「曾呂利物語」正規表現版 第五 / 三 信玄逝去の謂れの事
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。今回はここから。なお、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」には本篇以降の四篇は所収しない。本篇には挿絵があるが、これは「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)をダウン・ロードして適切と思われる位置に挿入した。
今回は直接話法内の入れ子の台詞が多く、臨場感と語りの中の時間経過を出すために「……」を多用した。]
三 信玄逝去の謂(いは)れの事
甲斐國(かひのくに)信玄、
「唯、かりそめの風(かぜ)の心地(こゝち)。」
と宣(のたま)ひて、醫療を加へ給へる頃、醫師作庵と二人(ふたり)、奥深き所に居(ゐ)給ひて、少し、晝寐(ひるね)し給へり。
次の障子を、
「さらり」
と開け、忍びて來(きた)る者あり、
見れば、白き小袖、裲襠(うちかけ)、さも優(いう)なる女なり。
少時(しばらく)、臥し給へる枕上に、ゐ寄りて、何の事もなく、物思はしき姿にて、歸る。
作庵、目醒(めざ)めて、是れを見るに、
『定めて、奥方より、御氣色(おきしよく)見舞ひにこそ、參り給ふらん。』
と思ひ居(ゐ)たれば、信玄、驚き、
「今の、女ばし、見たるや。」
と宣へば、
「さん候。御上﨟衆(おじやうらふしゆ)を見侍る。」
と申す。
[やぶちゃん注:右上のキャプションは「信玄せいきよのときふしんの事」とある。このシーンは作庵が見て、また、寝入った直後に、信玄が見て、驚愕して覚醒した直後を切り取ったものである。裏写りがない美麗な早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該画像もリンクさせておく。]
其のとき、信玄、宣へるは、
「……既に……此の世を去りし者なり。……不思議、尤も至極せり。……
……己(おのれ)、甥(をひ)に『一丸(まる)』と申すものありしが、其の親ども、死期(しご)に、我を賴みけるは、
『一丸、稚(いとけな)うして、行末、覺束なし。汝、養子として、守りたて、家門、相續して吳れよ。』
と云ひしを……
……一丸、成人して後(のち)、互(たがひ)に爭ふ事ありて……
……押寄(おしよ)せ、討つて候ひし。……
……其の恨み申しに……一丸の母、來りて、
『我を、迎へに來つるぞ。はやはや、來よ。』
とて、手を捉へて、引き侍るほどに、
『行くまじき。』
と云ふ。
互に曳き合ひ侍りしが、
『曳かれて行く。』
と……思ひしところに……夢……さめてありければ、
……正しく……一丸が母……枕元に有りしなり。……
……されば……此の度(たび)の煩ひ……本復(ほんぶく)し難し。」
と宣へるが、……
「……果して、逝去給ひにき。」
と、作庵、語り申しき。
[やぶちゃん注:「武田信玄」(法名/本名:晴信 大永元(一五二一)年~元亀四(一五七三)年五月十三日:享年五十一)は、当該ウィキによれば、元亀三年九月より開始した「西上(せいじょう)作戦」で、翌年、三河に侵攻、二月に野田城を落としたが、その『直後から』、『度々』、『喀血を』する『(一説では、三方ヶ原の戦いの首実検の時に喀血が再発したとも)』『など』、『持病』の結核が『悪化し、武田軍の進撃は突如として停止する。このため、信玄は長篠城において療養していたが、近習・一門衆の合議にて』、四『月初旬には遂に甲斐に撤退することとな』った。その途次、『三河街道上で、信玄は死去した』(死因は結核に合併した急性肺炎(本篇の「風」邪の「心地」は合うと言えば合う)・胃癌等も挙げられている)。『臨終の地点は小山田信茂宛御宿監物書状写によれば』、『三州街道上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)』(ここ:グーグル・マップ・データ)『であるとされているが、浪合や根羽とする説もある』とある。本篇は寝ぼけ眼乍ら、「御上﨟衆」と見て、医師作庵(不詳)が一向に不思議を感じていないことから、ロケーションは、事実とは異なる本拠の館(たち)である。
「裲襠」「りやうたう(りょうとう)」とも読み、「打掛」とも書く。室町中期以降の武家女子の正装。「応仁の乱」(一四六七年~一四七七年)以後、公家の服飾の後退に乗じ、新しい小袖型中心の衣服が成立した際、平安時代の袿(うちき)を真似て、袖を通さずに、小袖の上に、ただ打ち掛けて着たことから、こう呼ばれる。歩行の際、褄をかいどったところから「掻取り」の別名があり、これらの名称は、今日でも、伝統的な花嫁衣装に残されてある。元来、夏の正装である「腰巻」に対し、冬の正装(これによって甥の母が亡くなった折りが冬であったことが判る。これは挿絵の信玄や作庵の軽装と対比されて、その服装自体が異界の者であることを示している訳である)として用いられた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「一丸(まる)」不詳。読みも「いち」「ひと」か判らぬ。]
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