではずっと下方)の右手に『川村杳樹「鴻の巣」参照』と添えてある。この川村杳樹は柳田國男のペン・ネームの一つ。則ち、これはその柳田の論考に対する熊楠の応答論考である。先だって、柳田國男の方の、その先行論考「鴻の巢」を電子注しておいたので、まずは、そちらを読またい。特に以下で熊楠で挙げる鳥類の種については、そちらの私の注で挙げてあり、リンク先でも私が詳細に検討し、種同定をしているので、その過程は繰り返すつもりはないからである。なお、これは柳田の確信犯の仕儀で、そちらの記載の中で、『自分は兼兼これに就て南方氏などの御意見が聞きたいと思つて居た』と、名指しで、やらんでいい挑発を柳田はヤラかしてしもうているからである。なお、最初に言っておくが、「鸛」の「こうのとり」の正しい歴史的仮名遣としては「こふのとり」である。表記上、怪しい読みがあるのは、みな、ママであるので注意されたい。

 

      鴻  の  巢 (大正三年十一月『鄕土硏究』二卷九號)

           (『鄕土硏究』第一卷第十號五九七頁)

 

 「本草啓蒙」に、鴻(こう)は鵠《こく》と同物で、ハクチョウの事とし、「和漢三才圖會」には、鴻は雁の大なるもの、ヒシクイ、と言ふ。何れも、水を游ぐ者で、蛇と仇《かたき》を爲すを聞かぬ。本話言ふ所は、鴻や鵠でなく、鸛(こう)(英語でストーク、佛語でシゴニユ)の事だ。「和名抄」にオホトリと訓じてある。和泉の大鳥神社、又、大鳥と云ふ苗字などに緣ある鳥らしい。この鳥、鳴かず、嘴《くちばし》を敲いて聲を出す。其聲に擬して「コウ」と呼んだか、又はどちらも水鳥故、鴻鵠《こうこく》の音を取つて「鸛」を「コウ」と呼ぶに至つたものか(「南留別志《なるべし》」に、『「鸛」を「コウ」とは「鴻」を誤れるなるべし。』)。兎に角、「古今著聞集」に、「トウ」を射た話があつて、その「トウ」は「コウ」らしいから、鎌倉時代、既に、「鸛」を「コウ」と通稱したと見ゆ。(後日、訂正す。「トウ」は「トキ」、乃《すなは》ち、「日本紀」の「桃花鳥《たうくわてう》」の古名の由、「本草啓蒙」に見ゆれば、「コウ」と別なり。兼良《かねら》公の「尺素往來《せきそわうらい》」に「鵠の霜降り」・「トウの焦《こが》れ羽」と、矢に着け用ゆる羽の名を列ねた中にあれば、足利氏の世には、「鸛」を「コウ」と呼び、「鵠」の字を用いた事と知れる。)

[やぶちゃん注:『「本草啓蒙」に、鴻(こう)は鵠《こく》と同物で、ハクチョウの事とし』国立国会図書館デジタルコレクションの「重訂本草綱目啓蒙」の版本(弘化四(一八四七)年)のここで、『鵠 ハクテウ クヾヒ古書』立項して、以下に『一名』として諸漢籍から別名を引く中の二番目に、『鴻【急就篇註】』とある。「急就篇註」は、前漢末の元帝(在位:紀元前四八年~紀元前三三年)の宦官であった史游の作と伝えられる漢字学習書が「急就篇」で、これは、その後代(宋代か)の註。ここで言っている「ハクテウ」を安易には、現在の狭義の、

カモ科ハクチョウ属Cygnus或いは同属オオハクチョウ Cygnus Cygnus

に同定は出来ないものの、まあ、とんでもなく外れた見解でもあるまい。少なくとも、熊楠はそのつもりで言っているはずだ。

『「和漢三才圖會」には、鴻は雁の大なるもの、ヒシクイ、と言ふ』私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴻(ひしくひ)〔ヒシクイ・サカツラガン〕」の本文と私の考証注を必ず見られたいが、そこで考証した結論として、私は、最終的にそこに記された種を一種と認めず、

カモ目カモ亜目カモ科マガン属ヒシクイ(菱喰) Anser fabalis serrirostris 

及び

同属オオヒシクイ Anser fabalis middendorffii

と、ヒシクイ類ではない別種の

マガン属サカツラガン(酒面雁)Anser cygnoides

を同定(候補)としている。

「蛇と仇を爲すを聞かぬ」柳田の論考の応じて、蛇を退治するシチュエーションに習性が合わないから除外したもの。

「鸛(こう)(英語でストーク、佛語でシゴニユ)」「鸛」の「音は「くわん(かん)」。英語は“stork” (ストゥク:この単語は米俗語で「~を妊娠させる」という動詞になっているのが面白い!)、フランス語は“cigogne”(シゴーニュ)。これは、江戸後期の「重訂本草綱目啓蒙」でも先の国立国会図書館デジタルコレクションの「鴻」よりも少し前のここに「鸛 コウ コウノトリ」として立項しており、以下、本邦の地方名と所載書名の混淆で、『コノトリ【秋田】 シリグロ【詩經名物辨解】 ヘラハズシ【筑後久留米】 クヾヒ【大和本草】 コウヅル』ある。これらの名と以下の本文を見ても、これは、

コウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属コウノトリ Ciconia boyciana

を指しているとは思われる。而して、江戸中期の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸛(こう)〔コウノトリ〕」でもやはり同種コウノトリを指している。柳田論文でも注で述べたが、これに違和感を持つ読者は恐らく有意にいるだろう。何故と言えば、殆んどの今の日本人は野生のコウノトリなんぞ、見たことも聴いたこともないからである。それだけ、現在では本邦では個体群分布が消滅してしまったからである。当該ウィキを見られたいが。近代以前はコウノトリは本邦に、かなり、いたのである。なお、そちらによれば、コウノトリはかなり荒っぽい性質のようで、『同種間で激しく争うこともあり、中華人民共和国での報告例』(二羽で争い、一羽が頭部を嘴で突かれて死亡したケース)『や、日本では』二〇〇二『年に兵庫県豊岡市に飛来して』二〇〇七『年に死亡するまで留まっていた野生オス(通称ハチゴロウ)の死因として、検死から』、『病気や重金属・汚染物質などが死因ではないこと』、二〇〇六年から翌『年に』、『主に野生オスが再導入オスを攻撃した目撃例が計』三十六『回あること、最後の争いの目撃例で』は『再導入オスが野生オスを撃退したところが目撃されたことから、再導入されたオスとの縄張り争いによる死亡が示唆されている』。『成鳥になると鳴かなくなる。代わりに「クラッタリング」と呼ばれる行為が見受けられる。嘴を叩き合わせるように激しく開閉して音を出す行動で、威嚇、求愛、挨拶、満足、なわばり宣言等の意味がある』とあり、食性は『魚類、カエル類、ヘビ類、鳥類の卵や雛、齧歯類、昆虫などを食べる』。『水生動物は浅瀬で、ヘビ・鳥類の卵や雛・ネズミや昆虫などは乾燥した草地で捕食する』。『主にザリガニなどの甲殻類やカエル、魚類を捕食する。ネズミなどの小型哺乳類を捕食することもある』とあって、かなり強力な肉食性が認められ、蛇退治する神使の鳥としては、相応しい。以上にある通りで、熊楠も本種は鳴かないと言ってしまおっており、ネットでも平然とコウノトリは鳴かず、代わりにクラッタリングでさまざまな意味を持った音を出す、と、まことしやかに書いているのは、正しくない。正確には幼鳥の時は鳴けるが、ある一定段階まで成長すると鳴けなくなり、クラッタリングを代用するようになるのである。「兵庫県立コウノトリの郷公園」公式サイト内の『No.4「コウノトリのコミュニケーション方法 ~クラッタリングと鳴き声~」』の動画を、是非、視聴されたい。

「南留別志」荻生徂徠が書いた考証随筆。宝暦一二(一七六二)年刊。元文元(一七三六)年「可成談」という書名で刊行されたが、遺漏の多い偽版であったため、改名した校刊本が出版された。題名は各条末に推量表現「なるべし」を用いていることによる。四百余の事物の名称について、語源・転訛・漢字の訓などを記したもの。

『「古今著聞集」に、「トウ」を射た話があつて』これは、「卷第九 弓箭」の中にある、巻内通し番号で「第十三」、岩波「日本古典文学大系」本の通し番号で「三四九」の、所持する「新潮日本古典集成」版で「上六大夫、たうの鳥の羽を損ぜぬやう遠矢にて射落とす事」とする一話である。最初に言っておくと、この熊楠の指した「トウ」は、丸括弧内で熊楠自身が訂正している通り、

「トウ」≠「コウ」「鸛」

で、

「トウ」は我々が絶滅させてしまった「トキ」=朱鷺・鵇・ペリカン目トキ科トキ亜科トキ属トキ Nipponia nippon

(この学名はなんと美しいことか!)である。参看したあらゆる同書の注で「トキ」としている。以下、国立国会図書館デジタルコレクションの国民図書版『日本文學大系 校註』の 第十巻(大正一五(一九二六)年刊)を視認して示す。読み易さを考えて、段落を成形し、記号も追加した。なお、「新潮日本古典集成」版(昭和五八(一九八三)年刊・広島大学附属図書館蔵の九条本底本)では「とう」は総て「たう」となっている。

   *

 この昵(むつる)の兵衞尉(ひやうゑのじよう)、

「懸矢(かけや)を、はがす。」[やぶちゃん注:底本頭注に、『遠距離に放つ矢に羽をつけさせる』とある。新潮版では、『射捨て征矢(そや)をいう。羽のいたむのを避けるために、十筋、十五筋とたばねて壁などに懸けおくことからの呼称、また空を翔ける鳥を射るのに用いる矢だからともいう』。「はく」は「矧ぐ」で、『竹に矢尻(やじり)や羽などをつけて矢を作ること』を言うとある。]

とて、「とう」の羽を求めけるが、足らざりければ、郞等どもに、

「もしや、持ちたる。」

と尋ねければ、上六大夫(じやうろくたいふ)といふ、弓の上手(じやうず)、聞きて、

「この邊に『たう』やは、見候ふ。見よ。」[やぶちゃん注:「この辺りでトキを見かけた者はおらぬか? ちょっと見て来い。」。]

といひければ、下人、立ち出でて見て、

「たゞ今、河より、北の田には、見候ふ。」

といふを聞きて、卽ち、弓矢を取りて出でたるに、「とう」、立ちて、南へとびけるを、上六、矢をはげて、左右(さう)なくも射ず、[やぶちゃん注:直ぐには射放たずに。]

「いづれかは、こがれたる。」[やぶちゃん注:「今、飛んで御座る「とう」のうち、孰れの「とう」の羽根が御所望か?」。]

といひければ、

「最後(しり)に飛ぶを、こがれたる。」

といふを聞きて、なほもいそがず、遙かに遠くなりて、川の南の岸の上飛ぶほどになりにける時、能く引きて放ちたるに、あやまたず射おとしてけり。

 むつる、感興のあまり、不審(ふしん)をいだして、問ひけるは、

「など、近かりつるをば、射ざりつるぞ。遙かには遠くなしては射るぞ。心得ず。」

と尋ねければ、

「そのこと候。近かりつるを射落したらば、川に落ちて、その羽、濡れ侍りなん。むかひの地につきて、射落したればこそ、かく、羽は損ぜぬ。」

とぞいひける。

 心にまかせたるほど、誠にゆゝしかりける上手なり。

   *

トキについては、私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 朱鷺(トキ)」を参照されたい。

『鎌倉時代、既に、「鸛」を「コウ」と通稱したと見ゆ』以下の訂正で、これも無効となったので、熊楠は、改めて、『足利氏の世には、「鸛」を「コウ」と呼び、「鵠」の字を用いた事と知れる』としたのである。

『「日本紀」の「桃花鳥」の古名の由、「本草啓蒙」に見ゆれば、「コウ」と別なり』前掲の国立国会図書館デジタルコレクションの「重訂本草綱目啓蒙」の版本(弘化四(一八四七)年)では、見出し立項になっていないので、探し難い。蘭山は「鷺」の項に一種として入れ込んしまっているからである。当該部はここの右最終行から次ページにかけてで、『一種ツキ古名ハ一名トウ同上トウノトリ トキ 桃花鳥【日本紀】ハナクタ【江州】ダヲ【奥州】』として、以下に解説が続く。

『兼良公の「尺素往來」に「鵠の霜降り」・「トウの焦《こが》れ羽」と、矢に着け用ゆる羽の名を列ねた中にあれば』室町後期に公卿で古典学者でもあった一条兼良によって編纂されたとされる往来物(学習書)。当該ウィキによれば、『全文が』一『通の書簡となっており、その中に年始の儀礼から日常生活までの』六十八『条目における単語の解説・用例が織り込まれている。当時の支配層である公家や武家の文化・生活・教育の水準を知る上での貴重な資料』とされる。国立国会図書館デジタルコレクションの「羣書類從」第九輯 訂正版(一九六〇年刊)のこちらの右ページ上段の四~五行目に出現する。「トウ」の部分は「鴾」とあっているが、これもトキを指す漢字であるから問題ない。]

 「本草綱目」に、藏器曰、人探ㇾ巢取鸛子、六十里旱、能群飛、激散ㇾ雨也、其巢中以ㇾ泥爲ㇾ池、含ㇾ水滿ㇾ中、養魚蛇以哺ㇾ子。〔陳藏器曰はく、「人、巢を探つて鸛(くわん)の子を取れば、六十里[やぶちゃん注:明代の一里は五百五十九・八メートル。約三十三・六キロ弱。]、旱(ひでり)す。能く群れ飛びて、激(げき)して雨を散らすなり。其の巢の中(うち)、泥を以つて池と爲し、水を含みて中(なか)に滿たし、魚・蛇を養ひて、以つて子に哺(はぐく)む。」と。〕「三才圖會」に、鸛每遇巨石、知其下有一ㇾ蛇、卽於石前術士禹步、其石防然而轉、禽經云、鸛俯鳴則陰、仰嗚則晴、善群飛薄ㇾ霄。〔鸛(くわん)、每(つね)に巨(おほ)きなる石に遇へば、其の下に、蛇、有るを知る。卽ち、石の前に於いて、術士のごとく禹步(うほ)をなせば、其の石、泐然(ろくぜん)として[やぶちゃん注:石が裂けるさま。]轉ず。「禽經」に云はく、『鸛、俯(ううむ)きて鳴けば、則ち、陰(かげ)り、仰ぎて鳴けば、則ち、晴る。善(よ)く群れ飛んで霄(そら)に薄(せま)るれり。』と。〕

[やぶちゃん注:「本草綱目」の当該部は「漢籍リポジトリ」のこちら[110-2b]の影印本画像で校合したが、熊楠の表記で問題ない。巻四十七「禽之一」の「鸛」の項の「正誤」の冒頭部である。

「三才圖會」は「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本の当該部と校合した。一部を補填した一方、熊楠の表記を採った箇所もある。但し、「泐然」の「泐」の字は影印原本も熊楠のも意味としても字義としても納得出来なかったことから、「選集」の表字を採用した。

「禹步」道教に於ける呪法を行う際の独特のがら千鳥足のようなに歩行呪法を指す。基本的には北斗七星の柄杓方を象(かたど)ってジグザグに歩くものであるが、他にも多様な形式・様態がある。]

 「埤雅《ひが》」には、鸛能解ㇾ縛、南方里人學其法者、伺其養一ㇾ雛、緣ㇾ木以篾絙、縛其巢、鸛必作ㇾ法解ㇾ之、乃於木下鋪ㇾ沙、印其足迹而倣學ㇾ之。〔鸛は、能(よ)く縛(いましめ)を解く。南方の里人、其の法を學ぶ者は、其の雛を養ふを伺ひて、木に緣(よ)りて、篾(べつ)[やぶちゃん注:竹・葭・高粱(コウリャン)殻などの植物の表皮を細く割り裂いたもの。]の絙(つな)を以つて其の巢を縛るに、必ず、法を作(な)して、之れを解く。乃(すなは)ち、木の下に沙を鋪(し)き、その足迹(あしあと)を印(する)して倣(なら)ひて之れに學ぶ。〕又、此鳥、礜石(よせき)を取つて卵を暖むる由を載す。

[やぶちゃん注:「埤雅」は北宋の陸佃(りくでん)によって編集された辞典。全二十巻。主に動植物について説明してある。これも「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本と校合したが、頭の部分が、版本が異なるのか、違う。但し、熊楠の置いたそれがないと、意味が通じないので、そちらを採った。

「又、此鳥、礜石(よせき)を取つて卵を暖むる由を載す」「礜石」は砒素を含む鉱物の一つで、猛毒で殺鼠剤に使われた。以上のリンク先の少し後から次の丁にかけて以下のようにある。一部は正字化した。異体字は表記可能なものに代えてある。礜石の部分を太字とした。事実ではなく、道教の蠱毒の蠱術的なニュアンスによる呪的解説のような感じを強く感じる。

   *

作窠大如車輪卵如三升杯擇礜石以嫗卵鸛水鳥也伏卵時數入水卵則不毈取礜石周圍繞卵以助煖氣故方術家以鸛煖巢中礜石爲眞物也又泥其巢一傍爲池以石宿水今人謂之鸛石飛則將之取魚置池中稍稍以飼其雛俗說鵲梁蔽形鸛石歸酒又曰礜石溫鸛石涼故能使卵不毈水不臭腐也

   *]

 古希臘人は鸛親子の愛渥《あつ》きを頌《しよう》し、獨逸人は人間の子は鸛が泉水より齎《もたら》して母の前に落すと直とに產《うま》ると信じ、又、鸛が人の上を飛び廻れば、其人、必ず死す、と信ず(グベルナチス「動物譚原(ゾーロジカル・ミソロジー)」二六一―二頁)。又、此鳥、決して種蒔きに害を成さず、と唄《うと》うた(グリンム「獨逸神異誌(ドイツエ・ミトロギエ)」二板、六三八頁)。マセドニアの基督敎徒、囘敎徒、俱に、鸛を吉鳥とし、其渡來を平和の徵《しるし》とし、土耳其《トルコ》人は、其每年、南に飛去るをメツカへ巡禮すると心得、鸛が巢くひ子生む家は黑死疫と火災を免かる、と信ず(アボット「マセドニアン・フークロール」一九〇三年板、一〇九頁)。「大英類典」十一板卷二十五に、丁抹《デンマーク》・獨逸・和蘭《オランダ》等では、鸛、夏日、南方より來り、樹に棲むこと罕《まれ》にて、專ら、家の上に巢くひ、其家、之を吉兆とす、と載す。

[やぶちゃん注:以上で語られる「鸛」は、本邦の前掲種コウノトリではなく、

コウノトリ属シュバシコウ(朱嘴鸛)亜種 Ciconia ciconia ciconia  

である。当該ウィキによれば、『高い塔や屋根に営巣し雌雄で抱卵、子育てをする習性からヨーロッパでは赤ん坊や幸福を運ぶ鳥として親しまれている。このことから』、『欧米には「シュバシコウが赤ん坊をくちばしに下げて運んでくる」または「シュバシコウが住み着く家には幸福が訪れる」という言い伝えが広く伝えられている。日本でも』、『この』伝承から、『「コウノトリが赤ん坊をもたらす」と言われることがある』。『日本聖書協会ホームページ』『によれば、「こうのとり」は旧約聖書にのみ現れ、その数は』六『件で』、「レビ記」(第十一章第十九節)、「申命記」(第十四章第十八節)では、イスラエルの人々が食べてはならない鳥の一つとして挙げられて』おり、「ヨブ記」(第三十九章第十三節)では、『「威勢よく翼を羽ばたかせる」駝鳥が「こうのとりの羽と羽毛を」持っていない、と言われている』。「エレミヤ書」 (第八章第七節)では、『「空のこうのとりも自分の季節を知っていると」と』あり、「ゼカリヤ書」(第五章第九節)には、『「こうのとりのような翼を」持つ女という箇所がある』。「詩篇」の第百四章第十七節の『該当箇所については』、三『つの訳を記すと、聖書協会』一九七四『年訳では、「こうのとりはもみの木をそのすまいとする」、聖書協会共同訳では、「こうのとりは糸杉を住みかとする」、新共同訳では、「こうのとりの住みかは糸杉の梢」と微妙な違いがある』。古代ギリシャの「自然認識者」の意である書「フィシオログス」では、『コウノトリをキリストの象徴として、また』、『その行動を人間のなすべき態度の模範と捉え』、『次のように語っている』。――『コウノトリはからだの真ん中より上は白、下は暗い色であり、キリストも同じく万人の神として上であるものの時もあれば、一人の人間として下であるものの時もあった。「天のものをなおざりにせず、地のものを見ごろしにしなかった」』……『コウノトリは雄と雌が同時に出かけることがない。雄が餌を探す間、雌は雛の世話をする。それを交代して巣を空けることがない。人は朝も夜も欠かさず祈りを行い、悪魔に負けてはならない』……『コウノトリが雛を育て上げて皆が跳べるようになり、時が来ると』、『一斉に飛び立ち』、『移動する。時が来ると』、『元の地に戻り』、『巣作りをし、雛を育てる。イエスキリストが昇天し、時至って再来し、「倒れたものを起こされる」のと同じだ』とある。『古代ギリシア・ローマ以降』、『西欧においてコウノトリは』「敬愛」或いは「貞節」の『象徴として取り上げられた。前者については、アリストテレスが、「コウノトリのひなは長じて親鳥を養い返すということは、この鳥について広く知られた話である」と記しているという』(カラスの伝承上の「反哺」である)。『中世盛期、英独仏伊の皇帝・王侯に仕えたティルベリのゲルウァシウス』(一一五二年頃~一二二〇年以後)『が神聖ローマ皇帝 オットー』Ⅳ『世に献呈した奇譚集』「皇帝の閑暇」(Gervasii Tilberiensis : Otia Imperialia ad Ottonem IV Imperatorem ; 一二〇九年~一二一四年執筆)の第九十七章には、『「コウノトリの巣に入れられた烏の卵」について語られて』おり、『種の雛が孵ると』、『コウノトリたちは嘴を打ち合わせて烏を告発し、母子鳥ともども』、『カラスを高い塔の上から突き落とす。このように話した語り手は、コウノトリの行状を人倫のあるべき姿と捉え、「貞操を守るべき」「近親相姦を罰すべき」「姦通を罰すべき」という教訓を引き出している』とある。ドイツでは、『コウノトリ』(ドイツ語“Storch”。音写「シュトールヒ」)は、「春、『アフリカを出発してドイツに渡り、夏の末に戻ってゆく」』、「『ドイツ』『にいる間は、人間の住宅の屋根や、教会の塔に棲みついている」。「ドイツ人たちの眼前では、鳥の姿で現われるが、秋になると帰ってゆく」。彼らの遠い本拠地では、人間の姿に戻るとする俗信があったが、この俗信はすでに』一二一四『年の文書(Gervasius von Tibury)に見られる。「人間に幸運をもたらし、稲妻や火事から、人間を庇護してくれるという信仰は、比較的新しく一般に拡がったもので』あ『る、といわれている」。コウノトリに弟・妹を連れてきて、と頼む童謡がある』。フランス出身のドイツの詩人で植物学者であった『アーデルベルト・フォン・シャミッソー』(Adelbert von Chamisso,/フランス名:ルイ・シャルル・アデライド・ド・シャミッソー・ド・ボンクール:Louis Charles Adélaïde de Chamisso de Boncourt 一七八一年~一八三八年:現在ではドイツ語で文学作品を残したロマン派文学者として著名で、後期ロマン派でリベラルな傾向を代表する文学者として活躍した)『の記述にあるように、コウノトリは飲み水の湧き出る井戸、泉、あるいは池から赤子を連れてくると信じられていた』。『ドイツ南西部シュヴァルツヴァルトのキンツィヒタール(Kinzigtal)地方では』、二月二十二日の『聖ペテロの日を「こうのとりの日」と』呼んで、『次のような行事を行っている。「こうのとりの仮面を」被るか、或いは『山高帽の左右に』、『こうのとりの雌雄をつけ、背中に大きなパンの塊りを二つ背負った「こうのとり小父さん」が村を訪れる」。村では子供たちが「(害虫よ、)出てゆけ』……『と歌いながら』、『小父さんを家々に案内し、小父さんは害虫などを寄せ付けぬ追い出しの唱え詞をいって、家々を祝福する。そして子供たちにはパンやお菓子を与えるという』。『ドイツ中世の最大の叙事詩人にしてミンネゼンガー』(「ミンネザング」(Minnesang:十二世紀から十四世紀にかけてドイツ語圏に於いて隆盛を極めた抒情詩であり、詩人は作曲もし、伴奏付きで自ら歌った。主題は主として恋愛である)を作ったり、歌った人の意)『たるヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ』(Wolfram von Eschenbach 一一六〇年/一一八〇年頃~一二二〇年頃又はそれ以降)『の歌には、自身をコウノトリと比べる滑稽な表現が見られる。「こうのとりは畑の種を食い荒らさぬという。

』/『私も同じ、婦人方に粒ほどの損害も与えませぬ」』とあり、これは、『コウノトリは、蛙、蛇、トカゲなどの小動物しか食べないので畑に害を及ぼすことがないという常識が背景にあるからである』。『同じヴォルルラムの十字軍文学の傑作』「ヴィレハルム」(Wertheim:三百七十五詩節)『では、主人公の軍と戦う異教徒軍の石弓隊の描写において、彼らは「いっせいに数多くのまっすぐな矢をつがえ、矢尻までいっぱいに引き絞って射た。すると弦は巣の中のこうのとりの鳴き声のような音を立てた」と語られている』。『わが国でも一昔前まではよく読まれてい』『た』ドイツの小説家で「シュヴァーベン(Schwaben)派」の代表的文筆家の一人であった『ヴィルヘルム・ハウフ』(Wilhelm Hauff 一八〇二年~一八二七年)『の著名なメルヘン集』「隊商」(Die Karawane)中の一つ「こうのとりのカリフの物語」(Die Geschichte von Kalif Storch)は、バグダッドのカリフ、ハシッド(Kalif Chasid)とその大ワジール、マンソール(Großwesir Mansor)がコウノトリに変身する愉快な話である』などとある。

『グベルナチス「動物譚原(ゾーロジカル・ミソロジー)」二六一―二頁)』イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)で、著作の中には神話上の動植物の研究などが含まれる。この‘Zoological Mythology,’ (「動物に関する神話学」・一八七二年刊)は「Internet archive」のこちらで当該原本が見られ、ここからが当該部

『グリンム「獨逸神異誌(ドイツエ・ミトロギエ)」』かのグリム兄弟の‘Deutsche Sagen’か。一八一六 年から一八一八 年の間に二部構成で出版されたもの。

「マセドニア」東ヨーロッパのバルカン半島中央部に当たる歴史的・地理的な地域であるマケドニアのこと。

『アボット「マセドニアン・フークロール」一九〇三年板、一〇九頁)』イギリスのジャーナリストで作家のジョージ・フレデリック・アボット(George Frederick Abbott 一八七四 年~一九四七年)はギリシャの歌に関する研究や、マケドニア地方の民俗資料のコレクション、ギリシャとの同盟国との関係に関する著作があり、これは同年に刊行された‘Macedonian Folk-Lore’(「マケドニアの民間伝承」)である。「Internet archive」のこちらで原本の当該部が視認出来る。

「大英類典」熊楠御用達の「エンサイクロペディア・ブリタニカ」(Encyclopædia Britannica)のこと。]

 隨分、美麗な鳥ではあり、諸國で斯く愛重されるから見ると、本邦でも古く之を神物としたのだろ。但し、好んで蛇を食ふ故、蛇を祀る人々よりは神敵と見られたであらう。又、神と仰ぐ蛇が何の苦もなく殺さるゝを見て、忽ち、鸛を崇《あが》める事もあつたであらう。蛇と鳥類と仲の惡い例は、歐州の黑鳥(ブラツク・バード)、印度の裁縫鳥(テイロル・バード)、又、阿弗利加の書記鳥(セクレタリ・バード)は蛇退治の爲に西印度ヘ移殖し、人、其功績を讃《ほ》む。印度で龍蛇を制すとて金翅鳥王(こんじてうわう)を尊《たちと》ぶは、誰も知る通りだ。古カルデアの傳說に、シャマシユの鷲、或る蛇の子を掠《かす》め、自分の子に食はす。蛇、之をシャマシユ神に訴ふ。神、蛇に敎へて、死牛《しぎう》の腹に匿れて、鷲、來たり、腸を食はんとする處を擊たしむ。蛇、其通りするに、鷲、其謀《はかりごと》を察し、蛇は志を遂げなんだ、とある(マスペロ「開化之曉(ゼ・ドーン・オヴ・シヴイリゼーシヨン)」一八九四年板、六九八―九頁)。

[やぶちゃん注:「歐州の黑鳥(ブラツク・バード)」スズメ目ツグミ科ツグミ属クロウタドリ Turdus merula の異名。「黒歌鳥」。全長約二十五センチメートルで、大型のツグミ類で、♂は全体に黒く、嘴だけが黄色い。♀は全体に暗褐色で地味である。ヨーロッパ・アジア南部・アフリカ北部に分布し、ニュージーランドには移入されたものがいる。公園・農耕地・林に棲み、地上をピョンピョン跳ねながら、ミミズや昆虫を探して食べる。落葉を嘴で撥ね退けるながら採食するさまは、日本のアカハラやクロツグミと同様である。木の実のある時期には、樹上で、それらをとって食べることもある(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。当該ウィキによれば、『日本では』、『旅鳥』又は『まれな冬鳥として、北海道から沖縄県まで記録があり、特に西表島や与那国島での記録が多い』とある(私も西表島でその姿と鳴き声を、与那国島ではその声を聴いた。とても美しい声であった)。『基亜種を含めて』十五『亜種ほどが知られている。また、白変種個体が見つかる例もある』とあり、『囀りは美声で有名。オスはライバルのオスを見つけると、キィキィキィキィーッと鳴きながら向かって飛んでいく』。『ヨーロッパでは春の訪れを感じさせる鳥で、スウェーデンでは国鳥になっている』。『英語でこの鳥のことを Blackbird と呼ぶが、米語で Blackbird といえばムクドリモドキのことになってしまうので注意』が必要である。なお、『ビートルズの楽曲「Blackbird」や、マザー・グースの』六『ペンスの唄に歌われている「blackbirds」は、この鳥のこと』とあって、『クロウタドリのオスの美しい囀り。フランス北部の都市リールで録音されたもの』を視聴出来る。

「印度の裁縫鳥(テイロル・バード)」tailorbird。スズメ目ウグイス上科セッカ科サイホウチョウ属 Orthotomus 或いはオナガサイホウチョウOrthotomus sutorius の異名。後者の当該ウィキを参照されたいが、「裁縫」のそれは、同種のように『巣は露出した空間には作らず、メスが木に付いたままの大きな葉をクモの糸で袋状に縫い合わせ』、『円錐形のゆりかごのような土台を作り』、『その中に巣を架ける』ことに由来するものであろう。

「阿弗利加の書記鳥(セクレタリ・バード)」Secretarybird。タカ目ヘビクイワシ科ヘビクイワシ属ヘビクイワシ Sagittarius serpentarius の異名。当該ウィキによれば、『主に昆虫やクモなどの節足動物、小型哺乳類を食べる』。『一方で鳥類やその卵や雛、爬虫類、両生類、甲殻類なども食べ』、『地上を徘徊して、獲物を捕らえる』。『小型の獲物は嘴で咥えるが、ヘビ類などの大型の獲物は後肢で踏みつけて殺す』。『ヘビ類は頻繁に捕食するわけではないが、コブラ類も含めて捕食することはある』。『種小名serpentariusはラテン語の「ヘビ」に由来し、本種の食性にヘビ類が含まれることに由来していると考えられている』。『英名secretary(書記)は、冠羽が羽根ペンの軸のように見えることからが由来とする説もある』とある一方で、これは『アラビア語で「狩猟する鳥」を意味する可能性がある』とも言い、『saqret-tairsaqr=狩人もしくはタカ、er-tair=飛行もしくは鳥)に由来するという説もある』とあった。

「金翅鳥王(こんじてうわう)」底本では「こんしてうわう」であるが、「選集」も採用している一般的なそれで示した。但し、「きんしてうわう」の読みもある。サンスクリット名ガルーダ(garuḍa:迦楼羅)或いはスパルナ(suparṇa:「美しい羽の鳥」の意)の漢訳語。

インドの神話に登場する鳥類の王で、龍を常食するとされる。「金翅鳥」・「妙翅鳥」と漢訳されたものと同一視されている。大乗仏教では、八部衆の一つに数えられており、密教では、梵天や大自在天の化身、或いは、文殊菩薩の垂迹ともされ、風雨を止めるための修法である迦楼羅法の本尊とされるが、単独で造像された作例は残っていない。形像は鳥頭人身で、胎蔵界曼荼羅に表わされる(以上は平凡社「世界大百科事典」を主文に用いた)。

「古カルデア」メソポタミア南東部に広がる沼沢地域の歴史的呼称。当該ウィキによれば、紀元前十世紀以降に、この地に移り住んだセム系遊牧民の諸部族が「カルデア人」と呼ばれるようになった。カルデア人は紀元前七世紀に新バビロニア王国を建国した、とある。

「シャマシユ」当該ウィキによれば、『シャマシュは、メソポタミアの太陽神』で、『シュメール語ではウトゥ』『と呼ばれる。シャマシュはアッカド語で「太陽」、ウトゥはシュメール語で「太陽」または「日」の意』である。『シュメールにおける原初の』五『都市のうち、天から与えられた』四『番目の都市シッパル、ほかラルサにおいても』、『都市神を担い、両都市に神殿「エバッバル」を持つ』。『シュメール人は太陽を白色と見ており、エバッバルは』「白く輝く神殿」の意を含んでおり、『別名「白い家」とも呼ばれていた』。『元来は女神とされていたが、アッカドのシャマシュにシュメールのウトゥが取り込まれていく信仰過程で、性別が反転し』、『男神に変化していった』。『日の出と共にマシュ山』『のそばにある東の門から現』わ『れ、全てを照らしながら』、『天空を横切り、夕方になると』、『西の門より天の奥へと帰り』、『一夜を過ごすと、翌朝』、『再び東の門から現れるという』、『その姿は肩から太陽光線を放つ、長い髭を蓄えた長い腕の男性として描かれる』とし、記者注で、『そもそも、長い髭や長い腕は、太陽円盤から放射状に伸びる太陽光線の、擬人化だと考えられる』ともあった。以下、リンク先を見られたいが、このシャマッシュ神は、『善良なる太陽神』を主体として、『正義の神』でもあり、『第二の神格』として「生者を守る神」でもあり、それは広義の(ブラッキーでない)「冥界の神」でもあり、また、「占いの神」でもあったことが説明されてある。

『マスペロ「開化之曉(ゼ・ドーン・オヴ・シヴイリゼーシヨン)」一八九四年板、六九八―九頁)』フランスの考古学者ガストン・カミーユ・シャルル・マスペロ(Gaston Camile Charles Maspero 一八四六年~一九一六年:一八六九年から高等研究実習院でエジプト語を講義し、一八七四年にはコレージュ・ド・フランス(Collège de France:国立フランス教授機関)で、ロゼッタ・ストーン解読やヒエログリフ解明で知られる「古代エジプト学の父」ジャン=フランソワ・シャンポリオン(Jean-François Champollion 一七九〇年~一八三二年)の後継の地位に就いた。一八八〇年にエジプトへ派遣され、オギュスト・マリエット(Auguste-Ferdinand-François Mariette 一八二一年~一八八一年)の後を継いで、エジプト考古学庁最高責任者となった。また、政府の委託でカイロ考古学研究所を設立したことでも知られる。カイロ博物館の第二代館長でもあった。以上は彼のウィキに拠った)のThe Dawn of civilization’( 一八九四年・ロンドンで刊行)。当外原本は「Internet archive」で刊行年が異なるが(一八九七年)、内容を見るに、ここでよいようである。]

追 加 (大正四年二月『鄕土硏究』第二卷第十二號) (『鄕土硏究』第二卷五三九頁參照)[やぶちゃん注:後者は前文を指す。]

 鸛を支那や歐州諸邦で靈鳥とする例は既に擧げたが、本邦でも此鳥を大分毛色の異《かは》つた物とせるは「甲子夜話」を見て判る。乃《すなは》ち此鳥の卵を取つて煑て、又、巢へ入れ置くと、淫羊藿(いかりそう[やぶちゃん注:ママ。])もて、覆ふて、見事、其卵を孵《かへ》したこと(卷一七)、火災ある兩三日前に巢を去り、又、雛を育て了《おは》れば、父鳥、去る事(卷二三)、去る前に、父が、子に飛び樣《やう》を敎へ、又、土を以て巢を構ふるを敎ふること、雛、三羽、有れば、雌雄、二を留《とど》め、餘子を將去《つれ》ること(卷六二)、鸛の雛の餌を雀が運ぶ事(卷四九)等なり。

[やぶちゃん注:以上の「甲子夜話」の各篇は、この公開に先立ち、急遽、総て、ブログ・カテゴリ「甲子夜話」で、事前に以下のようにブログで電子化注をしておいた。

「甲子夜話卷之十七 19 新長谷寺鸛の事幷いかり草の功能」

「子夜話卷之二十三 6 寺屋に鸛巢ふ事」

「甲子夜話卷之六十二 22 羅漢寺の話【五條】」の最後

「甲子夜話卷之四十九 5 鸛雛を雀養ふ」

が、それである。読まれたい。

 「聊齋志異」十六に、天津某寺、鸛鳥巢於鴟尾。殿承塵上、藏大蛇如一ㇾ盆、每至鸛雛團翼時、輒出呑食淨盡、鸛悲鳴數日乃去、如ㇾ是三年、人料其必不復至、而次歲巢如ㇾ故、約雛長成、卽逕去、三日始還、入ㇾ巢啞啞、哺ㇾ子如ㇾ初、蛇又蜿蜒而上、甫近ㇾ巢、兩鸛驚飛鳴哀急、直上青冥、俄聞風聲蓬蓬、一瞬間天地似ㇾ晦、衆駭異共視、乃一大鳥、翼蔽天日、從ㇾ空疾下、驟如風雨、以ㇾ爪擊ㇾ蛇、蛇首立墮、連催殿角數尺許、振ㇾ翼而去、鸛從其後、若ㇾ將ㇾ送ㇾ之、巢既傾、兩雛俱墮、一生一死、僧取生者、置鐘樓上、少頃鸛返、仍就哺ㇾ之、翼成而去。〔天津の某寺、鸛の鳥の鴟尾(しび)に巢くふ。殿の承塵(てんじやう)の上に、大蛇の、盆のごときもの、藏(かく)れり。每(つね)に鸛の雛の翼を團(あつ)むる時に至れば、輙(すなは)ち、出でて、呑食して、淨-盡(つく)す。鸛、悲鳴すること、數日にして、乃(すなh)ち、去る。是(かく)のごとくして、三年、人、『其れ、必ず、復(ま)たとは至らざらん。』ことを料(おも)ふも、次の歲、巢づくること、故(むかし)のごとし。約(ほ)ぼ、雛の長成すれば、卽ち、逕(ただ)ちに去り、三日にして、始めて還る。巢に入りて、「啞啞(ああ)。」となき、子に哺(はぐく)むこと、初めのごとし。蛇、又、蜿蜒(えんえん)として上(のぼ)り、甫(はじ)めて、巢に近づく。兩(ふたつ)の鸛は、驚き、飛びて、鳴くこと、哀しく急にして、直(ただ)ちに靑冥(あをぞら)に上る。俄かに風聲の蓬々(はうはう)たるを聞き、一瞬の間(かん)に、天地、晦(よる)のごとし。衆、異(い)に駭きて共に視るに、乃(すなは)ち、一(いつ)の大鳥(おほとり)、翼もて、天日(てんじつ)を蔽ひ、空より、疾(と)く下(くだ)る。驟(には)かなること、風雨のごとく、爪を以つて、蛇を擊つ。蛇の首(かうべ)、立ちどころに墮ち、兩(あは)せて、殿(でん)の角(すみ)を摧(くだ)くこと、數尺ばかり、翼を振(ふる)ひて去るに、鸛、其の後(あと)に從ひ、之れを送り將(ゆ)かんとするがごとし。巢、既に傾き、兩(ふたつ)の雛、俱(とも)に墮ち、一つは生き、一つは死す。僧、生きたる者を取りて、鐘樓の上に置けり。少頃(しばら)くして、鸛、返り、仍(な)ほ、就いて、之れに哺む。翼、成りて、去れり。〕とある。

 大正元年の春、予の家、臺所の床下より、猫兒《ねこのこ》、二つ、出《いで》たのを、捕へ置くと、見苦しく瘦せた母猫が、宅近く、鳴き廻り、喧《やかま》しい。因《よつ》て、石を抛げて追拂《おひはら》ふに、半時斗《ばか》りして、無類に大きな牡猫、ニャ ニャ ニャ ッと短く鳴き乍ら、進み來たり、その後《うしろ》へ、件《くだん》の母猫が隨いて來た。牡猫の俠勇《けふゆう》、恰《あた》かも、「相手は何者(どいつ)ぞ。」と尋ぬるが如し。予、大いに感じて、二兒を放ち遣ると、一同、悅び、去る時も、牡猫が殿(しんがり)して退《しりぞ》いた。斯《かか》る者は、母を識つて、父を知らずだが、賴まるれば、誰の子とも知れぬ者の爲に、自分の命を賭《と》して助けに來るのも有ると見える。「志異」に、『大鳥』と、事々しく吹立《ふきた》てたるも、實は、此牡猫同前の俠勇な大鸛(おほこうのとり)が、貧弱な鸛夫婦の爲に、蛇を殺して復仇《あだうち》したので有らう。

 又、云《いは》く、濟南有營卒、見鸛鳥一ㇾ過射ㇾ之、應ㇾ弦而落、喙中銜ㇾ魚、將ㇾ哺ㇾ子也。或勸拔ㇾ矢放ㇾ之、卒不ㇾ聽、少頃帶ㇾ矢飛去、後往來郭間、兩年餘貫ㇾ矢如ㇾ故、一日卒坐轅門下、鸛過ㇾ矢墜ㇾ地、卒拾視曰、此矢固無ㇾ恙哉、耳適癢、因以ㇾ矢搔耳、忽大風催ㇾ門、門驟闔、觸ㇾ矢貫ㇾ腦而死。〔濟南(さいなん)[やぶちゃん注:山東省省都。蒲松齢もこの済南府内の出身で、ここで活躍した。]に營卒有り。鸛の鳥の過ぐるを見て、之れを射る。弦に應じて落つ。喙(くちばし)の中(うち)に魚を啣(くは)へり。將に子を哺まんとするなり。或るひと、矢を拔きて、之れを放つことを勸む。卒、聽かず、少頃《しばら》くして、矢を帶びて、飛び去れり。後ち、郭(かく)間(あひだ)を往復すること、兩年餘り、矢を貫くこと、故(むかし)のごとし。一日(いちじつ)、卒、轅門(えんもん)の下に坐せり。鸛、過ぎて、矢、地に墮つ。卒、拾ひ視て曰はく、「此の矢、固(まこと)に恙(つつが)なし。」と。耳、適(たまた)ま、癢(かゆ)し。因りて、矢を以つて、代へて、耳を搔けり。忽ち、大風(たいふう)、門を摧(くだ)き、門。伊驟(にはか)に闔(と)じ、矢に觸れ、腦(なう)を貫きて、尋(つ)いで、死す。〕是も、支那に、以前、鸛を神物とした遺風の譚と惟《おも》はる。

[やぶちゃん注:以上の「聊齋志異」の話(熊楠は分離して示しているが、原著では、一つの話として、二種を一緒に掲げてある)は、事前に先立って、ブログ・カテゴリ『柴田天馬訳 蒲松齢「聊斎志異」』にて、『蒲松齡「聊齋志異」 柴田天馬訳註「禽俠」』として、電子化しておいた。以上の原文と私の推定訓読とともに、読まれたい。

「大正元年の春」明治四五(一九一二)年七月三十日、明治天皇が崩御して皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が践祚(即位)したため、「登極令」(明治四二(一九〇九)年公布)に基づき、「改元の詔書」は公布され、即日に施行して、同日は大正元年七月三十日となった。熊楠は「春」と言っているから、事実上は、明治四十五年である。]

フライング単発 甲子夜話卷之四十九 5 鸛雛を雀養ふ

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「鴻の巢」の注に必要となったため、急遽、電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も変更・追加し、鍵括弧記号も用い、段落も成形した。但し、ここに語られたことは、事実としてあるのかどうかは、私は知らない。]

 

49―5 鸛《こふのとり》雛《ひな》を雀《すずめ》養《やしな》ふ

 或人《あるひと》、曰《いはく》、

「鸛の巢に雛を生ずるときは、雀、その雛の餌《ゑ》を運ぷ。大小夐別《けいべつ》の鳥にて、いかなる故に親《したし》きや。鸛も雀を害せず、雀も亦、鸛を恐るゝこと、無《なし》。」となり。

■やぶちゃんの呟き

「夐別」はるかに異なることを言う語。

フライング単発 甲子夜話卷之六十二 22 羅漢寺の話【五條】

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「鴻の巢」の注に必要となったため、急遽、電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も変更・追加し、鍵括弧記号も用い、段落も成形した。五条から成るので、条の間を一行空けた(但し、段落は四段しかないので、推定で最終段落を二つに分離した)。この「羅漢寺」については、直前に公開した「フライング単発 甲子夜話卷之二十三 6 寺屋に鸛巢ふ事」の私の注を参照されたい。最後の条はダイレクトに、その話を受けて書かれてある。]

 

62-22 羅漢寺の話【五條】

 三月の末、開山忌とて招かれ、羅漢寺に往《ゆき》たりしとき、往持【彌天和尙。】出《いで》て、種々の物語ぜし中、普照國師【隱元。】、檗山《ばくざん》開創の後、宇治川に近き渡りあるを津處《しんしよ》とし、屢々、こゝより渡られければ、今も其處を「隱元渡り」と云ふとぞ。

■やぶちゃんの呟き

「檗山開創」明朝復興の願いに始まった禅宗の一宗派黄檗宗は、江戸初期に来日した隠元隆琦(一五九二年~一六七三年)を開祖とし、現在の京都府宇治市にある黄檗山(おうばくさん)萬福寺(グーグル・マップ・データ)が、隠元隆琦を開山とする本山である。

 

 又、卽非禪師は、隱元の弟子にて、年も餘ほど若かりしが、神通《じんづうう》を得たる人にて、隱元に隨《したがひ》て、この渡《わたし》をわたるとき、忽《たちまち》、河の向岸《むかふぎし》に立《たち》てあり。隱元、時に云《いふ》には、

「かく神通を人に見することは爲《なす》まじきこと也。人に見へざるこそ神通なり。」

とて、時々に、卽非がかゝる所行《しよぎやう》をば、止《とどめ》し、とぞ。

 

 又、木庵禪師【黃檗の二世。】も國師の高弟にして、厚篤の人なりしと。或日、隱元、檗山の中妙高亭と云《いへ》るに、木庵、卽非と在りしとき【この亭は、淀川を望む所にて、其頃は、創寺のとき故、林木も長《ちやう》ぜざれば、川を往《ゆ》く船、この亭より能く見へたるが、今は樹抄《じゆべう》、茂密して、來還の船を見ることなしとぞ。】、淀河の舟帆《しふはん》を揚《あげ》て來《きた》るを見て、隱元、曰《い》ふ。

「汝輩《なんぢら》、あの行舟《ゆくふね》を駐《と》めよ。」

と。木庵、卽《すなはち》、起《たつ》て、亭の障子を閉《しめ》んとす。

 卽非は言下に眼《まなこ》を閉ぢ、

「舟を停《と》め畢《をはん》んぬ。」

と、卽答せし、とぞ。

 その心機の先後《せんご》、この如し。

[やぶちゃん注:「樹杪」現代仮名遣「じゅびょう」。木の梢(こずえ)。]

 

 又、羅漢寺御成《おなり》のときは、例として、翌日、寺社奉行宅にて銀十枚を下さる。時として御成の場にて、法問を聴《きか》せらるゝことあり。このときは直《ぢき》に銀三枚を賜はるとぞ。

 この事、德廟[やぶちゃん注:徳川吉宗。]の御時にや始《はじま》るかと。

 

 又、かの堂脊の鸛巢《こうのす》、予が幼年の頃より、今に連綿する抔《など》、語れる次《つい》で、

「さて。大風《たいふう》には吹落《ふきおと》す歟《か》。」

と言《いひ》たれば、

「否々、一昨年、猛風の時にも、曾て損ずること、なし。又、時として彼《かの》巢を、人、見屆《みとどく》ることあるときは、屋脊《をくせき》に登り見るに、何《い》かにして銜來《くへきた》るや、土を以て、木枝《きのえだ》の隙をつめつゝ、中々、搖飄《やうへう》する底《てい》のことに、あらず。巢の廣さ、たゝみ二帖鋪《じき》もあり。」

と云。

 又、前《さき》の廿三卷に云し如く、年々、鸛を長ずれば、父鳥、巣を去る。このことも和尙、云《いふ》には、

「雛、やゝ長ずれば、父鳥、翼を張《はり》て、飛形《とぶかたち》を敎ゆ。雛の習熟すると覺ゆれば、又、枝朶《しだ》を銜來《くはへきたつ》て、堂脊を步《ほ》して、巢なき所に於て、巢を構《かまふ》るの狀《かたち》をなし、巢を成すの事を習はしめ、亦《また》、熟すると覺しきとき、是より、父鳥、遂に來らず。若し、雛三羽なれば、雌雄二つを留《とど》めて、餘子《よし》は將《ひき》ゐ去るとぞ。

 

フライング単発 甲子夜話卷之二十三 6 寺屋に鸛巢ふ事

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「鴻の巢」の注に必要となったため、急遽、電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も変更・追加し、鍵括弧記号も用い、段落も成形した。]

 

23―6 寺屋《じをく》に鸛《こふのとり》巢《すく》ふ事

 鸛は靈識《れいしき》ある鳥か。

 御藏前《おくらまへ》西福寺の堂の棟瓦《むねがはら》の上に、以前より、巢を構ふ。

 予、退隱の後、淺草の邸《やしき》に往來の路、しばしば、彼《かの》寺の邊を過ぐ。

 時に、巢を望見《のぞみみ》るに、鸛、或《あるい》は、雙棲《さうせい》し、又は、雛を育《やしな》ふ。

 然《しか》るに、その空巢《あきす》を見ること、兩三日なり。

 乃《すなはち》、從行の人に問ふ。

「鸛、なし。何《いか》なる故や。」

と云へども、從行も知《しる》べきにあらざれば、

「不審なる。」

由を答ふ。

 然《しかる》に、俄《にはか》に、彼地の溝西《みぞのにし》、失火し、寺、風下《かざしも》に在《あり》て、遂に燒亡す。

 然《しか》れば、鸛は、已前《いぜん》に、これを知《しり》たるならん。

 因《ちなみ》に云ふ。本所五つ目、羅漢寺の堂脊《だうのせ》の瓦上《かはらのうへ》にも、鸛、巢くふこと、久し。

 頃《このご》ろ、かの住持に、予、しばしば値《あ》ふ。渠《かれ》、云ふ。

「鸛、年々、卵を生じ、雛《ひな》となり、これを育《はぐくみ》し終《をは》れば、父烏は、飛去《とびさり》て、住所《すむところ》を知らず。この後《のち》は、雛鳥、成長して、又、如ㇾ此《かくのごとし》。」

と。これも亦、奇なり。

[やぶちゃん注:「御藏前西福寺」現在の台東区蔵前にある浄土宗東光山松平良雲院西福寺(グーグル・マップ・データ)。江戸時代には、浄土宗江戸四ヶ寺の一つとして触頭(ふれがしら)を勤めていた。

「本所五つ目、羅漢寺」現在の東京都目黒区下目黒にある天恩山五百羅漢寺が移転する前にあったのがそれ。当時は黄檗宗だったかと思われるが、現在は浄土宗系単立寺院。羅漢寺の創建は元禄八(一六九五)年で、当時の羅漢寺は本所五ツ目(現在の東京都江東区大島三丁目)にあった。ここが、跡(グーグル・マップ・データ)。現在、旧羅漢寺に因んで、名を羅漢寺とする寺が同地にあるが、こちらは曹洞宗。]

フライング単発 甲子夜話卷之十七 19 新長谷寺鸛の事幷いかり草の功能

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「鴻の巢」の注に必要となったため、急遽、電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も変更・追加し、鍵括弧記号も用い、段落も成形した。]

 

17-19 新長谷寺鸛の事幷《ならびに》いかり草《さう》の功能

 靑山新長谷寺《しんちやうこくじ》【曹洞宗。】の屋上に、鸛《こふのとり》、巢を構へて、雌雄、常に居《を》る。

 住持、これを憐《あはれみ》て、日々、𩚵[やぶちゃん注:音「カン・テン」。「すりゑ」と訓じておく。「擂り餌」。]を與へて馴《ならせ》たり。

 後《のち》、鸚、卵《たまご》を生ぜしが、或時、雌雄とも何《いづ》れへか往き、住持も他行《たぎやう》せし折から、奴僕《ぬぼく》、かの屋脊《をくせき》に上り、

「卵を取り、煮て、食せん。」

とする中《うち》に、住持、歸《かへり》たれば、二羽とも、庭中《にはなか》に立《たち》て、哀訴する體《てい》なり。

 住持、異《あやし》みて、彼是《かれこれ》と思惟《しゆい》し、遂に、其僕を糺《ただし》て、卵を取《とる》の狀《じやう》を聞得《ききえ》たり。

 乃《すなはち》、その煮たる卵を見るに、はや、熟したり。

 住持曰《いはく》、

「この如くなれども、かの鳥の心を慰《なぐさむ》るには、足らん。」

迚、卵を、もとの如く、巢に入れたるに、鸛、喜《よろこび》たる體にて、又、これを暖め居《をり》しが、是より後、三、四日も、一羽、見えず。

 人、疑ひゐたるに、又、歸來《かへりきた》る。

 然《しかる》に、一草を啣《ふく》み來れり。

 而《しかして》、その後、卵、遂に、雛となる。

 人、以て、

「不思議。」

とす。

「其草實《くさのみ》、屋上より落《おち》て、庭中に生ぜしを見るに、『いかり草』【漢名、「淫羊藿」。】にてありし。」

と云《いふ》。

 人、評す。

「煮卵の雛となりしは、此草の功能には、あらじ。彼《かの》鳥の至誠ならん。」

と【「淫羊藿」は、「本草綱目」、「主治」を云《いへ》るに、『丈夫久レバシテ一ㇾ子』と見へ、『其餘丈夫シテ子、女人絕シテ子に功ある。』と見ゆ。鸛、蓋《けだし》これを用《もちひ》てする乎。】。

■やぶちゃんの呟き

「靑山新長谷寺【曹洞宗。】」現在の港区麻布にある曹洞宗大本山永平寺別院兵龍山長谷寺(グーグル・マップ・データ)のことであろう。麻布大観音が知られ、喜劇俳優榎本健一・歌手坂本九・作詞家阿久悠・日本画家黒田清輝などの著名人の墓が多いことでも知られる。

「いかり草」「漢名」「淫羊藿」モクレン亜綱キンポウゲ目メギ科イカリソウ属イカリソウ Epimedium grandiflorum var. thunbergianum当該ウィキによれば、『和名』『「錨草」』で、『花の形が和船の錨に似ていることに由来する』。『茎の先が』三『本の葉柄に分かれ、それぞれに』三『枚の小葉がつくため、三枝九葉草(さんしくようそう)の別名がある』。『地方によって、カグラバナ、ヨメトリグサともよばれ』、『中国』での『植物名は淫羊藿(いんようかく)』とあり、『花言葉は、「あなたを離さない」である』とあった。『薬効は、インポテンツ(陰萎)、腰痛のほか』、『補精、強壮、鎮静、ヒステリーに効用があるとされる』。『全草は淫羊霍(いんようかく、正確には淫羊藿)という生薬で精力剤として有名である』。『淫羊霍とは』、五~六『月頃の開花期に』、『茎葉を刈り取って天日干しにしたもので、市場に流通している淫羊霍は、イカリソウの他にも、トキワイカリソウ、キバナイカリソウ、海外品のホザキノイカリソウ(ホザキイカリソウ)も同様に使われる』が、『本来の淫羊霍は中国原産の同属のホザキノイカリソウ E. sagittatum』『(常緑で花は淡黄色)で』、『名は』、『ヒツジがこれを食べて精力絶倫になったという伝説による』。『イカリソウの茎葉には有効成分としてはイカリインというフラボノイド配糖体と、微量のマグノフィリンというアルカロイドなどが含まれ、苦味の成分ともなっている』。『充血を来す作用があり、尿の出を良くする利尿作用もあるとされている』とある。

「本草綱目」「主治」「丈夫久レバシテ一ㇾ子」「其餘丈夫シテ子、女人絕シテ子に功ある」同書の巻十二下の「草之一」に載る。原文は「漢籍リポジトリ」のこちら[037-25b]の影印本を参照されたい。以上の引用文を訓読しておくと、

   *

丈夫、久しく服(ぶく)すれば、人をして、子を有らしむ。

   *

其の餘よ、丈夫の陽を絕して、子、無く、女人(によにん)、陰(いん)を絕して、子、無きに功ある。

   *

である。

蒲松齡「聊齋志異」 柴田天馬訳註「禽俠」

 

[やぶちゃん注:現在進行中の南方熊楠「續南方隨筆」の「鴻の巢」の電子化注に急遽必要になったので、電子化する(実は、昨日、半分まで注を附したところで、ひと眠りした後、本未明午前二時半に起き、八時間半ぶっ続けでやったのだが、まだ注が終わらない。その殆んど最後の作業が、これからやる、これを含めて五つの電子化が相当するのである)。熊楠の論考中には、返り点附き原文が載り、私の訓読文も載せてあるので、それらは省略する。今まで通り、柴田氏の快刀乱麻のルビは総て再現する。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の柴田天馬訳「定本 聊齋志異」巻四(昭和四二(一九六七)年修道社刊)の当該部のここからのそれを視認した。但し、同じ柴田氏訳の角川文庫版「完訳 聊齋志異」第三巻所収の別訳(昭和五一(一九七六)年第五版)をOCRで読み込み、加工データとして使用した。何故、以上の底本に拘るのかと言えば、正字正仮名版だからである。踊り字「〱」「ぐ」は生理的に嫌いなので正字化した。一箇所、誤植と断じ得るものがあったが、たまたま同じ表現になっている角川版の箇所で訂した。特に指示しない。「註」は全体が二字下げで、「註」以外はポイント落ちで、二行に渡る場合は四字下げであるが、総て引き上げポイントも同じとした。なお、「こうのとり」の正しい歴史的仮名遣は「こふのとり」である。]

 

禽 俠(きんけふ)

 

 天津の、某(ある)お寺の屋根の鴟尾(しやちほこ)(一)のそばに、鸛鳥(こうのとり)が巢をつくつた。

 お堂(だう)の承塵(ひさし)の上に盆のやうな大蛇が藏(かく)れてゐて、いつも、鸛(こう)の雛が、團翼(かたま)つてゐるのをみては、出て來て、淨(きれい)に呑食う(のみ)盡くすので、鸛は悲しさうに鳴きながら、幾日(いくにち)かして、去(い)つてしまふのだつた。

 そんなことが三年つゞいた。

 群(みんな)は必(きつ)と復(も)う其の鳥はこないだらうと料(おも)つてゐたが、次の年も、故(もと)のやうに巢をつくり、雛が、ほゞ長成(そだ)つたころになつてから、忽(たちま)ち、どこへか去(い)つて、三日めに、始(やつ)と歸つてくると、巢に入つて、啞々(くうくう)いひながら、初(まへ)のやうに、子(こども)を、哺(はぐ)くみそだてるのだつた。

 蛇が又蜿蜒(うね)りながら上つて來て、巢に近づくと、二羽の鸛(こう)は驚いて、哀しさうに鳴き急(さわ)ぎつゝ直上靑(あをぞら)冥(たか)く飛んでいつた。

 そのとき、俄かに蓬々(ざあつ)(二)といふものすごい聲(おと)が聞えて、一瞬間(たちまち)天地が晦(やみ)のやうにくらくなつた。みんなは駭き異(あやし)んで、共にかなたを視あげると、大きな鳥が翼で天日を覆ひ、風雨のやうな驟(はや)さで、疾(さつと空からまひ下り爪ではつしと蛇を擊つた。蛇の首は立ちどころに堕(お)ちてしまひ、その連(はづみ)でお堂(だう)の角(すみ)が、何尺も摧(くだ)けた。

 大きな鳥は翼を振つて去(かへ)つていつた。鸛(こう)はそれを送るかのやうに、其の後についてとんでいつた。

 巢が傾いたので、二羽の雛が落ちたが、みると一つは生き一つは死んでゐた。僧(ばう)さんは生きてるのを取りあげて、鐘樓の上に置いてやつた。

 しばらくすると鸛は返つてきて仍(もと)のやうに巢に就いて、之(それ)を、哺(はぐ)くみ、翼が成(で)きあがつてから去(い)つてしまつた。

 

 濟南のある營兵が、鸛(こう)のとりのとんで過(ゆく)のを見て、之(それ)を射ると、弦おとと應(とも)に落ちてきたが、喙中(くち)に魚を銜(ふく)んでゐるのは、子(こども)に哺(はぐ)くまうとしてゐたのであらう。或人が、矢を技いて放してやれと勸めたが、營卒は聽かなかつた。

 しばらくすると、鸛は矢を帶びたまゝで飛び去つたが、その後二年餘りも、故(もと)のやうに矢に貫かれながら、近郭間(しろのちかま)を往つたり來たりするのを見かけた。

 ある日營卒が轅門(おもてもん)(三)のところに坐つてゐると、鸛のとりが其の上を飛んでいつた。そして帶びてゐた矢を地に堕した。

 營卒はそれを拾つて眺めながら、

 「この矢も固無恙無哉(ぶじだつたな)!」

 とじやうだんを曰つた。そのとき急に耳が癢(かゆ)くなつたので、矢を耳搔の代りにしてゐると、だしぬけに大風が吹いて門を摧(あふ)り、門が驟(いきな)り闔(しま)つて矢に觸れたため、矢が腦(あたま)にさゝつて死んでしまつた。

 

       註 

(一) 鴟尾又はの鴟吻ともいふ。本當は魚尾といふので、屋上の棟の兩端の裝飾である。漢武の柏梁殿が火災に罹つた時、術者が上奏して、天上に魚尾星がある、其の形をとつて屋上に冠し、火除けのまじなひにしたらよいと曰つたので、屋根に魚尾をつくつたといふ。こゝでは鯱鉾と譯しておく。

(二) 盛んなるかたちである。詩に、其葉蓬々とある。こゝでは、ざあつと、と譯しておく。

(三) 車をおりる官衙の外門である。

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 四一番 惡い寡婦

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題の「寡婦」は本文に従い、「やもめ」と訓じておく。]

 

      四一番 惡い寡婦

 

 或所に、カバネヤミ(怠け者)の若者があつた。每日々々ぶらぶらして爲事(ナスコト)も爲事(スルコト)もなく暮して居た。ある寡婦(ヤモメ)がそれを寄せつけて、道を步く時は何でもいゝから目についた物を拾つて來るもんだと、惡智慧を授けた。言ひつけられた若者は、往來から布切れや木屑などを拾つて來て、寡婦の生計(クラシ)の手助けをして居た。

 或る夜、若者が若い女の屍《しかばね》を拾つて來たら寡婦は、これはよい物を拾つて來たと言つて、死人《しびと》の髮を梳(トカ)してやつたり、白粉朱(オシロイベニ)をつけて化粧をさせ、小洒張(コサツパリ)と身仕度をさせてからそれを若者に擔《かつ》がせて、自分も樽を持つて一緖に酒屋へ行つた。そしていゝアンバイに死人を戶に凭《もた》せかけて置いて、申し申し酒(サケ)クんつアえと言い棄てゝ二人は家へ逃げ歸つた。

 酒屋の番頭は、お客かと思つて戶を開けると、その拍子に樽を持つた若い女が倒れて死んだ。あれアこれアことな事をしたと言つて居るところへ、先刻の二人がまたやつて來て、あれア大變だ、此方《こつち》ではおら家(エ)の嫁を殺したでアと言つて難題を吹つかけた。何を言ふにも自分の家の前で倒れて死んだので酒屋は理に詰まつて、金を百兩出してあやまつた。寡婦と若者とは其の金で喜び繁昌した。

  (大正七年の頃、遠野町、佐々木緣子氏の手紙の
  中の五。但し此話は舊仙臺領氣仙郡地方に行はれ
  たものである。南部領仙臺領とは昔話まで人情が
  違つてゐる。この事はかなり面白い問題であると
  思つてゐる。)
  (此話のカバネヤミすなわち怠け者のことなども、
  南部ならばカラナキと言ふ筈である。報告者の母
  堂は舊仙臺領の氣仙郡の生れであつた。)

[やぶちゃん注:「舊仙臺領氣仙郡地方」旧仙台郡は現在の宮城県気仙沼市(グーグル・マップ・データ)よりも遙かに広域であったと思われる。ウィキの「気仙郡」を見られたい。

「南部領仙臺領」南部(盛岡)藩は現在の岩手県中部を地盤に青森県東部から秋田県北東部にかけての極めて広い地域を治め、仙台領石巻湊(現在の宮城県石巻市)を拠点として、米穀倉や海運を行っていた。南部盛岡藩の領有地域はウィキの「盛岡藩」にある、この外部リンク地図がよい。]

2023/04/15

大手拓次 「水の上にをどる女」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るもので、同パートについては、先のこちらの冒頭注を見られたい。]

 

 水の上にをどる女

 

水の上にをどる女よ。

秋はさみしい裏葉色(うらばいろ)の撫肩(なでがた)に

心をもてあそぶ放埒者よ。

自然はおとろへた思想の吹雪をちらし、

お前達の長い垂髮を飾る。

 

水の上にをどる女よ。

朽葉色の叔母さんが

絲のやうに息をついて

お前達のなりゆきを懸念する。

悲しい悲しい色事の上手なお前達。

 

[やぶちゃん注:「裏葉色」木の葉や草の葉裏のように、くすんだ薄緑色。特に葛(くず)の葉の葉裏に因んだ色ともされるのがイメージとしてはよく示す色である。

「垂髮」の「垂」については、正字体に「埀」があるが、詩集「藍色の蟇」の「象よ步め」に使用されているのは「垂」であったので、よかった。この「埀」の字は実は私には激しい生理的嫌悪感を感じさせる、特異点の厭な漢字だからである。

「朽葉色」落ち葉や樹木の葉が枯れたような、くすんだ赤みがかった黄色。

「絲」は底本では「糸」であるが、詩集「藍色の蟇」では「絲」の字体だけが複数箇所で使用されていることを鑑みてこれで示した。]

大手拓次 「くちなしいろの散步馬車」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るものの内、基本的には、詩集「藍色の蟇」には所収されていない詩篇を選んである。私は既に、サイトHTML横書版及び縦書版(二〇一四年一月二十七日公開)、及び、ブログ・カテゴリ『大手拓次詩集「藍色の蟇」【完】」』で分割版(二〇一三年十一月四日完遂)を公開しているからである(なお、前二者は、ほぼ正規表現に仕上げてあるが(公開以後に全体に補正してある)、ブログ版の方はUnicodeを使いこなしていない頃の分離単発のものであるため、正字不全があるのは許されたい)。

 原氏の底本「解説」によれば、このパートは明治四五・大正元(一九一二)年から大正六(一九一七)年の間に創作された詩篇で詩集「藍色の蟇」に所収されるものも含まれており、数えで拓次二十五歳から三十歳に当たる折りのものである。そこに、同詩集「藍色の蟇」の『もとになったのは大正一五年』(一九二六年)『の拓次みずからの手による「藍色の蟇」の自選詩稿(一八六篇)であった』。本来『ならば、生前のその時点で詩集は実現しているはずだった。が、版元のアルスの都合か仲介者』北原『白秋の思惑(おもわく)かで実現しなかった』(私は深く後者を疑っているのだが)ことから、この大正十五年という詩人にとって一つのエポックであったであろうそれと、『拓次の自選詩稿の意図を重視して』、この『『藍色の蟇』時代Ⅰ』と、後に続く第三パート『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』の区分を行った旨の記載がある。

 当時の拓次については(ここでは仮に大正七年までとしておく)、同書の原氏の「年譜」によれば、明治四五・大正元(一九一二)年七月、早稲田大学英文科を卒業(『フランス語のほかは成績不振であったが、卒論「私の象徴詩論」が優秀だったため留年を免れ』たとある)、『本格的な詩作、にわかに旺盛』となり、これ以降、多くの詩誌に詩を発表し続けるが、『大学卒業』以来、『就職もせず、叔父からの仕送りも絶えて』、故郷の群馬県碓氷郡西上磯部村(現在の安中市磯部:グーグル・マップ・データ)『磯部にはたびたび帰省するが、東京での生活は質屋通いをするほどの困窮ぶりであった』とある(大正三年の原氏の附記)。大正五(一九一六)年の一月には、既に歌人として知られていた北原白秋(当時三十二歳で二歳年上)から初めて手紙を貰っている。この六月、流石に生計を立てざるを得なくなり、『ライオン歯磨本舗広告部に就職、文案係とな』っている。十一月には、萩原朔太郎から最初の手紙を受け取っている(彼の「月に吠える」は翌年二月刊)。]

 

 くちなしいろの散步馬車

 

ものしづかな夜(よる)よ、

くちなしいろの散步馬車が

靑いひづめの馬にかられて、

嫉妬深いたましひの並木路を

かなしみのそよぎのなかを……

おお 灰色のひきがへるをみたまへ。

――夜よ、毒草のしめやかな愛撫をあたへよ。

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 四〇番 鳩提灯

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題は「はとぢやうちん」と読んでおく。]

 

      四〇番 鳩提灯

 或所に、熊吉と云ふ貧乏な、ひとりものがあつた。働くことが嫌い[やぶちゃん注:ママ。]で、日々(ヒニチ)每日寢てばかり居た。そして何か世の中によい事はないかと考へて居た。第一番に思つた事は、近所の長者どんの一人娘の聟になりたいと謂ふことであつた。ナゾにしたら長者どんの聟になるによいかといろいろ工風《くふう》をしたそのあげく、町へ行つて赤い小提灯を一つ買ひ、また鎭守の森の八幡樣のお宮に行つて小鳩を一羽捕つて來た。そうして[やぶちゃん注:ママ。]或夜それを持つて長者どんの垣内(カクチ)の氏神樣の大杉の上に登つて居た。

 長者どんの檀那樣は夜中に裏庭へ起きて出る癖があつた。其の夜も起きると、氏神樣の大杉の上からこれやこれやと言ふ聲がした。檀那樣は不思議に思つて、誰(ダン)だと言ふと熊吉は作聲(ツクリゴエ[やぶちゃん注:ママ。])をして、俺こそはお前の家の氏神だが、お前のとこの一人娘によい聟を授けべと思つて今夜わざわざこの木の上に降(クダ)つた。お前のとこの聟には隣の熊吉こそよいぞと言つた。そして鳩の脚に小提灯を結び付けてばたばたと飛ばした。鳩は八幡樣の森の自分の巢へ飛んで行つた。

 長者どんでは氏神樣のお告げだからと言つて、その翌日近所の世話好き婆樣を賴んで熊吉の所にやつた。婆樣が隣の長者どんではお前を聟に欲しいといふが、聟になる氣はないかと訊くと、熊吉は俺のやうなもんでもよかつたら承知したと言つた。そしてこんな男が長者どんの聟になつて出世した。だから男と謂ふものは働くばかりが能でない。働きの男よりも量見(クバリ)の男だといふことである。

 (四番同斷の四。)

[やぶちゃん注:「量見(クバリ)」ここは以上から調子のいい悪知恵を含んだところの「気配りがよく利(き)く者」の意。

「四番同斷」「四番 蕪燒笹四郞」の附記は、『(同前の三)』であるから、「二番 觀音の申子」の附記『(遠野町、小笠原金藏と云ふ人の話として松田龜太郞氏の御報告の一。大正九年の冬の採集の分。)』を指す。]

柳田國男 「鴻の巢」

 

[やぶちゃん注:本篇は以下に示す底本の「内容細目」によれば、大正二(一九一三)年十二月発行の『鄕土硏究』第一巻第十号初出の論考である。これは、現在進行中の「續南方隨筆」の「鹿杖に就て」に必要となったため、急遽、電子化することとした。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「定本柳田国男集」第二十九巻(一九七〇年筑摩書房刊)のここにあるものを使用した。なお、本篇は所持する「ちくま文庫」版「柳田國男全集」(一九九一年完結初版)には所収していない。今回は底本で見開き一ページであるから、完全に視認によるタイピングとした。

 底本ではルビが少ないが、躓き易いもの、或いは、難読と思われる箇所には推定で《 》によって歴史的仮名遣で読みを添えた。冒頭で述べた理由での電子化であるので、注は必要最小限度に留めた(つもりだが、結局、あれこれ附した)。]

 

     鴻 の 巢

 

 第八號に高木君[やぶちゃん注:民俗学者高木敏雄。]が「魔除《まよけ》の酒」の說明として引かれた仙臺地方の昔話に付いては、自分は又別の方面から深く報告者たる菅野氏[やぶちゃん注:不詳。]の勞を謝すべき埋由をもつて居る。あの話の全體の組立は所謂 Beast and Beauty [やぶちゃん注:物語や映画で知られる近世フランスで書かれた異類婚姻譚民話「美女と野獣」( La Belle et la Bête )。当該ウィキを参照されたい。]系統から別れた一つの動物報恩譚で、蟹滿寺(かいまんじ[やぶちゃん注:])の緣起以來我邦にもありふれたるものではあるが、其中心なる一節に「蛙の易者の入智惠《いれぢゑ》」で、裏の植の樹に巢を食つて居る鴻の鳥の卵を、蛇の婿に取らせに遣る。婿は蛇の形を現はして木に登り、鴻の巢に首を入れると、忽ち親鳥に其頭を啄《つつ》かれて落ちて死んだ」と云ふ條(くだり)は、あまり外では見なかつた型である。自分は兼兼これに就て南方氏などの御意見が聞きたいと思つて居た。此奇拔な鳥と蛇との鬪爭(あらそひ)の話は、傅說の形を以て二三の地方に分布して居るのであるが、どうもまだ由來が判らない。手控《てびかへ》にあるだけを序《ついで》に此へ列べて置かうと思ふ。新編武藏風土記稿卷百四十八、今の北足立鴻巢町大字鴻巢の條に、鎭守氷川社一名鴻の宮は土地の名に由つて起る所と記し、更に羅山文集を引いて次の話を載せて居る。

[やぶちゃん注:「鴻」この字が現わす鳥類は、必ずしも、ここで柳田がお気軽に(自身の主張に合わない多種の鳥である話柄は都合よく完全排除して)

コウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属コウノトリ Ciconia boyciana

として語っているほど、そんなに単純明快なものではない(後に電子化する「續南方隨筆」の「鴻の巢」の冒頭部で、南方鳥が盛んに柳田鳥を鋭い嘴で啄(つっ)きまわしているのは極めて正当である)。例えば、江戸中期の「和漢三才図会」でさえ、私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴻(ひしくひ)〔ヒシクイ・サカツラガン〕」を見られば判る通り、挿絵も記載も、到底、木の上に営巣する大型のコウノトリを叙述しておらず、私は最終的にそこに記された種を一種と認めず、

カモ目カモ亜目カモ科マガン属ヒシクイ(菱喰) Anser fabalis serrirostris 及びオオヒシクイ Anser fabalis middendorffii

と、ヒシクイ類ではない別種の

マガン属サカツラガン(酒面雁)Anser cygnoides

に同定している。さらに言えば、「鴻」は本来、漢語にあっても、一種を指す語ではなく、広義の「大きな白い(水)鳥」の総称であったのであり、南方鳥も以上の論考の冒頭、「鶴の一声」でブチ挙げている通り、『「本草啓蒙」に、鴻は鵠と同物で、ハクチョウのこととし』てあり、本邦のコウノトリの本邦での繁殖個体群及び周年棲息する個体群が絶滅してしまった現在、「鴻」の字は、寧ろ、お馴染みの、

カモ科ハクチョウ属オオハクチョウ Cygnus Cygnus

を指すものとして認識されているはずである。だいたい、自然界でコウノトリを本邦で見たことがある読者は極めて少ないだろう(私はない)。しかも、古くも、木の上にとまっていた白い鳥が、イコール、コウノトリであったという認識は、お笑いに等しいもので、実際には、絶対に木の上に営巣しない白いツル類がたまたま飛翔してとまっていた場合や、木の上に営巣してその糞で木が枯れてしまう白いサギ類をも、「鴻」と呼び、その巣群を「鴻の巣」と呼称していたと考える方が自然である。但し、真正のコウノトリが、嘗つては、本邦でも明治以前には、一般に見られた時期や場所はあった。その証拠が、幕末から明治初期に成った、『森立之立案・服部雪斎画「華鳥譜」より「かう」』(私の電子化注)で絵図とともに確認出来る。

「蟹滿寺(かいまんじ)の緣起」現在の京都府木津川市山城町綺田(かばた)にある真言宗普門山蟹満寺(かにまんじ)の起源縁起譚(経緯の中に毒蛇と娘の異類婚姻譚を含む)として知られる「蟹の恩返し」伝承で知られる。当該ウィキによれば、『本寺の創建年代や由緒については不詳であるが、周辺の発掘調査から飛鳥時代後期(』七『世紀末)の創建と推定されている』おあり、また、『寺の所在地の地名綺田(かばた)は、古くは「カニハタ」「カムハタ」』(柳田のルビ「かんまん」はこの撥音「カン」を誤認したか、もっと致命的に芭蕉の名句で知られる秋田の象潟の蚶満寺(かんまんじ)の読みと錯誤したものかとも思う)は、『と読まれ、「蟹幡」「加波多」などと表記された。寺号についてもかつては加波多寺、紙幡寺などと表記されたものが蟹満寺と表記されるようになり、蟹の恩返しの伝説と結びつくようになった』(これが事実ならば起源譚は後付けとなる)『とする』とあって、『この伝説が』「今昔物語集」に『収録されていることから、蟹満寺の寺号と蟹の報恩潭との結びつきは』、『平安』『後期以前にさかのぼることがわかる』とする。ここで言う「今昔物語集」のそれは、巻第十六の「山城國女人依觀音助遁蛇難語第十六」(山城國(やましろのくに)の女人(によにん)觀音の依りて蛇(へみ)の難を遁(のが)るる語(こと)第十六)である。「やたがらすナビ」のこちらで、新字であるが、電子化されたものが読める。

「蛙の易者の入智惠」こういう書き方は甚だ気に入らない。「今昔物語集」の当該話を知らない読者は、その中にそんなシークエンスがあるのかと誤認する謂いでよろしくない。これは「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の宮城県の「十宮(とみや)」伝承に現われるモチーフである。但し、そこでも「鴻」が登場しており、娘を孕ませた蛇を噛み千切って退治している(但し、蛇の子を孕んだ娘は恥じて入水自殺し、話は悲劇として終わっている)。

「自分は兼兼これに就て南方氏などの御意見が聞きたいと思つて居た」思っても言わない方が良かったのでは、ありませんか? 柳田先生? 結果して倍返し型の論考が書かれて、先生がますます不愉快になっただけでしょう?

「新編武藏風土記稿卷百四十八、今の北足立鴻巢町大字鴻巢の條に、鎭守氷川社一名鴻の宮は土地の名に由つて起る所と記し、更に羅山文集を引いて次の話を載せて居る」国立国会図書館デジタルコレクションの明一七(一八八四)年内務省地理局刊のここ(「氷川社」の条)で視認出来る。この「今の北足立鴻巢町大字鴻巢」「鎭守氷川社一名鴻の宮」は現在の埼玉県鴻巣市本宮町にある鴻(こう)神社(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、「コウノトリ伝説」として、『昔、「樹の神」と言われる大樹があり、人々は「樹の神」の難を逃れるためにお供え物をして祭っていた。これを怠ると必ず祟りが起こり人々は恐れ慄いていた。ある時、一羽のコウノトリが飛来して、この木の枝に巣を作り』、『卵を産み育て始めた。すると大蛇が現れて卵を飲み込もうとした。これに対し』、『コウノトリは果敢に挑み』、『これを撃退させた。 それから後は「樹の神」が害を成す事は無くなったという。人々は木の傍に社を建て「鴻巣明神」と呼ぶようになり、土地の名も鴻巣と呼ぶようになったと伝えられている。』とはあるが、出典は示されていない。「羅山文集」は江戸初期の朱子学派儒学者で林家の祖林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)の「羅山林先生文集」。]

「傳說す、昔大樹あり、樹神と稱す、民《たみ》飮食を以て之を祀る。しかせざれば則ち人を害す、一旦鵠《こく》來つて枝上に巢(すく)ふ、巨蛇其卵を吞まんと欲す。啄《つひば》みて之を殺す、是より神《かみ》人を害せず、是に於てか鵠が害を除き益あるを以ての故に鵠巢《かうのす》と砂一し、逢に此に名づけて地號とす云々。」鵠の字を用ゐたのは道春《だうしゆん》先生[やぶちゃん注:林羅山の後の別号。]の考へからで、實際は始《はじめ》から鴻巢と書いて居た。今の社傳も同樣で、行囊抄《かうなうしやう》にある話は之よりも一段奇怪だと風土記にあるから、念のため其内に彼《かの》書を見ようと思ふ。此話だけでは蛇又は鴻と今の社との關係はまだ不明であるが、次の備前の話を見ると、此戰鬪は卽ち神社の爭奪であつたことが知れる。備陽記(享保六年自序あり)卷六に曰く、「備前兒島郡(琴浦村大字)下村の八幡宮は又の名を鴻の宮と云ふ。昔の氏神は正體大蛇なりしが、鴻常に此宮山に巢を掛け寶殿も鳥の糞に穢《けが》し、其上氏子の參詣も鴻の巢あるときは、恐れて怠りぬ。氏子共歎きて神に祈りけるは、如何にして氏神鳥類に惱されたまふぞや(中略)神力正にあらば忽ち鴻を亡《ほろぼ》したまふべしと申しけれぱ、其夜氏子共が夢に神現れ出でゝ、汝等祈る所至極せり、然らぱ明日辰の一天[やぶちゃん注:「一點」で午前七時から七時半であろう。]に鴻を退治すべし、汝等出でゝ見よとあらたかに告げたまふ。氏子も奇異の思を爲し殘らず神前に蹲踞して心を澄ます所に寳殿震動して大蛇一つ現れ出で、鴻の巢掛けたる大木に登り互に暫し戰ふ所に、鴻ども多く來りて終《つひ》に一蛇を突殺《つきころ》しぬ。夫《それ》よりして鴻の宮と謂ふと所の老翁共語る。此段不審なれども書き記し置かざれば此說を知らざるかと言はれんこと恥かし」とある。近頃出版せられた東洋口碑大全上卷に、大和怪異記を引いて大要左の如き話が載せてある。下總の三《さん》の社《やしろ》と云ふ宮にて、社の木に鴻棲み、蛇や石龜を食ひ散し、此地を穢《けが》す。氏子之を見て次第に神威を疑はんとするするとき、神託あり日を期して鴻を治罰せんと云ふ。共日の巳の刻[やぶちゃん注:午前十時前後。]となり、白蛇あり舌を閃《ひらめ》かして其木に登る。雌雄の鴻之を見て急ぎ蛇を捕へ、骨のみ殘して食ひ盡す。それより其鴻を神に祀り鴻の巢と呼ぶ(以上)。靈鳥が蛇を滅《ほろぼ》したと云ふだけの話ならばさして珍しくは無い。白井眞澄の紀行齶田濃刈寢(あきたのかりね)、羽後飽海《あくみ》郡遊佐鄕永泉寺の條に、昔鳥海山に手長足長《てながあしなが》と云ふ毒蛇住み往來の人を害す。諸天萬神之を憫《あはれ》みたまひ、梢に怪しの鳥を棲ませて、毒蛇居れぱ有哉(うや)と鳴き、在らぬときほ無哉(むや)と鳴かしむ。故に其地を有哉無哉關《うやむやのせき》と云ふとある。但し此話には寺臭《じしう》がある。通例手長足長は害敵の名に用ゐられぬ。多くの社の末社に手長明神あり、二體あるときに手長足長の神といふ。それは仲居卽ち侍者の義かと思ふ。此話なども元の形ではやはり鳥の方が毒鳥であつたのではなからうか。兎に角に三つの鴻の宮の口碑が共通に神の敗北の記事を傳へて居るのは妙では無いか。氏子が元の氏神を見限つて新《あらた》なる優勝者を迎へたと云ふ點は、通例の毒龍譚と一括しては說きにくい。何か幽玄なる意味のある話であらうと信じ、些《いささか》でも考へ附いたことがあつたら又報告したいと思ふ。

[やぶちゃん注:「行囊抄にある話は之よりも一段奇怪だと風土記にある」「風土記」は「新編武藏國風土記稿卷之百四十八 足立郡之十四」の「鴻巢領」の右下段の「神社」の冒頭の「氷川社」の条(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部)。「行囊抄」は江間氏親の著になる地誌紀行のそれか。元禄九(一六九六)自序。

『備陽記(享保六年』(一七二一年)『自序あり)卷六に曰く、「備前兒島郡(琴浦村大字)下村の八幡宮は又の名を鴻の宮と云ふ。……』国立国会図書館デジタルコレクションの「備陽記 本編」(石丸定良編・一九六五年日本文教出版刊・手書本の写真版であるが、問題なく読める)のここ(右上段から下段にかけてある「一 八幡宮」が当該部)。「「備前兒島郡(琴浦村大字)下村の八幡宮」は現在の岡山県倉敷市児島下の町(しものちょう)にある鴻(こう)八幡宮(グーグル・マップ・データ)。

「近頃出版せられた東洋口碑大全上卷に、大和怪異記を引いて大要左の如き話が載せてある」偶々、最近、電子化注した「大和怪異記 卷之四 第二 下総国鵠巣の事」がそれで、底本は原伝本に従った活字版底本であるから、是非、参照されたい。

「三の社」後身と思われる埼玉県鴻巣市本宮町にある鴻神社(こうじんじゃ:グーグル・マップ・データ)の公式サイト内のこちらに、『鴻神社は明治』六(一八七三)『年にこの地ならびに近くにあった三ヶ所の神社を合祀したもので、もとは鴻三社といわれておりました』とある。

「白井眞澄の紀行齶田濃刈寢(あきたのかりね)、羽後飽海《あくみ》郡遊佐鄕永泉寺の條に」白井眞澄は江戸後期の本草学者にして希代の旅行紀行家として知られる菅江真澄(すがえますみ 宝暦四(一七五四)年~文政一二(一八二九)年)の本名。彼は天明四(一七八四)年九月十日に出羽国(現在の山形県及び秋田県)に入り、日記紀行文「齶田濃刈寢」を記し始めた。以下は、国立国会図書館デジタルコレクションの『秋田叢書 別集』第四(昭和七(一九三二)年秋田叢書刊行会刊)の「菅江真澄集」第四のこちらの「うやむやの關」で視認出来る。

「有哉無哉關」「有耶無耶の關」は山形・宮城両県境の笹谷峠にあったとされる関所。「むやむやの関」「もやもやの関」などとも呼ばれ、古くより歌枕となっているが、位置は定かではない。個人サイトの中の「奥の細道をゆく」の「有耶無耶の関」で候補地が考証されてあるので見られたい。一応、山形県と秋田県の県境にある三崎峠付近が「有耶無耶関趾」(グーグル・マップ・データ)の比定地として存在しはする。私の「今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 49 象潟 象潟や雨に西施がねぶの花」の注の、「曾良随行日記」の象潟到着の前日の六月十六日(グレゴリオ暦では一六八九年八月一日)の条に、

   *

○十六日 吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。一リ、女鹿(めが)。是ヨリ難所。馬足不ㇾ通。 番所手形納。大師崎共、三崎共云。一リ半有。小砂川、御領也。庄内預リ番所也。入ニハ不ㇾ入手形。塩越迄三リ。半途ニ關と云村有(是より六郷庄之助殿領)。ウヤムヤノ關成ト云。此間、雨强ク甚濡。船小ヤ入テ休。

   *

と出る。]

2023/04/14

大手拓次 「運命の屑」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。]

 

  運命の屑

 

 世の中が限りなく、大きく、大鐘の鳴つた跡のやうに感じられた。綠色の響は水水しい姿をおぼろげに見せてはゐるものの、自分のうしろの方へ氣をとられ勝ちである。それ故に力のある幸福と快樂の溫かい花は此家のうちには中中生ひ立ちさうにもなかつた。けれど尙、神の慈悲のおゆるしに、ゆるゆると此人人の成行きは比較的平らな道を步いてゐた。そのなかに悲哀と寂寥とは蝶のやうにたはむれの宿りを求めた。

 漂ふ波のやうに人人の心をゆすぶつた。

 此家にはいくつもの窓があつた。

 

[やぶちゃん注:本篇は底本の「初期詩篇(明治期)」(拓次数え二十四歳の明治四四(一九一一)年と翌明治四十五年)から選ばれた二十篇(編年順)の掉尾に置かれある。]

大手拓次 「圓柱の土人」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。]

 

 圓柱の土人

 

場所。無邊際の砂地。

時刻。晝。

人物。男一人全裸體。

    女一人全裸體。

 

大手拓次 「胞衣を着た祈禱の笛」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。]

 

  胞衣(えな)を着た祈禱の笛

 

 日光を裂く鳥は六月のなかをゆく。輪(わ)なりに結ばれて輕く、白とうす色の布の閒を子供の聲が鍵盤をたたく爪紅(つまべに)の悅びを思はせる。頭を包む水草(みづくさ)の未來の國は嬌婦の美しい遺傳の言葉を語る。銅色の珠(たま)、黑色の棒、樺色のやはらかい板、銀の謀叛者の惡、ここに水色の縞蛇は支配者の位置に坐る。二流れの見知らぬ者の尾がしなやかにもつれる。

 六月の日は綠のなかに溺れた。

 

[やぶちゃん注:「胞衣」小学館「日本大百科全書」には、『胎児娩出(べんしゅつ)後、いわゆる後産(あとざん)として陣痛によって娩出されるもので、胎盤、卵膜、羊膜などが含まれる。字義としては「胞衣」は』、『胎児を包む膜、』則ち、『羊膜をさし、分娩開始までは』、『胎児との間は羊水で満たされている。「胎衣」は胎盤と羊膜を意味する。えなの娩出をもって分娩は終了する』とあり、「ブリタニカ国際大百科事典」には民俗社会的な記載があって(コンマを読点に代えた)、『イヤ、イナなどともいう。以前は』、『エナは土中に埋められたが、その埋め方が、生児の一生の安危にかかわるものと信じられ、また、埋め方が悪いと、生児が夜泣きするともいわれた。その埋め場所は、人に踏まれないところがよいというのと、その反対によく踏んでもらうところがよいという』二『通りの説がある。前者は』、『大黒柱の下とか産室の床下、墓、便所のそば、厩(うまや)のそばなど、後者は』、『土間の上り台の下とか、敷居の下などが選ばれた。埋めた上を最初に通ったものを、生児が一生』、『恐れるというので、父親が最初にまたぐという例がある。また』、『他人に踏んでもらえば』、『生児がまめに育つとか、産後の肥立ちがよいなどという。エナは、布や』、『こも、油紙などに包んで埋めたが、壺や瓶に入れて埋める例もある』とあった。

「閒」は詩集「藍色の蟇」での用字に従った。

「嬌婦」「きやうふ」。艶(あで)やかな美女。]

大手拓次 「羊皮の紙」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。]

 

 羊皮の紙

 

ゆふべに、

ひとまはり化粧の膝、

ちひさい時計の

冷笑のこぼれるのを待つ。

すたれた人聲(ひとごゑ)が

輪まはしのあそびのやうにころんでくる。

 

大手拓次 「香爐の墓場」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。]

 

 香爐の墓場

 

はつ夏は、氣の變り易い

よそゆきの化粧姿、

二人ばかりのお供をつれて

定めない空のしたに

旅先の繪模樣を思うてる。

 

かろい足をあげてお前が微風(びふう)のなかに拂ふとき、

白い、ヘリオトロツプの匂ひをこめた、

そのやはらかい圓みを帶びた二つの香爐は、

絕えまない死の樂しさをかをらせる。

 

化粧姿に紅をふいて、

はつ夏の女のととのひは

眠り好きの鸚鵡のはづかしさうな戲れだ。

 

[やぶちゃん注:「ヘリオトロツプ」ヘリオトロープ(Heliotrope)。ムラサキ目ムラサキ科キダチルリソウ属 Heliotropium の種群を指すが、特にその代表種であるキダチルリソウHeliotropium arborescens を指すことが多い。夏目漱石の「三四郎」(明治四一(一九〇八)年発表)に登場することで人口に膾炙している。当該ウィキによれば、『日本語で「香水草」「匂ひ紫」、フランス語で「恋の花」』(調べた限りでは、“herbe d’amour”(「恋の草」)であった)『などの別名がある』。『バニラのような甘い香りがするが』、『その度合いは品種によって異なる』。『花の咲き始めの時期に香り、開花後は、香りが薄くなってしまう特徴がある』とあり、属名は、『ギリシャ語の』(ラテン文字転写で)『helios(太陽)+trope(向く)で、「太陽に向かう」という意味がある』ともある。学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 三九番 馬喰八十八

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。ちょっと長めの話柄である。標題は「ばくらうやそはち」と読んでおく。「博勞」「伯樂」とも書いた。後者の「はくらく」音変化であるから、「らう」は正規な歴史的仮名遣ではないが、かく表記する。本来は、「牛馬の良否を見分けることに巧みな人・牛馬の病気を治す人」の意だが、江戸時代には「牛馬の売買・仲介を業とする者」を指した。]

 

   三九番 馬喰八十八

 

 或所に、馬喰八十八と云ふ貧乏な馬喰が、たつた一疋の瘦馬を持つて居た。八十八の隣家(トナリ)の長者どんには立派な馬が四十八疋もあつた。八十八はある馬市に一日でもよいから隣家(トナリ)の長者の馬のやうな立派な馬を、引いて行きたいものだと思つて長者どんの所へ行つて、明日の馬市に旦那の所の馬を引いて行つて、人々に見せて遣りたいが、一日貸してケませんかと言ふと、長者は、これが俺ア隣家(トナリ)の旦那の馬だと言つて、上町《かみちやう》から下町《しもちやう》まで曳いて步くなら、四十八疋皆貸してもよいと言つた。八十八はそれでは旦那の言ふ通りにフレて步くから貸シ申せヤと言つて、長者どんの四十八疋の馬を借りて其の翌日馬市へと引いて行つた。

 八十八は隣家の長者の四十八疋の馬の一番シンガリに自分の瘦馬を引ツかけて曳いて、賑かな馬市ヘゾロゾロさせて乘り込んで行つた。人々が魂消(たまげ)て、八十八どこでそんな馬ドを買つて來た。大したもんだなアと褒めると、得意になつて、なに隣の長者の薄馬鹿が俺に全部(ミンナ)賣つたのさ。四十九疋目のあの瘦馬ばかりが長者の馬だと言いフラした。ところが長者の旦那が、世間の人達がどんなに自分の馬を見て褒めるか、それを聽きたいものだと思つて、町へ行つて隱れて八十八の曳いて通るのを見て居たところが、八十八がそんな噓(ボガ)を言ひフラして步いているので、ゴセ燒いて、一足先きに家に還つて、八十八が還るのを今や遲しと待ち構えていた。そこヘ八十八は馬をゾロゾロと引いて戾つて來たものだから、此の野郞、今日町で何と言つた。よくも俺に赤恥をかゝせたなア、その返報は打つて遣るから覺えて居ろと言つて、八十八の瘦馬の、頭を斧でもつてグワンと叩いて打ち殺してしまつた。[やぶちゃん注:「ゴセ燒いて」は「後世(ごせ)を焼く」の転訛と考えられている東北や新潟の方言。「気を揉んで」の意(ウィキの「ごしゃぐ」を参考にした)。]

 八十八はもともと自分が噓(ボガ)を言つたのが惡いのだから、仕方がないとあきらめて、其の馬の皮でも剝いで皮だけでも賣つて酒コ飮むベアと思つて、其の馬の皮を剝いで持つて、翌日町へ行つた。その日は大雪降りで、オメトツテ(難澁して)やつと原中の一軒屋までたどり着いた。椽側《えんがは》に腰掛けて憩《やす》んで居ると、何だか家の中でヒソヒソ話の聲がきこえる。窃《そ》つと戶の隙穴から覗いて見ると、其の家の嬶《かかあ》が何所《どこ》か外(ヨソ)の男を引き入れて、今酒盛最中のところ、これは怪(ケ)しからぬと思つて居るところへ、表の方で嬶今歸つたぞと言ふ聲がした。すると爐傍《ひぼと》の嬶と男は大狼狽(アワテ)にアワテて、男をば戶棚の中の大葛籠(ツズラ[やぶちゃん注:ママ。])の中に入れて押匿《おしかく》し、御馳走の御膳は小座敷に匿し、蛸の脚をば箒掛《はうきが》けの釘などにかけたりして其の場をとりつくなつてから、漸《や》つと口を拭いて主人を出迎へた。主人はあゝ今日はとても寒かつた。よく火をこんなに燃して置いてくれたなと云ふと、お前が歸つて來る時分だと思つてと、嬶は眩《まぶ》しいやうな顏をして云つた。其所ヘ八十八が入つて行つて、私は旅人だが、とても雪降りに困つて步かれないから、一寸爐傍にあたらせてケ申せと云ふと、主人は心よく、さあさあ御遠慮なくずつと此方《こつち》へと云つてくれた。そして旅のお客樣は何商賣だと訊く。八十八は口から出任せに俺は八卦置《はつけお》き[やぶちゃん注:八卦見。易者。]だと言つた。そして甚だ無調法な話だが、どうにも旦那樣は明日と言はず今夜の中《うち》にも飛んでもない災難に出遭ふ相が顏に現はれて居る。もつとも藪から棒に斯《か》う言つても、旦那樣は眞實(ホントウ[やぶちゃん注:ママ。])にしなかべから、その前に俺はいろいろな八卦を置きますと言つて、背中から風呂敷包みを下《おろ》して、中から馬の皮を取出して、それをゴソゴソ揉(モ)んで嗅《か》いでみてから、それ宜(ヨ)うがんすかナ、此の家の奧座敷には御膳立《おぜんだて》がして酒肴《しゆかう》があるから行つて御覽じろと言つた。旦那はそんな事があるものかと思つたが、試みに行つて見ると、如何にも其の通り立派な膳立をして酒看がある。魂消(タマゲ)て八卦置殿なるほどありましたと言ふと、八十八は、それどころではない、臺所の箒掛けの釘には蛸の脚がかゝつて居りますぞと言ふ。行つて見ると矢張り其の通りである。そこで八十八はいよいよ勿體《もつたい》らしく馬の皮を揉んで嗅いでみて、今度こそは大變だよ旦那樣、其處の戶棚の中の葛籠(ツヅラ)の中を御覽じろ、其の中には今夜お前さんの生命《いのち》を取る化物《ばけもの》が入つて居るからと言つた。主人はすつかり靑くなつて、それは大變だ。八卦置殿、何とかして私の生命を助けてクナさいと泣きさうになつて言ふので、八十八は戶棚の下から葛籠を引きずり出して、これ化物(バケモノ)よく聽け、お前は何の怨みがあつて、此家の主人の生命を取らうとするのか、次第によつては、ケツチヤ(反對)にお手前の生命(イノチ)を貰う[やぶちゃん注:ママ。]からさう思へと言ふと、中の男は恐しさに葛籠がぐらぐらと搖(ユス)ぶれるほど顫《ふる》へてゐる。これ見たかこの通りだと言ふと、主人は金百兩出すから、どうか其の化物を何所かへ持つて行つて捨てゝクナさいと賴んだ。八十八はこれは仲々《なかなか》俺の手にも餘る代物《しろもの》である。とても百兩ごときでは引受けられないと言ふと、主人はそれではもう五十兩足すから、どうかこれを退治してクナさいと泣いた。ぢやア百五十兩に負けると云ふて、それだけの金を取り葛籠を背負つて出やうとすると、其の家の主人はお前樣の其の嗅ぎ皮《がは》という物を俺に賣つてはくれぬか、五十兩出すと言う。どうしてどうして之れは俺の職業(シヨウバイ)道具だ。五十兩ぐらゐにア賣られるものかと言ふと、それぢやアと言つて五十兩足した。そこで八十八はあんな瘦馬の皮を百兩に賣つ拂つて、さていよいよ葛籠を擔《かつ》いでその家を出た。

 八十八は間男《まをとこ》の入つた葛龍を擔いで、村端《むらはづ》れの大川の橋の上まで行つた。そして橋の上に其の葛籠をどツかと下《おろ》して、さあ化物觀念しろよ。今此の八卦置樣が愈々お前を退治するために、此の川の中に打《ぶ》ち込んで遣ツから、覺えて居るなら念佛の一つも唱へろと云ふと、中の男はすつかり弱つて、どうぞ八卦置殿お慈悲だ。生命ばかりは助けてクナされと泣き出した。八十八が只では許されぬと云ふと、そんだら百兩出すツからと云ふ。不足だと云ふと、それぢやもう五十兩足すツから、それで許してくれと泣く。そんなに泣かば可愛想だから百五十兩に負けて置く。たゞ此の後《あと》決してあんな惡心を持つな。人の生命などを取るべなどとは思ふな。又人の嬶などを取るな。いゝかと云ふと、決してそんな眞似は致しませんと云ふ。それではと葛籠の紐(ヒモ)を解いてやり、男から百五十兩の金を取つて、ほくほくもので八十八は家に歸つた。

 其の翌日八十八は隣家の長者どんへ行つて、旦那樣アまづ大(タイ)したこともあればあるもんだ。旦那樣に殺して貰つた家の瘦馬の皮を剝いで、昨日《きのふ》町さ持つて行くと、近いうちに戰爭(ユクサ)が始まると謂つて、陣太鼓を張るために馬の皮のひツぱく[やぶちゃん注:「逼迫」。]、あんな瘦馬の皮が一枚これ位に賣れましたと云つて、昨日取つて來た金をズラリと旦那の前に並べて見せた。すると根が餘り利巧でない長者どんはすつかり乘つて、それぢや俺も馬の皮を賣らうかなア。さうしなさい、さうしなさい。第一生きて居れば飼葉を食ふ、手入れをしなくてはなんねえ。それよりは皮にして高く賣つた方がよい。それぢや今殺すべえ。八十八お前も手傳つて殺せいと云ふことになり、下男や村の人達まで狩り集めて、四十八匹の立派な馬どもを片端から斧や棒で撲《う》ち殺してしまつた。やつぱり一番殺シ方の上手なのは八十八だつた。其の上に八十八におだてられて、馬一疋分の皮代を御大儀振舞(オタイギフルマ)いだと云つて、酒肴を買はせ村の人達を呼んで大酒盛《おほさかもり》をやらかした。

 それから多くの下男どもに、其の皮を背負はせて町へ持つて行つた。そして上町(カミチヤウ)から下町(シモチヤウ)まで、軍(イクサ)の陣太鼓を張る馬の皮、一枚三百兩に負けたツ、あゝ安い安いと振れ步かすと、あれあんな馬鹿者も世の中にはあるもんと見える。やつぱり氣が違つたこツだべと蔭口ばかりして、誰《たれ》一人見向く者もない。そこで長者どんもこれは隣家《となり》の八十八に一杯喰はされた。畜生覺悟しろと、眞赤になつて怒《おこ》つて歸つて、馬を殺した大斧《おほをの》を振り翳《かざ》して、八十八の家に大暴れにあばれ込んだ。

 それより前に八十八はたつた一人ある年取つたお母(フクロ)が、餘り物を食はせないで置いたので死んでしまつたが、葬式を出すには錢がかゝる。ハテどうすべえと思案して居るところへ、隣家の旦那がそんな風に、大斧を振り翳して暴れ込んで來たので、お母(フクロ)の死室《しにべや》へ飛び込んで隱れた。何所に入つて隱れたつて、今度ばかりは許さんない[やぶちゃん注:ママ。]と言つて、斧で其所《そこ》らを切り廻すと、八十八はお袋の屍體を戶口へ投げ出した。何しろ旦那は無我夢中になつて居るので、誰彼《だれかれ》の見境《みさかひ》もなく斬り立てると、誤つて婆々の屍體の腹を切り割つてしまつた。すると八十八はわツと大聲を立てて泣き出し、隣家の旦那にたつた一人しか無いお母(フクロ)を斬り殺されたとわめいた。さう云はれて、隣家の旦那も初めて氣がつき、これは大變なことをしたものだと目が覺めて、八十八これは惡い事をしてしまつた。許してくれと言ふと、八十八は許すべえと思つたつて如何(ドウ)すべえやうもない。たつた一人の母親を斧で腹ア斬り割られて、これこの通り押ツ死《ち》んでしまつた。明日にも御代官所へ屆けなくてはなるまいと云ふ。隣家の旦那はいよいよ靑くなつて、隣同志のよしみで、どうか内聞にしてくれ。其の代りに金を百兩出すと云ふ。否々《いやいや》百兩ばつちの金で一人の母親の生命は買はれない。そんだらもう百兩出す。いやとても聞かれぬ。そんだらもう百兩出すべえ。そんだら仕方がないから内聞にして遣ると言つて、えらく恩に着せて、旦那から三百兩の金を取つた。

 それから八十八は村の馬喰の所へ行つて年寄馬を一疋買つて來て、母親(オフクロ)の屍體を其の馬に乘せて、村人の誰《たれ》も知らぬことをいゝことにして、俺も母親を湯治《たうぢ》に連れて行くと言つて引いて出た。そして峠の下の茶屋まで行つて、其所の杭《くひ》に馬を繫いで置いて、その茶屋ヘ入つて行くと、所の遊び人《にん》どもが四五人連《づ》れで酒を飮んで居た。八十八が其の人達の前にあつた盃《さかづき》をいきなり取つて飮むと、其の人達は大變に怒つて、此奴《こいつ》は太い野郞だ。何所の馬の骨だ。其れ位《くらゐ》酒が飮みたけれやこれでも飮ましてやると言つて、爐《ゐろり》にあつた鐵瓶をとつて、八十八めがけて投げつけた。ところが八十八は逸早く身を變《か》はしたので、それが八十八には當らず、ブンと唸《うな》つて飛んで行つて、馬上の八十八の母親の屍《しかばね》に打《ぶ》ち當り、勢ひで屍が馬から眞倒《まつさか》さまに落ちた。そこで八十八は、あれアこの男に俺アお袋が殺された。人が湯治に連れて行くところだつたのに、こんなに殺されてしまつたと言つて、大きな聲で吠え立てた。男どもも始めて事の意外な事に魂消て、遂々《たうとう》金を五十兩ばかり强請(ユス)られてしまつた。八十八は殺された母親を湯治にでもあるまいからと言つて、家へ持つて還つて、裏の柿の木の下に埋めて置いた。其翌日又隣家の長者どんへ行つて、こちらの旦那樣に殺された家《うち》の母親を、昨日五十兩に賣つて來た、何でもこの頃人の肝《きも》で藥をこしらへるといつて、人肝買《ひときもが》ひが山の下の茶屋まで來て居つた。旦那樣どうでがんす、お宅の祖母樣(オバアサン)もあゝやつて役にも立たぬ者を養つて置くよりは、叩き殺して賣つた方が得でがすぞと云ふと、旦那もそれもさうだと言つて、祖母樣をば斧で叩き殺した。八十八に騙《だま》されて今では一疋の馬も無いものだから、八十八の所の馬を借りて、祖母樣の屍體をつけて山の下の茶屋まで行つた。そして訊いてみると、そんな物を買ふ人なんて來ないと言ふ。又一杯喰はされたかと、飛んでもなく腹を立てゝプリプリになつて家に還つた。長者の旦那は一度ならず二度も三度も、八十八に騙されて、馬を殺したり祖母樣を殺したりしたので、あんな畜生を生かして置いたら此後どんな目に遭はされるか分らない。これは今のうちに撲殺(ウチコロ)してしまつた方が世の中の爲だと思ひ、多くの下男を呼んで、八十八を捕へて大川の淵の底に沈めて來いと言ひつけた。多くの下男どもは八十八がまだ眼を覺まさない寢込みに押し寄せて、布團ぐるみに繩でぐるぐると引つカラがひて、ウンサ、ワンサと引擔《ひつか》いで川岸の土手を走《はしら》せて行つた。八十八は驚いて、お前達はこの俺をどうしやう[やぶちゃん注:ママ。]と言ふのだと訊くと、お前のやうな惡者を生かして置いては、今後どんなに此の村が迷惑するか分らぬから、それで俺(オラ)が旦那がお前を大川の淵に投げ込んで殺すのだと云つた。それを聽いて八十八は、なるほど俺も八十八樣だ。殺すと云ふなら男らしく殺されて遣るべえが、たゞお前達も知つて居る通り俺も此頃は有卦《うけ》に入《い》つて[やぶちゃん注:「稀なる幸運に恵まれて」といった謂いか。]、生(ナマ)千兩の金を貯めてある。俺が死んでしまつては其の金も無駄だ。これまでお前達とは朝晚顏を見合せて隨分世話にもなつたから、その禮代《れいがは》りにやるから分けるといゝやと言ふ。下男どもは八十八に惡錢のたんまりあることを知つて居るもんだから、互に顏を見合せて、それぢや其の金が何處に有れアと云ふと、あれあれ俺家(オラエ)の裏の柿の木の根元さ埋めて置いたから、誰《だれ》か行つて掘り起して見ろ、ここには俺の番人一人位殘して置けばいゝぢやないかと言ふ。すると皆は慾《よく》だから、何お前の番なんかしなくともさう繩《なは》カラがき[やぶちゃん注:布団蒸しの上から縄で雁字搦めになっていることの意であろう。]になつて居るから大丈夫逃げつこが無い。それぢや俺達はこれから引ツ返して柿の木の根元にある金を貰つて來るから、お前は默つて此所で待つて居れと言つて、八十八ばかりを土手の上に投げ出して置いてドヤドヤと後(アト)へ引ツ返して行つた。

 八十八が布團ぐるみの中で笑つて居ると、其所へ、牛方《うしかた》が牛に魚荷をズツパリ(多く)つけてやつて來た。よく見ると其の牛方はとても穢《きたな》い目腐《めぐさ》れであつた。これはよい者が來たと思つて、オツト目腐眼(マナコ)の御用心々々々と言つて居た。牛方は不思議に思つて側ヘ寄つて、お前は何の譯でそんな事をして居ると訊いた、八十八はよく聽いてクナされた。俺は餘り目腐れがゲエ(ひどく)で直らないから巫女《みこ》さ行つて訊くと、それは何の譯も無いもんだ、布團にくるまつてぐるぐる繩カラがきにして貰ひ、街道(ミチ)ばたで、目腐眼ア御用心々々々と言つて見ろ、忽ち治(ナヲ)ツからと敎はつて、斯うして居るが、ありがたいことにはこれこの通りすつかり直つた。お前樣も見れば目が惡いやうだが、一つやつて見てございと言ふと、其の牛方は自分のつらいのに騙されて、ケナリく(羨ましく)なり、それでア俺も少々其の布團を借りて縛られてみべえかなア、お前樣はそんなに快くなつたから出てもよかんベアと言つて、縛つた繩を解いて、八十八を出し自分が身代りに布團に卷(マ)くたまつてぐるぐるカラげにして貰ひながら、そこでアこの牛の魚荷を町さ屆けてクナえ、御禮は後ですツからと言ふ。八十八は何御禮にア及ばないよ爺樣、どうせ俺はこれから町さ歸るんだからと言つて、牛を曳いて笑つて其所を立ち去つた。

 一方下男どもは走《は》せて行つて、八十八の家の裏の柿の木の根元を掘つて見ると、何の金どころか婆々の腐つたのが出て來た。皆が呆れて、それから火のやうになつてゴセ[やぶちゃん注:「ゴセ(後世)」或いは「ゴセンゾサマ(御先祖様)」で、御遺体のことか。]を燒いて、少しも速く八十八の野郞を殺さねばなんねえべ。俺が馬鹿旦那ア騙してまだ不足で俺等まで騙しやがつたと言つて、どんどん先刻《さつき》の土手に駈け戾つて來た。すると布團つゝみの中から、目腐眼《めぐされまなこ》の御用心々々々と叫んで居るので、この野郞がそんな寢云いつて[やぶちゃん注:ママ。「ちくま文庫」版では『寝言』(ねごと)『いって』とある。「言」の脱字か。]ゴマカスベえと思つてか、態《ざま》ア見ろと言つて、爺樣を淵の底に投げ込んで殺してしまつた。

 男どもは旦那樣の所へ還つて。八十八の野郞を今度こそたしかに淵さ打《ぶ》ツ込んで來た。なんぼ八十八でも今頃は立派に往生したべえと語つて居るところへ、八十八は外から牛に魚荷をつけて引ツ張つて來た。いや皆さん先刻はありがたう。御影であれから淵の底ヘ行くと、とても立派な御館があつて、其所に綺麗な女が居て、八十八さんお前さんはよく此所に來てくれたと言つて、こんな牛だの魚だの貰つて來た。もう少し居て今夜は泊つて行けツて責められたけれども、何しろ早く歸つて旦那樣さ申譯《まをしわけ》すべえと思つて、これだけしか貰つて來なかつた、もつと居ればどんないゝ寶物が貰えた[やぶちゃん注:ママ。]かも知れないから、これからまた行つて來るべえと思つてゐる。まづまづこれは旦那樣さのお土產だと言つて、牛(ウシ)の魚荷を皆玄關に下ろして積んだ。すると旦那樣は不思議に思つて、俺も淵の底へ行つて、その美しい女から、色々な寶物を貰つて來ツかなと言つて、八十八に其所さ行くには如何《どう》すればよかつケなどと訊いた。すると八十八は、なあに雜作《ざうさ》は無いです、この俺でせい[やぶちゃん注:「さへ」の意の方言であろう。]此れ程の物貰つて來たんだもの、旦那樣などア行つたらそれこそ大變だべえとおだて、旦那樣は又すつかりその口車に乘つて、八十八に連れられて前の淵の所へ行つた。そして八十八に淵の中さ突き落して貰つた。八十八は、ささあ旦那樣ア寶物をウント貰つて來てございと言つて其所を去つた。

 その八十八は隣家《となり》の長者どんの家へ行つて、嬶樣シ嬶樣シ、旦那樣は龍宮さ行つて二度と家サば還らないから、俺の家《うち》も女房も八十八サくれると言ひました。ほだから俺と夫婦になつてございと言つて嬶樣と夫婦になつて長者になつた。

  (この話とほぼ同筋の話が、田中喜多美氏の話にも
  あつたが、主人公は噓五郞と云ふとなつてゐた。ま
  た隣家《となり》の長者は高野樣と云ふことになり、
  紫波《しは》郡昔話の阿野樣(一一四)と内容がよ
  り多く同じい點があつた。同じ話が紫波と岩手に分
  れてこのやうに變化して話されたものらしく思ふ。)

[やぶちゃん注:ピカレスク物であるが、死ぬものが多過ぎ、八十八がそれに一抹の憐憫も持ったようには感じられず、寧ろ、屍(しかばね)を踏み台にして悠々と長者となる展開は、かなり後味が悪く、個人的には好きになれない。

「紫波郡昔話の阿野樣(一一四)」佐佐木喜善の本書より五年前の著「紫波郡昔話」(大正一五(一九二六)年郷土研究社刊)のそれだが、国立国会図書館デジタルコレクションで見ると、ここで、標題は『(一一四) 河野樣』となっている。この「阿野」は誤字か誤植であろう。なお、紫波郡は現代仮名遣では「しわぐん」で旧郡域は当該ウィキを見られたい。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 鹿杖に就て

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。今回は、ここ

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、「選集」では標題次行の丸括弧附記(そちらではずっと下方)の右手に『柳田國男「鉢叩きとその杖」参照』と添えてある。これは、同誌前号に柳田が発表したその論考に対する、南方熊楠の見解の主張である。この柳田の論考は、幸いにして、「ちくま文庫」版全集に載り、正字正仮名版も国立国会図書館デジタルコレクションで視認出来ることから、昨日、急遽、先行して当該論考「柳田國男 鉢叩きと其杖」を電子注をしておいた。まずは、そちらから見られたい。但し、かなり旧被差別民への配慮のない言及があり、問題の箇所もあるので、心して読まれたい。

 なお、標題の「鹿杖」は「かせづゑ」と読み、突く方の先が二股になった杖、また、上端をT字形にした杖で、「 撞木杖(しゅもくづえ)」を、また、僧侶などが持つ、頭部に鹿の角を附けた杖を言う。]

 

     鹿 杖 に 就 て (大正三年十月『鄕土硏究』第二卷第八號)

         (『鄕土硏究』第二卷第七號四〇三頁以下)

 「嬉遊笑覽」卷二中に、『「和名抄」に『唐韻云𣈡橫首杖也(漢語抄云𣈡加世都惠一云鹿杖)」』。斯かれば、今、俗、「撞木杖(しゆもくづゑ)」と云物也』。

[やぶちゃん注:『「嬉遊笑覽」卷二中』国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。私は岩波文庫版で所持するが、巻二の「器用」パートの「杖」にあり、国立国会図書館デジタルコレクションの成光館出版部昭和七(一九三二)年刊の同書の上巻(正字)(熊楠の所持しているものは恐らくこちらが、その親本)の左ページ後ろから五行目からに出る。但し、ここは、引用が入れ子構造で、甚だ読み難いから、ここは特別に、以下に分離して訓読して示す。

   *

『唐韻云𣈡橫首杖也(漢語抄云𣈡加世都惠一云鹿杖)」』

〔「唐韻」に云はく、『「𣈡」は橫首杖(よこくびづゑ)なり。』と。〕

[やぶちゃん注:以下、源順による割注。]

〔(「漢語抄」に云はく、『「𣈡」は「加世都惠(かせづゑ)」、一(いつ)に云はく、「鹿杖(かせづゑ)」と。』と。〕。

   *

なお、この「𣈡」の現行の音は「テイ」或いは「ダイ」だが、「倭名類聚抄(鈔)」の国立国会図書館デジタルコレクションの版本の当該部を見ると、南方も柳田も省略してしまった割注の最初の反切指示部分に『他禮反』とあることから、この場合は「タイ」と音を示していることになる。因みに、「𣈡」は古くから「歩行する際の補助杖」を指す語である。]

 熊楠按ずるに、「大和本草」にシユモクザメを『カセブカ』と記し、「形、經(たていと)・緯(よこいと)を卷く所の『カセ』と云《いふ》器《き》に似たり。」とある。

[やぶちゃん注:「大和本草」の記載は二箇所あり、私のブログの電子化注では、まず、「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」に、『○カセブカ其首橫ニヒロシ甚大ナルアリ』と出、また、「大和本草諸品圖下 鮪(シビ)・江豚(イルカ)・スヂガレイ・カセブカ (マグロ類・イルカ類・セトウシノシタ・シュモクザメ)」にバッチリ絵入りで、キャプションに『カセブカ』として、『其ノ橫ハ縱(タテ)ニ比スレハ少シ短シ橫ノ兩端ニ目アリ』。『是フカノ類』『味亦同』『形狀甚異ナリ』『其形狀婦女ノ布ノ經緯ヲ卷トコロノカセト云器ニ似タリ』と出ている。「カセブカ」はメジロザメ目シュモクザメ科シュモクザメ属 Sphyrna の別名で、本邦産種は(シュモクザメという標準和名種は存在しない)、

シロシュモクザメ Sphyrna zygaena

ヒラシュモクザメ Sphyrna mokarran

アカシュモクザメ Sphyrna lewini

の三種である。因みに、「かせぶか」の漢字表記は「挊鱶」で、「桛(かせ)」とは、紡(つむ)いだ糸を巻き取るH型やX型の器具で、頭部の形状をそれに見立てたもので、以上のキャプションが言っているのも、そのことである。]

 「本草啓蒙」には『撞木の如くカセヅエの頭に似たり』と見ゆ。紀州にて、「かせ糸」・「かせ繰《く》り」・「かせ屋」など云ふたのは、件《くだん》の糸を卷く器に基ける名か。

[やぶちゃん注:「本草啓蒙」では、巻是四十]の「鱗之四」の「鮫魚」(サメ類)の項に出る。国立国会図書館デジタルコレクションの文化二(一八〇五)年跋の版本の当該部を視認して電子化する。【 】は二行割注。

   *

帽鯊【閩書】一名雙髻鯊 雙髻紅【共同上】 了[やぶちゃん注:底本では同字の異体字のこれ(「グリフウィキ」)だが、表示出来ないので、正字で出した。]髻鯊【寧波府志】バカセブカ【大和本草】一名シユモクザメ シユモクブカ 子[やぶちゃん注:「ネ」。]ンブツブカ【肥前】〉ハラヒザメ【大坂】 カイメウ【豐前】 ソノ首横ニ廣ク兩端ニ眼アリテ撞木(シユモク)ノ形ノ如ク、横首杖(カセヅエ[やぶちゃん注:三字へのルビ。])ノ頭ニ似タリ大和本草ニ形經緯ヲ卷トコロノカセト云器ニ似リト云フ

   *

とある。]

 「笑覽」に又「鹿杖に誠の鹿角を杖の頭に附けたる者、古畫に見ゆるは、空也の徒なるべし。」と言ひて、別に言《いは》く、『「平家物語」に、老僧かせ杖の二叉(ふたまた)なるにすがつて、と有るなど、古畫にて見れば、二股の方《かた》を地に突きたり。橫首(わうしゆ)と云《いふ》には背《そむ》けるにや。』と。

[やぶちゃん注:前掲当該部を参照(左ページ後ろから四行目から)。]

 因《よつ》て考ふるに、支那の仙人の侍童などが、頭の歪んだ杖に主公の瓢簞や經卷を掛けて步く圖で見る如く、橦木形なり鹿角頭(しかづのかしら)なり、上端に物を懸けて運び得る杖を、すべて、「かせ杖」と呼んだのだらう。姚秦《たうしん》[やぶちゃん注:中国の五胡十六国時代に羌族の族長姚萇によって建てられた後秦(三八四年~四一七年)の別称。]の頃、譯されたらしい「毘尼母論《びにもろん》」卷四に、佛制、不ㇾ聽捉ㇾ杖人說法、杖頭若鐵若鹿角、皆應ㇾ著也、何以故、恐杖盡故。〔佛の制(おきて)に、杖を捉(とら)ふる人の、爲(ため)に說法するを、聽(ゆる)さず。杖の頭(かしら)には、若(も)しくは鐵、若しくは鹿の角を、皆、著(つ)くべし。何を以つての故に。杖の盡(つ)くるを恐るるが故なり。〕されば、佛の本規には、說法師の持つ杖は、磨耗(すりへ)らぬ爲に、鐵や鹿角を頭に附ける事としたのだ。

[やぶちゃん注:「毘尼母論」は「毘尼母經」と同じであろうと思い、「維基文庫」で当該の巻五の電子化中に、同じ文脈が出るので、それで校合した。熊楠の引用は誤りがあり、意味が通ぜず、おかしいので、本文及び返り点も私が半可通乍ら、推定で補填した。御叱正を俟つ。]

 鹿は、佛、出世前から、梵敎に緣厚く、「毘奈耶雜事」二八、「大藥」の傳に、婆羅門、鹿皮《しかかは》を著る。「毘奈耶破僧事」九に、摩納婆《マーナヴァカ》、鹿皮に臥す。北凉譯「菩薩投身餓虎起塔經」に、於ㇾ是栴檀摩太子、披鹿皮衣住山中、從ㇾ師學ㇾ道〔是(ここ)に於いて栴檀摩提太子《せんだんまだいたいし》は、鹿皮の衣を被(き)、山中に留(とど)まり住みて、師に從ひて道を學ぶ。〕など、例が多い。惟《おも》ふに此樣《かやう》な事どもが内典に多くあるを幸ひと、阿彌陀聖や空也の徒が、殺生を事とする下等民に敎《をしへ》を宣《のぶ》る爲、鹿角杖や鹿皮を用ひ、後には平定盛に殺された鹿皮を裘《かはごろも》とし、鹿角を杖としたまふ、などの傳說を作出《つくりだ》したんだろ。

[やぶちゃん注:『北凉譯「菩薩投身餓虎起塔經」』は「大蔵経データベース」では見当たらなかったので、そこにあった同経の法盛訳の「佛說菩薩投身飴餓虎起塔因緣經」にほぼ同文の文句があったので参看した。]

 但し、定盛が鹿を殺して悔いた餘り、入道したちう譚も、其前に、類話なきに非ず。梁の慧皎の「高僧傳」十二に、釋法宗は、臨海の人、少《わかき》にして、遊獵を好む。嘗て剡ん《えん》に於いて孕鹿《はらみじか》を射て、墮胎せしむ。母鹿(はゝしか)、箭(や)を銜《ふく》み、猶、地に就いて子を舐(ねぶ)る。宗、乃《すなは》ち、悔悟し、貪生愛子〔生(しやう)を貪りて、子を愛す〕は、是れ、有識《うしき》の同じくする所たるを知つて出家す、とある。〔(增)(大正十五年九月記) 江西省九江府の靖居山は、昔し、姓、傅《ふ》なる者、こゝで、鹿を射しに、墮胎して死す。其人。遂に、弓矢を折り、修道せり。因て名づく(「大淸一統志」一九四)。)

追 記 (大正六年一月『鄕土硏究』第四卷第十號)芳賀博士の「攷證今昔物語集」卷十九に、藤原保昌、每度、鹿を狩る。其郞黨、最も鹿射る技に長ぜる者の夢に、亡き母、現《あらは》れ、「我《われ》、惡業の故に鹿と成れり。明日の狩に、大《おほい》なる女鹿《めじか》に逢はば、汝の母と知つて、射ること、勿れ。」と言うた。寤《めざ》めて後、此事、氣にかかり、「明日は不參。」と申し込むと、保昌、大いに怒り、「汝、參らずば、首を刎ねる。」と叱られ、詮方無く、狩に出で、大きな女鹿に逢ふと、忽ち、夢の告げを忘れて、之を射る。鹿、射られて、見返つた貌《かほ》を見ると、我母の通りで、「痛や。」と言つた。忽ち、夢のことを憶ひ出し、其場で、髮、切つて、法師と成り、山寺に入つて、貴《たふと》き聖人と成つたと云ふ話が有つて、類話として、支那の惠原《けいげん》云々、少以弓弩爲ㇾ業、至武陵山、射一孕鹿、將ㇾ死能言曰、吾先身只殺ㇾ汝、汝今遂併殺害我母子、既是緣對、應爲ㇾ汝死、復向言曰、吾尋當成佛也、汝可ㇾ行ㇾ善、生生代代勿復結ㇾ冤、惠原卽悟前緣、遂落髮於鹿死之處、而置迦藍、名耆闍窟山寺。〔少(わか)くして、弓弩を以つて業(なりはひ)と爲す。武陵山に至りて、一(いつ)の孕み鹿を射る。將に死なむとするに、言(げん)を能くして曰はく、「吾、先身(せんしん)は、只、汝を殺せるのみ。汝、今、遂に、併(あは)せ殺して、我が母と子を、害す。既にして是れ、緣(えん)の對(つい)なれば、應(まさ)に汝の爲めに死すべし。」と。復(ま)た、向かひて言ひて曰はく、「吾れ、尋(つ)いで、當(まさ)に成佛せんとす。汝、善を行なふべし。生生代代(せいせいだいだい)、復た、寃(うらみ)を結ぶこと勿れ。」と。惠原、卽ち、前緣を悟り、遂に落髮し、鹿の死せる處に、伽藍を置き、「耆闍窟山寺(きじやくつさんじ)」と名づく。〕と、「朗州圖經」に見えたる由、「太平廣記」卷百一から引いて載せて居る。保昌は、空也よりは後の人だが、この「今昔物語集」の話は、或は、定盛が空也に敎化《きやうげ》せられたと云ふ譚よりも前に生じたものかも知れぬ。

[やぶちゃん注:『「攷證今昔物語集」卷十九に、藤原保昌、每度、鹿を狩る。其郞黨、……』これは「今昔物語集」巻第十九の「丹後守(たんごのかみ)保昌(やすまさの)朝臣(あそん)郞等(らうどう)、母の、鹿と成りたるを射て、出家せる語(こと)第七(しち)」(丹後守保昌朝臣郞等射母成鹿出家語第七)で、熊楠の言う、その原本当該部は「攷證今昔物語集  中」芳賀矢一編に成る大正三(一九一四)念富山房刊のここだが、非常に読み難い。新字であるが、「やたがらすナビ」のこちらで、まさに本書を訓読した電子化したものがあるので、そちらを参照されつつ、比較されたい。

『「太平廣記」卷百一』の「朗州圖經」の引用は「中國哲學書電子化計劃」の電子化されたものと校合し、本文の一部を訂し、返り点も不全箇所があったので、手を加えた。

「保昌は、空也よりは後の人」藤原保昌(天徳二(九五八)年~長元九(一〇三六)年)は「道長四天王」と称され、道長の薦めもあり、和泉式部と結婚していることで知られる。空也上人は延喜三(九〇三)年生まれで、天禄三(九七二)年に没している。「後の人」とは言うものの、保昌数え十五の時に空也は亡くなっている。]

2023/04/13

柳田國男 鉢叩きと其杖

 

[やぶちゃん注:本篇は以下に示す底本の「内容細目」によれば、大正三(一九一四)年九月発行の『鄕土硏究』初出の論考である。連載論考の一つ(そのため、文中で既に掲載した記事や、これからの内容を予告したりするので注意が必要。それは、原則、一々注記しない。悪しからず)で、後の著作集では「毛坊主考」の一篇として収録されている。これは、現在進行中の「續南方隨筆」の「鹿杖に就て」に必要となったため、急遽、電子化することとした。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「定本柳田国男集」第九巻(一九六二年筑摩書房刊)を視認した(ここから)。但し、加工データとして、所持する「ちくま文庫」版全集の第十一巻の「毛坊主考」に収録されたものを使用した。

 底本ではルビが少ないが、躓き易いもの、或いは、難読と思われる箇所には推定で《 》によって歴史的仮名遣で読みを添えた。一部は「ちくま文庫」版を参考にした。冒頭で述べた理由での電子化であるので、注は必要最小限度に留めた。また、一段落がだらだらと長いので、文中にも注を挟んだ。

 また、本篇は旧時代(実際には、近代にも残り、今も隠然としてある)の差別民への柳田國男自身の差別意識(注で明確に示した)や、現在は使われていない差別用語や古い情報が多量に出現する。その辺りは心して批判的に読まれたい。それに関わって、一部の地名の現在位置は敢えて注しなかった箇所があることをお断りしておく。

 

       鉢 叩 き と 其 杖

 

 關東の鉦打に對立して京以西の國々には鉢叩と云ふ部落がある。二者は單に名稱が似通うて居るのみでなく、其成立と生活狀態とに於て亦著しい類似を示し、元は一つの日知《ひじり》階級が右にも往けば左にも分れたのでは無いかと想像せしむる理由がある。ゆえに此次はその鉢叩を細敍するのが順序である。さて鉢叩と云ふ名稱は、鉦打《かねたたき》が鉦を打つから其名を得たのと同じく、鉢を叩いたが故に鉢叩だと云ふのが普通の說ではあるが、少なくも中古以來の鉢叩の叩くものは、鉢では無くて瓢《ひさご》であつた。從つて其ハチと云ふ語が不明になる爲に、色々珍しい傳說も現はれた。之に就いての意見は追つて述べて見ようと思ふ。第二の肝要なる點は、鉦打は時宗遊行上人の門徒であるに對して、鉢叩は今日までも引續いて空也上人の流れを汲む天台宗の一派であつたことである。鉦と瓢と二種の樂器の差別も、或は二派の念佛式の相異に基づくもので無いかと思ふが、それは自分のいまだ詳かにせざる所である。空也派では每年十一月十三日を以て祖師の忌日とし、其日より四十八日間卽ち除夜の晚まで、その派に屬する例の道心者が、瓢簞を叩き髙聲に念佛して每夜洛中洛外を隈なく𢌞る。之を鉢叩と稱し俳諧の冬季の一名物であつたから、京都の人で無くともよく知つて居る。但しそれが大槻如電翁などのやうな素人の思附《おもひつき》では無かつたことを、此《これ》から述べんとするのである。

[やぶちゃん注:「大槻如電(じょでん/にょでん 弘化二(一八四五)年~昭和六(一九三一)年)は学者・著述家。本名は清修(せいしゅう)。如電は号。仙台藩士大槻磐溪の長男で、弟は、かの辞書として知られる「言海」の著者大槻文彦である。彼の研究対象は歴史・地理・音楽・服飾等、非常に多岐に亙っている。詳しくは、当該ウィキを見られたい。柳田が「思附」きと批判する原拠は不明。]

 京の鉢叩の居住地は四條坊門油小路(下京區龜屋町)の極樂院光勝寺、一名を空也堂と云ふ寺の地内であつた。其寺の住僧は十八家の鉢叩の一﨟(いちあい)卽ち最年長者であつて、此人のみは頭に毛が無く法衣《はふえ》を着た眞《まこと》の和尙で、代々法名の一字に空の字を用ゐて居た。其他の鉢叩は悉く有髮妻帶《うはつさいたい》で法衣の上ばかりと見ゆるようなものを着て居たが、それも元祿以後のことであつて、昔は皆鷹羽の紋を附けた素袍《すあを》の上ばかりを着ており、常は茶筅《ちやせん》を賣つて生計を立てゝ居たと云ふ(祠曹雜識十五、閑田耕筆二、佛敎辭典)。此徒自ら稱する所に依れば、彼等が祖先は平定盛《たひらのさだもり》と云ふ者であつた。獵をもつて常の業とし後世《ごぜ》の念もなかつたのを、空也の敎化《きやうげ》に由つて發心入道し、法名を眞盛《しんせい》と呼び私宅を捨入《しやにふ》して此寺を建てたとある。此緣起はどうも單純な作言《つくりごと》で無いやうだから些しく之を分析して見たい。先づ第一に寺の開基を獵人《かりうど》の歸依とすることは非常に多くある型である(鄕土硏究二卷一九頁參照)。此が京都の眞中である故にちと珍しく聞えるが、山々の伽藍の地は多くは以前の地主から其地を乞はねばならぬので、髙僧傳道の事績は必ず山人と交涉があつた。つまり髙野山の丹生明神(にふみやうじん)、三井寺の新羅明神(しんらみやうじん)乃至は羽前《うぜん》山寺《やまでら》の磐司(ばんじ)磐三郞(ばんざぶらう)などの話を世話に碎いた一條の物語である。第二には定盛が鹿を射て發心したと云ふこと、是は後に說かうとする鹿裏(かはごろも)鹿杖(かせづゑ)の由來を說明せんとするものらしい。第三には平定盛と云ふ名である。是は諸國の空也派の口碑に天慶の亂のこと及び將門の遺族とか亡靈とかの話を折々伴つて居るのを考へると、定の字は違うが最初は平貞盛を意味して居たらしい。空也の傳記に比べて年代は合ふ。唯《ただ》何分にも平家の總領が鹿を獵して生活する野人であつてはをかしいから(さう言へば獵人が京都の中央に住んだのもをかしいが)、誰かそつと別人にして置いたのであらう。法名を眞盛と云つたなどが殊にその想像を强くする。而して[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版では以下総て「しかうして」と読んでいるが、私はこの読みが甚だ嫌いで、「しかして」と読むのを常としている。従って振らずにおく。]何の爲に貞盛を引合《ひきあひ》に出したかと言へば、前にもちょつと申したごとく(鄕土硏究二卷二二六頁)、戰亂の後に於て御靈《ごりやう》の憤怨《ふんゑん》を慰めねばならぬ必要を最も多く感じた人は、征討軍の中でも將門の當《たう》の敵たる貞盛であるべく、空也の念佛は又苑目的を達するに最有效の方法であつたから、緣起としてこの二つを結合させたので、決して空想の小說では無いのである。

[やぶちゃん注:「平貞盛」天慶二(九三九)年に発生した「新皇将門の乱」を母方の叔父藤原秀郷とともに平定(翌年)した人物。]

 鉢叩は勿論京都以外の地方にも住んで居た。今其二三の例を言へば、近江栗太《くりもと》郡下田上《しもたなかみ》村大字黑津《くろづ》[やぶちゃん注:現在の滋賀県大津市黒津(グーグル・マップ・データ)。以下、無指示は同じ。]にはナツハイ堂の址と云ふ處があつた。空也の流れを汲む鉢叩と云ふ者、每年七月此處に來て瓢を叩き鉦を鳴《なら》して踊念佛をしたと傳ふ。件《くだん》の鉢叩の子孫は享保年間までは相續して居つたが、後は只此堂の跡と云ふ地に石佛二體があるのみ云々(栗太誌十九)。ナツハイ堂は夏祓堂(なつはらひだう)であらうとのことである。同國東淺井《あざゐ》郡小谷《おたに》村大字別所[やぶちゃん注:現在の滋賀県長浜市湖北町(こほくちょう)別所附近。]の枝《ゑだ》鄕大洞《おほほら》と云ふ地には、ずつと後年まで鉢叩と云ふ者が村の南方に離れて住んで居た。空也上人の流れを汲む者だと云ふ(淡海木間攫《あふみこまざらへ》十)。世俗に所謂唱門師《しよもじ》と云ふは此かとの說がある。筑後三瀦(みつま)郡江上村大字江上[やぶちゃん注:現在の福岡県久留米市城島町(じょうじままち)江上(えがみ)附近。]には、少なくも二百年前迄、歌舞妓傀儡《くぐつ》及び踊念佛を業とし俗に鉢叩と呼ばるゝ者が十戶ばかり住んで居た。嘉祝弔祭の家に行き、吉事には舞童俳優を專らとし人をして頤(おとがひ)を解《と》かしめ、凶事には念佛褊綴(へんてつ)[やぶちゃん注:「褊裰」とも書く。法衣の一種。ともに僧服である偏衫(へんさん)と直綴(じきとつ)とを折衷して、十徳のように製した衣。主に空也宗の鉢叩の法衣であったが、江戸時代には羽織として医師や俗人の剃髪者などが着用した。「へんてつ」とも読むが、慣用読み。グーグル画像検索「褊綴」をリンクさせておく。]を專らとして人をして感を起さしむ、其體《てい》凡俗にして或時は衣冠(!)を帶して鄕士に形容し、或時は編綴を着け僧侶に準擬《じゆんぎ》す。故に其居處を名づけて寺家《じけ》と謂ひ、世俗呼びて鉢叩又は念佛坊と謂ふ。其先を問へば傳へ云ふ空也上人の流れを汲む者と云々とある(筑後地鑑《ちくごちかがみ》上)。鉢叩が所謂河原者《かはらもの》と似たやうな業體をするのは妙であるが外にも例がある。つまり念佛を賴む人が少なくなり茶筅の需要も多くない結果の據無《よんどころな》しであらう。筑前では今の糸島《いとしま》郡前原(まへばる)町大字泊[やぶちゃん注:現在の福岡県糸島市泊(とまり)。]の大日堂[やぶちゃん注:同地区には現存しない模様だが、近くの南東のこちらに、三つの「大日堂」を確認出来る。また、サイト「お寺めぐりの友」のこちらに、泊のここにある曹洞宗の歓喜山桂木寺(けいぼくじ)について、『本堂に向かって右手奥に大日堂がある。 安置されている大日如来は』、『元は大祖山大日寺の本尊』であって、『大日寺は同じ泊村にあったが』、『明治・大正期も近隣住民不在の為、大正』一三(一九二四)年九『月にここに移された』とあって、さらに、「糸島郡誌」に『よれば、大日寺は元は』糸島市志摩芥屋(しまけや)『の大祖神社』(たいそじんじゃ:ここ)『の神宮寺であったようである』が、『建治年中』(一二七五年~一二七七年)に『大日寺は』この『泊村に移された』とする(大日如来の写真有り)。さらに驚くべきことに『桂木寺の門前の道を東に』二百メートル『程進むと、民家風の建物の扉に「高野山真言宗 太祖山大日寺」と表記された看板が掲げられている。ここが、芥屋から移転してきた大日寺の跡と思われる』とあった。調べてみてよかった(但し、この辺りだが、ストリートビューで見る限り、現在は民家自体が見当たらない)。]の傍に又數十人の鉢叩が住んで居た。此大日堂は以前の大祖山大日寺の址で、天慶四年[やぶちゃん注:九四一年。]空也上人の創立する所と稱し、本尊は志摩(しま)郡[やぶちゃん注:筑前国(福岡県)のそれ。旧郡域は当該ウィキを参照されたい。]五佛の一つで名譽の大日である。大日堂の境内に住むからか鉢叩のことをも後には人が大日と呼んだ。最初は專ら九品《くほん》の念佛を修じたのであつたが、次第に歌舞を業として四方に遊行し、淫靡の音樂をもつて俗を悅ばしめて口を糊《のり》すやうになつた。又傀儡の舞をなさしむとあるのは人形を使つたことであらう。霜月十三日をもつて空也の祭を營んだと云ふ(太宰管内志引、貝原翁[やぶちゃん注:貝原益軒。]說)。筑前の中には博多聖福寺の附近に住する寺中《じちゆう》と云ふ部落[やぶちゃん注:ママ。「博多聖福寺の附近」、「寺中と云ふ部落に住する」ではないか。現在の福岡市博多区御供所町(ごくしょまち)のこの臨済宗聖福寺附近。同寺自体は建久六(一一九五)年に本邦の臨済宗の開祖栄西が宋より帰国後に建立したもの。]、蘆屋植木[やぶちゃん注:「蘆屋」は遠賀郡芦屋町(あしやまち)、「植木」は旧鞍手(くらて)郡植木、現在の直方(のおがた)市植木。この二地区は江戸時代から芝居が盛んに上演されたことが知られている。則ち、以上の集落は一種の役者村を形成していたのである。]の念佛と名づくる人民など皆此類であつたと云ふ。蘆屋念佛が空也の徒であつたか否かはまだ知らぬが、此《これ》も亦昔は九品念佛を專らとした者が、後には歌舞の藝を諸國に鬻(ひさ)ぎて妻子を養ふやうになつたのである。而して芦屋に於てもやはり寺中町などゝ、此徒を呼んだと云ふのを考へると(太宰管内志)、博多の寺中及び筑後江上の寺家などゝ共に、何れも大寺の庇護の下に生息して居たこと恰《あたか》も東國に於て院内(ゐんない)と稱する一種の陰陽師《おんみゃうじ》が常に寺の世話を受けて終《つひ》に院内と云ふ名稱を得たのと同じでは無かつたかと思ふ。[やぶちゃん注:「院内」東日本に於いて民間陰陽師の村を称した。前の役者(彼らは「河原乞食」の蔑称でも呼ばれた)たちの多く住んだ村と同じく、しばしば非差別民とされていたことは注意しておくことが必要である。柳田は記載に際して、そうした注意を全くと言っていいほど払っていない。戦中以前の本邦の官学系民俗学者にありがちな痛い汚点と言える。というか、柳田國男は、実は、江戸以前の賤民を別な民族と考えていた確信犯の差別主義者だったのである。サイト「本の話」の角岡伸彦氏の「ケッタイな問題と私」(角岡伸彦著「はじめての部落問題」のレビュー記事)に、『柳田国男は「恐クハ牧畜ヲ常習トセル別ノ民族ナルベシ」と論じ』たとある。また、以下、すぐ後に名が出る竹葉寅一郎は慈善活動家で部落解放運動に寄与あった人物であるが、その彼が、『「えたの女が生殖器の構造異なれり」と身体構造の違いを指摘した』とある。

 又ハチと呼ぶ部落がある。事によると右の鉢叩と同類であるかも知れぬ。ハチの分布に就いては自分は殊に詳しく無いが、紀州熊野でハチ又はハチソボと云ふ階級はシクの下エタの上に置かれて居て其婦人は或は口寄巫《くちよせみこ》を業としている(鄕土硏究一卷二五三頁)。伊賀では鹽房(をんばう)(隱坊)[やぶちゃん注:古く、火葬や墓所の番人を業とした人。江戸時代、賤民の取り扱いをされ、差別された。原義は、本来、寺の下級僧が行っていたことから「御坊」であったものが卑称として転じたものと考えられる。]のことをハチと云ひ土師(はじ)と書いたものもあつた(賤者考《せんじやかう》[やぶちゃん注:紀州徳川家に仕えた国学者本居内遠(もとおりうちとお)の制度考証書。弘化四(一八四七)年成立。江戸時代に置ける被差別身分の由来を凡そ五十二項目に亙って考証したもの。その起源を古代の律令制に求める一方、同時代の被差別民の区分を細かく記し、特に芸能民の資料が詳しい。但し、その歴史的起源については誤りが多く、古代を是とする国学思想の偏見から、結局のところ、差別する立場を取っているのが惜しまれる(平凡社「世界大百科事典」に拠った)]。穢多《ゑた》ではあるが昔は僧形であつたと云ふ(竹葉寅一郞氏報告)。この點はまだ些しく疑はしい。文化四年[やぶちゃん注:一八〇七年。]松平大隅守家來より寺社奉行へ出したる書上によれば、其領分丹後國にも鉢と稱する者が居た。竹細工をもつて渡世とし、村竝《むらならび》には住居すれども家居を混雜せず、百姓町人と緣組はせざれども穢多非人の類には非ずとある(祠曹雜識《しさうざつしき》四十)。この竹細工云々の記事から考へるとハチはどうやらハチヤ又はチヤセンと稱する部落と同じ者らしい。鉢屋ならば山陰の諸國に澤山居た。前に引用した賤者考の中にも、「出雲にては番太《ばんた》をハチヤと謂ふよし、彼國より留學に來れる者言へり」とある。伯耆志を見ると村々の雜戶《ざつこ》に鉢屋甚だ多く、屠兒《とじ》[やぶちゃん注:中・近世、家畜などの獣類を屠殺することを業とした人を指す卑称。]とは別にして揭げてある。米子《よなご》に久しく居られた沼田賴輔[やぶちゃん注:「よりすけ/らいすけ」。紋章学者・歴史学者。神奈川生まれ。]氏は、伯州のハチヤは關東の番太に似た者で穢多ではないと言はれたが、勿論番太專業では此だけの人口は食へぬから他の職も色々あつたらう。因幡岩美郡中ノ鄕村の鉢屋などは石切細工が生業であつた(因幡民談三。三浦周行《ひろゆき》[やぶちゃん注:歴史学者。]氏は出雲の人であるが、その鄕里のハツチヤに就いて斯う言はれた。彼等は箕を直し茶筅を作り又石を切る。古くより土着して居るので金持も多い云々。此徒茶筅を作るが故に又一にチヤセンとも呼ばるゝことは次の章でさらに說はうと思ふ[やぶちゃん注:「茶筅及びサヽラ」。底本のここから]。而して鉢屋茶筅が亦空也の門派であることは明白な證據がある。松平出羽守家(松江侯)の同じ文化四年の書上に曰く、此領内では茶筅と鉢屋とは同じものである。牢番を職とし取扱いは穢多に近い。國内に鉢屋寺が三箇寺ある。去《さる》丑年(文化二年)のことであるが、京都空也堂の院代と稱する僧下り來り、雲州鉢屋は我寺末派の者である故、爾今《じこん》取扱《おりあつかひ》を改めて貰ひたいと申し出《い》でた云々とあつて、之を謝絕した顚末が詳しく記してある(祠曹雜識四十。之を見ると此派の勢力が小さくて遠國の門徒の世話が時宗の鉦打ほども行屆かず、終に本業の念佛は忘却して色々の雜役を拾ふ所から、次第に特殊の待遇を受けねばならぬやうになつたのかと思ふ。山陽道は一般に茶筅の名で通つて居るが、獨り廣島領のみは之を穢多と同一に取り扱ひ、藝藩通志などにも屠者(としや)と瞽者(こしや)と二種より外の名目が見えぬ。今の廣島縣安佐《あさ》郡龜山村には大畑・靑・丸山・大野などの特殊部落[やぶちゃん注:差別用語として現在は使用してはいけない。以下同じ。]がある。此地の口碑によれば、昔はエタに長利派(ちやうりは)八矢(はちや)中間(なかま)の三種族があつたが後に皮田《かはた》と云ふ一種族新たに起り專ら獸類の皮を取扱ふやうになつた云々(廣島縣特殊部落調)。此古傳は頗る鉢屋退步の歷史を語るものゝやうに思ふ。

 鉢叩には鉦打と違ひ色々妙な持物《もちもの》があるために、其由來を訊ねるのによほど手懸りが多い。瓢簞と茶筅の事は別にまとめて之を說くつもりである。今一つ注意すべきものはワサヅノと名づけ鹿の角を頭に取附けた杖である。鉢叩が此杖を持つことは七十一番の職人盡歌合《しよくにんづくしうたあはせ》の歌にも見え(和訓栞《わくんのしをり》)、又明應年間[やぶちゃん注:一四九二年~一五〇一年。]に出來たと云ふ甘露寺[やぶちゃん注:不詳。寺名ではなく人名か。]の職人盡の繪にも、鹿の角の附いた杖に瓢《ひさご》を下げて之を地に立て、鉢叩が其傍で別の瓢を叩いて居る所がある(筠庭雜考《きんていざつかう》三)。後世の俳諧の鉢叩は左の手にフクベを持ち、右には一尺ばかりの細い篠竹を持つて之を打つてあるくから(增訂一話一言《いちわいちげん》四十六)、終に鹿の角とは別れてしまつたが、以前は杖も鉢叩に缺くべからざる道具で、而も鉢叩に限つて持つものと認めて居たらしい、と云ふのは三百年前の編述に係る空也上人繪詞傳、及び次いで世に出た雍州府志《ようしうふし》卷四にも、上人が北山に假住《かりずみ》せられし頃、每夜來て鳴いた鹿を例の平定盛が射殺したので、憐憫の餘り其角と皮とを乞ひ受け、皮は之を裘(かはぶくろ[やぶちゃん注:ママ。「かはごろも」の誤りであろう。「ちくま文庫」版も『かわごろも』と振っている。])として着用し角は之を杖頭に插した云々。遠慮の無いことを言へば此話は夢野の鹿の燒直しである。著聞集か何かにも下僕が鶯を射留めた話があつたが[やぶちゃん注:「古今著聞集」にそんな話、載ってるかなぁ? 私は記憶にないんだが。]、昔の人は克明だから斯う云ふ出典のある緣起をこしらえたので、虛誕(うそ)にしても罪が淺い。ワサヅノの空也門徒ばかりの物で無いことは證據がある。例へば袋草紙に惟成辨(これなりのべん)出家をして後、賀茂祭の日にワサヅノを持ちて一條大路を渡るとあり、夫木集の歌に「ワサヅノを肩に掛けたる皮衣けふのみあれを待《まち》わたる哉」[やぶちゃん注:衣笠内大臣藤原家良(いえよし)の一首。]などゝあるのは、昔は賀茂の祭にかゝる風體《ふうてい》の者が出たからであらう(和訓栞)。或は賀茂と貴船との關係から、此も空也上人の因緣に基いたやうに說き得るかも知らぬが、些し模倣の時代が早過ぎるやうに思ふ。今昔物語には金鼓《こんぐ》を叩き萬(よろづ)の所に阿彌陀佛を勸めてあるいた阿彌陀の聖と云ふ法師が亦鹿の角の杖を突いたとある。此なども空也に隨從した鉢叩の先祖と見られぬことは無かろうが、他に之を推測せしむる材料なき限《かぎり》は當時の聖《ひじり》なる者が一般にこんな杖を突いて居たと解するのが正しいと思ふ。

[やぶちゃん注:「夢野の鹿」「夢野の牡鹿(をじか)」とも言う。摂津国菟餓野(とがの)に住んでいた、ある鹿についての伝説。菟餓野の牡鹿が、自分の背に雪が降り積もり、薄が生える夢を見、それを妻の牝鹿に話したところ、牝鹿は、かねがね、夫が淡路島の野島に住む妾のもとに通うのを妬んでいたことから、この夢を、「『薄』は矢が立つこと、『雪』は殺された後で白塩を塗られること。」と占って、夫が妾のもとに行くことを止めた。しかし、夫は聞き入れないで淡路島へ出かけ、途中で射殺されたという。この後、「菟餓野」は「夢野」と改名された。「日本書紀」の仁徳三十八年七月の条や、「摂津風土記」逸文に見える伝説で、後、和歌などにもよく詠まれている。この伝承から転じて、「気にかかっていた物事が予感通りになること・心配していた事柄が現実となって現われること」の喩えとして故事成句として使用される(以上は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「今昔物語には金鼓を叩き萬(よろづ)の所に阿彌陀佛を勸めてあるいた阿彌陀の聖と云ふ法師が亦鹿の角の杖を突いたとある」「今昔物語集」巻第二十九の「阿彌陀聖殺人宿其家被殺語第九」(阿彌陀の聖(ひじり)、人を殺して、其に家に宿り殺されし語(こと)第九)を指す。「やたがらすナビ」のこちらで新字だが、電子化されたものが読める。……しかし、これ、厭な話だぜ。]

 さてワサヅノと云ふ語の意味であるが、此迄未だ明瞭なる解說をした人が無い。ワサとは今でも紐を結んで輪にした形を謂ふから、各地を漂泊する旅の法師が其杖の頭を鹿角にした最初の趣旨は、荷物などを之に引つ掛けて肩にせんが爲ではなかつたか。此點は聖の根原を知る爲によほど重要な事であるから、支那其他の外國の類例を比較して詳しく調べたいものである。自分が之と關係があらうと思ふのは、古來鹿杖の漢字を宛てゝ居るカセヅエのことである。倭名鈔僧房具の部に鹿杖、漢語抄云鹿杖加世都惠《かせつゑ》、同じく行旅具《かうりよぐ》の部に橫首杖、唐韻云𣈡橫首杖也、漢語抄云𣈡加世都惠一云鹿杖。卽ち古代の漢名は𣈡[やぶちゃん注:音は「テイ・ダイ」。]で、又橫首杖とも云ふを以て察すれば、近世の坐頭が用ゐて居た所謂手木杖(しゆもく《づゑ》)のことかとも思はれる。此事に就いては伴信友《ばんのぶとも》の最も綿密な考證があるが(比古婆衣《ひこばえ》九)、其結論のみはまだ容易に信じられぬ。其說の大要に曰く、カセヅヱのカセは機織《はたおり》に使ふ挊で(古名カセヒ)絲を卷く爲に作つた二股の器《き》である。古く鹿をカセギと謂つたのも其角の形が似て居るからで、此と同樣に後世の所謂サンマタ或は枯木の枝をもカセギと呼んだのであると云ひ、挊杖《かせづゑ》の名の起りも其杖の尻が二股に分れて居た爲だらうと、繪卷などの中から尻の二股なる多くの例を寫し出して居る。而して其一名を橫首杖《よこくびづゑ》と云つた說明としては、單にさう云ふ尻の挊形なる杖が多くは其頭を手木形にして居たからと云ふことにして居るが、此點は自分の承認しにくい說である。現に伴翁の引證した繪の中にも、尻二股にして頭の橫首ならぬもの、橫首杖にして尻の普通のものもある。又平家物語の淸盛高野登りの條にも、老僧の白髮なるがかせ杖の二股なるにすがつて出で來給えりとあるを見ても、カセヅヱ必ずしも尻二股でなかつたことが分り、之を挊と名づけた所以は寧ろ頭の手木形であつたからと想像せねばならぬ。法師が挊杖を持つた例は外にもある。京都實法院の什物たる解脫房貞慶上人の像などはそれで、坐像の前に挊杖と草履が置いてある(考古圖譜四)。この上人は源平の亂の後京の眞如堂再建の爲に勸進聖《くわんじんひじり》となつて諸國を巡つた人と云ふから(眞如堂緣起)、多分は其德を記念したものであらう。仍《よつ》て思ふに橫首杖を行旅具に算へたのは、此杖も亦ワサヅノと同じく荷物などを結附《むすびつ》けて肩にするの用があつた爲で、更に之を鹿杖(ろくじやう)と書くのは單にカセの字の宛字では無く、鹿角を杖頭《つゑがしら》に插した空也上人などのワサヅノも亦カセヅエのことであつた證據かと思ふ。前に引いた今昔の阿彌陀聖の條に、「鹿の角の杖の尻には金のにしたるを突き」[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。]とあるが、机の字は杈《またぶり》椏《また》などの誤りかも知れぬ。さすれば伴翁の說の通り、此種の杖には尻の二股なのが多かつたと云ふ一例になる。是も亦行旅の必要からであらうが、西洋では鑛物又は地下水を搜索する術者が、昔からこの二股の杖を用いて居たのは注意すべきことである。

[やぶちゃん注:「倭名鈔僧房具の部に鹿杖、漢語抄云鹿杖加世都惠、同じく行旅具の部に橫首杖、唐韻云𣈡橫首杖也、漢語抄云𣈡加世都惠一云鹿杖」「和名類聚鈔」の国立国会図書館デジタルコレクションの元和三(一六一七)年の版本の当該部を示す。前の「僧房具」のそれは、ここ。後者の「行旅具」のそれは、ここ

「鹿の角の杖の尻には金のにしたるを突き」「やたがらすナビ」では、「朳(えぶり)」となっている。これは「柄振り」で農具の一種。長い柄の先に長めの横板の附いた鍬のような形のもので、土を均(なら)したり、穀物の実などを搔き集めたりする際に用いる。「えんぶり」とも言う(なお、能の小道具の一つで、これを元に簡略様式化したもので、竹竿の先に台形の板を附けたもの。雪搔きの仕草に用いるのものもかく呼ぶ)。「今昔物語集」は全部で五種を所持するが、池上洵一編の抄録本の岩波文庫「今昔物語集 本朝部 下」(二〇〇一年刊)の脚注に、『「杈」(またぶり)』が正か。二股。杖の下端には二股の金具えお付けていた意』とされた上、まさに、続けて『このあたりの姿は六波羅蜜寺の空也上人像に似て、阿弥陀聖の基本的スタイル。』とある]

 東京西郊の納凉地熊野十二所《じふにそう》の森ある村の名を古くより角筈(つのはず)と云ふ。今は淀橋町《よどばしちやう/よどばしまち》の一《いち》大字《おほあざ》である[やぶちゃん注:現在の新宿区西新宿のここで、「ひなたGIS」の戦前の地図の方を参照されたい。]。江戸志には十二所緣起を引いて、伊勢神宮の忌詞《いみことば》に僧を髮長《かみなが》と稱し尼を女髮長《をんなかみなが》と稱し優婆塞《うばそく》[やぶちゃん注:在家信者。]を角筈と云ふ、其角筈であらうとある。成程熊野は昔より優婆塞の齋《いつ》き祀る神であるから、其社に近い角筈の說明としては尤もらしい。而して右の神宮の忌詞の古く物に見えて居るのは、延曆二十三年[やぶちゃん注:八〇四年。]八月造進と稱する大神宮儀式帳である。優婆塞と云ふ梵名が日本では例の聖又は沙彌《しやみ》を意味して居たことは此からも追々立證する考へである。其ヒジリを何故に角波須《つのはず》と呼ばしめたか。今までは此と云ふ心惡(《こころ》にく)い說も出なかつた。自分の見る所ではやはり亦ワサヅノまたはカセヅヱに基くものと思ふ。筈は言海には「打違《うちちが》ひたる文、又くひちがひ」とある。それ迄には進まずとも弓端調と書いてユハズノミツギと讀ませた古例を推せば、頭《かしら》を鹿角にした杖を突くのが特色である故に、角筈を以て聖の隱語としたと云ふても無理はあるまい。さうなれば鉢叩の本源は稍又明らかになるのである。

 坐頭卽ち盲人の良い階級に手木杖《しゆもくづゑ》を持つことを許した理由も、自分はやはり同じ方向より觀察したいと思ふが今は枝葉に亙るから略して奥。本節の論ずる所を一括すれば、要するに鉢叩鉢屋と云ふ部落も亦毛坊主であつて、空也派に從屬し踊躍念佛《ゆやくねんぶつ》を專業とした一種である。彼等の持つ杖は昔の放浪生涯を表示して居る。今は土着して居るが世間の待遇は冷《ひやや》かであつた。彼等の職業は賤しかつたが其說く所の由緖は堂々たるものであつた。さうして作り言《ごと》が多かつたらしいと云ふ迄である。關東の鐘打と如何によく似て居るかは尙追々と立證せられるであらう。

 

大手拓次 「劍を持つ愛」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。]

 

 劍を持つ愛

 

なだらかな小山をこえて

笛を鳴らす。

その笛の音(ね)に

あつまつてくる精靈の群(むれ)。

 

なだらかな小山をこえて

笛をならす。

一生笑つたことのない顏が

くらやみから見えを送る。

なだらかな小山をこえて

笛をならす。

小さくちぢかんだ祕密の足、

のびよ、のびよと歌ひながら。

 

[やぶちゃん注:標題の「劍」の読みは「つるぎ」か「けん」か、不明。前者で読みたい気はする。]

大手拓次 「をののき」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。]

 

 をののき

 

飾り珠をつけたおとなしい戀のうしろから、

しづかなくらがりをたよりにして

ほんの氣まぐれの匂ひをたきしめた

夜(よる)のなかのともしび色のあそび心は

水草(みづくさ)のあはあはしい莖のやうに

性のそよ風に盲目の指先はふるへてる。

 

大手拓次 「丁字の花」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。]

 

 丁字の花

 

小手招きする

あまにがい丁字の花はこぼれ、

かへりゆく人のうしろ姿に

憎み多い追懷を投げかける。

 

小手招きする

あまにがい丁字の花はこぼれ、

かへりゆく人の濃い影に

命の香をとこしなへにふりそそぐ。

 

[やぶちゃん注:「丁字」「ちやうじ(ちょうじ)」はクローブ(Clove)のこと。ここはバラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum のこと。一般に知られた加工材のそれは、本種の蕾を乾燥したものを指し、漢方薬で芳香健胃剤として用いる生薬の一つを指し、肉料理等にもよく使用される香料。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 三八番 嬰兒子太郞

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題は本文から「えぢこたらう」と読む。]

 

      三八番 嬰兒子太郞

 昔、ある町に、日本のテンポ(僞言《うそ》つき)と謂ふ看板を揭げた者があつた。或日其所へ唐(カラ)のテンポが法螺吹き比べに訪ねて來た。ところが日本のテンポが留守でその子供だと云ふ十歲ばかりの童《わらし》がエジコ(嬰兒籠)に入つて手遊びをして居た。

 唐のテンポが、父さんや母さんは何所へ行つたかと訊くと、嬰兒子(エヂコ)太郞は、親父は富士ノ山がオツカヘル(倒れる)と言つて麻殼(ヲガラ)三本シヨツテ走《は》せたし、母親は海の底が拔けると言つて、フシマ(小麥粕)三升シヨツテ行つたと返答した。

 唐のテンポは内々驚いて、さうか折角訪ねて來たのに留守で殘念だつた。時に先達《せんだつて》私の國から寺の大釣鐘が吹つ飛んで來た筈だが、此の邊で見當らなかつたかなアと言ふと、嬰兒子太郞は卽刻に、あゝそれだなア、實は先達私のとこの厩と便所の間の蜘蛛の巢に、何所から來た釣鐘だか、麻煑桶(イトニコガ)のやうな大鐘が來て引ツかかつて、ブラ下(サガ)つてたと親父(オヤヂ)が言ふのを耳にしたが、伯父さん今もブラ下つてゐるか如何《どう》かちよつと行つて見さいと言つた。

 唐のテンポは閉口して、子供でさえこんな大法螺吹きだもの、これの親父だらどんなに偉い奴か、これはとても敵(カナ)はぬワと思つて、そんだら復(マタ)來(ク)ると言つて早々退散した。

 その夕方父母が歸つて來て、嬰兒子太郞に、今日は誰も來なかつたかと訊いた。すると太郞は唐のテンポと云ふ人が來て、斯《か》く斯くの事を言ふから、俺が斯く斯く言ふと驚いて歸つてしまつたと言つた。すると父親は大層怒つて、俺がテンポの看板を掛けても其れ位の僞言(ホラ)は吹けないのに、貴樣はまだ嬰兒子の分際として、そんな形の無い僞言(ウソ)を吹くなんて大それた末恐ろしい餓鬼だ。お前のやうな者は此の家に置かれぬからと言つて、盥《たらひ》に乘せて(入れて)海の中へと流し棄てしやつた。

 嬰兒子太郞は盥に乘つて流れて行くうちに、波間に猫や犬の屍體が浮んでゐるのを見つけた。この時太郞は何とはなしに家の寶物の生針《いきはり》を盜んで持つて來て居たが、其の猫の屍體に刺して見たくなつてチクリと刺して見たところ、其の死んだ猫がムクムクと動き出した。又チクリと針を刺すとパツチリと目を開き、又チクリと剌すと立つて步き出した。そしてニヤゴニヤゴと鳴きながら岸へ泳ぎ着いて或家に駈け込んだ。それを見て太郞は面白いもんだから、また犬の屍體にも針を刺して見た。三度刺すと其の犬も蘇生(イキガヘ)つてクワンクワン啼きながら岸邊に泳ぎ着くので、嬰兒子太郞も盥を岸に着けて犬の行く方へ、後(アト)をつけて行つてみた。すると山根の大きな長者どんの邸《やしき》へ行きあたつた。

 長者どんの家へ犬が駈け込むと、玄關先きに居た下婢が、あれア死んだ犬子(イヌコ)が蘇生(イキカヘ)つて來たヤと叫ぶと、座敷の方で、何云ふンだア、死んだ物が歸つて來るもんでアと言ふ聲がする。下婢は否(イヱ)々全くほんとう[やぶちゃん注:ママ。]だ、家の赤犬子《あかいぬこ》が蘇生(イキカヘ)つて來たと騷ぐと、家の内からぞろぞろと、旦那樣も母親樣も出て來て、あらア本當に家の赤犬だと云つて驚いた。さうして其所に見知らぬ子供が突立つて居るものだから、不審に思つて、お前は誰だアと云ふと、嬰兒子太郞は、はい私は大島と云ふ國から、人間でも畜生でも一旦死んだ者の生命《いのち》を助けるために渡つて來た者だ。先刻《さつき》海の中に犬や猫の屍體があつたから一寸試みに手當をして見たところ、御覽の通り此の犬が忽ち斯《こ》んなに蘇生(イキカヘ)つて、私の側を離れぬので何處の犬だかと思つて實は斯《か》うしてついて來て見ましたと言つた。すると長者夫婦は大層喜んで、それでは早速御願ひ申しますが、家の一人娘が病氣のところ、たつた今シ方《がた》命(メ)を落しました。どうか娘を蘇生(イキカヘ)さしてクナさいと膝をついて賴んだ。嬰兒子太郞が座敷に入つて見ると、美しい十六七の娘が今死んだばかりで、體の溫味(ヌクミ)もまだ去らないで眠(ネム)つたやうに橫になつて居た。そこで皆々樣《みなみなさま》決して御心配はいりません。私が直ぐに蘇生(イキカヘ)して上げますと言つて、兩親の見て居る前で其の生針《いきはり》を右の脇の下ヘチクリと剌すと、死んだ娘は忽ち息を吹き返して目をぱツちりと開いた。又今度は左の脇の下ヘチクリと刺すと體が動き出し腹にチクリと剌すともう起き上つて膝をついた。兩親初め一家眷族は大層喜んで、其の場で嬰兒子太郞を長者どんの聟にした。その婚禮のお祝ひは七日七夜がほど續けられた。

  (江刺郡米里《よねさと》村の話、佐々木伊藏氏談の二。
  昭和五年六月二十七日聽書。)

[やぶちゃん注:「テンポ(僞言《うそ》つき)」小学館「日本国語大辞典」の「てんぽ」を見ると、『(「てんぼ」とも)運にまかせて、行きあたりばったりにすること。一か八か、運にまかせて思いきってすること。その場の出まかせでことをすること。また、そのさま。てんぷ。てんぽう。』とあり、「日本永代蔵」・歌舞伎の「壬生大念仏」や、雑排・談義本を例引用する。その後に「方言」として、『常軌をはずれたこと。あぶなっかしいこと。とんでもないこと。無鉄砲。突飛。』と挙げて、全国的な採取例を示す(「てんぽう」「てんぷ」の変化形を含む)。その後に派生形と思われる方言の意として、『甚だしいこと。大きいこと。大層なこと。』を挙げる。而してその後ろに、慣用される表現として「てんぽの皮(かわ)」を立項し、『「てんぽ」を強調していう語』としつつ、浄瑠璃の「傾城反魂香」・「東海道中膝栗毛」や、歌舞伎の「当龝八幡祭」(できあきやわたまつり)を挙げるので、方言と雖も、全国的に近世以降、汎用されているものであることが判る。また、この最後になって、やっと「語源説」を挙げ、『テンポは』身体障碍者、『あるいは不器用の意の方言テンボ』(「テンボウ」とも言った)『からか。また』、「転蓬」(てんぽう:風に吹かれ、根を離れて、転がって行く蓬(よもぎ)の意から転じて、「人が漂泊すること」「旅人」の喩えに言う語)『の略訛ともいう。カワは嘘の皮・すっぱの皮などのカワと同じで口拍子にいう語』とあった。

「麻殼(ヲガラ)」種としては、ツツジ目エゴノキ科アサガラ属アサガラ Pterostyrax corymbosus やオオバアサガラ Pterostyrax hispidus を指すが、材が「麻殻(あさがら)」のように裂けやすいことからの名であって、ここは所謂、お盆の迎え火や、送り火を焚くのに用いたり、供物に添える苧殻箸(をがらばし)とするそれで、これは麻(アサ=大麻(タイマ:バラ目アサ科アサ属アサ Cannabis sativa )の皮を剥いだ茎を乾燥させた「苧殻(麻幹)」=「おがら」である。それで富士山が崩壊するのを支えるという滑稽な大法螺。

「フシマ(小麥粕)」麩麬(ふすま)のこと。小麦を製粉する際の副産物で、果皮・種皮を中心に外胚乳や、糊粉層の粉砕物から成る。粗タンパク質・粗脂肪・ミネラルなどに富み、特に牛の飼料として知られる。それで海底の大穴を塞ぐという同前。

「麻煑桶(イトニコガ)」前の麻(アサ)から繊維を採るために煮た麻それを洗うための桶を言うのであろう。それを大釣鐘に比喩する逆転した喩えが面白い。

「生針」「よい夢」で既出。呪的アイテム。

「大島」伊豆大島が想起されるが、テンポの少年の言うことだから、架空の島名とすべきかも知れない。

「江刺郡米里」現在の奥州市江刺米里(グーグル・マップ・データ)。遠野市からは南西に当たる。

「佐々木伊藏」既出の「三人の大力男」の報告者。]

2023/04/12

大手拓次 「くちびる」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。]

 

 くちびる

 

みづ枝と風と

ちらちらとほのかに燃える火を呼んで、

暮れかかるふもとの藁屋(わらや)に

ちらちらと火を呼んで。

 

お前のやさしい眼から隱れてしまひ、

物思ひといふ精靈の戀は

流れのなかにとまる渦のやうに

一息ごとに姿が變つてゐる。

 

戀の火はちらちらともえそめる。

ふもとの藁屋から、

田舍町の祭りの夜から。

 

大手拓次 「幽靈さん」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。]

 

 幽靈さん

 

おどろにふりみだした幽靈さん、

おまへのおどけ繪は

こぼれ落ちる花びらのやうに

見えかくれに

わたしの眼をかすめてとほる。

 

うなだれがちに

あをい色の笛の音(ね)にまとはれながら。

 

大手拓次 「水仙のひほひ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。]

 

 水仙のにほひ

 

古い香爐の底にたまつてゐる

いろいろの人の、手づからにくゆらした香のくづれの

しんねりと死にさそふ、やはらかいおそろしいそのにほひ…………

 

めらめらと眼の前に

形をまねる黃水仙のかどはかし。

 

蛇遣(へびつか)ひの女の

ながい火のやうな舌にも心安らかに眠るやうな…………

水仙のにほひは遊んでる。

  

佐々木喜善「聽耳草紙」 三七番 よい夢

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

      三七番 よ い 夢

 

 昔はありましたとサ。ある所の家の童(ワラシ)は、朝(アサマ)に起きると、

   あゝ良(エ)夢見た

   あゝ良(エ)夢見た

 と言つた。このワラシア何そら程良(エ)夢見たてヤ。サベて(言つて)知(スカ)せでなエかと母(アツバ)が聽いた。それでも童は、

   あゝ良夢見た

   あゝ良夢見た

と言ひ續けて居るので、此の童ア馬鹿になつたフダ、流してやらねアばなねアと言つて、舟(フネコ)さ入れて流してやつた。

 童がだんだん沖の方へ流れて行くと、遙か向ふの岸の上で鬼どもがそれを見て、あれア、人蟲(ヒトムシコ)ア流れて來た。捕つて食へでアと言つて、皆で海の水を呑み始めた。

 大きな口を開けて、どくどくと呑み始めると、段々海の水が無くなつて、しまひには鬼の國の方へ小船がだんだんと流れ込んで行くので、童は、

   シズコ

   ポンポン

 と言つて、自分の睾丸《きんたま》コを叩くと、鬼どもはあははツと笑つて、呑んだ水を皆ホキ出してしまつた。すると童の船がまた沖の方へと流れ戾つた。

   ああ良夢見た

   ああ良夢見た

とまた言ひ續けて行くと、先の鬼どもは今度こそはと、再び海の水をどツくどツくと呑み出した。童の船は忽ちにまた鬼の國の側へ流れ込んで行つた。そこでまた童が、

   シズコ

   ポンポン

と言つて叩いて見せると、鬼どもは、あはははツと笑つて、せつかく呑んだ水をみんな吐き出してしまつた。そこで今度は鬼どもが、いつたいお前は良(エヽ)夢見た見たと言ふが、どんな夢を見たか、話して聽かせろ。そしたら寶物をやると言つた。童がその良夢のことを話すと鬼どもは寶物を與へた。その寶物は水の上を渡る浮靴《うきぐつ》と、死んだ物を甦(イ)かす生針(イキハリ)であつた。

 童は鬼からもらつた浮靴を履いて陸へ上つた。そしてそこについてゐる細道を辿つて行くと、駒が死んで人々が騷いでゐた。童がその駒の傍《かたはら》へ行つて、生針で刺すと駒は一聲《ひとこゑ》嘶《いなな》いて甦生(イキカヘ)つたので、人々は神樣のやうにありがたがつた。

 その駒に乘つて行くと、向ふの村に大きな長者の館があつて、一人娘が急病で死んだと言つて、皆オイオイと泣いてゐた。

 童は私が甦生(イカ)してあげますと言つて、その娘に生針を立てると、これも急に眼をパツチリと開いて生き還つた。長者どのの喜びは限りなく。[やぶちゃん注:句点はママ。]その童を養子にして娘と夫婦にすることにした。ドツトハラヒ、

  (田中喜多美氏御報告の分の六。摘要。此の話は
  まだまだ複雜であつたと思ふが、姉に聞き返すと
  以上の如くであつたと言つて居られる。誰が見て
  も不備な點がある。殊に死馬を甦生《いきかへ》
  させるには村人と何かの約束があつたから、生か
  してから其の馬に乘つて行つたことであらう。江
  刺の話と比較して見ると内容がよく分るやうに思
  はれる。)

[やぶちゃん注:「田中喜多美」既出既注

「江刺の話」不詳。]

下島勳著「芥川龍之介の回想」より「それからそれ」

 

[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載によれば、昭和一〇(一九三五)年二月五日発行の『中央公論』初出で、後の下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。

 著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。一部に注を挿入した。但し、前半は下島氏の個人的な趣味の、やや自慢げな話で、芥川龍之介からは、かなり離れて語られてあるが、下島の経歴の一部も知られて、相応には面白い。但し、そうした芥川とは無縁な部分にまで、注を子細に施す気にはならなかったので、一部を除いて、私の知っている人物には、原則(例外有り)、注は附していない。また、本篇にはルビが一切ないが、なくても概ね読めるが、一応、若い読者のために、ストイックに《 》で推定で歴史的仮名遣で読みを振った。

 なお、私の芥川龍之介の記事を読まれてきた読者は、ピンとくるであろうが、この標題は、芥川龍之介の幼少期からの年上の知人で、キリスト教の信者であった室賀文武氏の芥川龍之介の回想録「それからそれ」(電子化注済み)と同じであることに気づかれるであろう。而して、これは両者の発表が完全に同時期であることから、偶然とはちょっと思われ難く、その題を借りたか、室賀が借りたかであろう。而して、本篇の一番最後になって、室賀氏の話が語られ、コーダとなっているのである。

 

そ れ か ら そ れ

 

 田端の芥川家玄關の門の右手向ひの隅に、いつも屛風が立ててある。その半雙は二枚折銀屛風の既に恐く燒けぼけのした……藤と紅葉の畫のほのかに浮き出た古いもの、また半雙の方は六枚折中屛風に……かなり大さな行草體で、「問余何意棲碧山 笑而不答心自閑 桃花流水杳然去 別有天地非人間」と書いてあるものとである。

 この李白の詩の書いてある而も破れのところどころに見える六曲屛風は、そも芥川龍之介君の奧さん初のお產の產室用として大正九年の春お產の直前、私に是非書いてくれといふので喜んで拙筆を揮つたのである。そしてこの屛風の中で長男の此呂志君が高らかな產聲をあげ、續いて二男の多加志君も三男の也寸志君もまたこの圍《かこ》ゐの内で生れたといふ、因緣淺からざる屛風なのである。

[やぶちゃん注:以上の七言古詩(平仄が合わないので七言絶句ではない)は李白の「山中問答」で、高校の漢文では、大抵、教科書に載る知られた「山中問答」である。訓読すると、

   *

    山中問答

 余に問ふ 何の意ありてか 碧山(へきざん)に棲むと

 笑つて答へず 心(こころ) 自(おのづか)ら閑なり

 桃花(たうか)流水 杳然(えうぜん)と去る

 別に 天地の人間(じんかん)に 非ざる有り

    *

詳しくは、漢詩サイトの中では、古くから最も信頼している、サイト「碇豊長の詩詞」の本篇のページがよい(お名前は「国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス」のこちらによれば、「いかりとよなが」と読む)。]

 すこやかにすくすくと生ひ立つた長男の比呂志君は、一體たれに似たといふのか並々ならぬ茶目さん型で、よくこの屛風の後ろから玩具の蛇を覗かせたり鬼の面などかぶつて人を駭かしたりしたものだが、演戲中足臺を踏みはずしてころがり落ち、もの凄いお化けさんが、しゆくしゆく泣き出したり……頗るユーモラスな場面も見せてくれた。殊に母君の病床に附添つた看護婦の如きは、この屛風利用の遊戲のために、さんざん惱まされたり笑はせられたりしたものでめる。また多加志君が漸く大きくなるにつれ、相撲はとる、組う

ちがはじまる、遂に也寸志君が產れては、追ひつ追はれつ三巴の一時期が出現して足蹴にされたり押し倒されたりといふ、謂ゆる屛風受難時代を見まもつた私であつた。

 指折り數へて見るまでもなく、屛風も既に十六年の星霜を經たわけだ。この圍ゐの内で生れた兄弟三人の發育するエネルギーによつて、かく大小幾個破れが出現したのを眺めてゐると、一寸センチメンタルな感じがしないではないが、その底から――古いものはさつさと破れてしまへ。新しい生命は限りなく發展せよ……といふ明朗な感情で一ぱいになる。

 更に故人の書齋へ這入ると、右のなげしの上に「澄江堂」と題する額が掛けられてゐる。これは支那漫遊から歸つて來た芥川氏が、例の我鬼窟を廢して澄江堂としたいから私に書いてくれといふのであつた。が、これは一應辭退した。なぜといふに、當時既に大家として押しも押されもしない盛名をはせてゐたから、も少しその盛名にふさにしい人の手になるものをといふ老婆心の動きと、また一つにはさまざまの人物が出入するから、その批評がさぞうるさからうと思つたからであつた。然しどうしても私に書けといふわけから、やむなく禿筆《とくひつ》を揮つたのがこれである。

[やぶちゃん注:「我鬼窟を廢して澄江堂としたい」芥川龍之介が、この呼称を使い始めるのは大正一一(一九二二)年の春頃で、現在、芥川龍之介の書簡中で「澄江堂」の号が最初に使用されているのは、「芥川龍之介書簡抄110 / 大正一一(一九二二)年(一) 五通」の五通目の小穴隆一宛のそれとされており、クレジットの下方に『澄江堂主人』とある。しかし、下島は「支那漫遊から歸つて來た芥川氏が」と言っている。これが下島の記憶違いでないとすれば、中国特派から帰ったのは大正一〇(一九一一)年七月二十日頃で、下島への揮毫依頼・一度の辞退・再依頼は、この大正十年八月以降であったと考えられる。下島が実際にこの扁額を龍之介宅に持って行った日を記していないのが悔やまれる。

「禿筆」先の擦り切れた筆。ちびた筆。転じて、自分の文章や筆力を、遜って言う。]

 そののち知人から賴まれるがまゝに、額や掛物などまでいゝ氣になつて書いたのであるが、中でも佐藤惣之助氏の螢蠅盧の額は當時芥川氏から傑作として褒められたものである。また德田秋聲翁を額は囑を受けてから三四年ばかりののちに書いたもので、度々催促を受けて閉口やら恐縮やらをした覺えがある。猶自笑軒の裏座敷が新築されたとき、主人の依賴によつて茶がけを書いたことがあつた。昨年書いたものゝ中では岩田專太郞君依囑の額がある。これは私の好みの表裝をするなら書いてあげるなどと、わがまゝをいつて書いたものである。

[やぶちゃん注:「螢蠅盧」佐藤惣之助の俳号の一つ。音読みすれば「けいようろ」であるが、国立国会図書館デジタルコレクションの彼の句集「螢蠅盧句集」(昭和八(一九三三年刊)の扉を見ると、「螢蠅盧」には「そうのすけ」とルビが附してある。]

 雑誌の題簽は神代種亮君に賴まれて「書物往來」が初めてであつた。また室生犀星君のため同人雄誌「驢馬」の題簽を書いたが、これは讀賣新聞などで大變褒められて、何だか氣恥かしいやうな……併し惡い心持ちはしなかつた。驢馬といへば――堀辰雄、中野重治窪川鶴次郞の諸氏及び窪川稻子夫人等がこの襍誌出身の作家であることを考へると、轉《うた》た今昔の感に堪へない。

[やぶちゃん注:「神代種亮」(明治十六(一八八三)年~昭和十(一九三五)年)は「こうじろたねすけ」と読まれることが多いが、名は正しくは「たねあき」が正しい。書誌研究者・校正家。「校正の神様」と称され、芥川龍之介の作品の校正も多く手掛けているが、勝手に文章を弄ったりして、芥川龍之介もブチ切れたことがある。詳しくは、私の「澄江堂遺珠 神代種亮 跋 図版目次 奥附」の私の注を参照されたい。

「窪川稻子」作家佐多稲子のこと。戦後に窪川とは離婚している。]

 かなり書いた書籍の題簽のうち、室生犀星、久保田万太郞、佐藤惣之助氏などの著書竝《ならび》に啄木全集などはその出來ばえの良不良に拘はらず、何か忘れることの出來ないものが殘つてゐる。

 私が當時不用意に書いたこの澄江堂の額が、意外や文學者や詩人の間に評判となり、これが動機となつて、やがて一廉《ひとかど》の書家か何かでゞもあるかのやうな虛名を傳へられ、而も書についてのラヂオ放送までやらせられ、彼《か》の書家と稱する偉らさうな變な人たちの一部から、一寸反感まで買つたのであるが、いまこの額に對してその稺拙《ちせつ》を恥ずるよりも、もつと別な感情のゆらめきを自覺する。

 猶書き添へておきたいのは、嘗て文展時代に寺崎廣業門下の女流畫家として有名だつた河綺蘭香女史から、半切《はんせつ》へ何か書いてくれと依帳を受けていたが、それを果さぬうちに病歿された。そこで私の好きな王維の詩を書いて棺《ひつぎ》の中へ納め、聊かその責を果したことがある。また芥川氏の叔父竹内氏からも生前書の囑を受けて果さず、歿後靈前に供へてお詫びしたのであつた。

[やぶちゃん注:「芥川氏の叔父竹内氏」芥川龍之介の伯父(実母フクの兄)で、養父芥川道章の弟(その関係では龍之介の「叔父」に相当する)であった芥川顯二(大正一三(一九二四)年に死去している)の養子であった竹内仙次郎。因みに、彼は芥川の実家であった新原家の女中であった吉村ちよ(明治二九(一八九六)年~昭和四(一九二九)年:長崎県五島の生まれ)と結婚している(大正一一(一九二二)年四月。但し、たった四ヶ月で離婚し、龍之介の義兄西川家(龍之介の実姉ヒサの二番目の夫で例の鉄道自殺した弁護士)の女中となった。最後に言っておくと、この「吉村ちよ」こそが芥川龍之介の少年時代の淡い初恋の相手であったのである。]

 今もなほ衷心殘念に堪へないのは元高等學呟敎授から文部省へ入り、長く同省に在職、晚年柳樽評釋などを著した國丈學者武笠三《むかささん》氏に對してゞある。同氏は病臥中私に是非俳句を書いてくれといふので、榛原《はんばら》から上等の短暑册を買ひ求め、奥さんがわざわざお持ちになつたので、早速三句ばかりをしたゝめ、(當時は既に帝大附屬病院へ入院、)お見舞かたがた自參のつもりでゐたのであるが、俄かに逝去されたので、終《つひ》に生前の期持に添ふことが出來なんだ。而も靈前にこの短册を獻じたとき、奥さんから大變お待ちかねであつたと承つて遺憾と恐縮とにしばし暗淚《あんるい》のとめあえぬものがあつた。

[やぶちゃん注:「暗淚」人知れず流す涙。非運を嘆き、或いは同情する場合や、無念を偲ぶ場合などに多く用いる。]

            ×          ×

 三つ兒の魂が甦がへつたとでもいふのか、私は近來不思議に畫がかきたくなつて、暇さへゐれば畫筆に親しんでゐる。勿論私の樂しみつゝある畫といふのは、彼《か》の雲林、黃鶴、秋亭、夜半、山中人などの流れの末を汲む謂ゆる文人畫とでも稱すべきやつで、例の南畫家の唱へる偉らさうな標榜や、大げさな氣構へなどとは關係のない即ち、なるべく捕はれない自由な心をもつて、筆墨の匂ひに憧れようといふのである。が、さてやつてみると中々さう思ふやうにうまく行くものでない。

[やぶちゃん注:「雲林」画家で「元末四大家」の一人である倪瓚(げいさん)の号。

「黃鶴」同前の一人である画家王蒙の号。正しくは「黃鶴山樵」(こうかくさんしょう)。

「秋亭」清の商人で画家でもあった方西園か。号印に「秋亭」がある。彼は江戸中期に本邦に渡来し、画技を伝え、谷文晁や渡辺崋山らも大きな影響を受けた。

「夜半」与謝蕪村の師として知られる早野巴人(はじん)の号。正しくは「夜半亭」。

「山中人」芥川龍之介も好んだ江戸後期の南画(文人)画家田能村竹田(ちくでん:芥川龍之介の「雜筆」の冒頭の「竹田」を参照されたい)。画論に「山中人饒舌」がある。]

 私は元來書が好きであるやうに畫が好きで、描くことこそ滅多にたらなんだが、觀る方では支那や我邦に傳はる名畫と稱せらるゝ著名なものや、そのほか有名無名古畫新畫の區別なく、隨分觀てをる方ではなからうかと思つてゐる。のみならず、畫論や美學などといふものさヘ一通りは通讀してゐるので、甚だ烏滸《をこ》の沙汰かも知れぬが、門外者としては多少の知識はあるつもりである。ところは、この鑑識眼や知識のあるといふことが、皮肉にも作畫の上の妨害となりあゝでもなく斯うでもない……謂ゆる、意餘りて筆伴はずといふやうな苦杯を舐めさせられてゐる。

 實のところ、こゝ三四年かなり勉强をしたつもりでゐるが、どうも思ふほどの進步があがらない。隨つて保存しておいてもと思ふやうなものも出來ず、燒却の災危から免れ得るものは滅多にないといふ悲慘な狀態である。然しながら、この一見無駄のやうな努力も決して徒勞だとは思つてゐない。妙なもので、一步は一步一筆は一筆、自《おのづ》から前途が開けてくるやうな氣がするので、人の知らない樂しみも味覺される。

 殊に我ながら不思議なのは、畫をかいてさへをれば雜念が往來しないばかりか、終日紙に向かつてゐても氣力の衰へを感じない。だから時として飯を食ふことも茶を喫むことも、人の來訪すら忘れることがある。そして出來たものが、聊かでも意に叶ふところがあれば一寸幸福を感じる。が、不出來であつても必しも失望するやうなことはない。要するに私の畫業は自分自身が描いてゐる間の樂しみを味へば足りるで、その出來不出來……即ち結果はどうでもかまはなぬといふ極端なエゴイズムの獨樂《どくらく》世界といつてよい。

 唯困るのは、少し氣短かなたちで、どうも畫の完成を急ぐ傾向がある。これは山水畫などには尤も禁物で、彼《か》の昔の支那人や大雅や竹田のやうに十日に一水五日に一石などといふ氣長いまねは出來ないまでも、兎に角さういふ悠然たる態度でかけるやうになつたら、その樂しみも一段深いであらうと思ふが、そこまでまだ一寸距離がありさうだ。

 私は小僧のとき、ほんの僅かの間ではあるが、彼の有名な改進黨の名士沼間守一《ぬまもりかず/ぬましゆいち》先生の玄關子《げんくわんし》兼《けん》新聞讀みをしてゐたことがある。先生は當時既に腦溢血に罹られ、痛ましくも半身不隨言調不自由の病軀を根岸の妾宅に橫たへてゐられたころである。或とき先生が私に前途の志を訊ねられたので、政治家も面白いと思ふが、どうも畫が好きで困ると答へたところが、それなら美術學校が出來てゐるから、そこへ這入つたらよからう……私が出來るだけ援助してやる。といはれたので非常に喜こんだ甲斐もなく急死されて了つたので、私の運命は急轉廻のやむなきに至つたわけである。若しそのとき先生が生きてゐられ……そして藝術學校へ這入つむたとすれば、たしか橫山大觀畫伯などと同期ではなかつたかと思はれる。あるとき芥川龍之介君にその話をしたら、同君は非常に興味を覺えたらしく――あなたが畫かきになつてゐられたら果してどういふ位置を占めてゐられるだらう……などと、彼一流の想像を逞しうして獨りで悅に入つたことがあつた。

[やぶちゃん注:「沼間守一」(天保一四(一八四四)年~明治二三(一八九〇)年)は幕末の幕臣にして、明治期の政治家・ジャーナリスト。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「玄關子」玄関番。書生。]

 大觀畫伯と芥川氏とは別に何等の交涉もないやうに思つてゐたが、あるとき偶然と芥川氏は、先日大觀畫伯を訪問したが、そのとき同氏のいふのに、あなたは畫かきとして大いに見込があるから、私の弟子になつてはどうかと云つたといふので、……大觀は豪傑だね……何を根據にあゝいふことが言へるのだらう……僕も小說家として今は相當の位置にゐるつもりだが俺の弟子にならんかと、ズバリ平氣でいふんだから偉いものだ、とつくづく感心してゐた。

            ×          ×

 今はもう一昨年の秋のことでめる。大森は馬込の新居魚眠洞室生犀星を訪問すると、庭の榴柘《ざくろ》の古木にアツといふほど見事な實が累々と燿《かがよ》つてゐる。たまらなくなつた私は早速、その最も優れた一枝を手帳の端に寫しておいた。そして何時か畫にしようと思ひながら其まゝ忘れるともなく忘れてゐたが、昨夏彼が新刊の隨筆集文藝林泉を贈られたので讀んでみると、その日記の中に、私が訪問して庭の榴柘を寫生したと書いてあるのではないか。そこで早速色紙に描いてみたが、相當にかけたやうに思つ

たから、彼が輕井澤から歸るのを待つて持つて行つて見せた。ところが非常に出來がいゝとお世辭をいつて喜こんでくれたのはいゝが、――これも空谷忌に昔を偲ぶ料《れう》となるんだな……といふのである。私はすぐ――冗談でせう、犀星忌の思ひ出の料にならないと誰が保證出來るだらう……とやり返して、奧さんともども笑つたのであつた。

[やぶちゃん注:「文藝林泉」昭和九(一九三四)年中央公論社刊。国立国会図書館デジタルコレクションの原本のこちらで「日錄」の十月四日の条に確認出来る。]

 一體犀星氏はさういふことをポツリと平氣でいつてのける僻《くせ》がある。以前にも何かのをりに、――あなたは信州に墓があるのだが、束京へもどこかへ分骨しておくのだな……さうしないと空谷忌をやるのに都合がわるいなどといふのであつた。

 だが、これは彼がこの老人に對する美しい友情の發露で、いかにも犀星氏らしい心づかひだと思つてゐる。

 墓のことで思ひ出すのは、大正十五年の春私の娘が十四歲で病死した。平常可愛がつた芥川氏をはじめ犀星氏や久保田氏が自分の子供のやうになげき悲しんでくれたのである。また告別式には菊池氏や菅《すが》氏なども來て下さるいふやうなわけで、何のことはない少女文藝葬のやうな觀を呈し、大いに面目をほどこしたことであつた。それにつけてを當時、供物として脇本樂之軒氏から贈られた春蘭が、すがれながらに三つの蕾を孕んで、現に私の机の傍らに寂しい影をつくつてゐる。

[やぶちゃん注:「私の娘」養女であった小学校六年生であった下島行枝さん。肺炎で急逝した。実はこの前後の部分は、先の「芥川龍之介書簡抄132 / 大正一五・昭和元(一九二六)年四月(全) 八通」の「大正一五(一九二六)年四月九日・田端発信・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・四月九日夜 市外田端四三五 芥川龍之介」で電子化して、注をつけてあるので、是非、見られたい。

「脇本樂之軒」(わきもとらくしけん 明治一六(一八八三)年~昭和三八(一九六三)年)は美術史家。山口県出身。本名は十九郎(そくろう)。藤岡作太郎に国文学、中川忠順に美術史を学び、大正四(一九一五)年、美術攻究会(後の東京美術研究所)を設立し、昭和一一(一九三六)年には機関誌『画説』(後の『美術史学』)を創刊した。昭和二十五年、東京芸大教授。重要美術品等調査委員・国宝保存会委員も務めた。著作に「平安名陶伝」がある(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。」

「菅氏」菅虎雄(すがとらお 元治元(一八六四)年~昭和一八(一九四三)年)。ドイツ語学者で書家。芥川龍之介の一高時代の恩師。名物教授として知られた。夏目漱石の親友で、芥川龍之介も甚だ崇敬し、処女作品集「羅生門」の題字の揮毫をしたことで知られる。「芥川龍之介書簡抄19 / 大正二(一九一三)年書簡より(6) 十一月十九日附井川恭宛書簡」の私の注を参照されたい。]

 遺骨は鄕見信州上伊那郡中澤村字原區の、恰度村の臍にでも相當する丘の裾の墓所に埋葬した。當時芥川室生久保田の三氏から贈られた悼亡句は、早速娘の晚年の手すさびに成る、刺繡の薔薇の花を配して帛紗《ふくさ》に染めぬき、學校の先生朋友知人そのほか緣故の方々ヘ記念として贈つたのであつた。その悼亡句は

   更けまさる火かげやこよひ雛の顏   龍之介

   うちよする浪のうつつや春のくれ   万

   若くさの香の殘りゆくあはゆきや   犀 星

 その後私の考案になる墓碑を建てたのであるが、材は鄕里三峯川《みぶがは》產の堅質《けんしつ》できめのこまかい光澤ゆたかな靑石を撰び、刻は久しく谷中天王寺前で修業したといふ石工の技術、表面の戒名は私の自筆、その裏面に三氏の俳句を肉筆さながらに彫刻したもので、一寸類の尠ないハイカラな形ちと趣きを現はした墓碑だと思つてゐる。

 この墓碑が建てられたといふことが知れると、文學好きな地方靑年や學校の敎師諸君なとが見に來るばかりでなく、紙に摺つて持ち歸る人さへ多く、今では一寸名高いものゝ一つになつてゐるさうである。

            ×          ×

 私の親しい友人に北原大輔といふ人物がゐる。藝術學校の邦畫科出身であるにも拘はらず、畫かきにならずに現に帝室博物館美術部陶磁器の主任を勤め、その道の天才としてかくれもない有名なもので……而もまた中々の變り種である。どう変つてゐるか……?一枚の端書を書くのに七八枚を費やすことがあつたり、外出の誘ひ出しにいつて便所へ這入つたのを見たら、一度自宅へ歸つて休息してから出なほして恰度いゝ、といふ變り方である。

[やぶちゃん注:「北原大輔」「北原大輔 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)のこちらの記事によれば、『陶磁史研究家、文化財保護委員会専門審議会専門委員北原大輔は』昭和二六(一九五一)年五月二十二日、『脳溢血のため』、『北区の自宅で逝去した。享年』六十二『歳。明治』二二年五月十七日、『長野県下伊郡郡に生れ』、大正七(一九一八)年三月、『東京美術学校を卒業、同』十一年七月、『帝室博物館に入つて以来』、昭和一三(一九三八)年十一月に『監査官補を退くまで勤務し、引続き』、『学芸委員を仰付かつた』同十五年一月、『重要美術調査委員を依嘱され、戦後』の昭和二五(一九五〇)年十二月には、『文化財保護委員会専門審議会委員を命ぜられた。戦前』、『東京美術研究所、又』、『日本陶磁協会にも関係した』とある。]

 私は嘗て北原氏を芥川氏に紹介するために、ある夏の夕方つい近いところの澄江堂へ同伴したのである。つがれた冷酒を舐めながら、滾々として盡きない談話は翌午前一時になっても終熄する氣色がない。私は睡魔に堪へずお先きにご免を被つたのであつたが、翌朝氣になるので訪ねてみると、いま歸つたといふのが午前の七時である。――芥川さんは中々面白い話をする人で……などとニヤニヤしてゐるではないか、一體初對面の人のところで徹夜をして憚らぬ北原氏は、さぞ不敵な面構へでもしてゐるかと思へぱ、その實一見女にしても見まほしい蒲柳のやさ男なのである。

 このやさ男は見かけによらぬ中々の酒豪で、今でこそ洒量大いに減じ、人物として重厚溫雅の氣品を加へたが、靑年時代は相手さへよければ二三晝夜ぶつ通して飮み明すことなど平氣なもので、然も論議飽くまで强靭、敢て人に屈することを知らない剛《かう》のものだつた。彼の好敵手脇本樂之軒とは、獻酬夜を徹することも屢々であつたが、あるときの如き論爭盡きざるがため遂に腕力をもつて解決せんと、見るからに堂々たる偉丈夫樂之軒と格鬪し、而も一步も讓らず互に力盡きてはじて和解の飮みなほしをしたといふ珍話もある。

 京都では自分の宿泊してゐる宿屋の所在を忘れ、とんだドン・キ・ホーテを演じたり、また洗足の友人を訪ねての歸りには電車に寢込んで、山の手省線を二三回廻つて終電の田町で逐ひ出されやりしたさうである。

 分けても有田伊萬里の古窯蹟發掘に出かけたときには、袴羽織に日より下駄、どこの旦那かと思ふやうな風體をして、自ら鋤《すき》を把《と》るといふ三昧《ざんまい》ぶりを見せ、人夫の疲勞も何のその、雨中提灯の光りで夜の十時過ぎまで作業を强行し、ヅプ濡れの泥まみれとなつて僻村の一軒荼屋にころげ込み、衣類を乾かしながら地酒のまづさをつくづく味ひながら、蚤にさゝれて夜を明かしたといふのだから、如何にも北原式を遺憾なく發揮したわけである。

 芥川氏は北原氏のすみきつた徹見力と外柔内剛、人にも物にも容易に許さぬ奧そこの粘り强さを賞揚し、――我々小說家の中には、あゝいふ飛び放れた偉いものはゐない……といつてゐたのだつた。

 北原氏は元來小說の食はず嫌ひで、――芥川さんは非常に頭のいゝ學者で而も得難い人物だが、あの人にしてなぜ小說なんか書くのだらう……實にをしいものだ、といつてゐたでは何になつたらと聞けば、――大學敎授にでもすると素的《すてき》だがなあ……と、いふのであつた。

 大觀畫伯は芥川氏を俺の弟子にならんかと勸め、北原氏は大學の敎授にしたいといつてゐるが、この優れた兩《りやう》象形《ぞうけい》藝術家の文學者芥川龍之介に對する態度は、一寸輿味ある問題だと思つてゐる。

 

 これもしたしい交友の變りだねに、クリスチアンの人室賀文武《むろがふみたけ》春城《しゆんじやう》いふのがゐる。これはもと芥川龍之介君の生家畊牧舍《こうぼくしや》の牛乳搾りをしながら、政治家を志して勉學したのださうであるが、當時乳兒の芥川氏を背負ひ愛撫措《お》かなんだといふ因綠の人物である。

 その後政界や政事家といふものゝ腐敗の狀態に、つぐづく愛想をつかし飜然、彼《か》の有名な宗敎家内村鑑三先生の門に入り、熱烈なるクリスチアンとなつたのであるが、彼は牧師的の宗敎家たるに甘んぜず、專ら實踐的な行動を志すのあまり、暫く行商生活などを送つたさうであるが、この間《かん》詩人の一面をも發揮して俳道に精進し、既に二十年以前に春城句集の發表をしてゐる。また久しく銀座の米國福音會社にあつて事務やら宿直やらの任に服し、傍ら俳句を作つてゐたが、昭和七年たしか六十五歲で會社を辭し、多摩河畔に一小庵を卜《ぼく》して神に仕へながら讀書と俳句に餘念なしといふ、一寸羨やましい仙人生活を營んでゐる。

[やぶちゃん注:「春城句集」大正一〇(一九二一)年警醒社書店刊。芥川龍之介が「序」を書いている。国立国会図書館デジタルコレクションの原本のその「序」をリンクさせておく。これは、室賀の晩年の状況を記した自筆書簡が引用される、敗戦後に書かれた『恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その31) /「三十一 室賀老人のこと」 附・芥川龍之介の室賀文武「春城句集」の序』で電子化もしてある。]

 彼は妻子なくまた親類らしい親類もなく、洵《まこと》に天涯孤獨の……いや神と共にありといつてゐる一俳人である。常に炊事の煩《はん》を避けて餅や芋や菜つ菜や果物を常食とし、飯はよくよく食ひたいときのほか炊かぬといつてゐる。兎に角一ケ月六七圓の生活費で充分だといふのだから、その簡易生活のほどがわかると思ふ。

 彼が多摩河畔に居を卜するとき、――何をして生活するかと聞いたところが、自分は節約生活さへすれば、生涯人の厄介にならぬだけの蓄財がある。即ち食ふに事缺く心配はないつもりだから、神に仕へる傍ら俳句を作る。そして、聞く人があつたら神の道を說いて聞かせたいが、聞くものがなかつたら、多摩の川原の石ころにでも說いて聞かせるといふから「石に說くひじりもをはす櫻かな」といふ即興を贈つたころが、非常に喜こんで現に軸に仕立て掛てあるさうである。彼は最近その後の作句を撰び、第二句集を自費出版するさうで、私に題簽を書けといつて來てゐる。

[やぶちゃん注:「第二句集」本篇が公開された三ヶ月後の昭和一〇(一九三五)念五月に「第二春城句集」として向山堂書房から刊行されている。国立国会図書館デジタルコレクションの表紙画像はここ。而してこの標題のそれは、下島が言った通り、彼が揮毫したものである。同書の目次の前のある室賀の「附言」の最後の条を見られたい。]

 彼はさすが靑年時代政事家志望でありまた宗敎家だけあつて、今でも社會事業や國際關係などには一寸注意を拂つてゐる。一昨年の暮には米國移民法やそのほか日本に對する米國政府の態度があきたらるとろこ[やぶちゃん注:「ところ」の誤植。]があるといふので、恩師内村鑑三全集の内の英文二卷に自分の意見を添へ、親しくルーズベルト大統領に送つだのであるが、昨年一月その返事があつた。譯文は――

 

 親愛なる室賀殿

 大統領は十二月一日附貴殿の御書翰を讀みて大いに心を惹かれ御書を下されし事に對し衷心御禮申上ぐべき旨私に命ぜられ候大統領は貴殿が御親切にも御送呈下されし故内村鑑三氏全集中の二巻を有難く拜受仕り良き機會を得て之を讀まんと願ひ居り候大統領は貴殿の御友誼と御好意のこの表明に對して眞實感謝仕り候 敬具

     ワシントン白堊館にて 秘書

           エム・エー・ルハンド

  一九三四年一月十一日

 多摩河畔の見るもいぶせき草庵に隱れ、齡七十近い殉敎者のやうな一俳人が、何んのためにかひそやかに、斯ういふ粘滑油の點滴を試みてゐるといふことを誰が知つてゐるであらう……。

          (昭和一〇・二・五・中央公論)

[やぶちゃん注:室賀のこのルーズベルトへの書信と返答のことは、かなり前に知っていた。しかし、芥川龍之介の死後の話であり、特にそれを挙げるべきとは私は思わなかっただけである。しかし、ここでこうした室賀文武の行動がいくたりかの人に新たに知られ、彼の俳句が読まれ(私は残念ながら評価していないが)、その人の再評価がなされれば、芥川龍之介もまた、喜ぶであろう。]

2023/04/11

佐々木喜善「聽耳草紙」 三六番 油採り

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

      三六番 油 採 り

 

 或所にひとりの體位(カラナキ)(怠者《なまけもの》)[やぶちゃん注:前がルビで、後は本文。]があつた。甘い物を食つて、ただ遊んで居たいと思つて、觀音樣に行つて願をかけた。そして七日七夜の夜籠《よごもり》をして愈々滿願の日の前夜、觀音樣が夢枕に立つて、お前の願(ガン[やぶちゃん注:ママ。])は承知した。明日の朝起きたら前の野原を、どこまでもどこまでも眞直ぐに行つてみろと言はれた。これはしめたと思つて、其の男は翌朝いつもよりは早目に起き出して、觀音堂の前の野原の一本道を何所までも何所までも步いて行つた。行つたば行つたばと遂々(トウトウ[やぶちゃん注:ママ。])海の邊(ホトリ)へ出た。其所にエエザマナ(見窄《みすぼ》らしい)一軒家があつた。男が其所へ立寄つて見ると、白髮《しらが》ぼツけの婆樣が一人《ひとり》爐《ひぼと》にあたつて居た。男は婆樣々々、此邊に甘い物を食つて、ただ遊んで居る所はなかべかな申シと訊いた。すると婆樣は、在(アン)ます在(アン)ます。今直きにさういふ島さ渡る船が立つところだから、あの船に乘つてゲと言つた。見るとほんとに渚に一艘の船が繫がつてゐた。婆樣は爐から立上つて、ざいざい船頭々々と呼ぶと、船の中から船方が出て來た。そしてお客は此人か、さあさあ早く船サ乘つた乘つたと言つた。男が船に乘ると直ぐさま矢のように走つてある島に渡つた。[やぶちゃん注:「ざいざい」意味不明。岩手県内陸部で「サイサイ」があるが、「しまった!」の意なので、違う。一種の呼びかけの感動詞か?]

 島の上には、鐵の門に鐵の塀垣を廻(メグ)らした大きな構への館があつた。その門前に船が着くと中から人が出て來て、よく來てくれた、よく來てくれたと繰返しながら、館の内へ連れ込んだ。そしてその晚はそれこそ山海の珍味を並べ立てて御馳走をしたり、絹の布團を敷いて寢かせたり、下にも置かぬ饗應(モテナシ)をした。男はいい氣持ちになつて、いつまでも其所に泊つて居た。

 ところが或夜、隣室(トナリベヤ)で人間の唸き聲がするので、夜半に目を覺して、襖(フスマ)の𨻶から覘《のぞ》いて見ると、一人の男が桁《けた》から倒《さか》さまに釣るし下げられて、其の下には炭火がカンカンと燃えおこつてゐた。そしてその傍には恐ろしい形相をした男が、大きな皿を差しのべて、その倒《さかさ》づりになつた男の目鼻耳口から滴(タ)れる人油《じんゆ》を採つて居た。釣《つる》された男はハア(もう)靑黑くなつて死ぬばかりになつて居た。油取の男は、ああ隣室の男もよい加減に油が乘つた時分だから、明晚は彼《あ》の男の番にするベアと獨言《ひとりごと》を言つた。そのことを聞いた男は、これは大變だと膽を潰して、その夜あわてて館から遁げ出した。[やぶちゃん注:「人油」小学館「日本国語大辞典」に「じんゆ」で項立てされてあり、『人体のあぶら』として、例文を浮世草子の「本朝二十不孝」(一六八六)年の二から引き、『逆倒(さかさま)に釣揚』、『手足の筋をとりて、人油(じんユ)を絞られしは』、『生(しゃう)をかへずに地獄の責にあひぬ』とあった。]

 その物音に、館中の男どもは氣がつき、五六人して男を追(ボツ)かけて來た。男はまるで狢(クサイ)のやうに土を這つて逃げた。そして渚邊《なぎさのほとり》へ來て見ると幸ひに船が繫がつてをつたから、それに飛び乘つた。綱を解いて沖へずつと押出《おしだ》して、漕ぐが漕ぐが、漕いで漕いでやつと對岸(ムカウギシ)の渡場《わたしば》まで漕ぎ着けた。そして先の一軒屋へ駈込《かけこ》んで、爐傍《いろりばた》にいた婆樣に譯を話し、どうぞ何所でもいいから俺を匿まつてくれろと言ふと、婆樣は、それはならぬ。實はこの婆々は彼《あ》の人買島《ひとかひじま》の人達のお蔭げで、斯《か》うして其の日の暮しをして居るのだから、お前一人を助けることはなり申さないと言つた。けれども男が强《た》つて泣きながら賴むと、婆樣はそんだら此の火棚《ひだな》の上の橡俵(トチダラ)の中サでも入つて居《を》れやと言つた。そこで男は大急ぎで火棚の上の橡俵の中に入つて匿れた。[やぶちゃん注:「狢(クサイ)」小学館「日本国語大辞典」に「日本国語大辞典』「くさいなぎ」の項があり、『野猪』を漢字で当てて、『「いのしし(猪)」の古名。一説に、「たぬき(狸)」の古名ともいう』とあった。ここはタヌキの意であろう。調べたところ、公的な方言資料に、岩手県大槌町(おおつちちょう:グーグル・マップ・データ)の方言で「狸」を「くさい」と呼ぶことが判った。ここは東部が太平洋に接しており、本篇のロケーションとしても、ぴったりくる。「火棚」囲炉裏の上に天井から吊るした棚。「天棚(あまだな)」「天皿(あまざら)」「火天(ひあま)」「あまだ」などとも呼ぶ。「橡俵」実を灰汁抜きして食用にするムクロジ目ムクロジ科トチノキ属トチノキ Aesculus turbinata を保存する俵。以下で判る。]

 男が橡俵の中に入つて匿れるか匿れぬかの中《うち》に、追手の者どもがどやどやと精(セ)きらして駈込んで來た。そして婆々(バアバア)此所さ男が逃げて來たべ、あの體泣(カラナキ)男が、たしかに此所さ逃げ込んだのを俺らア見かけて來た。さあ出せ出せと大きな聲で言つた。けれども婆樣は俺はそんな者は見なかつたと言つた。すると又荒くれ男どもが、何吐(コ)きやがるこの糞垂(クソタレ)婆々が、あの體泣男を出さなかつたら其分にはして置かねえぞと言つた。さう言ふ聲が餘り大きく恐しいので、一體どんな奴等が來て居るべと思つて男が橡俵を少し押開《おしあ》けて見るべとすると、何しろ橡の實があんな丸いころころしたものだから、ポロリと一つ落ちて行つて、下で今怒鳴(ドナ)り散らして居る男の額頭(ヒタヒカシラ)にコチンと當つた。これヤと言つて上を見上げると、ハツタリと俵の中の男と顏を見合せた。あれヤ何でアと言ひしな、男は顏を引ツ込ませる隙《ひま》もなく火棚から引きずり落された。

 ……と思つて體泣男は夢からはツと覺《さ》めたとさ。すると自分が夜籠をして居た觀音堂の高緣から眞倒(マツサカ)さまに轉び落ちたところであつたと。ドツトハラヒ。

  (橡でも何でもなくただの古俵とも言い、又古俵から
  煤《すす》がこぼれ落ちて追手の男の眼に入つた
  シヲに見付けられたと謂ふやうにも話されてゐる。)

大手拓次 「お前は」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。]

 

 お 前 は

 

お前は笛を吹きながら死んでゐる、

野のあをい綸子の上に。

 

お前のすてて行つた紅い薔薇のなきがらは、

今でも今でも、わたしの窓かけのなかにねむつてる。

 

お前の幽靈のやうな腕に抱かれてゐて、

そのふつくらとした匂ひの脉にききとれたい。

 

けれどお前は、とほくの方へ、

古い、年をとつた

馬車のラツパの音(ね)のやうに、

とほくの方へ。

 

[やぶちゃん注:創作年は初回を参照されたい。個人的には妙に惹かれる一篇である。

「綸子」「りんず」。既出既注

「脉」は「みやく」(みゃく)で「脈」の異体字。底本もこの字を用いている。]

大手拓次 「繪すがた」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。]

 

 繪すがた

 

白い寶玉の手に掘られた土のなかに

みどり色の光の笑ふ部屋がある。

つつましい女の情はうつうつとし、

やはらかに圍んだセロの塗壁は

春の宵のやうに歌をうたつてる。

 

緋綸子のなよなよしい

戀のきものが

肌の息にうかんでくる。

 

ああ、まどかなまどかな

愛の生ひたち。

 

[やぶちゃん注:創作年は初回を参照されたい。

「セロの塗壁」「セロ」は「春の宵のやうに歌をうたつてる」とあるところからは、楽器のチェロか。「チェロの塗壁」がよく説明は出来ないが、この詩全体が幻想の部屋であってみれば、チェロで作られた塗り壁という非現実的なシュールなイメージとして非合理な対象の接合・ぶつかり合いを耽美的に味わってでもいるのであろうか。考えて見れば、「戀のきもの」も同様と言えよう。

「緋綸子」「ひりんず」。緋色の綸子。「綸子」は既出既注。]

大手拓次 「死の繪姿」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。]

 

 死の繪姿

 

象牙の白い玉がむれてとぶなかに

お前の身は波がしらのやうにもまれ、

千鳥のたはむれ、

泡のおどろき。

 

死は正裝のはなやかさに

端然と滅亡のおとづれをささやく。

 

[やぶちゃん注:創作年は初回を参照されたい。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 三五番 癩病

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

      三五番 癩 病

 

 飛驒の工匠《たくみ》は偉《えれ》え人であつた。一日に七ツの觀音堂を作りにとりかゝつた。するとその偉さにドンコロ(木の切端)が弟子入りをした。又それよりも小さな切端はその又弟子に、弟子ア弟子イ弟子ア弟子イと順々に次から次へと鋸屑《のこくづ》の果てまで弟子入りをして一生懸命に働いた。それでたつた、一日に御堂の七ツも作れたのであつた。

 最後の御堂を建てる時であつた。今まで人間の姿になつて働いて居たドンコロや鋸屑の魂《たましひ》を下げてからぶツつけやう[やぶちゃん注:ママ。]と思つて、一枚の板を打ち付けずに置いて、弟子どもの數を檢べて居たが、そのうちに鷄が鳴いた。それでドンコロや鋸屑等はどうぞこのまゝ人間にして置いて下さいと再三歎願した。工匠も終《つひ》に斷りきれず、お前たちは元々木である。お前たちは何時かは腐るものである。もしそのまゝ人間の形をしていても腐る病《やまひ》にとりつかれる。その病ひはドス(癩病)といつて自分から他人にウツルものではない。自分から出て自分で腐る。お前たちはお前たちで一緖に廻してやる。斯《か》う云ひ置いてから工匠は雲に乘つて(天へ?)行つた。最後の一枚は打ち殘したまゝであるが、殘された板はその後《のち》誰が打つてもハマらなかつた。

 この時から癩病と云ふ病氣が出來た。そして又マギといふ、その病ひの出來る家筋《いへすぢ》も出來た。

 それに續く話がもう一つ。ドス病ひには土《つち》ドスと云ふのがある。それはその時鋸屑に土が混つて居たのを人數が足りないと思つて魂を吹ツ込んで働かした。それでこの分のドスは體が土色に腐つて死ぬ。

 飛驒の工匠ほどの偉さでも、一人では一日に七堂も作れぬので、そんな物にまで魂を吹ツ込んで手傳《てつだ》はしたのである。

  (陸奧、八戶の奧南新報に載つた村の話の中から
  の摘要。昭和四年十月十六日の分。又陸中岩泉地
  方でも同樣の話を聽いたので集錄した。昭和五年
  九月二日の分。)

[やぶちゃん注:疾患起源伝承の一つ。工人が木偶(でく)に魂を入れて使役したという伝承も汎世界的にある伝説である。「癩病」は誤った甚だしい差別観念を纏っているので、現在は使ってはならない。「ハンセン病」である。にも拘らず、その病原菌を「らい菌」と今も呼び続けているのは、私には納得できないでいる。「ハンセン病菌」とすべきである。同疾患とその差別史については、繰り返し、注を附してきたが、一番新しい『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「三 起請文の罰の事」』の『「白癩黑癩(びやくらいこくらい)」の文(もん)を書入れたり』の私の注を、必ず、参照されたい。

「ドス(癩病)」ウィキの「ハンセン病」の「日本の古い呼称」の項に、『奈良時代に成立した』「日本書紀」や「令義解」(りょうのぎげ)には、『それぞれ「白癩(びゃくらい・しらはたけ)」という言葉が出ており、現在のハンセン病ではないかとされている』。『「令義解」には「悪疾所謂白癩、此病有虫食五臓。或眉睫堕落或鼻柱崩壊、或語声嘶変或支節解落也、亦能注染於傍人。故不可与人同床也。」と極めて具体的な症状が書かれており、これが解釈の根拠になっている。この解釈が正しいとすると、これが世界最古の感染症に関する記述となる。ただし、ハンセン病以外の皮膚病を含んでいるという可能性も指摘されている』。『鎌倉時代になると、漢語由来の「癩(らい)」や「癩病」が使われるようになった』。『江戸時代になると、やまとことばで「乞食」を意味する「かったい(かたい)」という言葉も使用されるようになった。この言葉は、一般には江戸時代まで使われたが、第二次世界大戦後まで使用された地域もあった。方言としては「ドス」』()、『「ナリ」、「クサレ」、「ヤブ」などの蔑称も使用された。沖縄において』は、『ハンセン病、或いは患者は』、『「クンキャ」と呼ばれ、忌避される存在だった』とある。

「マギ」これは、小学館「日本国語大辞典」にも載るが、小学館「日本大百科全書」の「まき」がその語源(特定の集団を名指す限定使用として)であろう。則ち、『同じ村内の本家分家仲間(同族団)の呼び名』で、『エドウシ、イッケ、ウチワ、イットウ、カブウチ、ジルイなど同姓・同系の家仲間の方言の代表名として、現在は』、半ば『学術語にもなっている。しかし』、『マキを広く血筋につながる親族の範囲に用いる地方もあって、かならずしも実際の用例は「同族(本家分家仲間)」に限られてはいない。東日本一帯に広く分布する親族関係用語で、おそらくは「まとまり」を意味する古語に源流するところであろうが、広く血筋、血統、血縁による仲間を意味したり、あるいは同一村内の同系出自の家々(同族)の仲間だけに限定するのは、それぞれの地方の実態に即して、のちに分化したのであろう。マケ、マギ』()、『マゲともいうが、その語源は明確ではない』とあった。ともかくも、この記載によって、既に古くから、「ハンセン病の血筋というものがある」という誤った差別風説が存在したことが判る。また、明治初期、西洋医学の流入に伴い、半可通の者が、「ハンセン病が遺伝する」という、とんでもない非科学的な流言をも作り出したりもしたのである。

「陸中岩泉地方」現在の岩手県下閉伊郡岩泉町(グーグル・マップ・データ)。龍泉洞で知られる。釜利谷の男子クラスの教え子たちよ、二年生の時、担任として、一緒に行ったのを覚えてるかい?……あの時は、ほんに、楽しかったなぁ!……。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 三四番 大工と鬼六

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

      三四番 大工と鬼六

 

 或所に大變流れの速い大川があつた。なんぼ橋を架けても忽ち流されるので、村の人達も困つて居た。いろいろ寄合ひで協議をしたあげく、近鄕で一番名高い大工に橋架けを賴むことにした。

 その犬工は腕前がよかつたから、ウンと返辭をしたが、内々心配でたまらなかつた。それで橋を架ける場所の淵の岸へ行つて、つツつくぼ(うずくまつて)してじつと流れる水を見て居た。すると水面に泡がブクブクと浮んで、ブツクリと大きな鬼が現はれた。そして、この邊での名高い大工どん、お前は何を考へて居れアと言つた。大工は、俺は今度ここへ橋架けを賴まれたから、それでどうかして立派な橋を架けたいものだと思つて、こうして考へて居ると云ふと、鬼は笑つて、お前がいくら上手な大工でも此所サ橋は架けられない。けれどもお前の眼玉をよこしたら、俺がお前に代つてその橋を架けてやつてもいゝと言つた。大工は俺はどうでもよいと云つて、その日は鬼に別れて家に歸つた。

 大工が次ぎの日《ひ》川へ行つて見ると、橋が半分架つてゐた。またその次ぎの日行つて見れば橋がもはやちやんと立派に架け上つてゐた。魂消《たまげ》て見て居ると、其所へ鬼が出て來て、サア眼玉アよこせツと言つた。大工は待つてケロと云つて宛(アテ)もなく山の方サ逃げて行つた。そして彼方此方《あちらこちら》と步いて居ると、遠くの方から童(ワラシ)衆ドの唄を歌ふ聲が聞えて來た。

  早く鬼六ア

  眼玉ア

  持つて來ばア

  ええなアー

 大工はそれを聞いて、本性《ほんしやう》に返つて家へ還つて寢た。その次ぎの日大工が川へ行くと、鬼が出て來て早く眼玉アよこせツと言つた。大工がもう少し待つてケロと言ふと、鬼は、お前がそれ程俺に眼玉をよこすのが厭《いや》だら、俺の名をアテてみろと言つた。大工はよしきたお前の名前はナニソレだと、わざと出まかせを云ふと、鬼は喜んで、そんでア無い、なかなか鬼の名前が言ひアテられるもんぢやないと言つて笑つた。大工は又ナニソレだツと言つた。ウンニヤ違ふと鬼は言つた。大工は又ナニソレだツと言つた。鬼はウンニヤ違ふ違ふと言つた。大工は一番おしまひにえらく大きな聲で、

    鬼六ツ

と叫んだ。そうしたら鬼はポツカツと消えて失《な》くなつた。

  (膽澤《いさは》郡金ケ崎《かねがさき》の老婦の話を
  小山《おやま》村の織田秀雄氏が聽いて知らしてくれた
  ものの一、昭和三年の冬の分。)

[やぶちゃん注:「鬼六ツ」の四字下げはママ。なお、「盛岡市上下水道局」公式サイト内に「盛岡弁で聞く水にまつわる岩手の民話 ~水と私たちの今、昔~」があり、畑中美耶子さんの朗読になる、本話の話が「2」の「大工と鬼六」で聴ける。是非、お聴きあれかし!

「膽澤郡金ケ崎」現在の岩手県胆沢郡金ケ崎町(グーグル・マップ・データ)。

「小山村」現在の奥州市胆沢小山(同前)。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 御伽と云ふ語

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。今回は、ここ

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。]

 

     御伽と云ふ語 (大正三年七月『鄕土硏究』第二卷第五號)

 

 御伽と云ふ語は鎌倉時代に始めて現れたらしいとて、志田君は「源平盛衰記」や「增鏡」を引かれた(『鄕土硏究』第一卷第五號二六四頁[やぶちゃん注:「選集」ではここに編者注があり、『志田義秀「邦語御伽噺考」』とある。])。然《しか》るに、「寶物集《ほうぶつしふ》」卷五に、佛の本生《ほんじやう》譚とて、「羅摩延傳(ラーマーヤナ)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。以下の二箇所も同じ。]」を載せおる中に、大王(ラーマ)、其后(シーター)と、深山に居《を》る時、龍王(十頭羅刹ラヴァーナを指す)、后を奪はんとて王を紿《あざむ》く所に、「一人の梵士、出で來たりて、『御伽つかまつるべし』とて、仕へ奉る。」とある。世に傳ふる如く、「寶物集」、果たして、治承頃、平康賴が筆《ひつ》したものなら、鎌倉時代の初めより少し先に、「御伽」てふ語が、既に行はれたのだ。尤も、康賴も、賴朝幕府を創立した後、死んだ人だが、件《くだん》の例は「盛衰記」や「增鏡」より早い者だ。

追 記 (大正十五年九月記)『鄕土硏究』第二卷第十號六三四頁に、本文に對し、山田孝雄氏の敎示あり。全文を出さう。曰く、『御伽といふ語の出處として南方氏は「寶物集」を引《ひか》れたるが、其《その》、佛本生譚は、七卷本のみに在《あり》て、二卷本、三卷本の「寶物集」には、孰れもみえず。然るに、右七卷本は、他の二種の本よりは、語法上、新しく見ゆる點、多く、後世の增補ある者と思はる。隨つて、「御伽」といふ語も、其增補の中《うち》なるべしと考ふ。右、一寸御注意迄に。』と。熊楠は、謹んで、氏の厚意を謝すると同時に、氏がこの序でに語法上の考察よりして、所謂、增補分が「盛衰記」や「增鏡」より、どれほど舊《ふる》く、若くは、新しきかを、敎え[やぶちゃん注:ママ。]られざりしを遺憾とす。

[やぶちゃん注:「志田」志田義秀(しだぎしゅう 明治九(一八七六)年~昭和二一(一九四六)年)は国文学者・文学博士(昭和一二(一九三七)年授与で、学位論文は「問題の點を主としたる芭蕉の傳記の硏究」)で俳人。富山生まれ。旧姓は藤井。俳号は素琴。岡山の六高、東京の旧制成蹊高等学校教授となり、また、母校の東京帝大や、國學院大で俳諧史を教えた。俳誌『懸葵』(かけあおい)『草上』(そうじょう)などの選者を務め、昭和七(一九三二)年には『東炎』を創刊・主宰した。著作に「芭蕉前後」、句集に「山萩」などがある。

「源平盛衰記」私は「げんぺいじやうすいき」と読むのを常としている。「平家物語」を誰かが増補改修した特殊な一異本。鎌倉中・末期の成立かと考えられている。

「增鏡」南北朝時代に書かれた歴史物語。作者未詳。当該ウィキでは、『成立年代については、確実な上限は』鎌倉幕府滅亡の『元弘』三(一三三三)六月で、『確実な下限は天授』二/永和二(一三七六)年四『月である』とある。

「寶物集」鎌倉初期の仏教説話集。元は後白河法皇の近習であった平康頼の作。治承年間 (一一七七年~一七八一年)の成立か。鬼界ヶ島から赦免されて京に帰った康頼が、嵯峨の釈迦堂(清凉寺)に詣でて、参籠の人々との語らいを記録したという結構を持つ。世の中の真の宝は何かについて語り合われ、まず「隠れ蓑」、次いで「打ち出の小槌」・「金(こがね)」と,順次に、これこそ第一の宝であるとするものがもち出されるものの、最後に、僧によって、仏法が第一の宝であると主張され、その僧が例話を挙げて、そのことを説明する構成となっている。康頼は、後、東山雙林寺(そうりんじ)に籠居して本書を著したとされる。彼は、その後、文治二(一一八六)年に、嘗つて尾張国にあった際、野間荘にある源義朝の墓に水田三十町を寄進して小堂を建てた功によって、阿波国麻殖保(おえのほ)の保司(ほし/ほうじ:これは中世の地域行政的単位である「保」の管理責任者を指す)になっている。法語的説話集の先駆けとなり、「撰集抄」・「発心集」などに影響を与えた。熊楠の略述したものは、国立国会図書館デジタルコレクションの昭和二(一九二七)年富山房刊のここで視認でき、右ページの後ろから二行目下方に問題の台詞が出る。また、所持する「新日本古典文学大系」版(吉川泰雄氏蔵本)は第二種七巻本で七巻本で最も保存度が高い伝本でとされるが、その二四一ページの十行目に『「大王のかくて行ひ給ふ事、希代(きたい)の事也。我、御伽つかまつるべし」』と出ている。

「山田孝雄」(よしお 明治八(一八七五)年~昭和三三(一九五八)年)は国語学者。論理学を採り入れて「山田文法」を構築し、「日本文法論」を著わした。更に「平安朝文法史」・「五十音図の歴史」で独創的な研究を行い、また、「平家物語考」・「国学の本義」など、国文学・国史学にも業績を残した。東北帝大教授・神宮皇学館大学長・国史編修院長などを歴任した。彼は熊楠より、八つ年下である。

「後世の增補ある者と思はる」山田氏には悪いが、「新日本古典文学大系」版の山田昭全(しょうぜん)氏の解説によれば、現在、七巻本も「後世」ではなく、康頼自身が増補したものと推定されている。よっかったスね、熊楠先生!

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「書籍と批評」

 

[やぶちゃん注: 底本のここ(本文冒頭の「德田秋聲氏」の始まりをリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。本パートは、皆、知られた作家ばかりであるから、特に作家注は附さない。]なお、このにある「澄江堂雜記」は、本書の電子化注の一番最初で既に終わっている。

 

 

      書籍と批評

 

 

 裝幀と著者

 

 自分は裝幀家の裝幀には倦怠を感じ、今のところ裝幀的な考案は行き詰つてゐるも同樣である。殊に畫家の裝幀はその繪畫的な詰屈以外には出てゐない。癖のある畫家の拵へ上げた裝幀がどれ程天下の讀書生を惱ますか分らないやうである。裝幀が畫家に委ねられた時代は、もういい加減に廢《や》められてもいい。裝幀に其内容を色や感じで現はすことは事實であるが、其書物の内容や色を知るものは恐らく著者以外に求められない。著者こそは凡ゆる裝幀家の中の裝幀を司《つかさど》るべきである。裝幀に一見識をもたない著者があるとしたら、それこそ嗤《わら》ふべき下凡の作者でなければならぬ。著者はその内容を確《しつ》かりと裝幀の上で、もう一遍叩き上げを爲し鍛へ磨くべきである。作者の精神的なものが一本鋭利にその裝幀の上に輝き貫いてゐなければならぬ。

 自分は日本だけに限られてゐる書物の「凾《はこ》」に就て時時考へるのであるが、「凾」はもはや「凾」以外に出られないことである。自分は「凾」の下の橫面に和本仕立の餘韻と便宜と[やぶちゃん注:ママ。「とを」の脱字を感じさせはする。]豫測し、そこに書物の名題を附けることにした。重ねて置いてもその書物が何であるかが分るからである。或意味で此「凾」は不經濟と不用との故に廢止する說も聞かないではなかつたが、日本の書物としての特徵ある凾はもつと進んでもよいが、決して廢止する必要はない。或は最《も》つと「凾」であるために美しく製《つく》らるべきであらう。大抵凾は小包用程度の實用品であるために、相應の美を持つ凝つた裝幀本でも、凾は見搾《みすぼら》しく[やぶちゃん注:ママ。普通は「見窄らしい」と表記する。]見るに堪へないハトロン紙張りである。自分は表紙に紙[やぶちゃん注:底本は「級」。誤植と断じ、「ウェッジ文庫」版で訂した。]を用ひても凾は布を用ひたいと思ふ位である。凾に寒冷絨張りをしたものは、岸田劉生氏裝幀の武者小路實篤全集であり、これが自分の記憶するところによれば凾に布類を用ひた最初であるやうに考へてゐる。[やぶちゃん注:「寒冷絨」「寒冷紗(かんれいしや)」(かんれいしゃ)と同義だろう。荒く平織に織り込んだ布のこと。「絨(じゆう)」(じゅう)は「厚い毛織物」を指し、江戸時代の「絨」は「じよん(じょん)」とも読んで、それは、輸入の毛織物の羅紗類で、少し品質の悪いものを指した。]

 裝幀の就中《なかんづく》卑しいものは徒らに金色燦爛たるもの、用なき色彩を弄んで塗りつけたもの又しつこい好みの混亂したもの等である。裝幀は澁い飽きない、見る程よくなる好みを打込むべきである。又別な意昧で凝らず謟《へつら》はずに中間的な淡泊な味《あぢは》ひと狙ひとで行くべきである。金ピカの裝幀の賤劣さは自分の常に慄毛(おぞけ)をふるふところのものだ。

 裝幀は精神的であり力の込められたもの程自分は好いてゐる。美しくあつても其爲に古さがあればよい。裝幀を靜かに見てゐると著者の面貌を髣髴する書物はないか、自分の裝幀に就て求めてゐることは常に此「一つの事」だけである。

[やぶちゃん注:現代の訳の分からぬベロベロと本巻きついているあの「帯」という奴を犀星が見たら、椅子を振り上げて怒るだろうなぁ。あなた、あの帯って日本にしかない、余計なイラつくものだって、知ってましたか? 四十三年程前、私の最初の教え子のお姉さんが日本語以外に六つの外国語を喋ることが出来、超有名大学の図書館司書をされておられたのだが、その方から、あの「『帯』を何んと英語に訳したらよろしいか、ご存知でしょうか?」と、妹を通じて質問された(私は図書館司書の資格も所持している)ので吃驚した。その方が謂わく、外国にはこのような(帯)物はどこにもない、とのことであった。売らんかなの出版社が安易に作ったゴミのような異物なのである。あんなモノこそ、廃止すべきだね。]

 

 作家と書物

 

 自分は一年の間に一册位の書物を出したいと思うてゐる。尠《すくな》くとも十年位は人人に愛讀されもし秘藏もされたい望みも持ち、さういふ書物出版の場合には良心を打込んでゐる。「庭をつくる人」もその意味で百年位は人人に讀まれる作家的權利を自分は持ち、又今度出た「芭蕉襍記《ざつき》」も同時に芭蕉の光茫とともに、百年の後代を負ふことは勿論であらう。若し自分が不幸にして一卷の書物すら出すことができないとしたら、自分の作家運の弱さに據るものであらう。幸ひ自分は平均此一卷あての書物を世に送ることのできるのは、自分の仕事榮《しごとさかえ》を感じる所以《ゆえん》である。かういふ場合出版書肆の有名無名なぞ問題ではない、自分の書物を出版する程の出版書肆は、自分の著作の殘る意味で、その書肆も自分とともに後代への橋渡しをしてくれるであらう。

 凡ゆる作家詩人はその愛情のこもつた作集を世に送る爲に、一年に一度位は寢食を忘れて書物をつくるべきである。書物などは子供らしい等と言ふことはならない。作家が作を爲すことは前途に彼の後世へ呼びかける、「書物」の纏め上げがあるからである。片片たる雜稿の中にも我我の作家生活の苦衷を物語るものは、誠に一卷の姿を爲し裝ひを纏め上げた時、その雜稿もなほ榮光を負ふべきものである。作家はその半生に於て、誠に好き數卷の書物を著はして置くべきである。彼が世に容れられなくなつた時にも、自ら彼自身を嘆くべき數卷を抱擁し得ることもでき、顧みて自らの孤高淸雅をも持つことができるからである。

 作家が己の著書に情熱を失ふことは、その乾燥された情熱に既に退嬰《たいえい》的な或時期を見なければならぬ。自分の著書がどうでもいいやうな作家ずれは、自分の好まないところである。凡ゆる作家は新鮮な喜びをその著作に經驗することに據つて、益益よき書物の人たらねばならぬ。何人《なんぴと》もその著書によつて喜びを頒《わか》ち合はねばならない。よき作家はよき書物を殘してゆくことは、既に彼がよき作家であることを證明してゐるやうなものである。その著書を見よ。そして彼が作家としてどの程度の高さにゐるかを測るべきであらう。いい加減の作者に決してよき書物が殘る筈がないのである。

 自分は他の作家とともに益益よき書物を時時出版し、これに據る作家的な喜びを經驗したい願ひを何時も持つてゐる。併乍《しかしなが》らかういふ自分にも書物はその出版迄の樂しみであり、市上に出るころは自分と離れた感じで、校正中の意氣込みが無くなり、何か淋しい氣がする。初めて自分の書物が世に出ることに依つて彼と自分とが昨日の親密さを失うてゐることも發見するのである。

 元祿の昔、蕉門書肆に井筒屋庄兵衞といふのがあつた。その時代ですら顧客の尠い俳書を出版し、今は珍籍に加へられてゐる。彼も元より一書店に過ぎないが、上木《じやうぼく》困難な時に敢然として自ら蕉門俳書の出版に從事したことは、彼自身發句人だつたばかりではなく、矢張りその犀利《さいり》の眼底に既に遠い後世を托《たの》み得たためであらう。

[やぶちゃん注:「犀利」文章の勢いや知力の働きが鋭いこと。また、真実を鋭く突いているさまを言う。]

 圓本流行は苦苦しい輕佻な此時代に、書物を階級的所藏慾から解放したことは事實であつたが、到底十年の見越しのついたものではなかつた。寧ろ圓本は後世書屋の一隅に埃とともにあるべきもので、珍籍として保存されることは絕對に無いであらう。心ある讀書生の書棚には最早圓本はその背中をならべられてはゐない。唯《ただ》古典の復古的事業のみが其圓本的事業として所藏もされ、愛惜されるに違ひない。最近の「隨筆大系」の如きものは何よりも珍籍とされるであらう。

 漱石全集の圓本は舊版を所藏する自分に、書肆の德義を疑はしめ、又俳書大系の圓本も亦高價な舊版所藏の自分を不愉快にした。書肆はその自家の版行に自信を持ち、飽迄《あくまで》時代苦を游泳すべきである。徒らに流行の中にあつて巨利を博するために、よき讀者の心臟に影響してはならぬ。元祿の昔、二百年後をも睨んだ井筒屋庄兵衞を今は求むべきではないが、書肆もまた井筒屋の霸氣を持つことも、せち辛き現世にあつてこそ又必要なことであらう。

 圓本的運命の自覺症狀は却て出版界をもつと眞面目に、手で愛撫するやうな書物を求めるであらう。尠くとももはや天下の讀書生の求めるものは、圓本の粗雜な製本ではなく、じつくりと机の上で眺めたい書物である。押入の隅などにあつても忘れるやうな書物ではない。よき裝ひをもつ誠の友である書物の中に、彼等はその書籍の故鄕を指して急いでゐる。何と書物への憧れや喜びを失うてゐた時の欝陶しかつた事ぞ。彼等は昔、樹下にゐて繙《ひもと》いた好《よ》き書物を忘れてはゐない。書物の内容と裝幀とを結び合せたものが、何と我我に久しく遠ざかつてゐた事ぞ。――

[やぶちゃん注:共感出来る内容である。予言も当たっている。但し、十一年前以前、私は毎月コンスタントに、最低でも、五、六万円分の本を買っていたが、仕事をやめ、ネット世界にどっぷり浸かるようになってから、やっと三十五年間、死に積みにしてきた書籍のやっと半分以上までは、目を通すことが出來、しかもユビキタスによって、私は、最早、書籍を全くと言っていいほど、買わなくなった。しかし、淋しくはない。遠い外国の古い書物も、一瞬で読むことが出来るようになったからだ。犀星の初版本も、思ったより、高くないのは、買い手がすっかり減ったからだろう。本随筆集は昭和四(一九二九)年二月の出版だ。まだ百年には六年ある。そこは、ちょっと、犀星の望みは少し裏切られたかも知れないな。]

 

 「澄江堂句集」を評す

 

 澄江堂句集は故人の香奠返しとして、香花を供へた人人への高雅な配りものであつた。自分と故人澄江堂とは故人在世の折屢屢句集上板の事に言ひ及んで、自分は鄕里に和紙の出產地があり印刷も亦甚だ廉價である故を以て、自分の句集出來の後に故人も亦印刷の意嚮《いかう》を漏してゐた。併し風月の懊惱《あうなう》は君を君の好める鬼籍に選し、最大の樂しみだつた句集上板は君の一瞥をも煩はすことなく、遺族の手で印刷されたのである。

 故人の發句は曾て「新潮」誌上にこれを詳說したが、故人としての彼を見る時、その奧の方にある心得を悟達する爲に、更めて彼が奈何に發句道の達人者としての生涯の一端に觸れ得てゐたかといふことを考へて見よう。

 彼の發句は明治年間に於て子規や漱石、紅葉の諸家の俊英を以てするも、決して彼らの背後に立つものでなく、秋晴の中に巍峨《ぎが》として立つ一瘦峯《いちさうはう》としても、彼等の群峰《ぐんはう》を穩かに摩してゐた。後代明治の發句道に落筆する俳詩壇の新人は、先づ彼の發句を子規とともにその俳史の上に述說するであらう。彼が一個の小說作者である以外に發句道にいかに「靑き汗」を流した俳詩人だつたかを、念念絕ゆることなき縹茫《へうばう》の作者だつたかを嚙み當て索《さぐ》り當てるであらう。彼を元祿の靜か世にその世にその生を享《う》けしめ、蕉門の徒として存在せしめたならば彼は先づ大凡兆を越えたる作者たり得たであらう。[やぶちゃん注:「縹茫」用例がなくはないが、私は「縹渺」の誤記であろうと思う。「遙かに広いさま」を言う。]

  蠟梅や枝まばらなる時雨ぞら

  白桃や莟うるめる枝の反り

  茶畠に入り日しづもる在所かな

  野茨にからまる萩のさかりかな

  春雨の中や雪おく甲斐の山

 彼は改造社の講演旅行のため北海道へ旅行したが、歸來《きらい》先づ芭蕉の奧の細道の行脚は、元祿の當時では死ぬ覺悟で行かねばできぬ困難な旅行だつたことを、彼自身經驗することに依つて新しく發見したやうに自分に話してゐた。その時の發句であり彼の作句の最後の吟草は「旭川」と前書した左の穩和な一句であつた。[やぶちゃん注:「歸來」「帰って来てから」の意の副詞的用法。]

  雪どけの中にしだるく柳かな

 彼の發句に微塵も濁りを見ないのは、その稟性《ひんせい》に淸《さやか》さがあつたためであらう。何よりも彫琢を凝らした彼は或意味で彼の小說作品よりも、形式が狹小だつたためにより苦心したかも知れぬ。その全生涯を通じて百吟に猶足らない發句は、恰も凡兆が句生涯を通じて七十數句しか殘さなかつたのと同樣の苦汁である。

 彼は發句を餘技扱ひにはせずに、殆ど其打込み方は少しの弛《ゆる》みも見せてゐなかつた。何よりも我我の氣附くことは、あらゆる發句の眞實は作者がどれだけ其一句に打込み相撲《すまふ》うてゐたかと云ふことである。その意味に於て彼は堂堂と發句の宮殿裡に打込んでゐた。漱石紅葉にはそれほどの眞劍さがない。彼が子規以後の淸閑な一存在を印《いん》した所以も此處にある。後代の史家は彼の發句を特筆してその眞實的切迫を記錄するであらう。

[やぶちゃん注:芥川我鬼の句を実に正当にして正統に評価した名文と言える。但し、犀星の評論や随筆では、かなり頻繁に見られるのだが、引用時の引用間違いが、ここでも致命的に生じている。特に「てにおは」を命とする発句の場合、表記の誤りは許されない。それが判っていながら、犀星は、原記載を確認しないで、自分の漢字用法や事実誤認の記憶にすっかり頼って誤まるという救いがたいミスをしばしばやらかす。ここでも、

 蠟梅や枝まばらなる時雨ぞら

は、

 臘梅や枝まばらなる時雨ぞら

が正しい。私の『定本 やぶちゃん版芥川龍之介全句集』(全五巻)の「一 発句」を参照されたい。なお、この私の「芥川龍之介全句集」は、現在、存在している如何なる芥川龍之介の句集よりも、多く、採句しているという点で強い自負を持っているサイト版テクストである(但し、Unicode以前に原型を作成したため、一部の漢字が正字でないのは許されたい。だいぶ前から、気になっていて直したいのだが、縦書PDF版など、複数のタイプもあり、しかも、原原稿を外付けHDの致命的損壊で失っており、さらに、これ、一気に全部をやらないと意味がないため、手をつけかねているのが本音である)。なお、この芥川龍之介句集は、私は、復刻本で所持している。]

 

 句集「道芝」を評す

 

 句集「道芝」は久保田万太郞氏の發句集である。久保田氏は故芥川氏とともに文壇人の中でも、餘技的な發句以外の發句を志し又苦吟する人であることは、何人も知るところである。

 「道芝」一卷の發句に見る久保田氏は、談林の悲曲を奏で乍ら蕉風の古調にも耳傾ける人である。或發句の古さは月並の見窄らしい零落の面影をもち、或發句は芭蕉道の本流のさざなみに手をひたしてゐる。その新古鋭鈍の尺度は到底渾然の域のものではないが、自らその意識的古調の中に潛む恍惚は、自分の正眼に構へた發句道の弓箭《きゆうせん》の叫びを微かながら偲ばしてゐる。此「微かながら」の丈夫境さへ容易に俳職人ですら得られるものではない。[やぶちゃん注:「ウェッジ文庫」では「弓箭」に『ゆみや』のルビを振るが、従えない。]

  まなかひを離れぬ蝶や夏隣

  しくるゝや梢々の風さそひ

  桑畑へ不二の尾きゆる寒さかな

  假越のまゝ住みつきぬ石蕗の花

  朝寒やいさゝか靑きものゝ蔓

 これらの發句の完成された落着きは、二十年來發句道にいそしむ朝暮の彼が風色であり、二十年來久保田氏が築き上げた精進の美しさである。閑素や寂情や物佗しさの顯れがある。「しくるゝや梢々の風さそひ」の作者は机上の人であり得ても、遂に机上から離れて風物の呼吸を同時に呼吸してゐる作者でもある。「假越のまゝ住みつきぬ石蕗の花」の流轉の俳境は、同時に小說戲曲家としての彼の發句的小說面の佗しさを現はしてゐる。此句の成就もそこにある。「桑畑へ」の表現は彼が發句道にある手腕と冴えとを見せてゐるが、而も此發句の持つ味ひは自分の見立によれば、通俗的効果以外大して嚴格な感情を持つてゐない。一應の完成と一應の美しさとを索《さぐ》り得ても、底のない死的風景にすぎないやうである。

 この作者の性根にあるものは、江戶三百年が辿り着いた明治的開花の中に、まだ微かに殘る下町の人情風俗をいとほしむ心に充ちてゐる。極言すれば凡ゆる詩俳人の持つ遺傳的な回顧風の人情風景の中に、何よりも現代的な久保田万太郞氏が散步するだけである。發句道の打込み方に疎く均しく鮮銳ならぬ所以も、又ここにあると云ふのも氏を知らぬ者の言葉では無からう。

 併し彼が物思はしげな明治末期の俳人の悌をもつてゐることは、此鮮銳を缺いた平易な優情的發句道への縋り方で分るやうである。彼は發句道に向うて丁丁と打込むの達人者の氣合は初めから持合さない。唯ひたすらな縋りであると言うてよい。穩和な縋りは前記の染染《しみじみ》した句境をかたち作つてゐることは勿論、又彼が一かどの詩俳人たるの遂に最も肝要な腰を据ゑるに至つたのである。

  音立てゝ用ふりいづる春夜哉

  宵淺くふりでし雨のさくら哉

 この二面の寫實的風景の平凡は、啻《ただ》にその凡化である理由からしても得難き優しさである。彼のたまたま弱い美への縋りの最高の句であると云つてよい。彼がこの二面の寫實的感情への陶醉は、人事的陶醉の時には槪ね失敗してゐる。

  三味線をはなせば眠しほとゝぎす

  岸鈞に小さんの俥とほりけり

  竹馬やいろはにほへとちりちりに

 此等を以て淺草詩人として彼を云々するは、久保田氏も困られるであらう。しかも最も惡句を代表したものは、遂に之等のうす眠き句境である。久保田氏への自分の望みはこれらのうす眠き句の抹消されることを云ふものである。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。

「岸鈞に小さんの俥とほりけり」の「鈞」は「釣」の誤記或いは誤植。国立国会図書館デジタルコレクションの原本「道芝」のここを見られたい。

 最後に。私は当時の文壇俳句のボス的存在であった久保田万太郎の句には一句として惹かれるものは、ない。一種、俳句道の精進者の自負を持った室生犀星の句も、まあ、久保田よりはマシという程度にしか感じていない。]

 

 「何もない庭」

 

 「何もない庭」は百田宗治君の第三か第四の詩集である。「何もない庭」は俳書のやうな裝幀で自費で出版された詩集である。

 「何もない庭」の中にある人生は極めて物閑かな、言はば市井の一陋居にたむろして、自分自身の心にも又他人へも潔癖をもつて暮してゐる男の詩集である。百田君が何時靜かな詩を書くやうになつたかと云へばそれは十年前の彼の詩集「一人と全體」に古くも深く根ざしてゐる物靜かさであつた。今日不意に物閑かさに入り込んでゐる譯ではない。何時の間にか彼は彼の心の向く方へ深まつて行つただけである。彼自身でさへ餘りに自分が靜かさに浸りすぎてゐることをその詩の中では時時心づいてなほ一層手綱を緩めてはならぬと思ふであらう。

 詩の最高峰は靜かさの中に縛《し》め付けられたものの一切で、穩かさで烈しさを叩き上げるものである。彼の詩は多難な幾樣かの生活から自ら髮ふりかざし乍ら叫ぶかはりに、沈んでその幾樣かの人生を縛め付け壓搾してゐるのである。この周到な心で戰ふことは容易なやうで却却《なかなか》できぬ。[やぶちゃん注:「却却《なかなか》」この字で用いる副詞としての「なかなか」は打消しを伴って「逆に・かえって・むしろ・とてものことに(~ない)」の意である。]

 

      出 奔

 

  妻よ外出するおまへに

  わたしは何かと氣をつけてゐる

  おまへといつしよに行くことのできぬ私は

  おまへが電車道をよぎり

  自動車をよけ

  天の加護ある子供のやうに

  無事に早く歸つてくるのを待つてゐる

  ――だのに、妻よ

  なぜおまへはこの家を出奔て行つたのだ。

 

 詩が進んで選ぶ道は少くとも今日以後に於ては最早人生の詩でなければならぬことである。これは私の十年以前からの信賴と少しも渝《かは》らない。――詩の中にさぐり當て搔き撫でる素材の如きものは、小說の中の人生をひねり潰して仕上げたもの、わづか十行の詩の中に人生の全幅に觸つて行くものでなければならぬ。單に詩が詩である意味のものは最早我我の後方に踰《こ》えて來てゐるのだ。

 出奔一篇もまたこの本物の詩を引提げて立つてゐる。在來の百田宗治君はぐつと背伸びをして立つてゐる。微塵も濁つては居らぬ。かういふ詩をいま提《ひつさ》げ立つてゐるものは、彼一人であると言つてよい。僕の見るところに疑ひなければ、彼ほど詩を勉强してゐるものは稀である。そして絕えず前へ前へと進んでゐる。俗錢名譽に走らず、念念歇《や》みがたい精進は何人《なんぴと》も嘆《たん》を久しくするところである。自分の言はうとするところも此一つの事がらだ。氣のつかない人はよく見るがよい。烈しさを靜かさで叩き上げることは簡單にできるかどうか――

 彼の靜かさは併乍ら完璧の域のものではない。詩の最高峰が淸らか靜かさ穩かさであるといふ信賴を彼がもつてゐるならば、なほ一層に澄み透らねばならぬ。澄むと云ふ事や透る事は容易に完璧されるものでなく、なほ幾樣かの數奇なる人生や心境の變選の後に自ら濁れる水の澄むごとく、極めて時間的に少しづつその淸澄の時を得るものであらう。

[やぶちゃん注:百田宗治の詩には小学生の中頃に教科書で出逢った。中学生になって詩集を買ったと記憶するが、書庫の底に沈んでいて取り出せない。どんな詩に感銘したのかも実は記憶していない。今度、探して読み返してみようとは思っている。]

 

 「鏡花全集」に就て

 

 鏡花全集の背中の黃緣と表紙の薄い紫とは何時もながら穩かな調和を藏めてゐる。鏡花氏の題字もその穩和な裝幀に當て嵌つて結構を盡してゐる。も一つ、その凾張りに内容の作品目錄を揭げ讀者が作品を繙《ひもと》く爲に便宜を計つてあるのは、誠に盡せりの感じである。

 鷗外全集や漱石全集にも書目を凾の上に表記してないために、予の如き健忘症の徒は全卷を一々繙到《はんたう》せねばならぬ不便がある。分けて俳書大系の如きは芭蕉時代や蕪村時代を別册に編成してはあるものの、これも逐一繙讀の爲に全册を當る臆劫《おくくふ》を感じてならぬ。早晚これらの全集は各册の書目を類纂の上、凾張りの上に明記すベきであらう。この點に於ける鏡花全集の便利なことは言ふまでもない。聞くところに據ると小村雪岱氏は、一々毛筆で支那版下の文字を詳細に書いた上、これを木版に付したものださうである。あれらの數百字を一々毛筆で書きつづる爲事《しごと》は、寧ろ數學的面倒と機械的の精緻を要するものであるが、小村氏がこの匿《かく》れた仕事を試みて居られるのは、私の竊かに舌を卷いて嘆賞する所以である。

 裝幀は作品と一緖に、或は全然裝幀のみの獨箇《いつこ》の値《ち》として永く後世に問はるべきものである。書物の晴衣《はれぎ》としての裝幀はその時代の結構や風俗文明の程度を後代に語るに優辯なことは、木板時代に於て元祿版や享保版の紙質や表裝の流行に伴うて、白ら元祿の典雅は享保の雅籍を超えてゐることは言ふまでもない。或意味では裝幀は百年の後に一瞥してその時代の何物かを釋明するものでなければならぬ。新潮社の「小說家全集」の如き一人一册宛の場合も、なほ凾張りに作品別を明記した方が便利で單行本購入の際に照合して缺《けつ》を補はねばならぬ。序《ついで》であるが同小說全集は手ずれがして黑表紙が剥脫した後にも書物としてよい好みを持つてゐることは、裝幀者の用意を窺ふべきである。

 裝幀は古本と姿をかへる時に初めてその味や澁みを表現すべきものであつて、すくなくとも十年見通しの裝幀に取り掛るのがその順序であらう。眼前流行の書物はそれ自身で亡びてしまふのだ。書物はその父が子の代にも子がその父となる世にも殘存してゐるもので、裝幀の堅實典雅たるべきは目前の興趣や、讀者への單なる心づくしではなく實に或意味では作品よりも一層後世に殘すべきものである。この意味で鏡花全集の「凾」は單なる「凾」ではなく、「凾」の種類に於ける好個のよき見本であらねばならぬ。以て推奬する所以である。

[やぶちゃん注:ここで犀星が指している「鏡花全集」は春陽堂版(全十五巻。大正一四(一九二五)年七月刊行開始で、昭和二(一九二七)年四月完結)のそれである。グーグル画像検索「泉鏡花 春陽堂」をリンクさせておく。犀星の底本本書は昭和四(一九二九)年二月発行である。私も所持する岩波書店の「鏡花全集」(全二十八巻)は昭和一七(一九四二)年から刊行が開始されたものである。]

 

 「芥川全集」

 

 自分は書物の裝幀程その作者の氣質の出てゐるものは無いと思つてゐる。裝幀を見て作者がどの程度まで氣持が上り詰めてゐるかといふことを見ることが出來、作者好みの中に時代の向側の何年かを睨んでゐるかといふことを感じる。(併し自分は裝幀以下の裝幀に對してはこの言葉を成す者ではない。)裝幀以下といふ言葉は充分に理解されてゐない本屋のそれをいふのだ。併乍ら裝幀にも時代と本屋との關係や經濟をも頭に入れなければならぬことは勿論である。唯作者の何者かが一本裝幀を剌し貫いてゐることを見ることができれば、自分の云ふところが通じるやうな氣がする。

 自分は詩集の如きは今年だけで百册に近く寄贈を受けてゐる。それらの裝幀は稺拙《ちせつ》ではあるが各各心を籠めてある點で、それらしい勇敢と典雅の姿をもつてゐる。坂本源といふ人は自作の裝幀に南京の黃ろい布を用ひ、その爲支那町を探ねたと書いてあつたが、その意氣と用意怠らぬことには感心した。

 芥川全集の裝幀は生前にその布の色を決定してあつたさうであるが、遺子比呂志君の文字も稺拙を超越した美事さをもつてゐる。全集の委員が比呂志君の文字を選んだことは、美しい思遣りでなければならぬ。芥川君の在來の書物の裝幀は些《いささ》か派手だつた。今、全集を見て芥川君の志もまた此處にあつたことを喜しく思うた。紺布地の粗面の美は初めて布地の美を引きずり出してゐる。併し自分としては此友もこのやうな全集の姿になつたかと思ふと、歲月の惱みが怨めしい位迅《はや》く訪ねて來たことを感じるのだ。

[やぶちゃん注:全面的に同感。なお、言っておくと、芥川比呂志氏のそれは、「芥川龍之介全集」と書かせたものではなく、当時の彼(満七歳。東京高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)二年生であった)の書いたものから拾い出して組み合わせたものである。

「坂本源」不詳。]

 

 「山村暮鳥全集」

 

 詩人山村暮鳥はその生涯を殆ど田舍の海濱で暮した。海濱にあつた家庭に朝日の溫かい美しさを喜び、海岸傳ひに散步する事を喜び、日常の細かい樣樣な生活の味ひを喜び、子供に自分の分身を發見する事を喜び、詩作に倦まないで其作の出來上りを喜び、――凡ゆる微妙な物の中にも、全き彼、山村暮鳥の魂魄を打込んで喜びもし生活もした人であつた。

 家庭にある溫かい朝日のひかりや、机に對《むか》うて絕えず何か書いてゐる機嫌のよい彼の住居の遠くに、既に彼を召し拉(つ)れてゆくもののあることを知らう筈がなかつた。或は彼はそれを豫め知つてゐたかも知れなかつた。併し彼の不斷な詩作を恃《たの》む後代への心がけは、さういふ彼を現世から引き離すものを考へる暇《いとま》もない位、彼を全きまでに努力させ高揚させてゐたからであつた。しかも彼は最後に氷のやうに冷たい喜びをその手に握つてゐた。

 山村暮鳥は牧師の聖職に從うてゐたが、寧ろ彼は藝術的宗敎を奉じた側の人だつた。彼が牧師を辭したことは文學の中にあるもので宗敎に勝《まさ》るもののあることを發見したからであらう。彼の生涯の中で彼を終始した宗敎、その耶蘇敎的僞瞞《ぎまん》[やぶちゃん注:「欺瞞」の誤字の慣用表現。]の中にすらある多くの眞實が彼を最後までとらへ、彼を悒鬱《いううつ》[やぶちゃん注:「憂鬱」に同じ。]にしたことも實際だつた。宗敎家を厭うた彼の生涯も所詮文學的表現の上では常に一つの思想としての、幽暗な匂ひのある宗敎の色や感じを搖曳してゐた。恐らく彼の生涯の中に絕えず明滅された是等の燈《ひ》は、その生ひ立《たち》からの宗敎的境涯の惰性の上からも、或は點火(とも)り或は消え或は明るく輝いてゐたものであらう。彼の詩的精神を貫ぬくものは何時も何か嚴かな物でなければ、冴えた美を射《い》り止めようとする狙ひや睨みの努力であつた。彼は此狙ひと睨みの間に悶えもし又自ら苦しみもした詩人だつた。樣式の轉換、語彙の淸新な意圖、素材への幼稚なまでの眞實性のある諸相は、軈《やが》て彼が最後まで自分を硏ぎ澄ますために怠ることなき人だつた。

 自分の何時も考へることは山村暮鳥は決して不遇な詩人でなかつたことだつた。彼を不遇として考へることは彼の素直な凡ゆる喜びに滿ちてゐる彼を憂欝にさせるものだつた。彼は彼だけの生活を拓《ひら》くために決して躊躇する人ではなく、寧ろ勇敢に進みもし突き破りもした人だつた。唯ひとつ最後に遺されてゐる彼の傳記が、彼の手で完成されなかつたことは何と言つても彼の末期《まつご》的炎を盡すことのできなかつた焦燥を自分に暗示して來るのだが、或意味に於て凡ゆる傳記的な感情の斷片ともいふべきものは、既に彼の詩の上に盛られてゐることを思へば、それすら彼の全鱗《ぜんりん》の上に何等の澁滯を來すものではなかつた。山村暮鳥は美事に完成され、そして寂しい一つの塔を日本詩壇の上に聳えさせてゐる。茨城縣磯濱の波はその塔を洗ひそそぐために、彼の好む燿《かが》やかしい朝日の光りとともに每日彼を訪れてゐるだらう。

[やぶちゃん注:太字は、底本では、傍点「﹅」。私は中学時代より暮鳥を愛してきたが、彼の全集は所持していない。但し、彌生書房版「山村暮鳥全詩集」(昭和三九(一九六四)年初版の昭和五一(一九七六)年の第六版)を所持しており、それや、ネット上の画像をもとに、ブログ・カテゴリ「山村暮鳥全詩【完】」で全詩篇の正規表現を目指した電子化注を二〇一七年五月に完遂している。なお、本篇については、加工データとして使用させて戴いている「ウェッジ文庫」の「天馬の脚」(二〇一〇年二月刊)の本篇の最後に、編集部注として、『本稿は『暮鳥詩集』(厚生閣書店、昭和三年)の序に「詩集に」の題で收載された。序の筆者は他に、萩原朔太郞、福士幸次郞、前田夕暮、土田杏村』とあった。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 三三番 カンジキツクリ

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。「かんじき」(樏・橇・檋・梮)は一度だけ、若い頃、積雪の中をワンダーフォーゲル部の引率で山行した際、先輩教師の作られたそれを、一度だけ、履いたことがある。アイゼンより遙かに軽く、使い勝手がとても良かった。]

 

      三三番 カンジキツクリ

 

 或所に五右衞門と云ふキヤジキ(カンジキ)作りの爺樣があつた。いつものやうに山でキヤジキをこしらえて居ると、五右衞門、五右衞門と呼んで爺樣の火の側へ大きな狢《むじな》がやつて來た。誰だと思つたら狢か、今日は寒いからあたれと言ふと、狢は火の側へ寄つて持前の大睾丸《おほきんたま》を出して、溫(ヌケタ)まつた。そして氣持ちがよくなつたもんだから、そろそろと廣げ出した。爺樣はこの野郞、いつもの癖を出しやがつたなアと思つて、キヤジキを曲げて居た手を不意に放すと、强い小柴がパチンと彈(ハツ)けて行つてその睾丸に當つた。狢はアツといつて引ツ繰り返つて死んでしまつた。

  (秋田縣角館小學校、高等科、淸水キクヱ氏の筆記、摘要。
   武藤鐵城氏御報告の三。)

[やぶちゃん注:「狢」この場合に限っては、「大睾丸」の披露から、話者は明らかにタヌキ(ホンドタヌキ)を指していると考えてよい。「ムジナ」は狸の異名として、地方ではよく用いられる。但し、私は、「ムジナ」はニホンアナグマを指す別異名でもあったと考えている。詳しくは博物誌及び民俗学的呼称の一般論については、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貍(たぬき) (タヌキ・ホンドダヌキ)」の私の注を見られたいが、民俗社会の認識を私が掘り下げたものとしては、『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) むじな・たぬき 猫虎相似附錄 猫虎相似の批評』の私の注をお勧めしたい。さらに言えば、後者で私が示した通り、ごく近代まで、一部の地方の、しかも猟師の間でも、「タヌキ」と「ムジナ」は別な動物と誤認識されていた事実もあった。大正一三(一九二四)年に栃木県上都賀郡東大芦村(現在の鹿沼市)で発生した狩猟法違反事件「たぬき・むじな事件」(リンク先は当該ウィキ)に見るように、専門の狩猟者でも、「タヌキ」と「ムジナ」は別種という弁別混乱(法律用語で「事実の錯誤」)が平然として、あった、のである。

「武藤鐡城」(明治二九(一八九六)年~昭和三一(一九五六)年:佐々木より十歳年下)は秋田県出身の考古学者・民俗学者でスポーツ指導者でもあった。本書刊行時(昭和六(一九三一)年)は移住した角館にあった。当該ウィキはかなり細かく事績が書かれてあるので見られたい。既出既注であるが、再掲した。]

大手拓次 「凋落の祈り」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。] 

 

 凋落の祈り

 

凋落は

お前の足元にひざまづき

不思議の奇蹟を祈つてる。

 

お前の足元にひざまづき

みなし兒の胸にほころびる

幸ひの絲卷をいのつてる。

 

凋落はひざまづき

平和と眠りとの

夜のかけものを祈つてる。

 

美裝した

晝の凋落は

坦坦(たんたん)とした路をしづかにあゆんでる。

 

[やぶちゃん注:創作年は初回を参照されたい。

・第一連三行目「奇蹟」は底本では「奇跡」。私は聖的なそれを言う場合、断然、「奇蹟」であるべきであるという拘りを持っている。因みに、詩集「藍色の蟇」(サイト横書版。以下同前)では三篇で本表記を用いているのに反し、「跡」は一箇所でしか使用していない。

・第二連三行目「絲卷」は底本では「糸巻」。詩集「藍色の蟇」では十六箇所で「絲」を用いているのに反し、「糸」は一箇所でしか使用していない。]

大手拓次 「二行の蛇」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。]

 

 二行の蛇

 

靑黑い森のなか

遠くの森の齡(よはひ)のなか、

恐ろしくそしてなつかしい

樂しみは群がり生れてる。

そこへ行かう。

ただかよわい足のもろさに

路を迷ひ、路をはぐれ、

あの、靑くよどむ樂しみの森ヘ

ひとすぢにゆく事が出來ない。

 

うすうすと化粧(けはひ)した

お前やわたしの心のなかには

美しい

二つならびの蛇がのびてゐる。

 

[やぶちゃん注:創作年は初回を参照されたい。]

大手拓次 「ふし眼の美貌」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。]

 

 ふし眼の美貌

 

まるい、まるい

たよりなく物を掘つてゆくやうな

我ままの

こころの幼兒。

 

あれとなく

手にとつてみては

うつり氣の

定めないなぐさめのうちにたはむれる

あまやかされた

ひとりの幼兒。

 

伏眼のなかに笑つてゐる

美しい美しい幼兒の顏よ。

 

[やぶちゃん注:創作年は初回を参照されたい。]

2023/04/10

大手拓次 「果物の誕生」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。]

 

 果 物 の 誕 生

 

こゑをのんでは

日あたりに、

たよりない懶惰(らんだ)を流し、

 

こゑをのんでは

ふかふかと

りんずのきれの夢をだく。

 

まぶたのなかには

赤いをどり、

濃い紫の舞姿(まひすがた)。

 

熟れてゆく

うるしのやうな毛のにほひ、

象牙のやうな頰のにほひ。

 

[やぶちゃん注:創作年は初回を参照されたい。なお、最終行の「頰」は、底本も、この字体である。

「りんず」「綸子」。白絹の紋織物。経糸(たていと)・緯糸(よこいと)双方に無撚(むよ)りの生糸を使用し、表朱子(おもてしゅす)と裏朱子による、昼夜組織によって柄模様をつくる。石川県小松地方が主産地であり、主として白生地(しろきじ)のまま、女性礼服の白無垢や、裏地に使われる。また、強撚糸(きょうねんし)を使った綸子縮緬(りんずちりめん)もある(サイト「コトバンク」の小学館「日本大百科全書」に拠った。当該ページに「綸子の組織図」の図がある)。]

大手拓次 「頭のはじの微笑」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。]

 

 頭のはじの微笑

 

めいめいにあをい葬ひ旗を手にもつて、

めいめいにかみそりのやうな脅(おび)えをもつて、

溶爐のなかのたのしみのやうに

深みへ深みへと

みだらな亡骸(なきがら)となつて沈んでゆく。

 

その時に

慈悲のお使ひとして

灰色の大きい羽の鳩が

おりてくる。

 

眞黑(まつころ)な寢床のなかに

二つの靑い手に抑へられて

息(いき)も苦しさうにもがいてる。

 

[やぶちゃん注:前回の後注で記した通り、本篇は「初期詩篇(明治期)」の二番目に載っている。原氏は、この年と翌年からのみ、このパートに二十篇を選んだとされておられることも述べた。而して、前回の「華奢な祕密」一篇のみが同年の採用であるなら、流石に原氏はそれ一篇だけであったことを示すだろうからして、私は、本篇は、まず、明治四四(一九一一)年数え二十四歳の折りの作品としてよいように思う。

「溶爐」は底本では「溶炉」である。「ようろ」で、現在は「溶鉱炉」或いは「熔鉱炉」「鎔鉱炉」とも書く。それらを見慣れ切ってしまっている我々には「熔(鑛)爐(ようくわうろ)」はちょっとどころか、かなり違和感を感じるかも知れない。しかし、それは戦後の新字社会に慣れきってしまった我々世代から下の感覚錯誤に過ぎない。試しに、国立国会図書館デジタルコレクションで「熔鑛爐」で検索をかけて見たら、戦中以前は、専門書は元より、文芸書(短歌集の標題)でも、表紙や本文に、ちゃんと「熔鑛爐」と表記されていた。因みに、詩集「藍色の蟇」では、「爐」は総て「爐」で「炉」は一切使用されていない。]

大手拓次 「華奢な祕密」

 

[やぶちゃん注:私は、既に大手拓次の詩集の電子化オリジナル注附として、

「藍色の蟇」を詩集原本準拠として、サイトHTML横書版及び縦書版(二〇一四年一月二十七日公開)

及び

ブログ・カテゴリ『大手拓次詩集「藍色の蟇」【完】」』で分割版(二〇一三年十一月四日完遂)

で終わっており、また、ブログ・カテゴリ「大手拓次」にて、

『大手拓次詩畫集「蛇の花嫁」』

と、

『大手拓次譯詩集「異國の香」』

を分割版で電子化注を終わり、別に、

「蛇の花嫁」(正規表現PDF縦書ルビ・オリジナル注附一括版1.9MB・昨年二月十三日公開)

と、

大手拓次譯詩集「異國の香」オリジナル電子化注《PDF一括縦書版・2.78MB》

及び、注の一部で示した原詩を読み易くするために、

大手拓次譯詩集「異國の香」オリジナル電子化注《PDF一括横書版・2.98MB》

を本年四月七日に公開している。

 さても、現在、国立国会図書館デジタルコレクションで視認出来る、以上の詩集に含まれない大手拓次の有意にソリッドな詩群は見当たらない。

 されば、これより、ここで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)の中で、以上の詩集に含まれていない詩篇を同書の基本、編年体で並んでいる(但し、最後の「訳詩篇」パートのみは例外。そこに到達した際には改めて注記する)それを順に選び、漢字を恣意的に概ね正字化することで(幸いにして、同書は本文は勿論、ルビも歴史的仮名遣を使用している。但し、原氏によれば、『仮名づかいはルビをふくめて旧仮名づかいのままとした。なお、拓次は漢字に必要以上にルビをつける習慣があるが、本文庫では誤読されるおそれがないと思われるルビは、すっきりさせるために多くをのぞいた。逆に拓次はつけていないが、難読、誤読のおそれがあると思われる漢字には、最小限、編者がルビをうけた(例、小径(こみち)、容子(やうす)、等、旧仮名づかいで)』とある。因みに、「容子」は「樣子」の当て字であるから「やうす」で正しいのである)、推定される正規表現に近づけつつ(原氏は『作品中の漢字は新字体のあるものはそれを採用し』たとある)、ゆっくらと電子化注してゆきたい。但し、一つだけ、言っておくと、「間」という字が、詩集「藍色の蟇」では、「閒」となっているのだが、私は個人的生理的に「閒」の字体が好きではないため、それは使用しなかった。私は拓次の自筆原稿を見たことがないので、それが正しいか、誤っているかは、判らないことを言い添えておく。何時か、原詩稿を見ることが叶うように念ずるばかりである。]

 

 華奢(きやしや)な祕密

 

いつとなく

人に知られてまたかくれ、

ももいろの拔羽のやうにものかなしい。

けれどさうして藍色のやみをゆけば、

ところどころよりお前の身をとりかこむ

祕密の顏のあでやかさに

木の葉のやうにはらはらと

うわべを飾るあらい苦勞は

ちつて仕舞ふ。

その時にお前の内は祕密の家。

うすももいろに、

あゐいろに、

鳩の胸毛のやうにふはふはとして

たよりない木立のなかに迷ふだらう。

 

[やぶちゃん注:原氏の解説によれば、本篇を冒頭に配した「初期詩篇」(明治期)は、選択対象を拓次二十歳から二十五歳の間に書かれた作品二百二十九篇から二十篇を選んだ旨の記載があり(「解説」の前に配された原氏による詳細な大手拓次の「年譜」は数え年で年齢が記されているから、この年齢もそれである)これも、但し、続いて、『完成度という選択基準から、おのずから、選ばれたのは右の時期のおわりの二年間の作となった』とあることから、本篇は間違いなく、明治四四(一九一一)年の作品ということになる。当時、拓次は、同年九月に早稲田大学文学部英文科三年に進級している(彼は一年次と二年次の進級の際に成績不良で彼は二度留年している)。原氏の当該年の記載には、『口語詩作旺盛になる。ようやく自然主義の影響からぬけ出て、象徴主義への芸術的自覚が深まる。象徴小説を意図する』一方、『永井荷風の文学に強い刺激をうける』とあった。

 標題のルビは五月蠅くなるので、上付きで附した。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 三二番 箕の輪曲げ

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題は「みのわまげ」。米などの穀物の選別の際に殻や塵を取り除くための片方が開いた笊型の容器を作ること。本邦の箕作(みづく)りは伝統的に竹細工であった。緯(よこ)に竹、経(たて)にヤマフジを使った箕を藤箕(ふじみ)と称した。先端部の強度を高め、滑らかな表面にするため、桜皮を編み込んだものもある(ここはウィキの「箕」に拠った)。] 

 

      三二番 箕の輪曲げ

 

 或時、御明神(ゴミヨウジン[やぶちゃん注:ママ。])村の小赤(コアカ)坂に、彥太郞と云ふ人があった。葛根田(カツコンダ)の山奧に入つて、箕の輪曲げをして居ると、山姥《やまうば》がやつて來て、あゝ寒い々々と言つて、彥太郞が焚いてゐる火にあたつた。彥太郞はこれは山姥だなア、火灰(ホドアク)でも張掛(ハツカ)けてやるべえと思つた。すると山姥は、彥太郞お前はおれに火灰を張掛けてやるベアと思つてゐるなと言つた。彥太郞はこれはことだと思つたが、よしきたそれなら、此頃切れる鉈《なた》を買つたから、その鉈で斬つてやるベエと思つた。すると又山姥が、彥太郞お前は此頃切れる鉈を買つたから、その鉈でおれを切つてやるベエと思つてゐるなと圖星をさゝれた。彥太郞は愈々《いよいよ》これはことだ、この分では俺はこの怪物(バケモノ)にかかられたらやつぱり食ひ殺されるこツたと思つた。すると又その事を山姥は言ひ當てた。

 彥太郞はあきれ返つて、だまつて箕の輪を曲げて火にあぶつて居ると、輪に火がついて彈けて、バラツと山姥に火灰がしたたか(大變)張掛(ハツタ)かつた。山姥はこれは不覺をとつた。彥太郞やアお前は心にも無いことする男だなアと言つて、笹原の中ヘガサガサと逃げて行つた。そして笹立ちの中でウンウン唸つてゐるから、彥太郞はナゾになつたと思つて見ると、大きな山姥が其所に倒れてゐた。彥太郞は恐ろしくなつて、道具などを片付けて背負つて家へ歸つた。

 (三〇番同斷の二。)

[やぶちゃん注:本篇の「山姥」は「山男」の異名である「サトリ」と同じ能力を持っていることが判る。柳田國男「山の神のチンコロ」や、『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 妖怪名彙(その3)』の「ヤマノコゾウ」で既出既注だが、再掲しておくと、人が心の中で考えたことを瞬時に言い当ててしまう「覺(さとり)」由来であるが、通常は毛むくじゃらの「山男」として描かれる場合が多い。当該ウィキを読まれたい。「サトリ」ではないが、私はどうも「山男」や「さとり」の類いを見ると、無条件反射で「北越奇談 巻之四 怪談 其十(山男)」に載る葛飾北斎の挿絵を想起してしまう人種である。また、「サトリ」の名にふさわしいエピソードを確かに電子化しているのだが、探し得ない。二万件を越えるブログ記事を書いていると、探し出せなくなる記事も出てきた。老耄の至り。発見したら、ここにも追記する。

「御明神(ゴミヨウジン村)」当該ウィキでは、読みを「おみょうじんむら」とし、『現在の雫石町御明神・上野・橋場にあたる』とある。郵政での現在の読みも「おみょうじん」である。グーグル・マップ・データ航空写真で「御明神」を見る(以下無表示は同じ)と、北西に接して「橋場」が、北東に「上野」が確認出来る。御明神の東と、上野の南西半分が平地である以外は、山間であることが判る。

「小赤(コアカ)坂」坂は不明だが、現在、地名で御明神小赤沢(こあかさわ)がある。

「葛根田(カツコンダ)」現在、雫石町西根葛根田があるが、ここは上野の東方の盆地の中心部にある。そこの「山奥」ということは、本篇のロケーションは現在の上野地区の山間部ととれる。

「三〇番同斷」というのは、前話「山男と牛方」の採取者『岩手郡瀧澤村武田採月氏からの御報告に據るものの』二ということ。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 池袋の石打

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。今回は、ここ

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、本篇はサイト版で既に、「選集」底本で新字新仮名の「池袋の石打ち」を二〇一〇年五月十三日に公開しているが、今回のものが決定版となる

 また、「選集」では、標題の次行の下方に『川村杳樹「池袋の石打ちと飛驒の牛蒡種」参照』という編者注がある。以下の標題の次行のそれを指す。川村杳樹は柳田國男の変名ペン・ネームの一つである。本篇のために、柳田國男のその正規表現版「池袋の石打と飛驒の牛蒡種」を先だって電子化注して公開しておいたので、まずはそちらを、必ず、読まれたい。私の考える「池袋の石打」の真相もそちらに示してあるからである。

 

     池 袋 の 石 打 (大正三年四月『鄕土硏究』二卷二號)

          (『鄕土硏究』第一卷第六號三二一頁參照) 

 獨逸で所謂「ポルターガイスト」は騷鬼《さはぐおに》が義で、色々の例と解說を「大英類典」十一板二十二卷の其條に載せ居る。「五代史」に、漢隱帝卽位、宮中數見怪物投瓦石門扉、隱帝召司天趙延乂、問禳除之法、延乂對曰、臣職天象日時云々、禳除之事、非臣所一ㇾ知也、然臣所ㇾ聞者、殆山魈也。〔漢の隱帝、卽位し、宮中、數(しばし)ば、怪しき物の瓦石(ぐわせき)を投じ、門扉を撼(ゆる)がすを見る。隱帝、司天の趙延乂(ちやうえんがい)を召して、禳除(じやうじよ/はらひ)の法を問ふ。延乂、對(こた)へて曰はく、「臣は、天象・日時を職とす云々、禳除の事、臣の知る所に非ざるなり。然(しか)れども、臣の聞く所は、『殆んど、山魈(さんしやう)のなすなり』。と」と。〕爰に「見怪物〔怪しき物を見る〕」と有るは、『怪しい現象を見た』の義で、正體を見得なかつたればこそ、「臣所ㇾ聞〔臣の聞く所は〕」云々と云《いつ》たので、取も直さず、騷鬼だ。「古今著聞集」變化第二十七に、八條殿御所え[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]、眼に見えぬ物が、土器片を投げ、又、三條前右府の白川の亭え、何處《いづこ》よりと無く、礫《つぶて》を雨の樣に打《うつ》た、二條の譚《たん》有り。何れも、狸の所業《しわざ》とし居る。予、貧乏故、每度、此邊で、俗に「狸が土を雨《ふら》す」てふ家に棲む。今、此文を書いておる古屋も、屢々、夜中、土が異樣に降る。是は、屋根裏の板間《いたのま》に塗《ぬつ》た土が乾いて、一時《いつとき》に碎け墮《おち》るのじや。一昨年、近村《きんそん》鉛山(かなやま)で、每日、石が飛込む家に、大勢、災《わざはひ》を禳《はら》ふ爲、百萬遍を修むる所え、又、石が飛込むを、予の知人が、障子の穴から覗くと、其家の子守り少女の所爲《しよゐ》と判り、敎唆した隣家の女房共《とも》、當《たう》田邊町警察署へ、引《ひか》れ罰せられた。

[やぶちゃん注:「ポルターガイスト」ドイツ語“Poltergeist”は、“poltern”(「騒々しい音を立てる」)+“Geist”(「霊」)で、「騒がしい霊」という意味の合成語。日本では、浅野和三郎(明治七(一八七四)年~昭和一二(一九三七)年:元は大本教(おおもときょう)信者であった彼は大正一二(一九二三)年三月に『心霊科学研究会』を創設した)が「ポルタアガイスト」=「騷々しい幽」と和訳し、幽霊屋敷に起こる怪音・非物理的現象として紹介した。当該ウィキには、先に示した柳田國男「池袋の石打と飛驒の牛蒡種」に出た、池袋・沼袋の事例も挙げてある。

『「大英類典」十一板二十二卷』既出既注の「エンサイクロペディア・ブリタニカ」(Encyclopædia Britannica)で、「Wikisource」(英語版)このこちらで一九一一年版(=十一版)第十二巻の電子化された当該項が読める。

「五代史」は「中國哲學書電子化計劃」の「新五代史」の影印本(こちらの最終行以降)で一応、校合したが、熊楠の「者」は、あった方が訓読にしっくりくるので残した。

「漢隱帝」五代後漢の第二代皇帝劉承祐(九三一年~九五一年)の諡号。九四八年三月十四即位(十七歳)したが、当該ウィキによれば、政権内部に『権力抗争があり、内紛がおさまらなかった。この混乱に』乗じて、『相次いで叛乱』が起き、『加えて』、『蝗害や水害が深刻な後漢は大いに乱れたとされる』とあって、九五〇年に抑郭威が『兵を起こして南下』、その兵乱の『中で殺害された。享年』僅か二十一で、『これにより』、『後漢は事実上滅亡した』とある。この瓦石の怪異も、或いは、そうした凶兆ででもあったものか。

「司天」天文官。

『「古今著聞集」變化第二十七に、八條殿御所え、……』国立国会図書館デジタルコレクションの『日本文学大系』第十巻(大正一五(一九二六)年国民図書刊)所収のもの(正字正仮名)で、以下に電子化する。二箇所は孰れも巻十七「變化(へんげ)」の条であるが、別々で、前者はここ後者はここである。標題は、所持する『新潮古典集成』版のそれを参考に置いて便宜を図った。前話は新潮版では「六〇二」、後者は「六〇八」の仮番号が附されてある。読み易さを考え、一部に読点・記号を入れ、改行・段落を形成した。注は新潮版頭注を一部で参考にした。

   *

 庄田賴度、八條殿の變化を捕縛する事

 後鳥羽院の御時、八條殿に女院(によゐん)わたらせ給ける頃、かの御所(ごしよ)に化物(ばけもの)あるよし聞えければ、院の御所より、庄田若狹前司賴度(しやうだわかさのぜんじよりのり)が、いまだ六位なりけるを、召して、

「くだんの化物、見顯(あら)はしてまゐれ。」

と、仰せられて、彼の御所へ參らせられにけり。

 頼度、卽ち、八條殿に參りて、寢殿(しんでん)のきつね戶に入てまちけり。[やぶちゃん注:屋根の破風(はふ)の下に換気のために取り付けられた格子戸のこと。その内側の固定板の上に潜んだのである。]

 六箇夜まで、待ちたりけれども、あへて、あやしきこと、なし。[やぶちゃん注:「六箇夜」「むつかよ」と読むか。六日間、夜警を続けたことを意味する。]

 御所樣に(ごしよさま)も、そのほどは、させる事、なかりけり。

 七日にあたる夜、待ちかねて、少し、まどろみたりけるに、かはらけのわれをもて、頼度がうへに、

「ばらばら」

と、なげかけける。

 この時、居なほりて、

『物は、ありけり。』[やぶちゃん注:『物の怪が、出たな!』。]

と思ひて、待ち居たるに、又、さきの如く、

「ばらばら」

と、まきかけけり。

 されど、目にみゆる物は、なし。

 しばしばかりありて、頼度が上を、黑き物の、へらさきやうなるが、走りこえけるを、下より、

「むず」

と、取り留めてけり。[やぶちゃん注:「へらさき」底本頭注には、『箆鷺であらう。觜の箆に似た鷺』とある。しかし、新潮版は、本文を『つくさき』として、ヘラサギ説を退け、『「つく」は恐らくは「木菟(みみずく)」。「木菟」には「さけ」の異称もあり、「つくさき」は「つく・さけ」の転訛か。ともあれ、「つく」が「木菟」ならば、全体が黒褐色で頭』・『目は猫に似ていることや、夜には人家に飛び行き』、『鼠を捕えるという夜行性の行動ぶりなどから、この場面での、頼度の連想を無理なく裏付けることができる』とあった。同書の頭注の主担当は西尾光一氏であるが、私はこの注に目が覚める思いがした。私は文学研究者は同時に博物学者でなくては、正しい注は打てないと考えている人間である。この注は、驚異的に素晴らしい!]

 見れば、古狸の、毛もなきにてぞ、侍りける。

 やがて、おしふせて、指貫(さしぬき)のくゝりを、ぬきて、しばりて、生きながら、院の御所へ率(ゐ)て參りたりければ、御感(ぎよかん)のあまりに、御太刀(おんたち一腰(こし)・宿衣(とのゐぎぬ)一領(りやう)をたまはせけり。[やぶちゃん注:「指貫(さしぬき)のくゝり」指貫袴(さしぬきばかま)の下の端を踝(くるぶし)の附近で括り絞って止めるためにあった裾周りにつけられてある紐のこと。「宿衣」「上宿衣」の略。宮中などの夜間警護のためにする「宿直(とのゐ)」の際に着用する制服で、略式衣冠或いは直衣(のうし)を指す。]

 その後は、かの御所に、化物(ばけもの)、なかりけり。

   *

 三條前右大臣實親の白川亭に、古狸、飛礫を打つ事

 三條前右大臣(さんでうのさきのうだいじん)の白河(しらかは)の亭(てい)に、いづこよりともなくて、つぶてを、うちけること、雨の如し。

 人々、あやしみ、おどろけども、何のしはざといふことを、知らず。

 次第に、打ちはやりて、一日一夜に二盥(ふたたらひ)ばかりなど、うちけり。

 蔀(しとみ)・遣戶(やりど)を、打ちとほせども、その跡、なし。[やぶちゃん注:ここが怪異の肝部分である。明らかにそれらを打ち破った音がし、室内に石・礫があるのだが、蔀や遣戸には、貫通した後がないのである。]

 さりけれども、人にあたること、なかりけり。

「この事、いかにして留むべき。」

と、人々、さまざまに議すれども、しいだしたる事もなきに、ある田舍侍の申しけるは、

「此事、留めん、いと、やすきことなり。殿原(とのばら)、面々(めんめん)に、狸をあつめ給へ。又、酒を用意せよ。」

と、いひければ、

『このぬしは、田舍だちのものなれば、定めて、やうありてこそ、いふらめ。』[やぶちゃん注:後部は『きっと、何か、経験上から確かな手段が浮かんだによって、かく言ったに違いない。』の意。]

と思ひて、おのおの、いふが如くにまうけてけり。

 そのとき、この男、「さぶらひ」[やぶちゃん注:「侍所」家屋等の警護の者の控え場所。詰め所。]のたゝみを、「北の對」[やぶちゃん注:「きたのたい」。寝殿造の北方にあり夫人の居所とされる家屋。]の東庭にしきて、火を、夥(おびたゞ)しく起して、そこにて、この狸を、さまざま、調(てう)じて[やぶちゃん注:調理して。]、各々(おのおの)、能(よ)く能く食(く)らひてけり。さけのみ、のゝしりて、いふやう、

「いかでか、おのれ程の奴(やつ)めは、大臣家をば、かたじけなく、うちまいらせけるぞ。かかるしれごとするものども、かやうに、ためすぞ。」

と、よくよく、ねぎかけて[やぶちゃん注:本来は「祈禱・祈誓する」「呪文を唱える」の意だが、ここは、言上げして威嚇・呪詛したのである。]、その北は、勝菩提院(しようぼだいゐん)なれば、その、ふるついぢの上へ、骨(ほね)、投(な)げあげなどして、よく飮み、食(く)ひてけり。

「今は。よも、別のこと、さふらはじ。」

と、いひけるに、合はせて、その後、長く、つぶて、打つ事、なかりけり。

 これ、更にうける事にあらず[やぶちゃん注:根も葉もない作り事ではなく。]、近き不思議なり。うたがひなき、狸のしわざなりけり。

   *

「鉛山(かなやま)」旧村名。現在の白浜温泉の前身であった村。ここの「白良浜」のある湾を鉛山湾(かなやまわん)とある(グーグル・マップ・データ)。先の「野生食用果實」の私の「紀州鉛山温泉」への注を見られたい。詳しく注してある。]

(增)(大正十五年九月記) 亞細亞の極東北の地にすむ馴鹿《となかい》、チュクチ人のテント内の物が、誰がするともなく、顚倒《てんたう》し、又、雪や氷片を抛入《なげいる》る事あり(一九一四年板、チャプリカ「シベリア原住民」、二三二頁)。埃及《エジプト》では、カイロ等の、人家の屋上や、窻間《まどのあひだ》に、屢《しなし》ばジン(迷鬼)住んで、街や庭え、石瓦を抛《はう》れど、人を殺傷せずと、いふ(レーンの「近世埃及人作法風俗誌」、十章)。これは池袋の石打よりは、「嬉遊笑覽」に出た播磨のオサカベ狐の惡戲《いたづら》に似ておる、家内の怪でなくて、家外の怪だから。狐が石や瓦を飛《とば》して、窻を破り、家内の人を傷つける話は、支那にも「夜譚漫錄」上、嵩桬篙《すうさこう》の條抔に見ゆ。

[やぶちゃん注:「馴鹿」哺乳綱獣亜綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科トナカイ属トナカイ Rangifer tarandus 。和名トナカイはアイヌ語での同種への呼称である「トゥナカイ」又は「トゥナッカイ」に由来する。トナカイは樺太の北部域に棲息(現在)しているものの、アイヌの民が本種を見知ることは少なかったかと思われ、このアイヌ語も、より北方の極東民族の言語からの外来語と考えられてはいる。

「チュクチ人」主にロシアのシベリア北東端のチュクチ半島(チュコト半島)(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)に住んでいる民族。その居住域は、ほぼツンドラ気候に属する。嘗つてオホーツク海沿岸に住んでいた人々が起源と考えられている。現在の総人口は凡そ一万六千人(当該ウィキに拠った)。

『一九一四年板、チャプリカ「シベリア原住民」、二三二頁』ポーランドの文化人類学者でシベリアのシャーマニズムの民族誌学で最もよく知られているマリア・アントニーナ・チャプリッカ(Maria Antonina Czaplicka 一八八四年~一九二一年:彼女は希望していた大学の特別研究員になれず、自殺している。三十六の若さだった)の‘Aboriginal Siberia: A Study in Social Anthropology’ (「シベリア先住民族:その社会人類学的研究」。オックスフォード・一九一四年刊)。以上は彼女の英文ウィキに拠った。「Internet archive」で原本の当該部がこちらで視認出来る。

『レーンの「近世埃及人作法風俗誌」、十章』イギリスの東洋学者・翻訳者・辞書編集者のエドワード・ウィリアム・レーン(Edward William Lane 一八〇一 年~一八七六 年:現代エジプト人のマナーと習慣や、アラビア語と英語の語彙集、及び、「千夜一夜物語」とイスラム教の聖典「クルーアン」の翻訳で知られる)の‘An Account Of The Manners And Customs Of The Modern Egyptians’。「Internet archive」の一八六〇年版の「十章」(“UPERSTITIONS”。「迷信」)は、ここから視認出来る。

『「嬉遊笑覽」に出た播磨のオサカベ狐の惡戲』「おさかべ狐」とあるが、これは、姫路城を棲み家とする強力な女怪「おさかべ姫」(後世、天守閣に住む狐の妖怪とする伝承も生まれた)のことで、彼女については、「老媼茶話巻之三 猪苗代の城化物」の私の「姫路のおさかべ姫」を注を見られたいが、「嬉遊笑覽」のそれは、所持する岩波文庫版の第四巻所収の巻之八の「方術」の中の「飯綱(いづな)」の中の「髪きり」の中に諺として『姫路におさかべ赤手拭』とはあるものの、「石打」の悪戯との連関性を見出せない。但し、試しに、岩波文庫とは明らかに底本が異なる国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを見たところ(長い南方熊楠への注の経験から、南方熊楠の所持していたのは、こちらのものと同じ原本である可能性が非常に高いからである)、ふと、前の条「狐使ひ」或いは「五通」(本来は、仏教用語で禅定体験などによって得られる超自然的な「五神通(ごじんづう)」の力を指す。思い通りの場所に瞬時に行ったり、心のままに境界を変えたりすることの出来る「神足通」(「神境通」とも)、遠近粗細の境が見分けられる「天眼通」、三界の声を漏れなく聴き取る「天耳通」、他人の心を知ることが出来る「他心通」、過去の一切が認識出来る「宿命通」の五つだが、ここは強力な妖怪の持つ能力としてそれを転用している)の、ある部分が目についた。その二七二ページの後ろから七行目に、漢籍の「江南木客集」(この題名にある木客(もっかく)は、中国で古来より魑魅の一種とされ、妖鳥的変化で、人型にも描かれ、普通、人が登れないような断崖絶壁に住むとする。詳しくは私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」(サイト版。図有り)の「木客」の項の私の注を読まれたいが、私は、この「木客」なる「木石の怪」「妖怪」「怪人」が、想像の産物ではなく、一種の少数民族、若しくは、特殊な風俗を有する人々の誤認ではないかという確信に近いものを持っている)の人型の妖怪の一節を引用した後に(太字下線は私が附した)、

   *

多くは美男子となりて婦人に通ずるよしを記せり。又其内に少拂之即擲沙礫[やぶちゃん注:「少しく之れを拂(はらひのけ)れば、即ち、沙礫(されき)を擲(なげう)つ。」。]などいへるは江戶近きゐなか池袋村の狐怪に似たり。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

とあったのだ! 失礼乍ら、南方先生はこれを見つけたものの、ちゃんと読まずに、後の方をざっと見て、左ページ後ろから四行目の先に示した諺を見、これを「おさかべ姬」の悪戯と勘違いしたのではあるまいか? 大方の御叱正を乞うものではある。

『「夜譚漫錄」上、嵩桬篙の條』清代の霽園主人(閑齋氏)なる人物が書いた志怪小説衆らしい(中文サイトの幾つかの話を機械翻訳した印象から)。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで巻二にあるこれがその話である。狐に憑かれている者の家に、石が、突然、飛んできて窓が壊されており、後の方でも、中国式の煉瓦である「磚」(せん)が飛んできて、門・窓・器物が破壊されている。]

2023/04/09

柳田國男「池袋の石打と飛驒の牛蒡種」

 

[やぶちゃん注:本篇は、現在進行中の南方熊楠「續南方隨筆」の「池袋の石打」のために必要となったため、急遽、電子化する。従つて、注は最小限度に留める(調べてみて、容易に注が出来そうにないものは、立項自体をしなかった。悪しからず)。初出は以下の底本の巻末にある「内容細目」に、大正八(一九一九)念八月発行の『鄕土硏究』とある。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『定本柳田国男集』第九巻(一九六二年筑摩書房刊)の正字正仮名版の当該篇を視認した。但し、所持する「ちくま文庫」版『柳田國男全集』の当該部(巻十一所収の「巫女考」収録のもの)をOCRで読み込み、加工データとして使用した。( )は底本のルビ、《 》は私が推定で補った歴史的仮名遣の読みである(一部は「ちくま文庫」版のルビを参考にした)。

 なお、標題は本文の柳田のルビに従えば、「いけぶくろのいしうち、と、ひだのごんぼだね」と読む。]

 

       池袋の石打と飛驒の牛蒡種

 

 市外山手電車線の分岐點池袋の驛から、西北に當つて大きな森が池袋村である。百年この方此村に付《つい》て妙な一の浮說があつて、多くの江戶人の隨筆に出て居る。又今日でもそれを見た聞いたと云ふ者の噂がある。勿論村の者は之を否認し、自分も亦必ずしも之を信じては居らぬが、話の筋はざつと斯《か》うである。市中の家で此村の娘を女中に置くと必ず色々の不思議がある。或は生板《まないた》に澤庵漬と庖丁を載せたまゝ棚の上へ上つたとか、行燈《あんどん》が天井に引着《ひつつ》いてしまつたとか、其他にも信じ難い樣々の說があるが、就中《なかんづく》著名であることは、家の内へ何處《いづこ》からとも無く絕えず石を打込《うちこ》む。或はそれは單に下女に雇入《やとひい》れたゞけで此不思議があるのでは無い、其家の主人が其女に手を掛けると始めて起る現象であると云ふ。果してどちらであるかは究めにくい問題であるが、兎に角に其女を還して了《しま》へば不思議は直《ぢき》に止むと云ふ。村の氏神が氏子を他處《よそ》の者の自由にさせるのを嫌はれる爲だと云ふのが普通の說明である。老人たちはいくらも似寄つた話を聞いて居るであらうが、自分の知つて居る一二の例を申せば、文政の中頃小石川水道端に住んだ御持筒《おもちづつ》組與力高須鍋五郞と云ふ人、池袋生れの下女に手を着けたら、忽ち烈しい石打があつた。種々《いろいろ》の祈禱・守札《もりふだ》も何の效驗も無かつた處に、ふと心附くと此騷動の最中に其女ばかりは平氣で熟睡して居る。もしやと云ふので訊ねて見ると當時の人が目《もく》して原因と爲《な》すべき事實があつた。早速其者に暇《いとま》を遣ると其日より石が飛ばなくなつた。何でもオサキ持《もち》の家の娘であらうとの說であつた(十方庵遊歷雜記第四編の上)。最近の例としては明治四十年[やぶちゃん注:一九〇七年。]頃のことであるが、ある家に頻《しきり》に石打の不思議があつた。どうしても原因が解らなかつたが、一日《いちじつ》天氣がよくて細君は外へ出て張物か何かをしてをり、下女は井戶端の盥《たらひ》に向つて洗濯をして居ると、又々盛《さかん》に石が戶や壁に當る。其時にふと見ると右の下女がそこらの小石を拾つて足の下から之を投げる、其すばやいことは殆と[やぶちゃん注:ママ。柳田の書き癖。]目にも留らぬ程で而《しか》も彎曲をして妙な方角に打着(ぶつゝ)かるので、今迄其女の所業であることが知れなかつた。此話をした人は其下婢が何の爲にそんな仕打をしたかは聞いて居なかつたが、其女は確かに池袋の者と云ふことを聞いたと云ふ(畑田保次君談)。又一說には池袋の村民は他村の人と婚姻を結ぶことを忌んで居る。其譯は昔からの言傳へに產土神《うぶすながみ》の村の人が減ずるのを嫌ふ爲か、若《も》し他村へ嫁に遣る家があれば、其家ヘ何處《いづこ》からとも無く石を打ち又は行燈が天井へ擧がる等の奇怪があるからである(人類學會報告七、若林氏)。此もあまり古代の事實では無いらしい。之を見ると村の女を占領した者の祟《たたり》を受けるは勿論で、之を許した氏子の側でも責任を免れないのである。從つて石打の行爲が假に村の娘の所作であるとすれば、說明が一寸と六つかしくなる。

[やぶちゃん注:「文政の中頃小石川水道端に住んだ御持筒《おもちづつ》組與力高須鍋五郞と云ふ人、池袋生れの下女に手を着けたら、忽ち烈しい石打があつた。……」「耳囊 巻之二 池尻村の女召使ふ間敷事」を参照されたいが(「耳囊」は旗本で南町奉行の根岸鎮衛(しづもり)が佐渡奉行時代(一七八四年~一七八七年)に筆を起こし、死の前年の文化一一(一八一四)までの約三十年に亙って書きためた全十巻の雑話集)、その私の注の内ウィキの「池袋の女」の引用で、発生は文政三(一八二〇)年三月のことである。

「十方庵遊歷雜記」は文化九(一八一二)年から文政一二(一八二九)年まで、江戸を中心に房総から尾張地方に至る各地の名所・旧跡・風俗・伝説・風景等を詳細に記した見聞記で、著者は津田敬順、本名は大浄、「十方庵」(じっぽうあん)は号で、江戸小日向廓然寺(かくねんじ)の住職である。国立国会図書館デジタルコレクションの『江戸叢書』巻六(大正五(一九一六)年江戸叢書刊行会刊)の同書同巻の「第四拾八 秩父郡の三害お崎狐なまだこ」の中の一節で、ここの右ページ後ろから二行目以降に現われる。原文はもっと描写が細かい。是非、見られたい。

「人類學會報告七、若林氏」「J-STAGE」で、『東京人類學會報告』第一巻第七号(明治一九(一八八六)年九月発行)の原本当該記事PDF)が視認でき、その若林勝邦氏の「婚姻風俗集 第五」の冒頭の「村内結婚」の条がそれである。

 此等の噂は要するに取留も無いことであるが、巫女《ふぢよ》問題の硏究者に取つては一笑に付し去るべくあまりに流布して居る。固《もと》より動機又は理由のはき[やぶちゃん注:ママ。]とせぬのは直接に池袋の人から聞くことが能(でき)なかつた爲であらう。池袋の村民はそれは自分の村では無く少し離れた沼袋村の事だと主張する(山中共古翁談)。フクロとは水に沿うた地形を意味し、武藏には殊に多い地名であるから間違ひさうな話である。現に享和[やぶちゃん注:一八〇一年~一八〇四年。]の頃に出來た野翁物語《やをうものがたり》卷六には、之と類似の一事例を擧げて、目黑邊の某村と云ひ、氏神が氏子の他出するを厭ひ此処村人を雇ふ家には不思議ありと記して居る。だから其村が池袋であるか否かは未詳として置いてよろしい。唯東京に近い村に妙な心理上の威力を有する部落があることだけは爭ふべからざる事實である。而も此話は昨今に始つたもので無い證據には、偶發の事實としては昔の人も往々に之を記錄して居る。其一の例は享保九年閏四月二十二日、江戶の旗本遠山勝三郞殿家來神田宅右衞門なる者の小屋に、何方《いづかた》よりとも不相知《あひしらず》石瓦打込み申し候、初の程は隣屋敷松平隼人殿屋敷の子供の仕業かと存じ候處、左樣には無之《これなく》、後々は樣々の物を打込み申侯。右打込み候石瓦取集め印を致し置き候へば、いつの間にか不殘《のこらず》失せ、祈禱致し候ても不相止《あひやまず》云々。此家の主人は同月二十八日に根井新兵衞と云ふ人を招き蟇目鳴弦(ひきめめいげん)の式を行はせると、それより二日目に駿府から召抱《めしかか》へた猪之助と云ふ十四歲の調市(でつち)に野狐《やこ》が附いて居た。段々糺明すると每々樣々なる儀を仕り候事白狀により悉く顯はれ、正氣に罷成《まかりな》り五月に入りては常の通《とほり》何事も無之、透《すき》と相止み申候とある(享保世話)。次には出羽の鶴ヶ岡の出來事で只寅年とのみあるが元祿十一年の事らしい。藩士加藤利兵衞の屋敷に石を打込む者があつた。三月に始り五月に入つて殊に甚しく、座敷に飛込み障子などを破る。五月十五日の如きは一日に石の數二百三十ほども打つた。一寸から四五寸迄の石である。日蓮宗本住寺の僧に祈禱せしむるに、何の驗《しるし》も無かつたが、ふとした事より手懸りを得、段々穿盤して下女の仕業であることが知れた。それからも氣を附けて居ると、十八日の日其下女が奧庭に往きて石を拾つて居るのを發見した。然《しか》るに石を打附けんとする手元を押捉へて、嚴しく詮議をしても一語をも吐かず、却つて正體も無く寢てしまつてどうしても目が醒めない。そこで女の母親を呼び共々に起して見ると、一時ばかり目を明けたがやはり何事をも言はぬ。さして本性は違つたとも見えないが、事の外草臥(くたび)れたやうであつた。乃《すなは》ち請人《うけにん》を呼んで引渡してしまつた。勿論石打の怪はそれで絕えたのである(大泉百談卷三)。

[やぶちゃん注:「沼袋村」現在の中野区沼袋一~四丁目及び野方(のがた)一丁目等が相当する。この附近(グーグル・マップ・データ)。池袋からは南西に三~四キロメートル離れた位置にある。

「享保九年閏四月二十二日、……」グレゴリオ暦一七二四年六月十三日。「享保世話」(享保七年から同十年に至江戸市井の巷談を集めたもの)のそれは、国立国会図書館デジタルコレクションの「近世風俗見聞集」第二(国書刊行会編・一九七〇年刊・正字正仮名・活字本)のこちらの、左ページ下段中央から当該部が視認出来る。

「蟇目鳴弦(ひきめめいげん)」「ひきめ」は「響目」(ひびきめ)の略。朴(ほお)又は桐製の大形の鈍体の響鳴器である鏑(かぶら)を矢先に装着した矢。矢を射た際に音を響かせるところから言った(別にその音を出すために開いた穴の形が蟇の目に似ているからとも言う)。本来は「犬追物」(いぬおうもの)や「笠懸」などで、射る対象を傷をつけないようにするために用いたもので、本体に数個の穴があり、射ると、この穴から風が入って音を発する。この音が鳴弦と同じように、妖魔を退散させる呪力を持つと考えられた。

「調市(でつち)」「丁稚・丁児」(でっち)に同じ。少年の使い走り。

「出羽の鶴ヶ岡」現在の山形県鶴岡市。

「元祿十一年」一六九八年。

「本住寺」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「大泉百談」庄内藩士杉山宜袁(よしなが 元文六・寛保元(一七四一)年~文化八(一八一一)年:庄内藩主酒井家の三河以来の譜代の臣で、家老にまで出世し、郷土史に造詣深く、庄内の古今にわたる事跡を調査記録して後世に残した)が「大泉散士」の名で著した庄内史。]

 此二つの話などは原因が又所謂池袋とは別であるらしい。鶴ヶ岡の方は調べて見ると誠に埒も無い恨《うらみ》であつた。最初草履取の六藏なる者の脇差を此女が戲れに取つて差したのを、六藏が立腹してひどく叱つた。それが口惜くて六藏所持の錢一文を取つて呪詛したと自白して居る。併しそれからどうして石を打つことになつたか、どうしても理由を告げない。又祈禱僧が生靈か死靈か何かほかの驗を見せよと空に向つて宣言すると、忽ち錢二文を紙に包んで投げたので、或は下女などの仕業かと彼等の針箱を搜査することになつたとも見えて居る。何の事かよくは解らぬが、今で言へば一種の自己催眠とも名づくべき術を解して居た者と思はれる。若し當時此等の婦人又は少年の身元を詳しく尋ねたら、或はかの東京附近の一村に似た話があつたのかも知れぬが、殘念ながら記錄は此きりである。併し我々は猶他の一方に世間の人から略《ほぼ》之と同じやうな意味に於て敬して遠ざけられて居る多くの家又は部落を聯想して見ねばならぬ。此等特殊の家族の起原を考へて見ると、其今日に於ける社會上の地位は同情に値する者がある。誠に婚姻交通の遮斷は怖しいもので、其結果は日常生活の慣習にも同化が行はれず、家庭の内情を知り得る機會が無い爲に愈〻《いよいよ》色色の臆說が起り、終《つひ》には魔術を以て人を苦しめるの、邪神を信じて富を求めるのと、不愉快な風評のみ多くなつたが、其本人等の極めて無邪氣なのを見ても明らかなる如く、最初に於ては決してさういふわけのものでは無く、單に職業の特殊であつたこと、又は奉仕する所の神が他の人と違つて居たに過ぎなかつたのであらう。職業と云つた所が決して後世のやうに神主專門巫女專門と云ふので無く、一方には家に附屬の田地があつてそれを耕して食ふこと他の百姓と區別は無い。又邪神と云ふのも程度の話で、近世の神道にこそ牴觸《ていしよく》はするが、昔はさまで奇怪でも無かつた諸國の社《やしろ》である。現に今でも田舍には狐を祭り蛇を祀つたといふ例がいくらもある。其爲に賤しめられる道理が無い。故に自分の解する所では、本來ある荒神《こうじん》の祭祀に任じ、託宣の有難味を深くせん爲に正體をあまりに祕密にして居た御蔭に、一時は世間から半神半人のやうな尊敬を受けて居たこともあつたが、民間佛敎の逐次の普及によつて、追々と賴む人が乏しくなつて來ると、世の中と疎遠になることも外の神主などよりは一段早く、心細さの餘りにエフエソスの市民の如く自分等ばかりで一生懸命に我《わが》神を尊ぶから、愈以て邪宗門の如く看做《みな》され、畏《おそろ》しかつた昔の靈驗談《れいげんだん》が次第に物凄《ものすさま》じい衣《ころも》を着て世に行はれることになつた。此が恐らくは今日のヲサキ持《もち》、クダ狐持《ぎつねもち》、犬神猿神猫神、蛇持《へびもち》トウビヤウ持《もち》などゝ稱する家筋の忌嫌《いみきら》はるゝ眞の由來であらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「今で言へば一種の自己催眠とも名づくべき術を解して居た者と思はれる」と柳田が言っているのは興味深い。先のシークエンスを見ると、「正體も無く寢てしまつてどうしても目が醒めない」で、母親が呼ばれたにも拘わらず、見当識が一向に回復しないというのは、私には演技というよりも、強い眠気の発作を主な症状とする睡眠障害ナルコレプシー(narcolepsy)が疑われるようにも思われた。或いは、奉公が実は彼女の強いストレスとなっていて、重度の強迫神経症を発症し、病的な被害妄想が昂進、石打ち行動を半ば無意識的にやっていた可能性もあるようにも思えてくる。悪戯がバレたことによる演技と大方は思われるかも知れないが、これは、事と場合によっては、御手打ちになっても文句は言えない行動であり、果して、ここまでやるか? という疑問も生じてくるのである。所謂、心霊現象(特に物が投げられたり、移動するポルターガイストや、亡霊の声が聴こえるといった複数の多く事例では、必ず、未成年の少女が、その事件に関わっていることが、よく知られている。少女期の第二次性徴前後に、神経症的な漠然とした不安や不満を生じた彼女たちが、目的や理由を持たずに、似非心霊現象を作為したり、主張したりすることは頓に知られる事実なのである。知られたものでは、アメリカの「ハイズビル事件」(ウィキの「フォックス姉妹」を参照)が最も有名で、霊現象ではないが、かのコナン・ドイルがマンマと騙された「コティングリー妖精事件」(リンク先は当該ウィキ)も知られる。しばしば、「こっくりさん」で集団パニックを起こすケースも小・中・高の少女であることが、断然、多く、精神医学者による、その発生メカニズムを解説した書物や専門雑誌論考も、私はかなりの数、読んでいる。私は少年期から今に至るまで、UFOフリークであると同時に、心霊現象の熱心な否定的ウォッチャーでもあるのである。

「ヲサキ持」私は次に出る「くだぎつね」と同義同類と思う。小学館「日本国語大辞典」にも「おさきぎつね」(御先狐・尾(を)裂狐)として、『人間に憑(つ)くとされる狐。関東地方西部で信じられ、狐持ちの家ではこれを飼いならし、種々の不思議を行なうとされた。管狐(くだぎつね)。おさき。』とある。

「トウビヤウ持」「柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(25) 「川牛」(5)」の私の『「トンボ」又は「トウビヤウ」と云ふ蛇のごとき』の注を参照されたい。その注の前では、「犬神」「オサキ狐」「クダ狐」の解説も私の電子化注の記事にそれぞれリンクさせてあるので、そちらを見られたい。

 巫蠱(ふこ)の家が不使用に由《よ》つて元の職務を忘れてしまふと云ふことも、託宣の機會が時代の進むと共に追々と減少した事實を考へたら、强《あなが》ち無理な推定とは言はれまい。彼等は夙《つと》に一定の地に土着して食ふには事缺かぬ田畑ある上に、世間からは兎角不安の眼を以て視られ、時としては迫害をも受ける、更に又次の章に言ふ如く自分の家に取つても必ずしも有難い神樣でも無かつたから、何かの手段があつたら過去と絕緣したいと云ふ希望も漸次に强くなつて、老いたる親の死亡と共に祕傳や口授の相續せられざりし場合も多かつたと見ねばならぬ。故に一方には人の祀らぬ野狐が增加してやたらに子女に災《わざはひ》する。犬神の主《あるじ》を離れて野に住み人に憑く者をノイヌと云ふ(和訓栞《わくんのしをり》)。四國地方の犬神由來の傳說に、弘法大師が與へた狼除けの護符を無智の者が開いて見た爲に此神が四方に飛散したと云ふのも、見やうによつては此信仰の衰微と頽廢とを暗示する者とも言はれる。前に引いた遊歷雜記に、武州秩父邊の俗信として三種の家筋の忌むべきものを擧げて居る。其一は例のオサキ狐《ぎつね》の家、二にはナマダゴ(生團子)とて彼岸月見などに團子を作るに、甑(こしき)の中にきつと三づゝ生の團子が出來る家、第三にはネブツチヤウと云ふのは小蛇の類である。之を祀る家筋の者の住んだ屋敷は、元の主が死《しに》絕えた後も代つて來たり住む者が無く、荒れ次第に捨てゝ置くとある。此等は何れも世間から觀た所謂邪神の末路であつて、其家筋の者は忘れようとしても、周圍の者が却つていつ迄も記憶して居つた爲に、斯う云ふ噂が永く殘つて居るのである。

[やぶちゃん注:「巫蠱(ふこ)」「巫」は「巫女(みこ)」、「蠱」は「呪(まじな)い師」の意。  呪法によって人を呪うことをも指すが、ここは所謂、主にブラック・マジックに関わる憑き物を使役する呪術師、及び、それを伝えている家系の主人を指している。

「次の章」この記事は『郷土研究』への連載記事で、次回のそれは、底本のここにある「蛇神犬神の類」である。]

 前に述べた池袋の一村がヲサキ持の筋であると云ふことは頓《とん》と外では聞いたことが無い。此は恐らくは根の無い想像であつて、斯かる災《わざはひ》を人に被《かうむ》らしめる者はオサキ家《いへ》の外にはあるまいと云ふ誤れる前提から出た說であらう。口寄《くちよせ》の徒《と》が祭る神は所謂八百萬《やほよろづ》である。總稱して荒神と云ふ祟の烈しい神は、今でも地方によつて種々雜多の名を以て齋《いつ》かれて居る。山陽美作記(さんやうみまさかき)卷上に、塀和(はが)の善學(ぜんがく)、木山の生靈(しやうれう[やぶちゃん注:ママ。])、加茂の神祇、久世(くせ)の生竹(なまたけ)明神、これらは荒神であつて、もし其氏子と諍《あらそひ》でもすれば必ず相手に取付きて惱ます故に諸人之を恐るとある。中にも塀和の善學は、昔塀和村に善學と云ふ坊主があつて、其飼つて居た狐である。坊主死去の後此狐諸人に憑きて災を爲しける故に村人之を神に齋(いは)ひ、其坊主の名を以て之を呼んだのである。四國は犬神蛇持《へびもち》等の盛んな地方であるが、やはり之と別種の家筋で永く不思議の威力を有する者がある。阿波名西(みやうさい)郡下分上山(しもぶんかみやま)村の内字《あざ》粟生野(くりふの)と云ふ處の庄屋は、代々の主人必ず身の内に黑い月の輪がある。此人の草履を外の者取違《とりちが》へて履《は》く時は忽ちに腹痛する。此には速か《すみやか》に其草履を脫いで我家の竃《かまど》の上に置き詫言《わびごと》をすれば痛みが止む。又此人に對して無禮をして忽ち身體の噤(すく)んだと云ふこともある。根元《こんげん》故ある家筋だと云ふが或は神孫であらうかとある。尤も近世如何《いかが》の譯かかの月の輪は腰の邊まで下《さが》つて草履の奇事も別して無いやうになつた(阿州奇事雜話卷三)。黑い月の輪は些《すこ》しをかしいが、多分圓い痣《あざ》が八犬傳の勇士などの如くあつたことを謂ふのであらう。此種の家筋に身體の特徵のあると云ふことは自然の話である。同じ國美馬(みま)郡穴吹山(あなぶきやま)の内宮内の某家には、今でも其家に生るゝ者は必ず背中に蛇の尾の形がある(同上)。豐後の緖方氏が嫗嶽《うばだけ》の蛇神の末であるが故に蛇の尾の形があると云ふのと同日の談で、しかも阿州の方でも自ら尾形の一黨と稱して居るのである。豐後の緖方三郞の由緖は盛衰記以來の昔話である。人は之を三輪の神話の燒直しとして信用を置かぬが、兎に角四五百年前の古傳であれば、我々の硏究に取つては重要なる參考である。自分の解する所では山の名の嫗嶽はやがて長者の愛娘《まなむすめ》が神に婚(めと)られたと云ふ傳說の根據を爲す者で、ウバとは則ち第一世の巫女、譜第の神主の祖神として主神の傍に併《あは》せ祀られた者のことかと思ふ。若し然りとすれば緖方三郞の背の痣も九州の一隅を風靡するに於て大なる效果のあつたことであたう。

[やぶちゃん注:「塀和(はが)」現在の岡山県久米郡内の垪和(はが)地区。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「阿波名西(みやうさい)郡下分上山(しもぶんかみやま)村の内字《あざ》粟生野(くりふの)」現在の徳島県名西(みょうざい)郡下分上山粟生野(くりゅうの)。サイト「いつもNAVI」のこちらで、やっと確認出来た(地図有り)。

「美馬(みま)郡穴吹山(あなぶきやま)の内宮内」現在の徳島県美馬市穴吹町(あなぶきちょう)口山宮内(くちやまみやうち:グーグル・マップ・データ)。

「嫗嶽」現在の大分県竹田市神原にあった旧村名。「ひなたGIS」の戦前の地図のこちらで、確認出来る。]

 飛驒の國でよく聞く牛蒡種(ごんぼだね)と云ふ一種の家筋の性質は、右に列記した諸國の類例と比較して始めて說明がつくやうに思はれる。此名稱はもと彼等が「よく人に取附くこと牛蒡の種のやうである」と云ふ處から出て居る。最初吉城(よしき)郡の上高原(かみたかはら)に住んで居たと云ふが、今では此國北部の諸村に分散して只の農家に交《まぢは》り、別に一つの部落を爲す者は無い。此家筋の特質は名稱と同じく凡て外部から附與したもので、彼等は常に絕對に之を否認する。世間の信ずる所では、此者に恨まれ又は惡《にく》まれると必ず物憑(《もの》つき)となつて大いに煩《わづら》ふ。それが牛蒡種の仕業であることはいつでも病人の口から聞くのである。祈禱加持を以て攻立《せめた》てゝ居ると、其苦に堪へずして我は某《なにがし》村の某と名乘り、或は逐立《おひた》てられて足腰のきかぬ病人が走つて其家の戶口まで往つて倒れる。さうすれば物憑は落ちたのである。又どうしても動くことのならぬ重病であれば、其憑いて居るとふ牛蒡種の本人を連れて來て、病人を介抱させると落ちるとも云ふ。勿論彼《かの》者は覺えの無いことを主張するが、自稱被害者がどうしても承知をせず、强ひて引張つて來るのである。此話は二三年前の旅行の際自分が吉城の人から聞取つた所であるが、どの點まで精確であるか、又今日でも果して此通りであるか否か、猶多くの報告を綜合して見ねばならぬ。押上中將《おしあげちゆうじゃう》が親しく上寶《かみたから》の村長から聞かれた所では、牛蒡種は他鄕に行けば何の力も無くなると云へば、追々には沿革を無視する新人物が入込《はいりこ》んで、愈巫道《ふだう》の痕跡を此世から拭ひ去ることも遠くはなからうと思ふ。併し近い頃までは牛蒡種の邪視《じやし》の力は非情の草木にさへ及んで、此眼で視られると畠の菜大根までが萎れ痛むと云つたものである。

 此次に自分の述べたいのは諸國の土甁(とうびやう)又は犬神系統の家々の話であるが、之と比べて見て最も面白いと思ふ點は、彼等の中には蛇なり狐なり何か平素から家に養はれて居る魔物が、本主の旨を受け若しくは意を體《たい》して出て往つて人を惱《なやま》すに反して、飛驒の牛蒡種に在つては災を爲す者は直接に人の生靈《いきりやう》だと云ふことである。之を見ても元一個の迷信の傳播《でんぱ》と見るのが誤りで、時代趨向《すうかう》の然《しか》らしむる所、諸國の俗神道《ぞくしんだう》が一樣に略《ほぼ》相《あひ》類似した、而も地方的に小變化のある發展をしたことが推測せらるゝのである。

[やぶちゃん注:「牛蒡種」当該ウィキによれば、『牛蒡種(ごぼうだね、ごんぼだね)は、長野県、岐阜県、福井県に伝わる憑き物』で、『特定の家筋につく憑き物とされるが、狐憑きや犬神のような動物霊ではなく、人間の生霊を憑かせるといわれる』。『岐阜県飛騨地方では例外的に、牛蒡種は人間の霊ではなく』七十五『匹の動物が憑いているといって』、「七十五匹」の『別名で呼んでおり、かつて九尾の狐の化けた殺生石を源翁心昭が砕いた際、その破片の一つが飛騨に飛び散って牛蒡種が生まれたものとされている』。『牛蒡種の力は妬みや羨望の念がもとになるといわれており、この家の者に憎まれて睨まれた者は頭痛や精神疾患を患うといい』、『さらには牛蒡種の家の者が他家の農作物、カイコ、陶器など器物の良さを誉めただけでも、それら農作物やカイコが駄目になったり、器物が壊れたりするともいう』。但し、『郡長、村長、警察署長といった高い地位の者に対してはその効力がないともいう』。『牛蒡種の名称は、修験者が仏法守護の護法善神を憑依させる儀礼「護法実(ごぼうざね)」、または牛蒡種の憑きやすさが』、『植物のゴボウの種の付着しやすさに似ていることなどが由来と考えられている』。『南方熊楠は』「十二支考」の「蛇に關する民俗と傳說」の中で『牛蒡種を邪視に類するものと述べている』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの一九五一年乾元社刊の渋沢敬三編『南方熊楠全集』第一巻 から、当該部を示すと、『本邦にも、飛驒の牛蒡種てふ家筋有り、其男女が惡意もて睨むと、人は申すに及ばず菜大根すら萎む。他家へ牛蒡種の女が緣付て、夫を睥むと忽ち病むから、閉口して其妻の尻に敷れ續くと云ふが、覿切(てつきり)西洋の妖巫に當る』とある。

「吉城(よしき)郡の上高原」「上寶」ここは、この岐阜県高山市の上宝町(かみたからちょう)地区の広域(グーグル・マップ・データ)である。旧神岡鉱山の上流に当たる。

「土甁(とうびやう)」先に出て注した「トウビヤウ」に同じ。

「押上中將」陸軍中将押上森蔵(おしあげもりぞう 安政二(一八五五)年~昭和二(一九二七)年)。岐阜生まれ。台湾守備混成第一旅団参謀長・東京陸軍兵器本廠長・陸軍砲兵大佐・陸軍少将・陸軍兵器本廠長を経て、陸軍中将として旅順要塞司令官を務めた。柳田國男との交際機縁は不詳だが、南方熊楠(こちらの機縁も不詳)とも、かなり仲が良かったようで、熊楠の論考にもその呼称がしばしが出る。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 三一番 臼掘と舟掘

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題は「うすほりとふねほり」と訓じておく。]

 

      三一番 臼掘と舟掘

 或山で臼掘りが臼を掘つて居ると、其所へ鬼が來て、臼掘り臼掘り、お前を取つて食ふぞと言つた。臼掘りは怖(オツカナ)くなつて、逃げて山を越えて行くと、其所で舟掘りが舟を掘つてゐた、それで

 舟掘り舟掘り、俺は今鬼に追ツかけられて逃げて來たのだが、何所《どこ》かに匿してケロと賴むだ、舟掘りはそんだら其の舟の下にでも入つて匿れて居ろと言つた。臼掘りが舟の下に入つて匿れてゐると、其所へ鬼がノチノチと駈けて來て、舟掘り舟掘り、此所サ臼掘りは來なかつたかと言つた。そんな者は來なかつたと言ふと、鬼は匿すな、匿せばお前から先きに取つて食ふぞと言つた…

  (斷片である話。栗川久雄氏が岩手縣
  下閉伊郡安家《あつか》村字元村で採
  集したもの、其の後此話の元形を知り
  たくて、安家及び岩泉附近を探訪した
  けれども遂に知ることができなかつた。)

[やぶちゃん注:「舟掘り」は前話の「船矧」(ふなはぎ)と異なり、それ以前の原始的な刳(く)り船(丸木舟)を一木から彫り出す職人を指していよう。

「岩手縣下閉伊郡安家村字元村」「ひなたGPS」のこちらで確認出来る。現在も岩手県下閉伊郡岩泉町(いわいずみちょう)安家(あっか)には「元村」の字名が残っている。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 三〇番 山男と牛方

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

      三〇番 山男と牛方

 ある時、太郞といふ牛方《うしかた》が、牛三頭に魚荷をつけて、澤内(ワサウチ)(和賀郡)へ通つてゐた。そして山伏峠(岩手郡と和賀郡との境)の頂上で晝飯(ヒルメシ)を食ふ氣になり、焚火をして魚を炊(アブ)つて居ると、大きな山男がひよツくらやつて來て焚火に踏跨(バタ)がつてあたつた。そしてあゝ魚嗅(サカナガマ)りがするなア、あゝ魚嗅りがするなアと言つて、鼻をヒクヒクめかした。太郞は怖(オツカナ)くて面使(ツラヅカ)ひをしながら、さうともさ魚荷をつけて來ただもの、魚臭いのがあたりまへさと言つた。すると山男はそんだらその魚を俺にケロと言つた。太郞はこれは人から賴まれたのだから、ケラれないと言つた。すると山男はケラれなかつたらウゴ(汝)[やぶちゃん注:本文。]を取つて食ふぞと言つた。

 そこで太郞は仕方がないから、魚荷を一俵、牛の背から下してケた。山男はあゝ甘いあゝ甘いと言いながら、見てる間にそれをペロリと食つた。そしてもう少しケロと言つた。

太郞はあとはワカらないと言つた。すると又山男はそんだらお前を取つて食ふぞと言つた。仕方がないから太郞がまた魚荷をやると、あゝ甘いあゝ甘いと言つて、それもペロリと平(タヘ)らげてしまつた。そんなことで山男は遂々《たうとう》牛三背中分の魚荷をみんな食ひ盡してしまつた。さうしてから山男は又何かケロ何かケロ、俺の言ふことをきかなかつたらお前を取つて食ふぞと言つた。太郞は仕方がないから、そんだら其の牛でも食へと言つた。さうして山男が牛三疋食つてゐる𨻶に其所を逃げ出した。

 太郞が走《は》せて行き行くと船矧《ふなはぎ》が船をはいで居たので、俺は山男に追かけられて來た、助けて吳(ケ)ろと賴んだ。船矧はそんだら其所にある舟でも被つて匿れて居ろと言ふ。太郞は舟を被つて匿れて居た。

 そこへ山男がやつて來た。船矧々々、今此所サ牛方は來なかつたかと聞いた。船矧が俺

は知らぬと言うと、山男は僞言(バカ)吹け、ヘタにまごつくとお前を取つて食ふぞと言つた。船矧は魂消(タマゲ)て其所を逃げ出した。さうして行き行くと、大きな淵があつた。其岸にはまた大きな松ノ木があつたから、それへよぢ登つて居た。其所へ山男が追(ボツ)かけて來て、お前はナゾにしてそんな高い所へ上《のぼ》つたと聞いた。船矧は俺は其所にある大きな石を負(シヨ)つて上つて來た。木に登るには石を負(シヨ)わぬと分(ワカ)らぬもんだと言つた。山男はそれを眞實(ホント)にして、其所にある一番大きな石を背負つて木を這ひ上つて來た。そしてもう少しで船矧の居る枝に手が屆くまで上つて來た。船矧はこれは堪らぬと思つて、鋸《のこ》で其の下枝を挽切《ひきき》つて置いた。それとも知らない山男が、其の枝に手繰(タグ)り着くなり、ビリビリツと枝が裂折《さけを》れて山男は大石を背負つたまンま下の深淵(フチ)へ倒(サカ)さに墮ちて沈んでしまつた。さうして二度と浮び出なかつた。

 それで牛方と船矧は生命(イノチ)が助かつた。

  (岩手郡瀧澤村武田採月氏からの御報告に據る
  ものの一、大正三年頃の蒐集の分。)

[やぶちゃん注:「山男」私の最近の電子化注『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 山人の市に通ふこと』及び『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 山男の家庭』等を参照されたい。

「牛方」牛を使って荷物を運ぶのを生業としている者。

「面使(ツラヅカ)ひ」怯えて顔を左右にきょろきょろと動かすことであろう。

「船矧」十八世紀中期頃以降、上棚の上縁に矧付(はぎつけ)と称する舷側材を矧ぎ合わせる板材を組み合わせた構造の舟が建造されるようになった。その用材を山から切り出す職人を指していよう。

「岩手郡瀧澤村」「ひなたGPS」の戦前の地図でここ。盛岡の北西の現在の岩手県滝沢市。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 「熊野雨乞行事」を讀みて

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。今回は、ここ

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、本文の冒頭に入れた「(『鄕土硏究』第一卷第七號四三八頁)」は、底本では、ご覧の通り、標題の中に二行割注で入れ込まれてある。しかし、標題はポイントが大きく、ここにそれを入れると、標題が長くなってしまい、バランスが甚だ悪くなるため、以下では、かく変更した。]

 

     「熊野雨乞行事」を讀みて (大正三年三月『鄕土硏究』第二卷第一號)

 

 「熊野雨乞行事」(『鄕土硏究』第一卷第七號四三八頁)に似た事が支那に有《あつ》たと見えて、「淵鑑類函」卷廿六に「紀異」を引《ひき》て、貴州有洞池、周十餘丈、下有石牛時出池間、歲旱民殺ㇾ牛祈ㇾ雨、以ㇾ血和ㇾ泥、塗ㇾ牛即雨、盡即晴、以爲ㇾ恒。〔貴州に、洞池、有り。周(わた)り十餘丈なり。下に、石牛(せきぎう)有りて、時に池間(ちかん)より出づ。歲(とし)、旱(ひでり)すれば、民は、牛を殺して、雨を祈り、血を以つて、泥に和(わ)し、牛に塗れば、即ち、雨(あめふ)り、盡(つ)くれば、即ち、晴(は)る。以つて恒(つね)のことと爲す。〕と見ゆ。

[やぶちゃん注:「熊野雨乞行事」の筆者は「選集」に『吉田美穂』とある。人物不詳。

「淵鑑類函」(清の康熙帝の勅により、張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、南方熊楠御用達の漢籍)の当該部は「漢籍リポジトリ」にあるこちらの当該巻の影印本([031-55a])で校合したが、そちらでは略字や、判り難い異体字があり、結果して、熊楠の底本通りで採用した。但し、返り点に問題があったため、読点位置を変え、レ点一箇所を除去し、代わりに一・二点を挿入しておいた。しかし、吉田氏の原論考が読めないので、どの点が「似た事」なのかは、不明である。ネットで幾つかのフレーズで検索を試みたが、発見出来なかった。但し、一つ、気になる記事は、あった。「壺」である。「元生石高原の麓の住人」氏のブログ「生石高原の麓から」の「金の神輿と雨乞いの壺 ~御坊市熊野~」である。和歌山県御坊市熊野(いや)にある熊野(いや)神社(グーグル・マップ・データ)には、『この境内に、金の神輿(みこし)と、雨乞いの壺が埋められていると伝えられる。その場所は「朝日さし、夕日輝くその下に…」という。朱のタル七個、白玉二光、鏡なども埋められていたとか。紀州攻めにきた秀吉がかくしたものというが、いまはない。雨乞いの壺は、水を満たし、山で雨乞いをしたのでは、といわれている』とあり、さらに、『御坊市が編纂した「御坊市史」には次のように記載されている』とされて、『金の神輿(みこし)と雨乞の壺』と題し、『熊野権現神社に金の神輿を埋めているという。その場所は「朝日さし、夕日輝くその下…」という。また朱の樽七個白玉二光、鏡等所蔵していたといい、玉は豊臣秀吉南征の時』、『隠したのを明治の中頃、近くの百姓が掘り当てて持っていたが』、『当時の官人が伝え聞き、持って行ったままになっているという』。『雨乞の壺というのもある。雨乞の時この壷に水を満たし、松明をともして山で雨乞をしたのだろうという』とあった。この「壺」は意味深長である。古くは、単に水を壺に満たしたのではなく、何らかの生贄の血或いは当該動物の体内に生じた遺物・結石である「鮓荅」(さとう/へいさらばさら)などが、入れられたのではなかったか? 「鮓荅」は古くから雨乞いに用いられたからである。私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら) (獣類の体内の結石)」を参照されたい。少なくとも、本篇の内容から、熊野地方の雨乞いの行事の中で、何らかの動物の生贄に近い儀式が行われた、或いは、そうしたものの代替的象徴的儀式が残存している、乃至、していたことは、間違いあるまい。何か、それらしいものを見つけたら、追記する。

(增)(大正十五年九月記) 古河辰の「西遊雜記」三に、『豐前小倉の南三里なる須川の瀧壺に雨を祈るにふらずといふ事なし、多くの獸を狩とり壺の水上で屠りて血を壺に流し入ると、壺にすむ鮫が壺の穢れを嫌ひ、一日の内に雨をふらせて壺の淨まる迄ふらす。』とある。

[やぶちゃん注:『古河辰の「西遊雜記」』江戸中期の地理学者古川古松軒(ふるかわこしょうけん 享保一一(一七二六)年~文化四(一八〇七)年:「辰」は本名)が天明三年三月末日(一七八三年四月三十日)に備中国下道(しもみち)郡新本(しんぽん)村(現在の岡山県総社(そうじゃ)市)の自宅を出て、山陽道を、陸路、西へ歩き出し、九州諸国を巡遊して同年九月十一日(グレゴリオ暦十月六日)帰郷した紀行誌。随所に地図を挿入し、地域社会の特質を独自の観点に立って記述し、農耕具や生産器具の図解も見事である。当時の西日本の民衆の経済生活を理解するうえで有力な史料とされる(小学館「日本大百科全書」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの『吉備文庫』第五輯(山陽新報社出版部編・一九八〇年山陽新聞社刊・正字正仮名)で調べたところ、巻数は「卷之二」の誤りであることが判明した。しかも、熊楠の引用には梗概であるとしても、激しい誤りがあることも判った。当該箇所はここである。敢えて熊楠の引用には手を加えずに示したので、以下に正しい原文を視認して電子化しておくので、比較されたい。

   *

豊前の國は海邊に寄るほど風土よく見ゆれど、西南は山連々としてあし〻、九州にて上國といへども中國にくらぶれば人物言語も劣りて諸品自由ならず、小倉より南三里に須川の瀑布(たき)といふ有り、なたれし[やぶちゃん注:「なだらかな」の意か。]瀧ながら高サ百丈餘、瀧つぼ至て深く古しへより蛟(みつち)此淵にすめるを樵夫稀に見る事もあり、旱魃年にこゝに雨乞をなすにふらずといふ事なし、其法大勢にて狩をし數多の獸をとりて瀧の水上にて是を切りざみ、おびた〻゙しく血水を流しいのれば瀧つぼの穢れを嫌ひて一日の内に雨を下し、淵の淸淨になるまではふる[やぶちゃん注:ママ。「をはる」の誤記か。]事なしといふ。このこと備後の國にもあり、是は薪を數多きりて瀧つぼをうつむ事にて雨必ずふるとなり信じがたき事ながら、土人の物がたりを爰に記しあはせて後の考へに備ふ、人家もなきものすごき瀧のもやう甚おもしろく左に圖せり。[やぶちゃん注:底本には残念ながら図はないが、「国書データベース」で、写本ながら、ここで挿絵を見ることが出来る。右上の雲の中にキャプションがあり、「須川龍泉」「此滝小倉城南に落て海に入」「風景よく」「写得かたかた」とあって、その右下方に方位を示す「南」が打たれてある。]

   *

この「須川の瀑布」は現在の北九州市小倉南区大字道原にある「菅生(すがお)の滝」であろう(グーグル・マップ・データ)。すぐ近くに「須川神社」ある。]

2023/04/08

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 山婆の髮毛

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。今回は、ここ

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。

 標題は「やまうばのかみのけ」と訓じておく。「選集」は冒頭のそれに『やまんば』と振るが、採らない(但し、後の方で紀州の安堵峯附近での呼称する茸(きのこ)を「山婆(やまんば)の陰垢(つびくそ)」というルビで出すので、誤りというわけではない。しかし、それは安堵峯での別な種の様態の呼称であって、前倒しが出来るとは、必ずしも言えないと私は考えるのである)。その理由は、和名規則の規定に準じたからで、これは、本対象物(本文や後注する通り、一種の単一生物を指す呼称ではない)に対して命名した古い資料の一つと目される、安政二(一八五五)年刊の乾濬(いぬいしゅん)の著になる本草書「品物考證」にある表記を採用したのである。国立国会図書館デジタルコレクションの同刊本の「下」のここ(最終行から次の丁にかけて記載がある)にある「雲霧草」で(書名の鍵括弧のみ付加した)、『一名長髮草 キヒゲ ヤマウバノカミノケ」として項を挙げ、『「物理小識」云真山木石上生雲霧草[やぶちゃん注:「琴」の異体字。]絃亂絲无[やぶちゃん注:「無」の同前。]ㇾ花葉有黒ㇾ髪者黄如ㇾ金者』『「萬書萃錦」云衡[やぶちゃん注:原本は中央部分が「魚」。同前。]土産仙人條長髮草龍鬚草』『深山木石ニ附生ス髮ヲ乱シタルガ如ク色黒シ松蘿ノ類トス』と解説しえあることに基づいた。因みに、この「松蘿」は菌界子嚢菌門チャシブゴケ菌綱チャシブゴケ目ウメノキゴケ科サルオガセ属 Usnea を指す。乾のそれは当たらずとも雖も遠からずであることは、後注で述べる。それに添えられてある『(『鄕土硏究』第一卷五號三〇六頁參照)』については、選集では先に並置して『佐々木繁「遠野雑記」(四)参照』(丸括弧はなし)とある。佐々木繁は佐々木喜善のペン・ネームの一つ。]

 

     山 婆 の 髮 毛 (大正三年三月『鄕土硏究』第二卷第一號)

          (『鄕土硏究』第一卷五號三〇六頁參照)

 「山婆《やまうば》の髮の毛」と那智邊で呼ぶ物、予、度々《たびたび》見たり。水で潤《ぬ》れた時、黑く、乾けば、色、稍《やや》淡く成つて、黃褐を帶び、光澤有り、較《やや》堅く成る。長きは、七、八寸、又、一尺にも及ぶ。仙人抔《など》に聞くに、「ずつと長いのも有り。」と。予が見たるは、木の枝に生え、垂懸(たれかゝ)れる狀《かたち》、女の髮の如し。前年、田邊の人より、近野村(ちかのむら)の深山中で、黏(とりもち)を作る輩、不在中に、何者か、其小屋に入り、桶の蓋を打破り、中の黏を食ひ盡し、又、諸處え[やぶちゃん注:ママ。]黏(ひつ)つけあり。其を檢せんと、樹に上ると、其枝に金色の鬚の如く、長《たけ》八寸、乃至、一尺の物、散懸《ちりかか》り有《あり》し、と聞く。予、那智山中で始《はじめ》て見し時、奇怪に思ひしが、近づき、取つて、鏡檢して、輙(たやす)く、其《それ》、「マラスミウス」屬の帽菌《ばうきん》の根樣體(リゾモルフ)たるを知つたが、其の後、植物學會員宇井縫藏氏が、近野村で取り來たりしを貰ふと、予想通り、「マラスミウス」の傘狀體(ピレウス)(俗に云ふ「菌《きのこ》の傘」)一つ、生じ有《あつ》た。唯一つ故、子細に種名を定むる事は成《なら》ぬが、今も保存し有る。又、今年、初夏、田邊の自宅の、竹葉、積もれる裏よりも、二、三寸のものを見出《みいだ》した。此種は多く有るが、通常、五分《ぶ》[やぶちゃん注:一・五センチメートル。]計りで、髮や鬚と見えず、今迄、氣が付《つか》ずに居《をつ》た。一九〇六年板、「スキート」、「ブラグデン」合著「馬來半島異敎人種誌(ペーガン・レイセス・オヴ・ゼ・マレイ・ペニンシユラ)」卷一、頁一四二等に、「セマング」人が、岩蔓(アカール)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文同ポイント。]とて、尋常の靴紐より、稍、細く、黑く光るなめし革樣《やう》の物で、腰帶を織るに、頗る、美なり。「ワード」敎授、之を鏡檢すると、菌の根樣體(リゾモルフ)だつた、と出づ。茸毛《じようもう》もて編《あめ》る腰簑(こしみの)の如く、周邊(ふち)に、流蘇(ふさ)、離々(りゝ)たる樣(さま)、一四二――三頁間の圖版に明か也。吾邦の山人も斯《かか》る物を、多少の身裝(かざり)としたかも知れぬ。例の七難の揃毛(そゝげ)も異樣に光ると云ふが、此樣(こん)な物で編成(あみな)したので無いか。又、馬尾蜂(ばびほう)が、尾を樹幹(きのみき)に鎖込(もみこ)んで、多く群團(かたま)り有るのも、蜂が死《しん》で、屍《しかばね》を亡ふた上は、髮毛《かみのけ》の樣に見える。西牟婁郡富里《とみさと》村の山中に、「大神《おほがみ》の髮毛《かみのけ》」と呼ぶ葉の有る植物、生じ、樹に懸かると、聞く。何かの蔓生《つるせい》顯花植物らしい。安堵峯《あんどがみね》邊で、樅(もみ)に着く「山婆(やまんば)の陰垢(つびくそ)」と呼ぶ物を二つ採《とつ》たが、是は、鼠色で、膠《にかは》の半凝樣《はんぎようやう》の菌《きのこ》で、裏に細《こまか》い針が有る、「トレメロドン」屬の者だ。予は、從來、此屬の菌が、日本に產する記錄を見ず、松村博士の「植物名鑑」、白井博士の「日本菌類目錄」にも載せ居らぬが、予は、右の「山婆の陰垢(つびくそ)」と、今、一種、全體、純白で、杉の幹に付く者を、那智山で見出した。孰れも、砂糖を掛けると、寒天を食ふ樣に賞翫し得て、全く、害を受《うけ》ず。

[やぶちゃん注:「山婆《やまうば》の髮の毛」は何か? これは、二〇一七年四月二十八日に公開した「想山著聞奇集 卷の貮 麁朶(そだ)に髮の毛の生たる事」を見られたい(挿絵も有り)が、結論を言ってしまうと、古くから「山姥の髪の毛(やまんばのかみのけ)」と呼ばれているキノコ類のライフ・サイクルに於ける一形態(器官)である「根状菌糸束(こんじょうきんしそく)」である。木に女の髮の毛が生えるとして、しばしば怨念話などを附会させた怪談として今でも聴くが、「株式会社キノックス」公式サイト内の「きのこの雑学」の「ヤマンバノカミノケ(山姥の髪の毛)」(現在、最終ページは開けない)に以下のようにある。『ヤマンバノカミノケ(山姥の髪の毛)とは、特定のきのこ(子実体)を指す名前ではなく、樹木(小枝)や落葉上に「根状菌糸束」』(一般のキノコ類が我々が「きのこ」と呼んでいる、目に見える一般的にあの傘を持った子実体を形成する前段階として、地中や樹皮下等に形成されるもので、白色・褐色・黒色を呈し、直径数ミリメートルの紐状・糸状・根状のもの)『と呼ばれる独特の黒い光沢を持った太くて硬いひも状の菌糸の束に対して、伝説の奥山に棲む老婆の妖怪である「山姥(ヤマンバ)」の髪の毛になぞらえて命名されたもの』だとある。『この黒色の根状菌糸束を形成するきのこには、ホウライタケ属』(菌界担子菌門菌蕈(きんじ)亜門真正担子菌綱ハラタケ目ホウライタケ科ホウライタケ属 Marasmius:今回、個人ブログ「山野草、植物めぐり」の「ヤマウバノカミノケ(ウマノタケ)」で写真三葉を見出せた)『やナラタケ属』(ハラタケ目キシメジ科ナラタケ属 Armillaria)、『さらには子のう菌であるマメザヤタケ属』(子嚢菌門チャワンタケ亜門フンタマカビ綱クロサイワイタケ亜綱クロサイワイタケ目クロサイワイタケ科マメザヤタケ属 Xylaria)『のきのこが含まれ、林内一面に網目状に伸びることもあれば、数メートルの長さに達するものまであ』る、とある。『通常、きのこの菌糸は乾燥に弱い』『が、ヤマンバノカミノケと呼ばれる菌糸束は細胞壁の厚い丈夫な菌糸が束の外側を保護していることから、乾燥や他の微生物からの攻撃に対して強靭な構造となってい』るとし、さらに『ヤマンバノカミノケの子実体を発見し、根状菌糸束であることを日本で始めて明らかにしたのは、世界的な博物学者として知られている南方熊楠で』あると記す(下線は総て私が附した)。『ヤマンバノカミノケは丈夫で腐り難いことから、アフリカのギニヤやマレー半島の原住民などは織物に利用しており、日本では半永久的に光沢があることから、神社やお寺などの「宝物」として奉納しているところもあるよう』だともある。あくまで怪奇性が欲しいという御仁には、例えば、この「Togetter」内の「木の断面から髪の毛???」などは……本当の……髪の毛に見えますぞッツと!……なお、サイト「森林微生物管理研究グループ」内の『「山姥の髪の毛」について』で、私が先に示した二篇の古典籍を紹介された上で、『また』、『日本各地の神社や寺の宝物の中に「七難の揃毛(そそけ)」と呼ぶ長い髪の毛のような物があるが、これもきのこの根状菌糸束かもしれない。箱根権現、下総石下村東光寺、江州竹生島、信州戸隠山の物が有名である』「閑窓瑣談」に『よると、「上野国甘楽郡新羽村に神流川という川があった。慶長の頃、洪水の時にそこの板の橋にとても怪しげな毛が流れて引っかかっていた。地元の人が見つけて拾い上げてみたところ、毛の長さが三十三尋(約六十』メートル『)以上あった。色は黒くて艶があって美しかった。しかし何の毛であるか判らなかった。村人達はあまりにも驚いて色々と相談したが、その侭放っておくのもどうかと思い、その頃有名な易者に占わせたり、湯立ち(占いの方法)したりした。すると『この毛は、野栗』(のぐり)『権現が流したもう陰毛である。』と巫女が言ったので、毛をその神社に奉納した。当時は陰毛の宝物として有名だった。また毎年六月十五日の祭礼の時は御輿が出るのだが、後にはその陰毛を箱に入れてこれを恭しく持ち歩くそうである。」だそうだ。「鰯の頭も信心から」というから、御利益があるかもしれない』。『マレー半島のセマング人は、「岩蔓」と呼んでいる』、『靴紐より』、『やや細い黒く光るなめし革様の物で、とても美しい腰帯を織る。この岩蔓も、きのこの根状菌糸束である』(この部分は明らかに本篇の記載が原拠である)。『アフリカのガボン、ギニアでも同様に織物に用いるらしい。探せば日本にもあるかもしれない』とあった。

「仙人」修験道の行者を指しているのであろう。

「近野村」「ひなたGIS」の戦前の地図のここ

『「マラスミウス」屬』菌界担子菌門ハラタケ亜門真正担子菌ハラタケ目ホウライタケ科ホウライタケ属Marasmius 。現在、上位タクソンのホウライタケ科 Marasmiaceaeには、お馴染みのシイタケ属 Lentinula が含まれる。

「帽菌」菌界 Fungi担子菌門 Basidiomycotaの中で、子実層が裸実(全裸実又は半裸実:gymnocarpic)を呈している群を帽菌類(Hymenomycetes)と称する。

「根樣體(リゾモルフ)」rhizomorph。菌糸が集まった太い束で、菌類の内で、根のような働きをする部分、或いは、ステージ上のその様態部分を指す。

「宇井縫藏」(ういぬいぞう 明治一一(一八七八)年~昭和二一(一九四六)年)は田辺の東、西牟婁郡岩田村(現在の同郡上富田町(かみとんだちょう)。グーグル・マップ・データ)生まれで、教師・博物学者・郷土史家。旧姓は「滝浪」で、牟婁郡上三栖(かみみす)村生まれの宇井可道(よしみち 天保八(一八三七)年~大正一一(一九二二)年:官吏・銀行家・篤志家にして国学者・歌人・民俗学者。紀伊国牟婁郡上三栖村庄屋・村長、紀伊田辺藩貧院頭取、和歌山県西牟婁郡職員、田辺銀行支配人を歴任した)の聟養子となる。和歌山師範卒。田辺小、岩田小、田辺高女等で教職にある傍ら、植物、魚類の蒐集研究にも専念した。後に上阪して関西工学校に勤務。晩年は郷土史研究に没頭した。本書の他に「紀州植物誌」等の著作があり、南方熊楠の質問を牧野富太郎に斡旋するなど、熊楠の植物・魚類の方面での協力者でもあった。

『傘狀體(ピレウス)(俗に云ふ「菌《きのこ》の傘」)』ラテン語のpileus。菌類の内、所謂「キノコ」などの傘、菌類の子実体を言う。原義は「ピレウス帽」或いは「ピレウム(ラテン語pilleum)で、元々は「ピロス」(古代ギリシア語/ラテン文字転写:pilos)という古代ギリシア・エトルリア等で着用されていた「つばのないフェルトの帽子」に基づく。なお、英語では、「クラゲの傘」も指す。

『一九〇六年板、「スキート」、「ブラグデン」合著「馬來半島異敎人種誌(ペーガン・レイセス・オヴ・ゼ・マレイ・ペニンシユラ)」卷一、頁一四二』イングランドの人類学者ウォルター・ウィリアム・スキート(Walter William Skeat 一八六六年~一九五三年:主にマレー半島に於ける民族誌の先駆的調査に取り組んだことで知られる)と、同じくイングランドの東洋学者・言語学者であったチャールズ・オットー・ブラグデン(Charles Otto Blagden 一八六四 年~一九四九年:マレー語等、東南アジアの言語に精通し、特にビルマ語のモン文字とピュー文字の研究で知られる)が共同執筆した‘Pagan Races of the Malay Peninsula’。後の「一四二――三頁間の圖版」は「Internet archive」の原本のこちらで、挿入された写真画像が見られる。ここで熊楠の指示ページは、こちらである。

『「セマング」人』Semang。マレー半島の北部に住む小種族ネグリート(Negrito:「小さな黒人」の意)。背が低く、皮膚は暗黒色。言語はオーストロアジア語族に属する。「セマン族」「パンガン」とも呼ぶ。

「岩蔓(アカール)」先の指示ページの脚注1に、

   *

Mal. akar " orurat batu,i.e.Rock-creeperor Rock-vein Creeper.

   *

とある(“i.e.”はラテン語の“id est”を略したもので、“which means” 「言い換えると(in other words)」という意)。

「茸毛」動植物の表皮に生える細く柔らかい毛。和毛(にこげ)。

「流蘇(ふさ)」通常は「りうさ」と読む。糸や毛などで組んだ飾りの総(ふさ)のこと。

「離々(りゝ)たる」「穀物の穂が稔って垂れ下がるさま・草木の繁茂するさま」或いは「散らばるさま」。

「七難の揃毛(そゝげ)」超自然的なパワーを持つとされた種々の動植物等の毛のうち、特に、女性の陰毛は、呪力あるものと見做され、特に処女の陰毛を携帯すると、勝負事に勝つであるとか、辰年の女の陰毛を、三本、懐中しておれば、思うことが叶うなどと言い、嘗つては、失せ物をした際などに、自身の陰毛を抜いて、呪文を唱えれば、必ず見つかるという咒(まじな)いもあった。また「七難のそそ毛」(「七難を避けられる」の意であろう)と称して、異常に長い陰毛を宝物にしている社寺も各地に見られた(平凡社「世界大百科事典」の「毛」を参考にした)。

「馬尾蜂(ばびほう)」底本では「馬尾峯」であるが、「選集」で訂した。膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ヒメバチ上科コマユバチ科コマユバチ亜科Euurobracon 属ウマノオバチ(馬尾蜂)Euurobracon yokahamae当該ウィキによれば、『カミキリ類』(鞘翅目甲虫(多食・カブトムシ)亜目ハムシ上科カミキリムシ科 Cerambycidae)『などに寄生する。多くの文献で、シロスジカミキリ』(カミキリムシ科カミキリ亜科 Massicus 属ミヤマカミキリ Massicus raddei )『の幼虫に寄生すると解説されているが、実際にはミヤマカミキリの蛹などに寄生しており、シロスジカミキリ幼虫への寄生は起こりにくい可能性が指摘されている』。『日本、中国、台湾、朝鮮半島、インド、ラオス、タイといったアジア各国に生息する』。『日本では林相の変化や土地開発等の影響により生息環境が悪化しており、環境省のレッドデータブックで準絶滅危惧種として掲載されているほか、地域版のレッドリスト等にもリストアップされていることがある』。但し、『農家の高齢化などにともない、手入れがされないクリ畑が増え、クリを食害するミヤマカミキリが増加したことで、ウマノオバチも一時的・局地的に増加している可能性が指摘されている』。『体長は約』一・五~二・五センチメートル『程度で、メスは体長の』四倍から八『倍程度の長さの産卵管を持つことが知られている。オスの眼は大きく腎臓形、メスの眼は小さく球形』。『翅には斑紋がある』。『メスは、クリなどの木の内部に潜む寄主が作った坑道を通って樹木内部に潜りこみ、寄主の近くに長い産卵管の先を残して外に脱出したのち、産卵管を動かして寄主に卵を産み付ける』。『寄主としてはシロスジカミキリの幼虫』『やミヤマカミキリの幼虫、あるいはタマムシ』(甲虫亜目Elateriformia下目タマムシ上科タマムシ科ルリタマムシ属タマムシ Chrysochroa fulgidissima )や、『ボクトウガ』(鱗翅目ボクトウガ科ボクトウガ亜科ボクトウガ属ボクトウガ Cossus jezoensis )『など』、『さまざまな候補が挙げられており、特にシロスジカミキリの幼虫は多くの文献で寄主として言及されている』。『このように寄主となる種に諸説があるのは、ウマノオバチが寄主として利用している種が』、『樹木の中心近くに潜んでいるため、実際に寄生している様子を確認するのが困難であったためである』。『しかし』、栗『の木材中から得られたサンプルから、本種がミヤマカミキリの蛹に寄生していることが明らかになり、本種はカミキリムシの幼虫ではなく』、『蛹に寄生することが示唆された』、『また、シロスジカミキリの蛹の発生時期(』九『月頃)とウマノオバチの産卵時期(』五『月頃)が重ならないため、シロスジカミキリには寄生しない可能性があると指摘されている』とある。『本種が属する Euurobracon 属は、コマユバチ科コマユバチ亜科』Braconinae『に含まれる小さい属で、世界で』十『数種が知られる。日本からは本種のほかにヒメウマノオバチ 』Euurobracon breviterebrae『が知られ、翅脈の形状や産卵管の長さなどで区別できる』とある。なお、『学名の種小名は yokahamae で』あるが、『原記載論文で横浜のつづりを誤って名前に使用したものと考えられて』おり、『一部の文献では、ウマノオバチの種小名を yokohamae としているが』、『国際動物命名規約上は問題ない記載であるため、yokahamae が正しい学名として扱われる』とあった。

「西牟婁郡富里村」「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」の「和歌山県西牟婁郡富里村」を参照されたい。現在の田辺市のこの附近(グーグル・マップ・データ)。

『「大神《おほがみ》の髮毛《かみのけ》」と呼ぶ葉の有る植物、生じ、樹に懸かると、聞く。何かの蔓生《つるせい》顯花植物らしい』不詳。

「安堵峯」和歌山県と奈良県の県境にある安堵山(あんどさん:国土地理院図)。標高は千百三十四メートル。

「樅(もみ)」裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科モミ属モミ Abies firma

「陰垢(つびくそ)」この場合は、女性生殖器のそれ。

『「トレメロドン」屬』ハラタケ綱キクラゲ目ヒメキクラゲ科ニカワハリタケ属ニカワハリタケ(膠針茸)属Tremellodon 。別名「ネコノシタ(猫の舌)」。現在、本邦に分布が確認されている。但し、現行のタイプ種ニカワハリタケを見ると、Pseudohydnum gelatinosum とある。サイト「きのこ世界」のこちらを見ると、食用で、『ゼリーのような食感』とある。

『松村博士の「植物名鑑」』植物学者松村任三(じんぞう 安政三(一八五六)年~昭和三(一九二八)年)の「帝國植物名鑑」。大正元(一九一二)年に八年かけて完成・出版されたもの。

『白井博士の「日本菌類目錄」』植物病理学者・菌類学者白井光太郎(みつたろう 文久三(一八六三)年~昭和七(一九三二)年)が三宅市郎と共著で刊行した「日本菌類目錄」(大正六(一九一七)年東京出版社刊)。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 影の神祕

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。今回は、ここ

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。]

 

     影 の 神 祕 (大正三年三月『鄕土硏究』第二卷第一號)

 

 「影の神祕」(『鄕土硏究』第一卷第十號の五九九頁[やぶちゃん注:「選集」の編者割注に、『桜井秀「俗信雑記」中の一節』とある。最後に附した私の注も参照。])に似た事、後印度に在つたと覺へる[やぶちゃん注:ママ。]が、今、確かな證を見出《みいだせ》ぬ。但し、數年前、『文藝俱樂部』で見たは、某の、夜(よる)、未嫁(みか)の女が、自分の月水(げつすゐ)に汚(けが)れた湯具(ゆぐ)を、深更、厠中《かはやうち》に持ち入りて、燒くと、焰中《ほのほのなか》に自分の夫《をつと》たるべき人の、姿を現《げん》ず。曾て、或娼妓が此方(このはう)を驗《ため》せしに、焰中に現れた男が、日々、妓樓の門を通る下駄直しの穢多《えた》男だつたので、「此世に存命するも、面白き事無し。」とて、自殺した、と有つた。櫻井君が引《ひい》た中古の例二つ〔「小右記」や「今昔物語」に出た、春宮《とうぐう》の尊影が御不在中の宮中の灯火にうつり、若い官女の形ちが、本人の出仕しおらぬ女御殿《にようごどの》の、灯火《ともしび》にうつりしといふ〕の外に、「續世繼(ぞくよつぎ)」敷島の打聞(うちき)きの卷に、『中頃、男ありけり。女を思ひて、時々、通ひけるに、男、或所にて、灯火《ともしび》の焰《ほのほ》の上に、彼《かの》女の見えければ、「是は、忌むなる者を。火の燃《もゆ》る所を搔落《かきおと》してこそ、其人に飮ますなれ。」とて、紙に包みて持《も》たりける程に、事繁《ことしげ》くして、紛《まぎ》るゝ事の有《あり》ければ、忘れて、一日、二日、過ぎて、思ひ出ける儘に、往《ゆ》けりければ、「惱みて、程なく、女、かくれぬ。」と云《いひ》ければ、「いつしか、往《ゆき》て、彼《かの》燈火の搔落したりし物を見せで。」と、吾《わが》過ちに、哀しく覺えて、『「常なき鬼に一口に食《くは》れければ、心憂き蹉跎(あしずり)をしつべく歎きなきける程に、ご覽ぜさせよ。」とにや、此御文を見付て侍る。』とて、取り出だしたるを見れば、「鳥部山《とりべやま》谷《たに》に烟《けぶり》の見えたらばはかなく消《きえ》し我と知らなん」』云々と有る。

[やぶちゃん注:「影の神祕」文中に注した桜井秀(しげる 明治一八(一八八五)年~昭和一八(一九四二)年)は風俗史家。当該ウィキによれば、東京出身で國學院大卒。明治三九(一九〇六)年、『関保之助・宮本勢助らと、風俗史の研究会を結成』、昭和二(一九二八)年、『「平安朝女装ノ史的研究」で京都帝国大学文学博士』を授与され、『東京帝国大学史料編纂所員、宮内省図書寮御用掛など』を歴任、『日本女子大学でも教えた』とあり、『「俗信」という単語を初めて使用した研究者の』一『人と見られる』とある。また、ウィキの「俗信」によれば、『「俗信」という熟語は』「大漢和辞典」にも『記載が無く、中国では使用が確認できず、鈴木棠三は、「俗間信仰」などの縮約であり、近代の造語と見る』。『「民間」信仰ではなく、「俗間」なのは、江戸時代に「俗神道」などの語があることから、俗信という語感が受け入れられたのではないかとし』、『少なくとも大正』二(一九二七)『年に創刊された雑誌『郷土研究』に掲載された南方熊楠の「紀州俗伝」に倣ったものと見られ、この中に今でいう俗信の意も含まれているとされる』とあり、更に『同誌の第一巻十号に掲載された』、まさに、ここで熊楠が指示した桜井の論考『「俗信雑記」が俗信という語の最初見とされる』とあり、さらに『桜井秀は風俗史研究家で民俗学者ではなかった』から、「俗信」という『表記使用例の最初は民俗学論』文『ではなかった』とあった。残念ながら、桜井の当該論考はネットでは見当たらない。

「文藝俱樂部」当該ウィキによれば、明治二八(一八九五)年一月から昭和八(一九三三)年一月まで、『博文館が出版した文芸雑誌』で、当初は『純文学誌として出発したが、大正期以降、大衆化した』とあり、『泉鏡花はこの雑誌から世に出』、『幸田露伴・田山花袋・国木田独歩・樋口一葉らも小説を書いた。一葉は』、『文学界』に『連載した』「たけくらべ」を、『この雑誌に一括掲載して、文名を確かにした』などとある。

「小右記」平安中期の公卿藤原実資(さねすけ 天徳元(九五七)年~永承元(一〇四六)年)の日記。

『「今昔物語」に出た、春宮《とうぐう》の尊影が御不在中の宮中の灯火にうつり、若い官女の形ちが、本人の出仕しおらぬ女御殿《にようごどの》の、灯火《ともしび》にうつりしといふ』不詳。識者の御教授を乞う。

『「續世繼(ぞくよつぎ)」敷島の打聞(うちき)きの卷』「續世繼」は「今鏡」の別名。「今鏡」が平安末期の歴史物語。全十巻。「小鏡」とも呼ばれる。嘉応二(一一七〇)年成立。作者未詳。「大鏡」の後を継ぐ書として、「大鏡」の記事が終わる後一条天皇の万寿二(一〇二五)年から高倉天皇の嘉応二(一一七〇)年までの十三代、百四十五年間を扱っている。叙述は「大鏡」の語り手である大宅世継(おおやけのよつぎ)の孫で、百五十歳を越える老女が語るという体裁をとっている(以上は平凡社「世界百科事典」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの新訂増補『国史大系』 第二十一巻下(黒板勝美編・昭和一五(一九四〇)年国史大系刊行会刊)のここから「うちぎき第十」が視認でき、熊楠の引用部は、その冒頭である。一応、それと校合したが(殆んどひらがな)、それ自体の歴史的仮名遣の誤りがあるので、読みは、それには従ってはいない(私は「今鏡」の活字本を持たない)。但し、底本にも、また「選集」にも従うことなく、黒板氏の頭注を参考に本文を確定しておいた。]

追 加 (大正十五年九月記) ロシア人がまだ基督敎に化せざる時、火を、社《やしろ》に祀り、神官、守りて、絕えず、燃えしめた。病人の成行きを知りたい友達が、夜分其火を見おると、病人の影が、うつる。其樣子で、死ぬとか、治るとかを、翌朝、報じた(一六〇一年、ペサノ板、オルビニの「スラヴヰ國記」、五五頁)。較《や》や之に似た迷信が、英國北部に存し、三年つゞけて、マーク尊者忌(四月廿五日)の夜、十一時から一時迄、寺の車寄せで見て居ると、三年めの其夜から、來《きた》る十二月内に、其寺に葬らるべき人が、つゞいて入り來《きた》る。其間だ、見て居《を》る人が、眠らば、年内に、其人、自分も死ぬ、といふ。或寺の穴掘り爺は、每年、その夜の事を、怠らず、年内の穴掘り賃の予算を立てたとか。(一八七二年、依丁堡《エジンバラ》板、チャムバースの「日次書《ひつぎがき》」、一卷五四九頁。一八七九年板、ヘンダーソンの「北英民俗記」、五一頁)。

[やぶちゃん注:「一六〇一年、ペサノ板、オルビニの「スラヴヰ國記」、五五頁」マヴロ・オルビーニ(Mavro Orbini 一五六三年~一六一四年)はアドリア海の東岸に位置したスラブ系商人の都市国家ラグーザ共和国の首都ラグーザ(現在のドゥブロヴニク。グーグル・マップ・データ)で生まれ、ハンガリー王国でベネディクト会修道院長を務め、その後、ラグーザに戻り、余生を過ごした。年代記作家でスラヴ諸国に精通していたことで知られ、ここに言うのも最も知られている一六〇一年にイタリア語でイタリアのペーザロ(グーグル・マップ・データ。熊楠の言う「ペサノ」)で刊行された英訳で‘The Realm of the Slavs’(「スラヴ王国」)を指す(以上は英文の彼のウィキに拠った)。

「マーク尊者」「新約聖書」の「マルコによる福音書」の著者とされる聖マルコ(英語:Saint Mark)のこと。カトリック教会・正教会での彼の記念日(記憶日・聖名祝日)は四月二十五日(ユリウス暦を使用する正教会では五月八日に相当する)。

『一八七二年、依丁堡《エジンバラ》板、チャムバースの「日次書《ひつぎがき》」、一卷五四九頁』十九世紀半中葉、科学と政治の世界で非常に影響力があったスコットランドのロバート・チェンバース(Robert Chambers 一八〇二年~一八七一年:出版業者であると同時に地質学者・法学博士・進化論学者・雑誌編集者にして作家でもあった)の‘The Book of Days’。「Internet archive」の一八六三年版の同じページで確認出来た。

『一八七九年板、ヘンダーソンの「北英民俗記」、五一頁』イギリスのウィリアム・ヘンダーソン(William Henderson 一八一三年~一八九一年)なる人物が書いたNotes on the Folk-lore of the Northern Counties of England and the Borders(「イングランド北部の郡と国境域の民間伝承に関するノート」)。「Internet archive」の原本で当該ページはここ。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 二九番 鬼の豆

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

      二九番 鬼 の 豆

 昔々、ずつと山の奧の方に鬼が住んでゐた。或る日鬼が山から出て來て、雫石《しづくいし》だと俺の家の樣な所さ來てダエラ姉捕(サラ)つて行つて妻(オガダ)にして居た。

 したばウナの樣な弟は每日々々姉の所さ行つて、見たえてきかねエがつた。家の人達はそんだら行け只《ただ》鬼に喰ひ殺されないやうにして來いと言つた。するとおんぢは段々に山の方さ行つて漸く鬼の家さ辿り著いた。

 姉はオンジ、オンジ、何しに來てや。此所は鬼の家で人間が來れば皆捕つて喰《く》はれる。早く氣附かれなえ内に家さ戾つて行げと言つた。弟は、俺アやんた、姉樣見たいと思つて玆《ここ》さ來ただす、戾らなえと言ふと、そんだら俺隱してけら、默つて居えやポ、じき鬼テデヤ來るこつた。

 オンヂが默つて隱れてゐると、鬼テデは山から小山の樣に澤山の薪を取つて背負つて來てドサツと下ろして家の中さ這入《はい》つた。そしてあゝ人間臭い人匂(カマリ)す、あゝ人間臭い、人匂すと言つて鼻を動かして居た。誰か人間は來なかつたか、どうも人臭い人臭いと言つた。すると妻が一人の人間が來て居るには來て居るが、その人間と三つの賭《かけ》をして負けた方が殺されることだが、どうだと言つた。

 鬼テデは人間を食ひたい一方だから、どんな賭でも自分が勝つものと思ひ込んで、其のオンジと賭をした。第一番は据風呂《すゑぶろ》を二つ出して、水を汲む事であつた。オンジの方は直きに水が一杯になつたが鬼テデの方はどうしても一杯にならなかつた。それは下の方に密かに穴が明けられてあつたからだ。鬼テデは負けてしまつた。第二番目は藁繩を絢《な》ふ事になつた。妻は二人に藁一把づつ與へたが、鬼テデの方は荒藁、弟の方は柔かく打つた藁であつたので、今度も弟の方はスルスルと早く絢つたし、鬼テデの方はいつまでも、ガサガサして居て絢えなかつたので、又負けた。そこで今度は三番目の勝負になつた。三番目の勝負は、互に煎豆一升を食ふことであつた。妻は鬼テデの方には眞黑になるまで煎つた豆をやり、弟の方へは恰度味のよい加減の豆をやつた。二人は豆を食ひ初めたが、鬼テデの豆は苦(ニガ)くてとても食はれず、弟の方は甘いから、どんどん食ひ進んで、見て居る間にペラリと食つてしまつた。そこで又鬼テデが負けた。さうして人間を喰ひ損ねた。

 それから黑焦げになつて食はれない豆を、鬼の豆と言ふやうになつた。

  (此の話の發端は、父親が自分の娘を、鬼にでも
  攫《さら》はれて行けばよいと言つたので、鬼が
  攫つて行つたのであつた。最後に鬼は謀られて殺
  され、姉弟は寶物を持つて家に歸つて來る。)
  (尙又結末の方でも、鬼テデはさらに三度目の勝
  負を挑んで、弟と湯の呑み競べをする。姉の計ら
  ひいで、弟のは口加減に合ひ、鬼テデの方は熱湯
  を呑ませられて、腹が燒けて死んだ。そこで弟と
  姉とは鬼の館の寶物をみんな持つて家に還つた。)
  (又三度目の賭に、カクレカゴをする。鬼テデを
  木の唐櫃に入れて葢《ふた》をして、葢に穴を開
  けて其所から熱湯を注いで殺してしまつた。そし
  て姉弟は里に還る。田中氏はかく思ひ出してくれ
  た。同氏御報告の分の五。)

[やぶちゃん注:「雫石だと俺の家の樣な所さ來て」方言のせいか、この箇所、ちょっと意味が私にはとれない。「雫石」は現在の岩手県岩手郡雫石町(しずくいしちょう:グーグル・マップ・データ航空写真)のことであろうとは思う。

「田中氏」既出既注の田中喜多美。]

早川孝太郞「三州橫山話」 種々なこと 「柿をならせる手段」・「花ばかし咲いて實のならぬ梅」・「種々な咒ひの歌」・奥附 / 早川孝太郞「三州橫山話」正規表現オリジナル注附~完遂

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。今回はここから

 標題は「いろいろなこと」と訓じておく。本篇の掉尾のそれも同じく読んでおく。

 これを以って、「三州橫山話」は終わっている。私は、多くの民俗学研究者の著作を読んできたが、早川氏ほど、心の籠った文章に接したことはない。既に、またぞろ、早川孝太郎ロスが始まる危惧がしている。]

 

 ○柿をならせる手段  柿の木に實のならない時は、正月十六日の朝、小豆粥を煮て、木元へ行つて、一人が鉈を振上げて、此柿の木はちつとも實がならないから、伐つてしまふと言つて、根元を鉈で切ると、一人が其を制して、此柿の木はきつと立派に實がなるから今度だけは助けて吳れと侘び、それから柿の木に向つては、私が今度だけは詫びてやつたから、どうか澤山なつて吳れと云つて、持つてゐる小豆粥を切口に與へると、翌年から必ずなると謂ひます。

[やぶちゃん注:「正月十六日」旧正月の翌日。恐らく、嘗つては、旧暦のその日を指して行ったものであろう。旧暦の当日は、「あの世の正月」の相当する。中国・台湾・日本に残る旧正月の行事は、元は、祖霊や精霊を祀り、総ての衆生の霊魂を供養する神聖な日であった。現在の本邦でも地方で各地に残るが、特に沖縄の「ジュールクニチー(後世のお正月)」「後生(グソー)の正月」としてよく知られる。「オリオンビール」の公式サイト内の『ご先祖様の正月「ジュールクニチー(十六日祭)」とは』を参照されたい。]

 

 ○花ばかし咲いて實のならぬ梅  ある婆さんが、其屋敷にある梅の木に花ばかり咲いて、實がならないのに腹をたてゝ、根元へ萱《かや》を積んで、どんどん火を燃して木を苦しめて、思ひ知れと言つた所が、相變らず花ばかり咲いて、實は少しもならないので、このたびは婆さんが後悔して、每朝其梅の根元へ行つて散々詫言《わびごと》を謂ふと翌年から澤山實がなるやうになつたと謂ひました

 梅や柿に限らず、密柑なども澤山なつた時は、家内中の者が、其傍へ行つて、見事見事と譽め言葉をかけてやると、益々なると云ひますが、之に反して、折角なつた物を、不味いと言つたり、玩具にしたりすると、木が悲しがつて、ならなくなると云ひます。

[やぶちゃん注:第二段落の「言葉をかけてやると」は底本では「言葉をかやてやると」となっている。方言かとも思ったが、ここで方言を使うのもおかしいので、誤植と断じ、後の『日本民俗誌大系』版の当該部によって訂した。]

 

 ○種々な咒ひの歌 

 血止めの歌 手近にある木の葉をとつて、嚙んで傷口に押へつけて

  血ノ道ヤ血ノ道ヤ父ト母トノメグリアヒ、血ノ道トマレ血ノ道ノ神と三度唱へる。

 鼬が行く手を橫切つた時は、三步後に戾つて、

  イタチ道チ道チカ道チガヒ道、ワガユク先ハアラヽギノ里、と三度唱へて行く。

 山犬に遇つた時は

  神國ニ人ヲ恐レヌ畜類ハワガ日ノ本ニ居ヌハズノモノと三度唱へる。

 盜賊の用心に唱へる歌は、就寢前に

  ネルゾ寢タタノムゾタル木夢ノ間に、何事アラバ起セ桁梁《けたはり》と三度唱へる。

 火の用心の歌

  霜柱氷ノ梁ニ雪ノ桁、雨ノタル木ニ露ノ葦草 と三度唱へて寢る。

 吾が許《もと》を通り過ぎて行く人を立寄《たちよ》らする歌と謂つて

  アマツ風雲ノ通ヒ路フキトヂヨ 乙女ノ姿シハシトヾメン

 此種の歌は未だ澤山ある事と思ひますが、記憶にあるのはこれだけです。

 蜂にさゝれぬ用心には、

  シシヨゴシヨムニシンシンシンと唱へる

 狐に化かされぬ要心には

  狐ヲ喰ツタラウマカツタ マンダ(未ダ)奧齒ニハサガツテ居ル と言へば狐が恐れて逃げると謂ふ。

 蛇に喰付《くひつ》かれぬ要心には

  蛇モマムシモ喰ツクナ 知立《ちりふ》猿投《さなげ》ノ大明神 と三度唱へると謂ふ。

[やぶちゃん注:「鼬が行く手を橫切つた時」「ノシ餅を運ぶ鼬」で注した通り、ニホンイタチ(イタチ)は、本邦では古くから、キツネやタヌキと同様に化けるとも言われ、妖怪獣の一種に数えられた。

「山犬」今や、野犬(のいぬ/やけん)ということになってしまったが、民俗社会では、ニホンオオカミを指した。「鹽を好む山犬」の私の注を参照されたい。

「アマツ風雲ノ通ヒ路フキトヂヨ 乙女ノ姿シハシトヾメン」言わずもがな、「小倉百人一首」の十二番歌で僧正遍照(俗名は良岑宗貞(よしみねのむねさだ))の詠。「古今和歌集」雑歌上の一首(八七二番)が原拠。元のものを示す。

   *

     五節(ごせち)のまひひめを見てよめる

            よしみねのむねさだ

 あまつかぜ雲のかよひぢ吹きとぢよ

    をとめのすがたしばしとどめむ

   *

前書の「五節のまひひめ」は、五節の舞いを舞う舞姫。平年は公卿から二人、殿上人・国司から二人、「御代始(ごだいはじ)め」には、公卿から二人、殿上人・国司からは三人の未婚の少女を召して当たらせた。

「桁梁」の読みは『日本民俗誌大系』版の当該部によって補った。

「記憶にあるのはこれだけです」は、底本では最後が「にれだけです」とあるが、誤植と断じ、『日本民俗誌大系』版の当該部によって訂した。

「知立」愛知県知立市西町(にしまち)神田(じんでん)にある知立(ちりゅう/ちりふ)神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。三河国二宮で、旧称は「池鯉鮒(ちりふ)大明神」。江戸時代には「東海道三社」の一つに数えられた。当該ウィキには、『近隣』二十『数か村の産土神として、また』、『蝮除け・長虫除け・雨乞・安産の神として信仰された』。『特に神札を身につければ』、『蝮蛇に咬まれないとされ、北関東から山陰地方に至る各地に分社が建てられた』とあり、「東海道名所図会」には、『知立神社について』、『祭神・多宝塔・古額・末社・神籬門・石橋・的場・除蝮蛇神札』()『・御手洗池などが記述されている』とあり、また、サイト「知立(池鯉鮒)市の観光案内」の知立神社のページに、『嘉祥三』(八五〇)『年』、『慈覚大師(円仁)が当地に来た時に、蝮』(まむし)『に咬まれたので、当社に参拝し』、『祈願すると、痛みも腫れもなくなったことから、古来、蝮よけ・長虫よけの信仰があり、当社の神札を携帯して山に入っても、蝮に咬まれないという』とあり、また、『三河の国の一宮は、豊川市の砥鹿』(とが)『神社で、知立神社は二宮となっている。ちなみに三宮は豊田市の猿投神社であり、四宮は豊橋市の石巻神社であるといわれている』とあって、以下の猿投神社とともに、第二・第三の神霊パワーを持った神社であったことが判る。

「猿投」愛知県豊田市にある猿投神社当該ウィキによれば、『三河国の三宮とされたという』とあり、『建治元』(一一七五)年には『最高位の正一位に達した』とあった。また、愛知県豊田市の公式観光サイト「ツーリズムとよた」の猿投神社のページに、。猿投神社の主祭神は、大碓命(おおうすのみこと)。大碓命は、古墳時代の皇族の一人で、小碓命(おうすのみこと=日本武尊)の双子の兄にあたります。大碓命はこの地の開拓に尽くしていましたが、猿投山で毒ヘビのために亡くなったとされています』とあったので、蛇除けの神として納得される。]

 

 

[やぶちゃん注:以下、奥附。「三州橫山話」の右から左のそれは最上部に細い罫線で囲われてあり、その左右から波線が伸び、それが全体の奥附を四角に囲っている。なお、その下方には本底本が復刻版(限定五百部で昭和五一(一九七六)年十二月発行・名著出版刊)であることを示す横書が、三行に亙って記載があるが、これは著者没後で、早川氏の預かり知らぬ記載であるからして、電子化しない。]

 

       話 山 橫 州 三

 

 大 正 十 年 十 二 月 二 十 日 印 刷
               
 大 正 十 年 十 二 月 廿 五 日 發 行

     著 作 者   早 川 孝 太 郞

           

     發 行 者   岡  村 千  秋

           

     印 刷 者   佐 々 木 悛 一

           

     印 刷 所     富 士 印 刷 株 式 會 社

        ~~~~~~~~~~~~

         

   發 行 所    鄕 土 研 究 社

               

   發 賣 元 

             東 京 堂 書 店

                京  二   七  〇 

 

2023/04/07

早川孝太郞「三州橫山話」 種々なこと 「座敷小僧」・「屋根裏で聞こえた三味線」・「佛檀に殘る子供の足跡」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。今回はここから

 標題は「いろいろなこと」と訓じておく。なお、これが本文の最終パートとなる。]

 

 ○座敷小僧  北設樂郡本鄕村の、キンシと云ふ酒釀造家は四五十年前迄は非常に榮えた舊家だつたさうですが、この家の奧座敷には、座敷小僧が住んでゐると云つて、雇人《やとひにん》などが、夕方雨戶を閉めに行く時など、時々姿を見かけたと云ひました。十歲位の子供だつたと云ふ事は聞きましたが、確かな事は聞きません。其家は今は沒落して無いさうです。

[やぶちゃん注:「座敷小僧」ウィキの「座視坊主」を引く。『座敷坊主(ざしきぼうず)または座敷小僧(ざしきこぞう)は、日本に伝わる妖怪で、静岡県周智郡奥山村字門谷(現・静岡県浜松市)などに現れたと言われる』。『村の中のある家の主人がイノシシを落とし穴で捕らえた後、その穴に金を持った人が落ちて死んだ、または』、『盲目の金持ちをその穴に落として殺害したという話や』、『その家に泊まった坊主を殺害した、暗い中』(うち)『に連れ出して殺したなどの話があり』、『その死んだものの霊が現れるのだといい』(これは後でも述べられるが、典型的な異人殺しの「六部殺し」の結合型である)、『その家に泊まった人の床の向きを逆にしたり、枕返しをすると言われる』。『その姿は』五、六『歳ほどの子供のよう』であるとも、『坊主姿の按摩のようともいう』。『大津峠』(静岡県浜松市天竜区水窪町(みさくぼちょう)奥領家(おくりょうけ)にある大塚峠(グーグル・マップ・データ)か。現行、航空写真で見る限りは人家はなく、道はあるが、ストリートビューもない)『には、その殺された者を供養するためといわれる立て石があるが、その家には今なお祟りによって気のふれる者があるという』。『ほかの村でも坊主頭の按摩のようともいう』。『また』、『三河国北設楽郡本郷村(現・愛知県北設楽郡東栄町)では座敷小僧の名で伝わっており、ある酒屋を営む旧家に』十『歳ほどの子供のような姿で現れたといい、雇用人が奥座敷の雨戸を閉めに行ったときによく姿を見たという』(これ、出典は別だが、明かに本篇が原拠であることが明白である)。『南設楽郡長篠村大字横川(現・新城市)では、神田という裕福な家に座敷小僧が現れていたが、茶釜にツモノケ(機織りの器具)を当てるという禁忌を犯したため』、『座敷小僧が家を去り、家はそれ以来』、『衰退してしまったという』。『岩手県では旧家に座敷小僧が現れるといい、小児の姿をした家の神とされる』。『下閉伊郡岩泉町のある家では、奥座敷の真中の柱を踏むと枕元に現れたといい』、四、五『歳ほどの赤黒い裸の坊主で、身長は』二『尺ほど、赤い綺麗な顔をしていたという』。『岩手県紫波』(しわ)『郡のある旧家でも』、『赤い顔の座敷小僧がおり、夜』、『炉に現れて』、『火を起こしたりしたという。また』、『この地方では、座敷童子の正体をムジナとする説もある』。『宮城県本吉郡大島村(現・気仙沼市)でも座敷坊主が家に現れて枕返しをした事例がある』。『民俗学者』『佐々木喜善の著書においては』、『座敷坊主は座敷童子の一種として分類されており』、『六部(旅の僧)を殺して金銭を奪った者が祟りに遭うなどの「六部殺し」の話が座敷童子の性格に付加され、座敷坊主の姿となったとする説もある』とある。座敷童子(ざしきわらし)は「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一七~二三 座敷童・幽靈」や、『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 ザシキワラシ(一)・(二)』を参照されたい。当該ウィキも、まあ、コンパクトによく纏めてはある。

「北設樂郡本鄕村」愛知県北設楽郡東栄町(とうえいちょう)本郷(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

 

 ○屋根裏で聞こえた三味線  明治二十四年頃の秋のこと、私の家で、村の女を多勢《おほぜい》雇つて、遠くの山へ草刈に行くとて、朝未だ暗い中《うち》、仕度をして、皆の者が門を出ようとする時、屋根裏で三味線の音が頻りにしたと云ひます。まだ家の中に居た者も、門の外に立つて居たものも明らかに聞いたと云ひました。家に三味線もなく、屋根裏に人間が住んでゐる譯もないので、皆不安に思《おもひ》にかられたと云ひましたが、祖母が、今日は親戚の娘の命日に當るから其娘の思ひが來て、彈いたのだらうと云ふ解決を與へて、濟んだと云ひました。

 其娘は、生まれながらの盲目であつた爲め、村のものが、蚯蚓《みみず》の生れ變りだなどと云つてゐたと謂ひますが、三味線を習つてゐて、十八の年に亡くなつたのださうです。

[やぶちゃん注:しみじみとした哀感に満ちた怪奇実話である。寧ろ、「祖母が、今日は親戚の娘の命日に當るから其娘の思ひが來て、彈いたのだらうと云ふ解決を與へて、濟んだ」古き良き本邦の民俗社会が羨ましい。垂れ流される見るからに人造されたエセ心霊映像やら、「口裂け女」や「ひとりかくれんぼ」なんどの糞都市伝説の蔓延る現代は、心霊的にも極めて貧しく、愚劣極まりない。

「明治二十四年」一八九一年。作者は当時、満二歳未満である。]

 

 ○佛檀に殘る子供の足跡  盆の十四日の夜は、精靈が還つてくるもの故、佛壇の前に、膳に白砂を盛つて供へて置くと、可愛らしい子供の足跡があると謂ひます。

[やぶちゃん注:「檀」と「壇」の混在はママ。なお、底本では、「供へて」は「供つて」であるが、後の『日本民俗誌大系』版の当該部で訂した。

「可愛らしい子供の足跡がある」かなり昔、「座敷わらし」を特集した雑誌で、出現することで有名な東北の旧家で、前夜に米を撒いておいた地面に、極めて小さいが、確かに、人の足型分の米が抜けた足跡がある写真を見たことがある。]

「曾呂利物語」正規表現版 第五 六 萬上々の有る事 / 「曾呂利物語」電子化注~完遂

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした

 御覧の通り、本篇を以って「曾呂利物語」は終わっている。]

 

     六 六 萬(よろづ)上々(うへうへ)の有る事

 土佐國(とさのくに)に、或(ある)獵師、「みの庄右衞門(しやうゑもん)」と云ふ、ありけり。

「山中に、隱れなき、『ぬた』あり。これに、一入(しほ)、さまざまの物、寄る。」

と云ふ。[やぶちゃん注:「ぬた」「沼田」。先行する「第三 五 猫またの事」の私の注を参照されたい。]

 さ候へば、彼(か)の者、鐵砲を擊つこと、上手にて、彼(か)のぬたへ登り、

「猪(しゝ)、擊たん。」

と相(あひ)待つ所に、先づ、一番に、蚯(みゝず)、來りて、「ぬた」に入る。

 其の次に、蟇蛙(ひきがへる)來りて、彼(か)の蚯を食して、蟇蛙、「ぬた」を打つ。

 其の次に、蛇(くちなは)來りて、蛙を呑む。

 其の次に、蛞蝓(なめくじり)來りて、蛇(くちなは)の𢌞りを、二、三遍(べん)、𢌞れば、蛇は、忽ちに竦(すく)みて、死(し)しぬ。

 庄右衞門、これを見て、

『扠々(さてさて)、不思議なる事かな。其の上々がありて、それぞれに平(たひ)らぐる。』

と思ふ内に、大きなる猪(ゐのしゝ)來りて、又、蛞蝓(なめくじり)を食(しよく)して、「ぬた」を打つ。

 庄右衞門、

「きつ」

と見て、

『すはや。』

と思ひ、鐵砲に火をかけ、既に擊たんとしけるが、

『待て、少時(しばし)、我が心。いやいや、斯樣(かやう)に上々がありて、下々(したじた)を平(たひ)らぐるなり。あの猪を打ちなば、又、何者かありて、我が命(いのち)をとらん。』

と、思ひすまして、案じけるに、

「我が名は、『みの庄右衞門』と云へば、文字こそ變れ、『身(み)の上(うへ)』。」

と覺えたり。[やぶちゃん注:彼の名である「みの庄右衞門(みのしやうゑもん)」は、「身の上」とは表記文字が異なるが、「身の上」(みのしやう)と読めるという言い換えた事実に思い至ったのである。彼は、心の中で、『ここは一番、この「みの庄右衞門」の「身の上」こそが大事だ。』と認識したのである。]

『とかくして、歸らんには如(し)かじ。』

と出で立つ所に、虛空(こくう)より、

「扠(さて)も。庄右衞門、分別者(ふんべつもの)かな。」

と、

「呵々(からから)」

と笑ふ聲、いづくともなく、耳に響く。

『怖ろしき事。』

に思ひて、我が家(や)に歸りぬ。

 されば、ものの報いは、是れにしも、限らぬ事ながら、知らぬ人こそ、おろかなれ。

 

 

曾 呂 利 物 語 大尾《たいび》

[やぶちゃん注:湯浅佳子氏の論文「『曾呂里物語』の類話」(『東京学芸大学紀要』二〇〇九年一月発行第六十巻所収。ネットでPDFで入手可能)では、「今昔物語集」の巻第十の「莊子見畜類所行走逃語第十三」(莊子、畜類の所行を見て、走り逃げたる語(こと)第十三)の前話(当該篇は内容的には二部からなる)を連環型の通性から先行する類話として挙げられている。「やたがらすナビ」のこちらで新字であるが、電子化されたもので読める。湯浅氏は、十ほどの類話が挙げられてあるが、その内、たまたま私が既に電子化注してあるものは、本篇の転用である、

「宿直草卷一 第二 七命ほろびし因果の事」

「金玉ねぢぶくさ卷之二 蟷螂(たうらう)蝉をねらへば野鳥蟷螂をねらふ」

である。本篇は主人公の名に引っ掛けて円環を超自然の怪異として閉じてあるのが、掉尾に相応しい作ではあるように感じられる。

 なお、本話の連環の一部は、所謂、「三竦(さんすく)み」に基づいている。この「三竦み」については、私はその原拠考証を続けているが、未だに完全に納得出来るものに行き当たっていない。最も新しいものでは、「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蝦蟇(かへる)」の「蛇を畏れて、而〔(しか)〕も蜈蚣〔(むかで)〕を制す。此の三つ物、相ひ値〔(あ)へば〕、彼此〔(かれこれ)〕皆、動くこと、能はず」に対する私の注である。かなり長いが、是非、読まれたい。]

大手拓次譯詩集「異國の香」オリジナル電子化注附きPDF一括縦書版+同横書版公開

お待たせした。

大手拓次譯詩集「異國の香」オリジナル電子化注《PDF★一括縦書版・2.78MB》 

及び、注の一部で示した原詩を読み易くするために、

大手拓次譯詩集「異國の香」オリジナル電子化注《PDF★一括横書版・2.98MB》

「心朽窩新館」に公開した。お楽しみあれかし。

佐々木喜善「聽耳草紙」 二八番 姉のはからひ

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

      二八番 姉のはからひ

 

 ある所に姉(アネコ)と弟《おとと》とがあつた。秋の日に山へ栗拾ひに行つた。姉弟は栗の實に氣をとられて、別れ別れになつて居るうちに、姉は何者かに攫擢はれてしまつた[やぶちゃん注:「攫」は底本では「擢」であるが、「擢」には「抜擢」のように「選(え)り抜く・引き抜く」という意はあるが、「奪取する・さらう・誘拐する」の意はないので、誤字か誤植と断じて、「ちくま文庫」版で訂した。少し後の「これだこれだ姉はてツきり此館の中に攫はれて來て居る」では正しく「攫」が用いられているからである。]。弟はそれと悟つて、姉(アネコ)やい姉やい、と呼びながら尋ねて行つた。すると柴や木の枝に、姉がかぶつて居た手拭(テノゴエ)だの、姉の着物の引裂(ヒツチヤ)けた巾(キレ)等が引懸つてゐた。これは必度(キツト)此邊に居るのだと思つて、なほなほ奧へ分け行つて見ると、山奧に大きな構への館が一軒あつた。そして表の黑門の柱に、姉の着物の片袖がちぎれて引掛つてゐた[やぶちゃん注:底本「るた」。誤植と断じ、訂した。]。これだこれだ姉はてツきり此館の中に攫はれて來て居ると思つて、入つて行くべと思ふと、門の傍に黑鬼が番をして居て、どうしても入《はひ》れなかつた。はてナジヨにしたらよかべなアと思つて此方《こつち》の樹(キ)の蔭に匿れて見て居ると、其黑鬼は門口を塞ぐやうに橫になつた。さうしてぐうぐうと大鼾《おほいびき》をかき始めた。弟は此の時だと思つて、鬼の體を跨ぎ越えると、誤つて鬼の片足を踏みつけてしまつた。すると鬼は寢返り打つて、ケツナ二十日鼠だ、うるさくて眠られないと呟いた。弟は體を潜《ひそ》めて土を這つて内へ入つて行つた。運良く黑鬼に見付けられなかつた。

 弟は首尾能《よ》く一の門をば入つて行つたが、また少し行くと、こんどは靑い門があつて、其所には靑鬼が番をして居た。其所でもこれはナジヨにすべと思つて樹蔭《こかげ》に匿れて見て居ると、鬼は門口を塞ぐやうに橫になつて寢て、すぐにごほんごほんと大鼾をかき始めた。そだから弟は身を屈めて脚の方を通り技けべとすると、又誤つて鬼の足を踏みつけた。すると鬼は、またかケツナ二十日鼠だ、うるさくて眠られないとつぶやいた。此所でもやつぱり弟は鬼に氣付かれないで、首尾よく門を通り拔げて行つた。

 それから又少し行くと、こんどは赤い門があつて、赤鬼が番をして居た。あれや又此所にもこんな者が居た。ナジヨにすべなアと思つて樹蔭に匿れて見て居ると、赤鬼は先(セン)の鬼共のやうに門口を塞いで橫になつた。橫になると直ぐごほんごほんと大軒をかき始めた。そだから弟は屈(コゲ)まつて[やぶちゃん注:底本ではルビは「コゲマ」となっている。「ちくま文庫」版を採用した。]脚の方を通り拔けべと思ふと、[やぶちゃん注:底本は句点。同前で読点に変えた。]又誤つて鬼の足を踏付(フンヅ)けてしまつた。鬼は又どうもケツナ二十日鼠だ、うるさくて眠られないぢアと言つて、ごろりと寢返りを打つた。ほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に危いところを、弟は鬼に見付けられないで其所も首尾よく通り拔けて行つた。

 弟が館の玄關に行つて見ると、そこに姉の草履があつた。弟が姉々と呼ぶと、姉は出て來て、お前も此所へ來たか、速く内さ入《はひ》れと言つて内へ上げて、室の隅(スマコ)の葛籠(ツヅラ)の中に入れて弟を匿《かく》した。

 夕方(ヨマガタ)、館の主《あるじ》の鬼が何所《どこ》からか還つて來た。そして爐《ひぼと》に踏跨(フンバタ)がつてあたりながら、これこれ女(ヲナゴ)やい、どうも人臭いなアと言つた。姉がそんなことはないと言ふと、鬼は何《なに》匿《かく》すなと言つて、庭へ下りて行つて薄(ススキ)の葉を見て、これや此薄の葉の上の露玉が一つ殖えてゐる。必ずこの館の中さ人間が一人入つたに相違ないでばと言つた。そして又内に入つて爐にあたりながら、室中をじろじろと見廻して居るうちに隅の葛籠に目をつけた。其葛籠からは弟の帶の端(バジコ)が少し出てゐた。鬼はあれや何だと言つて、づかっづかと立つて行つて、葛籠の蓋を押明《おしあ》けて弟を外へ引張り出した。姉は、其子は私の弟だから取つて食うことだけは許してケテがんせと言つた。鬼は奧齒まで出してせヽら笑つて居た。[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」なのであるが、点の位置が、微妙に「許し」の位置よりも、半角分、上にあること、「許し」に傍点を打つことへのちょっとした違和感から、これは、思うに、その上にある「だけ」に打たれたるべきものだったのではないか? と疑っている。二年後に出た昭和八年刊の新版の同じ部分を見たが、全く版組は変わっておらず、同じであった。因みに、「ちくま文庫」版には傍点そのものが存在しない。]

 夕飯時、鬼は、それではお客、飯の食較《くひくら》べをすべえぢや。そして食ひ負けた方を取つて食いツこだと言つた。けれども姉の計らひで、弟の椀(ワン)には中にカサコ(小椀)を伏せ入れて、其上にさつと飯を盛り、鬼の椀には捻《ひね》りつけて山盛りに盛つたから、弟の方が食ひ勝つた。鬼はこれは恐入《おそれい》つた。勝負と謂ふものは何事も三度と謂ふものだから、今度は煎豆《いりまめ》の食ひ較べをすべぢえ、そして負けた方をばやつぱり取つて食ふのさと言つた。(負けた方をば傳手(ツイデ)に取つて食うのさとも言つたと謂ふ。[やぶちゃん注:三度の食い較べの三度目を端折ることを言っていよう。このヴァージョンでは、鬼は自分が次は絶対に勝つと考えているのであろう。])けれども其時も姉の計らひで、弟へはあたりまへの煎豆、鬼の方へは小石をがらがらと入れて食はせたので、此時もやつぱり弟の方が勝つた。鬼は又驚いて、これはこれは恐入つた。待て待ていま一遍(ヒトガヘリ)だ。さア今夜ははアゆツくり寢て、明朝早く起きて、木伐《きこ》り較(クラゴ)をすべえ。やつぱり負けた方ば取つて食いつこさと言つた。そう言つてから鬼は自分の寢床に入つて、ごほらやいごほらやいと大鼾をかいて眠つた。[やぶちゃん注:主人の鬼と、門番の家来の鬼どもの鼾が差別化されているのが面白い。]

 姉は夜の中に、弟の斧をばエガエガと磨(ト)ぎ澄まし、鬼の斧をばごしごしと石で刄《は》をおとして、ボボクシ(棒丸)のように碎いて圓《まる》めておいた。そして翌朝夜明に、さあさあ早く起きて木を伐つてがんせと言つた。鬼はそれでやお客も起きろと言つて跳ね起きて、庭に飛び下りて木を伐り始めた。同じ太さの木を弟と鬼は一緖に伐りはじめた。ところが弟の斧は木を丁々(ちやうつやう)と切つてゆくのに、鬼の斧は木の皮ばかりめくツて、少しも幹に刄が立たなかつた。鬼は今度こそは、弟に勝つて取つて食ふべと思つて一生懸命になつて木の幹を叩きのめして居るところを、姉は弟の側へ行つて弟々《おととおとと》今だ、早く鬼をその斧で斬り殺せと言つた。そこで弟は鬼の氣無(キナ)しなところを[やぶちゃん注:油断したところで。]、後(ウシロ)に廻つてごろりと鬼の首を斬り落した。

 首領(カシラ)の鬼が斬り殺されたもんだから、あとの家來の鬼どもは、皆《みな》姉弟《あねおとと》の前に膝をついて降參をした。そこで姉弟は鬼の館にある寶物を殘らず小鬼(コオニツコ)に負(セオ)はせて、目出度く、吾家ヘ還つた。

 

2023/04/06

「曾呂利物語」正規表現版 第五 五 因果懺悔の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にし、さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今回は、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正せず(裏写りを消すと、絵が赤茶けてひどく見え難くなってしまうため)適切と思われる位置に挿入した(ここ(左丁)がそれ)。

 

     五 因 果 懺 悔(さんげ) の 事

 のがれても同じ浮世と聞くものを、は、いかなる山に身を隱さん、隱し果てなんあらましに、東の方に赴きしが、此處は名に負ふ信濃なる、木曾の麻衣(あさぎぬ)あさましく、やつれ果てたる旅姿、行方(ゆくへ)何方(いづく)としら雲の、梢にかゝる深山路(みやまぢ)を、心すごくも分け行けは、こゝに年の程、四十餘りに見えたる男、いかめに、製(こしら)へたる、大(だい)なる刀(かたな)を橫たへ、彼(か)の僧に向ひて、

「其の、頸にかけたる平包(ひらづゝみ)を、渡すべし。」

と、臂(ひぢ)を怒(いか)らかして、乞ひければ、彼の僧は、

「是れは、諸經一卷、包みたり。別(べち)に、召されても、由(よし)あるまじ。」

と云ふ。

「とかくの是非に及ばば、害し侍らん。」

と、刀の柄に手をかけ侍る。元より、命、惜しむべきみちならねども、流石に、今はの際(きは)なれば、先づ、平包を解きて、與へける。

 男、岸(きし)[やぶちゃん注:断崖絶壁の上の際(きわ)を指す。]の方(かた)に、腰をかけて、ゐたり。

「何樣(なにさま)、此の者の面魂(つらだましひ)にては、はてはては、我(われ)を失(うしな)はんずらん。これこそ、方便の殺生なるべし。」

と云ひて、數(す)千丈も數千丈も高き岸より、突きおとしぬ。

 未(いま)だ、平包は岸に有り。取りて、頸にかけてぞ、下りける。

 日も、やうやう、傾きければ、とある家に立寄り、宿を借りけり。

『さるにても、今日(けふ)は不思議の事に逢ひつるものかな。』

と、まどろむひまも、なし。

 斯かるところに、主(あるじ)の聲と覺しくて、

「此處(こゝ)を開けよ。」

と敲(たゝ)く。

 内より、妻女、出であひ、

「今日は、何(なに)とて遲く歸られける。」

と云ふ。

「其の事なり。不思議の坊主に行き逢ひ、高き所より突き落され、はかなかき命(いのち)を生きたれども、岩角(いはかど)にて、身を打當(うちあ)て、足も立たざるを、兎角して、歸りぬ。」

と云ふ。

 僧は、物ごしに、是れを聞き、急ぎ、垣を破り、拔道の用意をぞ、したりける。

 女、云ふやう、

「是れに、僧の、一人(ひとり)、宿を借りて、座敷に侍る。」

と云ふを聞きて、其の儘、走り逃げにけり。

 彼の主(あるじ)、座敷へ出でて見れば、無し。

「扠(さて)は、坊主は逃げたるものなり。」

とて、逐(お)ひ出でて、

「今、坊主のくせもの、有り。出であひて、留(とゞ)めよ。」

と云ひければ、在所の者、殘らず出で會(あ)うたり。

 此の度(たび)は、道を變へて、上(のぼ)りざまに、逃ぐる。

 跡より、聲々に呼ばはりける程、

「先には、我、あり。」

とて、出であはせ、後(あと)より、頻りに、追掛(おひか)くる、

 脇なる山に、かけ込み、彼方此方(かなたこなた)と惑ひしが、如何にも茂りたる大木(たいぼく)あり。

 これに登り、少し、息をつきたり。

 既に追手は、

「道筋には、なし。山の内を探せ。」

と云ひて、手に手に、松明(たいまつ)を點(とも)し、岩峽閒(いははざま)、木の陰、殘らず、探しけり。

 玆(こゝ)に、弓持ちたる男、

「坊主こそ、此(こ)の木の上に、ゐ侍るなれ。只今、射落し侍らん。」

とて、大雁股(おほかりまた)を持つて射たり。

 此の僧の心のうち、云はん方なし。

 

Ingamonogatarinokotonoutihousinokoto

 

[やぶちゃん注:右上端のキャプションは「いんか物かたり」(因果物語)「の事の内」、「ほうしの事」(法師のこと)と読める。]

 

 かかりけるところに、僧には中(あた)らず、何(なに)とは知らず、大(おほ)いなる獸(けだもの)一つ、矢に當りて、落ちぬ。

 皆、寄りて見れば、大いなる荒熊(あらくま)なり。

 集りある所へ、走り掛りたりければ、

「人にては、なし。熊にて、ありけるぞ。」

と、のゝしりける。

 多くの人を喰(く)ひ、威(おど)し、驅けまはりければ、一人(ひとり)もなく、逃げて、家にぞ、歸りけり。

 其の内に、木より下(お)りて、とかくして、道に出で、上方を指してぞ上りける。

「今は、後(あと)より、人も追はず。」

と、

『虎の口の難を遁(のが)れける不思議さよ。』

と思ひ、其の日の暮れければ、とある家に立寄り、宿を借りける。

 又、これも、主(あるじ)は留守にて、妻女ばかりなり。

『過ぎし夜の者にては、あらじ。』

と思ひけれども、いとゞねざめがちにて、客亭と覺しき所にぞ、臥したりける。

 戌の刻[やぶちゃん注:午後八時前後。]に、主(あるじ)、歸りぬ。

 妻女、出であひ、もてなして、臥しぬ。

 僧は、尙々(なほなほ)、心、許さず、寐(い)ねもやらでぞ、居侍(はんべ)る。

 子(ね)の刻と思ふ時分に、又、

「此處を開けよ。」

と、男の聲にて、云ふ。

 女、出であひ、戶を、あくる。

 内なる男、大(だい)なる刀を拔き、外より這入(はひ)りたる男を、討つて、けり。

 僧、

『こは。いかに。』

と思ひ、

『もつけなる所へ、來つるものかな。如何(いかゞ)せん。』

と思ふところに、女、云ふやう、

「表(おもて)に、坊主を宿しけるが、如何(いかゞ)計(はか)らひ給ふ。」

と云ひければ、

「それこそあれ。」

とて、

「いかに、いかに、御坊(ごばう)。」

と呼ぶ。

 寐入(ねい)りたる體(てい)にて、音もせで、居けるを、重ねて呼ばはる。

 はふはふ、起きたれば、男のいはく、

「これなる死骸を負ひて給はれ、程近き所にて候まゝ、伴ひ申し候はん。」

とて、死骸を桶に入れしたゝめ、坊主にぞ、あてがひける。

「我々は斯樣の有樣にて、何としてか、持ち參らせん。」

と云ひければ、殊の外、怒りたる體(てい)にえ、無理に後(うしろ)に負はせければ、餘りの怖ろしさに、是非なくて、何方(いづく)ともなく、二、三町程、行きたれば、山の中に下させて、男は鍬(くは)を持つて行きけるが、僧に與へ、穴を掘らせける。

『斯かる目にあひけるも、前業(ぜんごふ)の程。』

とあさましく、又、

『否と云はば、如何なる目にあはん。』

と、云ふに任せて掘りけるが、疲れたる事なれば、掘りかねたる體(てい)を見て、男、

「此方(こなた)へ、退け。」

とて、大はだぬぎになり、刀も捨てて、汗水になりてぞ掘りたりける。

 僧、思ひけるは、

『死骸を埋(うづ)みて後(のち)、我をも、定めて、殺し候はんなれ。刀を拔きて、後(うしろ)より首を、かけず、打落(うちおと)し、又、元の宿(やど)に歸り、惡人の種(たね)を斷たん。』

と思ひ、女をも、切りおほせ、其の刀・脇差をさして、又、道にかゝり、もみに、もうでぞ、上りける。

 天の惠みにや、後(あと)より追ふ事もなく、漸(やうや)う、美濃國にぞ、つきにける。

 ある宿に、立ち寄り、

「宿、借らん。」

と云へば、是れも又、女の家主(いへぬし)許(ばか)りなり。

『前々(まへまへ)、難(なん)に遇(あ)ひつるも、男の留守故(ゆゑ)なり。』

とて、此處をば、立ち出で、行きけるが、遂に行きくれ、泊るべき宿、求めけれども、あたりに人さへも見えず、日は暮れぬ。

 茫然として立ちたりけるが、向ひの山際(やまぎは)に、火の、幽(かすか)に見えけるほどに、急ぎ行きて見れば、人、居(ゐ)るにても、なし。

 軒の、傾きて、破れたる古宮にてぞ、ありける。

『近き所に宮寺のあるは、人里あればこそ、燈明(とうみやう)をば、參らすべきなれ。』

と思へども、遙かに道は步み、心、疲れ、宿、求むべきやうもなかりければ、彼(か)の拜殿の破(や)れたるにぞ、居(ゐ)たりける。

 來し方行末の事など案じつゞけて、夜更くるまで、寐も入らでゐ侍るところに、何處(いづく)ともなく、步み寄る者、あり。

 月影に、よく見れば、一人の男、髮をさばき、竹の杖に縋る。

 眼は、朱をさしたる如く、色、靑く、如何にも痩せ衰へたる形、眞(まこと)に杖に縋(すが)らずば、步むこと、難しと見えけるが、拜殿にぞ、來れりける。

 僧は、

『よも、人閒にては、あらじ。』

と、口には、光明眞言を唱へ侍る。

 男のいはく、いかにも、かすかなる聲の中に、

「我は、非業の死に赴きて、瞋恚(しんい)の焰(ほのほ)、熾(さか)んなりしが、御僧の順緣(じゆんえん)を以て、逆心(ぎやくしん)の敵(かたき)を討ちて給はりし故に、一業(いちごふ)の罪を、免(のが)れぬ。願はくは、とてもの事に、一日(にち)經、書きて、亡き跡、とひて賜はり候へ。」

と、云ふと思へば、夢、さめぬ。

 扠(さて)は、過ぎにし人ども、ほんつま・ひつまの鬪諍(とうじやう)の有樣、あさましかりつる次第なり。

 彼(か)の僧は、諸國行脚は、思ひ止(とゞ)まり、都(みやこ)西山のほとりに、いかにもかすかなる庵室(あんしつ)を構へ、道心堅固にして、親疏平等血利益(しんそびやうだうりやく)と誓ひ、一期(ご)、終りけるとぞ。

 寔(まこと)に、仰ぎ尊(たふと)むべきは、佛(ほとけ)の御誓(おんちか)ひなり。

[やぶちゃん注:本篇は本書の中では、他の話柄に比して、相対的にかなり長い。冒頭、主人公の行脚僧の道行文は、相応に文芸的に考えられており、読み始めの期待をさせる趣向は、なかなかに手腕を感じさせるのだが、以下の三つのパートの展開は、今一つ、映像上の個別化・差別化が上手く行っておらず、安手の映画で、画像の使いまわしを見せられている感が拭えないのが、難点である。作者は、主人公の僧に、一種のこの世の業(ごう)の有様を、畳み掛けて類似体験をさせることで、所謂、輪廻の忌まわしい有様を体験させ、一つの道心堅固のあり方を悟らせることが、主目的であったのだろうが、話としては、ちょっと食い足りずに、残念な感じが残ってしまう。「宿直草」の作者荻田安靜も、そうした印象を本篇に感じのではないかと思われ、それぞれを、部分的に別個な形で変形転用している。一つは、

「宿直草卷一 第二 七命ほろびし因果の事」の中間部

で、

宿直草卷五 第七 學僧、盜人(ぬすびと)の家に宿借(やどか)る事」

では、一番、スリリングな熊の話を使用しているし、直ぐに続く、

「宿直草卷五 第八 道行僧、山賊に遭ふ事」

で、最初の話を用いているので、見られたい。

「我は、非業の死に赴きて、瞋恚の焰、熾んなりしが、御僧の順緣を以て、逆心の敵を討ちて給はりし故に、一業の罪を、免れぬ」というのは、一見、直前の、中間部にある男女の男殺しの殺された男の台詞のように読めるのだが、どうも、前者の殺された男が、この異様によろぼえた男とするのは、どうも不自然である。されば、この殺人者の男女は、それ以前に、この老人を別に殺害していたと考える方が、躓かずに読める。

「ほんつま」「本妻」。

「ひつま」よく判らぬが、二股不倫をしている「婢妻」或いは、そうした忌まわしい女への蔑称としての「卑妻」か。]

「曾呂利物語」正規表現版 第五 / 四 信長夢物語の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。今回はここから。なお、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」にはこれを含む末尾の四篇は所収しない。]

 

      四 信長(のぶなが)夢物語の事

 信長と信玄の取合(とりあ)ひの時、信長の家來に、少身(せうしん)なる何某(なにがし)、度々(たびたび)高名を表はして、祕藏せられしが、ある時、彼(か)の者に申さるゝは、

「其方、子供は無きか。其方、死したりとも、子供を取り立て吳(く)れん。」

と、御申(おんまう)しある。

 なにがし、云ひけるは、

「倅(せがれ)、一人、持ちて、不便に存じ候間、賴み奉る。」

と契約して、程なく、戰場にて討死し侍りぬ。

 さる程に、信長、方々(はうばう)の取合ひに、事紛(ことまぎ)れ、其の事、失念してゐられしが、年を經て、信長、世(よ)となり、國(くに)、治(をさ)まりければ、彼(か)の何某が子も、成人して、微(かすか)なる體(てい)にて、外樣(とざま)に侍りしが、ある時、母に向ひて云ひけるは、

「斯樣(かやう)に、有るか無きかの體にて、かせ奉公を致しては、たまたま、母の心、やすき事も、ましまさず、孝行に思ひまゐらする詮(せん)も、なし。何方(いづかた)へなりとも罷り越し、立身致し侍らんと存じ候。」

と云ふ。[やぶちゃん注:「かせ奉公」は、恐らく、「悴奉公(かせほうこう)」で、この「悴(かせ)」は接頭語(動詞「悴(か)せる」の連用形は転じたもの)で、人などを表わす語に付いて、「やせた・貧しい・身分の低い」などの意を表わすそれである。]

 母の、いはく、

「汝が父の何某、信長へ堅き約束のある間、今年許(ばか)りは、待ちて見給へ。」

とて、色々に申し宥(なだ)めてありしが、其の頃、信長、御夢(おんゆめ)に、彼の何某、申し上ぐるは、

「年月(としつき)を過ぎ、相待(あひま)ち候へども、御約束の如く、我が子に知行(ちぎやう)も下され給はねば、既に他國(たこく)の志(こゝろざし)あり。不便には、思召(おぼしめ)されずや。」

と、いと怨めしげに申しければ、夢さめて後(のち)、

『扠(さて)も。不思議なる事かな。』

と思ひ、家中(かちう)を詮索し給へば、誠に、かすかなる外樣奉公にてぞ、ありける。

 やがて、呼び寄せ、宣ひけるは、

「汝が父は、度々の高名(かうみやう)、世に隱れなし。然(しか)るを、近年の亂世(らんせい)故(ゆゑ)、其方が事、はたと、失念したり。ち、先祖の跡(あと)、相違なく申し渡すところなり。此の上、尙、おろそかならず、父に勝(まさ)りて、高名を、せよ。」

とて、色々の、かづけ物して、歸されし。

 斯かる事もありけることにや、とぞ。

早川孝太郞「三州橫山話」 種々なこと 「引越しを知つてゐた鼠」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。今回はここ

 標題は「いろいろなこと」と訓じておく。なお、これが本文の最終パートとなる。]

 

 ○引越しを知つてゐた鼠  村の早川ダイと云ふ女の話でしたが、この女の里の北設樂郡段嶺《だみね》村で、某と云ふ男が、秋田圃《あきたんぼ》に稻叢《いなむら》を作つてゐて、ふと傍らを見ると自分の家から幾疋となく鼠が出て來て、其れがみんな、傍の小川を飛越《とびこ》して、丘の上の日當りのよい家へ向つて驅けて行つたさうです。其男の家は、丘の下の日當りの惡い所にあつて暮しも豐かではなかつたのです。其男は内心つくづく考へて、鼠迄が愛想盡《あいそづく》しをして丘の上の家へ越して行くのかと思つて見てゐたさうです。

 それから二三日經つと、丘の上の一家が、急に土地が嫌やになつて、屋敷を賣拂《うりはら》つて遠くへ越してゆくと云ふので、周旋する男があつて、其男に、是非屋敷を買取《かひと》れと、無理矢理に薦められて、たうたう[やぶちゃん注:ママ。]其屋敷を買ふ事になつて間もなく引越したと云ひましたが、それからは家運も追々榮えて來たさうです。

[やぶちゃん注:「北設樂郡段嶺村」現在の北設楽(きたしたら)郡設楽町(したらちょう)の南の西寄りにあった旧村名。「ひなたGPS」の戦前の地図のこちらで、『段嶺村』(くどいが「だみねむら」と読む)が確認出来る。現在のこの中央附近(グーグル・マップ・データ航空写真)。横山からは直線で北北西に十キロメートルほどの位置である。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 二七番 鬼婆と小僧

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

       二七番 鬼婆と小僧

 ある山里の寺に和尙樣と小僧とが居た。小僧が山に花コを取りにやつてクナさいと言ふので、和尙樣は山には行かない方がよい、鬼が出て來ると大變だからと言ふと、小僧はソンマ(直ぐ)歸つて來るからやつてクナさい、やつてクナさいとせがんだ。そんだら此守札を三枚やツから、どうしても仕方がない時があつたら、これを一枚宛投げろと言つて與へた。

 小僧が山へ行つて美しい花コを折つて居ると、其所ヘバンバ(婆々)が出て來て、小僧々々花ア折つてけらアなアと言ふので、うんと言つて花を折つて貰つて居た。さうしたらバンバが小僧々々いゝ物ケツから俺家《おらいへ》さ行くベアと云ふから、うんと言つて小僧はバンバに連れられてその家に行くと、バンバは小僧々々今夜は泊れと言つた。うんと云つて小僧は其所に泊ることにした。

 其夜は雨が降つてゐた。寢ながら雨垂れの滴(タ)る音を聽くともなしに聽いてゐると。

   タンタンたるぎの水はづみ

   起きてバンバの面《つら》ア見ろ―

 と音がした。そこで小僧は夜着の袖口からバンバの方をそつと見ると、バンバが鬼になつて居た。小僧はこれは大變だ。どうかして逃げたいと思つて、婆樣ア俺アバソバ(糞)出るウと言ふと、バンバは、えゝから此所さたれろと言つた。小僧はそだて俺アセツツン[やぶちゃん注:雪隠(せっちん)。便所。]でなえばたれられなえもと言ふと、バンバは小僧の腰に繩をつけて遣《や》り、その端を挽臼《ひきうす》に結び着けて置いて、小僧、えかアと言ふから、小僧はまだまだと返辭をした。また少し經つと、えか小僧ウと言ひ言ひした。小僧は腰の繩を解いて柱に結んで、其結び目に和尙樣から貰つて來た守札を一枚さして、小僧と言つたら、まだまだと言へと言ひ置いて、小僧はどんどん逃げてしまつた。

 其後でバンバがまだか小僧と言ふと、まだまだと守札が言ふが、あんまり小僧が遲いので挽臼を踏ン張つて見たら、小僧がいなかつた。バンバは怒つて、小僧のがすもんかと叫んで追つて行つた。ノンノン(足音)と追つかけて行くと、小僧はかツつかれそうになつたので、此處に大きな川が出(デ)ハレと言つて守札を一枚投げた。すると其所に大きな川が出ハツた。さうしたら又鬼婆は、その川をくぐつて追(ボ)つかけて來るので、小僧はこんどは、此所に大きな山が出ハレと云つて、守札を一ツ背後(ウシロ)に投げるとそこにまた大きな山が出(デ)ハツた。其山を鬼婆が登り越えて追ツかけやうとしたら、上らうとすればするほど砂が崩(クヅ)れて、幾度も幾度も滑つて居るうちに小僧はお寺へ駈けつけて、和尙樣々々々、俺は鬼婆(《オニ》バ)ンバに追つかけられて來たから早く隱してと言つた。和尙樣は小僧を戶棚の中に入れて隱した。そこへ鬼バンバが飛び込んで來た。そして和尙ツ此所へ小僧が歸つて來なかつたかツと言ふので、歸つて來ないと言ふと、此の和尙坊主めツ、ボガ(僞言《うそごと》)吹くな、小僧隱《かく》さば和尙から取つて喰《く》ふぞツと言つた。

 和尙樣はこれは面白いツ、俺を喰へたら食つてみろ。それにヤ技倆(キリヨウ)較《くら》べをして負けた方が喰はれツこにすべえ。おい鬼バンバお前は豆粒になれんか、なれめえ、なれなかつたら取つて食ふぞツと言ふと、此糞タレ坊主がアなれねもんか、此れツ見ろツと言つて、コロリと小さな豆粒になつた。そこで和尙樣は燒いて居た餅につけて鬼バンバ豆をぱツくりと食つてしまつた。

  (秋田縣角館《かくのだて》小學校高等科、
  柴靜子氏の筆記摘要。武藤鐵城《むとうてつじやう》氏御報告の二。)

[やぶちゃん注:本話の、小僧の鬼婆の追撃から逃れるそれは、「古事記」の伊耶那岐が黄泉(よみの)国から伊耶那美と黄泉醜女(よもつしこめ)らから逃げることに成功する呪的逃走が原モチーフで、三度の呪物を使用する点も確信犯である。また、通常、あるシークエンスの中で「言上げ」を最初にしたものが「勝ち」となり、対象世界を支配することにあるものが、安易に小さくなった鬼婆が和尚に喰われることで、大団円が迎えられるそれは、伊耶那岐によって大石で永久に封じられてしまった黄泉比良坂のそこで石を挟んで、伊耶那美が伊耶那岐の民を「一日に千頭絞り殺さむ。」と言上げしたに対し、伊邪那岐が、それなら「吾、一日に千五百の産屋立てむ。」と応じて人口増大の繁栄説話が成就するの同様な高名なレトリックが用いられいる点にも着目すべきであろう。

「武藤鐡城」(明治二九(一八九六)年~昭和三一(一九五六)年:佐々木より十歳年下)は秋田県出身の考古学者・民俗学者でスポーツ指導者でもあった。本書刊行時(昭和六(一九三一)年)は移住した角館にあった。当該ウィキはかなり細かく事績が書かれてあるので見られたい。]

「曾呂利物語」正規表現版 第五 / 三 信玄逝去の謂れの事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。今回はここから。なお、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」には本篇以降の四篇は所収しない。本篇には挿絵があるが、これは「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)をダウン・ロードして適切と思われる位置に挿入した。

 今回は直接話法内の入れ子の台詞が多く、臨場感と語りの中の時間経過を出すために「……」を多用した。]

 

     三 信玄逝去の謂(いは)れの事

 甲斐國(かひのくに)信玄、

「唯、かりそめの風(かぜ)の心地(こゝち)。」

と宣(のたま)ひて、醫療を加へ給へる頃、醫師作庵と二人(ふたり)、奥深き所に居(ゐ)給ひて、少し、晝寐(ひるね)し給へり。

 次の障子を、

「さらり」

と開け、忍びて來(きた)る者あり、

 見れば、白き小袖、裲襠(うちかけ)、さも優(いう)なる女なり。

 少時(しばらく)、臥し給へる枕上に、ゐ寄りて、何の事もなく、物思はしき姿にて、歸る。

 作庵、目醒(めざ)めて、是れを見るに、

『定めて、奥方より、御氣色(おきしよく)見舞ひにこそ、參り給ふらん。』

と思ひ居(ゐ)たれば、信玄、驚き、

「今の、女ばし、見たるや。」

と宣へば、

「さん候。御上﨟衆(おじやうらふしゆ)を見侍る。」

と申す。

 

Singenseikyo

 

[やぶちゃん注:右上のキャプションは「信玄せいきよのときふしんの事」とある。このシーンは作庵が見て、また、寝入った直後に、信玄が見て、驚愕して覚醒した直後を切り取ったものである。裏写りがない美麗な早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該画像もリンクさせておく。]

 

 其のとき、信玄、宣へるは、

「……既に……此の世を去りし者なり。……不思議、尤も至極せり。……

……己(おのれ)、甥(をひ)に『一丸(まる)』と申すものありしが、其の親ども、死期(しご)に、我を賴みけるは、

『一丸、稚(いとけな)うして、行末、覺束なし。汝、養子として、守りたて、家門、相續して吳れよ。』

と云ひしを……

……一丸、成人して後(のち)、互(たがひ)に爭ふ事ありて……

……押寄(おしよ)せ、討つて候ひし。……

……其の恨み申しに……一丸の母、來りて、

『我を、迎へに來つるぞ。はやはや、來よ。』

とて、手を捉へて、引き侍るほどに、

『行くまじき。』

と云ふ。

 互に曳き合ひ侍りしが、

『曳かれて行く。』

と……思ひしところに……夢……さめてありければ、

……正しく……一丸が母……枕元に有りしなり。……

……されば……此の度(たび)の煩ひ……本復(ほんぶく)し難し。」

と宣へるが、……

「……果して、逝去給ひにき。」

と、作庵、語り申しき。

[やぶちゃん注:「武田信玄」(法名/本名:晴信 大永元(一五二一)年~元亀四(一五七三)年五月十三日:享年五十一)は、当該ウィキによれば、元亀三年九月より開始した「西上(せいじょう)作戦」で、翌年、三河に侵攻、二月に野田城を落としたが、その『直後から』、『度々』、『喀血を』する『(一説では、三方ヶ原の戦いの首実検の時に喀血が再発したとも)』『など』、『持病』の結核が『悪化し、武田軍の進撃は突如として停止する。このため、信玄は長篠城において療養していたが、近習・一門衆の合議にて』、四『月初旬には遂に甲斐に撤退することとな』った。その途次、『三河街道上で、信玄は死去した』(死因は結核に合併した急性肺炎(本篇の「風」邪の「心地」は合うと言えば合う)・胃癌等も挙げられている)。『臨終の地点は小山田信茂宛御宿監物書状写によれば』、『三州街道上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)』(ここ:グーグル・マップ・データ)『であるとされているが、浪合や根羽とする説もある』とある。本篇は寝ぼけ眼乍ら、「御上﨟衆」と見て、医師作庵(不詳)が一向に不思議を感じていないことから、ロケーションは、事実とは異なる本拠の館(たち)である。

「裲襠」「りやうたう(りょうとう)」とも読み、「打掛」とも書く。室町中期以降の武家女子の正装。「応仁の乱」(一四六七年~一四七七年)以後、公家の服飾の後退に乗じ、新しい小袖型中心の衣服が成立した際、平安時代の袿(うちき)を真似て、袖を通さずに、小袖の上に、ただ打ち掛けて着たことから、こう呼ばれる。歩行の際、褄をかいどったところから「掻取り」の別名があり、これらの名称は、今日でも、伝統的な花嫁衣装に残されてある。元来、夏の正装である「腰巻」に対し、冬の正装(これによって甥の母が亡くなった折りが冬であったことが判る。これは挿絵の信玄や作庵の軽装と対比されて、その服装自体が異界の者であることを示している訳である)として用いられた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「一丸(まる)」不詳。読みも「いち」「ひと」か判らぬ。]

2023/04/05

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「人物と印象」

 

 [やぶちゃん注:底本のここ(本文冒頭の「德田秋聲氏」の始まりをリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。本パートは、皆、知られた作家ばかりであるから、特に作家注は附さない。]

 

      人物と印象

 

 

 德田秋聲氏

 

 雨戶を閉めても虫の音のするある晚、ホテルからの使だと言つて早寢の枕元に秋聲氏から手紙が來て、道が遠くなかつたら會ひたいとのことであつた。一度消息をした序でに涼しい山間に誘うて見たが、家族が海岸へ行つてゐるので行けないと言ふ返辭だつた。

 自分は着換へを濟すと懷中電燈を持つて、幾らか山のやうな位置にある自分の住居から、秋聲氏のゐられる萬平ホテルヘ出掛けた。旅行先で知友に會ふことは東京で話し合ふのと格別な懷しい氣持になるものである。ホテルの入口で秋聲氏と順子さんとが步いてゐるのに出會《であは》したが、秋聲氏はひどく疲れてゐる上、妙に落着かない風だつた。家族の心勞で松本に一晚諏訪に二泊した歸途に立寄つたといふのだが、今夜ホテルで一泊したら直ぐ明朝發つと言ふのだつた。絕えず何か心に重りかかる憂慮で、明るい氣持にならないらしかつた。自分は吉屋信子さんが來てゐることを言ひ、信子さんに電話をかけに順子さんが立つて行つた。信子さんが來てから少し賑やかになつたが、秋聲氏はここは落着かぬと言つて自分の居間へ自分等を案内した。自分はビールを飮みながらこの老大家の吃吃《きつきつ》として話す聲を耳に入れてゐた。その氣難しげな樣子は老大家以外のものではなかつた。

[やぶちゃん注:言わずもがなだが、ロケーションは軽井沢。室生犀星旧居はここで(現在の「室生犀星記念館」)、その東南東の直近に林を抜けたところに「万平ホテル」がある。因みに、私は芥川龍之介が自死の前月に最後に愛した片山廣子と逢ったのは、この万平ホテルであるとにらんでおり、それを実証するために、同ホテルに泊まり、実地検証をし、『片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲』(サイト版・二〇〇九年十二月公開・地図入り)を書いた。未読の方は、是非、読まれたい。

「順子」山田順子(ゆきこ 明治三四(一九〇一)年~昭和三六(一九六一)年)は小説家だが、専らスキャンダラスに、徳田秋聲や竹久夢二などの愛人として語られるばかりである。興味のある方は当該ウィキを読まれたいが(私はこういうニンフェットっぽい女性には虫唾が走る)、ウィキの「徳田秋声」を見るに、この折りの彼のメランコリックな鬱状態は、彼女との関係にあったようだ。大正一五(一九二六)年一月、秋声の『妻はまが脳溢血で急死する。その』二『年前の』『大正』十三年から『秋声に手紙を出して以降』、『時折』り、『出入りしていた山田順子は、訃音を聞きつけ秋田県から』、『急ぎ』、『上京し、秋声の愛人として徳田家に入り込み』、『ジャーナリズムを賑わしたのみか、秋声は』「元の枝へ」『などの「順子もの」と呼ばれる短編群』『で、その情痴のありさまを逐次的に書き続け、世間の好奇の目を集めた』。『しかし、派手な話題がつづき、痴態がさらされ、しかも順子への秋声の不当な買いかぶりを眼前にすると、しだいに興ざめし、非難の声も高まっていった』。『秋声は』、『当初は歳が離れすぎているため』(彼女は二十九歳年下)、『結婚は考えていないと表明していたが、順子が家出をするようになると』、『逆上して脳貧血まで起こすほどとなり』、正式な『結婚まで考えたが、順子は、自らの痔の手術をした医師や、慶大の学生(秋声の長男一穂の友人)らと浮き名を流すなど』、『曲折の末に』、作家『勝本清一郎と恋愛に陥り』、昭和二(一九二七)年、『秋声との正式結婚の直前に勝本の許へ奔った。その後』、『一時期』、『縒りを戻すが、同年の大晦日、順子は秋声宅から追い出され、翌』年一月、日本舞踊家。『藤間静枝の仲介により』、『関係に一応の終止符が打たれた。但し、以後も』、暫く『断続的に関係は続いた』とある。

「吃吃として」言葉が滑らかに出ないさま。咽喉の奥の方で、繰り返し、声を発するさま。]

 翌朝ホテルヘ行くと食堂のレースの陰に順子さんと信子さんとが何か食べながら朝の食事の最中であつた。自分は秋聲氏の居間へはひらうとすると、秋聲氏はゐなくて上草履が居間に爪先を向けて、丁寧に取そろへられてあつた。見ると次の間に座布團を三枚竝べ、その上に仰臥した秋聲氏はさも疲れた容子で、昏昏たる短い假睡《うたたね》の夢を結んでゐた。緣側に明るい高原の日ざしがぎらついてゐたが、それにも拘《かかは》らず老秋聲はうとうとと、しかし深い眠りから覺めさうもない樣子だつた。自分はその居間を默つて出て、先刻の食堂の前を通るとまだ彼女等は果物か何かを食べてゐた。

 秋聲氏は女中が着物を疊んでゐたのを覺えてゐたが、自分には氣付かなかつたらしかつた。そして秋聲氏の不機嫌はにつともしない澁面《しぶづら》だつた。自分に對《むか》うてもやはり不機嫌な卒氣《そつけ》ない調子であつた。自分も不機嫌な日を送つてゐるのだが、老秋聲の不機嫌は膠着し盡してゐるものらしかつた。自分は不機嫌も岩壁に近いのを見ると矢張り堂に入つてゐると思うた。自分は不機嫌であるための秋聲氏を心でにやりにやりと眺め入つてゐた。夏の間《あひだ》餘り人に會はなかつた自分は、この老大家の不機嫌を備前燒か何かのやうな氣持で見てゐた。どの程度までその不機嫌が嵩じても自分には應へなかつた。其度每に自分は海千山千年の老大家の形相《ぎやうさう》をその不機嫌の中から感じた。

 婦人達は町を見物することや散步することやを奬《すす》めたが、秋聲氏はそれに一々反對をした。どれにも氣が向かないらしく、依然何か一つ事に考へ耽つてゐるらしかつた。漸《やつ》と何か朝の輕い食事を濟《すま》すと少し笑ひ出した。と言ふより硬張つた顏が和らかくなつた程度である。自分は滅多に人を訪ねたことのないのも、他人の不機嫌を反射される苦痛を考へるからだつたが、不思議に秋聲氏にはそれを感じなかつた。婦人達がそれを建て直さうとする努力を見てゐるのが、むしろ氣の毒だつた位である。

 自分の國からの出身者はその文學的首途《かどで》の門を秋聲氏に出入してゐる者が多い。しかし自分は詩作人であつた爲に秋聲氏を訪ねることがなかつた。秋聲氏は記憶されてゐるかどうかは知らないが、十三年前に自分に安野と言ふ友人がゐた。彼は秋聲氏を折折訪ねてその當時既に大家であつた秋聲氏の生活を自分によく報告してくれた。友人の言ふには秋誓氏はいつも書くに疲れてゐることなどを傳へたが、それから十三年の役《やく》にもなほ依然たる老大家であり書くに疲れてゐる筈の秋聲氏は、その以後に本來の諸作品を公《おほやけ》にしたと言つてよい。十三年前に秋聲氏は今の自分ぐらゐの年齡であつたらう。そして今の僕の如き疲弊した凡下《ぼんげ》の作家ではなかつた。それにも拘らず秋誓氏は光彩なる人氣の間に立ち、壯烈な戰ひをさへしてゐる。

[やぶちゃん注:「自分の國」秋声は石川県金沢市出身。犀星も同じ。]

 寧ろ秋聲氏は、その老來《らうらい》に及んで、本物になり逞しくも勇敢になつてゐる。以前に自分は石の粉を吹く石工の丹念さをもつて比較したことがあるが、今もなほ秋聲氏は依然として石の粉を吹くつくばひ作りの工人であることに渝《かは》りはない。老眼鏡をかけ短か日の机に向うた彼は、その當時も指摘したやうに骨だらけになつても書き續けるであらう。壯烈と言ふこともこの「骨だらけ」の秋聲氏を外にした言葉ではない。彼は老將軍の如く城砦の中に皺枯れた聲量と十三年來の戰法の奧義をもつてゐる。

 秋聲氏は最後まで町やプールの見物を頑固に拒んだが、順子さんと信子さんとは出發前の一時間を停車場への途中、町家プールを見物するために出掛けた。

 「君は行かんのですか。」秋聲氏は僕も婦人達と出掛けるものと思つてゐたらしかつた。僕は頭を振つて見せた。出發の時間が迫り荷物の支度などもあつたが、さういふ事に氣の付く方《はう》の自分は反つて傍からつべこべいふ面倒を想像して默つてゐた。しかし秋聲氏は時間が切迫しても物憂ささうに依然として坐つてゐた。自分は支度したらどうですかと言ふと、まだ早いだらうと秋聲氏らしい、癇《かん》のある聲で答へ、もぞくぞして居られた。自分はその物憂い何も面白くなささうな容子を、自分の五十の年輩に想ひ描いて見て、決して人事でないやうに思はれた。

[やぶちゃん注:「もぞくぞ」ママ。意味不明。「ウェッジ文庫」もママ。金沢弁か、或いは単に「もぞもぞ」の誤植か、「もぞ」に踊り字「〱」を書いた上に「ぞ」を送ってしまったものかとも考えたが、最後のそれは、本書に限っては、まず、あり得ない。本書では私の大嫌いな踊り字「〱」「〲」は他では使用されいないからである。]

 停車場への途中故意《わざ》と自動車を西洋別莊の小徑にとり、町家を迂𢌞して、町を見物せぬこの頑固な半翁に少しの說明を試みたが、秋聲氏は子供のやうに別莊地や町の樣子を眺めてゐた。さうしてある西洋人の表札の名前を木陰に透して讀んで、

「あれは君スペイン人の名前だね。」と言ふのだつた。

 自分は今朝から變に不機嫌だつた自分自身に對《むか》うて、この瞬間から少しづつ氣持のほぐれる事を感じた。成程この半翁は子供らしい氣持をもつてゐると思うた。今は夏の中程だのに秋聲氏は冬帽をかむり、その鍔の一端が空に向け撥ねてゐるやうな冠り方をしてゐるのも、秋聲氏らしいある氣性を見せてゐた。

 自分は秋聲氏の氣質の中にある一徹な頑固さが、北國人の持つ特質や頑固さであり、内側から溶けねば外側から解けることのないことを知つてゐた。この氣質は自分も血統的に持合してゐるものらしいが、しかも秋聲氏は永年の文學的試練から積まれた特異な氣質も加へられてゐる。寧ろ自分は機嫌のよい秋聲氏を見るよりも、忌忌《いまいま》しげな不機嫌なこの人を見た方がよいと思ふのだつた。座布團の上に長長と朝の假睡をしてゐた秋聲氏は、文字通り自分には昏昏として見え、永く忘られない記憶になつて殘るだらう。

 停車場に先着してゐた二人の婦人は、人込の中にも際立つて見えた。そして暑い日中を歸らねばならぬと言ひ出した秋聲氏をいとしく思ふのだつた。

 

 正宗白鳥氏

 

 自分は未だ正宗白鳥氏には四五度位しか會はない。それも自分から訪ねた譯ではなく旅行先で偶然に邂逅したに過ぎないのである。しかも自分の受けた印象は可成りに鮮かであると云つてよい。

 自分は對等以上の人物には俯に落ちぬ話をその儘に打捨てる氣はない。解るまで聞く氣持でゐる。も一つ對等以上の人物には安心をもつて話しすることができ、心を落着《おちつ》けることが出來るやうである。正宗さんは素氣《そつけ》ない質《たち》の人ではあらうが、素氣なさの中に眞實のこもつてゐないことはない。自分は正宗さんの話術の中にいつも漂うてゐる一脈の昂奮を覗き見て、却《かへつ》て自分の如き藝術に處するに冷然たるの輩《やから》よりも、逈《はる》かに熱情家であることを感じてゐる。いつも老書生の如き氣槪が欝然として面《おもて》を壓してゐる。

 話術に少しも躊躇(ためら)つたところがなく、しかも聞き手には退屈を與へないのも素氣ない人物のみが持つ德の一つであらう。素氣ない人物といふものは何か滑稽なものである。素氣なさは荒い氣質の人には尠《すくな》いものらしく、正宗氏の氣質も可成りに細かいらしく思はれるやうである。その文藝に親しまれるのも、それさへあれば、誰にも會はなくとも孤獨でゐられる爲であらう。その少しも弛みのない顏が一度笑ひかけると全(まる)で童顏の相貌になる。その童顏の中には冷やかな或にがりの表情が一筋鮮かに走つてゐる。古い能面に滲透《しんとう》したにがりに能く肖《に》てゐる。倭小でかつちりした肢質とそれらの面貌の好印象は、何よりも對手《あひて》に微笑を用意させる程度の心安さを與へるのも、例の嚴肅なる滑稽が風格に備つてゐる爲であらう。

[やぶちゃん注:二箇所の太字「にがり」は、底本では、大きめの「●」の傍点である。]

 自分は或日、未だ幼い女の子供を連れて散步してゐて、正宗氏に會ひ喫茶店に這入《はい》つたが、正宗氏は最後まで子供へは一言の愛想も言はれなかつた。別れ際に微かに笑つて左樣ならを交《かは》されただけであつた。自分にはその左樣ならが頭に殘つた。家へ歸ると子供は今日會うた伯父さんは自分に何も言はなかつたとふしぎさうに云つた。それは彼女に取つて不思議な無愛想だつたに違ひなかつた。そして彼女はさういふ伯父さんを物珍しく時時話し出し、今度會うたら何か言はれるだらうかなどと云ふのだつた。後に正宗氏は自分の子供のことに就て夫人に話されたさうだつたが、さういふ無愛想の中にも見ることは見てゐる人だつた。

 正宗氏は活動や芝居や讀書もされる勤勉家であると同樣、文藝以外の人にも或興趣の眼を以て見てゐる人である。旅行先で自分なぞ見に行かない人形芝居なぞも見に行く人である。自分の鏡を疑ふことはないが何者をも先づ自分の鏡に映して見て、徐《おもむろ》に何か言ふ人であらう。讀書や芝居や活動をも見遁《みのが》さないのは、何かあるか知《し》らといふ田舍者のやうな氣質の物珍しさを多分に持つてゐるからであらう。

[やぶちゃん注:「正宗白鳥」は岡山県和気(わけ)郡穂浪(ほなみ)村(現在の備前市穂浪:グーグル・マップ・データ航空写真)生まれである。]

 

 高村光太郞氏

 

 晚春のある日、萩原君[やぶちゃん注:萩原朔太郎。]と話にあきた後に、久しぶりで高村光太郞を訪ねようではないかといふ話になり、駒込の高村君のアトリエを敲いた。全く四五年振りであるといつてよい。

 アトリエの入口には白い茨が靑靑と絡みついて、何となくアトリエも古びを帶びてゐて好ましかつた。高村君は相かはらず趣昧の蒐集物の間に椅子を置いて話し出したが、口髭の間は白く染つて見える程、白髮が交つてゐて中々いいなと思うた。高村君とは十年くらゐの規則正しい手紙の交際を續けて來たが、別に高村君が陋居へ出向いてくることも無ければ、また出不精な私は三年に一度ぐらゐしか尋ねない。折折の手紙を通じての尋常一樣の交際であつた。それでゐて時時妙な親密を感じることは、友人の尠い私であるから、さう感じるのであらう。

 高村君は十年前に私と萩原とが出してゐた雜誌「感情」の誌代ををさめてゐてくれた人であつた。そのころの高村君は今よりも最つと表面に立つてゐて、靑年の間に人氣があつた。

 あるひは自分もその人氣に投じてゐた一人かも知れないが、爾來十年の私の頭にある長身高村光太郞は、そのさきよりも一層奧床しい人物であつた。裏側へのびてゆく奧の深い人である。小說を書いてゐたら別の意味の志賀君のやうな人になつてゐたらう。物を硏《きは》め考へることは當今の文人の比ではない。話をしてゐても氣取らず平明で、それでゐてある程度まで他人を容れない冴えをもつてゐる。曾て瀧田哲太郞氏が晚年に切拔帖を見せて、高村君が讀賣新聞に書かれた木版についての一文を私に賞揚したことがあった。恐らく彼の文章を切拔帖にをさめてゐた一人は、あるひは天下の瀧田氏一人であつたかも知れない――。

 今、話を交へてゐる高村君は、アトリエの古くなりさびのつくのと一緖に、少しの白髮を雜《まぢ》へ、よい詩人の風貌を帶びてゐる。表面に立つことを避けた人に有りがちなひがみなぞなく、今目藥を點じたやうなすつきりと美しい眼をしてゐる。どこへ出しても一流である。自分は斯樣《かやう》な人を尊敬せずに居られない性分だ。世上に騷がれてゐるやうな人物が何だ。吃吃としてアトリエの中にこもり、靑年の峠を通り拔けてゐる彼は全く羨ましいくらゐの出來であつた。

 去夏細川侯の觀能の席上で、高村君が長髯童顏《ちやうぜんどうがん》の父君と共に、袴を穿いて坐つてゐるのを見たが、全くよい息子の感じでちやんと板についてゐる趣を感じた。自分はその快い品のある父子を一幅の間に眺めたときも羨ましかつた。かれらは靜かに夕食をとり、徐ろにささやき合うてゐるのをこの上なく美しく思うた。

 自分は彫刻のことは解らない、しかし高村君の人がらが解り、詩が解り、彼の持《じ》してゐる平明さが解るだけで澤山だと思うてゐる。

「かうして高村君を君と訪ねてかへると一寸若くなつたやうな氣がするね。」

 自分は萩原にさう話しかけたが、萩原も笑ひながら、いろいろな意味でねと言つた。それからもう二年になるがまだ合はない。會ひたいと思うてゐる。

 

 白鳥省吾氏

 

 昔、白鳥省吾の故鄕は伊達政宗の領地であつた。自分は伊達政宗といふ人物の文献に接したのは、纔《わづ》かに幸田露伴の史實の文章だけである。伊達政宗も一と通りの野性の輩ではなく、德川をして窺《ひそ》かに杞憂を懷かしむるものを有つてゐた。併乍《しかしなが》ら吾が白鳥省吾は伊達政宗の後裔でもなければ系統を引いてゐる譯ではない、――昔を今に還して見るならば白鳥省吾も伊達の一家臣、千石ぐらゐの家祿を領してゐる頑固一徹の武士であつたらう。今で云へば彼に取つて朝飯前ぐらゐにしか思はれない早稻田大學の敎授の程度であらう。彼が官途に近い緣を求めずして一市井の詩人として暮してゐることを思へば、何人も彼の性根が野にある人で、窺かに霸氣を抱いてゐることに心づくであらう。霸氣といふものは石炭箱を叩くことではない、彼の如く心からそれを抱くものにのみ燦《さん》として光を放つてゐるものである。

 白鳥省吾は人氣や流行を知らない。穩健ではあるが意地張りである。謙遜ではあるが卑屈な男ではない。――彼が大島か何かを着て悠然と坐つてゐるところは、大家の外のものではない。年來日夏耿之介との應酬には彼は彼らしい物靜かな警部のやうな物言ひを續けてゐるのに、日夏耿之介は文藝講座の中にまで白鳥に當つてゐるのは、心ある者をして顰蹙せしめたことは實際である。自分は野の人、白鳥省吾のためには何時でも筆硯を持つて彼とともに行を同じうするものである。これは藝術上のことよりも寧ろ彼と趣昧其他の何者も一致しないに拘らぬ友誼に外ならぬ。純眞の人間に心を合《あは》すことは年來の自分の希望でもあつた。又、自分はあらゆる友誼のために戰ふことを辭さない。友誼に殉ずることを以て名譽とするものは、恐らく時代遲れの人間であるだらう。

 白鳥省吾は野暮で、くそ眞面目である。彼のごとくくそ眞面目な人間はすくない。しかも其眞面目は又何人《なんぴと》をも持合《もちあは》さないところの眞摯である。彼が農民文學のやうな提案を敢て辭さない所以は、福士幸次郞の地方主義の主張と同樣に又認めなければならぬ。彼がいい加減な人物ならば疾くに今の時代に合ふやうな芭蕉論でも書いてゐたらう。しかし吾が白鳥省吾はそんな薄情者ではない。十年一日のごとくくそ眞面目な白鳥省吾である。

[やぶちゃん注:二箇所の太字「くそ」は、底本では、傍点「﹅」である。]

 自分は民衆派といふものに不尠《すくなからず》輕蔑の念を感じてゐる。併し白鳥とそれは關係のないことである。もう一度云へば彼の詩は自分の好みの外のものである。彼と人生を談じるとき自ら民衆派にも苔が生えたと思ふ事さへある。さういふ意味で民衆派と彼とを引離《ひきはな》すことができないかも知れない。彼の毒舌を聽聞《ちやうもん》するとき自分は白鳥省吾を愛するが恰も福士幸次郞を尊敬すると同樣の愛情である。今の詩壇で大家の風格をもつてゐるものを數へるなれば多士濟濟であるが、吾が白鳥省吾のごとき己にも他人へも淸節を持つてゐるものは極めて稀である。

 

 佐藤春夫氏と谷崎潤一郞氏

 

 自分の作家生活は六七年に過ぎないけれど、作を求められるときは何時も編輯者の心を讀者の代表的なるものとまで言はないまでも、それらの整然たる氣もちを感じるのであつた。第一に自分の作を求める下地の心に向ふとき、その人の心の向きを自分は銳敏に感じるのであつた。瀧田氏はいつだつたか一度、自分の作の内容の陰慘を指摘してかういふものはどうかと言つたが、これも自分のものだと言つて無理に通さうとした。そのとき瀧田氏は不愉快な顏をした。自分も同樣の表情をしたが、しかしそれは瀧田氏の言ふところが當つてゐたので、自分は數日の後に原稿を返して貰ひ、破いてしまつた。自分は當然自分の作の傾向が次第に自分の本道でないことを知つたのである。自分に好意をもつ人に作を求められることは、どうしてもよい物を書くやうになることである。作を求める人に德があるとき、作者もその德に酬いなければならぬ。この二つの心は作者と作を求める人の間に、いつも語るに言葉なくして行はれる德ではないか?――

[やぶちゃん注:太字「向き」は、底本では、傍点「﹅」。]

 此間「大調和」[やぶちゃん注:雑誌名。]の會で佐藤君が演說をしたが、その下地《したぢ》の心に自分は感激した。彼と平常話してゐるよりも、演說を聞くと一そう彼を解することが、できるのであつた。自分の小說を書き出したころは彼はもう年少で一家を爲してゐた。いつか谷崎君も同席してゐた彼の書齋で、未だ二三の作を公けにした自分の前で、谷崎氏はこんなことを言つた。

「いや室生犀星は一杯の紅茶のごときものだよ。」

 すると佐藤君は、

 「いや寧ろココアぢやないか?――」

 と言ふ意昧のことを言つた。自分は當時大名を馳せた谷崎君の言葉が一寸頭に殘り、なるほど彼から見れば一杯の紅茶かなと思うた。唯これだけの言葉であつたが、少年の時分から谷崎氏を愛讀してゐた自分は愉快に快い印象を受けた。

 ともあれ殘念乍ら年少である佐藤君は、一家の風格を持つてゐた。彼の話は聯絡《れんらく》を持つてゐるにくらべ、自分は斷片的なことしか言へないところがあつた。彼は渾

然たるものよりも半端ものを好み、自分はその反對であつた。彼はいつか自分に放浪者の魂を失ひかけてゐるといふ意味のことを言ひ、もう些《わづ》かの非難を交へたやうな調子で云つたことがあつた。その時自分はそれをよしとしてゐた。佐藤君は相當餘裕はありながらもその漂白の魂も少しは有《も》つてゐる。

 此間一年振りで會つた時は、どうも物忘れしてると頻りに言つてゐたが、茫茫とした顏付でゐながら演說は透明だつた。彼はボケたやうな顏をしながら、心に一滴の淸水の新鮮をたたへてゐるやうな人であつた。彼の老いざることは、この一滴の何ものかの爲であると言つてよい。

 

 宮地嘉六氏

 

 宮地君は見たとほりの宮地君であるかも知れません。謙抑《けんよく》な調子で對手をその謙抑一本調子で壓倒してしまふ宮地君かも知れないのです。あのやうな謙抑の情といふものは、僕には變態的な程にまで影響して來て、或る時は憂鬱にさへなる時が多いのです。つまり對手なぞの意志を認めない程度で謙抑であることは、それ自體で壓迫されることが多く、その壓迫的なるものを次ぎの瞬間でまた圓め込まれてしまふのです。それ故《ゆゑ》宮地嘉六君のこれらの情念の發する時には、暫らく感情的な僞瞞を經驗するやうな苦痛な狀態に置かれることがあり、此恐るべき謙抑な彼の戰術を飛び越えることは何人もできない困難なことかも知れません。それは勿論宮地君の戰術でないことは解つてゐますが、自分にはやはり戰術としか見えないのです。實に戰慄すべき又人人から愛敬《あいぎやう》されるところの、彼、宮地嘉六君のものの中で一番自分の參つてゐるものであります。

 細菌銀座の通りで二度ばかり偶然に宮地君に會ひ、一度は散步だけで別れ、二度目は茶を喫んで別れました。その折宮地君は家庭の事や、過去の事件的なことを話して吳れ、自分の考へてゐた女人《によにん》の數がたつた二人きりであつたこと、孰れも宮地君の夫人だつたことを知り、小說で讀み想像してゐた自分の數の謬《あやま》りであることを知つたのです。自分のやうな考へを持つてゐる人は多いかも知れないが、自分の考への刺し貰くところでは、多くは宮地君が不幸な位置にあることを、それらの不幸自身も或は宮地氏自身の氣質的宿命であることをも思はずに居られなかつたのです。徹底的に正直な氣質にある純東洋風な義理人情の踏襲者である此人の過去には、搗《か》てて加へるところの苦勞性があるため、それらの複雜な氣質的な調和がいつも女人との間に介在してゐるのが當然かも知れません。宮地君は細かい口やかましい家庭の王者でもあることは、僕自身の小言幸兵衞である所以のものと何等渝《かは》るところが無いと思ひます。しかも僕はまだ宮地君の書齋を見たことが無いのです。何故か僕が訪ねようといふと、氣欝な顏付でそれを好まないやうなところも無いでもありません。僕の家に見えたことも數へる位しか無く、坐ると直ぐに歸りさうにそはそはとしてゐますが、平常そはそはしてゐる人物が或特種な時間的に落着くときは落着くことを見越してゐる自分には、此人の落着いてゐる時を想像することができるのです。

 最近銀座で會つたことを先刻話したのですが、その一度目にはどうしてもカフエヘ這入らうとせずに、その事を最後まで固守して居られたが、僕には不思議な剛情だと思はれたのです。背丈の高い堂堂たる六尺近い風貌の中には、一緖に大通りを步いてゐても僕のごとき倭漢[やぶちゃん注:ママ。「矮漢」(わいかん)の誤記か誤植。]と違ひ、何か賴母《たのも》しい偉丈夫さを感じることが多いのです。何時でも機嫌のよささうな笑ひを含んで、昂然と上向き加減に步いてゐる宮地君には、人生に憂ふることも無いやうに見えますが、その堂堂たる風貌には平常も何か一人で散步してゐる時の淋しい感じを持つて居られるやうです。僕とはちがつて家庭の人達とも相伴《あひともなは》れて夕食をたべに出掛けることのある人は、質《たち》には善良と正直さを豐富に持つて居られることが解るのです。その善良と正直さには何らの銳い思想的なものの片影だに見せないでゐるところも、苦勞人であるためのさういふ氣質的な人がらがさう見せてゐるのかも知れません。

 では僕に何故宮地嘉六氏に親しみを感じるのか、――さういふ問題は僕にも鳥渡《ちよつと》分り兼ねるのです。宮地君の文人風な好みや愼しみの中にも、また窃《ひそ》かに水墨を擬して永日閑を樂しむの境涯にしても、僕の俗流的な心には大して影響してゐないので。話よいために話をする樂な友人といふことも、僕には大して問題にはなつてゐません。宮地嘉六といふ人がらの中に僕自身がどういふ調和を齅《か》ぎ出さうとしてゐるかも、同じく問題にはなつてゐないのです。唯一つ問題なるものは「累《かさね》」を書いた宮地嘉六氏が其作者として僕を彼の中に惹き付けてゐることです。僕の友人同士を繫ぎ得るものの中には、その人の仕事の或ものが影響して來ないかぎり、もう友人といふものの範躊を作る必要は見ないのです。絕對に作を徹し合つた友人以外に友誼は成立しない今の僕には、あの人の書いた、あの人の生涯の秀作だつた「累」が僕に結び付き呼び合うてゐることは當然なことであります。忽ち宮地嘉六君と親しく口を聞き合うたのは、僕の書いた「累」の批評がその機緣であり、その「累」を間に入れた僕らの友人的なかういふ相互批評を物色し問題化せられるところの間柄になつたのに違ひありません。

[やぶちゃん注:「累」国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の昭和二(一九二七)年學藝社刊の彼の作品集「累」のここから視認出来る。]

 此間宮地君と話し合ふ時に、哀愁のない文學は文學ではないと、宮地君は僕に言はれました。平凡であるが僕には十分にいい言葉だと思うたのです。宮地君は時時批判的な秀でた座談をされ、餘程評論家風な傾きと見識を持つてゐる人だと思ひました。彼はよく理解のある氣持で今の文壇の何人をも受け容れ、それに對抗する時も天與の素直さを持つて向つてゐるやうです。あの人が怒りあの人が叫びあの人が戰ひを挑み、あの人が躍り出すことは鳥渡想像されないことです。併しあの人が割れ出しあの人が動きあの人が深くなり、あの人が何か書き出すことは豫期されるのです。この儘ではいけないといふのがあの人の常にいふ言葉です。そして誰も皆そのやうに一應感奮《かんふん》して見るやうな言葉ですが、實際あの人はあのままではいけないかも知れません。「累」の後の宮地君はまだ何もしてゐないのです。あの人はあの人の質だけの一盃でまだ打《ぶ》つかることを考へてゐる人です。あの人の健康と骨格、堂堂たる風貌、そして自分でさへ抑制できない苛苛《いらいら》した何かしようと志す一面、何か仕ようとしながら生れつきから詩人でない一面、詩人であつたら胡魔化しの利く一面すらもないあの人は、いつも餘りに正面的な、ゆとりのない人生に向き合うてゐるのです。才人でなく鈍重でもない宮地氏は、世の常人である考へを文學者であるための誇張を强調せずに、そのあるままの力で通して來たひとであり、これからもそれによつて進む人に違ひありません。

 宮地氏に望むものは今少しく詩人風な、眼目による彼の世界の豐かさ廣さ細さを望みたいのです。叙情はあり叙情の本體をかつちりと鍔元で受けてゐる人ではあるが、それをじりじりと對手へ押し戾すために耐へるところの、詩人的なものの本體をもう一度自分は見たいのです。彼は小說を書くだけの小說家でありましたといふといふことは、誠に電信棒を見上やうな空虛なことに違ひないのです。又さういふ小說家程落莫とした感じをさせるものはありません。小說家は凡ゆる文藝の作家を表面的に代表したものであつたとしたら、彼は一ト通りの分野的作品への統一した彼自身の考へを持たなければならないのです。只何事も佗しい人生の記述者でのみあつたところの、いつも「灰色の机」を磨く宮地嘉六氏にも詩人風なものの幾面かがあれば、宮地氏の見るからに固さうなものが柔げられはしないかと思ふのです。

[やぶちゃん注:私は所持するプロレタリア文学の集成本全集で幾つかの短篇を読んだことがあるが、今は、まず忘れられた作家である。辞書類も見たが、事績は当該ウィキが一番よかろう。]

 

 加能作次郞氏

 

 大正文壇と云つても自分のことしか書けない。――しかも私自身の大正文壇は大正七年ころから始つてゐるのだから、それ以前のことは知らない。書き出すと多分小說的になるがそれでも想ひ出話であるから却て興昧が深からうと思ふ。

 大正六年の春だつたかに自分は當時「新潮」にゐた水守龜之助《みづもりかめのすけ》君あてに「海の散文詩」といふ十七枚の散文を賴まれないのに送つて「新潮」に載せて貰ふやうに手紙を添へて出したが、一週間ほど後に水守君から原稿を返送して來てどうも長くてこまると云ふ返辭であつた。自分は試作的に散文を書いた折であるから失望も大きかつた。なぜ自分は水守君に文章を送つたかと云へば、「新潮」の前に同君は中央文學の編輯をしてゐて、自分に詩の原稿を依賴されたから、その好意を自分は最《も》う一度水守君に求めた譯であつた。自分は返された原稿を味氣ない氣持ちで眺めてゐたが、それは其儘本箱にしまひ込んで置いて、別の原稿を書きはじめたのである。「抒情詩時代」といふ變な題の小說と散文との中間的な小說だつた。今度も性懲《しやうこり》もなく文章世界の加能作次郞氏へ送つて置き、一週間程して訪ね、恐る恐る先日の原稿はどうでせうとたづねた。あれは仲仲《なかなか》面白いので印刷に𢌞してある。小說としては疑問はあるが、散文として面白いものだと云つてくれたので、自分は内内《ないない》興奮をしていい按配だと思うた。當時詩人といふ埒《らち》もない美名の下に逆境を嘆いてゐた自分は、加能氏の夢にも想像しないやうな心嬉しさに雀躍したくらゐであつた。さういふことが動機になり元氣づいて自分は文章をかき始めたのであつた。加能氏があの時に斷つてしまへば或は自分は餘程平(へた)ばつたかも知れない。或は斷られてゐたら最つと勉强したかも知れない。――ともあれ自分は今日はどうやら原稿に祿を食《は》んで暮してゐる。そのためにも加能氏のあの時の溫籍《をんせき》寬容を諒とせずに居られない自分は、人にも自分にも恩愛の道を守ることを喜ぶものである。恩愛の記述は感情的であるから人間は一定の年齡と地に達すると、何かさういふ感情を厭ふやうな氣になるものであるが、自分は反對に强調したい願ひを有つてゐる。さういふことで人間が低められたりすることは無いからだ。

[やぶちゃん注:「加能作次郞」(明治一八(一八八五)年~昭和一六(一九四一)年:犀星と同じ石川県(但し、羽咋郡)生まれで、犀星より四つ年上)は編集者で小説家・評論家・翻訳家。早大文学部英文科を卒業後、博文館に入社、『文章世界』の主筆として翻訳や文芸時評を発表した。急性肺炎で満五十六で亡くなった。当該ウィキを参照した。

「水守龜之助」(明治一九(一八八六)年~昭和三三(一九五八)年)は兵庫県生まれの編集者にして小説家。短いが、当該ウィキがある。

「溫籍」暖かい座席。孝養の心の厚い子が、年老いた両親のために、わざわざ設ける「暖かい敷き物」。また、「席をあたためること」を言う。]

 自分は中央公論に書くやうになつてから、水守氏が、自分の原稿を斷られたことの正當を感じた。ああいふ粗雜な原稿をあの時に水守君から返されなかつたら、自分は安住をして碌なものしか書けなかつたであらう。詩の原稿をわざわざ求めてくれた水守君も、あの散文をつくづく讀み眺めて、

「これはどうも……」と思つたのは當り前の事であつた。その後水守君は茅屋を訪ねられ「新潮」への小說を依賴しに來られたが、自分は昔話のやうにこの話をしたかつたのだが、機會が無くて云へないで終つた。斷る人にも斷られた方でも、いまになると何と快い笑ひ話になつたことか?――

 

 岸田劉生氏と佐藤惣之助氏

 

 岸田劉生氏に初めて詩集「高麗の花」の裝幀をして貰うて、その裝𤲿《さうぐわ》が自分の氣もちに快い調和を與へてくれたのに尠からず喜びを感じた。童子が一枝の花を持つてゐる傍に、秋の果實の一鉢のある畫趣《ぐわしゆ》であつた。自分は本が出來上ると新潮社に行きその原圃を讓り受け、扉繪の花一輪を茶掛けに仕立てて、當時大學を出た高柳君に祝ひの意味で贈つた。「魚眠洞隨筆」の裝頓も劉生氏に工風して貰つたが、これも亦秀れた佳い出來であつた。自分は彼の畫に派手な冴えを見遁さなかつたが、その派手な中に平常も一脈の憂鬱が罩《こ》められてあつた。自分の著書は平常も自分の氣質に從うてじみな内容を盛つてゐるので、却て劉生氏の明快が内容を包んでくれるのに適當であつた。

[やぶちゃん注:「岸田劉生氏に初めて詩集「高麗の花」の裝幀をして貰うて」大正一三(一九二四)年九月新潮社刊。詩集の中身は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。「ヤフオク」なので、何時、消えるか判らないが、ここで、初版の本体表紙とカバー絵を見ることが出来る。

「高柳君」不確定であるが、後の法制史学者高柳真三か。高柳は中野重治の友人で、金沢四高時代に中野を室生犀星に紹介した人物である。]

 その内、劉生氏は「童子愛魚之圖」を送つて來てくれたので、自分はそれを表裝して部屋にかけて置いて珍重した。魚を眺める童女の顏も、魚の泳ぐ有さまを寫した鉢の姿もよかつた。芥川君がこの繪を見てから後に、魚の泳ぐ鉢のまはりに擬寶珠《ぎぼうし》が生えてゐるやうな氣がすると言つてゐた。私もさういふ蒼生《あをなり》の草を見るやうな氣がしてゐた。自分はこの愛魚之圖以後劉生氏を好《す》くこと烈《はげ》しかつた。畫會に入會して二三友を語うたのも、自分の好愛からであつた。

[やぶちゃん注:「擬寶珠」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシリュウゼツラン亜科ギボウシ属 Hosta の山間の湿地などに自生する多年草の総称。

 次の一行空けは底本のママ。以下、後の三箇所も同じ。]

 

 自分は彼の藝術を云々するものではない。彼が自分に與へてゐる心を說けばいいのである。「歲寒三友」を人手したのは去年の春であつた。松竹梅の三樹交契《かうけい》の下に、三友の童子が點心菜果を前に置いて語る畫面であつた。自分はこの繪の中にやはり派手と明快とを感じたにも拘らず、小さい寂漠の蟲の這ふのを感じたのであつた。出來から云へば「愛魚之圖」は最《も》つと寂漠の情に富んでゐたらう。加之《しかのみならず》「歲寒三友」の明快は歲寒き二月の明快であつた。二月といふものを掘つて行くと「歲寒三友」の心が土の中にある、……自分の思索はかういふ風雅を踏まねばならない心であつた。

 

 自分の劉生を見るのは、單に斯樣に狹い見解であり劉生氏に取つて迷惑の事であるかも知れない。しかも自分は大方の批評が作者に迷惑の外の何者でないことを知つてゐるものである。自分は「冬瓜の圖」を見て厨房の夕《ゆふべ》を啼くこほろぎを感じたのも、また劉生氏の迷惑とするところかも知れぬ。併し自分はこほろぎの這ふことを以て喜びを感じたものである。

 藝術は穩かさ靜かさの外に、喜びを持ち運んでくれるものでなければならぬ。喜びのない藝術、喜びをささやかぬ藝術は自分の心の外のものである。彼が好んで描くところの果實の諸相は何時も子供らしい喜びをもつて素直に描かれてある。彼の蓮根と蕪《かぶ》の圖には此喜びが邪氣なく漂ひ賑うてゐる。これ等の大根蕪に眼を向けるのは、單なる彼が奇嬌のわざを衒《てら》ふためではない。彼のあはれを感じるのはそれらの疎菜《そさい》の寂しさ豐かさであつたであらう。

[やぶちゃん注:「疎菜」「蔬菜」が正しい。人が副食物とする草本作物の総称で、特に栽培植物を指したのであるが、現在は「野菜」と同義化している。]

 

 劉生氏と初めて會つたのは去年の冬、詩を書く人人の或會合の席であつた。酒客である彼は市井の一畫人としての悌《おもかげ》を持つてゐるに拘らず、又隱栖の人たる風格を窺はせた。席に佐藤惣之助君が居合せ、彼の近業「酒はまだある」の隨筆集を私は批評して一種の洒落本のおもかげのあることを話しすると、佐藤君はその洒落本の批評を劉生氏に傳へた。その時、劉生氏は洒落文と雖も一朝にして書けるものでない、單に洒落文として閑却してはならぬ意味を醉後であるとは言へ、佐藤君のために辯じたのである。

 その會合は殆ど岸田氏と初對面の人人が多かつた。交誼五年に亙る私でさへも初對面であつた。さういふ席上で古い友である佐藤のために辯じたことは、私に直ちに友情の根ざすところ深きを感じさせた。酒席であるに拘らず言葉を更めた彼の卒直さに自分は友情の美しさを感じた。しかし自分はその洒落本である所以を說明しなかつたが、端《はし》なく友情の何物かを感じた私は、劉生氏の第一印象に成果の暖かさを感じたのである。

 佐藤の「酒はまだある」の文章の姿の中に、意氣や粹や洒落氣が多かつた。無雙な嚴肅や、蒼古の感情にのみ心を走らせてゐる私には、彼の隨筆にたるみを感じてならなかつた。佐藤といふ人がらはむきにならずに直ぐに悲しく外方《そとがた》を向いて、俗事焦慮の事件の埒外《らつがい》を行く人である。

 

 佐藤の隨筆を方今《はうこん》[やぶちゃん注:「現今」「只今」に同じ。]の文壇にたづねて見れば、誠に特異な、珍らしい新姿《しんし》を有《も》つてゐると言つてよい。鏡花先生以外になほ惣之助があることを知ることは、私には樂しい心丈夫な友誼を感じるものである。彼は流行兒でも時めいた隨筆家でもない。しかし左ういふ地味な彼がひそかに稀らしい文章を抱いてゐるといふことは、世人の注意を惹かない程度のものであるとしたら、これほど私に樂しいことは無いのである。併し佐藤は或は別な考へを有つてゐるかも知れない。最つと表面に出なければならぬと思うてゐるかも知れぬ。私の信ずる佐藤惣之助氏はさういふことに頓着のない邪氣ない魂を有つてゐるやうに思ふのである。彼は彼らしい無頓着さで珠《たま》を抱いてゐるのだ。「酒はまだある」は岸田氏が言ふやうに一がいに洒落本ではない。洒落本だと言つた私は私にそれが無かつた故、稀らしいものだつた爲に左う言つたのであらう。岸田氏が彼のために辯じた所以《ゆゑん》のものは、彼の隨筆を批評する時の唯一の眞實でなければならぬ。しかもそれが單なる友情ばかりではなく、佐藤惣之助が一朝にして出來上つたものでなく、永年の心の鍛へが今やうやく彼の文章の上に艶を拭き込んで來たのである。

 

[やぶちゃん注:最後に。この後にある「澄江堂雜記」は、本書の電子化注の一番最初で既に終わっている。

早川孝太郞「三州橫山話」 種々なこと 「空を通つて行つたもの」・「ヒトダマ」・「魔が通る」・「風に乘つた魔」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。今回はここから

 標題は「いろいろなこと」と訓じておく。なお、これが本文の最終パートとなる。]

 

      種 々 な こ と

 

 ○空を通つて行つたもの  明治十八年頃のある秋の日、私の父が字相知《あひち》の入《いり》と云ふ處の田で仕事をしてゐると、何處とも知れず劇しい唸り聲がして、東の空から西の方へ向けて、中空を赤く燃え盛つた火の塊が、物凄い響きを立てて通り過ぎたと謂ひました。暮れ近い時刻であつたさうですが、あれが火のタマと云ふものだらうと云ひました。

 又某と云ふ女が夜門口へ出ると、飯茶碗程の大きさの火の魂《たま》が、山の頂とすれすれに、北から南の方へ飛んで行つたさうですが、其が通る間は、山の草の色が、靑く明瞭と見られたと云ひました。

[やぶちゃん注:これは孰れも火球(隕石)と思われる。

「明治十八年」一八八五年。

「相知の入」現在の横川相知ノ入(よこがわあいちのいり:グーグル・マップ・データ)。]

 

 ○ヒトダマ  人魂は、人が死ぬ三日の間に、其家の棟から出ると謂ひますが、火の玉のように、勢《いきおひ》はなく、靑い火が、ふらふらと燃えて中空を行くと謂ひます。

 ある男が見た人魂は、何處からともなく靑い火の魂が飛んで來て、其男の頭上を、三囘程囘つたと謂ひました。

 又、鳳來寺村の字椎平《しひだひら》の某と云ふ男が、夜、人魂らしい、靑い火の落下した場所を見定めて置いて、翌朝早く其處へ行つて見ると、一握り程の泡のやうなものがあつたと謂ひます。

[やぶちゃん注:これは、動きや痕跡からみて、何らかの発光生物、或いは、発光物質が附着した生物のようには見受けられる。

「鳳來寺村の字椎平」こちらの「蕨が結びつけた緣」の私の「椎平《しひだいら》と云ふ所の板橋」の注を参照されたい。]

 

 ○魔が通る  私が子供の頃、それは秋の頃と思ひますが、其日の午後、西の方の空へ向けて魔が通つたと言つて噂してゐました。何物とも知れぬ者が、空を空車《からぐるま》を挽《ひ》いて走つて行くやうな音をさせて過ぎたと謂ひました。其日は、薄曇りした靜かな日でした。

[やぶちゃん注:これは恐らく、上空に逆転層(ご存知ない方は当該ウィキを見られたい、そこにも書かれている通り、『逆転層により、遠くの音が大きく聞こえることが多く』ある旨の記載がある。車のヘッド・ライトが反射すると、UFOが出現したかのように見えることもある。因みに、私は十代の頃、『未確認飛行物体研究調査会』を作り(会員は私を含めて三人しかいなかったが、中学時代の友人らも、よく協力してくれ、UFOの現認情報を伝えて呉れた)、三島由紀夫も会員だった『日本空飛ぶ円盤研究会』の会長であられた荒井欣一氏と書簡を交わしたこともあったUFOフリークである)が発生し、そこにかなり離れた場所の地上の空車を曳く音が、反射して聞えたものと推定される。]

 

 ○風に乘つた魔  早川文六と云ふ男が、暴風雨の折、緣側に立つて見てゐると、空を大きな材木のやうなものが飛んで來て、家の上を通つたと思ふと、屋根の瓦が、ガラガラと崩れ落ちたさうです。家内の女と二人、はつきり見たと云ひました。

 暴風の折は、風に乘つて魔が通ると云ひます。其がぶつかると、立木が折れたり、家が倒されたりするのだと謂ひます。

[やぶちゃん注:一見、ジョージ・アダムスキイの葉巻型母船を想起させるが(私は邦訳された彼の著作を総て読んでいるが、現在は、彼は妄想家であったと考えている)、これは、物理的には、竜巻が発生し、実際の倒木や木材を巻き上げて落としたものと考える方が現実的である。]

「曾呂利物語」正規表現版 第五 / 二 夢爭ひの事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。今回はここから。なお、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。

 なお、挿絵があるが、今回分は以上の岩波文庫にあるものを、取り込み、トリミング補正した。]

 

     二 夢 爭 ひ の 事

 みやこに、或何某(あるなにがし)とかや、本女房は、なくして、腰元に召し使ひ申す女、二人(ふたり)、ある[やぶちゃん注:ママ。]。一人は出雲の國の者、一人は豐後の國の者なり。

 ある時、二人の女、晝寢して居ける。

 間(あひだ)、疊(たたみ)半疊(でふ)ほどある。

 然(しか)るところに、奧の座敷に、二人の女の聲にて、うめく音(おと)、しける。

 

Kamiarasohi

 

[やぶちゃん注:右上端のキャプションは「ゆめあらそひ男物すきゟのぞきみる所」(夢爭ひ、男、物(の)𨻶より、覗き見るところ)である。二人の女の顏が白くとんでしまって、よく見えないので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該画像をリンクさせておく。]

 

 不思議に思ひ、男、忍び、驅け寄り見れば、二人の女の丈(たけ)たる髮が、そらざまに、生(お)ひ上(のぼ)り、上(うえ)にては、一つに亂れ合ひては、落ち、または、兩方へ分れなどして、なかなか、すさまじき事、申すも愚かなり。[やぶちゃん注:「本女房」正妻。]

 さて、二人の女の枕元を見れば、小(ちひ)さき蛇、一尺二、三寸許りなるが、二すぢ、互(たがひ)に、舌を出だし、ひろめかし、喰(く)ひ合ひては、退(の)き退きする。

 此のとき、一人の女、殊の外、齒ぎりをして、呻く。

 是を見て、男は肝魂(きもたましひ)を消し、呆(あき)れ果てて居(ゐ)たり。

 さて、其の後(のち)、男は、いつもの體(てい)にて、聲をして、彼(か)の女ども、寐(い)ねたる座敷へ行けば、二すぢの蛇は、其の儘、分(わか)れ、女の胸に上がる、と思へば、其の儘、失せぬ。

 長き髮は、いつもの如く美しく、解(と)きたて結(ゆ)ひたる儘なり。

 そこにて、男、二人ともに起せば、目を醒(さま)しけり。

 見れば、二人、ともに、汗を流し居(ゐ)たり。

 男、云ふやうは、

「何ぞ、夢ばし、見たるか。」

と問へば、

「いやいや、夢も見ぬ。」

と申す。

 一人の女、申しけるは、

「不思議や、『人と、いさかひたる。』と、思ひたるばかり。」

と申す。

 さて、男は怖ろしく思ひ、それより、二人ともに、暇(いとま)をやり、重ねては、獨身(ひとりみ)にて、日を暮らし侍る。

 「女の妄念(まうねん)は怖ろしき故(ゆゑ)、男に勝(すぐ)れ、罪も深き。」と、古へより申し傳へ侍る。

[やぶちゃん注:この短い話は、恐らく本書の内で、一番、人口に膾炙している話であろうと推定する。

「夢ばし」「ばし」は副助詞で、体言・格助詞「に」「を」「と」・接続助詞「て」について「強調」の意を添える。「~なんどでも」「~なんか」。係助詞「は」に副助詞「し」が付いたものが「ばし」と音変化して一語となったもので、会話文に多く、中世初期からの用法である。「夢なんぞでも」の意。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 二六番 夢見息子

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   二六番 夢見息子

 

 或所に母子があつた。其子は一人息子だから大凡《おほよそ》の我儘は通させて居た。或時息子が母親に言ふには、母々(アツパ)、俺に刀一丁買つてケろ。垣内(カクチ)の梨の木さ每夜、何處からか天狗が飛んで來てブウブウ唸つて居ツから、俺は彼(アレ)を斬(キン)なぐツてしまう。なアなア母俺(アツパ)に刀一丁買つてケろとせがんだ。母親は早速町へ往つて、古道具屋から古段平(フルダンビラ)を一本買つて來て息子にあづけた。息子はひどく喜んで、其刀を持つて、每夜裏の梨の木に登つて、刀を拔いて天狗の來るのを今かと待つてゐた。するとある夜半だと思ふ刻限に、天狗がばふばふと飛んで來て梨の木に止つた。ここだと思つて息子はやツと刀で切掛《きりか》けた。ところが天狗は物も言わず息子の鬢毛(ビンケコ)を引下(ヒツサ)げて、何所《いづこ》となく、ふわりふわりと飛んでいつた。[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版は最後の一文の「何所となく」の箇所を『どことなく』と平仮名表記にしている。従えない。]

 息子はさうして天狗に下げられて、天を飛んで、連れられて往きながら、これやことだ、俺はどうなるべと思つて魂消《たまげ》て居た。天狗は默つて、山越え野越え行くが行くが行つて[やぶちゃん注:個人的には三箇所の「行」は総て「い」と読みたい。]、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]海の上さ飛んで行つた。其時天狗は息子の鬢毛から手をそろツと放した。息子は海の眞中に墮ちて、ブクブクと泡沫(アブク)を立てて浪の中に入り、それから海の底へだんだんと沈んで行つた。そして海の底に往着《ゆきつ》いたと思ふと、ドタンと何でも高い所からでも落ちたやうな工合に或所に出拔《でぬ》けた。はツと思つて目を開いて見ると、其所は目が覺めるやうな明るい廣い廣い野原であつた。

 息子は途方に暮れて、暫時(シバラク)其所に其儘突立つて居た。あゝ此所は何處だベヤ、この俺はナゾになるべと思つて泣きたくなつたが、でも何時までもさうしても居られぬから、とぼりとぼりと其の野原を步いて行つた。すると丁度いいアンバイに小流(コナガレコ)があつた。その小川の流れる通り、何所までも何所までも行くと或るひとつの村里へ辿り着いた。其所の家は見たことの無い造り格構《がつこう》であつた。そんな家が多く建並《たちなら》んだ所まで來ると、ある大きな屋構への家があつて、其家には見たことの無い着物を着た大勢の人達が出たり入つたりして居た。そしてその人達は男も女もみんな聲を立てて、おウいおウいと泣いて居た。息子は不思議に思つて、門前に立寄つてそれを見て居た。するとますます出入りの人達は多くなり泣聲も高くなつた。あれヤ何したべと思つて居ると、丁度其所へ其家から一人の婆樣が泣きながら出て來た。婆樣婆樣お前達は何してそう泣いているのシと訊くと、婆樣は初めて息子の姿を見付けて、魂消て、お前さんは何所から來た人だと言つた。息子は俺は日本から來た者だが、何してお前達はさう泣いて居ます。譯を聽かせてがいと言ふと、婆樣はこれには譯がある。其譯は斯々《かうかう》だと委しく話して聽かせた。其譯と謂ふのは、此所は龍宮といふ國であるが、此家はこの國の殿樣殿の館で、其殿樣に一人の美しい娘がある、所が其娘は今夜といふ今夜、此國の鎭守の生神樣《いきがみさま》のために人身御供《ひとみごくう》に取られるので、それで、みんなが斯う泣き悲しんで居ますと言つて聽かせた。

 それを聽いて息子はまだ自分の手に握つて居る大刀(ダンビラ)に氣がついた。一つこれでその生神を退治して見べかと思つた。そこで婆樣に、俺は實はこの上の天《てん》の日本と謂ふ所から、今此所に來たばかりの者だが、話を聽くと其娘が可愛想(ムゾ)くてならない。俺は其娘の身替りとなつて生神の所に食はれに行つてもよいが、そのことを此家の館の人達に言つて吳れぬかと言ふと、その婆樣は其の話を半分も聞かないうちに大聲を上げて門内に、これこれの事だと叫びながら引返(ヒツカヘ)して行つた。すると館から大勢の人達が歡んで、息子を迎へにぞろぞろと出て來た。息子は救ひの神樣だと言つて館に連れ込まれた。

 それから息子はひどく御馳走になつてから、いよいよ其夜娘の身代りになることになつた。先づ白木の棺箱《かんば》[やぶちゃん注:同型譚の「二三番 樵夫の殿樣」の本文での読みに従った。]に入れられて、山の麓の鎭守の社の長殿(ナガドコ)へ、村人に擔《かつ》がれて行つた。そして村人は、生神樣に申上げます、人身御供を持つて、來ましたと言つて、テンギ(拍子木)をタンタンタンと三度叩いてから、恐しがつて皆吾先と逃げ還つた。息子ばかりが暗いシンとした長殿にひとり置き殘された。

 息子は化物の來るのを今か今かと、大刀(ダンビラ)の柄を堅く握締《にぎりし》めて、その刻限を待つて居た。すると夜半過ぎになつて、だんだん丑滿つ時頃になると、颯々《さつさつ》と氣味の惡い腥《なまぐさ》い風が吹いて來た。さう思ふと何だか社殿の方から、びしりびしりと足音をさせて上つて來た物があつた。いよいよ來たな何態(ナゾ)な化物だと思つて、かねて付けて貰つて置いた箱の小穴から、そろツと覗いて見ると、牛(ベコ)のやうな大きな體で總體《さうたい》蓑(ケラ)を着たやうに針毛《はりげ》の生へた[やぶちゃん注:ママ。]、挽鉢(ヒキバチ)、位もある赫顏(アカヅラ)の猿の經立(フツタチ)であつた。それがみしりみしりと箱の側へ步み寄つて來て、娘ア居たがアと言つて、葢に手をかけるとガラリと開けた。そこで息子は、汝(ウガ)何をするツと言つて、跳上《とびあが》つて化物の氣無《きな》しなところをザツキリと眉間に斬りつけた.猿の經立はこんな亂暴なことは今迄無いことだつたので、暫時《しばらく》呆氣《あつけ》にとられて突立《つつた》つて居たが、それが娘でないことが解ると、やにわにひどく怒つて、ぎりぎりと齒ぎしりをし齒をむき出して、兩手を押ツ擴げて、ううと唸つて、息子に喰つてかゝつて來た.けれども、息子は無闇矢鱈に刀を振り廻して斬りまくり、祕傳祕術を盡して防ぎ、切つて切つて遂々(トウトウ[やぶちゃん注:ママ。])化物を退治した。なほも其後刻《そのこうこく》、靑面《あをづら》と黑面《くろづら》の同類の化物が二度までも出たけれども、息子は何(ド)れをも退治した。種牛のやうな化物どもが、枕を並べて三疋其所に斬倒《きりたふ》されて血みどろになつて、呼吸《いき》が絕えた。其内に夜が白々と明けた。[やぶちゃん注:「猿の經立(フツタチ)」「二三番 樵夫の殿樣」の私の注を参照されたい。「氣無《きな》しなところ」油断していたところに。]

 村の人達は夜が明けたので昨夜の息子はナゾになつたことかと思つて、ぞろぞろと社殿へ行つて見た.すると息子は怪物等《ら》の返り血を浴びて眞赤になつて居た。そして板ノ間にはまた三疋[やぶちゃん注:底本は「三足」であるが、「ちくま文庫」版で訂した。]の化物らが見事に斬倒されて死んで居た。村人は驚いて逃げ歸らうとした。息子はそれを呼び止めて、何にも心配は無い。この化物は皆俺が斬殺《きりころ》して死んで居るから、お前達さはかゝらない[やぶちゃん注:お前たちには襲いかかかってくるっことはない。]。これで此國の禍《わざはひ》の根も絕えたから安心しろと言つた。村人はそれを聞いてやつと安心して、お前樣のお蔭で此國の永年の禍もほんとに根が絕えたます。それにしても今迄こんな獸を生神樣だとばかり思つて娘を奪《と》られたがやい、姊を奪られたがやい、妹を奪られたがやい、ナゾにしてもあきたれがないやいと言つて大勢の人が、鉈《なた》や鎌で化物の顏と言はず體と言はずじたじたに斬つた。そして息子の事をお前樣は人間でない、これこそ本當の生神樣だと言つて拜んだ。息子は俺はそんな者ではない。ただの人間だ、だが此獸を此儘にして置く譯には行かぬから、社《やしろ》の後《うしろ》に埋めろと言ひつけて、村人にさうさせた。そしてさあ歸るべと言ふと、村人はお前樣を此儘で步かせては勿體ないと言つて、昨夜の箱を橫にして其上に息子を載せて、まるで神樣のやうにして殿樣の館へ連れ還つた。

 殿樣親娘(オヤコ)の喜びはいくら言つても言つても盡き申さない。何しろこの國の第一の恩人樣だと言はれて直ぐさま殿樣の娘の婿殿となつた。やがて其國の若殿樣になつた。そして榮華な月日を送つて居た。

 息子はそんなに榮耀榮華な日を送るにつけても、思ひ出すのは日本に殘して置いた母親のことであつた。どうかして一目でもよいから、この俺の立身出世を故鄕の母に一目見せたい。一日でもよいから母親と此處で一緖に暮したいと思つた。そのことを話すと、舅殿《しうとどの》の殿樣は御尤も々々々と言つて、そんだらお前の母親を迎へに、日本に行つて來たほがよいと言つた。[やぶちゃん注:「ほが」はママ。「ちくま文庫」版では『ほう』だが、方言の可能性もあるので、暫くそのままにおく。]

 そこで息子はいよいよ龍宮のお姬樣と一緖に赤い駕籠に乘つて、母親を迎へに日本に行くことになつた。駕籠の前後には多數の鎧兜《よろひかぶと》の家來どもがついてお伴《とも》をした。春の日だつたと見えて、龍宮から日本へ來る並木街道の兩側には櫻の花がぞろりと咲いてゐた。どこまでもどこまでも道の兩側には大勢の見物人が出て居た。息子はいゝ氣になつて、お姬樣と話をして居ると、いきなり駕籠の中へ手を入れて、息子の頭をピシヤンピシヤンと撲叩《うちはた》く者があつた。息子は魂消て、誰(ダン)だ、龍宮の若殿樣の頭を叩(ハタ)く者(モン)は誰(ダン)だと眞赤になつて力《りき》むと、此餓鬼が何を寢言《ねごと》をぬかして居れヤ、早く起きて飯でも食(クラ)へヂヤ、お汁も何もみんな冷(ツメタ)くなるでアと怒鳴る聲を、よく聞くと母親の聲であつた。母親は布團をはいで息子の頭を叩いて居た。此話は夢であつた。

[やぶちゃん注:天狗譚・龍宮譚・「猿の経立(ふったち)」退治譚・異類婚姻譚をテンコ盛りにしつつ、エンディングは夢オチという、極めて面白い民譚で、相応の才力のある人物が構成したものと思われるが、最後に採取元が記されていないのが残念である。瑕疵とは言わぬものの、題名は別なものの方が、オチを推定されなくて、よいと思う。私は題名から結末が予想されてしまったからである。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 鹽食はぬ人

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。今回は、ここ

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。

 なお、本篇は前回の南方熊楠の大正三年二月の論考「山人外傳資料」の追補的投稿である短い記事である。]

 

     鹽 食 は ぬ 人 (大正四年五月『鄕土硏究』第三卷第三號)

        (『鄕土硏究』第一卷第十二號七三一頁參照)

 昔、西印度諸島に住んだカリブ人は、鹽は人を殺す物と信じ、又、豚を食へば、眼、細くなると信じた。然《しか》るに、彼輩《かのやから》、鹽食《えんしよく》はないでも、生れ付いて、皆、眼が細かつたと、ド・ロシュフールの「西印度博物世態誌(イストア・ナチユラル・エ・モラル・デ・イル・アンチユ)」(一六六五年、ロテルダム板)一九一頁に見ゆ。右、鷄肋《けいろく》ながら、原書は、一寸、吾邦に見得ぬ本に有ㇾ之《これあり》、序《ついで》あらば、採錄を乞ふ。

[やぶちゃん注:『ド・ロシュフールの「西印度博物世態誌(イストア・ナチユラル・エ・モラル・デ・イル・アンチユ)」(一六六五年、ロテルダム板)』フランスの博物学者シャルル・ド・ロックフォール(Charles de Rochefort 一六〇五年~一六八三年)の ‘Histoire naturelle des iles Antilles de l'Amerique’ (「アメリカのアンティル諸島の自然史と道徳史」)が正しい。「Internet archive」の原本ではここが当該部だが、例によって熊楠はページ・ナンバーを誤っている。ここは、各個魚類の記載の一部である。フル・テクストで、「sel」(フランス語の「塩」)で検索した結果、漸く見出せた。明後日の「465」ページであった。

「鷄肋」ニワトリ(鶏)の肋骨(あばらぼね)のこと。「たいして役に立たないが、捨てるには惜しいもの。」の喩え。「食べるほどの肉もないが、捨てるには惜しい。」という意で、三国時代の魏の丞相曹操の軍が漢中を平定し、さらに蜀の劉備を討とうとしたが、進撃にも守備にも困難であったため、態度を決めかねていた。その時、曹操は、ただ一言、「鶏肋のみ。」と言い、部下らは、その真意を解しかねていたが、一人、楊修だけが、その意を悟って、「鶏肋は食えば、得るところなく、捨てれば、惜しむべきがごとし。」といって引き揚げたと伝える「後漢書」の「楊修伝」による故事成語(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

2023/04/04

大手拓次譯詩集「異國の香」 編者逸見享による「あとがき」・目次・奥附 / 大手拓次譯詩集「異國の香」ブログ版電子化注~了

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化した。「あとがき」の著者で本書の編者である逸見享(へんみたかし 明治二八(一八九五)年~昭和一九(一九四四)年)氏は、和歌山県出身。中央大学卒業後、「ライオン歯磨」意匠部に勤務(後に同宣伝部に大手拓次が入社して親友となった)する傍ら、木版画を始め、大正八(一九一九)年の第一回日本創作版画協会展に入選、日本版画協会でも活躍した。「新東京百景」を分担制作している。「藍色の蟇」を始めとする大手拓次の詩集の装丁・編集も、殆んど、彼が手がけた(講談社「日本人名大辞典」の解説に拠る)。本詩集の編集・装幀も彼の手になる。「藍色の蟇」は私は既にブログ分割版及びサイト一括版電子化注を既に公開している。

 なお、これから一括縦書PDF版の作製に取り掛かるが、暫く時間を戴きたい。他の作業と並行して行っているため、少し、疲れた。悪しからず。]

 

 

     あ と が き

 

 ながいあひだ、私のあたまのなかを往き來してゐた拓次の譯詩集が、いよいよその風貌をあらはす時は來た。まとめてみるとまた一段とその光芒を增して來た。編者としてこれほど嬉しいことはない。欲をいへばいま少し詩の數があつたらばと思はれることであるが、それだけにひきしまつた、好いものが出來たかとおもふ。

 

 これらの詩篇の多くは、彼の第一詩集「藍色の蟇」の初期の詩とおなじく、詩にくるしみ、精進と飛躍とをつづけた若いころの所產である。

 

 かうした努力が如何にその詩作に影を投げてゐたかは、當時の彼の詩がほとんど過去の日本の詩に類例のない、異色のものであつたことを見ても知ることが出來ると思ふ。そしてそれとは反對に譯された詩は、どれもみな大手拓次の響することである。といふよりもまつたく彼自身の詩であることだ。

 「惡の華」から「黃金の車」からまた他のいくつかの詩集から、異國の種を移して、ボードレールをサマンをグルモンをデーメルをタゴールを咲かせたつもりであつたらうが、どの花もまつたく彼といふ異香ある花に變つてゐた。この花こしは實に得がたいものであり、鐸詩としての立派な姿が期せずして示されてゐたのである。

 この書の編纂は、發行を急いだため短期間になされた。それにもかかはらずこの良書を得られたのは、北原白秋氏、萩原朔太郞氏、藪田義雄氏からおのおの詩誌を拜借して彼の發表した最もすぐれた譯詩を移し得たに起因する。ここに三氏の御好意に深く感謝し、同好の諸氏にもともに喜んでいただきたい思ふ。またこの書を滋味豐かなものにと努力された澤田君にも厚く御禮を申しあげたい。

 譯詩集を出さうなどとは故人も夢さらに考へたことがなかつたに違ひない、しかもかうした好著にならうとは。

 生前酬ひられることの少かつた彼の墓前に供へて、その冥福を祈るものである。

  紀元二千六百一年    逸 見   享

 

 

[やぶちゃん注:「黃金の車」ボヘミア(現在のチェコの西部・中部地方を指す歴史的地名)の作家・詩人でジャーナリスト・フォークロア研究家でもあったフカレル・ヤロミール・エルベン(Karel Jaromír Erben 一八一一年~一八七〇年)のは、民間伝説や民話に基づく詩集「詩の花束」(Kytice:初版は一八五三年。全十三篇からなり、ドヴォルザーク晩年の交響詩(本篇を含む)や、ドラマの題材ともなった)に載る叙事詩「金の糸車」(Zlatý kolovrat)を指すものと思われる(当該ウィキに拠った)。

「藪田義雄」は薮田義雄(明治三五(一九〇二)年~昭和五六(一九八四)年)で詩人。小田原市生まれ。当該ウィキによれば、『旧制小田原中学三年の時、その地に住む北原白秋の門人となる。法政大学に学ぶ(卒業したかは不明)。詩のほか、白秋の初の本格的伝記などを書いた』とある。

「澤田君」奥附にある、発行元の龍星閣の社長澤田伊四郎であろう。

 以下、目次であるが、リーダとページ数はカットした。標題は概ね九字分の均等割付であるが、それっぽくした箇所もあるが、見かけだけである。]

 

異 國 の 香

 

シヤルル・ボードレール

   異國のにほひ

   夢幻の彫刻

   交   通

   憑 き 人

   緣

   香   氣

   音   樂

   幽   靈

   美  し い 船

   踊 る 蛇

   無   題

   病める詩神

   高   翔

   信 天 翁

アルベール・サマン

   秋

ジャン・モレアス

   STANCES

ラビンドラナート・タゴール

   螢

レミード・グルモン

   薔 薇 の 連 禱

ヒルダ・コンクリング(十三歲の少年詩人)

   古 い 眞 鍮 の 壺

   野のチユーリツプ

[やぶちゃん注:最初の詩篇の私の注で述べた通り、「少年」ではなく、「少女」である。]

ミンナ・イルピング

   郡 の 市 場

アンリ・パタイユ

   溫 氣 あ る 月

ローラ・ペンネツト

   若い女のやうな春

ジヨン・リチヤード・モーアランド

   唄

アレキサンダー・プーシキン

   Nereid

ギユスタープ・カアン

   う     た

テオ・ヴアン・ピーク

   思     出

[やぶちゃん注:ママ。本篇では「思ひ出」である。]

デーメル

  お前はまだ知つてゐるか

   沈 默 の 町

リリエン・クローン

   麥畑のなかの死

ホフマンスタール

   二     人

カミール・モオクレエル

   あ ら は れ

   溫     雅

ガスタープ・フオルク

   信     心

カール・バツス

   滿  月  の  夜  に

ホルペス・モツス

   友     色

 

 

[やぶちゃん注:以下、奥附。全体が二重の罫線(外側が太い)で囲まれてある。底本では太字下線の「停」は実際には○による囲み字。下線「大手」の楕円の捺印()。下部の記載は、上部に二行空けて下げて配した。ポイント・字配はそれらしくしただけで、一致させてはいない。]

 

「異 國 の 香」 限 定 版 

     表 紙 ハ 程 村 紙
     本 文 ハ 特 漉 鳥ノ子 紙
     本紙ノ刊行部數ハ 六百册

        價 貳圓五拾錢

 

     大手

 

   昭和十六年三月  十  日印刷

   昭和十六年三月二十日發行

 

   著 者 大 手 拓 次

   編纂者 逸 見   享

   發行者 澤  田  伊 四 郞

      東京市芝區新橋際・復興ビル

   印刷所 土  井  印 刷 所

      東京市京橋區築地一ノ六番地

   發行所 龍  星  閣

      東京市芝區新橋際・復興ビル
      振 替 口 座 東 京 五 〇 六 五
      電話銀座一六〇二・四七六一

 

[やぶちゃん注:「大手」の検印は版権者の一人である故人の甥大手由五郞によるものであろう。

「程村紙」は「ほどむらがみ」と読む。サイト「那須烏山デジタル博物館」のこちらに、『市内の文化紙の名称は、市内下境の程村という地名に由来します。鎌倉時代の建保』『年間』(一二一三~一二一九年)『に向田村(現市内向田』(むかだ:ここ。グーグル・マップ・データ)『)で那須奉書が創製されたという伝承があります。程村紙ほどむらがみは「なす紙」の一種で、江戸時代の中頃には越前奉書、美濃なおし、関東の西ノ内等ととおに最良の紙として広く知られ、江戸紙商人などにより、烏山和紙を代表する紙として売買されてきました。八溝地域は、原料の楮(こうぞ)の生育条件に適し、「那須楮」と呼ばれてさかんに生産されました。紙漉はこのてょう』(ママ。意味不明)『の農家の副業として行われ、特に下境地区では厚手の程村紙や西の内など上質紙を漉く技術が長く継承されてきました。楮蒸し、表皮(ひょうひ)取り、煮熟(しゃじゅく)、灰抜(あくぬき)、塵(ちり)取り、叩解(こうかい)、撹拌(かくはん)、紙漉き、圧搾(あっさく)、乾燥などの工程を経て生産されます。程村紙の用途は、薬種袋(やくしゅぶくろ)紙、公用記録用紙、大福帳(だいふくちょう)用紙、着物の包紙、傘紙などでしたが、明治・大正期には一時、西の内紙とともに国政選挙の投票用紙にも指定され、複数の県へ大量に納入されました。しかし、西洋紙の改良・生産拡大に加え、昭和』四十『年代以降、塩化ビニール製品が普及して、和紙生産は激減し、本市内で程村紙の技法を継承しているのは』一『業者のみとなりました。現在は、「山あげ行事」の山の貼り紙、卒業証書、版画用紙、押絵・財布・名刺入れ等の材料に使われています』とあった(リンク先に地図有り)。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 灰色(ホルベス・モッス) / 訳詩篇本文~了

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

 

  灰 色 モツス

 

やはらかい灰色の長上衣を今着やう、

すつかり銀色してゐる柳のやうに。

わたしの戀人、 あの人は灰色を好みます。

牡丹蔓(ぼたんづる)のやうに絹の綿毛をもつて、

それは露のまきちらされた生垣に冠を貸します。

わたしの戀人、あの人は灰色を好みます。

 

夢のなかに包まれて私はぢつと見てゐます、

圍爐裏のなかに火の粉が光つてをりますのを。

わたしの戀、 お前は逗くへ行つてゐる。

やはらかな灰色の灰は落ちて剝れます、

この沈默の場所一面に煙の雲がただよひます。

そしで私はまた、 灰色を好みます。

 

わたしは灰色の光が夢みる所に眞珠を思ひます、

露のベールがきらきらすろところに赤楊(はんのき)を思ひます、

わたしの戀、お前は遠くへいつてゐる。

名高い、 人に知られた灰色の髮の人たちよ。

あなたの色の褪めた捲毛はうすい鳶色をしてゐました、

そして私は、また灰色を好みます。

 

小さい灰色の蛾は室のなかをとびまはります、

光りにそそのかされて

わたしの戀人、 あの人は灰色を好みます、

おお小さな夜の蛾よ、 私遠はお前のやうである、

私達はみんな光りのまはりをとびまはります。

沼地や銀河のなみに燈火(あかり)を見て。

 

[やぶちゃん注:第二連の五行目の「煙」は、その異体字で「グリフウィキ」のこれであるが、表記出来ないので、「煙」とした。。

 ホルベス・モッスは不詳。当初、アルゼンチンの作家で詩人でもあったホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges 一八九九年~一九八六年)かと思ったが、「モツス」という発音に相当するネームは本名にも含まれないので違うだろう。識者の御教授を乞うものである。

「牡丹蔓(ぼたんづる)」双子葉植物綱キンポウゲ目キンポウゲ科センニンソウ属ボタンヅル Clematis apiifolia 。落葉蔓性の半低木である。M.Ohatake氏のサイト「四季の山野草」の「ボタンヅル」が多くの写真があり、解説もよい。そこに『花は繊細だが、家畜も近づかない毒性がある』とあった。

「圍爐裏」「いろり」。]

「曾呂利物語」正規表現版 第五 / 第五目録・一 龍田姬の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。今回はここ。なお、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。

 なお、挿絵があるが、今回分は幸いにして底本(保護期間満了)に挿絵があるので、それをダウン・ロードし、トリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。]

 

曾呂利物語卷第五目錄

 

 一 龍田姬の事

 二 夢爭ひの事

 三 信玄逝去の謂(いは)れの事

 四 信長夢物語の事

 五 因果懺悔(さんげ)の事

 六 萬(よろづ)上々(うへうへ)のある事

 

 

曾 呂 利 物 語 卷第五

 

     一 龍 田 姬 の 事

 何某(なにがし)の娘、成人する儘に、女房達、數多(あまた)、付け侍る。

 爰(こゝ)に何處(いづく)ともなく、いとあてなる女、一人(ひとり)、佇(たゝず)みて、

「宮仕へ、望み侍る。」

由(よし)、云ひければ、

「幸ひ、御内(おんうち)にこそ、御身(おんみ)のやうなる人を、尋ね侍るなれ。いざ、給へ。北の御方に、斯(か)くと申さん。」

とて、云ひければ、則ち、とゞめて置かれけり。

 彼(か)の宮仕への、心に入りたる事は、さて置き、繪描き、花結び、手蹟、美しく、縫ひ物などは、七夕(たなば)の手にも劣るまじく、物の色合ひなど、染めいだせる事は、龍田姬も恥ぢぬべき程なり。

 

Nekotatuta

 

[やぶちゃん注:本挿絵は、特異点で、挿絵の中に三箇所、キャプションがある。右上に「たつたひめの事」、右中央に「きたのかた」(北の方=主人の妻)、左上に「くひを置きかねつける」(首を置き、鉄漿を付ける)とある。]

 

 ある時、北の方(かた)、女の部屋を垣間見(かいまみ)しに、夜(よ)、いたく更けて、燈火(ともしび)、かすかなるに、己(おのれ)れが首、とりて、前なる鏡臺(きやうだい)にかけ置きて、鐵漿(かね)をつけ、化粧して、又、わが軀(むくろ)につぎて、さあらぬ體(てい)にてぞ、ゐたりける。

 怖ろしとも云はん方(かた)なし。

 さて、主(あるじ)の殿(との)に、

「かかる事侍るを、いかゞに計らひ給ふぞ。」

と云ヘば、

「先づ、何となく、暇を出だせ。」

と云ふほどに、女を近づけ、

「近頃、云ひかね侍れども、人多く侍れば、『一人も、二人も、暇(いとま)を出だせ。』と宣(のたま)ふ間(あひだ)、そなたのやうなる重寶(ちやうはう)の人は、ましまさぬほどに、『いつまでも。』と思へど、いづれも、譜代の者にて、暇、いだされぬ者共なれば、まづまづ、何(いづ)かたへも、出でられ候へ。その上、良人(をつと)の命(めい)、背(そむ)き難く侍れば、重ねて、娘(むすめ)嫁入りの折節は、迎へ侍らん。」

と云ふ。

 其の時、女、氣色(けしき)變りて、

「さては。何ぞ、御覽じて、斯く仰せ候ふやらん。」

と、そばへ、近く居寄(ゐを)れば、

「其の方は、何事を云ふぞ、又、やがてこそ、呼び侍らん。」

と、さりげなく宣へども、

「いやいや、淸(きよ)くもなき事なり。」

とて、飛びかかりけるところを、男、かねて心得けるにや、後(うしろ)に立ち添ひけるが、刀(かたな)を拔き、

「はた」

と切る。

 切られて、弱るところを、引直(ひきなほ)し、心の儘に、切れば、年經(としへ)たる猫の、口は、耳まで切れて、角(つの)、生(お)ひたるにてぞ、おはしける、其の名を「龍田姬」と云ひ侍るとぞ。

[やぶちゃん注:本篇の転用は、「諸國百物語卷之二 七 ゑちごの國猫またの事」。類話としては、「宿直草卷四 第二 年經し猫は化くる事」や、『西原未達「新御伽婢子」 遊女猫分食』等が挙げられる。

「花結び」糸や紐を、色々な花の形に結ぶこと。また、結んだもの。衣服・調度の飾りにする。「新橋結び」・「梅結び」・「あやめ結び」・「菊結び」などの種がある。

「七夕」岩波文庫の高田氏の注に『たなばた姫。織女。織り物の女神』とある。

「龍田姬」「延喜式」に見える女神で、大和竜田山の神で,斑鳩町の竜田神社に祀られている。奈良の西に当たることから、五行説の影響を受けて、「秋を司る神」とされ、春を司る「佐保姫」と対とされる。また、「風の神」としても信仰されている。

「重寶」「便利で役に立つことの意の「調法」の宛て字。

「淸(きよ)くもなき事」岩波文庫では、高田氏が注されて、『原本「清く」。意によって改』とあって、本文を「曲もなき事」と手を加えられた上で、『「曲もなき」は、情のない、すげない、の意』とする。穏当な改変である。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 二五番 三人の大力男

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題は「いはやのをんな」。]

 

     二五番 三人の大力男

 

 或所に、十五歲になるまでも嬰兒籠《えじこ》に入つたまゝで口も利《き》けない男の子があつた。親達はこれは大變な子供を生んだものだと心配して暮して居ると、十五年目の或日、この子は突然に大きな聲を出して父親(トト)ツ百貫目[やぶちゃん注:三百七十五キログラム。]の鐵の棒を一本買つてケろツと怒鳴つた。

 父親はびつくらして、あれアこの子が口を利いた。お前は眞實(ホントウ)に口がきけるようになつたのかヤと言ふと、ウンこの通りに口は立派に利ける。俺に目方(メガタ)百貫目の鐵の棒を買つてケろツと言つた。父親は呆れて、まだお前は脚腰も立たない癖に、百貫目の鐵の棒もないもんだと言うと、俺は脚腰が立たないから、其鐵の棒を突張つて立つて見たいんだと言ふので、父親も其氣になつた。なにしろ十五年間も口の利けなかつた子供が、急に口が利けて其上にこんな小理屈まで言ふのだから、これはたゞの子供ではあるまいと思つて、そんだら買つて遣ると云つて、町の鍛冶殿の所へ行つて、百貫目の鐵の棒を注文して來た。やがて暫く經つと鍛冶殿から注文の鐵の棒が出來上つたと言ふ知らせがあつたから、父親は村人を百人程賴んで鍛冶殿へ行つて、その大きな鐵の棒を、えんさら、やんさらのほうい、ほういと木遣《きや》りを懸けながら擔いで來た。さうして嬰兒子に持たせた。

 嬰兒子は大層嬉しがつて、その鐵の棒を杖について、ウウンと唸りながら兩脚を踏ン張り締めて立上り、やアと丈伸(セイノ)びをするとムクムクと丈が伸びて、六尺肥滿の大男となつた。兩親は言ふまでもないこと、親類や其所に集まつて居た村人等は驚き、まづ喜んで、皆酒看を持つて來たり餅を搗いたりして立ツタリ祝ひを擧げ、今迄名前もなかつた嬰兒子に力(チカラ)太郞と云ふ名をつけて、大變盛んな御祝ひをした。

 力(チカラ)太郞はまた、其れでは皆樣に俺の力量(チカラ)をお目にかけると言つて、その祝の場で百貫目の鐵の棒を水車の樣にクルクルクルと片手で振り廻して見せたので、一同は眼(マナグ)を拔(ヌ)けらかして魂消(タマゲ)、これはたゞの人ではあるまい。神童(カミワラシ)であるに相違ないと評判し合つた。

 力(チカラ)太郞は田舍で生れたけれども、人優(ヒトマサ)りの珍しい力持ちであるから、一ツ廣い世界に出て力試しをし、人助けをしたいものだと思つて、兩親に三年の暇乞(イトマゴ)ひをした。兩親もそれでは世の中へ出て修業をして來いと言つて、五斗飯を炊いて、大きな握飯を握つて大袋に入れて持たせた。力太郞はその握飯を食ひ食ひ、百貫目の鐵の棒をドチン、ドチンと杖について地響きさせながら我が里を後(アト)にして何處《いづこ》ともなく旅に出た。

 松並木の大道を、行くが行くが行つたところが、向ふから三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。]四方ぐらいの大石をごろごろ轉(コロ)がして來た者があつた。扨《さ》て天下の大道をあんな大石を轉ばして步くなんて太え野郞だと思つて行くうちに、その大石が力太郞の直ぐ前へ轉げて來た。そこでこれ惡戲をするなツと大聲をかけて、鐵の棒でガチンと止め、同時に片足を上げて大石を蹴飛ばすと、其大石は五六間[やぶちゃん注:九・〇九~十・九メートル。]向ふの田の中に落ちた。すると石を轉がして來た大男が甚《ひど》く憤慨して力太郞に喰つてかかつた。力太郞は野郞相手になる氣か、そんだらば名乘れツと云ふと、其男は俺こそは日本一の大力持ち石子太郞と云ふ者だツ、さう云ふお前は何者で、俺の石を蹴飛ばしたかと云つた。聞きたからば聞かせべえ俺こそは日本一の力太郞と云ふ者だ。勝負しろツと云ふと、石子太郞も承知之助だと呼んで、二人は取ツ組み合つたが、石子太郞は力太郞のために百間[やぶちゃん注:約百八十二メートル。]ばかりブン投げられて泥田の中にハマリ込んだ。力太郞が、あはははツと大きに笑ふと、石子太郞は泥まみれになつて田から這ひ上つて來て、力太郞の前に兩手をつき、降參したから家來にしてケろと言つた。力太郞は石子太郞を其場で家來にして引き連れて、又その道をば南へ南へと二人連れで步いて行つた。

 二人は旅を續けて南へ南へと行くが行くが行つたところが、ある日向ふから四間[やぶちゃん注:七・二七メートル。]四面の赤い御堂を頭に乘せてウンウン唸つて來る者があつた。又以つて日本一を名乘る畜生めが來たかと、力太郞主從は笑ひ話しをしながら行くと、御堂につかえて、人の通ることも出來ないありさまだから、力太郞が鐵の棒で御堂をドンと突きのめすと、御堂はグワラグワラと大きな音して大男の頭から壞れ落ちた。すると其男はとても憤慨して、何奴であつて俺の頭の上の御堂を斯《こ》のやうに打ち壞したか、此の日本一の力持ち御堂太郞の名前をばまだ聞いたことが無いかツ、其分《そのぶん》にはして置かぬぞツと怒鳴つて喰つてかかつて來た。力太郞は少しも騷がずセセラ笑つて、お前が日本一の力持ちなら、此所には其上の三國一の力持ち樣が二人御座る。これが俺の子分の石子太郞と云ふ日本一の力持ちだから勝負して見ろと云ふと、心得たと云つて御堂太郞と石子太郞とが、取ツ組み合つたが仲々勝負がつかない。そこで石子は止めろ、今度は俺が相手になつて遣ると云つて、御堂太郞の首筋を引ツ摑みブンと一振り振つて百間ばかり向ふへ投げつけた。すると御堂太郞は泥田の中にハマツて見えなくなつた。そこで力太郞主從が大笑ひをして居ると、御堂太郞は泥まみれになつて田から這ひ上つて來て、二人の前に兩手をつき、今迄どんな力持ちに出會つても、勝負に負けたことがなかつたが今度ばかりは降參した。どうか俺を家來にしてケろと言ふので、力太郞はそんだら俺の子分となつて一緖に行かうと云つて、主從三人がそれからまた南へ南へと旅を續けて行つた。

 旅を續けて行くと、或夜千軒の町へ入つて行つた。不思議なことにはその町ではヒンともシンとも人間や畜生の姿や音がなかつた。三人はこれには何か譯がある事だらうと語り合つて、町中隈(クマ)無く廻り步いて見ると、ある橫丁に一人の美しい娘が軒下に躇《うづくま》つて居てしくしくと泣いて居た。どうして泣いて居るか問ふて見ると、娘はこの町に二三ケ月前から化物が出て來て人間を取つて喰ひます。それで夜になるとこの通り灯を消して皆家の中さ入つて、息の音を潜めて居ます。それなのに今夜は私が喰はれる番に當つて、斯《か》うして私は此所で泣いて居ますと言つた。三人はそれを聽いて、よしよし俺達が其化物を退治して遣ツから泣くのは止めて、これから直ぐに俺達をお前の家さ案内しろ、決して心配することは無いと言うと、娘は喜んで三人を自分の家へ連れて行つた。[やぶちゃん注:「隈(クマ)無く」のルビは、底本では「無」に振られているが、誤植と断じ、訂した。]

 夜半頃になると、三人が待ち構へて居るとも知らず、化物は娘を奪(トリ)に、大きな聲を出してオウオウ唸りながら娘の家の戶を開けて入つてきた。それツと云ふので第一番に子分の御堂太郞が出て化物と格鬪したが、危《あやう》いので次いで石子太郞が出てかゝつた。これも危いので、親分の力太郞が出て奮鬪の結果遂に化物を退治した。[やぶちゃん注:「奪(トリ)に」は、底本では「奪(トリ)りに」となっている。衍字と断じ、送られある「り」の方を除去した。但し、「ちくま文庫」版では、『奪(と)り』となっている。]

 娘は申すまでもなく家族や町の人達は、此町の生命の恩人だと謂つて、三人に取り縋《すが》つて他所《よそ》へ旅立つことを泣いて止《と》めた。仕方なく力太郞は救つた娘と夫婦になり、石子太郞、御堂太郞にも夫々《それぞれ》の女房を持たせて、分家として三人諸共《もろとも》に永く其町に住むことにした。そして力太郞は其の町の殿樣になつた。

  (江剌郡米里《よねさと》村の話、佐々木伊藏と云ふ五十四歲の人の談話の筆記の一、昭和五年六月二十七日。)

[やぶちゃん注:最終段落の「持たせて」は底本では、「持にせて」とあるが、誤植と断じ、「ちくま文庫」版で訂した。

「江剌郡米里村」現在の奥州市江刺米里(えさしよねさと:グーグル・マップ・データ)。遠野市からは南西に当たる。

「昭和五年」一九三〇年。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 二四番 窟の女

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題は「いはやのをんな」。標題の通し番号が「三四番」となっているが、誤植と断じ、訂した。]

 

     二四番 窟 の 女

 

 或所に貧乏な男があつた、多勢の子供等もあるものだから、食ふやうも飮むやうも出來ぬやうな身代(シンダイ)であつた。或年の暮に、何か、歲取仕度(トシトリシタク)でもするべえと思つて、家を出かけたが、ふところには錢(ゼニ)一文もなかつた。これこれ此の歲の瀨に何處かのアワテ者があつて、金でも落して居る者はないかなアと思つて、鵜の目鷹の目で道を見て行つたが、何も落ちて居ない。呆れ果てゝ押太息(オツタメキ)吐きながら行くと、道の辻に斯《か》う云ふ立札が立つてゐた。

   金欲しい者は

   この道を眞直(マツス)ぐに來う

   錢は望み通り…

  其男は眼明(マナクア)きだつたから、それを讀んで魂消《たまげ》て、何たら事もあればあるものだ。これこれと思つてその道を眞直ぐに、大急ぎで行くと、大きな岩窟(イワヤ)があつて、その入口に、此所《ここ》だ、と書いてあつた。

 男が其穴に入つて行くと、中は暗くて何も見えぬから、たゞ足探りにソロリソロリと步いて行つた。ずつと岩窟の奧の方にポツカリと明るい灯(ヒ)の光りコが見える。それを目當に行つたら其所に赤い障子コが立つていた。男はそこに立つて、申し申しと言ふと、内から柳の葉のやうな手で障子を明けてハイと言つて出て來たのは、目が覺(サ)めるやうな美しい女であつた。そこで男は、俺は辻の立札の表によつて尋ねて來た者だが、金をケるジ所は此所だべかと訊くと、ハイ此所だから内へ上れと言つて、其女は男の手を執つて内へ引き入れた。そしてうまい酒肴をうんと取り出して、男に御馳走をした。男は其女の愛嬌にほだされて、其處で三日ばかりただ遊んで居た。

 三日目の夜明けに、面白くて今迄すつかり忘れて居た家の妻子のことを、ふと思ひ出して、ハテハテ俺は斯うしてこんな所に面白可笑しく暮して居るが、歲取仕度に出はつたまゝ歸らない俺のことを家の嬶《かかあ》や子供(ガキ)どもは、どんなに心配して待つて居るべやい。これは俺ばかり斯《こ》んな事をし遊んで居てはならぬと思つて、女に、俺はちよつと家さ歸つて見て來るからと云ふと、女はひどく悲しんで、一度此所を出たら二度と來られないから、いつまでも私と一緖に斯うして樂しく暮らして居てクナさいと言つた。それでも何でも家ヘ歸りたくなつて、とにかくちよつと歸つて來るから、ほんのちよつと樣子を見て來るからと言ふと、女はさも恨めしそうに、そんなら仕方がないから、立札の表の通りに、金を遣ります。其所からお前の欲しいだけ、いくらでも持つて行きなされと言つた。さう云はれて岩窟の隅(スマ)コを見るとほんに山吹の花色した黃金が山のやうに積まれてある。男はその金を笊《ざる》で計つて持てるだけ風呂敷に包んで持つて、女に別れて其岩窟を出た。そして心覺えのある道をたどつて、吾が家のある村へ歸つて來た。

 村へ歸つて見ると、すつかり樣子が變り果て、何處が吾家のある所であつたか、見當もつかないほどであつた。呆れはてゝ此所《ここ》らが吾家のあつた邊だと思ふ所を探すと、其所に一軒の貧乏な家があつた。その家に立ち寄つて、斯う云ふ者の家は何所《どこ》だか知らないますかと訊くと、其所の婆樣は、つくづくと男の顏を見ながら、さう謂はれゝば俺ア曾祖母樣(ヒヽバサマ)から、此所にそんな名前の人があつて、或年の暮に何所さか行つてしまつて、行末不明になつたと謂ふ話を聞いたやうな氣持ちがします。それではお前は其人であつたかと云つて、大變怪訝な顏をした。

 男もさつぱり、何が何だか樣子が分らぬので、ほだらば其人の家の墓場は何所だますと訊くと、其婆樣はおれが敎(オセ)るから、此方《こつち》さおでアレ(來)と言はれて、村端《むらはづ》れの山端へ行つて見ると、いかにも雜草がぼうぼうと生へた[やぶちゃん注:ママ。]古墓があつた。これがさうだと云はれて、男はなんたらこと、それでは吾が妻子が此所の土の下に眠つて居るのかと、泣きながら、背丈(セダ)も伸びた草を一本々々むしつて行くと、なかなか根著《ねづ》いて拔け難い。それでも一生懸命にむしつて行くと、中に何だか棒杭のやうな物が立つてゐる。それを拔いたら妻子の者の髮毛のハジか、骨の折缺《をれかけ》でも出て來て見られるかと思うて、うんうんと唸りながら、一生懸命に取著(トツツ)いて引き拔くべえとすると、其棒杭のウラ端(先き)から、ジヨワシヨワと水が迸(ホトバシ)り出る。アレはツケ(冷)と思ふと目が醒(サ)めた。これは怠者《なまけもの》の長い夢であつた。

  (昭和三年四月五日の夜、村の小沼秀君の話の三)

[やぶちゃん注:「眼明(マナクア)き」これは思うに、文盲ではなく文字が読めることを言っていよう。

「昭和四年」一九二八年。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 山人外傳資料

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。今回は、ここから。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。]

 

     山人外傳資料 (大正三年二月『鄕土硏究』第一卷第十二號)

 

 植物性食物中に、久米氏は、大必要の物を逸し居る。其は菌《きのこ》類で、菌には大毒物も有ると同時に、食ふて益有る者も多い。一八五七年板「バークレイ」の「隱花植物學入門(イントロダクシヨン・ツウ・クリプトガミク・ボタニー)』三六八頁に、獨逸と露國の村民、大抵の菌類を、何の差別も無く、酢に漬《ひた》した後、食ふて中毒せぬ。「アルカリ」性の毒分が、醋酸《さくさん》で中和されて、無害となるんだ、といふ。又、米國の菌類採集大家「カーチス」は、肉類の代りに菌を專食して、何年間とか籠城し得ると見込を述《のべ》た由、クツクの「菌篇」に載せ有たと記憶す。他の植物と懸絕して、菌類は、多く、窒素分を含む事、肉に同じ。「倭姬命世紀《やまとひめのみことせいき》」伊勢神宮忌詞《いみことば》に、宍《しし》を菌《くさびら》と稱ふ、とあるは、化學分析など知らぬ世乍ら、旨《うま》く言《いつ》た物だ。古來、肉を忌んだ山僧が、種々の菌を食《くつ》たことは、「今昔物語」等に出で、支那の道士仙人が、種々、「芝《し》」と名けて、菌や菌に似た物を珍重服餌《ふくじ》した由は「抱朴子」等で知《しれ》る。紀州の柯樹林《しひじゅりん》に多く生ずる牛肉蕈は、學名フィスチェリナ・ヘパチカで、形色・芳味、丸で、上等の牛肉だから、予は屢《しばし》ば、之を食ふ。

[やぶちゃん注:「植物性食物中に、久米氏は、大必要の物を逸し居る」「選集」では、ここの最後に編者が割注して、『『郷土研究』一巻六号、久米長目「山人外伝資料」』と記す。久米長目(くめながめ)は柳田國男のペン・ネームの一つ。国立国会図書館デジタルコレクションの『定本 柳田国男集』第四巻(昭和三八(一九六三)年筑摩書房刊)のここから読める。これは、以前から何時か電子化したいと思っていた。近いうちにやろう。なお、以前から、一言、言いたかったのだが、一般人から見て、南方熊楠の最もいやらしい習癖は、他人の論考を批判的に独自に補足・反駁するに際して、原論考と同じ標題にすることが頗る多いことである。これは、元論考者に対して甚だ失礼であることは、言を俟たない。熊楠のそれは、ある種、確信犯であるから、手に負えないのだが(読者は後出しの反駁を好む。結果して、どんなに優れていても、原論考より、そちらの方が興味を引き、よく読まれる。実際、今、原論考が読まれず(物理的に一般人が気軽に読めないのは、この『郷土研究』誌では当たり前状態である)、その結果として、多くの自身の論考を侵犯されたと感じた原著者が、南方熊楠を敬遠したり、柳田國男のように絶交同前となったりしたのである(但し、これには柳田にも半ばは責任がある。熊楠は、柳田が、民譚採取の際や『郷土研究』への諸士の投稿原稿に対し、インキ臭い編集・改変を行う官学流の姿勢を指弾し、彼の民俗学上の恣意的で漂白されたアカデミックな研究方法を、書簡で鋭く批判し続けていた。それが柳田の内の熊楠に対する強い不快感となったことは疑いがないからである。この辺りについては、一九九二年河出文庫刊の中沢新一責任編集・解題『南方熊楠コレクション』Ⅴ「森の詩想」の本篇(尤も、その標題は『牛肉蕈 山人外伝資料』と改変されてある)の注の「2」(三一七~三一八ページ)が、柳田の変名(ペン・ネーム)問題も含めて、柳田國男を精神分析して小気味よい。未読の方は、是非、読まれたい)。熊楠はそうした相手の気持ちを汲み取ることが上手く出来にくい(恐らくはそういったことを対人関係に於いて大切なことと認識する必要を認めない頑固な意志もあるとは思う)、或いは、理解することに配慮が生じに難いという点で、ある種の高機能障害(異様なまでの記憶力もその属性の一つに挙げられる)に近い素質を彼は持っていたのではないか? と私は考えている。

『一八五七年板「バークレイ」の「隱花植物學入門(イントロダクシヨン・ツウ・クリプトガミク・ボタニー)』三六八頁」イギリスの聖職者にして植物学者で、植物病理学の創設者の一人とされるマイルス・ジョセフ・バークレイ(Miles Joseph Berkeley 一八〇三年~一八八九年)が一八五七年に刊行した‘Introduction to Cryptogamic Botany’(当該ウィキに拠った)。「Internet archive」のこちらで原本当該部が視認出来る。

『米國の菌類採集大家「カーチス」』アメリカの聖職者にして植物学者(広義の菌類(きんるい)の専門家)でモーゼス・アシュレー・カーティス(Moses Ashley Curtis 一八〇八年~一八七二年)。参考にした当該ウィキを見られたい。私は英文のそれも確認した。

『クツクの「菌篇」』不詳。

「倭姬命世紀」鎌倉中期の神道書。全一冊。禰宜五月麻呂が神護景雲二(七六八)年に撰したと伝えるが、偽書。度会行忠が文永七年から弘安八年(一二七〇年~一二八五年)頃に撰したものかとされる。天地開闢に始まり、皇居と神宮の分離、二十四ヶ所にもなる皇大神宮の遷幸の事などは述べられている。神道五部書の一つで、「大神宮神祇本記」の下巻に当たる(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「宍を菌と稱ふ」『獣類の肉を指す「宍」(しし)を忌み言葉として、漢字表記を「菌」と書き変え、更に読みも、「くさびら」(「茸(きのこ)」の古名)と言い換えて読んだ。』ということ。

『肉を忌んだ山僧が、種々の菌を食《くつ》たことは、「今昔物語」等に出で』「「今昔物語集」では、僧と茸を素材にした話は、巻第二十八に集中して、以下の四篇が載る(リンク先は「やたがらすナビ」の当該電子化物。但し、新字)。

「左大臣御讀經所僧醉茸死語第十七」(左大臣の御讀經所(みどきやうじよ)の僧、茸(たけ)に醉(ゑ)ひて死する語(こと)第十七)

「金峰山別當食毒茸不醉語第十八」(金峰山(きんぷせん)の別當、毒茸(どくたけ)を食ひて醉はざる語第十八)

「比叡山橫川僧醉茸誦經語第十九」(比叡山(ひえのやま)の橫川(よかは)僧、茸に醉誦ひて經を誦(じゆ)する語第十九)

「尼共入山食茸舞語第二十八」(尼共(あまども)、山に入りて茸を食ひて舞ふ語第廿八)

この内、最後のケースは、菌界 Fungi担子菌門ハラタケ綱ハラタケ目オキナタケ科ヒカゲタケ属ワライタケ Panaeolus papilionaceus か、名は酷似するが、近縁ではない、ハラタケ目フウセンタケ科チャツムタケ属オオワライタケ Gymnopilus junoniusによる中毒かと思われる(菌類分類学者川村清一氏は後者と比定している)。なお、先に掲げた河出文庫刊の中沢新一氏の注では、以上を一切挙げずに、巻第十二の、

「信誓阿闍梨依經力活父母語 第卅七」(信誓阿闍梨(しんぜいあじやり)經の力により父母(ぶも)を活(よみがへ)らしむ語 第三十七)

を挙げておられるが、これ、はっきり言って、場違いな例示と言わざるを得ない。そこでは、中間部で、道心堅固であるが、思い込みが強過ぎる信誓が(太字は私が附した)、『『世に久しく有らば、罪業を造りて、生死(しやうじ)に輪𢌞せむ事、疑ひ有らじ。然(さ)れば、只如(ただし)かじ、疾(と)く死にて、惡業(あくごふ)を造らじ。』と思ひて、「必ず死ぬべき毒を尋ねて、食はむ。」と爲(す)るに、初めは附子(ぶし)[やぶちゃん注:全草猛毒のキンポウゲ目キンポウゲ科 トリカブト属 Aconitum のトリカブト類の根から製した毒薬。]を食ふに、死なず。次には、「『和多利(わたり)』云ふ茸(たけ)、必ず、死ぬる物也。」と聞きて、山より取り持て來りて、蜜(ひそか)に食ひつ。其れにも、尙、死なねば、『此れ、希有の事也。我れ、毒藥を食ふと云へども、「法花經」の力(ちかr)に依りて死なぬ也。』と思ふ』ということで、全体は結構長い話乍ら、この太字部分(凡そ四十字ほど)でしか、茸(きのこ)は出てこない超チョイ役に過ぎず、熊楠の謂いとも全く合致しない。信誓は毒茸として自殺用にわざわざ探し出して服用しているのであって、食用として茸を食っているわけではないからである。因みに、この場違い話の中に出る「和多利(わたり)」の有力候補としては、ハラタケ目ホウライタケ科ツキヨタケ属ツキヨタケ Omphalotus japonicus を挙げておく。根拠は、所持する小学館『日本古典文学全集』「今昔物語集(1)」の本篇の三三九ページの頭注「一三」に、『毒キノコの一種で、形状はヒラタケに似たものらしい』とあったからである。このツキヨタケは、古くから食用とされてきた無毒のシイタケ・ムキタケ(ハラタケ目ガマノホタケ科ムキタケ属ムキタケ Sarcomyxa serotina・ヒラタケ(ハラタケ目ヒラタケ科ヒラタケ属ヒラタケ Pleurotus ostreatus)等とよく似ているため、誤認されやすく、誤食した場合、下痢や嘔吐といった中毒症状は勿論、死亡例も報告されている高い要注意レベルの猛毒キノコとして知られているからである(詳しくは、つい先日公開した『早川孝太郞「三州橫山話」 草に絡んだこと』のこちらの、「毒茸のクマビラ」の私の注(「クマビラ」はツキヨタケの異名)を見られたい。

『「芝」と名けて、菌や菌に似た物を珍重服餌した由は「抱朴子」等で知る』同書の「内篇」の「卷十一仙藥」に、『「五芝」(ごし)なる者は、「石芝(せきし)」有り、「木芝」有り、「草芝」有り、「肉芝」有り、菌芝(きんし)有りて、各(おのおの)、百許りの種なり。』(訓読は所持する岩波文庫石島快隆訳注を参考にした)とあって、以下、五芝の内の各種の解説が続く。「中國哲學書電子化計劃」の影印本のこちらの最後から、総て、視認出来る。試みに「肉芝」の箇所(六行目)の冒頭を見ると、

   *

肉芝とは、萬歲(ばんさい)の蟾蜍(ひきがへる)を謂ふ。頭上に、角、有り、頜(あご)の下に、「八」字を再重(さいぢゆう)せる[やぶちゃん注:石島氏の注にようれば、「八」の字を「八八」とダブらせて書くこと言うらしい。文字の咒字法であろう。]を丹書(たんしよ)せる有り。五月五日の中時(ちゆうじ)を以つて、之れを取り、陰乾(かげぼし)すること、百日、其の左足を以つて、地に畫(ゑが)けば、卽ち、流水を爲(な)し、其の左手を身に帶ぶれば、五兵(ごへい)を辟(さ)け、若(も)し、敵人(てきじん)の己(おのれ)を射る者あれば、弓弩(きゆうど)の矢は、皆、反(かへ)つて、自(みづか)らに還り向ふなり。

   *

とあって、以下、「千歲の蝙蝠(かうもり)」・「千歲の靈龜」(ここには「山中を行くに、小人の車馬に乘れる、長(たけ)、七、八寸の者を見(み)ば、「肉芝」なり。捉へて取り、之れを服(ぶく)さば、卽ち、仙となれり。」というキノコっぽい対象の叙述がある)・「風生獸」(貂に似た獣とある)・「千歲の鷰(つばめ)」を挙げた最後に「凡そ、此れ又、百二十種あり、此れ皆、『肉芝』なり。」とぶち上げてある。

「柯」ブナ目ブナ科シイ属 Castanopsis の樹木、或いは、近縁のブナ科マテバシイ属マテバシイ Lithocarpus edulis かも知れぬ。

「牛肉蕈は、學名フィスチェリナ・ヘパチカ」これはハラタケ目カンゾウタケ科カンゾウタケ属カンゾウタケ Fistulina hepatica 。「肝臓茸」。当該ウィキによれば、『全世界に広く分布し、欧米では広く食用にされている。アメリカなどでは"Beefsteak Fungus"・「貧者のビーフステーキ」、フランスでは「牛の舌」(Langue de boeuf)と呼ばれている』。『梅雨期と秋に、スダジイ、マテバシイなど(欧米ではオークや栗の木、オーストラリアではユーカリ)の根元に生え、褐色腐朽を引き起こす。傘は舌状から扇型で、表面は微細な粒状で色は赤く、肝臓のように見える。裏はスポンジ状の管孔が密生し、この内面に胞子を形成する。他のヒダナシタケ類と異なり、この管孔はチューブ状に一本ずつ分離している』。『カンゾウタケ科』Fistulinaceae『に属するキノコは、世界中で数種類しかない小規模なグループを形成している。現在、カンゾウタケ属は本種を含む』八『種が命名されている』。『肉は、霜降り肉のような独特の色合いを呈している』上、『赤い液汁を含み、英名の』『通りである。生では』、『わずかに酸味があるが、管孔を取った上で、生のまま、または』、『ゆでて刺身や味噌汁にしたり、炒めて食べたりする』とあった。私は食したことはなく、見たこともない。YouTubeのUK Wildcrafts氏の「Beefsteak fungus(Fistulina hepatica」の動画を見られたい。これは、確かに、そんな感じだ!

 山人の動物食も、鳥獸魚介に限らず、今日の市邑《しいう》に住む人々の思ひも付《つか》かぬ物をも多く食たに相違無い。支那のは知《しら》ぬが、本邦の山男が食ふ蟹は、紀州で「姬蟹」と云ふ物だらう。全身、漆赭褐色《しつしやかつしよく》、光澤有り、步行、緩漫で、至つて捕へ易い。山中の狸抔、專ら、之を食ふ。甲斐で「石蟹」と呼《よん》で、今も蒲鉾にし、客に食はす處ある由、聞《きい》た。赤蛙は、今も紀州抔で疳藥《かんのくすり》とて小兒に食はす。國樔人《くずびと》が蝦蟇《がま》を食《くふ》たと「日本紀」に見え、又、諏訪明神に供へた由、『鄕土硏究』一卷三號一六三頁に引《ひい》た。蝸牛《かたつむり》や天牛《かみきりむし》、其他多くの蟲の仔蟲《ラールヴア[やぶちゃん注:「選集」に従った。]》も疳藥抔、稱へ、小兒に食《くは》すのは、ずつと前に蟲類を常食とした遺風だらう。現に、予の宅の下女は、木を割《わつ》て天牛の仔蟲を見出だす每に、必ず、食ひ、「旨い。」と言ふ。「カリフォルニア」の某民族は、以前、蚯蚓を常食とし(一昨年頃の『ネーチュール』で讀んだ)、「ハムボルト」は「ヴェネジュラ」國で、「チャイマ」族の小兒が、自ら、十八吋《インチ》[やぶちゃん注:四十六センチメートル弱。]、長き蜈蚣《むかで》を、土から引出《ひきだ》して食ふを見たと云ふ(ボーン文庫本、「囘歸線内墨洲紀行(トラベルズ・ツー・エクノチカル・レヂオン・オブ・アネリカ)」卷三、頁一五七)、白蟻《はあり[やぶちゃん注:「選集」のルビに従った。]》や蜂の子は美味なる故、本邦にも食ふ人、今も有り。「荀子」に、耀ㇾ蟬者、務在其火、振其樹而已。火不ㇾ明、雖ㇾ振其ㇾ樹、無益也。〔耀蟬(えうせん)は、務めて、其の火を明るくし、其の樹を振(ふるひうご)かすにのみ、在り。火、明らかならざれば、振かすと雖も、益、無し。〕。今年、旱魃で、蟬の羽化を催《はや》め、予の此の室抔に、燈火を望んで、蟬、飛入《とびい》る事、夥《おびただ》し。「耀蟬」とは、『火光で、蟬を招集すること。』と分つたが、何の爲に、夜分、蟬を採《とつ》たか、分らなんだ處、十五年斗り前、「ケムブリヂ」大學から、暹羅《シャム》と支那の國境へ學術調査に往《いつ》て還つた人に聞《きい》たは、「彼地では。樹下に燎《かがりび》を焚き、人々、集まりて、手を扣《たた》くと、蟬が、多く來るを、捕へ、食料とする。」と。是で、荀子が住んだ南支那でも、當時、蟬を食料の爲め、採たと分つた。だから、日本の山人は、無論、蟬抔をも食《くつ》たゞらう。

[やぶちゃん注:『紀州で「姬蟹」』「全身、漆赭褐色、光澤有り、步行、緩漫で、至つて捕へ易い。山中の狸抔專ら之を食ふ」『甲斐で「石蟹」』「甲斐」ときては、もう、軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目カニ下目サワガニ上科サワガニ科サワガニ属サワガニ Geothelphusa dehaani しかあり得ない。ただ、以下の『甲斐で「石蟹」と呼《よん》で、今も蒲鉾にし、客に食はす處ある』とあるのは、不審。蟹をどうやったら、蒲鉾に出来るのか? サワガニの個体を、多数、擂鉢で徹底的に摺り潰して、何か繋ぎになるものを入れて作ったものか? 甲州の方、ご存知ならば、御教授あられたい。

「赤蛙」日本固有種の無尾目 Neobatrachia 亜目アカガエル科アカガエル属アカガエル亜属ヤマアカガエル Rana ornativentris である。但し、古くは、日本固有種の平地に棲息する近縁種で嘗ては普通に見た(近年はヤマアカガエルよりも有意に減少した)ニホンアカガエル Rana japonica も同様に食用にしたから、並置する必要がある。それぞれは、ウィキの「ヤマアカガエル」、及び、ウィキの「ニホンアカガエル」を見られたいが、カエル類の総論である私の「大和本草卷十四 陸蟲 蝦蟆(がま/かへる) (カエル類)」がとりあえずあるものの、博物誌的には「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蝦蟇(かへる)」及び「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蛙(あまがえる)」の方が参考になろう。なお、アカガエルの食味については、私の高校時代の尊敬していた生物の先生は「アカガエルは鶏肉のようにヒジョーに美味い!」としばしば仰っていた。私はニホンアカガエルを食ったことは今までない。ヒジョーに残念である。

『國樔人《くずびと》が蝦蟇《がま》を食《くふ》たと「日本紀」に見え』「國樔人」とは吉野山や常陸の茨城郡(いばらきのこおり)にいた先住民の名。ウィキの「国栖」によれば、『国栖(くず、くにす)とは大和国吉野郡、常陸国茨城郡に居住したといわれる住民である。国巣、国樔とも書く』。「古事記」の『神武天皇の段には、国神イワオシワクノコを「吉野国巣之祖」とする。また』、「日本書紀」の『応神天皇』十九『年の条によれば、応神天皇が吉野宮へ行幸したときに国樔人が来朝し、醴酒(こざけ)を献じて歌を歌ったと伝える。同条では』、『人となり』、『淳朴で』、『山の菓』(このみ)『やカエル』()『を食べたという。交通不便のため』、『古俗を残し、大和朝廷から珍しがられた。その後』、『国栖は栗・年魚(あゆ)などの産物を御贄(みにえ)に貢進し』、『風俗歌を奉仕したようで』、「延喜式」では『宮廷の諸節会や大嘗祭において吉野国栖が御贄を献じ歌笛を奏することが例とされている』。「常陸国風土記」には、『同国の国巣は「つちくも」「やつかはぎ」とも称したとあ』り、『―、名は寸津毘古(きつひこ)、寸津毘賣(きつひめ)』と記されてある、とある。記紀の神武天皇の伝説中に、「石押分」(磐排別:いわおしわけ)の子を「吉野国巣の祖」と注しているのが、文献上の初見とされる。なお、ここで、国立国会図書館デジタルコレクションの岩波文庫の黒板勝美編「日本書紀 訓読 中巻」(昭和六(一九三一)年刊)の当該部をリンクさせておくが、彼らが食べたのは、黒板氏は「かへる」と訓読している。『蝦蟆』は確かに「ひきがへる」「がまがへる」とも読めるが、私は上代において、現在の種としてのヒキガエルやガマガエルをこの二字で特定していたとは、全く思われないのである。「蝦蟇《がま》」の読みは、私の判断ではなく、「選集」に振られたものを使用したに過ぎないことを特に注意書きしておく。私は、彼らが食ったのは通常の蛙であると考えている。

「諏訪明神に供へた由、『鄕土硏究』一卷三號一六三頁に引《ひい》た」「選集」に編者割注で、『「郷土研究第一巻第二号を読む」』を指す旨の記載がある。同論考は既に電子化注済み。その冒頭に、「諏訪大明神繪詞」の『其卷下に、『正月一日、祝《はふり》以下の神官・氏人、數百人、荒玉社若宮寶前を拜し、偖《さて》、御手洗河《みたらしがは》に歸りて、漁獵の義を表《あらは》す。七尺の淸瀧の冰《こほり》閉《とぢ》て、一機《ひとはた》の白布、地に布《し》けり。雅樂數輩、斧鉞《ふゑつ》をもて切り碎けば、蝦蟇《がま》、五つ六つ、出現す。每年、不闕《かかざる》の奇特なり。壇上の蛙石《かへるいし》と申す事も故あることにや。神使六人、赤衣きて、小弓・小矢を以て是を射取《いとり》て、各《おのおの》串にさして捧げ持《もち》て、生贄《いけんいへ》の初とす』あるのを指す。

「蝸牛」所謂、広義の「かたつむり」。軟体動物門貝殻亜門腹足綱Gastropoda の有肺類 Pulmonata の内、殻が無い物及び錐型や円筒状に細長くない種群を言う場合が多い。

「天牛」昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目ハムシ(葉虫)上科カミキリムシ科 Cerambycidae の広義のカミキリムシ類。ウィキの「カミキリムシ」によれば、『大型種の幼虫は世界各地で食用にされ、蛋白源の一つにもなっている。日本でも、燃焼中の薪の中にひそむカミキリムシの幼虫は』、『焼き上がると』、『破裂音を立てるので、その音がすると』、『火箸などで薪から取り出されて食されていた。「テッポウムシ」の名は、破裂音を銃声にたとえたとも、食害により銃弾が撃ち込まれたかのような穴を開けるからとも言われる』とあった。私は、生理的にダメで、さわることも出来ない。私は昆虫は総じて苦手である。海産生物はウミケムシでも大丈夫なのだが。おかしなもんだ。

「仔蟲《ラールヴア[やぶちゃん注:「選集」に従った。]》」‘larva’(ラールヴァ)は英語で「昆虫等の幼虫」或いはもっと広く「変態する動物の幼生」(カエルのオタマジャクシ・水棲無脊椎動物の幼生プランクトンなど、孵化したばかりの、成体と全く形が異なる子どもを指す)、また「魚類の幼生体」をも指す。

「ハムボルト」『(ボーン文庫本、「囘歸線内墨洲紀行(トラベルズ・ツー・エクノチカル・レヂオン・オブ・アネリカ)」卷三、頁一五七)』プロイセンの博物学者・探検家・地理学者として知られるフリードリヒ・ハインリヒ・アレクサンダー・フォン・フンボルト(Friedrich Heinrich Alexander, Freiherr von Humboldt 一七六九年~一八五九年)の英訳のPersonal narrative of travels to the equinoctial regions of the New continent during the years 1799-1804(「一七九九年から一八〇四年の新大陸赤道地域への旅行の私的な物語」)か?

『「チャイマ」族』英語で“Chaima”。ベネズエラに住むカリブ族の一部族。

「白蟻《はあり[やぶちゃん注:「選集」のルビに従った。]》」羽蟻。昆虫綱膜翅(ハチ)目ハチ亜目有剣下目アリ上科アリ科 Formicidaeの昆虫で、羽を持った個体の名称。普通アリの♀(女王)と♂には羽があり、生殖時期に、一斉に巣から飛び立ち、所謂、結婚飛行を行う。アリ科フタフシアリ亜科シリアゲアリ属キイロシリアゲアリ Crematogaster osakensis や、アル科ヤマアリ亜科ケアリ属ケアリ亜属ハヤシトビイロケアリ Lasius japonicus など、日没前後に飛び立つ種類では、羽アリの大群が灯火に飛んでくることがある。また、昆虫綱網翅上目ゴキブリ目シロアリ下目 Isopteraのシロアリ類の生殖虫も「羽アリ」と呼ばれ、五月頃に巣から飛び立つ(以上は小学館「日本大百科全書」を主文にしつつ、アリの学術的サイト等を参考に附記を加えた)。

「蜂の子」私はいろいろな電子化注で注をしているので、ここのところ、これに注を附していないが、そうさ、私の「想山著聞奇集 卷の五 にち蜂の酒、幷へぼ蜂の飯の事 附、蜂起の事」の本文及び私の注を参照されるのがよかろう。挿絵もある。

「荀子」「中國哲學書電子化計劃」の影印本で校合した(二行目五字目以降)が、複数の脱字があったため、推定で返り点も増やした。特に「若」以下は、引用より後にあるの似た文を、熊楠は、誤って拾ったものと断じ、完全に整序した。これは、「致士篇第十四」の「四」の一節で、所持する岩波文庫の金谷治訳注(昭和三六(一九五一)年刊)によれば、『君主は明徳にして賢者を招くべし』という喩えとして出る。金谷氏は注で、『楊注にいう、南方の人は蟬を照』(てら)『し、取ってこれを食べたと』とある。

「暹羅《シャム》」タイ王国の旧名。]

 以上の諸例、山男よりはずつと滿足な諸民すら、隨分、變な物を食ふを見て、昔し、本邦に密林多く、市邑人が入込《はいり》む事、稀だつた時代に、半人半獸の山男・山婆の食料は、十分、豐饒だつたと知るべし。序でに述ぶ。「酉陽雜俎續集」十に、李衞公、一夕、甘子園會ㇾ客、盤中有猴慄。〔李衞公、一夕(いつせき)、甘子園に客を會(くわい)す。盤中に、猴栗(こうりつ)、有り。味、無し。〕『鄕土硏究』一卷六號三五二頁に出た天狗の栗と似て居る。

[やぶちゃん注:「『鄕土硏究』一卷六號」は「選集」を参考に正字化して挿入した。

「酉陽雜俎續集」の引用は「中國哲學書電子化計劃」の電子化物で校合した。但し、これには以下の続きがある。

   *

陳堅處士云、「虔州南有漸栗、形如素核。」。(陳堅處士、云はく、「虔州(けんしう)の南に、『漸栗(ぜんんりつ)』有り、形、素核(そかく)のごとし。」と。)

   *

この「李衞公」は晩唐の政治家李徳裕(七八七年~八五〇年)。当代屈指の名門趙郡李氏の出身。憲宗朝の宰相であった李吉甫の子。晩年に武宗の治世に宰相となったが、後に宣宗が即すると、政敵の企みによって左遷させられ、そのまま没した。因みに、彼はかの白楽天とともに唐代の造園大家として知られる人物でもある。「猴栗」は本邦ではブナ目ブナ科クリ属クリ Castanea crenata の自生種を指すが、中国のそれは違う。種不詳。「漸栗」「素核」も不詳。所持する東洋文庫にも一切注がないので、お手上げ。

「『鄕土硏究』一卷六號三五二頁に出た天狗の栗と似て居る」前出の久米長目(柳田國男)の『郷土研究』一巻六号に載った「山人外伝資料」の一節。久米長目(くめながめ)は柳田國男のペン・ネームの一つ。国立国会図書館デジタルコレクションの『定本 柳田国男集』第四巻(昭和三八(一九六三)年筑摩書房刊)のこの左ページの最終行からが、当該部である。送信サービスを受けられない方のために、前段の一部と、当該引用全部と、後段の一部を電子化しておく。一部に推定で歴史的仮名遣で《 》で読みを附した。

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[やぶちゃん注:前略。]野生植物の食用に適する物は年中殆と[やぶちゃん注:ママ。柳田の書き癖。]間斷がない。實が盡きると根が肥える。春より夏にかけては色々の嫩芽《わかば》が出る。次から次へ食べて行かれる。殊に樹果には人をして山を愛せしむるに足るものがある。今昔物語の猿などは、山に入つて栗柿梨子栢(かや)榛(はしばみ)郁子(むべ)山女(あけび)などを採來《とりきた》つて僧に供養したとある。梨子なども山中の休場《やすみば》に大木があつて旅人の食ふに任せてある者が今でもある。殊に栗などはあまり多くして貪《むさぼ》つて取つて來ることも出來ぬのは、一寸平野の人には想像のならぬ所である上に、時としては早く山人に占領せられ居る樹があつた。

[やぶちゃん注:「栢(かや)」榧。裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera 。種子が食用となることは、既に「野生食用果實」の注で述べた。

「榛(はしばみ)」ブナ目カバノキ科ハシバミ属ハシバミ変種ハシバミCorylus heterophylla  var. thunbergii 。ハシバミの実が食用になることも、同前参照。

「郁子(むべ)」「野木瓜」とも書く。アケビ科ムベ属ムベ Stauntonia hexaphylla 。同前参照。

「山女(あけび)」「木通」に同じ。キンポウゲ目アケビ科アケビ属アケビ Akebia quinata 。同前参照。

 以下の段落(全引用)は、底本では全体が一字下げである。前後を一行空けておいた。]

 

 伊那郡(信濃)と筑摩郡との境に、南小野より諏訪へ越ゆる少しの峠あり。三分(みわけ)村の峠なれば之を三分峠と云ふ。峠の下に天狗の林と云ふあり。小さき林なれど一本も餘の木は無く、すべて皆栗の木なり、此栗枝垂れて柳か絲櫻の如く、實のある時には其枝地を掃くばかりなれど、是《これ》天狗の粟なりとて之を打落《うちおと》す者なく、唯《ただ》地に落ちたるを拾ふなり。實は至つて小さく何にもならねば取る人も無しと謂へり。(千曲之眞砂《ちくまのまさご》附錄)

 

 山越《やまごえ》の者が此木を採らぬやうになつたのは、多分何度も石を打附《うちつ》けられるとか劫《おびや》かされるとかした經驗に由るので、何にもならぬと云ふのは危險を犯すだけの價値が無いと云ふ迄であらう。而して栗を食ふ天狗とは則ち山男のことに相違ない。[やぶちゃん注:後略。]

   *

引用書「千曲之眞砂」は江戸中期の郷土史家で俳人の瀬下敬忠(せじものぶただ)が宝暦三(一七五三)年に完稿した信濃国の地誌。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本の『信濃史料叢書』上巻のこちらで、「(附錄)國中怪異奇談」の末の「二三、南野村天狗森枝垂栗の事」として、視認出来る。この「南小野より諏訪へ越ゆる」「三分峠」というのは、現認出来ないが、この謂いから推理すると、「ひなたGIS」のこの附近にある峠のように私には判断された。]

 五、六年前の『大阪每日』紙に、大臺原山《おほだいがはらやま》の狼は、時々、海に赴き、游《およ》ぐ、と有た。田邊近い、朝來《あつそ》村大字岩崎の古傳說に、狼や野猪《ゐのしし》は、年に一度大晦日の夜、遙々《はるばる》、海濱に出て來て、潮《しほ》に浴す、と云ふ。嘗て『ネーチュール』で、米國の廣原の獅牛《バイソン》は、時々、鹽泉《えんせん》を訪ねて數百哩《マイル》を走る、と有るを見た。西伯利《シベリア》で、平素、人嫌ひする馴鹿《となかい》も、人の小便を舐《なめ》たさに、人近く、馳せ來《きた》る、全く尿中の鹽を望む也、と云ふ(アドルフ・エルマン「世界周遊記《ライセ・ウム・ヂエ・エルデ》』一八三三年ベルリン板、卷一、六九七頁)。印度の「トダ」人は、古來、鹽を食はず。然《しか》るに、畜養する水牛に、年に、五度、鹽水を飮《のま》せ、乳多く生ずと信じ、之を飮《のま》すに、日を撰び、式を行《おこな》ふ(リヴァースの「ゼ・トダス」一九〇六年板、一七五及七二二頁)。斯く鹽を必要とする哺乳動物、多きと同時に、猴《さる》・蝙蝠《かうもり》抔、鹽を好む事を、予、未だ聞《きか》ず。食鹽、必ずしも、人に不可缺に非《あらざ》るにや。「和漢三才圖會」卷百五に、按有ㇾ僧永斷五穀及鹽、而無病長壽也〔按ずるに、僧、有り、永(ひたぶ)るに、五穀及び鹽を斷つて、而(しか)も無病長壽なり〕云々。安南のトラオ人は、鹽、無く、竹の灰もて、代用して、飯に、味、付く(西貢《サイゴン》刊行、『佛領交趾《かうし》支那旅行遊覽誌』一八八一年正月號、三〇頁)。曾て、印度で、生まれて直ちに、狼に養《やしなは》れ、成育した男兒を捕へしに、全身、短毛、密生したるが、鹽食ふに隨ひ、脫《ぬ》け了《おは》りぬ(一八八○年板、ボール「印度之藪生活《ジヤングル・ライフ・イン・インジア》』四六四頁)。

[やぶちゃん注:「大臺原山」現在の三重県多気郡大台町(おおだいちょう)大杉(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「狼」この記事は大正三(一九一二)年二月発表だが、その「五、六年前」は……最後の確実なニホンオオカミのそれは……明治三八(一九〇五)年一月二十三日に現在の東吉野村鷲家口(わしかぐち)で捕獲された♂である。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。如何にも皮肉な報道という気がする。

「田邊」底本「由邊」。誤植。「選集」で訂した。

「安來村」現在の和歌山県西牟婁郡上富田町(かみとんだちょう)朝来(あつそ:グーグル・マップ・データ)。田辺の南西方直近。

「狼や野猪」底本「猪や野猪」。誤植と断じ、「選集」で訂した。「野猪」の読みは「選集」を参考にした。

「『ネーチュール』」南方熊楠御用達のイギリスのロンドンを拠点に設立された国際的な週刊科学ジャーナル‘Nature’。

「獅牛《バイソン》」哺乳綱獣亜綱鯨偶蹄(ウシ)目反芻亜目ウシ科ウシ亜科バイソン属アメリカバイソン Bison bison

「數百哩」百マイルは約百六十一キロメートルであるから、六掛けで、九百六十六キロメートル前後。

「馴鹿《となかい》」反芻亜目シカ科オジロジカ亜科トナカイ属トナカイ Rangifer tarandus 。和名トナカイは、アイヌ語での同種への呼称である「トゥナカイ」又は「トゥナッカイ」に由来する。トナカイは樺太の北部域に棲息(現在)しているものの、アイヌの民が本種を見知ることは少なかったかと思われ、このアイヌ語も、より北方の極東民族の言語からの外来語と考えられてはいる。

『アドルフ・エルマン「世界周遊記《ライセ・ウム・ヂエ・エルデ》』一八三三年ベルリン板」ドイツの物理学者・地球科学者ゲオルク・アドルフ・エルマン(Georg Adolf Erman 一八〇六年~一八七七年)‘Reise um die Erde,’ Band I, S, 710Berlin,1833)」ドイツの物理学者・地球科学者ゲオルク・アドルフ・エルマン(Georg Adolf Erman 一八〇六年~一八七七年:当該ウィキによれば、一八二八年から一八三〇年に『かけて、彼は自ら費用を負担して探検旅行を敢行したが、その主たる目的は、可能な限り詳細な地磁気のメッシュ分布を捉えることにあった。探険の前半には、ノルウェーの天文学者クリストフェル・ハンステーンが同行し、イルクーツクまで到達した。そこから先は、単独でシベリア、北アジアを横断し、オビ川の河口部からカムチャツカ半島に至った。そこから、当時のロシア領アメリカ(後のアラスカ州)へ渡った。彼はさらに、カリフォルニア、タヒチ島、ホーン岬を経て、リオデジャネイロヘ至』り、『そこから、サンクトペテルブルクを経由して、ベルリンに帰還した』。『この遠征旅行を踏まえて、彼は全』七『巻から成る』Reise um die Welt durch Nordasien und die beiden Oceane(「北アジアと二つの大洋を越えた世界旅行」)を『著し、歴史篇』五『巻が』一八三三年から一八四二年に『かけて、物理学篇』二『巻と地図帳が』一八三五年から一八四一年に『かけて、ベルリンで出版された。これによって』、一九四四年にはイギリスの』「王立地理学会」から金メダル(パトロンズ・メダル)を授与された』とある。

『印度の「トダ」人』インドのタミル・ナードゥ州にあるニールギリ丘陵(グーグル・マップ・データ)に居住する少数民族トダ族。

「水牛」ウシ亜科アジアスイギュウ属スイギュウ(アジアスイギュウ)Bubalus bubalis

『リヴァースの「ゼ・トダス」一九〇六年板、一七五及七二二頁』イギリスの人類学者・民族学者・神経内科及び精神科医であったウィリアム・ホールス(ハルセ)・リヴァース(William Halse Rivers 一八六四年~一九二二年)が書いたトダ族の民族誌The Todas。彼は一九〇一年から二〇〇二年にかけて六ヶ月ほど、トダ族と交流し、彼らの儀式的社会的生活に関する驚くべき事実を調べ上げ、本書はインド民族誌の中でも傑出したものと評価され、専門家からも人類学的な「フィールド・ワークの守護聖人」と称讃された(英文の彼のウィキに拠った)。Internet archiveで原本が読め、ここが「175」ページで、ここが「722」ページだが、前者は“GIVING  SALT  TO  BUFFALOES”という章で判るが、後者はちょっと塩のことは書いてない。ページ数の誤りが疑われる。

「人に不可缺に非《あらざ》るにや」近年、ヒトに対する塩(塩化ナトリウム)の毒性が警告されている。つまり、サイト「塩ナビ」の医師谷田部淳一氏の監修になる「食塩の致死量」には、『体重60kgのヒトの場合、30300gの塩を一度に摂取すると死に至るおそれがあるということです。脳や様々な臓器に影響を与える中毒量はもっと少なく、体重1㎏あたり0.51gのため、体重60㎏の人では、30g60gの摂取で深刻な問題をきたします』とあった。

『「和漢三才圖會」卷百五に、按有ㇾ僧永斷五穀及鹽、而無病長壽也〔按ずるに、僧、有り、永(ひたぶ)るに、五穀及び鹽を斷つて、而(しか)も無病長壽なり〕』これは同巻(最終巻)の「造釀類」の「鹽(しほ)」の項の、附録項「斷鹽(しほたち)」の一節。所持する原本で校合確認した。但し、末尾に『唯過食人不存』(唯(ただし)、過食の人は存(なから)へず)としっかりあるのを、まさにちゃんと添えるべきであったと思いますよ、南方先生。先生自体が塩の絶対不可欠性を疑問視されておられるのであればこそ、です。

「安南のトラオ人」「安南」は現在のベトナム北部から中部を指す歴史的地域名称だが、「トラオ」族というのは、ネット上には見当たらないので不詳。但し、ちょっと気になったのは、ベトナム北部に「トアンザオ」という地域(郡。中国とラオスと国境を接する山岳地帯に位置する)には、少数民族が住んでいることであった。発音が似ているように感じた。

「西貢《サイゴン》刊行、『佛領交趾《かうし》支那旅行遊覽誌』一八八一年正月號」不詳。

三〇頁)。曾て、印度で、生まれて直ちに、狼に養《やしなは》れ、成育した男兒を捕へしに、全身、短毛、密生したるが、鹽食ふに隨ひ、脫《ぬ》け了《おは》りぬ

『一八八○年板、ボール「印度之藪生活《ジヤングル・ライフ・イン・インジア》』四六四頁)」アイルランドの 地質学者ヴァレンチン・ボール(Valentine Ball 一八四三年~一八九五年)が一八八〇年にロンドンで刊行した ‘Jungle life in India’。「Internet archive」のこちらで原本の当該部が視認でき、確かに、保護後、塩を食べるようになると、全身に生えていた毛が抜けたと記されてある。因みに、次の「465」ページの末尾には、『オオカミに育てられた少女の記録はないと思われる。』とあった。かの、僕らの幼少の頃の「アマラとカマラ」の奇談として知られるそれは、本書が出てから、四十年後の一九二〇年にインドで発見されたとされる狼に狼に育てられたとされた二人の孤児の少女の事件である。私は、幼少期から、彼女たちの話は作られたものだと思っていた。ウィキの「アマラとカマラ」にも、『多くの科学者や研究者が』、『この事例の真実性には数多くの矛盾点があると指摘しており』、この『話は信憑性がないとされている』とあり、『後の研究で』、『孤児院のための金銭確保を目的に』報告者らが『口裏を合わせていたことが判明している』とし、『フランスの外科医、セルジュ・アロール(Serge Aroles)によると、「アマラとカマラ」は野性児の考察においての最もスキャンダラスな詐欺事件であるとしている』とし、『アマラはレット症候群』(Rett syndrome:略称「RTT」。殆どが女児に発症する進行性神経疾患で、知能や言語・運動能力が遅れ、手足が小さく、常に手を揉むような動作や、手を叩いたり、手を口に入れたりするなどの動作を繰り返すことを特徴とする)『に冒された精神障害者だった』とあった。それにしても、私は、その頃、雑誌や本で見た二人の少女の写真が可哀そうでならなかったし、今も、そうである。グーグル画像検索「Amala and Kamalaをリンクさせておく。

 「大英百科全書」十一板、二四卷、九〇頁に云《いか》く、『最初、食鹽、全く手に入らなんだ人間は、世界諸部に、屹度、多かつたらう。例へば、「オデッセイ」の詩篇に、内地(エピルスの?)人、全く食鹽を知《しら》ぬ者を載せた。亞米利加や亞細亞の或部に、歐人が初《はじめ》て輸入した時まで、鹽、無かつた民がある。今も中央亞非利加《アフリカ》には、富人のみ、鹽を用うる所、若干有り。凡て、專ら、乳を飮み、肉を生《なま》若《もし》くは炙り食へば、鹽分を失はぬから、別に食鹽を加ふるを、要せず。昔しの「ヌミヂア」の遊牧民や、今日、「ハドラムト」の「ベドウィン」人が、每《いつ》も、鹽、無しに、食事して、生居《いきを》るは、此譯故《このわけゆゑ》なり。之に反し、穀食、菜食、又、煮た肉を食ふには、鹽が必須と來る。』と有《あつ》て、夫《それ》より、含鹽植物(吾國の藻鹽草《もしほぐさ》如き)の灰抔より、食鹽を採《とつ》た事を述べ、古え[やぶちゃん注:ママ。]、鹽を「神賜《かみのたまもの》」と貴び、之を爭ふて戰鬪した事に及び、宗敎上、鹽に種々の靈驗を附した事から、商賣路の、最も早く開けたのは、鹽を運ぶ路だつたらう、と論じ居る。現代に於ては、「エクワドル」國の東部では、基督敎に化せる土人のみ、鹽を用ひ、他は之を知《しら》ず(英譯、ラッツェル「人類史」一八九七年板、卷二、頁七五)。

[やぶちゃん注:「大英百科全書」南方熊楠御用達の‘Encyclopædia Britannica’。「Internet archive」のこちらで、原本の当該箇所が視認出来る。“SALTA”(塩)の項の、‘Ancient History and Religious Symbolism’(塩の「古代史と宗教的象徴性」)の条である。

「(エピルスの?)」上記の原文で“(in Epirus?)”となっている。イピロスとも。紀前三世紀に王国として栄えたイオニア海の古代の地域。ウィキの「イピロス」には、『ギリシャ共和国の広域自治体であるペリフェリア(地方)のひとつ。歴史的な地名としては、現在のギリシャとアルバニアにまたがるイオニア海沿岸の地域を指す』とある。地域は、そちらにある複数の地図を見られたい。

『「ハドラムト」の「ベドウィン」人』前掲の原書に“the Bedouins of Hadramut”とある。“Hadramut”(ハドラマウト)は南アラビアの一地域で、現在はイエメン共和国領となっている。歴史的には西側のシャブワ県、東側のアル=マフラ県や、現在はオマーン領のズファール特別行政区(ズファール地方)も含む地域を指していた、と当該ウィキにあった。『「ベドウィン」人』は、元来は「砂漠の住人」を指す一般名詞で、通常はアラブの遊牧民族を指して言う。詳しくは当該ウィキを参照されたい。

「藻鹽草」藻塩(もしお)を採るために使う複数の海草及び海藻。掻き集めて潮水(しおみず)をさらに注ぎかけて乾燥させたり、燃やしたりして採取する。代表的な種は、「モシオグサ」の異名を持つ、「海草」である単子葉植物綱オモダカ亜綱オモダカ目アマモ科アマモ属アマモ Zostera marina があるが、現行、「藻塩」と名乗っているもののそれは、「海藻」である褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ホンダワラ Sargassum fulvellum が一般的であろう。

『英譯、ラッツェル「人類史」一八九七年板、卷二、頁七五』ドイツの地理学者・生物学者リードリヒ・ラッツェル(Friedrich Ratzel 一八四四年~一九〇四年:社会的ダーウィニズムの影響の強い思想を特徴とし、政治地理学の祖とされる)の英訳本。「Internet archive」の英訳原本のこちらが当該部。]

 上に引《ひい》たハムボルトの「紀行」卷二、頁三六五に、種々の植物から不純の食鹽を採る法を載せ、「オリノコ」流域の土人が、「チヴヰ」とて、鹽酸加里《カリ》、鹽酸曹達《ソーダ》、水酸化石灰、其他、諸土類、鹽の混じたる物を、水に溶《とか》し、葉で濾し、食物に溶し、掛《かけ》て食ふ、と有る。思ふに、吾國の山人も、斯《かか》る混淆物の天產有る地には、之を用ひたるべく、又、鹽麩子(ふしのきのみ[やぶちゃん注:三字へのルビ。])が被《かぶ》れる鹽味の霜粉《しもこ》抔を用ひただらうが、專ら、動物を生食した輩《やから》には、全く鹽を用いなんだのも有ただらう。橘南谿の「西遊記」三[やぶちゃん注:「五」の誤り。]に、薩州の山童《やまわろ》、寺へ、食物、盜みに來《きた》れど、鹽氣有る物を、甚だ嫌ふ、と出づ。〔(補)(大正十五年九月記)(ボムパスの「サンタル・ペルガナス俚譚」三〇九頁に、冥途より、人の子の命を、とりにきた使ひが、其母に、鹽の付《つい》た飯を食《くは》されて、僞りを言ひ得ず、事實を吐く譚あり。往古、野生の人、鹽を好まぬものありしを、後世、冥界の住民と信ずるに及んだのだ。)明治四三年二月の『東京人類學會雜誌』に、出口雄三君が、臺灣で、食鹽攻めにされて、太《いた》く困り、生薑《しようが》を代用した民と、食鹽を、一向、用いぬ民とを、對照して、食鹽を、一旦、使用する習慣が附《つけ》ば、中止する事、極《きはめ》て困難なれど、初《はじめ》より用ひざれば、人類の生存に、必ずしも差し支へ無い、と斷ぜられたるは、名論と惟《おも》はる。

[やぶちゃん注:『「オリノコ」流域』オリノコ川(スペイン語: Río Orinoco)は南アメリカ大陸で第三の大河で、総延長約二千六十キロメートル、流域面積は凡そ九十二万平方キロ。「オリノコ」とは、当地の先住民カリブ族の言葉で「川」を意味する。ベネズエラ南部のブラジル国境に近いパリマ山地に源を発し、トリニダード島の南側で、大きな三角州を形成して大西洋に注ぐ。河川の約五分の四はベネズエラ領で、残りはコロンビア領に属する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「鹽酸加里」塩化カリウム(potassium chlorideKCl 。食物や食卓塩含まれるため日常的に摂取されている。古代から日本で作られている既注の藻塩は、アフリカの内陸部などで植物を燃やして得られる灰塩などに多く含まれる。ナトリウムによる高血圧などの影響を軽減するため、塩化ナトリウムと混合し、減塩の食用塩に用いられることもあるが、特有の苦味があるので、添加は限られた量になる。アメリカでは薬物による死刑執行時に使用する薬物としても知られる(以上は当該ウィキに拠った)。

「鹽酸曹達」塩素酸ナトリウム(sodium chlorateNaClO3)は工業的に生成される物質であるので、ここは通常の(sodium chlorideNaCl)を指していよう。

「水酸化石灰」酸化カルシウム(calcium hydroxideCaOH2 )。消石灰。天然には岩石として存在し、貝類の貝殻を焼成・粉砕しても得られる。

「鹽麩子(ふしのきのみ)」ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis 、漢字表記「白膠木」。葉ヌルデシロアブラムシ(半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科アブラムシ科ゴバイシアブラ属ヌルデシロアブラムシ Schlechtendalia chinensi)が寄生すると、大きな虫癭(ちゅうえい)を作る。虫癭には黒紫色のアブラムシが多数詰まっており、この虫癭はタンニンが豊富に含まれていうことから、古来、皮鞣(かわなめ)しに用いられたり、黒色染料の原料になる。染め物では空五倍子色(うつぶしいろ:灰色がかった淡い茶色。サイト「伝統色のいろは」こちらで色を確認出来る)と呼ばれる伝統的な色を作り出す。インキや白髪染の原料になるほか、嘗つては既婚女性及び十八歳以上の未婚女性の習慣であった「お歯黒」(鉄漿)にも用いられた。また、生薬として「五倍子(ごばいし)」あるいは「付子(ふし)」と呼ばれ、腫れ物や歯痛などに用いられた(主に参照したウィキの「ヌルデ」によれば、『但し、猛毒のあるトリカブトの根「附子」も「付子」』『と書かれることがあるので、混同しないよう注意を要する』とある)。さらに、『ヌルデの果実は塩麩子(えんぶし)といい、下痢や咳の薬として用いられた』とある。

『橘南谿の「西遊記」三[やぶちゃん注:「五」の誤り。]に、薩州の山童《やまわろ》……』『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(17) 「河童ニ異名多シ」(3)』の私の注で当該部総てを電子化してあるので、参照されたい。「山童(やまわろ)」については、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の中の「やまわろ 山𤢖」で詳注してあるので、見られたい。

『ボムパスの「サンタル・ペルガナス俚譚」三〇九頁』「サンタル・パーガナス口碑集」は、イギリス領インドの植民地統治に従事した高等文官セシル・ヘンリー・ボンパス(Cecil Henry Bompas 一八六八年~一九五六年)と、ノルウェーの宣教師としてインドに司祭として渡った、言語学者にして民俗学者でもあったポール・オラフ・ボディング(Paul Olaf Bodding 一八六五 年~一九三八 年)との共著になるFolklore of the Santal Parganas(「サンタール・パルガナス」はインド東部のジャールカンド州を構成する五つの地区行政単位の一つの郡名)。「Internet archive」のこちらが原本当該部

「明治四三年」一九一〇年。

「出口雄三」詳細事績不詳だが、サイト「産総研(AIST)」のこちらに、著作記事一覧があり、それを見るに、鉱山関係の学者のようである。]

 一八六四年板「フン・ハーン」の「グリエヒッシェ・ウント・アルバニッシュ・マーヘン」等に、食鹽もて、鬼魅を驅除する例が多い。是は、鐵もて、鬼魅を却《しりぞ》くると等しく、食鹽を嫌ふて食《くは》なんだ山人輩を、「鬼魅」と見做したからの事で有《あら》う。又、一九〇九年正月七日の『ネーチュール』二五九頁に、南加利福尼(カリフヲルニヤ)の「チュンギチニッシュ」宗《しゆう》で、若い男女の入門式の踊りが濟むと、宗規を、僧より、敎授さる。其二、三週間、鹽と肉を斷つ、と有る。上に述《のべ》た通り、肉を生食《せいしよく》・炙食《しやしよく》すれば、鹽を食《くは》ずとも、立往《たちゆけ》る理《ことわり》を、何と無く、會得して兩《ふたつ》乍ら、斷つなるべし。

[やぶちゃん注:『一八六四年板「フヲン・ハーン」の「グリエヒッシェ・ウント・アルバニッシュ・マーヘン」』不詳。

『「チュンギチニッシュ」宗』不詳。アーミッシュやクエーカー教徒を想起したが、この名を見出せなかった。「Internet archive」の“Nature”の当該年月の記事はここからだが、ざっと見たが、見当たらなかった。

 さて。最後にどうしても、ちょっと言っておきたいことがある。

 私は河出文庫の『南方熊楠コレクション』全五巻を所持しているが、その「Ⅴ 森の思想」(中沢新一責任編集・解題。初版一九九二年三月発行)には、本篇が所収されてある。中沢氏は「雪片曲線論」(特に「ゴジラの来迎」)で、その論を興味深く読んだから、書店でぱっと見で、注や解説がふんだんにあることからも、「選集」を補って呉れる有難いものと、大いに期待して即時全巻を購入して読んだのだが、この巻については、注のあまりの異様さに呆れ果てて、開いた口が塞がらなかったのであった。

 実は注は中沢氏ではなく、西川照子氏なる民俗学に詳しいらしい女性によるものであったのだが、これ――何一つ――読者が知りたく思うはずの語彙について――それを満足させるところの普通に想定出来るところの注が――一切、ない――のである! 例えばだ! この本を買って読んだ人の内、よほどのキノコ研究家でもない限り、普通の読者の百%は、「牛肉蕈」が如何なるキノコかを、注に期待するに決まっている。ところが、「牛肉蕈」の注は――ない――のである。この西川氏が、仮にキノコ・フリークであって、カンゾウタケ Fistulina hepatica をよく知っているとしても、語注責任者として、本種について注をしないというのは、絶対に、あり得ないことである。しかも、異様に長々とした幾つもの注はあるのだが、南方熊楠の言っている文脈に沿って読みを手助けするように解説している注は、これ、――一つも――ない――のだ! その孰れもが、これ、西川氏の知っているその民俗学用語の、西川氏流の個人的とも言ってよい、熊楠の言わんとするところからは、読めば、読むほどに、どんどん脱線してゆくような彼女の当該民俗語彙の解釈の「私的語り」なのである(まあ、私も、教師時代、授業の大脱線は宿痾ではあったけれども、それを生徒はよく面白がって呉れた)。西川氏個人の著作でそれをするなら、これ、全く問題はないが(但し、その本に私は惹かれることもなく決して買わないだろう)、「南方熊楠コレクション」と大看板を揚げた本書には凡そ相応しくない注と言わざるを得ない。ともかくも、私もいろいろなおかしな不全な注を、教科書を始めとして、嫌ほど見てきたが、こんな読者を度外視した自己満足的なトンデモ注釈は初めてであった。少なくとも、未購入の方には、本巻に関しては、とてものことに――お薦め出来ない――ことを言い添えておくものである。

2023/04/02

大手拓次譯詩集「異國の香」 滿月の夜に(カール・バッス)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  滿 月 の 夜 に バツス

 

滿月の夜るはいつも、 樹の茂つた深い谿のなかに

さかり時の角鹿(つのじか)が咆(ほ)える、

臆病な鼠のやうにおだやかな足つきで

銀色をした金雀枝(えにしだ)の叢を通りぬけながら。

 

わたしは憧憬(あこがれ)の息づまるやうな狂暴に

怪しく捉へられ、 抑へつけられた、

そして、 私は私の胸に

あらあらしい燃燒を制してゐる淚を感じる。

 

[やぶちゃん注:この「カール・バツス」(巻末目次に拠る)は恐らく、ドイツの詩人・作家のカール・ヘルマン・ブッセ(Karl Hermann Busse 一八七二年~一九一八年)のことと思われる。サイト「研究余録 ~全集目次総覧~」のこちらに、白凰社版「大手拓次全集」の目次が載るが、そこに

『満月の夜に(カール・ブッセ)』とあるからである。

「金雀枝(えにしだ)」双子葉植物綱マメ目マメ科エニシダ属 Cytisus ウィキの「エニシダ属」によれば、『Argyrocytisus(ギンヨウエニシダ属)、Genista(ヒトツバエニシダ属)、Spartium(レタマ属)など』実に二十五『属約』二百『種でエニシダ節(Genisteae)を構成しており、これらをまとめてエニシダ(英語ではbroom)と呼ぶことがある』とする。以下、エニシダ Cytisus scoparius について、『原産地が地中海沿岸の低木。開花期は春。明治期に導入され、湘南地方など』、『海岸沿いの温暖な砂地の庭木や』、『公園用樹として植えられている。また、この種は成熟すると』、『殻が激しく爆発することで遠くへ飛んでいくことが知られている。時には』十五メートル『ほど飛んでいくこともある。全草にスパルテイン、サロタムニン、ゲニステイン、スコバリンなどのアルカロイドを含み、有毒』とする一方で、交雑種ヒメエニシダ Cytisus × spachianusを挙げ、『原産地が地中海沿岸の低木。開花期は春。「エニシダ」として鉢植で売られているものは、実は本種であることが多い』とあった。なお、小学館「日本大百科全書」のエニシダの「文化史」の項には、本邦には延宝年間(一六七三年~一六八一年)に渡来したとされ、書物に出るのは、「増補地錦抄」(宝永七(一七一〇)年刊)が最初で、「エニスタ」の名を確認出来る。「地錦抄附録」には「エニスダ」と書かれ、後に「エニシダ」となったが、その語源はラテン語の「ゲニスタ」(genista)で、オランダ読みの「ヘニスタ」から由来する、とあった。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 信心(ギュスターブ・フォルク)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

 信 心 フオルク

 

月は私の枕を照らし、

わたしは眠ることは出來ない、

月の光に接物されてゐる二つの手を

わたしはぢつと組み合せてゐる。

 

神から歸つて來た、 私の靈魂は

今やすらかに橫たはつてゐる。

そして私の愛情は唯ひとつの考へを持つてゐる、

お前を幸福にしやうと。

 

[やぶちゃん注:詩人不詳。識者の御教授を乞う。「しやう」はママ。]

「曾呂利物語」正規表現版 第四 / 十 怖ろしくあいなき事 / 第四~了

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。今回はここ。なお、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。

 なお、「あいなき事」は「気に入らない不快なこと」の意。この語は、中古以来、「あいなし」・「あひなし」の二様の表記がある。]

 

     十 怖ろしくあいなき事

 

 陸奧(みちのく)、小野寺と云ふ山寺あり。

 その所に、化物(ばけもの)ありて、家どうじなき家、侍る。[やぶちゃん注:「家どうじなき家」岩波文庫の高田氏の注に、『「家刀自なき家」か。女主人のいない空家、の意』とある。]

 爰に、都より下りたる旅人、其の里に泊まりけるが、亭主、さまざまに歡待し、四方山の物語の序に、彼(か)の化け物の樣子を細々(こまごま)と語り侍る。

 旅人は、

「左樣の事を見置(みお)きて、故鄕の物語にもなるべし。」

とて、其の夜、

「彼の家に、行かん。」

と云へば、亭主、色々に止めけれども、用意す。

 夜半ばかりに、彼の家に行き、奧の間にたて籠り、内より、掛け金をかけ、用心して、化物の虛實(きょじつ)をぞ、聞き居たる。

 如何にも茂りたる森、有りけるが、寅の刻[やぶちゃん注:午前四時前後。]と覺しき時、森の方(かた)より、電(いなづま)の樣なる光り物、

「ちら」

と見えけるほどに、彼の男、

『すはや。』

と思ひ、腰の刀を拔きかけてぞ、待ちかけたり。

 稍(やゝ)少時(しばらく)ありて、前の如くに、光り物、座敷の内外(うちそと)、明らかに見えける。[やぶちゃん注:座敷の内外をはっきりと照らすほど、強力な光を発していたのである。]

 五丈餘り[やぶちゃん注:十五メートル超。]なる男の、色、靑く、如何にも瘦せ衰へたるが、妻戶に取り付き、大息、つき、少時内なる男を守り居たり、怖ろしとも云はん方なし。[やぶちゃん注:「妻戶」ここは建物の四隅に設けた外側に開く両開きの板戸。掛け金で留める仕組みになっている。シチュエーションは、既に空家であるから、そこここが損壊して、壁の隙間等から、外が覗けるのであろう。であればこそ、映像的にも、座敷の内外まで光が射すのが納得出来るし、その化け物の出来(しゅったい)を、かく描写し得るからである。]

 されども、不敵なる者なれば、動ぜず。

『かからば、切らん。』

と思ふ。

 彼のもの、

「爰には、口、無し。さらば、臺所へ參り候はん。」

とて、臺所の方(かた)へ行き、二重三重、鎖(とざ)したる戶を、易々と蹴放(けはな)し、奧の間へ這入(はひ)りければ、彼の男、思ふは、

『變化(へんげ)の物ならば、切りたりとも、切り止めじ。』

と思案して、刀(かたな)を捨てて、走りかゝり、

「犇(ひし)」

と抱き付くを、化物に、胸を、

「はた」

と蹴られて倒(たふ)れて、其の儘、消え入りにけり。[やぶちゃん注:気絶・失神してしまった。後の「死に入りてぞ、居たり」も同じ。]

 明くる日、臺所の者共、

「夕(ゆふべ)の旅人は、いかなりつらん。」

と、行きて見れば、死に入りてぞ、居たりけれ。

 やうやう、氣を付けければ、息、出でて、有りし事ども、細々(こまごま)と語りける。

 其の後(のち)は、いよいよ、其の家には、人も住まずなりにけるとぞ。

佐々木喜善「聽耳草紙」 二三番 樵夫の殿樣

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   二三番 樵夫の殿樣

 

 ある所に樵夫(キキリ)の父(トト)があつた。春の天氣のいゝ日に、山へ木伐りに行つて、日向ぼツこをしながら斧を磨いで居た。さうして磨ぎ上げて、さあこれから木でも伐ンベえと思つて、洞(ホラ)[やぶちゃん注:山の奥深い所。]へ行つて、木を伐りながら傍らを見ると、巨木の蔭に見慣れぬ穴があつた。父はハテ不思議だと思つて、其穴へ入つて見ると中は案外樂々と步けた。何處までも何處までも行つて見ると、餘程來たなと思ふ頃、ひよツと明るい所へ出た。其所は大變廣い野原であつた。父はその野原をまた何所までも何所までも行くと、或村里へ出た。父は不思議な國もあるものだと思つて、四方を眺めながら行くと、その村里の中程頃に立派な門構への館があつて、その家に出入りする多勢の人達が、みんな聲を立てゝ、おウいおウいと泣いて居るのであつた。

 父は、しばらく立つて其樣子を見て居たが、それでも何が何だか解《わけ》が分らないから、其所へ來た婆樣に譯を訊いて見た。すると婆樣は、お前は何所から來た何處の人だか知らないが、今夜この館の一人娘が、この國の生神(イキガミ)樣に、人身御供(ヒトミゴクウ)に取られるので、村の人達は皆斯《か》うして泣いて居るのだと言つた。父はそれを聽いてそれはモジヨヤ(可愛想)な話だ。そんだら其娘を俺が助けてやりたい。俺はこの上の日本から來た者だと言つた。すると其婆樣はこれこれと叫んで館へ行つて、日本から斯《か》う謂ふ人が來たと言ふと、皆はひどく喜んで、どれどれと言つてぞろぞろと出迎へに出た。そしてまづまづ此方《こつち》へ上れと言はれ、立派な座敷に通さられて、大層御馳走になつた。

 其夜、父は其娘の身代りになつて、白木の棺箱《かんば》[やぶちゃん注:後の本文でそうカタカナで振られる。]に入つて、里端《さとはづ》れの山の麓の御堂まで、村の人達に持ち搬《はこ》ばれて行つた。村の人達は父の入つた棺箱を御堂の緣の上に置くと、吾勝ちにと逃げ歸つた。父は其後で、今に何か出て來るかと思つて、じつとして待つて居た。すると眞夜半頃《まよはんごろ》になつた刻限ソヨソヨと腥風(ナマグサカゼ)が吹いて來ると、何物だかワリワリと林を打ち鳴らして來た者があつた。父はそれヤ來たなと思つて居ると、やがて御堂の緣側をみしりみしりと踏んで、段々と棺箱の方に近寄る物がある。よく見ると、總身《さうみ》に蓑を着たやうな、六尺豐《ろくしやくゆたか》もある猿の經立(フツタチ)であつた。それがいよいよ近寄つて來て棺箱(カンバ)の葢《ふた》を搔開《かきあ》けたから、父は己(オノレ)ツと叫んで、持つて居た斧で、經立(フツタチ)の眉間《みけん》をグチヤリと眞二つに斬割《きりわ》つた。

 村の人達は、あの人ア今頃ア、生神樣に食ひ殺されて、髮の毛筋も殘つては居まいと言ひ合つて、翌朝未明に麓の御堂へ行つて見ると、父は斧を持つて彼方此方《あちらこちら》を步き廻つて居た。そして恠物《かいぶつ》はしつかり退治したから安心し申さいと言つた。見ると、見たことも聞いた事もないやうな怖(オツカナ)い怪物が頭を眞二つに斬割られて死んで居た。これだこれだ每年此の國の娘を取つて食つた物ア、去年は俺の娘を取つて食つた、一昨年は俺の妹を取つて食つたと口々に罵つて、各々に、斧や鍬で其怪物をさんざんに斬つたり撲《ぶ》つたりした。其あげくに彼方此方から薪木を持集《もちあつ》めて來て其屍《しかばね》を燃してしまつた。

 それから村の人達は、お前樣こそ眞實(ホントウ[やぶちゃん注:ママ。])の生神樣だ。此國の助神樣《すけがみさま》だと言つて、手車《てぐるま》をして父を館まで連れて還つた。そして一同で願つて、其館の一人娘の聟殿になつて貰つて、七日七夜の祝ひの酒盛をした。

  (祖父の好く話した話。古い記憶。)

[やぶちゃん注:妖猿への人身御供譚は、古く「今昔物語集」にまで遡ることが出来る。「卷第二十六 本朝付宿報」の「美作國神依獵師謀止生贄語 第七」(美作(みまさか)の國の神、獵師の謀(はかりごと)に依りて生贄を止めし語(こと) 第七(しち))と「飛驒國猿神止生贄語 第八」(飛驒の國の猿神(さるがみ)、生贄を止(とど)めたる語 第八)で、これは「柴田宵曲 妖異博物館 人身御供」の私の注で電子化してあるので、柴田の本文とともに見られたい。

「猿の經立(フツタチ)」「經立(フツタチ)」は現代仮名遣「ふったち」で「年(とし)經(ふ)りて立つ」、ある生き物が歳を永く「經」(へ)て異形ののものとして「立」(た)った(或いは長年月を「経立(へだ)たって」変じた)ものの意であろう。千葉幹夫氏の「全国妖怪語辞典」(一九八八年三一書房刊「日本民俗文化資料集成」第八巻所収)には青森では「ヘェサン」「フッタチ」とし、『動物が年老いて霊力を備えたものをいう』とあり、ウィキの「経立」には、『青森県、岩手県に存在すると言われる妖怪あるいは魔物。生物学的な常識の範囲をはるかに越える年齢を重ねたサルやニワトリといった動物が変化したものとされる』。『民俗学者・柳田國男の著書『遠野物語』の中にも、岩手県上閉伊郡栗橋村(現・釜石市)などでのサルの経立についての記述がみられる。サルの経立は体毛を松脂と砂で鎧のように固めているために銃弾も通じず、人間の女性を好んで人里から盗み去るとされている。この伝承のある地方では、「サルの経立が来る」という言い回しが子供を脅すために用いられたという』。『また』、『國學院大學説話研究会の調査による岩手県の説話では、下閉伊郡安家村(現・岩泉町)で昔、雌のニワトリが経立となり、自分の卵を人間たちに食べられることを怨んで、自分を飼っていた家で生まれた子供を次々に取り殺したという』。『同じく安家村では、魚が経立となった話もある。昔』、『ある家の娘のもとに、毎晩のように男が通って来ていたが、あまりに美男子なので周りの人々は怪しみ、化物ではないかと疑った。人々は娘に、小豆を煮た湯で男の足を洗うように言い、娘がそのようにしたところ、急に男は気分が悪くなって帰ってしまった。翌朝に娘が海辺へ行くと、大きなタラが死んでおり、あの男はタラの経立といわれたという』とある。猿のそれは、私の『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 四四~四九 猿の怪』を参照されたい。

「手車」二人以上の者が、両手を差し違えに組んで、その上に跨らせて運ぶこと。]

早川孝太郞「三州橫山話」 天狗の話(全) 「天狗」・「天狗におどされたといふ噺」・「天狗の火だらうと謂ふ話」・「鹿に化けてゐた天狗」・「一度に鼻を高くした獵師」・「火をつける神樣」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。今回はここから。]

 

      天 狗 の 話

 

 ○天狗  天狗の事を別に守護神と謂ひます。騷々しい事を好み、金屬製のものを打ち合せるやうな音を特に喜ぶから、深山などで、夜さうした音をさせると、すぐ集まつてくると謂ひます。又、天狗に出會つた時は、何によらず汚い事をして、例へば草鞋《わらぢ》に小便をかけて冠《かぶ》つたりすると効があると謂ひます。獵師は、黃金《わうごん/きん》の丸《たま》で擊てば勝つ事が出來ると言つて、もし黃金の丸の持合《もちあは》せがない時は、黃金の丸で擊たうと、口で言つたゞけでも天狗が怖れて逃げると謂ひます。

[やぶちゃん注:天狗は私の怪奇談系の記事でも枚挙に遑がないほどに登場するのであるが、よく纏まって古文献を蒐集しているのは、柴田宵曲の「妖異博物館」の「秋葉山三尺坊」「天狗と杣」に始まり、「天狗の爪」」 までの十章を読む(ブログ・カテゴリ「柴田宵曲」からどうぞ)にしくはあるまい。ウィキの「天狗」は、本篇の次話の出沢での怪談を引くが、ウィキの記事全体が、短文で概観を圧縮して詰め込んであるために、どの記載も底が浅く、概説を通しで軽く知るにはよいものの、私はあまり評価しない。

「金屬製のものを打ち合せるやうな音を特に喜ぶ」天狗は山中に棲み、それは山師(ここでは狭義の鉱脈を探す鉱山師)との親和性が強いことも一因としてあろうか。

「天狗に出會つた時は、何によらず汚い事をして、例へば草鞋に小便をかけて冠つたりすると効がある」「日文研」の「怪異・妖怪データベース」のこちらの多摩の採話の要約に、『てんごう』(天狗の訛りと推定される)『やオオカメ』(神使或いは妖獣としての狼の訛り)『はなかなか見えない。猟師がおてんぐもしくはおイヌ様に山であったとき、小便をするまねをすればいいという話を聞いたことがある。きたないことが嫌いなのでかくれるのだという』とあった。本来は天狗は零落した神の一種であり、山は山神を始めとする神聖な霊域でもあるから、神聖性としての潔斎を好むのは当たり前であり、その行為を特に彼らの目に理解不能で異様に見えるようにするためには、突拍子もない組み合わせで、ここにある「草鞋《わらぢ》に小便をかけて冠《かぶ》つたりする」というようなことをすると、禅問答の際の異様な対応行動と同様、天狗を怯ませる効果があるものと思うわれる。

「黃金の丸」通常の銃弾は鉛玉であるが、実際、猟師は通常の鉄玉の他に、恐らくは、こうした魔物に対処するためのものと思われるが、銀や金で出来た霊的な力を持つと考えられた弾丸をも所持していた。]

 

 ○天狗におどされたといふ噺  東鄕村出澤《すざは》の關原三作と云ふ木挽《こびき》が、二十五六年前、北設樂郡の川合《かはひ》に近い村で、仲間の者と八人で山小屋に住んで居た時、或夜、酒を二升程買つて來て、其を飮んで、有合《ありあは》せた鋸や石油の罐を敲いて拍子をとり、大亂痴氣《だいらんちき》をやつてゐると、山の上から其小屋へ向けて石を投げつけたのを手初めに、おそろしい音をたてゝ、岩を轉がしかけたり、小屋の周圍の大木を、忽ちの中《うち》に鋸で伐り倒したり、何物か小屋へ手をかけて、今にも倒れるかと思ふ程搖《ゆさ》ぶつたり、さうかと思ふと、大きな火の玉が眼の前へ飛んで來て、一氣に又遠くへ飛んで行つたりしたと謂ひます。八人の者は酒の醉《ゑひ》も醒めてしまつて、まるで生きた心地はなく、一團に抱き合つて居たさうですが、夜の明けた後に見ると、何ら變つた事はなく圍《まは》りの木なども確かに鋸で挽いて倒しかけた音を聞いたのが枝一つ落ちては居なかつたと云ふ事です。

[やぶちゃん注:「東鄕村出澤」横山の寒狹川の対岸の、現在の愛知県新城市出沢(グーグル・マップ・データ航空写真。以下、無指示は同じ)。

「二十五六年前」本書の刊行は大正一〇(一九二一)年であるから、明治二九(一八九六)年前後。

「北設樂郡の川合」愛知県北設楽郡設楽町大字川合(かわい)。横山の東北の鳳来寺を越えた先の山中で宇連川の上流。現行では地区内には人家は視認出来ない。但し、地区内に半ば倒壊した「神田小学校宇連分校跡」があり(サイド・パネルの写真参照)、嘗つては集落があったことが判る昭和四二(一九六七)年三月に閉校と「廃墟検索地図」のこちらにあった。但し、ここでは話者は「川合に近い村」と言っており、そうなると、川合の周辺となり、西の「海老町」、南西の「鳳来寺村」、南東の「三輪村」、北の「最草村」(読み不詳)等の「川合」に近い山間村町ということになろうか。「ひなたGPS」の戦前の地図をリンクさせておく。

「山の上から其小屋へ向けて石を投げつけた」「天狗の石打ち」と呼ばれる怪奇現象。

「鋸で伐り倒」す音がしながら、「夜の明けた後に見ると、何ら變つた事はなく圍りの木なども確かに鋸で挽いて倒しかけた音を聞いたのが枝一つ落ちては居なかつた」「天狗倒し」と呼ばれる同現象。前の「天狗の石打ち」と合わせて、山中では嘗ては頻繁に起こり、江戸時代の記録文献(公的事実記録を含む)や怪奇談にも頻繁に登場する。]

 

 ○天狗の火だらうと謂ふ話  橫山の早川德平と云ふ家に奉公してゐた村松留吉と云ふ男が、或朝早く起きて、草刈に出かけようとすると、時刻を間違へたのか、星が空一面に輝いてゐて、中々、夜の明ける樣子もないので、しばらく門口に立つてゐると、向ひの出澤村のフジウと云ふ山を、灯が一つグングン動いて行くのが見てゐる内、ふつと二つになつたと思ふと、自分の目を疑ふ程、次から次からと增へて行つて、しまひには、山一面の火になつたと謂ひます。するとそれが又、いつとなしに一ツになつて、今度は段々に燃え出して、盛んに燃え上るので、天狗の仕業ではないかと思つて怖ろしくなり、家へ這入《はい》つて、戶の𨻶間から覗いて居たさうですが、しばらく燃えてゐて、其中《そのうち》に何事もなく消えてしまつたと云ひました。明治が三十年頃のことです。

[やぶちゃん注:「出澤村のフジウと云ふ山」「早川孝太郎研究会」の本篇PDF)には、『出沢地区に伝わる古地図』と題して、延宝年間(一六七三年~一六八一年:徳川家綱・綱吉の治世。約三百四十五年前)に描かれ、天保 一四(一八四三)年前)に描き直された地図がカラー写真で紹介されてあり、『富住は、今は一面杉林ですが、この頃』『まで)は水田と畑が拡がって、呼び名通り。豊かな土地でした』とあるので、是非、見られたい。現在の富住(ふじう)山の写真もあり、古地図の編者のキャプションとその写真から考えると、この中央附近が「フジウ」「山」ではないか? 「ひなたGPS」で見るなら、この国土地理院図の332.8ピークがそれであろうかと推察する。山の名はネットでは残念ながら掛かってこない。

「明治三十年」一八九七年。]

 

 ○鹿に化けてゐた天狗  某と云ふ獵師が、朝早く本宮山《ほんぐうさん》へ鹿を擊ちに行くと、行手の大きな岩の上に、一頭の大鹿が眠つてゐるので、早速丸込《たまご》めをして狙《ねらひ》を定めて擊つた所が、更に感じないで、鹿は相變らず眠つてゐるので、次から次と、五六發擊つても何の手答《てごたへ》もないので、不審に思つて、黃金の丸を出して擊たうとすると、其時迄眠つてゐた鹿が、ムクムクと起き上がつたと思ふと忽ち鼻の高い老人になつて、さつきからの丸はみんな此所へ置くから、どうか命は助けて吳れと言つて、掌に持つてゐた丸をみんな岩の上に置いて逃げて行つたと云ふ話を、出澤村の鈴木戶作と云ふ男から聞きました。

[やぶちゃん注:「本宮山」愛知県岡崎市・新城市・豊川市に跨る標高七百八十九メートルの山。ここ。別名を「三河富士」と称する。古来より山岳信仰の対象とされてきた山であった。]

 

 ○一度に鼻を高くした獵師  北設樂郡の三輪村三つ瀨の明神山は、非常な深山で、ふだん天狗が住んでゐると言はれてゐる所ださうですが、ある時、其近くの山で小屋を造つて仕事をしてゐた木挽達が、夜の慰みに、これから明神山を越して里へ行つて酒を買つて來るものがあれば、其酒を奢ると云つて賭《かけ》をすると、其中の一人が俺が行つて來ると云つて、仕度をして出かけたさうですが、それから段々明神山の窪《くぼ》深く這入つ行くと、向ふに獵師が七八人道の傍《かたはら》で焚火をしてゐるので、其に力を得て傍へ行くと、其中の一人が此處へ來る道で俺達の仲閒に遇はなかつたかと訊くので、更に見かけなかつたと答へると、こんな人は見なかつたかと言ひながら、其獵師達が一度に鼻を高くして顏を差出《さしだ》したので、驚ろいて其場に氣絕してしまつたのを、翌朝になつて、仲間の者が助け出したと謂ひます。

[やぶちゃん注:「北設樂郡の三輪村三つ瀨の明神山」愛知県北設楽郡東栄町本郷にある明神山

「明神山を越して里へ行つて」地図上から判断すると、明神山を越えて行く里で、酒が買えるとなら、「ひなたGPS」の戦前の地図を見る限り、やはり、東北の東栄町しかないようである。半分以上がかなりの山道で、仮実測で、明神山の近くまである道から測ってみたが、往復で十キロはある。]

 

 ○火をつける神樣  遠州の秋葉山や奧山の半僧坊は、天狗の神樣だなどと謂ひますが、ある男が秋葉山に參詣に行く時、出かけに家内の者に、留守中火の用心をしろと言置《いひお》いて、秋葉山へ登つてお籠もりしてゐると、傍の木の上で人の話し聲がするので、何氣なく聞いてゐると、何々村の何某の家へ行つて火をつけて來いと云つてゐるのが、まさしく自分の家なので、驚いてゐると、間もなく又話し聲がして、只今行つて參りましたが、何分火の上をすつかり瀨戶物で圍んでありますので、火の放《つ》けやうがありませんと言ふので、益《ますます》驚いて、急いで歸つて來て、家へ着いて家内を起して火の用心の事を聞くと、爐《ゐろり》の殘り火の上に、摺鉢《すりばち》を冠《かぶ》せて置いたと答へたと云ふ話があります。

[やぶちゃん注:「遠州の秋葉山」何度も既出既注だが、再掲しておくと、「秋葉山」は現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家の赤石山脈の南端にある標高八百六十六メートルの山。ここ。古くより修験道の聖地とされ、山頂近くに、「火防(ひぶせ)の神」として知られる「秋葉大権現」の後身である「秋葉山本宮秋葉神社」と、神仏分離令で分かれた「秋葉山秋葉寺(あきはさんあきはじ)」がある。まさに「火伏の神」であるからして、そこの火はあらたかな神火なのである。

「奧山の半僧坊」静岡県浜松市北区引佐町奥山にある臨済宗方広寺派大本山深奥山(じんのうざん)方広寺(ほうこうじ)。「半僧坊」(はんそうぼう)は天狗の姿をした山の守り神で、この寺の奥山半僧坊大権現が起源とされる。半僧坊は現生の諸願を叶えるとされ、鎌倉建長寺にも祀られている。方広寺・建長寺・平林寺(埼玉県新座市のここにある)は三大半僧坊とされる。]

2023/04/01

早川孝太郞「三州橫山話」 川に沿つた話 「河童ではないか」・「これも其類か」 / 川に沿つた話~了

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。今回はここ

 なお、これを以って「川に沿つた話」は終わっている。]

 

 ○河童ではないか  此川が寒狹川へ流れ落ちる所を獅子岩と言つて、其處を一丁[やぶちゃん注:百九メートル。]程降《くだ》ると、先に謂つた二ノ瀧がありますが、今から約五十七八年前、二の瀧の上の淵の岩に髮を奇麗な禿《かむろ》にした、五六歲とも見える子供が腰かけてゐるのを、私の父が見たと謂ひましたが、其時傍に居た人が、彼所《あそこ》に河小僧《かはこぞう》がゐると言つて騷いだので、忽ち川の中へ飛込んで再び姿は見せなかつたと謂ひます。

[やぶちゃん注:「此川」前の「蜘蛛に化けて來た淵の主」を受けるので、旧「大荷場川」、現在の「七久保川」(グーグル・マップ・データ航空写真。以下、無指示は同じ)を指す。

「獅子岩」この附近となるが、どこかは不詳。

「二の瀧の上の淵の岩」この附近と思われる。]

 

 ○これも其類か  八名郡山吉田村の豐田新右衞門と云ふ酒屋の裏の小川に、權現淵と云ふ淵があつて其淵では每日夕方になると、杵《きね》で臼を搗くやうな音がしたと謂ひます。其家や附近の者は、其音で、雨の降る日などは夕飯の時刻を知つた程永い間續いたと謂ひます。すると或時此の後家が、月の物の汚れを洗ひに其淵へ行くと、傍の岩の上に十歲位の美しい童子が腰をかけてゐたさうですが、女の姿を見ると、淵の中へ飛び込んでしまつたので、薄氣味惡く思つて、洗ひ物も勿々[やぶちゃん注:ママ。「匆」の誤植。]にして家へ歸ると、心持が惡いと云つて床について、家の者に其話をすると、家内中が不安に思つて、滿光寺と云ふ寺の住職を招いて、相談すると、何等か不祥の前兆かも知れないとあつて、翌日其淵で施餓鬼を行つて、旗などを淵に流したさうですが、其頃から夕方には必ず聞えた音もしなくなつて、淵もいつとなく淺くなつてしまつたと謂ひます。其頃から其家の家運も次第々々に衰へて不幸のみ續いたと謂ひました。凡《およそ》百年程前の事ださうですが、其淵は現今巾三尺程の水もあるか無いかの流れになつてゐます。

[やぶちゃん注:「八名郡山吉田村」何度も出たが、新城市下吉田五反田附近

「權現淵」山吉田地区は黄柳川(つげがわ)が貫流するが、その「小川」であり、位置は不詳。

「百年程前」本書は大正一〇(一九二一)年刊であるから、文政初期となろう。]

「曾呂利物語」正規表現版 第四 / 九 耳切れうん市が事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。今回はここから。なお、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今回は、同書にあるものが、比較的、状態がよいので、それをトリミング補正した。]

 

     九 耳切れうん市(いち)が事

 信濃の國、善光寺の内に、比丘尼寺、ありけり。

 また、越後の國に「うん市」と云ふ座頭はべる。常に、彼(か)の比丘尼寺に出入りしけり。

 ある時、勞(いた)はる事有りて、半年程、訪れざりけり。

 少し快くして、彼の寺に行きけり。

 主の老尼、

「うん市は、遙かにこそ、覺ゆれ。何として、打絕(うちた)えけるぞ。」

と云ひければ、

「久しく所勞の事候ひて、御見舞ひも申さず候。」

と云ふ。

 兎角して、其の日も暮れければ、

「うん市は、客殿、宿(やど)られよ、」

と云ひて、老尼は方丈に入りぬ。

 爰(こゝ)に、「けいじゆん」とて弟子比丘尼あり。三十日程さきに、身まかりぬ。[やぶちゃん注:「慶順」「慶純」「慶淳」などが考えられる。]

 かの「けいじゆん」、うん市の臥したる所へ行きて、

「其の後(ご)は、久しくこそ、覺ゆれ。いざ、我々が寮(れう)へ、伴ひ侍らん。」

と云ふ。

 うん市は、死したる人とも知らず、

「それへ參るべく候へども、御一人(おひとり)坐(おはしま)す所へ參り候(さふらふ)事は、如何(いかゞ)にて候ふまゝ、えこそ參るまじ。」

と云ふ。

「いやいや、苦しうも候はず。」

とて、是非に、引き立て行く。

 彼(か)の寮の戶を、内より、强く、さして、明くる日は、外へも、出ださず。

 さて、暮れぬ。

 うん市、氣詰まり、

『如何(いかゞ)すべき。』

と思ひながら、すべきやうも、なし。

 めうけつに、行事の鐘の音、しければ、

「ぎやうしに逢ひて歸り候はんまま、あなかしこ、よそへ出づる事、あるまじ。」

と云ひて出でぬ。[やぶちゃん注:「めうけつ」岩波文庫の高田氏の注には、『不詳。「冥契に」(深いちぎり、の意)か』とあるのだが、ちょっと、それでは、意味が採れない。私は「妙訣」(歴史的仮名遣も「めうけつ」)で、「非常に上手い奥の手」の意ではないかと感じた。則ち、丁度いい具合に彼女が勤行のために寮を出ねばならなくなったことを、「うん市」の内心に即して、かく言ったのではないか? と思ったのである。以下、「うん市」は、これを機に、かの尼「けいじゆん」の寮から出る算段を考え出しているからである。「ぎやうし」同じく、高田氏の注で、本文を『行事』と書き変え、『意によって改』したとされた上で、『勤行のこと。朝夕行われるが、ここでは夜の勤行』とされている。しかし、これは例えば、「行師」(ぎやうし)ではなかろうか? 言わずもがなだが、この台詞は「けいじゆん」の「うん市」への禁足を指示したものである。則ち、彼女の師であるところの、「比丘尼に『逢』って勤行をなしてより、また帰って参りますから、恐れ入りますが、余所(よそ)へ出て行くことは、決してなさいまするな。』と言っているのではなかろうか? 但し、この後に再度出る「ぎやうし」は「出でける」とあるので、高田氏の「行事」の方がしっくりはくる。

 さて、

『如何(いかゞ)して、出でん。』

と、邊りを探りまはしければ、いかにも嚴しく閉ぢめければ、出づる事も、ならず。

 夜明けて、けいじゆんは、歸りぬ。

 かくする事、二夜(よ)なり。

 其の中(うち)に、食ひ物、絕えて、迷惑の餘りに、三日目の曉、ぎやうしに出でけるうちに、寮の戶を、荒(あら)らかに叩き呼ばはりければ、則ち、寺中の者、出であひ、戶口を蹴放(けはな)し、見れば、うん市なり。

「此の程は、何處(いづく)へ行きけるぞ。」

と、尋ねければ、

「爰に、居てこそ侍れ。」

と云ふ。

 見れば、しゝむら、少しもなく、骨ばかりにて、さも、恐ろしき姿なり。

「如何に、如何に、」

と問へば、如何にも疲れたる聲にて、息の下(した)より、

「しかじかの事にて、侍る。」

と語る。

「けいじゆんは、三十目ほど前に、身まかりぬる。」

と云へば、愈々、興さめてぞ、覺えける。

「一つは、けいじゆん弔ひの爲(ため)、又は、うん市が怨念を拂はん爲。」

とて、寺中、より合ひ、百萬遍の念佛を修行しける。

 

Mimikireuniti

 

[やぶちゃん注:上の画像では切れているが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで見ると、「ゑちこの国みゝきれうんいちの事」と読める。百万遍を誦える尼僧三人の後ろの右手にいるのが「うん市」。でその膝に頭を載せようとする白衣の者が尼僧「けいじゆん」の亡霊である。]

 

 各(おのおの)、鐘、うち鳴らし、誦經しける時に、何處(いづく)ともなく、「けいじゆん」、形を現はし、出で來たり、「うん市」が膝を、枕にして、臥しぬ。

 念佛の功力(くりき)に因りて、ひた寢入りに寢入り、性體(しやうたい)もなかりければ、斯(か)かる隙(ひま)に、うん市、枕を外し、

「はや、國に歸り候へ。」

とて、馬を用意して送りぬ。

 道すがら、いかにも身の毛よだち、あとより、取り付かるゝやうに覺え、行き惱みけるほどに、或(ある)寺へ立ち寄り、長老に會ひて、

「しかじかの事、侍り。平(ひら)に賴み奉る。」

と云ふ。

「さらば。」

とて、有驗(うげん)の僧、數多(あまた)寄合(よりあ)ひ、「うん市」が一身に、「尊勝陀羅尼(そんしようだらに)」を書き付けて、佛壇に立て置きぬ。

 さる程に、「けいじゆん」、さも恐ろしき有り樣にて、彼の寺に來たり、

「うん市を、出だせ、出だせ、」

と、ののしりて、走りまはりしが、「うん市」を見付けて、

「噫(あゝ)、可愛(かはい)や、座頭は、石になりける。」

とて、撫で𢌞し、耳に、少し、「陀羅尼」の足らぬところを見出だして、

「玆(こゝ)に、『うん市』が、切れ殘りたる。」

とて、引き千切りてぞ、歸りにける。

 さてこそ、甲斐なき命、助かりて、本國へ歸りしが、「耳切れうん市」とて、年(とし)たくるまで、越後の國にありし、とぞ。

[やぶちゃん注:「百萬遍の念佛」高田氏の注に、『災厄や病気をはらうために、犬勢が集まって念佛を百万回となえる行事』とある。この場合の回数は、その場にいる僧たちの念仏の総和を指す。

「尊勝陀羅尼」尊勝仏頂の功徳を説く陀羅尼(梵文(ぼんぶん)を翻訳しないままで唱えるもの。不思議な力を持つと信じられている、比較的、長文の呪文である)。これは、帝釈天が善住天子の、死後七度、畜生悪道の苦しみを受ける業因を憐れんで、仏に、その救済を請うたことから、仏はこの陀羅尼を説き、誦せしめたとされる。これを読誦すると、罪障消滅・延命など、種々の功徳があるとされる。

「可愛や」ここは「可哀想なこと!」の意。言うまでもなく、この「けいじゆん」は、生前、「うん市」に秘かに恋慕していたのであり、「うん市」の耳が「けいじゆん」の、まさに文字通り、〈鬼気迫る冥途の片恋〉の形見の品となる猟奇性が、これ、本話のオリジナリティと言える。すっかり、肉が落ちた「うん市」は哀れであるが、これまた、何の因果か知らぬが、「越後の耳切れうん市」として知られた座頭として相応に生きたというエンディグは、近過去の怪奇談(噂話)として、まあ、よく出来ているとは言える。

 さて。無論、これは小泉八雲の“ THE STORY OF MIMI-NASHI-HOICHI ”(明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークで出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things”(来日後の第十作品集)の第一話で(小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した)世界中で読まれることとなった「耳無し芳一」が永遠の名作である。私のものでは、「小泉八雲 耳無芳一の話 (戸川明三訳)」で電子化注してある。私の電子化注した類話では、「諸國百物語卷之一 八 後妻うちの事付タリ法花經の功力」、及び、「宿直草卷二 第十一 小宰相の局幽靈の事」がある。なお、小泉八雲の原拠は、天明二(一七一二)年に板行された一夕散人(詳細事蹟不祥)作の読本「臥遊奇談」(板元は京都)の巻之二巻頭にある「琵琶祕曲泣幽靈」(琵琶の祕曲、幽靈を泣かしむ)である。上記の戸川訳の私の注で電子化してある。但し、「臥遊奇談」のそれは、先に示した延宝五(一六七七)年板行の荻田安静編著の「宿直草(とのいぐさ)」の「宿直草」の影響を明らかに受けて書かれたものであるとされる。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート お月樣の子守唄

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。今回は、ここから。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。]

 

     お月樣の子守唄 (大正三年一月『鄕土硏究』第一卷第十一號)

 

「お月樣(或は「あとはん」)いくつ、十三一つ、そらまだ若い、若船え乘つて、こぎこぎ見れば、夷子《えびす》か大黑か、福の神かみかみ、又今度お出で、守りのゼゼ(錢)で、ひともじ買てて、ぼりぼり咬みませう。」。子守唄と云《いは》んより、子守言葉と云べき者だ。「守貞漫稿」二五編に、月を觀て子兒及び小兒册《かし》つきの女の詞に、京阪にては、「お月さんいくつ、十三一つ、そりやまだ若や、今度京いのぼつて、守りのぜゞで、おまんを買《かう》て、お萬どこいた、油買《あぶらがひ》に酢買に、油屋のかどで、滑つて轉んで、油一升こぼして、太郞どの犬と次郞どの犬となめつて候ふ。」。江戶にては、「のゝさんいくつ、十三七つ、まだ年は若いな、あの子を產んで、此子を產んで、だあれに、抱《だか》しよ、お萬に抱しよ、お萬どこいた、油買に茶買に、油屋のゑんで、氷がはりて、滑つて轉んで、油一升こぼした、其油どうした、太郞どの犬と次郞どの犬と、皆なめてしまつた」。(『鄕土硏究』一卷七號の四三〇頁參照。)

[やぶちゃん注:「守貞漫稿」江戸後期の風俗史家喜田川守貞(文化七(一八一〇)年~?:大坂生まれ。本姓は石原。江戸深川の砂糖商北川家を継いだ)が天保八(一八三七)年から嘉永六(一八五三)年にかけての、江戸風俗や民間雑事を筆録し、上方と比較して考証して纏めたもの。この書は明治四一(一九〇八)年になって「類聚近世風俗志」として刊行された。但し、熊楠の編数は誤りで、「卷之二十八【遊戯】」である。私は岩波文庫版を所持するが、ここは国立国会図書館デジタルコレクションの写本の当該部をリンクさせおく(左丁の「月ヲ観テ小児及び小児カシツキノ詞ニ」以下。

「小兒册《かし》つき」「小兒傅(かしづ)き」で子守女のこと。

「『鄕土硏究』一卷七號の四三〇頁」「選集」の編者割注に、『弘津史文「子守唄」』とある。弘津史文(ひろつしぶん 明治二〇(一八八七)年~昭和二二(一九四五)年)は考古学者・民俗学者。山口県生まれ。参照したまる氏のブログ「かおめもぱの日記3」の「平生町 弘津史文先生 金石館跡」を見られたい。]

 (大正三年十月『鄕土硏究』二卷八號)

 拙妻に敎はつたのが刊行成りて、念の爲、讀聞《よみき》かせ居ると、田邊から、七、八町隔つた神子濱(みこのはま)から來て居る下女が、「かの在所で行なはるゝは、多少、違ふ。」とて敎へてくれたから、「實《げ》にや、勸學院の雀は「蒙求《もうぎう》」を囀《さへづ》る、下女ながらも、民俗學の穿鑿、感心の至り。」と賞して、筆記した。其詞に曰く、「昨夕(よんべ)來た嫁さん、結構(けつこ)な座敷へ坐らせて、襟とおくびと掛けてんか、能(よ)う掛けぬ、其《そん》な嫁ならいりません、田圃(たんぼ)の道まで送りましよ。京へ上(のぼ)つて男に惚れて、惚れた男に何買(こう)て貰(もろ)た、櫛や笄(かうがひ)、紅白粉(べにしろいころ)買(こう)うて貰(もろ)た、お月さん小月(こつき)さん、今度のきものは、裏は桃色表は鹿子(かのこ)、鹿子揃へて御乳母(おんば)に着せて、御乳母悅ぶ、お月さん怒る。お月さん小月さん、十三一つ、そらまだ若い、若舟(わかふね)へ乘つて、沖こね見れば、夷(えべす)か大黑か、福の神かみかみ。神々の錢《ぜぜ》で、ひともじ買《こう》てボリボリ嚙んで、くさい子を產んで、誰(だーれ)に抱かしよ、誰に負はしよ。」。

[やぶちゃん注:「拙妻」南方松枝(戸籍上は「まつゑ」 明治一二(一八七九)年~昭和三〇(一九五五)年)。西牟婁郡田辺町(現在の田辺市)大字下屋敷町十一番地、田村宗造(当時、闘鶏神社(グーグル・マップ・データ)宮司)と妻里の四女として生まれた。

「神子濱」現在の和歌山県田辺市神子浜

「勸學院の雀は「蒙求」を囀《さへづ》る」諺。平安時代、藤原氏の子弟教育のために創建された学校勧学院に巣を作る雀は、身近な学生たちが、朝夕、朗読する「蒙求」を覚えて、声を合わせて囀る、というもので、身近に見たり、聞いたりすることは、自然に習い覚えてしまうことの喩えとされて使われる。「蒙求」(もうぎゅう)は唐の李瀚(りかん)の撰になる、年少者向けの歴史上の教訓を記した啓蒙書。

 なお、「選集」では、以上の「追加」の前に以下の「追加」が挟まっており、それは本書には収録されていない旨の注記がある。以下に、「選集」(新字新仮名)からそのまま転写しておく。

   *

【追加】

「お月様の子守唄」刊行ののち拙妻に示すと、拙妻いわく、これは完全な物にあらず、わが祖母八十一で二十四年前残したるが、常に唱えしは次のごとし、と。その詞に、「井戸のぞーきんどと、竈(かま)のはたのぞーきんどと、せい競べをしたら、娵(よめ)の陰戸(ぼぼ)へ火が付いて、娵泣くな泣くなよ、赤い小袖三つ、白い小袖四つ、それが嫌(いや)ならツツツとお帰(かい)り、お帰りの道で、大箱小箱(おおばここばこ)、小箱の内に、雌鳥雄鳥(めんどりおんどり)、尾のない鳥と、尾のある鳥と、竹の筒(つつう)っぼ銜(くわ)えて、高い山へ上(のぼ)る、上るはいくつ、十三一つ、そらまだ若い」、以下既刊のごとし。ただし、これには月のことなし。月に関する子守詞にちなんで作りし一種の詞で、まずは今も唄わるる「入道清盛ゃ火の病い、山へ登るは石堂丸よ、丸よ卵も切り様で四角」などいう尻取り唄の前駆なるべし。山形最上地方には、「お月様なんぼ、十三七つ、まだ年若い、油買いに酢買いに、酢屋の前に、すとんと転んで笑われた」という由、小宮水心の『随筆大観』三七八頁に見ゆ。

   (大正三年二月『郷土研究』一巻一二号)

   *]

大手拓次譯詩集「異國の香」 溫雅(カミーユ・モークレール)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

 

  溫 雅 モオクレエル

 

溫雅と  のどけさと

そして私の上氣した額の上に下りる愛すべき身振り、

それは靜かな私の悲哀のなかの前の手です

 

華やかな音樂、

そしてまた、 飽くこともない故鄕の物思ひ、

鎭まぬ悲哀の音樂、

悲しめる私の心の絲に

お前の聲は沈靜なる Oiselle のやうである

 

冷たく明るい水底にダイヤモンドの微光(ほのひかり)、

鬱陶しい私の目の反映に照らされる紫水晶、

それは私の瞳に映るお前の瞳です。

 

けれど、 血と晚霞(ゆふやみ)のお前の脣は

また記憶のかをりのために

囘想を心と手との中にとどめてゐる。

 

[やぶちゃん注:前の彼の詩の私の注を参照されたい。また、同じ理由で原詩は探さない。

Oiselle」は「ワゼェル」で「雌の小鳥」を指す。俗語で蔑視を込めて「うぶで愚かな娘」をも指すが、ここでは、採らない。

 なお、原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年岩波文庫刊)の「翻訳篇」に、本篇は載るのであるが、本詩集のものとは異なる訳稿に基づいており、有意に激しく異なるので、以上の本文を参考に恣意的に正字化して、以下に示す。

   *

 

  溫 雅 モオクレエル

 

溫雅とのどけさと、

そして私の額の濕氣の上に下(お)りる所の愛すべき身振り、

それは靜なる私の悲哀に於けるお前の手です。

 

華やかなる音樂、

そして又、 飽くことなき故鄕の物思ひ、

鎭まらざる悲哀の音樂、

悲しめる私の心の纖維の上に

お前の聲は沈靜なる Oiselle のやうである。

 

冷たく明るい水底にダイアモンドの微光(ほのひかり)、

鬱陶しき私の目の反映に照らさるる紫水晶、

それは私の瞳に映るお前の瞳です。

 

けれど、 血と晚霞(ゆふやけ)のお前の脣は

晚霞と血の私の脣の上に、

ああ!

靜かなる菊の花のやうに

唇に總てお前の魂はある。

 

   *]

大手拓次譯詩集「異國の香」 あらはれ(カミーユ・モークレール)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  あ ら は れ モオクレエル

 

私は夕燒の中に

輕(かる)く去りゆく女を見た。

そして其姿が、 朧ろに深き夕暮の中に變るのを。

 

其後長い間彼等の聲は死んでゐる。

其後長い間閾の隅に

門の隅に彼等の記憶は

木葉と共に色衰へて眠つてゐる。

 

貪しい人のやうに

眠るために黃色い木葉を床とする

私の回想(おもひで)よ、 この記憶の上にお前を寢かし、

そしてお前を眠らせやう。

 

又更に記憶の下に曖昧をとるために

回想の胸のうへに記憶をおけよ。

晚霞と血の私の脣のうへに、

あゝ!

靜かなる菊の花のやうに

お前の魂は總て脣にある。

 

[やぶちゃん注:フランスの詩人であるカミーユ・モークレール(Camille Mauclair)はペン・ネームで、本名はカミーユ・ローレン・セレスティン・ファウスト(Camille Laurent Célestin Faust 一八七二年~一九四五年)で、小説家・美術史家・文芸評論家でもあった。芸術批評では、彼は「印象派」と「象徴主義」を支持したものの、「フォービズム」以降のアバンギャルドを激しく非難した。晩年はナチスに迎合したフランスのヴィシー政権に協力し、反ユダヤ主義を標榜してしまっている詩集に「秋のソナチネ」(Sonatines d’automne:一八九四年)・「血は語る」(Le Sang parle:一九〇四年)・「歌われた感情」(Émotions chantées:一九二六年)がある(以上は彼のフランス語ウィキに拠った)。原詩は、彼の忌まわしいナチズムへの迎合を知ったので、探すのは、やめた。悪しからず。

「晩霞」この語は、次に出る同じ彼の詩「溫雅」の最終連に『晩霞(ゆふやみ)』とルビする。「ばんか」は如何にも読みとして硬いので、私は「ゆふやみ」で読みたい。]

早川孝太郞「三州橫山話」 川に沿つた話 「蜘蛛に化けて來た淵の主」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。今回はここ。]

 

 ○蜘蛛に化けて來た淵の主  瀧川村の奧から流れる大荷場川と云ふ川に、瀨戶ヶ淵と云ふ淵があつて、其處にはブトの類が澤山ゐると謂ひましたが、淵に惡い主《ぬし》がゐて、命を奪《と》られる人が時折あると謂つて、釣に行く者は稀れでした。淵の上から高く水が落ちかゝつてゐて物凄い所でした。

 其處へ附近の出澤《すざは》村の某と云ふ者が、釣に出かけると、其日は又珍しくブトが捕れるので 時の經つのも忘れて捕つてゐて、見るともなく水面を見ると、一匹の赤い蜘蛛が這つて來て、岸に踞んでゐる其男の足を一巡りして[やぶちゃん注:底本は「一巡りて」。少しおかしいので、後の『日本民俗誌大系』版で『し』を補った。脱字であろう。]、還つて行つて淵の眞ん中頃になると見えなくなつて、暫くすると同じ蜘蛛がまたやつてきて、同じやうに足を一巡りして歸つて行つて、それを、同じやうに幾度も繰返して行つたので、不審に思ひながら足を見ると、細い蜘蛛の糸が幾重にも卷き付いてゐるので、そつと其糸をとつて傍の杉の切株に引掛《ひつか》けて、其儘釣をしてゐると、淵の底の方で、やあと大勢の懸聲《かけごゑ》がしたと思ふと、其の切株が、 そつくりもぎ取られて、淵の中へ沈んで行つたと謂ひます。

 この話をした鈴木戶作と云ふ男の弟が、此處で釣をしてゐると、水面から一尺程入つた處に、赤いキラキラと輝くやうな物を見て驚いて歸つて來たと謂ひました。

 其後《そののち》村の男が、淵の上の松を取ると謂つて淵へ鉈《なた》を落したので、淵の主が川下の淵へ越したので現今は主がゐないとも謂ひます。

[やぶちゃん注:ここに語られる蜘蛛の怪は、本邦で広汎に存在する水辺の「化け蜘蛛」譚の典型的なものの一つである。私の住まう鎌倉の源平池にさえある、実はかなりポピュラーな怪奇談なのである。私の「柴田宵曲 妖異博物館 蜘蛛の網」を読まれたい。

「瀧川村の奧から流れる大荷場川」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左端の中央やや下の位置に『大ニバ川』とある。この川は、手書き地図の諸ポイントから、現在は「七久保川」と呼ばれているもの(グーグル・マップ・データ航空写真。以下、無指示は同じ)がそれと判った。「大荷場」は、この七久保川の右岸に現在の地名として確認出来る。

「瀨戶ヶ淵」ここに「瀬戸淵の滝」がある。サイド・パネルに五十二葉の写真を見ることが出来る。「早川孝太郎研究会」の本篇PDF)に、この瀬戸淵についての編者注があり、『私が子供の頃は大きな淵で、四、五メートルの深さがあって、ちょっと薄気味の悪い処でした。近年、林道工事の影響で土砂が流れて来て、一時』、『殆んど淵が埋まってしまいましたが、最近、少し回復してきたようです。言い伝えによると、「メクラ(追分)」「カイクラ(一鍬田)」「瀬戸ヶ淵」と言って』、『この三つの淵は底が互いに繋がっていて主が行き来をしていると言われていました』。『川小僧達は、ここも遊び場にしていましたが、大荷場川の水はとても冷たくて、夏でも』十『分と入っていることが出来ませんでした』として瀧の写真も添えておられるので、見られたい。なお、この注の中の、「メクラ(追分)」というのは、横川追分地区(グーグル・マップ・データ航空写真)の寒狹川内のどこかの淵であろう(淵らしき箇所は複数ある。現在の地区割りに従うなら、挟まれてある下流の二箇所が候補となるか)。また、「カイクラ(一鍬田)」(「ひとくわだ」と読む)は、これも既注であるが、再掲しておくと、現在の愛知県新城市一鍬田(ひとくわだ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)であり、「カイクラ」は現在、「海倉橋」(かいくらばし:但し、ネット・データの中には「かいそうばし」と記すものもある)に名が残る。豊川の相対的にはずっと下流の方である。

「出澤村」現在の新城市出沢(すざわ:グーグル・マップ・データ航空写真)。横山の中央部の寒狹川を隔てた右岸で、殆どの部分は山間である。]

「曾呂利物語」正規表現版 第四 / 八 座頭變化の物と頭はり合ひの事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。今回はここから。なお、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

     八 座頭(ざとう)變化(へんげ)の物と頭(あたま)はり合ひの事

 奧州の戶地(へち)の里に、高隆寺(こうりうじ)と云ふ山寺あり。

 彼(か)の寺へ、昔、座頭、常に出入りし侍りしが、何時(いつ)の程にか、行方(ゆくへ)、知らずなりにけり。

 其の後(のち)、二、三人、座頭、立ち寄りしかども、いかになりけん、四、五日程ありては、故(ゆゑ)なく、なくなりけるほどに、其の後は、絕えて、座頭、來ること、なし。

 ある時、「りうばい」と云ふ座頭、此の事を傳へ聞き、かたへの人に逢ひて、

「我を、此の寺へ、具して給はれ。」

と云ふ。

「いやいや、此の寺にはしかじかの事ありて、座頭の行かぬ處なる程に、叶ふまじき。」

と云へば、

「平(ひら)に、賴む。」

由を云ふほどに、心に任せけり。

 此の「りうばい」と云ふは、丈(たけ)高く、臠(しゝむら)[やぶちゃん注:筋肉。]太く、力(ちから)は、四、五人が力もあるらん、兜(かぶと)なりしたる石の鉢を持ち、大斧(おほまさか)を、柄、短く、製(こしら)へて、琵琶箱に入れて、件(くだん)の人を案内にて、高隆寺へ行き、主(あるじ)の僧に、

「斯(か)く。」

と云へば、坊主、斜(なゝめ)ならず喜び、則ち、出でて、對面(たいめん)して曰く、

「此の寺は、昔より、如何なる謂はれにかありけん、『座頭、來りては、歸らぬ。』と、云ひ傳ヘ侍るが、それは、昔の事なり。此の頃は、更に、別の事も、あらじ。『りうばい』は、心安く思はれよ。愚僧が、かくてあらん程は、何の仔細も、あらじ。久しく「平家」を聞かず、一句、語られよ。」

と云ふ。

「心得候。」

とて、「平家」を、三句、すぎ、とかくして、夜も更け行けば、伴ひし人は、歸りぬ。

 「りうばい」は、

「御伽、申さん。」

とて、夜もすがら、物語りなど、うちして、寢(い)ね侍る。

 亭坊(ていばう)[やぶちゃん注:住職。]は、邊りを嚴しく圍(かこ)ひて、

「扠(さて)、今宵は、徒然(つれづれ)にも候へば、何がなして慰み侍らん。いざや、頭(あたま)をはりこくら[やぶちゃん注:頭の叩き較べ。]をして、遊ばん。」

と云ふ。

「それは、一段の御事(おんこと)にて候。扠は、どれから、張られ候はん。」

と、少時(しばし)、詮索して、坊主、

「まづ、愚僧を、張れ。」

と云ふ。

「いや、それは、恐(おそ)れにて候ふ間(あひだ)、まづ、受け候はん。」

と云ふ。

 さらば、

「受けてみよ。」

とて、こぶしを握りて、かゝる中(うち)に、彼(か)のかぶと、かづき待ちゐたる。

「えいや。」

と、云ふて、張りけるが、かぶとごしなれども、地に打倒(うちたふ)す。

 暫(しば)しが程は、目、くるめき、絕え入りけるが、漸(やうや)う、心を取り直し、

「さても、いかめしき御拳(おんこぶし)かな。恐れながら、私も、一あて、あてて、見申すべき。」

と云ふ。

「さらば、起き候はん。」

と、起き居て、待ちかけけり。

 座頭、つくづくと思ふやう、

『いやいや、此の者は、よも、人間にては、あらじ。たとひ何者にても、有らばあれ、斯(か)かるをこの者を、生けて置きては詮なし。』

と思ひ、彼の大斧(おほまさかかり)を、

「そろり」

と取り出だし、

「えいや。」

と、云ふほどこそあれ、大力(おほちから)にて打ちける程に、たゞ、打ちに打ち殺す。

 さて、夜明(よあ)くるまで、待ち明(あか)し、内より、戶を叩きて、呼ばはりければ、同宿沙彌(どうしゆくしやみ)、出であひて、これを見れば、小牛程(ほど)、大(だい)なる、大猫(おほねこ)なり。

 口、大きに裂けて、尾は、數多(あまた)、筋(すぢ)に分(わか)れ、怪しからぬ姿なり。

 前々の坊主をも、食ひて、猫こそ、住持になりける。

[やぶちゃん注:「戶地の里」岩波文庫の高田氏の注に、『現靑森県三戸郡付近の古稱』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「高隆寺」同前で、『奧州三戸郡にあった光龍寺か。曹洞宗。一旦』、『廢寺となったが、近世初期』に『再興』され、『現八戸市内』とあった。青森県八戸市長者(ちょうじゃ)のここにある。

「りうばい」漢字表記不詳。「柳梅」と洒落たか。

「をこの者」「癡(烏滸・尾籠)の者」で、普通は「間が抜けている者・馬鹿げた奴」の意であるが、高田氏の注に、『ここでは、怪物の意』とある。これは、対象の物の怪と断じたそれを、謂わば、そのような卑称で呼ぶことで、言上げをしていると考えると、よく納得出来る。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 二二番 黃金の壺

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

     二二番 黃金の壺

 

 ある頃、小友《おとも》村の或所に一人の爺樣があつた。橫田(ヨコタ)(今の遠野)の町さ出て來る度每に、缺けた摺鉢を買つて、頭にかぶつて歸るのが常であつた。人が爺樣はそれを何にしますと訊くと、あゝこれでがんすか、これは湯殿の屋根を葺くべと思つてと言つた。

 斯《か》うした爺樣は或夜、天から雨のやうに黃金(カネ)が降つて來る夢を見た。其翌日坪木《つぼき》を植えべと庭を掘つたら一つの壺を掘《ほり》當てた。何だべと思つて、葢《ふた》を取つて見ると、中には大判小判が一杯入つて光り輝いてゐた。けれども爺樣は、俺は昨夜天から降る寶の夢は見たが、これは土(ツチ)の中にある寶だ。さうすると俺に授かつたものではないのだと言つて、また元のやうに壺に葢をして土中に埋めて置いた。

 これを見て居た隣の父(トト)は、彼《か》の爺樣が獨言《ひとりごと》を語りながら何を掘つて居ると思つて、爺樣が立ち去つた後で、窃(ソツ)と垣根をくぐつて行つて、新しく土を返した所を掘つて見た。すると一個の壺に掘當てた。これだ彼の爺樣はこんな壺を匿して居ると思つて、葢を取つて見ると、中には見るも毒々しい靑大將がウニヨウニヨと入つて居た。隣の父は彼の爺々(ジンゴ)キレァヨマ言(コト)をして、その壺を持つて、爺樣の家の屋根の上に登つた。そして屋根を破つて、其穴から壺の蛇を、それやツこれ見ろと言つて投げ下してやつた。

 爺樣が何氣なく夕飯を食べて居ると、天窓からピカピカ光り輝く大判小判がばらばらと降つて來た。爺樣は箸を置いて、あゝこれだこれだ。これこそ昨夜見た夢の通りだ。これは天から、降つて來た寶だから、俺に授かつたものだと言つて喜んだ。そして長者になつた。

  (大正十年頃、遠野町佐々木緣子氏より御報告の五。)

  (然《しか》し此話と同樣なものは、同郡栗橋村にも、其れが某家の先祖の爺樣の行なつた事だと言ひ傳へて居ると、同村の馬喰《ばくらう》某の話であつた。)

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。最後の二つの附記は底本では全体が二字下げポイント落ち。

「小友村」現在の遠野市街外の南西の山間部、岩手県遠野市小友町(おともちょう:グーグル・マップ・データ航空写真)。

「橫田(ヨコタ)(今の遠野)の町」明治二二(一八八九)年四月一日に町村制の施行に伴い、「横田村」が単独で町制施行して西閉伊郡遠野町が発足、明治三十(一八九七)年四月一日、 郡制施行により、西閉伊郡と南閉伊郡の区域を以って、上閉伊郡が発足。上閉伊郡遠野町となっている。本書は昭和六(一九三一)年二月の発行である。なお、青笹村・綾織村・小友村・上郷村・附馬牛村・土淵村・松崎村と合併して遠野市が発足したのは、戦後の昭和二九(一九五四)年十二月一日のことである。

「坪木」自宅の「坪」庭に植える「木」のことであろう。

「彼の爺々(ジンゴ)キレァヨマ言(コト)をして」この部分が、隣りの男の心内語と思われるが、「キレァと」が判らない(「嫌(きれ)いや!」で「嫌いじゃ!」か?)。「ヨマ言をして」は「よまいごとをしよって!」で「わけの判らねえこと、しやがってからに!」であろう。前者について、識者の御教授を乞う。

「大正十年」一九二一年。

「同郡栗橋村」岩手県上閉伊郡にあった村。現在の釜石市栗林町・橋野町(南東に接して栗林町がある)に相当する(グーグル・マップ・データ航空写真)。旧村域の大部分は山間部である。

「馬喰」「博勞」に同じ。]

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