下島勳著「芥川龍之介の回想」より「濱豌豆」
[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載に『昭和五・七・春泥』(『春泥』は籾山書店発行の俳句及び随筆雑誌)初出で、後の下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。
著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。
底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た(但し、単行本刊行時期のため、正字と新字が混淆してはいるので、そこにはママ注記を入れた)。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。一部に注を挿入した。また、本篇にはルビが一切ないが、なくても概ね読めるが、一応、若い読者のために、ストイックに《 》で推定で歴史的仮名遣で読みを振った。]
濱 豌 豆
五月七日、〇時二十五分の束京驛發で、芥川の奥さんと鵠沼へ行く。
平塚と藤澤の丘の新綠は眼醒むるばかり美しい。藤澤で電車に乘替へ鵠沼の塚本邸ヘ着いたのは二時半ごろでもあつたらう。私の用事は、芥川の奧さんの弟君のご病氣を拜見するためであつたが、一診の結果非常におよろしいので、まづは安堵といつたやうな、氣安さをおぼえた。
時間の餘裕もゐるので、次手《ついで》ながら故人の跡を尋ねることにした。――勿論、奥さんに同伴を願つて………
なにがしの宮さま、御別邸のおはせし御跡ときく、松林の前にありし、
蒲の穗はなびきそめつつ蓮の花
の句をなした小沼も、今は埋められて、家が建てられてゐる。
橋を渡り、蘆と蒲との新芽ののびた堀割の堤を傳ふて、旅館あづま家の後ろ橫の砂濱ヘ出た。
ここから江の島は、呼べば答へん目睫の間といつても誇張ではあるまい。今日はことさら風もなく、實に靜かな晚春の海ずらである。……が、芥川氏の
白南風《しらばえ》の夕浪高うなりにけり
は恐らく、このあたりで作つた句に違ゐない[やぶちゃん注:ママ。]、とまで感じられた。
この邊の砂丘の陰や砂原には、到る處に濱婉豆の花が濃紫を誇つてゐた。
ふと空を仰げば、大小いくつかの凧が上つてゐる。――この地方は、節句に凧を上げるのが、習慣ださうですと奥さんがいはれた。
あづま家の庭に沿ふた砂道を拔けて、左へ曲る小路の右手に、小穴隆一氏の居た家がある。その時分は租末な家だつたが、今は一寸立派な貸家となつてゐる。
この家の門から覗いて、つきあたりに家根の一端の見えるのが、芥川氏の初めに住んだ家である。その座敷の前に小さな池がある。
野茨にからまる荻のさかりかな
の句は、この池邊で作つたと、曾ての話しであつた。
そこの小路を前の道路へ通り拔け、少し空地のある右角の建仁寺垣の二階家が、芥川氏の長く住んだ家なのである。二階の戶は閉されてゐたが、柴といふふさな門札が丸木の門柱に揭げられ、戶口の右よりの、あの碧童氏の句に咏《よ》まれた百日紅《さるすべり》も、今は若葉にもえてゐる。
――あの二階の座敷で議論を鬪はし、六百ケンを敎へてもらひ、そして、枕を並べて話しながら眠つた當時のことが、まざまざと甦つてくる。………
奧さんはと見れぱ、怖いものでも眺めるやうな樣子をみせて、つと、あづま家の方へ行かれたので、殘りおしくもあとを追つた。
つきあたりの醫院の門前を右に曲つて出たところが、小穴氏の畫にした小松林の間道である。そこをまた堀割の堤へ出て、もと來た道の先を迂𢌞して、塚本邸へ歸つたのは、五時に近い頃であつた。――前の田では頻りに蛙が鳴いてゐる。
松の大樹に圍まれた離れのお座數で、ゆつくり晩餐をご馳走になり、七時を過ぎてから母堂と愛犬とに送られて電車の停車場へ出たのである。
途《みち》すがらも、停留場へ來てからも、犬の泣き方や擧動が變なので、私は不思議に思つてゐたが、それは奥さんと私が母堂をつれて行くのであらうとの、いらざる不安の敎示だつたことが間もなく知れて、とんだ愛嬌のシインを見せたものだと、笑つてお別れした。藤澤での連絡に約二十五分ばかりを費したので、奧さんに田端の臺でお別れして、歸つたのは、九時五分過ざであつた。
鵠 沼 (三句)
芥川氏の鳶居をだづねて
とざされしままの二階や松の花
海 岸
磯くづのかげに咲きけり濱豌豆
蒲の芽や晝蛙なく浦たんぼ
(昭和五・七・春 泥)
[やぶちゃん注:最初の芥川龍之介の句の前後は空きがないが、後の二句のそれとバランスが悪いので、前後を一行空けた。掲げられた龍之介の句は総て龍之介が厳選した自選句稿に含まれている。私の「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」を検索されたい。
「濱豌豆」マメ目マメ科レンリソウ(連理草)属ハマエンドウ Lathyrus japonicus 。北海道から九州までの日本各地の海岸に分布する海浜植物である。
「鵠沼の塚本邸」「芥川の奧さんの弟君のご病氣を拜見するため」妻文の母鈴と弟八洲(やしま)がいた塚本家(結核であった八洲の療養のために龍之介の晩年に鵠沼に移っていた)のこと。塚本八洲(やしま 明治三六(一九〇三)年三月八日~昭和一九(一九四四)年)。塚本文の弟。長崎県生まれ。書簡当時は満十四歳。父善五郎が戦死したため、母鈴の実家であった本所の山本家(龍之介の親友山本喜誉司の父母)に家族と身を寄せていた。一高に入学し、将来を期待されたが、結核に罹患、大正一三(一九二四)年頃に喀血し、翌年の三度目の喀血の際には、下島とともに塚本家に駆けつけて見舞っている。結局、快方に向かわず、没年まで闘病生活を送った。大正一五(一九二六)年には療養のために鵠沼に移住したが、之介は鵠沼での塚本家の家探しにも協力しており、この転地が芥川最晩年の鵠沼滞在のきっかけともなっている。このロケーションになっている鵠沼については、『小穴隆一「鯨のお詣り」(19) 「二つの繪」(8)「鵠沼」』、及び、『小穴隆一 「二つの繪」(10) 「鵠沼」』で、小穴の略図が載り(二篇とも)、そこで私が詳細な解説もしてあるので、参照されたい。]