室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「人物と印象」
[やぶちゃん注:底本のここ(本文冒頭の「德田秋聲氏」の始まりをリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。本パートは、皆、知られた作家ばかりであるから、特に作家注は附さない。]
人物と印象
德田秋聲氏
雨戶を閉めても虫の音のするある晚、ホテルからの使だと言つて早寢の枕元に秋聲氏から手紙が來て、道が遠くなかつたら會ひたいとのことであつた。一度消息をした序でに涼しい山間に誘うて見たが、家族が海岸へ行つてゐるので行けないと言ふ返辭だつた。
自分は着換へを濟すと懷中電燈を持つて、幾らか山のやうな位置にある自分の住居から、秋聲氏のゐられる萬平ホテルヘ出掛けた。旅行先で知友に會ふことは東京で話し合ふのと格別な懷しい氣持になるものである。ホテルの入口で秋聲氏と順子さんとが步いてゐるのに出會《であは》したが、秋聲氏はひどく疲れてゐる上、妙に落着かない風だつた。家族の心勞で松本に一晚諏訪に二泊した歸途に立寄つたといふのだが、今夜ホテルで一泊したら直ぐ明朝發つと言ふのだつた。絕えず何か心に重りかかる憂慮で、明るい氣持にならないらしかつた。自分は吉屋信子さんが來てゐることを言ひ、信子さんに電話をかけに順子さんが立つて行つた。信子さんが來てから少し賑やかになつたが、秋聲氏はここは落着かぬと言つて自分の居間へ自分等を案内した。自分はビールを飮みながらこの老大家の吃吃《きつきつ》として話す聲を耳に入れてゐた。その氣難しげな樣子は老大家以外のものではなかつた。
[やぶちゃん注:言わずもがなだが、ロケーションは軽井沢。室生犀星旧居はここで(現在の「室生犀星記念館」)、その東南東の直近に林を抜けたところに「万平ホテル」がある。因みに、私は芥川龍之介が自死の前月に最後に愛した片山廣子と逢ったのは、この万平ホテルであるとにらんでおり、それを実証するために、同ホテルに泊まり、実地検証をし、『片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲』(サイト版・二〇〇九年十二月公開・地図入り)を書いた。未読の方は、是非、読まれたい。
「順子」山田順子(ゆきこ 明治三四(一九〇一)年~昭和三六(一九六一)年)は小説家だが、専らスキャンダラスに、徳田秋聲や竹久夢二などの愛人として語られるばかりである。興味のある方は当該ウィキを読まれたいが(私はこういうニンフェットっぽい女性には虫唾が走る)、ウィキの「徳田秋声」を見るに、この折りの彼のメランコリックな鬱状態は、彼女との関係にあったようだ。大正一五(一九二六)年一月、秋声の『妻はまが脳溢血で急死する。その』二『年前の』『大正』十三年から『秋声に手紙を出して以降』、『時折』り、『出入りしていた山田順子は、訃音を聞きつけ秋田県から』、『急ぎ』、『上京し、秋声の愛人として徳田家に入り込み』、『ジャーナリズムを賑わしたのみか、秋声は』「元の枝へ」『などの「順子もの」と呼ばれる短編群』『で、その情痴のありさまを逐次的に書き続け、世間の好奇の目を集めた』。『しかし、派手な話題がつづき、痴態がさらされ、しかも順子への秋声の不当な買いかぶりを眼前にすると、しだいに興ざめし、非難の声も高まっていった』。『秋声は』、『当初は歳が離れすぎているため』(彼女は二十九歳年下)、『結婚は考えていないと表明していたが、順子が家出をするようになると』、『逆上して脳貧血まで起こすほどとなり』、正式な『結婚まで考えたが、順子は、自らの痔の手術をした医師や、慶大の学生(秋声の長男一穂の友人)らと浮き名を流すなど』、『曲折の末に』、作家『勝本清一郎と恋愛に陥り』、昭和二(一九二七)年、『秋声との正式結婚の直前に勝本の許へ奔った。その後』、『一時期』、『縒りを戻すが、同年の大晦日、順子は秋声宅から追い出され、翌』年一月、日本舞踊家。『藤間静枝の仲介により』、『関係に一応の終止符が打たれた。但し、以後も』、暫く『断続的に関係は続いた』とある。
「吃吃として」言葉が滑らかに出ないさま。咽喉の奥の方で、繰り返し、声を発するさま。]
翌朝ホテルヘ行くと食堂のレースの陰に順子さんと信子さんとが何か食べながら朝の食事の最中であつた。自分は秋聲氏の居間へはひらうとすると、秋聲氏はゐなくて上草履が居間に爪先を向けて、丁寧に取そろへられてあつた。見ると次の間に座布團を三枚竝べ、その上に仰臥した秋聲氏はさも疲れた容子で、昏昏たる短い假睡《うたたね》の夢を結んでゐた。緣側に明るい高原の日ざしがぎらついてゐたが、それにも拘《かかは》らず老秋聲はうとうとと、しかし深い眠りから覺めさうもない樣子だつた。自分はその居間を默つて出て、先刻の食堂の前を通るとまだ彼女等は果物か何かを食べてゐた。
秋聲氏は女中が着物を疊んでゐたのを覺えてゐたが、自分には氣付かなかつたらしかつた。そして秋聲氏の不機嫌はにつともしない澁面《しぶづら》だつた。自分に對《むか》うてもやはり不機嫌な卒氣《そつけ》ない調子であつた。自分も不機嫌な日を送つてゐるのだが、老秋聲の不機嫌は膠着し盡してゐるものらしかつた。自分は不機嫌も岩壁に近いのを見ると矢張り堂に入つてゐると思うた。自分は不機嫌であるための秋聲氏を心でにやりにやりと眺め入つてゐた。夏の間《あひだ》餘り人に會はなかつた自分は、この老大家の不機嫌を備前燒か何かのやうな氣持で見てゐた。どの程度までその不機嫌が嵩じても自分には應へなかつた。其度每に自分は海千山千年の老大家の形相《ぎやうさう》をその不機嫌の中から感じた。
婦人達は町を見物することや散步することやを奬《すす》めたが、秋聲氏はそれに一々反對をした。どれにも氣が向かないらしく、依然何か一つ事に考へ耽つてゐるらしかつた。漸《やつ》と何か朝の輕い食事を濟《すま》すと少し笑ひ出した。と言ふより硬張つた顏が和らかくなつた程度である。自分は滅多に人を訪ねたことのないのも、他人の不機嫌を反射される苦痛を考へるからだつたが、不思議に秋聲氏にはそれを感じなかつた。婦人達がそれを建て直さうとする努力を見てゐるのが、むしろ氣の毒だつた位である。
自分の國からの出身者はその文學的首途《かどで》の門を秋聲氏に出入してゐる者が多い。しかし自分は詩作人であつた爲に秋聲氏を訪ねることがなかつた。秋聲氏は記憶されてゐるかどうかは知らないが、十三年前に自分に安野と言ふ友人がゐた。彼は秋聲氏を折折訪ねてその當時既に大家であつた秋聲氏の生活を自分によく報告してくれた。友人の言ふには秋誓氏はいつも書くに疲れてゐることなどを傳へたが、それから十三年の役《やく》にもなほ依然たる老大家であり書くに疲れてゐる筈の秋聲氏は、その以後に本來の諸作品を公《おほやけ》にしたと言つてよい。十三年前に秋聲氏は今の自分ぐらゐの年齡であつたらう。そして今の僕の如き疲弊した凡下《ぼんげ》の作家ではなかつた。それにも拘らず秋誓氏は光彩なる人氣の間に立ち、壯烈な戰ひをさへしてゐる。
[やぶちゃん注:「自分の國」秋声は石川県金沢市出身。犀星も同じ。]
寧ろ秋聲氏は、その老來《らうらい》に及んで、本物になり逞しくも勇敢になつてゐる。以前に自分は石の粉を吹く石工の丹念さをもつて比較したことがあるが、今もなほ秋聲氏は依然として石の粉を吹くつくばひ作りの工人であることに渝《かは》りはない。老眼鏡をかけ短か日の机に向うた彼は、その當時も指摘したやうに骨だらけになつても書き續けるであらう。壯烈と言ふこともこの「骨だらけ」の秋聲氏を外にした言葉ではない。彼は老將軍の如く城砦の中に皺枯れた聲量と十三年來の戰法の奧義をもつてゐる。
秋聲氏は最後まで町やプールの見物を頑固に拒んだが、順子さんと信子さんとは出發前の一時間を停車場への途中、町家プールを見物するために出掛けた。
「君は行かんのですか。」秋聲氏は僕も婦人達と出掛けるものと思つてゐたらしかつた。僕は頭を振つて見せた。出發の時間が迫り荷物の支度などもあつたが、さういふ事に氣の付く方《はう》の自分は反つて傍からつべこべいふ面倒を想像して默つてゐた。しかし秋聲氏は時間が切迫しても物憂ささうに依然として坐つてゐた。自分は支度したらどうですかと言ふと、まだ早いだらうと秋聲氏らしい、癇《かん》のある聲で答へ、もぞくぞして居られた。自分はその物憂い何も面白くなささうな容子を、自分の五十の年輩に想ひ描いて見て、決して人事でないやうに思はれた。
[やぶちゃん注:「もぞくぞ」ママ。意味不明。「ウェッジ文庫」もママ。金沢弁か、或いは単に「もぞもぞ」の誤植か、「もぞ」に踊り字「〱」を書いた上に「ぞ」を送ってしまったものかとも考えたが、最後のそれは、本書に限っては、まず、あり得ない。本書では私の大嫌いな踊り字「〱」「〲」は他では使用されいないからである。]
停車場への途中故意《わざ》と自動車を西洋別莊の小徑にとり、町家を迂𢌞して、町を見物せぬこの頑固な半翁に少しの說明を試みたが、秋聲氏は子供のやうに別莊地や町の樣子を眺めてゐた。さうしてある西洋人の表札の名前を木陰に透して讀んで、
「あれは君スペイン人の名前だね。」と言ふのだつた。
自分は今朝から變に不機嫌だつた自分自身に對《むか》うて、この瞬間から少しづつ氣持のほぐれる事を感じた。成程この半翁は子供らしい氣持をもつてゐると思うた。今は夏の中程だのに秋聲氏は冬帽をかむり、その鍔の一端が空に向け撥ねてゐるやうな冠り方をしてゐるのも、秋聲氏らしいある氣性を見せてゐた。
自分は秋聲氏の氣質の中にある一徹な頑固さが、北國人の持つ特質や頑固さであり、内側から溶けねば外側から解けることのないことを知つてゐた。この氣質は自分も血統的に持合してゐるものらしいが、しかも秋聲氏は永年の文學的試練から積まれた特異な氣質も加へられてゐる。寧ろ自分は機嫌のよい秋聲氏を見るよりも、忌忌《いまいま》しげな不機嫌なこの人を見た方がよいと思ふのだつた。座布團の上に長長と朝の假睡をしてゐた秋聲氏は、文字通り自分には昏昏として見え、永く忘られない記憶になつて殘るだらう。
停車場に先着してゐた二人の婦人は、人込の中にも際立つて見えた。そして暑い日中を歸らねばならぬと言ひ出した秋聲氏をいとしく思ふのだつた。
正宗白鳥氏
自分は未だ正宗白鳥氏には四五度位しか會はない。それも自分から訪ねた譯ではなく旅行先で偶然に邂逅したに過ぎないのである。しかも自分の受けた印象は可成りに鮮かであると云つてよい。
自分は對等以上の人物には俯に落ちぬ話をその儘に打捨てる氣はない。解るまで聞く氣持でゐる。も一つ對等以上の人物には安心をもつて話しすることができ、心を落着《おちつ》けることが出來るやうである。正宗さんは素氣《そつけ》ない質《たち》の人ではあらうが、素氣なさの中に眞實のこもつてゐないことはない。自分は正宗さんの話術の中にいつも漂うてゐる一脈の昂奮を覗き見て、却《かへつ》て自分の如き藝術に處するに冷然たるの輩《やから》よりも、逈《はる》かに熱情家であることを感じてゐる。いつも老書生の如き氣槪が欝然として面《おもて》を壓してゐる。
話術に少しも躊躇(ためら)つたところがなく、しかも聞き手には退屈を與へないのも素氣ない人物のみが持つ德の一つであらう。素氣ない人物といふものは何か滑稽なものである。素氣なさは荒い氣質の人には尠《すくな》いものらしく、正宗氏の氣質も可成りに細かいらしく思はれるやうである。その文藝に親しまれるのも、それさへあれば、誰にも會はなくとも孤獨でゐられる爲であらう。その少しも弛みのない顏が一度笑ひかけると全(まる)で童顏の相貌になる。その童顏の中には冷やかな或にがりの表情が一筋鮮かに走つてゐる。古い能面に滲透《しんとう》したにがりに能く肖《に》てゐる。倭小でかつちりした肢質とそれらの面貌の好印象は、何よりも對手《あひて》に微笑を用意させる程度の心安さを與へるのも、例の嚴肅なる滑稽が風格に備つてゐる爲であらう。
[やぶちゃん注:二箇所の太字「にがり」は、底本では、大きめの「●」の傍点である。]
自分は或日、未だ幼い女の子供を連れて散步してゐて、正宗氏に會ひ喫茶店に這入《はい》つたが、正宗氏は最後まで子供へは一言の愛想も言はれなかつた。別れ際に微かに笑つて左樣ならを交《かは》されただけであつた。自分にはその左樣ならが頭に殘つた。家へ歸ると子供は今日會うた伯父さんは自分に何も言はなかつたとふしぎさうに云つた。それは彼女に取つて不思議な無愛想だつたに違ひなかつた。そして彼女はさういふ伯父さんを物珍しく時時話し出し、今度會うたら何か言はれるだらうかなどと云ふのだつた。後に正宗氏は自分の子供のことに就て夫人に話されたさうだつたが、さういふ無愛想の中にも見ることは見てゐる人だつた。
正宗氏は活動や芝居や讀書もされる勤勉家であると同樣、文藝以外の人にも或興趣の眼を以て見てゐる人である。旅行先で自分なぞ見に行かない人形芝居なぞも見に行く人である。自分の鏡を疑ふことはないが何者をも先づ自分の鏡に映して見て、徐《おもむろ》に何か言ふ人であらう。讀書や芝居や活動をも見遁《みのが》さないのは、何かあるか知《し》らといふ田舍者のやうな氣質の物珍しさを多分に持つてゐるからであらう。
[やぶちゃん注:「正宗白鳥」は岡山県和気(わけ)郡穂浪(ほなみ)村(現在の備前市穂浪:グーグル・マップ・データ航空写真)生まれである。]
高村光太郞氏
晚春のある日、萩原君[やぶちゃん注:萩原朔太郎。]と話にあきた後に、久しぶりで高村光太郞を訪ねようではないかといふ話になり、駒込の高村君のアトリエを敲いた。全く四五年振りであるといつてよい。
アトリエの入口には白い茨が靑靑と絡みついて、何となくアトリエも古びを帶びてゐて好ましかつた。高村君は相かはらず趣昧の蒐集物の間に椅子を置いて話し出したが、口髭の間は白く染つて見える程、白髮が交つてゐて中々いいなと思うた。高村君とは十年くらゐの規則正しい手紙の交際を續けて來たが、別に高村君が陋居へ出向いてくることも無ければ、また出不精な私は三年に一度ぐらゐしか尋ねない。折折の手紙を通じての尋常一樣の交際であつた。それでゐて時時妙な親密を感じることは、友人の尠い私であるから、さう感じるのであらう。
高村君は十年前に私と萩原とが出してゐた雜誌「感情」の誌代ををさめてゐてくれた人であつた。そのころの高村君は今よりも最つと表面に立つてゐて、靑年の間に人氣があつた。
あるひは自分もその人氣に投じてゐた一人かも知れないが、爾來十年の私の頭にある長身高村光太郞は、そのさきよりも一層奧床しい人物であつた。裏側へのびてゆく奧の深い人である。小說を書いてゐたら別の意味の志賀君のやうな人になつてゐたらう。物を硏《きは》め考へることは當今の文人の比ではない。話をしてゐても氣取らず平明で、それでゐてある程度まで他人を容れない冴えをもつてゐる。曾て瀧田哲太郞氏が晚年に切拔帖を見せて、高村君が讀賣新聞に書かれた木版についての一文を私に賞揚したことがあった。恐らく彼の文章を切拔帖にをさめてゐた一人は、あるひは天下の瀧田氏一人であつたかも知れない――。
今、話を交へてゐる高村君は、アトリエの古くなりさびのつくのと一緖に、少しの白髮を雜《まぢ》へ、よい詩人の風貌を帶びてゐる。表面に立つことを避けた人に有りがちなひがみなぞなく、今目藥を點じたやうなすつきりと美しい眼をしてゐる。どこへ出しても一流である。自分は斯樣《かやう》な人を尊敬せずに居られない性分だ。世上に騷がれてゐるやうな人物が何だ。吃吃としてアトリエの中にこもり、靑年の峠を通り拔けてゐる彼は全く羨ましいくらゐの出來であつた。
去夏細川侯の觀能の席上で、高村君が長髯童顏《ちやうぜんどうがん》の父君と共に、袴を穿いて坐つてゐるのを見たが、全くよい息子の感じでちやんと板についてゐる趣を感じた。自分はその快い品のある父子を一幅の間に眺めたときも羨ましかつた。かれらは靜かに夕食をとり、徐ろにささやき合うてゐるのをこの上なく美しく思うた。
自分は彫刻のことは解らない、しかし高村君の人がらが解り、詩が解り、彼の持《じ》してゐる平明さが解るだけで澤山だと思うてゐる。
「かうして高村君を君と訪ねてかへると一寸若くなつたやうな氣がするね。」
自分は萩原にさう話しかけたが、萩原も笑ひながら、いろいろな意味でねと言つた。それからもう二年になるがまだ合はない。會ひたいと思うてゐる。
白鳥省吾氏
昔、白鳥省吾の故鄕は伊達政宗の領地であつた。自分は伊達政宗といふ人物の文献に接したのは、纔《わづ》かに幸田露伴の史實の文章だけである。伊達政宗も一と通りの野性の輩ではなく、德川をして窺《ひそ》かに杞憂を懷かしむるものを有つてゐた。併乍《しかしなが》ら吾が白鳥省吾は伊達政宗の後裔でもなければ系統を引いてゐる譯ではない、――昔を今に還して見るならば白鳥省吾も伊達の一家臣、千石ぐらゐの家祿を領してゐる頑固一徹の武士であつたらう。今で云へば彼に取つて朝飯前ぐらゐにしか思はれない早稻田大學の敎授の程度であらう。彼が官途に近い緣を求めずして一市井の詩人として暮してゐることを思へば、何人も彼の性根が野にある人で、窺かに霸氣を抱いてゐることに心づくであらう。霸氣といふものは石炭箱を叩くことではない、彼の如く心からそれを抱くものにのみ燦《さん》として光を放つてゐるものである。
白鳥省吾は人氣や流行を知らない。穩健ではあるが意地張りである。謙遜ではあるが卑屈な男ではない。――彼が大島か何かを着て悠然と坐つてゐるところは、大家の外のものではない。年來日夏耿之介との應酬には彼は彼らしい物靜かな警部のやうな物言ひを續けてゐるのに、日夏耿之介は文藝講座の中にまで白鳥に當つてゐるのは、心ある者をして顰蹙せしめたことは實際である。自分は野の人、白鳥省吾のためには何時でも筆硯を持つて彼とともに行を同じうするものである。これは藝術上のことよりも寧ろ彼と趣昧其他の何者も一致しないに拘らぬ友誼に外ならぬ。純眞の人間に心を合《あは》すことは年來の自分の希望でもあつた。又、自分はあらゆる友誼のために戰ふことを辭さない。友誼に殉ずることを以て名譽とするものは、恐らく時代遲れの人間であるだらう。
白鳥省吾は野暮で、くそ眞面目である。彼のごとくくそ眞面目な人間はすくない。しかも其眞面目は又何人《なんぴと》をも持合《もちあは》さないところの眞摯である。彼が農民文學のやうな提案を敢て辭さない所以は、福士幸次郞の地方主義の主張と同樣に又認めなければならぬ。彼がいい加減な人物ならば疾くに今の時代に合ふやうな芭蕉論でも書いてゐたらう。しかし吾が白鳥省吾はそんな薄情者ではない。十年一日のごとくくそ眞面目な白鳥省吾である。
[やぶちゃん注:二箇所の太字「くそ」は、底本では、傍点「﹅」である。]
自分は民衆派といふものに不尠《すくなからず》輕蔑の念を感じてゐる。併し白鳥とそれは關係のないことである。もう一度云へば彼の詩は自分の好みの外のものである。彼と人生を談じるとき自ら民衆派にも苔が生えたと思ふ事さへある。さういふ意味で民衆派と彼とを引離《ひきはな》すことができないかも知れない。彼の毒舌を聽聞《ちやうもん》するとき自分は白鳥省吾を愛するが恰も福士幸次郞を尊敬すると同樣の愛情である。今の詩壇で大家の風格をもつてゐるものを數へるなれば多士濟濟であるが、吾が白鳥省吾のごとき己にも他人へも淸節を持つてゐるものは極めて稀である。
佐藤春夫氏と谷崎潤一郞氏
自分の作家生活は六七年に過ぎないけれど、作を求められるときは何時も編輯者の心を讀者の代表的なるものとまで言はないまでも、それらの整然たる氣もちを感じるのであつた。第一に自分の作を求める下地の心に向ふとき、その人の心の向きを自分は銳敏に感じるのであつた。瀧田氏はいつだつたか一度、自分の作の内容の陰慘を指摘してかういふものはどうかと言つたが、これも自分のものだと言つて無理に通さうとした。そのとき瀧田氏は不愉快な顏をした。自分も同樣の表情をしたが、しかしそれは瀧田氏の言ふところが當つてゐたので、自分は數日の後に原稿を返して貰ひ、破いてしまつた。自分は當然自分の作の傾向が次第に自分の本道でないことを知つたのである。自分に好意をもつ人に作を求められることは、どうしてもよい物を書くやうになることである。作を求める人に德があるとき、作者もその德に酬いなければならぬ。この二つの心は作者と作を求める人の間に、いつも語るに言葉なくして行はれる德ではないか?――
[やぶちゃん注:太字「向き」は、底本では、傍点「﹅」。]
此間「大調和」[やぶちゃん注:雑誌名。]の會で佐藤君が演說をしたが、その下地《したぢ》の心に自分は感激した。彼と平常話してゐるよりも、演說を聞くと一そう彼を解することが、できるのであつた。自分の小說を書き出したころは彼はもう年少で一家を爲してゐた。いつか谷崎君も同席してゐた彼の書齋で、未だ二三の作を公けにした自分の前で、谷崎氏はこんなことを言つた。
「いや室生犀星は一杯の紅茶のごときものだよ。」
すると佐藤君は、
「いや寧ろココアぢやないか?――」
と言ふ意昧のことを言つた。自分は當時大名を馳せた谷崎君の言葉が一寸頭に殘り、なるほど彼から見れば一杯の紅茶かなと思うた。唯これだけの言葉であつたが、少年の時分から谷崎氏を愛讀してゐた自分は愉快に快い印象を受けた。
ともあれ殘念乍ら年少である佐藤君は、一家の風格を持つてゐた。彼の話は聯絡《れんらく》を持つてゐるにくらべ、自分は斷片的なことしか言へないところがあつた。彼は渾
然たるものよりも半端ものを好み、自分はその反對であつた。彼はいつか自分に放浪者の魂を失ひかけてゐるといふ意味のことを言ひ、もう些《わづ》かの非難を交へたやうな調子で云つたことがあつた。その時自分はそれをよしとしてゐた。佐藤君は相當餘裕はありながらもその漂白の魂も少しは有《も》つてゐる。
此間一年振りで會つた時は、どうも物忘れしてると頻りに言つてゐたが、茫茫とした顏付でゐながら演說は透明だつた。彼はボケたやうな顏をしながら、心に一滴の淸水の新鮮をたたへてゐるやうな人であつた。彼の老いざることは、この一滴の何ものかの爲であると言つてよい。
宮地嘉六氏
宮地君は見たとほりの宮地君であるかも知れません。謙抑《けんよく》な調子で對手をその謙抑一本調子で壓倒してしまふ宮地君かも知れないのです。あのやうな謙抑の情といふものは、僕には變態的な程にまで影響して來て、或る時は憂鬱にさへなる時が多いのです。つまり對手なぞの意志を認めない程度で謙抑であることは、それ自體で壓迫されることが多く、その壓迫的なるものを次ぎの瞬間でまた圓め込まれてしまふのです。それ故《ゆゑ》宮地嘉六君のこれらの情念の發する時には、暫らく感情的な僞瞞を經驗するやうな苦痛な狀態に置かれることがあり、此恐るべき謙抑な彼の戰術を飛び越えることは何人もできない困難なことかも知れません。それは勿論宮地君の戰術でないことは解つてゐますが、自分にはやはり戰術としか見えないのです。實に戰慄すべき又人人から愛敬《あいぎやう》されるところの、彼、宮地嘉六君のものの中で一番自分の參つてゐるものであります。
細菌銀座の通りで二度ばかり偶然に宮地君に會ひ、一度は散步だけで別れ、二度目は茶を喫んで別れました。その折宮地君は家庭の事や、過去の事件的なことを話して吳れ、自分の考へてゐた女人《によにん》の數がたつた二人きりであつたこと、孰れも宮地君の夫人だつたことを知り、小說で讀み想像してゐた自分の數の謬《あやま》りであることを知つたのです。自分のやうな考へを持つてゐる人は多いかも知れないが、自分の考への刺し貰くところでは、多くは宮地君が不幸な位置にあることを、それらの不幸自身も或は宮地氏自身の氣質的宿命であることをも思はずに居られなかつたのです。徹底的に正直な氣質にある純東洋風な義理人情の踏襲者である此人の過去には、搗《か》てて加へるところの苦勞性があるため、それらの複雜な氣質的な調和がいつも女人との間に介在してゐるのが當然かも知れません。宮地君は細かい口やかましい家庭の王者でもあることは、僕自身の小言幸兵衞である所以のものと何等渝《かは》るところが無いと思ひます。しかも僕はまだ宮地君の書齋を見たことが無いのです。何故か僕が訪ねようといふと、氣欝な顏付でそれを好まないやうなところも無いでもありません。僕の家に見えたことも數へる位しか無く、坐ると直ぐに歸りさうにそはそはとしてゐますが、平常そはそはしてゐる人物が或特種な時間的に落着くときは落着くことを見越してゐる自分には、此人の落着いてゐる時を想像することができるのです。
最近銀座で會つたことを先刻話したのですが、その一度目にはどうしてもカフエヘ這入らうとせずに、その事を最後まで固守して居られたが、僕には不思議な剛情だと思はれたのです。背丈の高い堂堂たる六尺近い風貌の中には、一緖に大通りを步いてゐても僕のごとき倭漢[やぶちゃん注:ママ。「矮漢」(わいかん)の誤記か誤植。]と違ひ、何か賴母《たのも》しい偉丈夫さを感じることが多いのです。何時でも機嫌のよささうな笑ひを含んで、昂然と上向き加減に步いてゐる宮地君には、人生に憂ふることも無いやうに見えますが、その堂堂たる風貌には平常も何か一人で散步してゐる時の淋しい感じを持つて居られるやうです。僕とはちがつて家庭の人達とも相伴《あひともなは》れて夕食をたべに出掛けることのある人は、質《たち》には善良と正直さを豐富に持つて居られることが解るのです。その善良と正直さには何らの銳い思想的なものの片影だに見せないでゐるところも、苦勞人であるためのさういふ氣質的な人がらがさう見せてゐるのかも知れません。
では僕に何故宮地嘉六氏に親しみを感じるのか、――さういふ問題は僕にも鳥渡《ちよつと》分り兼ねるのです。宮地君の文人風な好みや愼しみの中にも、また窃《ひそ》かに水墨を擬して永日閑を樂しむの境涯にしても、僕の俗流的な心には大して影響してゐないので。話よいために話をする樂な友人といふことも、僕には大して問題にはなつてゐません。宮地嘉六といふ人がらの中に僕自身がどういふ調和を齅《か》ぎ出さうとしてゐるかも、同じく問題にはなつてゐないのです。唯一つ問題なるものは「累《かさね》」を書いた宮地嘉六氏が其作者として僕を彼の中に惹き付けてゐることです。僕の友人同士を繫ぎ得るものの中には、その人の仕事の或ものが影響して來ないかぎり、もう友人といふものの範躊を作る必要は見ないのです。絕對に作を徹し合つた友人以外に友誼は成立しない今の僕には、あの人の書いた、あの人の生涯の秀作だつた「累」が僕に結び付き呼び合うてゐることは當然なことであります。忽ち宮地嘉六君と親しく口を聞き合うたのは、僕の書いた「累」の批評がその機緣であり、その「累」を間に入れた僕らの友人的なかういふ相互批評を物色し問題化せられるところの間柄になつたのに違ひありません。
[やぶちゃん注:「累」国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の昭和二(一九二七)年學藝社刊の彼の作品集「累」のここから視認出来る。]
此間宮地君と話し合ふ時に、哀愁のない文學は文學ではないと、宮地君は僕に言はれました。平凡であるが僕には十分にいい言葉だと思うたのです。宮地君は時時批判的な秀でた座談をされ、餘程評論家風な傾きと見識を持つてゐる人だと思ひました。彼はよく理解のある氣持で今の文壇の何人をも受け容れ、それに對抗する時も天與の素直さを持つて向つてゐるやうです。あの人が怒りあの人が叫びあの人が戰ひを挑み、あの人が躍り出すことは鳥渡想像されないことです。併しあの人が割れ出しあの人が動きあの人が深くなり、あの人が何か書き出すことは豫期されるのです。この儘ではいけないといふのがあの人の常にいふ言葉です。そして誰も皆そのやうに一應感奮《かんふん》して見るやうな言葉ですが、實際あの人はあのままではいけないかも知れません。「累」の後の宮地君はまだ何もしてゐないのです。あの人はあの人の質だけの一盃でまだ打《ぶ》つかることを考へてゐる人です。あの人の健康と骨格、堂堂たる風貌、そして自分でさへ抑制できない苛苛《いらいら》した何かしようと志す一面、何か仕ようとしながら生れつきから詩人でない一面、詩人であつたら胡魔化しの利く一面すらもないあの人は、いつも餘りに正面的な、ゆとりのない人生に向き合うてゐるのです。才人でなく鈍重でもない宮地氏は、世の常人である考へを文學者であるための誇張を强調せずに、そのあるままの力で通して來たひとであり、これからもそれによつて進む人に違ひありません。
宮地氏に望むものは今少しく詩人風な、眼目による彼の世界の豐かさ廣さ細さを望みたいのです。叙情はあり叙情の本體をかつちりと鍔元で受けてゐる人ではあるが、それをじりじりと對手へ押し戾すために耐へるところの、詩人的なものの本體をもう一度自分は見たいのです。彼は小說を書くだけの小說家でありましたといふといふことは、誠に電信棒を見上やうな空虛なことに違ひないのです。又さういふ小說家程落莫とした感じをさせるものはありません。小說家は凡ゆる文藝の作家を表面的に代表したものであつたとしたら、彼は一ト通りの分野的作品への統一した彼自身の考へを持たなければならないのです。只何事も佗しい人生の記述者でのみあつたところの、いつも「灰色の机」を磨く宮地嘉六氏にも詩人風なものの幾面かがあれば、宮地氏の見るからに固さうなものが柔げられはしないかと思ふのです。
[やぶちゃん注:私は所持するプロレタリア文学の集成本全集で幾つかの短篇を読んだことがあるが、今は、まず忘れられた作家である。辞書類も見たが、事績は当該ウィキが一番よかろう。]
加能作次郞氏
大正文壇と云つても自分のことしか書けない。――しかも私自身の大正文壇は大正七年ころから始つてゐるのだから、それ以前のことは知らない。書き出すと多分小說的になるがそれでも想ひ出話であるから却て興昧が深からうと思ふ。
大正六年の春だつたかに自分は當時「新潮」にゐた水守龜之助《みづもりかめのすけ》君あてに「海の散文詩」といふ十七枚の散文を賴まれないのに送つて「新潮」に載せて貰ふやうに手紙を添へて出したが、一週間ほど後に水守君から原稿を返送して來てどうも長くてこまると云ふ返辭であつた。自分は試作的に散文を書いた折であるから失望も大きかつた。なぜ自分は水守君に文章を送つたかと云へば、「新潮」の前に同君は中央文學の編輯をしてゐて、自分に詩の原稿を依賴されたから、その好意を自分は最《も》う一度水守君に求めた譯であつた。自分は返された原稿を味氣ない氣持ちで眺めてゐたが、それは其儘本箱にしまひ込んで置いて、別の原稿を書きはじめたのである。「抒情詩時代」といふ變な題の小說と散文との中間的な小說だつた。今度も性懲《しやうこり》もなく文章世界の加能作次郞氏へ送つて置き、一週間程して訪ね、恐る恐る先日の原稿はどうでせうとたづねた。あれは仲仲《なかなか》面白いので印刷に𢌞してある。小說としては疑問はあるが、散文として面白いものだと云つてくれたので、自分は内内《ないない》興奮をしていい按配だと思うた。當時詩人といふ埒《らち》もない美名の下に逆境を嘆いてゐた自分は、加能氏の夢にも想像しないやうな心嬉しさに雀躍したくらゐであつた。さういふことが動機になり元氣づいて自分は文章をかき始めたのであつた。加能氏があの時に斷つてしまへば或は自分は餘程平(へた)ばつたかも知れない。或は斷られてゐたら最つと勉强したかも知れない。――ともあれ自分は今日はどうやら原稿に祿を食《は》んで暮してゐる。そのためにも加能氏のあの時の溫籍《をんせき》寬容を諒とせずに居られない自分は、人にも自分にも恩愛の道を守ることを喜ぶものである。恩愛の記述は感情的であるから人間は一定の年齡と地に達すると、何かさういふ感情を厭ふやうな氣になるものであるが、自分は反對に强調したい願ひを有つてゐる。さういふことで人間が低められたりすることは無いからだ。
[やぶちゃん注:「加能作次郞」(明治一八(一八八五)年~昭和一六(一九四一)年:犀星と同じ石川県(但し、羽咋郡)生まれで、犀星より四つ年上)は編集者で小説家・評論家・翻訳家。早大文学部英文科を卒業後、博文館に入社、『文章世界』の主筆として翻訳や文芸時評を発表した。急性肺炎で満五十六で亡くなった。当該ウィキを参照した。
「水守龜之助」(明治一九(一八八六)年~昭和三三(一九五八)年)は兵庫県生まれの編集者にして小説家。短いが、当該ウィキがある。
「溫籍」暖かい座席。孝養の心の厚い子が、年老いた両親のために、わざわざ設ける「暖かい敷き物」。また、「席をあたためること」を言う。]
自分は中央公論に書くやうになつてから、水守氏が、自分の原稿を斷られたことの正當を感じた。ああいふ粗雜な原稿をあの時に水守君から返されなかつたら、自分は安住をして碌なものしか書けなかつたであらう。詩の原稿をわざわざ求めてくれた水守君も、あの散文をつくづく讀み眺めて、
「これはどうも……」と思つたのは當り前の事であつた。その後水守君は茅屋を訪ねられ「新潮」への小說を依賴しに來られたが、自分は昔話のやうにこの話をしたかつたのだが、機會が無くて云へないで終つた。斷る人にも斷られた方でも、いまになると何と快い笑ひ話になつたことか?――
岸田劉生氏と佐藤惣之助氏
岸田劉生氏に初めて詩集「高麗の花」の裝幀をして貰うて、その裝𤲿《さうぐわ》が自分の氣もちに快い調和を與へてくれたのに尠からず喜びを感じた。童子が一枝の花を持つてゐる傍に、秋の果實の一鉢のある畫趣《ぐわしゆ》であつた。自分は本が出來上ると新潮社に行きその原圃を讓り受け、扉繪の花一輪を茶掛けに仕立てて、當時大學を出た高柳君に祝ひの意味で贈つた。「魚眠洞隨筆」の裝頓も劉生氏に工風して貰つたが、これも亦秀れた佳い出來であつた。自分は彼の畫に派手な冴えを見遁さなかつたが、その派手な中に平常も一脈の憂鬱が罩《こ》められてあつた。自分の著書は平常も自分の氣質に從うてじみな内容を盛つてゐるので、却て劉生氏の明快が内容を包んでくれるのに適當であつた。
[やぶちゃん注:「岸田劉生氏に初めて詩集「高麗の花」の裝幀をして貰うて」大正一三(一九二四)年九月新潮社刊。詩集の中身は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。「ヤフオク」なので、何時、消えるか判らないが、ここで、初版の本体表紙とカバー絵を見ることが出来る。
「高柳君」不確定であるが、後の法制史学者高柳真三か。高柳は中野重治の友人で、金沢四高時代に中野を室生犀星に紹介した人物である。]
その内、劉生氏は「童子愛魚之圖」を送つて來てくれたので、自分はそれを表裝して部屋にかけて置いて珍重した。魚を眺める童女の顏も、魚の泳ぐ有さまを寫した鉢の姿もよかつた。芥川君がこの繪を見てから後に、魚の泳ぐ鉢のまはりに擬寶珠《ぎぼうし》が生えてゐるやうな氣がすると言つてゐた。私もさういふ蒼生《あをなり》の草を見るやうな氣がしてゐた。自分はこの愛魚之圖以後劉生氏を好《す》くこと烈《はげ》しかつた。畫會に入會して二三友を語うたのも、自分の好愛からであつた。
[やぶちゃん注:「擬寶珠」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシリュウゼツラン亜科ギボウシ属 Hosta の山間の湿地などに自生する多年草の総称。
次の一行空けは底本のママ。以下、後の三箇所も同じ。]
自分は彼の藝術を云々するものではない。彼が自分に與へてゐる心を說けばいいのである。「歲寒三友」を人手したのは去年の春であつた。松竹梅の三樹交契《かうけい》の下に、三友の童子が點心菜果を前に置いて語る畫面であつた。自分はこの繪の中にやはり派手と明快とを感じたにも拘らず、小さい寂漠の蟲の這ふのを感じたのであつた。出來から云へば「愛魚之圖」は最《も》つと寂漠の情に富んでゐたらう。加之《しかのみならず》「歲寒三友」の明快は歲寒き二月の明快であつた。二月といふものを掘つて行くと「歲寒三友」の心が土の中にある、……自分の思索はかういふ風雅を踏まねばならない心であつた。
自分の劉生を見るのは、單に斯樣に狹い見解であり劉生氏に取つて迷惑の事であるかも知れない。しかも自分は大方の批評が作者に迷惑の外の何者でないことを知つてゐるものである。自分は「冬瓜の圖」を見て厨房の夕《ゆふべ》を啼くこほろぎを感じたのも、また劉生氏の迷惑とするところかも知れぬ。併し自分はこほろぎの這ふことを以て喜びを感じたものである。
藝術は穩かさ靜かさの外に、喜びを持ち運んでくれるものでなければならぬ。喜びのない藝術、喜びをささやかぬ藝術は自分の心の外のものである。彼が好んで描くところの果實の諸相は何時も子供らしい喜びをもつて素直に描かれてある。彼の蓮根と蕪《かぶ》の圖には此喜びが邪氣なく漂ひ賑うてゐる。これ等の大根蕪に眼を向けるのは、單なる彼が奇嬌のわざを衒《てら》ふためではない。彼のあはれを感じるのはそれらの疎菜《そさい》の寂しさ豐かさであつたであらう。
[やぶちゃん注:「疎菜」「蔬菜」が正しい。人が副食物とする草本作物の総称で、特に栽培植物を指したのであるが、現在は「野菜」と同義化している。]
劉生氏と初めて會つたのは去年の冬、詩を書く人人の或會合の席であつた。酒客である彼は市井の一畫人としての悌《おもかげ》を持つてゐるに拘らず、又隱栖の人たる風格を窺はせた。席に佐藤惣之助君が居合せ、彼の近業「酒はまだある」の隨筆集を私は批評して一種の洒落本のおもかげのあることを話しすると、佐藤君はその洒落本の批評を劉生氏に傳へた。その時、劉生氏は洒落文と雖も一朝にして書けるものでない、單に洒落文として閑却してはならぬ意味を醉後であるとは言へ、佐藤君のために辯じたのである。
その會合は殆ど岸田氏と初對面の人人が多かつた。交誼五年に亙る私でさへも初對面であつた。さういふ席上で古い友である佐藤のために辯じたことは、私に直ちに友情の根ざすところ深きを感じさせた。酒席であるに拘らず言葉を更めた彼の卒直さに自分は友情の美しさを感じた。しかし自分はその洒落本である所以を說明しなかつたが、端《はし》なく友情の何物かを感じた私は、劉生氏の第一印象に成果の暖かさを感じたのである。
佐藤の「酒はまだある」の文章の姿の中に、意氣や粹や洒落氣が多かつた。無雙な嚴肅や、蒼古の感情にのみ心を走らせてゐる私には、彼の隨筆にたるみを感じてならなかつた。佐藤といふ人がらはむきにならずに直ぐに悲しく外方《そとがた》を向いて、俗事焦慮の事件の埒外《らつがい》を行く人である。
佐藤の隨筆を方今《はうこん》[やぶちゃん注:「現今」「只今」に同じ。]の文壇にたづねて見れば、誠に特異な、珍らしい新姿《しんし》を有《も》つてゐると言つてよい。鏡花先生以外になほ惣之助があることを知ることは、私には樂しい心丈夫な友誼を感じるものである。彼は流行兒でも時めいた隨筆家でもない。しかし左ういふ地味な彼がひそかに稀らしい文章を抱いてゐるといふことは、世人の注意を惹かない程度のものであるとしたら、これほど私に樂しいことは無いのである。併し佐藤は或は別な考へを有つてゐるかも知れない。最つと表面に出なければならぬと思うてゐるかも知れぬ。私の信ずる佐藤惣之助氏はさういふことに頓着のない邪氣ない魂を有つてゐるやうに思ふのである。彼は彼らしい無頓着さで珠《たま》を抱いてゐるのだ。「酒はまだある」は岸田氏が言ふやうに一がいに洒落本ではない。洒落本だと言つた私は私にそれが無かつた故、稀らしいものだつた爲に左う言つたのであらう。岸田氏が彼のために辯じた所以《ゆゑん》のものは、彼の隨筆を批評する時の唯一の眞實でなければならぬ。しかもそれが單なる友情ばかりではなく、佐藤惣之助が一朝にして出來上つたものでなく、永年の心の鍛へが今やうやく彼の文章の上に艶を拭き込んで來たのである。
[やぶちゃん注:最後に。この後にある「澄江堂雜記」は、本書の電子化注の一番最初で既に終わっている。]
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