甲子夜話卷之七 10・11 長村鑑がこと幷林子對州歸泊のとき於壱州水軍の訓練を觀る事・又壱州旅泊の間、林子、長村と應酬の事
[やぶちゃん注:今回は特異的に記号等を用いて読み易くし、句読点も変更・追加した。また、《 》で推定で歴史的仮名遣で補った。二篇を合わせたのは、内容が、孰れも静山が愛惜した平戸藩重臣であった故長村鑑(鑒)(ながむらあきら)の追懐記事であるからである。漢文部は後で訓読した。その内の訓点の踊り字「〱」は「〻」に代えた。]
7―10 長村鑑がこと幷《ならびに》林子《りんし》對州歸泊のとき於二壱州一水軍《いつしうにおいてすいぐん》の訓練を觀る事
長村鑑は【内藏助。】少年のとき、予が側に左右し、才量、有《あり》て、學を好めり。長じて京師に遊學し、淇園《きゑん》に師事し、學術、長進す。後、擢《ぬきん》でゝ家老とし、年來、政治に、功勞、多し。予、退隱の後は、平戶に在《あり》て、專ら、心を家譜修撰のことに盡す。近年、國用不足のことに因《つき》て、都に出づ。林氏も、從來の相識《さうしき》にて、亦、其器度の不凡を以て、屢《しばしば》、邸に招《まねき》て懇遇す。常に云《いふ》、
「諸家の家老、知る者、多し。鑑においては、屈指、三、四人の中なり。」
と。
鑑、近來、善《よく》病《やみ》、久《ひさしく》して、都に出《いづ》るによつて、面接して、喜ぶ。病後、衰狀なく、仍ㇾ舊《きうにより》て、力を經濟に盡す。都下の事、終《をはら》ずと雖も、姑《しばら》く歸國して事を遂《とげ》んとす。然《しかる》に、歸途にして、病、發し、平戶に抵《いた》り、尋《つい》で、沒す。可ㇾ悲《かなしむべし》。途《みち》に在て所ㇾ賦《ふするところ》あり。
庚辰ノ西歸ニ、關左ニ發シ二黃疸ヲ一入テㇾ京ニ二旬、
竣テㇾ事ヲ南下シ、留ルコト二浪華ニ一又二旬餘。所ㇾ
患ル依然。因テ賦。
官道ニ馳テㇾ轎ヲ氣ハ欲スㇾ騰ント、老羸無シㇾ奈トモスルコト
病ノ相憑ルヲ。液乾テ漸〻化ス黃金佛、心熱テ常ニ思フ白玉ノ
氷。京洛花殘テ行クニ不ズㇾ耐ヘ、浪華モ酒美ニシテ
喫ルコト難シㇾ能シ。奮然トシテ就ケドモㇾ事多シ二勞倦一、臥テ
閱シテ二方書ヲ一試ニ自ラ徵ス。
此詩は、鑑が西歸のとき、佐藤坦、請《コフ》て其弟子某を從行せしむ。不日にして、鑑、疾《ヤ》む。某、此詩を錄して、都におくる。坦、
「第三句は詩讖《ししん》ならん。
と掛念す。後、果して、訃、至る。
予、始《はじめ》、此詩を不ㇾ知《しらず》。坦が言《げん》に因《より》て、始て聞き、澘然《さんぜん》として、涕《なみだ》、下る。
因て、記す。
鑑が下世《かせい》においては、林氏、
「甚だ痛惜して、これ、一人の不幸に非ず、平戶藩の不幸なり。」
と云へり。
鑑が國事に於る、般々《はんぱん》の功績あり。
武備のことに至《いたり》ては、殊更に苦心して、後法《こうはふ》を遺すこと、多し。
辛未の年、津島韓聘《かんへい》の時、上使を始め、官の諸有司、予が壱州領を經過すれぱ、諸事指揮の爲めに鑑を壱州に出役せしむ。聘事、畢《をは》りて、林氏、壱州に停泊するとき、風本《かざもと》一組の水軍、演習をして、林氏に見せしむ。林氏、歸後、その事を話して、操練の熟したると、指麾《しき》の體《てい》を得たるを激賞す。予は領内のことなれども、却《かへり》て、見ず。林氏が話を間く而已《のみ》。
その日、午牌《ごはい》やゝ下《さか》りたる頃、林氏は、客舍にて喫飯の折から、鑑、來れり。元より懇交のことなれば、飯中に對面せしに、鑑、云ふ。
「水軍の、人も舟も、備へたり。折よく、好晴なれば、神皇山に上りて見玉へ。」
と云ふ。
飯、終りて、出行《いでゆ》く。
鑑は、一人の大筒打《おほづつうち》を從へて、林氏の從者と共に出て、神皇山に抵《いた》る。
此地は風本の湊を目下に俯觀する所なり。かねて幕次《ばくし》を設けたる所に、林氏、坐す。
鑑、指揮して、相圖の砲を發せしむれば、遙《はるか》のあなたにて、答《こたへ》の砲聲、響くと、湊の内の川に用意したる軍船大小とも、次第を追《おひ》て、徐々に漕出《こぎいで》、山右より山左に、漕行《こぎゆ》く。士卒、皆、戎服《じゆうふく》して、兵器を執り、旌旗《せいき》計《ばかり》は眞を用ひず、各《おのおの》、色の紙を以て、製造せり。これにて演習の意を表《あらは》せり。船、大小、凡《およそ》七、八十、先後の順を違《たが》ヘず、行列を正《ただし》くして、山左の海灣に漕入《こぎい》りて屯《とん》す。扨、海中には、船、二、三嫂を舫《もや》ひ、その上に、席を、高く張連《はりつら》ねて、かりの敵船に設《まう》けなす。夫《それ》を目當《めあて》として、先手船《さきてぶね》より、順々に漕出《こぎいだ》す。先手は、皆、大筒なり。その玉行《ぎよくかう》、山の見物所《けんぶつどころ》の目通り、少し下る程なり。貫目《かんめ》のある玉は、一塊の黑雲となりて馳《は》す。砲聲、山海《さんがい》に振ふ勢《いきほひ》、婾快《ゆくわい》、云《いふ》ばかりなし。目當へ打付《うちつけ》たる船は、開《ひらき》て、山右のもとの川に入り、その跡より、段々に出船して、打かくる。夫より、小筒の船は、數十丸を亂發し、鎗・長刀の船は、各、その長兵《ちやうへい》を執りて漕寄《こぎよす》る。終りに壱州城代の船、金鼓を具して漕出るが、結局なり。各船、湊中《みなとうち》に往來して、五彩の旌旗、夕陽に映發《えいはつ》し、大小の砲響《はいきやう》、山海も動搖する計《ばかり》に覺へて、
「かゝる壯觀は、未曾有の事なりし。」
とて、林氏、悅懌《えつえき》せり。又、
「この演習を組立てゝ、己《おのれ》は、聲色《せいしよく》をも動かさず、幕次に在りながら、其指揮の屆きたること、手足を使ふ如くなりしは、鑑に非ずして、爲《なす》べきの人は、あるまじ。」
とて、林氏、荐《しき》りに賞讚なりし。
■やぶちゃんの呟き
漢文の賦と前書部分は、ブラウザの不具合を考えて、底本とは異なった字配とした。以下にその長村の賦を前書ともに推定訓読しておく。
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庚辰の西歸(せいき)に、關左(くわんさ)に
黃疸を發し、京に入りて、二旬、事を竣(をは)
りて南下し、浪華(なには)に留(とど)まる
こと、又、二旬餘り。患(わづら)ふる所、依
然たり。因つて、賦す。
官道に轎(きやう)を馳(は)せて、氣は騰(のぼ)らんと欲するも、老羸(らうるい)、奈(いかん)ともすること、無し、病ひの相(あ)ひ憑(つか)るるを。液(えき)、乾きて、漸(やうや)う化(くわ)す、黃金佛(わうごんぶつ)、心、熱(あつ)して、常に思ふ、白玉(はくぎよく)の氷(ひやう)。京洛(けいらく)、花、殘りて、行くに耐へず、浪華(なには)も、酒、美にして、喫(きつ)すること、能(よ)くし難し。奮然として、事に就(つ)けども、事、勞倦(たらけん)多し。臥して、方書(はうしよ)を閱(けみ)して、試みに自(おのづか)ら徵(しる)す。
*
以下、賦の語注しておく。「庚辰」(こうしん/かのえたつ)は静山の生没年から文政三(一八二〇)年となる。これによって長村鑑の没年が判明する。「關左」関東。「轎」本来は中国で神輿型の前後を人が担ぐ乗り物を指す。ここは駕籠のこと。「液」身に漲る陽気の体液。「白玉の氷」「白玉」は、「白玉楼中の人」の白玉楼で、ここに確かに死を予感したニュアンスが見てとれる。「方書」医書。
「淇園」武士で文人画家・漢詩人として知られた柳沢淇園(元禄一六(一七〇三)年~宝暦八(一七五八)年)
「予、退隱の後」松浦清(静山)は文化参(一八〇六)年に隠居している。
「國用不足」如何ともし難い藩財政の不足。
「林氏」お馴染みに林述斎。
「器度」器量。
「善病」病気がちであったことを言っているのであろう。
「佐藤坦」儒学者佐藤一斎(明和九(一七七二)年~安政六(一八五九)年)か。美濃国岩村藩出身。同藩松平乗薀(のりもり)の三男乗衡(のりひら)の近侍となったものの、一年で免職となり、その後、大坂に遊学し、皆川淇園に学んでいるからである。しかも彼は林述斎の高弟であり、さらに彼の本名は坦(たいら)である。
「第三句は詩讖《ししん》ならん」「讖」は「予言すること」「未来の吉凶・運不運などを説くこと」を言う。「第三句」というのは、句の切れ目からなら「液乾テ漸〻化ス黃金佛」とあろうが、私は続く「心熱テ常ニ思フ白玉ノ氷」を含めて、第三句と第四句とを指すべきと考える。
「澘然として涕下る」、今まで堪(こら)えていた感情が一度に迸り、激しく涙を流すことを言う。
「下世」ここは、時代が下った「現代」の意。
「般々」色々な局面。
《はんぱん》の功績あり。
「辛未」(かのとひつじ/しんび)は同前から文化八(一八一一)年。
「津島韓聘」室町時代から江戸時代にかけて朝鮮から日本へ派遣された外交使節団朝鮮聘礼使の招聘ことであろう。ウィキの「朝鮮通信使」によれば、この年に第十二回のそれが行われ、朝鮮聘礼使は、それまでは、本邦の将軍の代替わりの際に対馬から壱岐を経て、江戸城に向かったが、この時は対馬差し止めで、これを以って従来の使節来訪は断絶している。
「風本」壱岐島の北西部の江戸以前の旧広域地名。現在の長崎県壱岐市勝本(かつもと)町附近相当(グーグル・マップ・データ)。
「午牌」正午。
「神皇山」不詳。場所柄、神功皇后絡みの伝承地であろうが、「ひなたGPS」を見ても、見当たらない。但し、「此地は風本の湊」(現在の勝本港のある湾)「を目下に俯觀する所なり」とあることから、自ずと限られてくる。位置的に見下ろせる格好の場所は、「ひなたGPS」のここの「城山」である。ここの北方の海岸近くには「神功皇后の馬蹄石」(グーグル・マップ・データ航空写真)もある。
「幕次」本来の軍将軍が陣を置くところの陣幕のことであろう。
「戎服」鎧。
「旌旗」戦場などで用いる正規軍を示す軍旗。
「貫目のある玉」重量の重い大砲の弾丸。
「長兵」鑓(やり)や長刀などの長い白兵武具。
7―11 又、壱州旅泊の間、林子、長村と應酬の事
話次《はなしついで》に、林氏も、悵然として感舊の情に堪《たへ》ず、又、物語ありしは、
「西役の來路は、初夏なりしが、壱州泊船の頃、連日の雨にて、風信を失《しつ》し、數日《すじつ》、船居《ふなゐ》せし時、鑑《あきら》、小舟に乘りて、來り訪ひ、海鱗《いろくづ》、數頭《すとう》を攜贈《けいざう》せしに、臺に積《つみ》て、其席にある内、魚、躍り、墜《おち》て、なを、潑剌《はつらつ》し、海老は、其邊を、這ひ𢌞りけり。かゝる新鮮、都下には見ざることなり。此等、今に至りて囘顧すれば、隔世の事とは、なりぬ。尓時《このとき》、予が席上の詩、ありき。
勝本浦ニ阻ラルㇾ雨ニ。長邨仲槃見ルㇾ訪ハ、
欵晤ノ之次デ、出ス二近製數篇ヲ一。乃用ヒ二
其首章ノ韵ヲ一、以攄ス二衷抱ヲ一。
雨暗シテ瀛壖晝欲ルニㇾ眠ラント、
欣ブ君ガ盪漿シテ破ルヲ二蕭然ヲ一。
計テㇾ程ヲ坐ニ指ス滄溟ノ渺タル、
談テㇾ故ヲ翻チ驚ク歲月ノ遷ルヲ。
志氣ハ從來爲シカ二劍合ノ一、
江山早晚カ又鑣聯セン。
明朝滿テㇾ意ニ帆セバ二津島ニ一、
新著只須ク潮信ニ傳ヘン。
やうやう、天、晴《はる》れば、
「兼て、平戶侯より鑑《あきら》に命ぜられたり。」
とて、岸上《がんしやう》の樓に招請す。その所より、鑑と同行して、傍近の勝所に遊ぶ。一高處の眺觀に堪《たへ》たる地、あり。「三石《みついし》」と云《いふ》。山上に大石《だいせき》あり。其時、予、詩一首を賦す。鑑、
「その詩を石に鐫《ゑ》り、永く此地の故事とせん。」
と云。予、書字に拙《つたけ》なれば、書丹《しよたん》し難し。」
とて、辭す。
「然《しか》らば、歸路に、紙に書して示すべし。それを以て、刻せん。」
と云しが、歸時《かへるとき》、倥傯《こうそう》にて、かの水軍演習の翌朝、順風を得しかば、その儘、開帆して、其事を果《はた》さゞりき。遊嚢《いうなう》の中に、草案あり。」とて寫して示さる。
祗役度ルニ二滄瀛ヲ一、風潮滯ス二客程ヲ一。
家山雲自ラ遠ク、舟檝鳥ト倶ニ輕シ。
浪ハ捲ク三韓ノ海、壘ハ殘ル一夜ノ城。
雄圖已ニ陳迹、拊テㇾ髀ヲ且馳スㇾ情ヲ。
文化辛未ニ、韓使聘ス二津島ニ一。
余奉テㇾ命ヲ赴キㇾ事ニ、停-二泊シ
斯浦ニ一、登テㇾ山ニ以眺ム。心
甚樂シ也。四月某ノ日題ス。時ニ
海晴氣燠ナリ。
「かく、跋言《ばつげん》して、書草《かきさう》せしまゝにて、止みぬ。かゝる心友の、いつか、鬼簿に上りしと思へば、懷舊の感、止《やむ》べからず。」
とて、頻りに、林氏、浩歎《かうたん》せり。
■やぶちゃんの呟き
漢詩と漢文後書部分は、ブラウザの不具合を考えて、底本とは異なった字配とした。以下に後書ともに推定訓読しておく。但し、「翻チ」は訓ずることが出来ないので、「チ」は「テ」の誤字か誤植と断じた。
*
勝本の浦にて、雨に阻(はばま)まらる。
長邨仲槃(ちやうそんちゆうばん)、
訪(おとな)はらる。欵晤(かんご)の
次(つい)で、近製の數篇(すへん)を
出だす。乃(すなは)ち、其の首章の
韵(ひびき)を用ひ、以つて、衷抱
(ちふはう)を攄(ちよ)す。
雨 暗(くら)くして 瀛壖(えいそ) 晝 眠らんと欲するに
欣(よろこ)ぶ君が 盪漿(たうしやう)して 蕭然(せうぜん)として破るを
程(ほど)を計りて 坐(ざ)に指す 滄溟(さうめい)の渺(びやう)たる
故(ふる)きを談(かた)りて 翻(ひるが)へりて驚く 歲月の遷(うつ)るを
志氣は 從來 劍合(けんがふ)たりしか
江山(かうざん) 早晚(さうばん)か 又 鑣聯(ひようれん)せん
明朝 意に滿ちて 津島に帆(ほ)せば
新たに著(つ)く 只(ただ)須(すべか)らく 潮信(てうしん)に傳へん
*
同前で注す。「長邨仲槃」長村鑑の異名(韓の使者と遭うための漢名っぽい)であろう。「欵晤」親しく逢うことを言う語。「韵」ここは、その近作の持っている詩想・詩情を指していると推定して、かく訓じた。「衷抱」思い抱くところの感懐。「攄」「述べる」の意がある。「瀛壖」海岸。「盪漿」「温かい汁物を作る」の意か。「蕭然」もの静かに。「滄溟」青海原。「劍合」意味不明。「実際の太刀の打ち合い」の意か。「鑣聯」意味不明。「鑣」は「こじり」で刀の鞘の末端を言う。されば、この一句、無理矢理に解釈するなら、「対照的な河と山というものは、早晩には、また、きっちりと合って一つのものに連なり合うものなのか?」の意かと、ふと、思った。また、最終の一句もよく判らぬが、「『初めて対馬に着いた』と、幕府に海流を通じて伝えて呉れ」といった謂いか。よく判らぬ。ともかくも、林述斎の漢詩は、どうも、上手いとは私には、思えない。
*
祗役(しえき) 滄瀛(さうえい)を度(わた)るに
風潮(ふうてう) 客程(かくてい)を滯(とどこほ)らす
家山(かざん) 雲(くも) 自(おのづか)ら遠く
舟檝(しふしう) 鳥と倶(とも)に輕(かろ)し。
浪(なみ)は捲(ま)く 三韓の海
壘(るい)は殘る 一夜(いちや)の城
雄圖(ゆうと) 已に陳迹(ちんせき)
髀(もも)を拊(つか)みて 且つ 情を馳(は)す
文化辛未(しんび)、韓使、津島に聘す。
余、命(めい)を奉じて、事に赴き、
斯(か)の浦に停泊し、山に登りて、
以つて、眺む。心、甚だ樂し。
四月某の日、題す。
時に、海、晴れ、氣、燠(あたた)かなり。
*
同前で注す。「祗役」王命。「滄瀛」青海原。「家山」故郷。「舟檝」船と楫(かじ)。「壘」元寇の際の土塁であろう。「雄圖」壮大な計画。元の日本侵略を指すのであろう。「陳迹」旧跡。最後の一句だけ、映像的でいい。
「三石」不詳。現在の壱岐島にこの名は確認出来ない。
「書丹」後漢の蔡邕(さいよう)が丹朱を以って経を石に書いたという故事により、「誌や銘を石碑に書くこと」を言う。
「倥傯」「非常に忙しいこと」を意味する漢語。
「遊嚢」旅行用の収納袋のことであろう。
最後に一言。この長村鑑……とても、逢ってみたくなった……