大手拓次 「ふかみゆく秋」
[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。
以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。
上記に従った本パートからの詩篇は、これが最後である。]
ふ か み ゆ く 秋
とほくおとなひの手をのぞかせて、
あらはにもさびしさをのべひろげる祕密の素肌(すはだ)、
あしおともかろくながれて空の虹をいろどり、
砂地のをかにもみぢする木の葉をみおくり、
ちからのないこころのとびらをあけて、
わたしは、ふかみゆく秋のねにききとれる。
[やぶちゃん注:コーダの一行は、私には、表現上、ちょっと躓く感じがある。拓次の詩想の表現選択から考えると、まず、「ききとれる」は「ききほれる」の誤字ではあるまい。しかし、「わたしは」→「ふかみゆく秋のね」→「に」→「ききとれる」というのは、意味としては、「わたし」に「は、」「ふかみゆく秋のね」→「に」=「として」→「ききとれる」の意であろうと、私はとっている。]