早川孝太郞「三州橫山話」 天狗の話(全) 「天狗」・「天狗におどされたといふ噺」・「天狗の火だらうと謂ふ話」・「鹿に化けてゐた天狗」・「一度に鼻を高くした獵師」・「火をつける神樣」
[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。今回はここから。]
天 狗 の 話
○天狗 天狗の事を別に守護神と謂ひます。騷々しい事を好み、金屬製のものを打ち合せるやうな音を特に喜ぶから、深山などで、夜さうした音をさせると、すぐ集まつてくると謂ひます。又、天狗に出會つた時は、何によらず汚い事をして、例へば草鞋《わらぢ》に小便をかけて冠《かぶ》つたりすると効があると謂ひます。獵師は、黃金《わうごん/きん》の丸《たま》で擊てば勝つ事が出來ると言つて、もし黃金の丸の持合《もちあは》せがない時は、黃金の丸で擊たうと、口で言つたゞけでも天狗が怖れて逃げると謂ひます。
[やぶちゃん注:天狗は私の怪奇談系の記事でも枚挙に遑がないほどに登場するのであるが、よく纏まって古文献を蒐集しているのは、柴田宵曲の「妖異博物館」の「秋葉山三尺坊」と「天狗と杣」に始まり、「天狗の爪」」 までの十章を読む(ブログ・カテゴリ「柴田宵曲」からどうぞ)にしくはあるまい。ウィキの「天狗」は、本篇の次話の出沢での怪談を引くが、ウィキの記事全体が、短文で概観を圧縮して詰め込んであるために、どの記載も底が浅く、概説を通しで軽く知るにはよいものの、私はあまり評価しない。
「金屬製のものを打ち合せるやうな音を特に喜ぶ」天狗は山中に棲み、それは山師(ここでは狭義の鉱脈を探す鉱山師)との親和性が強いことも一因としてあろうか。
「天狗に出會つた時は、何によらず汚い事をして、例へば草鞋に小便をかけて冠つたりすると効がある」「日文研」の「怪異・妖怪データベース」のこちらの多摩の採話の要約に、『てんごう』(天狗の訛りと推定される)『やオオカメ』(神使或いは妖獣としての狼の訛り)『はなかなか見えない。猟師がおてんぐもしくはおイヌ様に山であったとき、小便をするまねをすればいいという話を聞いたことがある。きたないことが嫌いなのでかくれるのだという』とあった。本来は天狗は零落した神の一種であり、山は山神を始めとする神聖な霊域でもあるから、神聖性としての潔斎を好むのは当たり前であり、その行為を特に彼らの目に理解不能で異様に見えるようにするためには、突拍子もない組み合わせで、ここにある「草鞋《わらぢ》に小便をかけて冠《かぶ》つたりする」というようなことをすると、禅問答の際の異様な対応行動と同様、天狗を怯ませる効果があるものと思うわれる。
「黃金の丸」通常の銃弾は鉛玉であるが、実際、猟師は通常の鉄玉の他に、恐らくは、こうした魔物に対処するためのものと思われるが、銀や金で出来た霊的な力を持つと考えられた弾丸をも所持していた。]
○天狗におどされたといふ噺 東鄕村出澤《すざは》の關原三作と云ふ木挽《こびき》が、二十五六年前、北設樂郡の川合《かはひ》に近い村で、仲間の者と八人で山小屋に住んで居た時、或夜、酒を二升程買つて來て、其を飮んで、有合《ありあは》せた鋸や石油の罐を敲いて拍子をとり、大亂痴氣《だいらんちき》をやつてゐると、山の上から其小屋へ向けて石を投げつけたのを手初めに、おそろしい音をたてゝ、岩を轉がしかけたり、小屋の周圍の大木を、忽ちの中《うち》に鋸で伐り倒したり、何物か小屋へ手をかけて、今にも倒れるかと思ふ程搖《ゆさ》ぶつたり、さうかと思ふと、大きな火の玉が眼の前へ飛んで來て、一氣に又遠くへ飛んで行つたりしたと謂ひます。八人の者は酒の醉《ゑひ》も醒めてしまつて、まるで生きた心地はなく、一團に抱き合つて居たさうですが、夜の明けた後に見ると、何ら變つた事はなく圍《まは》りの木なども確かに鋸で挽いて倒しかけた音を聞いたのが枝一つ落ちては居なかつたと云ふ事です。
[やぶちゃん注:「東鄕村出澤」横山の寒狹川の対岸の、現在の愛知県新城市出沢(グーグル・マップ・データ航空写真。以下、無指示は同じ)。
「二十五六年前」本書の刊行は大正一〇(一九二一)年であるから、明治二九(一八九六)年前後。
「北設樂郡の川合」愛知県北設楽郡設楽町大字川合(かわい)。横山の東北の鳳来寺を越えた先の山中で宇連川の上流。現行では地区内には人家は視認出来ない。但し、地区内に半ば倒壊した「神田小学校宇連分校跡」があり(サイド・パネルの写真参照)、嘗つては集落があったことが判る昭和四二(一九六七)年三月に閉校と「廃墟検索地図」のこちらにあった。但し、ここでは話者は「川合に近い村」と言っており、そうなると、川合の周辺となり、西の「海老町」、南西の「鳳来寺村」、南東の「三輪村」、北の「最草村」(読み不詳)等の「川合」に近い山間村町ということになろうか。「ひなたGPS」の戦前の地図をリンクさせておく。
「山の上から其小屋へ向けて石を投げつけた」「天狗の石打ち」と呼ばれる怪奇現象。
「鋸で伐り倒」す音がしながら、「夜の明けた後に見ると、何ら變つた事はなく圍りの木なども確かに鋸で挽いて倒しかけた音を聞いたのが枝一つ落ちては居なかつた」「天狗倒し」と呼ばれる同現象。前の「天狗の石打ち」と合わせて、山中では嘗ては頻繁に起こり、江戸時代の記録文献(公的事実記録を含む)や怪奇談にも頻繁に登場する。]
○天狗の火だらうと謂ふ話 橫山の早川德平と云ふ家に奉公してゐた村松留吉と云ふ男が、或朝早く起きて、草刈に出かけようとすると、時刻を間違へたのか、星が空一面に輝いてゐて、中々、夜の明ける樣子もないので、しばらく門口に立つてゐると、向ひの出澤村のフジウと云ふ山を、灯が一つグングン動いて行くのが見てゐる内、ふつと二つになつたと思ふと、自分の目を疑ふ程、次から次からと增へて行つて、しまひには、山一面の火になつたと謂ひます。するとそれが又、いつとなしに一ツになつて、今度は段々に燃え出して、盛んに燃え上るので、天狗の仕業ではないかと思つて怖ろしくなり、家へ這入《はい》つて、戶の𨻶間から覗いて居たさうですが、しばらく燃えてゐて、其中《そのうち》に何事もなく消えてしまつたと云ひました。明治が三十年頃のことです。
[やぶちゃん注:「出澤村のフジウと云ふ山」「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)には、『出沢地区に伝わる古地図』と題して、延宝年間(一六七三年~一六八一年:徳川家綱・綱吉の治世。約三百四十五年前)に描かれ、天保 一四(一八四三)年前)に描き直された地図がカラー写真で紹介されてあり、『富住は、今は一面杉林ですが、この頃』『まで)は水田と畑が拡がって、呼び名通り。豊かな土地でした』とあるので、是非、見られたい。現在の富住(ふじう)山の写真もあり、古地図の編者のキャプションとその写真から考えると、この中央附近が「フジウ」「山」ではないか? 「ひなたGPS」で見るなら、この国土地理院図の332.8ピークがそれであろうかと推察する。山の名はネットでは残念ながら掛かってこない。
「明治三十年」一八九七年。]
○鹿に化けてゐた天狗 某と云ふ獵師が、朝早く本宮山《ほんぐうさん》へ鹿を擊ちに行くと、行手の大きな岩の上に、一頭の大鹿が眠つてゐるので、早速丸込《たまご》めをして狙《ねらひ》を定めて擊つた所が、更に感じないで、鹿は相變らず眠つてゐるので、次から次と、五六發擊つても何の手答《てごたへ》もないので、不審に思つて、黃金の丸を出して擊たうとすると、其時迄眠つてゐた鹿が、ムクムクと起き上がつたと思ふと忽ち鼻の高い老人になつて、さつきからの丸はみんな此所へ置くから、どうか命は助けて吳れと言つて、掌に持つてゐた丸をみんな岩の上に置いて逃げて行つたと云ふ話を、出澤村の鈴木戶作と云ふ男から聞きました。
[やぶちゃん注:「本宮山」愛知県岡崎市・新城市・豊川市に跨る標高七百八十九メートルの山。ここ。別名を「三河富士」と称する。古来より山岳信仰の対象とされてきた山であった。]
○一度に鼻を高くした獵師 北設樂郡の三輪村三つ瀨の明神山は、非常な深山で、ふだん天狗が住んでゐると言はれてゐる所ださうですが、ある時、其近くの山で小屋を造つて仕事をしてゐた木挽達が、夜の慰みに、これから明神山を越して里へ行つて酒を買つて來るものがあれば、其酒を奢ると云つて賭《かけ》をすると、其中の一人が俺が行つて來ると云つて、仕度をして出かけたさうですが、それから段々明神山の窪《くぼ》深く這入つ行くと、向ふに獵師が七八人道の傍《かたはら》で焚火をしてゐるので、其に力を得て傍へ行くと、其中の一人が此處へ來る道で俺達の仲閒に遇はなかつたかと訊くので、更に見かけなかつたと答へると、こんな人は見なかつたかと言ひながら、其獵師達が一度に鼻を高くして顏を差出《さしだ》したので、驚ろいて其場に氣絕してしまつたのを、翌朝になつて、仲間の者が助け出したと謂ひます。
[やぶちゃん注:「北設樂郡の三輪村三つ瀨の明神山」愛知県北設楽郡東栄町本郷にある明神山。
「明神山を越して里へ行つて」地図上から判断すると、明神山を越えて行く里で、酒が買えるとなら、「ひなたGPS」の戦前の地図を見る限り、やはり、東北の東栄町しかないようである。半分以上がかなりの山道で、仮実測で、明神山の近くまである道から測ってみたが、往復で十キロはある。]
○火をつける神樣 遠州の秋葉山や奧山の半僧坊は、天狗の神樣だなどと謂ひますが、ある男が秋葉山に參詣に行く時、出かけに家内の者に、留守中火の用心をしろと言置《いひお》いて、秋葉山へ登つてお籠もりしてゐると、傍の木の上で人の話し聲がするので、何氣なく聞いてゐると、何々村の何某の家へ行つて火をつけて來いと云つてゐるのが、まさしく自分の家なので、驚いてゐると、間もなく又話し聲がして、只今行つて參りましたが、何分火の上をすつかり瀨戶物で圍んでありますので、火の放《つ》けやうがありませんと言ふので、益《ますます》驚いて、急いで歸つて來て、家へ着いて家内を起して火の用心の事を聞くと、爐《ゐろり》の殘り火の上に、摺鉢《すりばち》を冠《かぶ》せて置いたと答へたと云ふ話があります。
[やぶちゃん注:「遠州の秋葉山」何度も既出既注だが、再掲しておくと、「秋葉山」は現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家の赤石山脈の南端にある標高八百六十六メートルの山。ここ。古くより修験道の聖地とされ、山頂近くに、「火防(ひぶせ)の神」として知られる「秋葉大権現」の後身である「秋葉山本宮秋葉神社」と、神仏分離令で分かれた「秋葉山秋葉寺(あきはさんあきはじ)」がある。まさに「火伏の神」であるからして、そこの火はあらたかな神火なのである。
「奧山の半僧坊」静岡県浜松市北区引佐町奥山にある臨済宗方広寺派大本山深奥山(じんのうざん)方広寺(ほうこうじ)。「半僧坊」(はんそうぼう)は天狗の姿をした山の守り神で、この寺の奥山半僧坊大権現が起源とされる。半僧坊は現生の諸願を叶えるとされ、鎌倉建長寺にも祀られている。方広寺・建長寺・平林寺(埼玉県新座市のここにある)は三大半僧坊とされる。]
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