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2023/04/25

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「日錄」

 

[やぶちゃん注: 底本のここ(本文冒頭の「一 西洋煙草」の始まりをリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。

 知られた作家や、私の興味がないものには注は附さない。]

 

      日錄

 

 四月日錄

 

 四月一日

 庭のもの皆芽を吹く。土割れたる有樣は暖かさ搔き上り行く如し。

 夜、パイプの會のため三橋亭に行く。

 パイプの會は「驢馬《ろば》」同人の煙草を喫む會合也。料理は各各好きに攝り好きを飮み、己の分のみを拂ふ。今宵はクレブン・ミクスチユアの試煙にして、各自の出金によりて一鑵買ひ求むる也。

 煙草の濃厚なる食後のうまさは何に譬へん樣なし。茶を料理のあとにて味ふは茶人の心得なるが、煙草もまた料理の後その味優れたり。ことに西洋の刻みは大味の内、こまかき味をふくめりと雖も、槪ね料理の後に喫ふに相應しかるべし。クレブン・ミクスチユアは愛情あり人懷《ひとなつ》こき煙草也。その味ひ春のごとき溫かさあり。また或種類の戀愛的なる甘さをふくめるは最も愛煙に適したるものなるべし。

 歸らんとせるに北原白秋君に會ふ。

 醉餘の白秋君と暫らく話す、却却《なかなか》離さず漸漸《ぜんぜん》の𨻶を見て去る。諸同人と黑門町の或喫茶會に小憩するうち、ややありて暖かき春雨となる。

[やぶちゃん注:以上のそれは、文末に記されてあるが、昭和二年のもの。芥川龍之介が自死した年である。

「パイプの會」「月光的文献」の「一 喫煙と死」及び、前回の掉尾の「煙草に就て」を参照。]

「驢馬」詩雑誌。大正一五(一九二六)年四月創刊、昭和三(一九二八)年五月終刊で、全十二冊。編集兼発行人は十号までが窪川鶴次郎、十一号以後は宮木喜久雄が務めた。室生犀星のもとに集まっていた中野重治・堀辰雄・窪川・西沢隆二・宮木・平木二六(ひらきじろう)らが創刊した同人雑誌で、誌名は堀の提案により、表紙題字は芥川龍之介の主治医で俳人の下島空谷勳が揮毫した。伝統文学の良質部分を受け継ぎつつも、やがて革命文学を担うことになる中野と、二十世紀文学を担う気概の堀との同居が、大正末から昭和初期への同人雑誌群のなかでも重要な史的位置を占めた。中野の詩「歌」、評論「詩に関する二三の断片」や、堀のコクトー・アポリネール・ジャムなどの翻訳詩や詩論の他、犀星を介し、芥川・萩原朔太郎・佐藤春夫なども寄稿した。また、準同人格で田島(佐多)いね子(後に窪川と結婚するも、窪川が田村俊子と浮気したことが原因で離婚している)も詩を発表している。中野を筆頭に、堀を除く他の同人たちは、後にプロレタリア運動に参加していった(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「クレブン・ミクスチユア」前回の「喫煙雜筆」の「二 煙管(キセル)に就て」の「クレエブンミクスチユア」の私の注を参照。]

 二日

 杏咲く、杏の枝を折りて生ける。杏は花咲けるよりも蕾の色濃きが美しき也。

 昨夜の喫煙過度にて舌の上ざらつき荒れたる如し。

 「文藝道」の記者見えられ、短册かくことを依賴さる。

 稻垣足穗君來る。例に依り稻垣君に酒を出す。靜かなるこの酒客は予が友の中の珍らしき酒豪也。けふ二日會なれば行かずやと誘ふに行くべしと言ふ。

 森川町に行きしに既に夜食始まれり。暫くの後、中村武羅夫氏見え廣津和郞君來る。小會なりしが靜かにしてよろし。

 歸途廣津君稻垣君と白十字にて茶をのむ。廣津君と親しく話したるは今夜がはじめて也。

[やぶちゃん注:「文藝道」文芸雑誌らしいが、不詳。

「二日會」錚錚たる面子だが、不詳。

「森川町」現在の文京区本郷の東大の東向かい旧町名(グーグル・マップ・データ)。]

 三日

 春陽堂の笹本君小說全集の件にて來る。要談の後、宮木喜久雄君來る。

[やぶちゃん注:「宮木喜久雄」(明治三八(一九〇五)年~?)は台湾生まれの日本人詩人。大正一四(一九二五)年二十歳の時、室生犀星を訪ね、先に注した『驢馬』の創刊に参加した。同誌終刊後は、プロレタリア文学運動に参加し、『戦旗』に作品を発表、昭和四(一九二九)年刊の『日本プロレタリア詩集』にも彼の詩が収録されている(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。]

 四日

 「不同調」の嘉村君原稿の件にて來る。

 下島先生子供の來診に見えらる。

[やぶちゃん注:「不同調」右派の評論家中村武羅夫が大正一四(一九二五)年にプロレタリア文学の勃興と『文藝春秋』への抵抗として新潮社から発行した雑誌。

「下島」先の注に出た下島勳。彼は芥川だけでなく、田端文士村の御用達医師であった。]

 五日

 櫻やや色に出づ。

 夜來の春雨小止みなく庭後の杏の散ること荐《しき》りなり。

 新潮合評會に行く。

 初めての出席なればうかうかと喋りて後悔す。宮地嘉六君、心に溫みを持ち乍ら話せる有樣予の好感を惹く。廣津君の正直一圖なるもよし。

[やぶちゃん注:「宮地嘉六」先行する「人物と印象」の「宮地嘉六氏」を参照。]

 六日

 「古風な寫眞」の校正刷を中央公論社へ持つて行く。島中氏に三年振りにて會ふ。

 平木二六《じらう》君來る。引越しをなす由、詩二篇を書き平木君のため「女性」の古川君に手紙を書く。

 宮木君來る。芥川君下島先生同道にて來る。短册など書きて興を遣りたり。

  空あかり幹にうつれる木の芽かな

[やぶちゃん注:「古風な寫眞」雑誌『文藝通信』昭和二年六月発行のそれに発表している。因みに、同誌の七月発行のそれには、まさにこの「四月日錄」が載る。

「島中氏」中央公論社の編集者で、この翌年に中央公論社社長となる嶋中雄作のことであろう。

「芥川君下島先生同道にて來る。短册など書きて興を遣りたり」芥川龍之介新全集の宮坂覺氏の年譜で確認したところ、『この時、犀星の机上にあった書簡箋を手にとり、河童の絵を描いた。午後』九『時頃、帰宅』とあった。]

 七日

 堀辰雄君來る。國元の母より干鰈《ほしがれひ》到く。

  干鰈桃落る里の便かな

 八日

 春暖漸く臻《いた》る。

 淺草東京館に「人罠」を見る。詰らず。

 中田忠太郞、宮崎孝政君來る。

  春雨や明け方近き子守唄

 

 銀座田屋にてパイプを一本買ふ。散步用の輕き小型のロンドン製也。パイプは齒に重みを感じざる程度のものをよしとなす。齒に疲勞を感じるものは重き也。散步になるべくパイプを銜へざるやうにせるは、氣障《きざ》になること屢屢なれば也。なるベく人無きところ、あるひは自宅にて喫《す》ひたしと思ふ。

 尾張町の角にて修繕したるパイプを受取り、ローマイヤにてベーコンを買ふ。

 植木屋けふにて春の手入れを終へたり。此間より竹の句作らんとして遂に三句を得るのみ。

  竹林や石叩き行く竹の風

  竹の葉に辷《すべ》る春日ぞ藪すみれ

  藪中や石投げて見る幹の音

[やぶちゃん注:「人罠」Mantrap。ヴィクター・フレミング監督作品。一九二六年公開。「映畫時評」の「九 文藝映畫の製作」でも映画名を出している。なお、私の「人生興奮(その二) 尾形亀之助」の中で尾形は、『先に「人罠」を見、その次に見た赤ちやん母さん――で、私はクララ・ボーが好きになつてしまつた。彼女の演技が、と、いふ意味ではなく恋心に似た気持になつてしまつた』以下、彼女への傾倒を語っている。]

 九日

 髮の毛伸び鬱陶しければヤング理髮店に行く。龜屋でバタを木村屋にてパンを買ひ、藤屋にて茶をのむ。久保田万太郞君に會ふ。

 夕方、中野重治君來る。學校なんぞ出鱈目也と新文學士嘯《うそぶ》く。

[やぶちゃん注:「龜屋」不詳。舶来品の店舗か。]

 十日

 けふ三春の行樂を追ふひと多し。庭後の沈丁花散る。

 宮崎孝政君來る。午前より日沒まで七時間坐り居れり。創庵以來の長尻の客也。窪川鶴次郞、宮木君來る。

 坂井柳々君來る。俳論あり。

「文藝時報」の中山君來る。氣の毒なれど談話を斷る。

  枯笹や氷室《ひむろ》すたれし蕗の薹

[やぶちゃん注:「宮崎孝政」(明治三三(一九〇〇)年~昭和五二(一九七七)年)は再生と同じ石川県生まれの詩人。書肆「龜鳴屋」のサイトのこちらによれば、七尾中学校中退。大正八(一九一九)年、『『短歌雑誌』に投稿した詩「汝れよ貧しき者よ」が三木露風の選で入賞』、『この年、能登島小学校の准訓導心得とな』り、後、『母校徳田小学校の代用教員とな』った。大正十年には、『『現代詩歌』に詩を発表し』た。大正十五年には『教職を辞し』、『上京』、本篇で後に出る詩人『田中清一が創刊した『詩神』に作品を発表し始め』、同年九『月、第一詩集』「風」を刊行、昭和三(一九二八)年には『『詩神』の編集を担当。編集者としても才能を発揮する』。昭和四年九月には第二詩集「鯉」を出し、昭和六年、第三詩集「宮崎孝政詩集」を『天平書院より刊行。またこの年、京橋で「運命予言日本気学院」の看板をあげ、占い業も開始』している。『昭和』十『年正月、東京暮らしに見切りをつけ』、『帰郷したが、その後も東京へはしばしば出かけ』てはいた。昭和十二年、『自宅裏庭に「万葉荘」を建て、近所の子供たちを集めて文学の手ほどきを』始めた。『詩作活動は戦中を含み』、『続けられ、第四詩集』「寺子屋草子」を『まとめる意向があったが、陽の目を見ず、作品は』敗戦後の『昭和』二八(一九五三)『年を最後に』、『一作も発表されていない』とあった。

「坂井柳々」不詳。]

 十一日

 落花しきり也。

 宮地嘉六君來る。百田君來る。

 宮地君と動坂を步く。

[やぶちゃん注:「百田君」詩人百田(ももた)宗治。]

 十二日

 森林社同人、松江、宮崎、大黑の三君詩集の會合のため來る。

 夜、驢馬社に行き同人と散步に出づ。

 十三日

 午前、竹を伐る。庭後明るく春の日透る。

 楓の芽漸くほつれ始む。

 百田君田中淸一君と來る。田中君とは初對面也。竹村俊郞君來る。石原亮詩集の序を依賴に來る。

 けふ錢湯に行きしに高き硝子窓より落花吹き入り、浴槽に泛《うか》びたり。春やや深き思ひをなす。

 百田君の贈物、マイ ミクスチユアを喫煙す。味ひ素直にして高雅の趣あり。クレブン ミクスチユアの人懷こき味ひもよけれど、マイ ミクスチユアに越したることなし。サンキユアードは素氣なく、ゴオルデン ハバナは柔らか過ぎるきらひあり。一度マイ ミクスチユアを喫煙しては他の何物も及ばざるごとく思はる。

 ミクスチユアは味ひ複雜にして、あまさ、にがみ、强さ各各渾然たる如くして然らず。別別に舌の上に味ひ殘りゐて愛煙すべし。又パイプの暇暇《ひまひま》に紙卷を喫へばパイプの味ひ夢の如く戾り來りて愉快也。十七八年前、デザアンクルと云へる佛蘭西の租惡なる煙草を喫ひたることを思へば、マイ ミクスチユアの如きは宮殿裡にこそ喫煙すべきものならんか。

 パイプの煙は一つにはその姿美しく、又量に於て朦朧として何か旺《さか》んなるところあり。自らその煙を眺むるは悠長なりといふべし。

[やぶちゃん注:「竹村俊郞」(明治二九(一八九六)年~昭和一九(一九四四)年は詩人。山形中学卒。朔太郎・犀星らの詩誌『感情』に参加し、大正8年に詩集「葦茂る」を刊行している。その後、英・仏に遊学後、数冊の詩集を出したが、その間の昭和一四(一九三九)年には郷里山形に帰り、大倉村村長を務めた。]

 十四日

 重重しく曇れる日。

 芥川君のところへ行く。まだ炬燵の中にあり、庭前の落花しきりなるに呆然たり。

 夜雨を遠く聞きて早く寢る。

[やぶちゃん注:前記の宮坂年譜によれば、下島も合流したようで、『夕方まで俳談などをする』とある。]

 十五日

 夜、三橋亭にてパイプの會あり、マイ ミクスチユアを試煙す。澄江堂も參會、古風なるパイプを銜へたり。

 自動車にて銀座に出、日比谷から小川町に拔け、池の端を廻り公園をぬけて、元の三橋亭にて別る。十二時七分前也。

[やぶちゃん注:宮坂年譜で確認。]

 十六日

 昨日の過度の喫煙にて舌爛れて痛し。

 久しぶりに午睡をなす。午睡のできぬ癖なれど、卅分くらゐ眠りたり。うつつに風荒れるを聞く、これ春眠といふべきか。

 澄江堂よりの臼人蛙の戲畫をかける。お隣より貰へる白の大輪の椿一本を生ける。

むしろ牡丹のごとき椿なり。

 改造社の古木君用件にて來る。

 妻の姉よりさしあみ鰯送り來る。さしあみ鰯の漁れるころは金澤も春の最中なり。

李や杏も散りはてし頃ならん。來月早早に行きたしと思ふ。

[やぶちゃん注:「臼人蛙の戲畫」私は小穴隆一の「芥川龍之介遺墨」と、最新の二玄社の「芥川龍之介の書画」を所持するが、当該する戯画はなく、この謂いも初めて見た。識者の御教授を切に乞うものである。グーグル画像検索で「臼人蛙 芥川龍之介」を掛けると、呆れたことに、三分の一の画像は、何故か私のブログの関係のない絵が掛かってくる。全く以って困ったもんだ。]

 十七日

 朝子風邪の氣味也。

 主義者と名のるもの三名來る。斷然金員援助拒絕す。

 中田、黑田、相川、窪川、栗田の諸君來る。

 人浴後、新茶をのむ。昨年は五月の上旬に初めて新茶を喫みたり、走りなれど初夏の心意氣あふれゐる心地す。

[やぶちゃん注:「朝子」犀星の長女。後に随筆家になった。]

 十八日

 金澤へ搬《はこ》ぶ下草の植ゑかへをする。庭のものの若芽美しく、幸福らしきものを感ず。竹には筍《たけのこ》生えたり。

 岸田劉生氏へ打電、「庭をつくる人」の裝幀を急がしたるなり。裝幀送れりとの返電來る。

 「大調和」の記者來る。平木、窪川の二君來る。下島先生、朝子來診に見え、大したことなしと言はる。

 夜、宗紙の寬文版の句集及梅室選の嘉永版を本鄕にて買ふ。

[やぶちゃん注:「庭をつくる人」犀星の随筆集。彼のものでは、私は最も抵抗なく、なかなか面白く読み、いつか電子化してもいいと思っている作品である。国立国会図書館デジタルコレクションの全集のこちらから視認出来る。]

 十九日

 春やや闌《た》けしが如し。

 未知の紳士訪ね來りて、このたび庭つくらんと思へるが予が意見と築庭の程《ほど》話されたしと言ふ。庭はすきずきなり、人の意見聞かんより先づ己《おのれ》が好きになされよと言ひ、歸したり。予の築庭の如きは全く詰らぬものにて、斯道《しだう》の達人の如く思はるは迷惑なり。予に聽かんより寧ろ市上一介の植木屋を對手《あひて》にしたる方餘程それらしきもの作られんこと必定なり。予のごときはつねに頭にて描ける庭にのみ遊ぶ輩《やから》なり。

 岸田氏より「庭をつくる人」裝畫來る。予の好みの程あらはれ喜びとはなすなり。

西澤、宮木の二君來る。風邪の氣味なり、昨夜鼻のなか痛みしが今朝なほいたむ。

 夕方風出でて竹の鳴るのを聞けば、晚春のこころ深きをおぼゆ。夜に入り頭痛烈しく下島先生に藥餌を乞ふ。

 二十日

 昨夜より頭痛烈しく起きられず臥床す。

 窓硝子を掠《かす》めて楓の芽ひらく。龜屋よりオート・ソーテルヌ到《つ》く。

 昨日より風歇《や》まず、花の屑、木の芽、緣側に埃とともに舞ふ。新茶の味ひ今日却却にうまし。

[やぶちゃん注:「オート・ソーテルヌ」不詳。ソーテルヌ(Sauternes)というと、ボルドー地方のソーテルヌ地区で造られる極甘口貴腐ワインの名だが? ソーテルヌ地方の燕麦かぁ? 「シャート・ソーテルヌ」の誤記かとも考えたが、そんなシャートはないみたいだし……]

 金澤大火の號外出づ。朝日新聞の予が故鄕の大火を號外に出して報ずるは喜しき限也。古き町家の又失はれしかと思へば果敢《はか》なし。六百戶燒けしと云へば金澤にては古今稀れなる大火也。來月金澤に行くこと思ひ止まる。故鄕の人ら家を失ひしを眺めつつ、我が庭つくらんと思ふは氣遲れを感ずるなり。

 夜、風邪を冒して陶々亭の「森林」の會に行く。

 諸銀行休業の號外出づ。

[やぶちゃん注:昭和二(一九二七)年四月二十一日に石川県金沢市で発生した「彦三大火(ひこそたいか)」(「彦三」は出火から延焼が広がったした町名と思われる。グーグル・マップ・データのここを見られたい。現在の「横安江町商店街振興組合」から東へ向かうと、彦三町(ひこそまち)である)。午前三時半頃、横安江町の雑貨商から出火し、秒速十五メートルの急風に、忽ち、燃え広がり、全焼七百三十三戸、焼失面積五万八千坪、推定損害額三百二十二万円という宝暦九(一七五九)年四月十日の金沢の「宝暦の大火」以来の大火となった(以上のデータは「国立国会図書館」の「レファレンス協同データベース」のこちらの回答を参考にした)。

『陶々亭の「森林」の會』不詳。

「諸銀行休業の號外出づ」昭和二(一九二七)年三月、第一次若槻礼次郎内閣の片岡直温大蔵大臣の議会での「失言」が発信源となり、銀行の取付けが相次ぎ、金融恐慌が始まった。詳しくは当該ウィキを参照されたい。]

 二十一日

 風邪快き方也。

 昨日の暴風にて庭荒れたれば、掃除をするに稍《やや》寒さを感ず。柔らかき芽生えの折れたるが哀れ也。一人にて叶はざれば妻及女中に手傳はす。

(昭和二年)   

 

 

 輕井澤日錄

 

 七月六日、七十度。雨。輕井澤に着く。去年の別莊に入る。まだ初夏の風情也。セルに着換へ、子供らも着換へをなさしむ。西洋人など避暑客未だ少數なり。

[やぶちゃん注:次の断絶して続いている「續輕井澤日錄」から、やはり昭和二(一九二七)年の芥川龍之介自死の月の、その前の日録である。なお、幾つか注を附したい衝動にかられた箇所もあるのだが、芥川龍之介自死の後の「續輕井澤日錄」と「神無月日錄」は犀星の思いを受けとめることに専念して読んで貰いたく、注は、ほぼ附けないことにした。悪しからず。

  七日、七十二度。雨。

 町にて買物をする。荷物を解くため去年來て貰ひしお捨さんに來て貰ふ。

 畑の葱をぬき肉を煮る。

 夕方、向ひ別莊に西洋人の一行着く。

  八日、雨。七十度。

 障子を閉め火鉢に火を起しても寒し。

 けふから仕事。

 夜、薄き月出づ。

  九日、快晴。七十六度。

 朝早く山ぜみ啼く。

   山蟬のきえ入るところ幹白し

 赤腹といふ鳥終日啼き夕方霧下る。上海あたりより避暑と動亂を避ける派手なる外人門前を過ぐ。

[やぶちゃん注:「赤腹」スズメ目スズメ亜目ツグミ科ツグミ属アカハラ Turdus chrysolaus「和漢三才圖會第四十三 林禽類 𪃹(しなひ) (アカハラ・マミチャジナイ)」を参照されたい。

「上海」「動亂」「四・一二事件」。この一九二七年四月十二日、蒋介石が上海で引き起こした反革命クーデター。詳しくは、参考にしたウィキの「上海クーデター」を見られたい。]

  十日、快晴。七十七度。やや暑し。

 午後霧下る。終日客無く山中の閑暇擅《ほしいまま》也。

 森の中、林の奧の別莊の燈火次第に點《とも》る。

 日曜の晚なれば讃美歌とオルガン聞ゆ。

  十一日、晴。七十七度。

 朝よく聽けば色色の小鳥啼く。

 雷鳴の後夕立あり、晴れて後《のち》通りに散步に出づ、正宗白鳥氏に會ふ。正宗氏咄嵯に菊屋を指差す。喫茶部あり小憩。再會を約して別る。

  十二日、晴。

 向ひの西洋人の女の子、うちの子と遊びませうと呼びに來る。

 

 

 續輕井澤日錄

 

 

  八月一日、晴、七十二度。

 誕生日なれば赤飯を焚く。誕生日の祝に子供からスター一個を貰ふ。

 芥川君の追悼文書かぬことに心を定む。故人を思へば何も書きたくなし。「中央公論」「改造」へ事情を云ひ斷る。

 この日、中河興一君一家族來る。

 志賀直哉氏庭前に來て長與氏へ來れる途すがらなりとて寄らる。

  同じく二日。晴。七十度。

 西洋人の子供大勢花をもらひに來る。

「文藝春秋」の菅君に自分の意思をつたへ悼文を書かぬことにする。「文章倶樂部」へも同斷。

 午後小畠義種歸京。送りながらプールに山根義雄君と行く。

  同じく三日。七十度。雨。

 山根君歸京。洋村秀剛君來る。

 中河君の奧さん別莊見つかりしとて見えらる。

  同じく四日。七十度。雨折折、霧。

 午後すぐ上手の長與善郞氏を訪ふ。病中にてすぐ歸る。

 夜、聖路加《せいルカ》病院の池田博士と助手と共に話に見えられる。數刻の後病人ありて歸らる。

 「新潮」の追悼座談會明日あれど出席しがたく返電を打つ。

  同じく五日。雨折折晴天。七十二度。

 仕事。改造の下山君來る。悼文やはり書かぬこととする。

    悼澄江堂

  新竹のそよぎも聽きてねむりしか

 中河君來る。新著「恐ろしき私」を貰ふ。村井武生君歸省の途中なりとて寄る。夕食の後別る。

 

 

 神無月日錄

 

 

 十一月二日 はれ。

 庭の奧は落葉を見んため掃かぬこととはせり。赤松月船君來る。妻子を國にかヘせしが妻子なくては淋しきなりといふ。僕も同感也。――田中淸一、淸水暉吉兩君來る。雜誌詩神改革せんとのことなり。今夜二日會なれど、話疲れて再び人中に出る勇氣なし。失禮する。

 三日 晴。梅もどき紅くなる。

 稻垣足穗君來る。例により稻垣君湯に行き僕も入浴す。食後神明町の時計屋に行き眼鏡の修繕を依賴す。高柳君の奧さん湯にはひりに見えらる。

 四日

 はらはちと時雨もよひの空なり。「新潮」の小說を書いて疲れ、淺草に「カルメン」と「魔炎」を見る。「カルメン」は最も映畫らしき映畫以上のものにあらず。「魔炎」は美しきものなれど詰らず。ロナルド・コールマンは單なる流行俳優たるのみ。其末路目に見ゆるごとし。最近に見たる「椿姬」はよき抒情詩也。ノーマ・タルマツヂの柔らかき素直なる藝風は、「椿姬」をよく生かしたり。

 五日 しぐれ。石蕗《つはぶき》の花くろずむ。

 雨の中に藥買ひに出でしに芥川君の比呂志君の學校がへりにあひしかば、お母さまによろしく言ひてよと云ひて別れたり。我死にて彼生きてもあらば、わが娘に彼のまた斯くは言はんものをと、歸りて妻に話しぬ。

 六日 快晴。庭前の楓散落す。

 瞼のマイボーム氏腺昨夜より痛みしが又腫物となりたり。七月より七囘目也。――堀辰雄君來り夕食後窪川君夫妻來る。乾鬼子君來る。夜、瞼の腫物疼《うづ》きて眠《ねむり》を得ず。されど此痛みの中に小說書くは自ら嚴しさを感ず。

 七日 快晴。地震あり。

 每年經師屋に障子張を命ぜしかど、今年は妻とともに張りたり。下島先生來る。宮木君來る。

 障子張るやつや吹きいでし梅の枝

 夜、宮本君と動坂に出で汁粉食べたり。「砂繪呪縛」を見しかど甚しく詰らず。

 八日 けふ立冬也。

 朝の内例により仕事。後、昨日の殘りの障子張りかへたり。うそ寒き曇天にて糊加減滑らかなり。掛軸の表裝も亦糊加減なりといへば障子張りも亦糊加減ならんや。

 夜、田村松魚氏宅にて駱駝の銅印めいたるものを購《あがな》ふ。卦算《けさん》[やぶちゃん注:文鎮。]に用ひんためなり。かへりて瞼の腫物の療治をなせり。其疼痛云はむ方なし。

 九日 快晴。

 昨夜の銅印今朝の明りに眺めしに詰らず、むしろリンガムの佛像めける銅印と取換へるべく妻を使《つかひ》に出す。かへれば松魚氏いまだ床中にありといふ。午後脫稿の上、若松町の百田君を訪ねかたがた新潮社に赴く。

 

 

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