「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 山人外傳資料
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。今回は、ここから。
注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。]
山人外傳資料 (大正三年二月『鄕土硏究』第一卷第十二號)
植物性食物中に、久米氏は、大必要の物を逸し居る。其は菌《きのこ》類で、菌には大毒物も有ると同時に、食ふて益有る者も多い。一八五七年板「バークレイ」の「隱花植物學入門(イントロダクシヨン・ツウ・クリプトガミク・ボタニー)』三六八頁に、獨逸と露國の村民、大抵の菌類を、何の差別も無く、酢に漬《ひた》した後、食ふて中毒せぬ。「アルカリ」性の毒分が、醋酸《さくさん》で中和されて、無害となるんだ、といふ。又、米國の菌類採集大家「カーチス」は、肉類の代りに菌を專食して、何年間とか籠城し得ると見込を述《のべ》た由、クツクの「菌篇」に載せ有たと記憶す。他の植物と懸絕して、菌類は、多く、窒素分を含む事、肉に同じ。「倭姬命世紀《やまとひめのみことせいき》」伊勢神宮忌詞《いみことば》に、宍《しし》を菌《くさびら》と稱ふ、とあるは、化學分析など知らぬ世乍ら、旨《うま》く言《いつ》た物だ。古來、肉を忌んだ山僧が、種々の菌を食《くつ》たことは、「今昔物語」等に出で、支那の道士仙人が、種々、「芝《し》」と名けて、菌や菌に似た物を珍重服餌《ふくじ》した由は「抱朴子」等で知《しれ》る。紀州の柯樹林《しひじゅりん》に多く生ずる牛肉蕈は、學名フィスチェリナ・ヘパチカで、形色・芳味、丸で、上等の牛肉だから、予は屢《しばし》ば、之を食ふ。
[やぶちゃん注:「植物性食物中に、久米氏は、大必要の物を逸し居る」「選集」では、ここの最後に編者が割注して、『『郷土研究』一巻六号、久米長目「山人外伝資料」』と記す。久米長目(くめながめ)は柳田國男のペン・ネームの一つ。国立国会図書館デジタルコレクションの『定本 柳田国男集』第四巻(昭和三八(一九六三)年筑摩書房刊)のここから読める。これは、以前から何時か電子化したいと思っていた。近いうちにやろう。なお、以前から、一言、言いたかったのだが、一般人から見て、南方熊楠の最もいやらしい習癖は、他人の論考を批判的に独自に補足・反駁するに際して、原論考と同じ標題にすることが頗る多いことである。これは、元論考者に対して甚だ失礼であることは、言を俟たない。熊楠のそれは、ある種、確信犯であるから、手に負えないのだが(読者は後出しの反駁を好む。結果して、どんなに優れていても、原論考より、そちらの方が興味を引き、よく読まれる。実際、今、原論考が読まれず(物理的に一般人が気軽に読めないのは、この『郷土研究』誌では当たり前状態である)、その結果として、多くの自身の論考を侵犯されたと感じた原著者が、南方熊楠を敬遠したり、柳田國男のように絶交同前となったりしたのである(但し、これには柳田にも半ばは責任がある。熊楠は、柳田が、民譚採取の際や『郷土研究』への諸士の投稿原稿に対し、インキ臭い編集・改変を行う官学流の姿勢を指弾し、彼の民俗学上の恣意的で漂白されたアカデミックな研究方法を、書簡で鋭く批判し続けていた。それが柳田の内の熊楠に対する強い不快感となったことは疑いがないからである。この辺りについては、一九九二年河出文庫刊の中沢新一責任編集・解題『南方熊楠コレクション』Ⅴ「森の詩想」の本篇(尤も、その標題は『牛肉蕈 山人外伝資料』と改変されてある)の注の「2」(三一七~三一八ページ)が、柳田の変名(ペン・ネーム)問題も含めて、柳田國男を精神分析して小気味よい。未読の方は、是非、読まれたい)。熊楠はそうした相手の気持ちを汲み取ることが上手く出来にくい(恐らくはそういったことを対人関係に於いて大切なことと認識する必要を認めない頑固な意志もあるとは思う)、或いは、理解することに配慮が生じに難いという点で、ある種の高機能障害(異様なまでの記憶力もその属性の一つに挙げられる)に近い素質を彼は持っていたのではないか? と私は考えている。
『一八五七年板「バークレイ」の「隱花植物學入門(イントロダクシヨン・ツウ・クリプトガミク・ボタニー)』三六八頁」イギリスの聖職者にして植物学者で、植物病理学の創設者の一人とされるマイルス・ジョセフ・バークレイ(Miles Joseph Berkeley 一八〇三年~一八八九年)が一八五七年に刊行した‘Introduction to Cryptogamic Botany’(当該ウィキに拠った)。「Internet archive」のこちらで原本当該部が視認出来る。
『米國の菌類採集大家「カーチス」』アメリカの聖職者にして植物学者(広義の菌類(きんるい)の専門家)でモーゼス・アシュレー・カーティス(Moses Ashley Curtis 一八〇八年~一八七二年)。参考にした当該ウィキを見られたい。私は英文のそれも確認した。
『クツクの「菌篇」』不詳。
「倭姬命世紀」鎌倉中期の神道書。全一冊。禰宜五月麻呂が神護景雲二(七六八)年に撰したと伝えるが、偽書。度会行忠が文永七年から弘安八年(一二七〇年~一二八五年)頃に撰したものかとされる。天地開闢に始まり、皇居と神宮の分離、二十四ヶ所にもなる皇大神宮の遷幸の事などは述べられている。神道五部書の一つで、「大神宮神祇本記」の下巻に当たる(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。
「宍を菌と稱ふ」『獣類の肉を指す「宍」(しし)を忌み言葉として、漢字表記を「菌」と書き変え、更に読みも、「くさびら」(「茸(きのこ)」の古名)と言い換えて読んだ。』ということ。
『肉を忌んだ山僧が、種々の菌を食《くつ》たことは、「今昔物語」等に出で』「「今昔物語集」では、僧と茸を素材にした話は、巻第二十八に集中して、以下の四篇が載る(リンク先は「やたがらすナビ」の当該電子化物。但し、新字)。
「左大臣御讀經所僧醉茸死語第十七」(左大臣の御讀經所(みどきやうじよ)の僧、茸(たけ)に醉(ゑ)ひて死する語(こと)第十七)
「金峰山別當食毒茸不醉語第十八」(金峰山(きんぷせん)の別當、毒茸(どくたけ)を食ひて醉はざる語第十八)
「比叡山橫川僧醉茸誦經語第十九」(比叡山(ひえのやま)の橫川(よかは)僧、茸に醉誦ひて經を誦(じゆ)する語第十九)
「尼共入山食茸舞語第二十八」(尼共(あまども)、山に入りて茸を食ひて舞ふ語第廿八)
この内、最後のケースは、菌界 Fungi担子菌門ハラタケ綱ハラタケ目オキナタケ科ヒカゲタケ属ワライタケ Panaeolus papilionaceus か、名は酷似するが、近縁ではない、ハラタケ目フウセンタケ科チャツムタケ属オオワライタケ Gymnopilus junoniusによる中毒かと思われる(菌類分類学者川村清一氏は後者と比定している)。なお、先に掲げた河出文庫刊の中沢新一氏の注では、以上を一切挙げずに、巻第十二の、
「信誓阿闍梨依經力活父母語 第卅七」(信誓阿闍梨(しんぜいあじやり)經の力により父母(ぶも)を活(よみがへ)らしむ語 第三十七)
を挙げておられるが、これ、はっきり言って、場違いな例示と言わざるを得ない。そこでは、中間部で、道心堅固であるが、思い込みが強過ぎる信誓が(太字は私が附した)、『『世に久しく有らば、罪業を造りて、生死(しやうじ)に輪𢌞せむ事、疑ひ有らじ。然(さ)れば、只如(ただし)かじ、疾(と)く死にて、惡業(あくごふ)を造らじ。』と思ひて、「必ず死ぬべき毒を尋ねて、食はむ。」と爲(す)るに、初めは附子(ぶし)[やぶちゃん注:全草猛毒のキンポウゲ目キンポウゲ科 トリカブト属 Aconitum のトリカブト類の根から製した毒薬。]を食ふに、死なず。次には、「『和多利(わたり)』云ふ茸(たけ)、必ず、死ぬる物也。」と聞きて、山より取り持て來りて、蜜(ひそか)に食ひつ。其れにも、尙、死なねば、『此れ、希有の事也。我れ、毒藥を食ふと云へども、「法花經」の力(ちかr)に依りて死なぬ也。』と思ふ』ということで、全体は結構長い話乍ら、この太字部分(凡そ四十字ほど)でしか、茸(きのこ)は出てこない超チョイ役に過ぎず、熊楠の謂いとも全く合致しない。信誓は毒茸として自殺用にわざわざ探し出して服用しているのであって、食用として茸を食っているわけではないからである。因みに、この場違い話の中に出る「和多利(わたり)」の有力候補としては、ハラタケ目ホウライタケ科ツキヨタケ属ツキヨタケ Omphalotus japonicus を挙げておく。根拠は、所持する小学館『日本古典文学全集』「今昔物語集(1)」の本篇の三三九ページの頭注「一三」に、『毒キノコの一種で、形状はヒラタケに似たものらしい』とあったからである。このツキヨタケは、古くから食用とされてきた無毒のシイタケ・ムキタケ(ハラタケ目ガマノホタケ科ムキタケ属ムキタケ Sarcomyxa serotina)・ヒラタケ(ハラタケ目ヒラタケ科ヒラタケ属ヒラタケ Pleurotus ostreatus)等とよく似ているため、誤認されやすく、誤食した場合、下痢や嘔吐といった中毒症状は勿論、死亡例も報告されている高い要注意レベルの猛毒キノコとして知られているからである(詳しくは、つい先日公開した『早川孝太郞「三州橫山話」 草に絡んだこと』のこちらの、「毒茸のクマビラ」の私の注(「クマビラ」はツキヨタケの異名)を見られたい。
『「芝」と名けて、菌や菌に似た物を珍重服餌した由は「抱朴子」等で知る』同書の「内篇」の「卷十一仙藥」に、『「五芝」(ごし)なる者は、「石芝(せきし)」有り、「木芝」有り、「草芝」有り、「肉芝」有り、菌芝(きんし)有りて、各(おのおの)、百許りの種なり。』(訓読は所持する岩波文庫石島快隆訳注を参考にした)とあって、以下、五芝の内の各種の解説が続く。「中國哲學書電子化計劃」の影印本のこちらの最後から、総て、視認出来る。試みに「肉芝」の箇所(六行目)の冒頭を見ると、
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肉芝とは、萬歲(ばんさい)の蟾蜍(ひきがへる)を謂ふ。頭上に、角、有り、頜(あご)の下に、「八」字を再重(さいぢゆう)せる[やぶちゃん注:石島氏の注にようれば、「八」の字を「八八」とダブらせて書くこと言うらしい。文字の咒字法であろう。]を丹書(たんしよ)せる有り。五月五日の中時(ちゆうじ)を以つて、之れを取り、陰乾(かげぼし)すること、百日、其の左足を以つて、地に畫(ゑが)けば、卽ち、流水を爲(な)し、其の左手を身に帶ぶれば、五兵(ごへい)を辟(さ)け、若(も)し、敵人(てきじん)の己(おのれ)を射る者あれば、弓弩(きゆうど)の矢は、皆、反(かへ)つて、自(みづか)らに還り向ふなり。
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とあって、以下、「千歲の蝙蝠(かうもり)」・「千歲の靈龜」(ここには「山中を行くに、小人の車馬に乘れる、長(たけ)、七、八寸の者を見(み)ば、「肉芝」なり。捉へて取り、之れを服(ぶく)さば、卽ち、仙となれり。」というキノコっぽい対象の叙述がある)・「風生獸」(貂に似た獣とある)・「千歲の鷰(つばめ)」を挙げた最後に「凡そ、此れ又、百二十種あり、此れ皆、『肉芝』なり。」とぶち上げてある。
「柯」ブナ目ブナ科シイ属 Castanopsis の樹木、或いは、近縁のブナ科マテバシイ属マテバシイ Lithocarpus edulis かも知れぬ。
「牛肉蕈は、學名フィスチェリナ・ヘパチカ」これはハラタケ目カンゾウタケ科カンゾウタケ属カンゾウタケ Fistulina hepatica 。「肝臓茸」。当該ウィキによれば、『全世界に広く分布し、欧米では広く食用にされている。アメリカなどでは"Beefsteak Fungus"・「貧者のビーフステーキ」、フランスでは「牛の舌」(Langue de boeuf)と呼ばれている』。『梅雨期と秋に、スダジイ、マテバシイなど(欧米ではオークや栗の木、オーストラリアではユーカリ)の根元に生え、褐色腐朽を引き起こす。傘は舌状から扇型で、表面は微細な粒状で色は赤く、肝臓のように見える。裏はスポンジ状の管孔が密生し、この内面に胞子を形成する。他のヒダナシタケ類と異なり、この管孔はチューブ状に一本ずつ分離している』。『カンゾウタケ科』Fistulinaceae『に属するキノコは、世界中で数種類しかない小規模なグループを形成している。現在、カンゾウタケ属は本種を含む』八『種が命名されている』。『肉は、霜降り肉のような独特の色合いを呈している』上、『赤い液汁を含み、英名の』『通りである。生では』、『わずかに酸味があるが、管孔を取った上で、生のまま、または』、『ゆでて刺身や味噌汁にしたり、炒めて食べたりする』とあった。私は食したことはなく、見たこともない。YouTubeのUK Wildcrafts氏の「Beefsteak fungus(Fistulina hepatica)」の動画を見られたい。これは、確かに、そんな感じだ!]
山人の動物食も、鳥獸魚介に限らず、今日の市邑《しいう》に住む人々の思ひも付《つか》かぬ物をも多く食たに相違無い。支那のは知《しら》ぬが、本邦の山男が食ふ蟹は、紀州で「姬蟹」と云ふ物だらう。全身、漆赭褐色《しつしやかつしよく》、光澤有り、步行、緩漫で、至つて捕へ易い。山中の狸抔、專ら、之を食ふ。甲斐で「石蟹」と呼《よん》で、今も蒲鉾にし、客に食はす處ある由、聞《きい》た。赤蛙は、今も紀州抔で疳藥《かんのくすり》とて小兒に食はす。國樔人《くずびと》が蝦蟇《がま》を食《くふ》たと「日本紀」に見え、又、諏訪明神に供へた由、『鄕土硏究』一卷三號一六三頁に引《ひい》た。蝸牛《かたつむり》や天牛《かみきりむし》、其他多くの蟲の仔蟲《ラールヴア[やぶちゃん注:「選集」に従った。]》も疳藥抔、稱へ、小兒に食《くは》すのは、ずつと前に蟲類を常食とした遺風だらう。現に、予の宅の下女は、木を割《わつ》て天牛の仔蟲を見出だす每に、必ず、食ひ、「旨い。」と言ふ。「カリフォルニア」の某民族は、以前、蚯蚓を常食とし(一昨年頃の『ネーチュール』で讀んだ)、「ハムボルト」は「ヴェネジュラ」國で、「チャイマ」族の小兒が、自ら、十八吋《インチ》[やぶちゃん注:四十六センチメートル弱。]、長き蜈蚣《むかで》を、土から引出《ひきだ》して食ふを見たと云ふ(ボーン文庫本、「囘歸線内墨洲紀行(トラベルズ・ツー・エクノチカル・レヂオン・オブ・アネリカ)」卷三、頁一五七)、白蟻《はあり[やぶちゃん注:「選集」のルビに従った。]》や蜂の子は美味なる故、本邦にも食ふ人、今も有り。「荀子」に、耀ㇾ蟬者、務在下明二其火一、振二其樹一而已上。火不ㇾ明、雖ㇾ振其ㇾ樹、無益也。〔耀蟬(えうせん)は、務めて、其の火を明るくし、其の樹を振(ふるひうご)かすにのみ、在り。火、明らかならざれば、振かすと雖も、益、無し。〕。今年、旱魃で、蟬の羽化を催《はや》め、予の此の室抔に、燈火を望んで、蟬、飛入《とびい》る事、夥《おびただ》し。「耀蟬」とは、『火光で、蟬を招集すること。』と分つたが、何の爲に、夜分、蟬を採《とつ》たか、分らなんだ處、十五年斗り前、「ケムブリヂ」大學から、暹羅《シャム》と支那の國境へ學術調査に往《いつ》て還つた人に聞《きい》たは、「彼地では。樹下に燎《かがりび》を焚き、人々、集まりて、手を扣《たた》くと、蟬が、多く來るを、捕へ、食料とする。」と。是で、荀子が住んだ南支那でも、當時、蟬を食料の爲め、採たと分つた。だから、日本の山人は、無論、蟬抔をも食《くつ》たゞらう。
[やぶちゃん注:『紀州で「姬蟹」』「全身、漆赭褐色、光澤有り、步行、緩漫で、至つて捕へ易い。山中の狸抔專ら之を食ふ」『甲斐で「石蟹」』「甲斐」ときては、もう、軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目カニ下目サワガニ上科サワガニ科サワガニ属サワガニ Geothelphusa dehaani しかあり得ない。ただ、以下の『甲斐で「石蟹」と呼《よん》で、今も蒲鉾にし、客に食はす處ある』とあるのは、不審。蟹をどうやったら、蒲鉾に出来るのか? サワガニの個体を、多数、擂鉢で徹底的に摺り潰して、何か繋ぎになるものを入れて作ったものか? 甲州の方、ご存知ならば、御教授あられたい。
「赤蛙」日本固有種の無尾目 Neobatrachia 亜目アカガエル科アカガエル属アカガエル亜属ヤマアカガエル Rana ornativentris である。但し、古くは、日本固有種の平地に棲息する近縁種で嘗ては普通に見た(近年はヤマアカガエルよりも有意に減少した)ニホンアカガエル Rana japonica も同様に食用にしたから、並置する必要がある。それぞれは、ウィキの「ヤマアカガエル」、及び、ウィキの「ニホンアカガエル」を見られたいが、カエル類の総論である私の「大和本草卷十四 陸蟲 蝦蟆(がま/かへる) (カエル類)」がとりあえずあるものの、博物誌的には「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蝦蟇(かへる)」及び「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蛙(あまがえる)」の方が参考になろう。なお、アカガエルの食味については、私の高校時代の尊敬していた生物の先生は「アカガエルは鶏肉のようにヒジョーに美味い!」としばしば仰っていた。私はニホンアカガエルを食ったことは今までない。ヒジョーに残念である。
『國樔人《くずびと》が蝦蟇《がま》を食《くふ》たと「日本紀」に見え』「國樔人」とは吉野山や常陸の茨城郡(いばらきのこおり)にいた先住民の名。ウィキの「国栖」によれば、『国栖(くず、くにす)とは大和国吉野郡、常陸国茨城郡に居住したといわれる住民である。国巣、国樔とも書く』。「古事記」の『神武天皇の段には、国神イワオシワクノコを「吉野国巣之祖」とする。また』、「日本書紀」の『応神天皇』十九『年の条によれば、応神天皇が吉野宮へ行幸したときに国樔人が来朝し、醴酒(こざけ)を献じて歌を歌ったと伝える。同条では』、『人となり』、『淳朴で』、『山の菓』(このみ)『やカエル』(☜)『を食べたという。交通不便のため』、『古俗を残し、大和朝廷から珍しがられた。その後』、『国栖は栗・年魚(あゆ)などの産物を御贄(みにえ)に貢進し』、『風俗歌を奉仕したようで』、「延喜式」では『宮廷の諸節会や大嘗祭において吉野国栖が御贄を献じ歌笛を奏することが例とされている』。「常陸国風土記」には、『同国の国巣は「つちくも」「やつかはぎ」とも称したとあ』り、『―、名は寸津毘古(きつひこ)、寸津毘賣(きつひめ)』と記されてある、とある。記紀の神武天皇の伝説中に、「石押分」(磐排別:いわおしわけ)の子を「吉野国巣の祖」と注しているのが、文献上の初見とされる。なお、ここで、国立国会図書館デジタルコレクションの岩波文庫の黒板勝美編「日本書紀 訓読 中巻」(昭和六(一九三一)年刊)の当該部をリンクさせておくが、彼らが食べたのは、黒板氏は「かへる」と訓読している。『蝦蟆』は確かに「ひきがへる」「がまがへる」とも読めるが、私は上代において、現在の種としてのヒキガエルやガマガエルをこの二字で特定していたとは、全く思われないのである。「蝦蟇《がま》」の読みは、私の判断ではなく、「選集」に振られたものを使用したに過ぎないことを特に注意書きしておく。私は、彼らが食ったのは通常の蛙であると考えている。
「諏訪明神に供へた由、『鄕土硏究』一卷三號一六三頁に引《ひい》た」「選集」に編者割注で、『「郷土研究第一巻第二号を読む」』を指す旨の記載がある。同論考は既に電子化注済み。その冒頭に、「諏訪大明神繪詞」の『其卷下に、『正月一日、祝《はふり》以下の神官・氏人、數百人、荒玉社若宮寶前を拜し、偖《さて》、御手洗河《みたらしがは》に歸りて、漁獵の義を表《あらは》す。七尺の淸瀧の冰《こほり》閉《とぢ》て、一機《ひとはた》の白布、地に布《し》けり。雅樂數輩、斧鉞《ふゑつ》をもて切り碎けば、蝦蟇《がま》、五つ六つ、出現す。每年、不闕《かかざる》の奇特なり。壇上の蛙石《かへるいし》と申す事も故あることにや。神使六人、赤衣きて、小弓・小矢を以て是を射取《いとり》て、各《おのおの》串にさして捧げ持《もち》て、生贄《いけんいへ》の初とす』あるのを指す。
「蝸牛」所謂、広義の「かたつむり」。軟体動物門貝殻亜門腹足綱Gastropoda の有肺類 Pulmonata の内、殻が無い物及び錐型や円筒状に細長くない種群を言う場合が多い。
「天牛」昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目ハムシ(葉虫)上科カミキリムシ科 Cerambycidae の広義のカミキリムシ類。ウィキの「カミキリムシ」によれば、『大型種の幼虫は世界各地で食用にされ、蛋白源の一つにもなっている。日本でも、燃焼中の薪の中にひそむカミキリムシの幼虫は』、『焼き上がると』、『破裂音を立てるので、その音がすると』、『火箸などで薪から取り出されて食されていた。「テッポウムシ」の名は、破裂音を銃声にたとえたとも、食害により銃弾が撃ち込まれたかのような穴を開けるからとも言われる』とあった。私は、生理的にダメで、さわることも出来ない。私は昆虫は総じて苦手である。海産生物はウミケムシでも大丈夫なのだが。おかしなもんだ。
「仔蟲《ラールヴア[やぶちゃん注:「選集」に従った。]》」‘larva’(ラールヴァ)は英語で「昆虫等の幼虫」或いはもっと広く「変態する動物の幼生」(カエルのオタマジャクシ・水棲無脊椎動物の幼生プランクトンなど、孵化したばかりの、成体と全く形が異なる子どもを指す)、また「魚類の幼生体」をも指す。
「ハムボルト」『(ボーン文庫本、「囘歸線内墨洲紀行(トラベルズ・ツー・エクノチカル・レヂオン・オブ・アネリカ)」卷三、頁一五七)』プロイセンの博物学者・探検家・地理学者として知られるフリードリヒ・ハインリヒ・アレクサンダー・フォン・フンボルト(Friedrich Heinrich Alexander, Freiherr von Humboldt 一七六九年~一八五九年)の英訳の‘Personal narrative of travels to the equinoctial regions of the New continent during the years 1799-1804’(「一七九九年から一八〇四年の新大陸赤道地域への旅行の私的な物語」)か?
『「チャイマ」族』英語で“Chaima”。ベネズエラに住むカリブ族の一部族。
「白蟻《はあり[やぶちゃん注:「選集」のルビに従った。]》」羽蟻。昆虫綱膜翅(ハチ)目ハチ亜目有剣下目アリ上科アリ科 Formicidaeの昆虫で、羽を持った個体の名称。普通アリの♀(女王)と♂には羽があり、生殖時期に、一斉に巣から飛び立ち、所謂、結婚飛行を行う。アリ科フタフシアリ亜科シリアゲアリ属キイロシリアゲアリ Crematogaster osakensis や、アル科ヤマアリ亜科ケアリ属ケアリ亜属ハヤシトビイロケアリ Lasius japonicus など、日没前後に飛び立つ種類では、羽アリの大群が灯火に飛んでくることがある。また、昆虫綱網翅上目ゴキブリ目シロアリ下目 Isopteraのシロアリ類の生殖虫も「羽アリ」と呼ばれ、五月頃に巣から飛び立つ(以上は小学館「日本大百科全書」を主文にしつつ、アリの学術的サイト等を参考に附記を加えた)。
「蜂の子」私はいろいろな電子化注で注をしているので、ここのところ、これに注を附していないが、そうさ、私の「想山著聞奇集 卷の五 にち蜂の酒、幷へぼ蜂の飯の事 附、蜂起の事」の本文及び私の注を参照されるのがよかろう。挿絵もある。
「荀子」は「中國哲學書電子化計劃」の影印本で校合した(二行目五字目以降)が、複数の脱字があったため、推定で返り点も増やした。特に「若」以下は、引用より後にあるの似た文を、熊楠は、誤って拾ったものと断じ、完全に整序した。これは、「致士篇第十四」の「四」の一節で、所持する岩波文庫の金谷治訳注(昭和三六(一九五一)年刊)によれば、『君主は明徳にして賢者を招くべし』という喩えとして出る。金谷氏は注で、『楊注にいう、南方の人は蟬を照』(てら)『し、取ってこれを食べたと』とある。
「暹羅《シャム》」タイ王国の旧名。]
以上の諸例、山男よりはずつと滿足な諸民すら、隨分、變な物を食ふを見て、昔し、本邦に密林多く、市邑人が入込《はいり》む事、稀だつた時代に、半人半獸の山男・山婆の食料は、十分、豐饒だつたと知るべし。序でに述ぶ。「酉陽雜俎續集」十に、李衞公、一夕、甘子園會ㇾ客、盤中有二猴慄一。〔李衞公、一夕(いつせき)、甘子園に客を會(くわい)す。盤中に、猴栗(こうりつ)、有り。味、無し。〕『鄕土硏究』一卷六號三五二頁に出た天狗の栗と似て居る。
[やぶちゃん注:「『鄕土硏究』一卷六號」は「選集」を参考に正字化して挿入した。
「酉陽雜俎續集」の引用は「中國哲學書電子化計劃」の電子化物で校合した。但し、これには以下の続きがある。
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陳堅處士云、「虔州南有漸栗、形如素核。」。(陳堅處士、云はく、「虔州(けんしう)の南に、『漸栗(ぜんんりつ)』有り、形、素核(そかく)のごとし。」と。)
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この「李衞公」は晩唐の政治家李徳裕(七八七年~八五〇年)。当代屈指の名門趙郡李氏の出身。憲宗朝の宰相であった李吉甫の子。晩年に武宗の治世に宰相となったが、後に宣宗が即すると、政敵の企みによって左遷させられ、そのまま没した。因みに、彼はかの白楽天とともに唐代の造園大家として知られる人物でもある。「猴栗」は本邦ではブナ目ブナ科クリ属クリ Castanea crenata の自生種を指すが、中国のそれは違う。種不詳。「漸栗」「素核」も不詳。所持する東洋文庫にも一切注がないので、お手上げ。
「『鄕土硏究』一卷六號三五二頁に出た天狗の栗と似て居る」前出の久米長目(柳田國男)の『郷土研究』一巻六号に載った「山人外伝資料」の一節。久米長目(くめながめ)は柳田國男のペン・ネームの一つ。国立国会図書館デジタルコレクションの『定本 柳田国男集』第四巻(昭和三八(一九六三)年筑摩書房刊)のこの左ページの最終行からが、当該部である。送信サービスを受けられない方のために、前段の一部と、当該引用全部と、後段の一部を電子化しておく。一部に推定で歴史的仮名遣で《 》で読みを附した。
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[やぶちゃん注:前略。]野生植物の食用に適する物は年中殆と[やぶちゃん注:ママ。柳田の書き癖。]間斷がない。實が盡きると根が肥える。春より夏にかけては色々の嫩芽《わかば》が出る。次から次へ食べて行かれる。殊に樹果には人をして山を愛せしむるに足るものがある。今昔物語の猿などは、山に入つて栗柿梨子栢(かや)榛(はしばみ)郁子(むべ)山女(あけび)などを採來《とりきた》つて僧に供養したとある。梨子なども山中の休場《やすみば》に大木があつて旅人の食ふに任せてある者が今でもある。殊に栗などはあまり多くして貪《むさぼ》つて取つて來ることも出來ぬのは、一寸平野の人には想像のならぬ所である上に、時としては早く山人に占領せられ居る樹があつた。
[やぶちゃん注:「栢(かや)」榧。裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera 。種子が食用となることは、既に「野生食用果實」の注で述べた。
「榛(はしばみ)」ブナ目カバノキ科ハシバミ属ハシバミ変種ハシバミCorylus heterophylla var. thunbergii 。ハシバミの実が食用になることも、同前参照。
「郁子(むべ)」「野木瓜」とも書く。アケビ科ムベ属ムベ Stauntonia hexaphylla 。同前参照。
「山女(あけび)」「木通」に同じ。キンポウゲ目アケビ科アケビ属アケビ Akebia quinata 。同前参照。
以下の段落(全引用)は、底本では全体が一字下げである。前後を一行空けておいた。]
伊那郡(信濃)と筑摩郡との境に、南小野より諏訪へ越ゆる少しの峠あり。三分(みわけ)村の峠なれば之を三分峠と云ふ。峠の下に天狗の林と云ふあり。小さき林なれど一本も餘の木は無く、すべて皆栗の木なり、此栗枝垂れて柳か絲櫻の如く、實のある時には其枝地を掃くばかりなれど、是《これ》天狗の粟なりとて之を打落《うちおと》す者なく、唯《ただ》地に落ちたるを拾ふなり。實は至つて小さく何にもならねば取る人も無しと謂へり。(千曲之眞砂《ちくまのまさご》附錄)
山越《やまごえ》の者が此木を採らぬやうになつたのは、多分何度も石を打附《うちつ》けられるとか劫《おびや》かされるとかした經驗に由るので、何にもならぬと云ふのは危險を犯すだけの價値が無いと云ふ迄であらう。而して栗を食ふ天狗とは則ち山男のことに相違ない。[やぶちゃん注:後略。]
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引用書「千曲之眞砂」は江戸中期の郷土史家で俳人の瀬下敬忠(せじものぶただ)が宝暦三(一七五三)年に完稿した信濃国の地誌。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本の『信濃史料叢書』上巻のこちらで、「(附錄)國中怪異奇談」の末の「二三、南野村天狗森枝垂栗の事」として、視認出来る。この「南小野より諏訪へ越ゆる」「三分峠」というのは、現認出来ないが、この謂いから推理すると、「ひなたGPS」のこの附近にある峠のように私には判断された。]
五、六年前の『大阪每日』紙に、大臺原山《おほだいがはらやま》の狼は、時々、海に赴き、游《およ》ぐ、と有た。田邊近い、朝來《あつそ》村大字岩崎の古傳說に、狼や野猪《ゐのしし》は、年に一度大晦日の夜、遙々《はるばる》、海濱に出て來て、潮《しほ》に浴す、と云ふ。嘗て『ネーチュール』で、米國の廣原の獅牛《バイソン》は、時々、鹽泉《えんせん》を訪ねて數百哩《マイル》を走る、と有るを見た。西伯利《シベリア》で、平素、人嫌ひする馴鹿《となかい》も、人の小便を舐《なめ》たさに、人近く、馳せ來《きた》る、全く尿中の鹽を望む也、と云ふ(アドルフ・エルマン「世界周遊記《ライセ・ウム・ヂエ・エルデ》』一八三三年ベルリン板、卷一、六九七頁)。印度の「トダ」人は、古來、鹽を食はず。然《しか》るに、畜養する水牛に、年に、五度、鹽水を飮《のま》せ、乳多く生ずと信じ、之を飮《のま》すに、日を撰び、式を行《おこな》ふ(リヴァースの「ゼ・トダス」一九〇六年板、一七五及七二二頁)。斯く鹽を必要とする哺乳動物、多きと同時に、猴《さる》・蝙蝠《かうもり》抔、鹽を好む事を、予、未だ聞《きか》ず。食鹽、必ずしも、人に不可缺に非《あらざ》るにや。「和漢三才圖會」卷百五に、按有ㇾ僧永斷二五穀及鹽一、而無病長壽也〔按ずるに、僧、有り、永(ひたぶ)るに、五穀及び鹽を斷つて、而(しか)も無病長壽なり〕云々。安南のトラオ人は、鹽、無く、竹の灰もて、代用して、飯に、味、付く(西貢《サイゴン》刊行、『佛領交趾《かうし》支那旅行遊覽誌』一八八一年正月號、三〇頁)。曾て、印度で、生まれて直ちに、狼に養《やしなは》れ、成育した男兒を捕へしに、全身、短毛、密生したるが、鹽食ふに隨ひ、脫《ぬ》け了《おは》りぬ(一八八○年板、ボール「印度之藪生活《ジヤングル・ライフ・イン・インジア》』四六四頁)。
[やぶちゃん注:「大臺原山」現在の三重県多気郡大台町(おおだいちょう)大杉(グーグル・マップ・データ航空写真)。
「狼」この記事は大正三(一九一二)年二月発表だが、その「五、六年前」は……最後の確実なニホンオオカミのそれは……明治三八(一九〇五)年一月二十三日に現在の東吉野村鷲家口(わしかぐち)で捕獲された♂である。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。如何にも皮肉な報道という気がする。
「田邊」底本「由邊」。誤植。「選集」で訂した。
「安來村」現在の和歌山県西牟婁郡上富田町(かみとんだちょう)朝来(あつそ:グーグル・マップ・データ)。田辺の南西方直近。
「狼や野猪」底本「猪や野猪」。誤植と断じ、「選集」で訂した。「野猪」の読みは「選集」を参考にした。
「『ネーチュール』」南方熊楠御用達のイギリスのロンドンを拠点に設立された国際的な週刊科学ジャーナル‘Nature’。
「獅牛《バイソン》」哺乳綱獣亜綱鯨偶蹄(ウシ)目反芻亜目ウシ科ウシ亜科バイソン属アメリカバイソン Bison bison 。
「數百哩」百マイルは約百六十一キロメートルであるから、六掛けで、九百六十六キロメートル前後。
「馴鹿《となかい》」反芻亜目シカ科オジロジカ亜科トナカイ属トナカイ Rangifer tarandus 。和名トナカイは、アイヌ語での同種への呼称である「トゥナカイ」又は「トゥナッカイ」に由来する。トナカイは樺太の北部域に棲息(現在)しているものの、アイヌの民が本種を見知ることは少なかったかと思われ、このアイヌ語も、より北方の極東民族の言語からの外来語と考えられてはいる。
『アドルフ・エルマン「世界周遊記《ライセ・ウム・ヂエ・エルデ》』一八三三年ベルリン板」ドイツの物理学者・地球科学者ゲオルク・アドルフ・エルマン(Georg Adolf Erman 一八〇六年~一八七七年)‘Reise um die Erde,’ Band I, S, 710(Berlin,1833)」ドイツの物理学者・地球科学者ゲオルク・アドルフ・エルマン(Georg Adolf Erman 一八〇六年~一八七七年:当該ウィキによれば、一八二八年から一八三〇年に『かけて、彼は自ら費用を負担して探検旅行を敢行したが、その主たる目的は、可能な限り詳細な地磁気のメッシュ分布を捉えることにあった。探険の前半には、ノルウェーの天文学者クリストフェル・ハンステーンが同行し、イルクーツクまで到達した。そこから先は、単独でシベリア、北アジアを横断し、オビ川の河口部からカムチャツカ半島に至った。そこから、当時のロシア領アメリカ(後のアラスカ州)へ渡った。彼はさらに、カリフォルニア、タヒチ島、ホーン岬を経て、リオデジャネイロヘ至』り、『そこから、サンクトペテルブルクを経由して、ベルリンに帰還した』。『この遠征旅行を踏まえて、彼は全』七『巻から成る』‘Reise um die Welt durch Nordasien und die beiden Oceane’(「北アジアと二つの大洋を越えた世界旅行」)を『著し、歴史篇』五『巻が』一八三三年から一八四二年に『かけて、物理学篇』二『巻と地図帳が』一八三五年から一八四一年に『かけて、ベルリンで出版された。これによって』、一九四四年にはイギリスの』「王立地理学会」から金メダル(パトロンズ・メダル)を授与された』とある。
『印度の「トダ」人』インドのタミル・ナードゥ州にあるニールギリ丘陵(グーグル・マップ・データ)に居住する少数民族トダ族。
「水牛」ウシ亜科アジアスイギュウ属スイギュウ(アジアスイギュウ)Bubalus bubalis 。
『リヴァースの「ゼ・トダス」一九〇六年板、一七五及七二二頁』イギリスの人類学者・民族学者・神経内科及び精神科医であったウィリアム・ホールス(ハルセ)・リヴァース(William Halse Rivers 一八六四年~一九二二年)が書いたトダ族の民族誌‘The Todas’ 。彼は一九〇一年から二〇〇二年にかけて六ヶ月ほど、トダ族と交流し、彼らの儀式的社会的生活に関する驚くべき事実を調べ上げ、本書はインド民族誌の中でも傑出したものと評価され、専門家からも人類学的な「フィールド・ワークの守護聖人」と称讃された(英文の彼のウィキに拠った)。Internet archiveで原本が読め、ここが「175」ページで、ここが「722」ページだが、前者は“GIVING SALT TO BUFFALOES”という章で判るが、後者はちょっと塩のことは書いてない。ページ数の誤りが疑われる。
「人に不可缺に非《あらざ》るにや」近年、ヒトに対する塩(塩化ナトリウム)の毒性が警告されている。つまり、サイト「塩ナビ」の医師谷田部淳一氏の監修になる「食塩の致死量」には、『体重60kgのヒトの場合、30~300gの塩を一度に摂取すると死に至るおそれがあるということです。脳や様々な臓器に影響を与える中毒量はもっと少なく、体重1㎏あたり0.5~1gのため、体重60㎏の人では、30g~60gの摂取で深刻な問題をきたします』とあった。
『「和漢三才圖會」卷百五に、按有ㇾ僧永斷二五穀及鹽一、而無病長壽也〔按ずるに、僧、有り、永(ひたぶ)るに、五穀及び鹽を斷つて、而(しか)も無病長壽なり〕』これは同巻(最終巻)の「造釀類」の「鹽(しほ)」の項の、附録項「斷鹽(しほたち)」の一節。所持する原本で校合確認した。但し、末尾に『唯過食人不存』(唯(ただし)、過食の人は存(なから)へず)としっかりあるのを、まさにちゃんと添えるべきであったと思いますよ、南方先生。先生自体が塩の絶対不可欠性を疑問視されておられるのであればこそ、です。
「安南のトラオ人」「安南」は現在のベトナム北部から中部を指す歴史的地域名称だが、「トラオ」族というのは、ネット上には見当たらないので不詳。但し、ちょっと気になったのは、ベトナム北部に「トアンザオ」という地域(郡。中国とラオスと国境を接する山岳地帯に位置する)には、少数民族が住んでいることであった。発音が似ているように感じた。
「西貢《サイゴン》刊行、『佛領交趾《かうし》支那旅行遊覽誌』一八八一年正月號」不詳。
三〇頁)。曾て、印度で、生まれて直ちに、狼に養《やしなは》れ、成育した男兒を捕へしに、全身、短毛、密生したるが、鹽食ふに隨ひ、脫《ぬ》け了《おは》りぬ
『一八八○年板、ボール「印度之藪生活《ジヤングル・ライフ・イン・インジア》』四六四頁)」アイルランドの 地質学者ヴァレンチン・ボール(Valentine Ball 一八四三年~一八九五年)が一八八〇年にロンドンで刊行した ‘Jungle life in India’。「Internet archive」のこちらで原本の当該部が視認でき、確かに、保護後、塩を食べるようになると、全身に生えていた毛が抜けたと記されてある。因みに、次の「465」ページの末尾には、『オオカミに育てられた少女の記録はないと思われる。』とあった。かの、僕らの幼少の頃の「アマラとカマラ」の奇談として知られるそれは、本書が出てから、四十年後の一九二〇年にインドで発見されたとされる狼に狼に育てられたとされた二人の孤児の少女の事件である。私は、幼少期から、彼女たちの話は作られたものだと思っていた。ウィキの「アマラとカマラ」にも、『多くの科学者や研究者が』、『この事例の真実性には数多くの矛盾点があると指摘しており』、この『話は信憑性がないとされている』とあり、『後の研究で』、『孤児院のための金銭確保を目的に』報告者らが『口裏を合わせていたことが判明している』とし、『フランスの外科医、セルジュ・アロール(Serge Aroles)によると、「アマラとカマラ」は野性児の考察においての最もスキャンダラスな詐欺事件であるとしている』とし、『アマラはレット症候群』(Rett syndrome:略称「RTT」。殆どが女児に発症する進行性神経疾患で、知能や言語・運動能力が遅れ、手足が小さく、常に手を揉むような動作や、手を叩いたり、手を口に入れたりするなどの動作を繰り返すことを特徴とする)『に冒された精神障害者だった』とあった。それにしても、私は、その頃、雑誌や本で見た二人の少女の写真が可哀そうでならなかったし、今も、そうである。グーグル画像検索「Amala and Kamala」をリンクさせておく。]
「大英百科全書」十一板、二四卷、九〇頁に云《いか》く、『最初、食鹽、全く手に入らなんだ人間は、世界諸部に、屹度、多かつたらう。例へば、「オデッセイ」の詩篇に、内地(エピルスの?)人、全く食鹽を知《しら》ぬ者を載せた。亞米利加や亞細亞の或部に、歐人が初《はじめ》て輸入した時まで、鹽、無かつた民がある。今も中央亞非利加《アフリカ》には、富人のみ、鹽を用うる所、若干有り。凡て、專ら、乳を飮み、肉を生《なま》若《もし》くは炙り食へば、鹽分を失はぬから、別に食鹽を加ふるを、要せず。昔しの「ヌミヂア」の遊牧民や、今日、「ハドラムト」の「ベドウィン」人が、每《いつ》も、鹽、無しに、食事して、生居《いきを》るは、此譯故《このわけゆゑ》なり。之に反し、穀食、菜食、又、煮た肉を食ふには、鹽が必須と來る。』と有《あつ》て、夫《それ》より、含鹽植物(吾國の藻鹽草《もしほぐさ》如き)の灰抔より、食鹽を採《とつ》た事を述べ、古え[やぶちゃん注:ママ。]、鹽を「神賜《かみのたまもの》」と貴び、之を爭ふて戰鬪した事に及び、宗敎上、鹽に種々の靈驗を附した事から、商賣路の、最も早く開けたのは、鹽を運ぶ路だつたらう、と論じ居る。現代に於ては、「エクワドル」國の東部では、基督敎に化せる土人のみ、鹽を用ひ、他は之を知《しら》ず(英譯、ラッツェル「人類史」一八九七年板、卷二、頁七五)。
[やぶちゃん注:「大英百科全書」南方熊楠御用達の‘Encyclopædia Britannica’。「Internet archive」のこちらで、原本の当該箇所が視認出来る。“SALTA”(塩)の項の、‘Ancient History and Religious Symbolism’(塩の「古代史と宗教的象徴性」)の条である。
「(エピルスの?)」上記の原文で“(in Epirus?)”となっている。イピロスとも。紀前三世紀に王国として栄えたイオニア海の古代の地域。ウィキの「イピロス」には、『ギリシャ共和国の広域自治体であるペリフェリア(地方)のひとつ。歴史的な地名としては、現在のギリシャとアルバニアにまたがるイオニア海沿岸の地域を指す』とある。地域は、そちらにある複数の地図を見られたい。
『「ハドラムト」の「ベドウィン」人』前掲の原書に“the Bedouins of Hadramut”とある。“Hadramut”(ハドラマウト)は南アラビアの一地域で、現在はイエメン共和国領となっている。歴史的には西側のシャブワ県、東側のアル=マフラ県や、現在はオマーン領のズファール特別行政区(ズファール地方)も含む地域を指していた、と当該ウィキにあった。『「ベドウィン」人』は、元来は「砂漠の住人」を指す一般名詞で、通常はアラブの遊牧民族を指して言う。詳しくは当該ウィキを参照されたい。
「藻鹽草」藻塩(もしお)を採るために使う複数の海草及び海藻。掻き集めて潮水(しおみず)をさらに注ぎかけて乾燥させたり、燃やしたりして採取する。代表的な種は、「モシオグサ」の異名を持つ、「海草」である単子葉植物綱オモダカ目アマモ科アマモ属アマモ Zostera marina があるが、現行、「藻塩」と名乗っているもののそれは、「海藻」である褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ホンダワラ Sargassum fulvellum が一般的であろう。
『英譯、ラッツェル「人類史」一八九七年板、卷二、頁七五』ドイツの地理学者・生物学者リードリヒ・ラッツェル(Friedrich Ratzel 一八四四年~一九〇四年:社会的ダーウィニズムの影響の強い思想を特徴とし、政治地理学の祖とされる)の英訳本。「Internet archive」の英訳原本のこちらが当該部。]
上に引《ひい》たハムボルトの「紀行」卷二、頁三六五に、種々の植物から不純の食鹽を採る法を載せ、「オリノコ」流域の土人が、「チヴヰ」とて、鹽酸加里《カリ》、鹽酸曹達《ソーダ》、水酸化石灰、其他、諸土類、鹽の混じたる物を、水に溶《とか》し、葉で濾し、食物に溶し、掛《かけ》て食ふ、と有る。思ふに、吾國の山人も、斯《かか》る混淆物の天產有る地には、之を用ひたるべく、又、鹽麩子(ふしのきのみ[やぶちゃん注:三字へのルビ。])が被《かぶ》れる鹽味の霜粉《しもこ》抔を用ひただらうが、專ら、動物を生食した輩《やから》には、全く鹽を用いなんだのも有ただらう。橘南谿の「西遊記」三[やぶちゃん注:「五」の誤り。]に、薩州の山童《やまわろ》、寺へ、食物、盜みに來《きた》れど、鹽氣有る物を、甚だ嫌ふ、と出づ。〔(補)(大正十五年九月記)(ボムパスの「サンタル・ペルガナス俚譚」三〇九頁に、冥途より、人の子の命を、とりにきた使ひが、其母に、鹽の付《つい》た飯を食《くは》されて、僞りを言ひ得ず、事實を吐く譚あり。往古、野生の人、鹽を好まぬものありしを、後世、冥界の住民と信ずるに及んだのだ。)明治四三年二月の『東京人類學會雜誌』に、出口雄三君が、臺灣で、食鹽攻めにされて、太《いた》く困り、生薑《しようが》を代用した民と、食鹽を、一向、用いぬ民とを、對照して、食鹽を、一旦、使用する習慣が附《つけ》ば、中止する事、極《きはめ》て困難なれど、初《はじめ》より用ひざれば、人類の生存に、必ずしも差し支へ無い、と斷ぜられたるは、名論と惟《おも》はる。
[やぶちゃん注:『「オリノコ」流域』オリノコ川(スペイン語: Río Orinoco)は南アメリカ大陸で第三の大河で、総延長約二千六十キロメートル、流域面積は凡そ九十二万平方キロ。「オリノコ」とは、当地の先住民カリブ族の言葉で「川」を意味する。ベネズエラ南部のブラジル国境に近いパリマ山地に源を発し、トリニダード島の南側で、大きな三角州を形成して大西洋に注ぐ。河川の約五分の四はベネズエラ領で、残りはコロンビア領に属する。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「鹽酸加里」塩化カリウム(potassium chloride)KCl 。食物や食卓塩含まれるため日常的に摂取されている。古代から日本で作られている既注の藻塩は、アフリカの内陸部などで植物を燃やして得られる灰塩などに多く含まれる。ナトリウムによる高血圧などの影響を軽減するため、塩化ナトリウムと混合し、減塩の食用塩に用いられることもあるが、特有の苦味があるので、添加は限られた量になる。アメリカでは薬物による死刑執行時に使用する薬物としても知られる(以上は当該ウィキに拠った)。
「鹽酸曹達」塩素酸ナトリウム(sodium chlorate:NaClO3)は工業的に生成される物質であるので、ここは通常の(sodium chloride:NaCl)を指していよう。
「水酸化石灰」酸化カルシウム(calcium hydroxide:Ca(OH)2 )。消石灰。天然には岩石として存在し、貝類の貝殻を焼成・粉砕しても得られる。
「鹽麩子(ふしのきのみ)」ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis 、漢字表記「白膠木」。葉ヌルデシロアブラムシ(半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科アブラムシ科ゴバイシアブラ属ヌルデシロアブラムシ Schlechtendalia chinensi)が寄生すると、大きな虫癭(ちゅうえい)を作る。虫癭には黒紫色のアブラムシが多数詰まっており、この虫癭はタンニンが豊富に含まれていうことから、古来、皮鞣(かわなめ)しに用いられたり、黒色染料の原料になる。染め物では空五倍子色(うつぶしいろ:灰色がかった淡い茶色。サイト「伝統色のいろは」こちらで色を確認出来る)と呼ばれる伝統的な色を作り出す。インキや白髪染の原料になるほか、嘗つては既婚女性及び十八歳以上の未婚女性の習慣であった「お歯黒」(鉄漿)にも用いられた。また、生薬として「五倍子(ごばいし)」あるいは「付子(ふし)」と呼ばれ、腫れ物や歯痛などに用いられた(主に参照したウィキの「ヌルデ」によれば、『但し、猛毒のあるトリカブトの根「附子」も「付子」』『と書かれることがあるので、混同しないよう注意を要する』とある)。さらに、『ヌルデの果実は塩麩子(えんぶし)といい、下痢や咳の薬として用いられた』とある。
『橘南谿の「西遊記」三[やぶちゃん注:「五」の誤り。]に、薩州の山童《やまわろ》……』『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(17) 「河童ニ異名多シ」(3)』の私の注で当該部総てを電子化してあるので、参照されたい。「山童(やまわろ)」については、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の中の「やまわろ 山𤢖」で詳注してあるので、見られたい。
『ボムパスの「サンタル・ペルガナス俚譚」三〇九頁』「サンタル・パーガナス口碑集」は、イギリス領インドの植民地統治に従事した高等文官セシル・ヘンリー・ボンパス(Cecil Henry Bompas 一八六八年~一九五六年)と、ノルウェーの宣教師としてインドに司祭として渡った、言語学者にして民俗学者でもあったポール・オラフ・ボディング(Paul Olaf Bodding 一八六五 年~一九三八 年)との共著になる‘ Folklore of the Santal Parganas ’ (「サンタール・パルガナス」はインド東部のジャールカンド州を構成する五つの地区行政単位の一つの郡名)。「Internet archive」のこちらが原本当該部。
「明治四三年」一九一〇年。
「出口雄三」詳細事績不詳だが、サイト「産総研(AIST)」のこちらに、著作記事一覧があり、それを見るに、鉱山関係の学者のようである。]
一八六四年板「フヲン・ハーン」の「グリエヒッシェ・ウント・アルバニッシュ・マーヘン」等に、食鹽もて、鬼魅を驅除する例が多い。是は、鐵もて、鬼魅を却《しりぞ》くると等しく、食鹽を嫌ふて食《くは》なんだ山人輩を、「鬼魅」と見做したからの事で有《あら》う。又、一九〇九年正月七日の『ネーチュール』二五九頁に、南加利福尼(カリフヲルニヤ)の「チュンギチニッシュ」宗《しゆう》で、若い男女の入門式の踊りが濟むと、宗規を、僧より、敎授さる。其二、三週間、鹽と肉を斷つ、と有る。上に述《のべ》た通り、肉を生食《せいしよく》・炙食《しやしよく》すれば、鹽を食《くは》ずとも、立往《たちゆけ》る理《ことわり》を、何と無く、會得して兩《ふたつ》乍ら、斷つなるべし。
[やぶちゃん注:『一八六四年板「フヲン・ハーン」の「グリエヒッシェ・ウント・アルバニッシュ・マーヘン」』不詳。
『「チュンギチニッシュ」宗』不詳。アーミッシュやクエーカー教徒を想起したが、この名を見出せなかった。「Internet archive」の“Nature”の当該年月の記事はここからだが、ざっと見たが、見当たらなかった。
さて。最後にどうしても、ちょっと言っておきたいことがある。
私は河出文庫の『南方熊楠コレクション』全五巻を所持しているが、その「Ⅴ 森の思想」(中沢新一責任編集・解題。初版一九九二年三月発行)には、本篇が所収されてある。中沢氏は「雪片曲線論」(特に「ゴジラの来迎」)で、その論を興味深く読んだから、書店でぱっと見で、注や解説がふんだんにあることからも、「選集」を補って呉れる有難いものと、大いに期待して即時全巻を購入して読んだのだが、この巻については、注のあまりの異様さに呆れ果てて、開いた口が塞がらなかったのであった。
実は注は中沢氏ではなく、西川照子氏なる民俗学に詳しいらしい女性によるものであったのだが、これ――何一つ――読者が知りたく思うはずの語彙について――それを満足させるところの普通に想定出来るところの注が――一切、ない――のである! 例えばだ! この本を買って読んだ人の内、よほどのキノコ研究家でもない限り、普通の読者の百%は、「牛肉蕈」が如何なるキノコかを、注に期待するに決まっている。ところが、「牛肉蕈」の注は――ない――のである。この西川氏が、仮にキノコ・フリークであって、カンゾウタケ Fistulina hepatica をよく知っているとしても、語注責任者として、本種について注をしないというのは、絶対に、あり得ないことである。しかも、異様に長々とした幾つもの注はあるのだが、南方熊楠の言っている文脈に沿って読みを手助けするように解説している注は、これ、――一つも――ない――のだ! その孰れもが、これ、西川氏の知っているその民俗学用語の、西川氏流の個人的とも言ってよい、熊楠の言わんとするところからは、読めば、読むほどに、どんどん脱線してゆくような彼女の当該民俗語彙の解釈の「私的語り」なのである(まあ、私も、教師時代、授業の大脱線は宿痾ではあったけれども、それを生徒はよく面白がって呉れた)。西川氏個人の著作でそれをするなら、これ、全く問題はないが(但し、その本に私は惹かれることもなく決して買わないだろう)、「南方熊楠コレクション」と大看板を揚げた本書には凡そ相応しくない注と言わざるを得ない。ともかくも、私もいろいろなおかしな不全な注を、教科書を始めとして、嫌ほど見てきたが、こんな読者を度外視した自己満足的なトンデモ注釈は初めてであった。少なくとも、未購入の方には、本巻に関しては、とてものことに――お薦め出来ない――ことを言い添えておくものである。]
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