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2023/04/18

下島勳著「芥川龍之介の回想」より「古織部の角鉢」

 

[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載によれば、昭和一〇(一九三五)年九月二十五日発行の『茶わん』初出で、後の下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。

 著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た(但し、単行本刊行時期のため、正字と新字が混淆してはいるので、そこにはママ注記を入れた)。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。一部に注を挿入した。また、本篇にはルビが一切ないが、なくても概ね読めるが、一応、若い読者のために、ストイックに《 》で推定で歴史的仮名遣で読みを振った。]

 

古織部の角鉢

 

 鹽田力藏翁の著「陶磁器硏究」の資料として、芥川龍之介君所藏古織部の角鉢を撮影させて貰ふために、樂之軒だか北原君だかの代理として、私がその借り受けの役目を承はり、澄江堂へ出かけて行つたのは昭和二年のたしか四月の――ちようど[やぶちゃん注:ママ。]鵠沼から歸つてゐられたある日の午後であつた。

 客間の椽《えん》に將棋盤を据えて、ご老父と珍らしく戰ひの最中だつた芥川君に――豫《かね》てお話しておいた例の品を唯今拜借に出かけたのだが――といふと、これは如何なこと、いつもならば氣輕く應じてくれる筈の芥川君が突然、『先生――あんなものはさう大したものじやないんですよ。――北原大輔君はお世辞[やぶちゃん注:ママ。]に褒めてゐるので、決してあんなものを心からさう尊《たつと》く思つてゐるわけがないんです。何だか莫迦にされるような氣がするから、やめにして下さい』といふのである。

 私はオヤ今日はどうかしていゐるな――聊か意外な感に打たれたので――

 『僕は一體あの品がほんとう[やぶちゃん注:ママ。]ぬ良いか惡いか知らないが、北原君はその道の專門家で、現に帝室博物館の陶磁器主任ですよ。ほかのことならいざ知らず、苟《いやしく》も陶磁器についてお世辭を言ふやうな人物であるかどうかはわかつてゐられる筈だがな……』と、私の言葉の終るか了《をは》らぬうちに突然

 『おばあさんおばあさん』と、大きな聲で母堂を呼び、早速取り出して頂いたのは見覺えの古色蒼然どころか、頗る眞つくろけな箱であつた。

 そのとき冷然一瞥を與へた芥川君の眼が平穩に復したと見る間に、もう將棋盤の上を見つめてゐた。

 實をいふとこの頃の芥川君は、既に書畫や古器などには殆ど興味も執着も失はれてゐたぱかりか、甚だうるさいものに思つてゐたらしい――のみなちず、時に玩《もてあそ》ぶ人をさへ竊《ひそ》かに輕蔑してゐるのではないかと思はせることすらないではなかつた。だからあの刹那の言行もそんな悲しい現れの一端と見るべきではなからうか?

 一體この古織部の角鉢は、室生犀星君などもよく行つた團子坂上の古道具屋で買つたもので、佐藤春夫編「おもかけ」[やぶちゃん注:ママ。]の中の愛玩品の始めの頁に載つてゐる。その解說に「古織部角鉢。骨董屋の塵のなかゝら彼が自ら得たもの。」これは彼の最も自慢の品であつた。全集第六卷三六七ページ「わが家の古玩」にいふ「陶器もペルシヤ、ギリシヤ、ワコ、新羅、南京古赤繪、白高麗を藏すれども、古織部の角鉢の外は言ふに足らず」といつてゐるのがこれである。

 ……が、この自慢の愛器どころか、既に總てのものから執着の離れてゐた芥川君は、鹽田翁の著害の出版されないうちにあの世の人となつてしまつたのである。

    (昭和一〇・九・二五・茶わん)

[やぶちゃん注:『鹽田力藏翁の著「陶磁器硏究」』陶磁器研究家で美術評論家でもあった鹽田力藏(しほだりきざう 元治元(一八六四)年~昭和二一(一六四六)年:陸奥安達郡(後の福島県内)出身。福島師範を卒業後、岡倉天心の知遇を得て、東京美術学校(現在の東京芸大)で陶磁講座を担当し、日本美術院の編集部を主宰した。明治四〇(一九〇七)年から「日本近世窯業史」編集のため、全国の陶窯地の実地調査に当たった)が、芥川龍之介自死の五ヶ月後の昭和二(一九二七)年十二月にアルスから出版した「陶磁工藝の硏究」のこと(人物については、講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。

「樂之軒」「脇本樂之軒」(わきもとらくしけん 明治一六(一八八三)年~昭和三八(一九六三)年)は美術史家。山口県出身。本名は十九郎(そくろう)。藤岡作太郎に国文学を、中川忠順に美術史を学び、大正四(一九一五)年、美術攻究会(後の東京美術研究所)を設立し、昭和一一(一九三六)年には機関誌『画説』(後の『美術史学』)を創刊した。昭和二五(一九五〇)年、東京芸大教授。重要美術品等調査委員・国宝保存会委員も務めた。著作に「平安名陶伝」がある(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。」

「北原君」後に出る通り、北原大輔(明治二二(一八八五)年~昭和二六(一九五一)年)。日本画家。長野県生まれ。東京美術学校予科日本画科卒。下島勳の紹介で、芥川と面識を持った。龍之介も参加していた文人・財界人の「道閑会」にも加わっており、龍之介の大正一四(一九二五)年二月『中央公論』初出の「田端人」の掉尾に彼が挙げられ、寸評されてある(リンク先は「青空文庫」。新字旧仮名)。

「昭和二年のたしか四月の――ちようど鵠沼から歸つてゐられたある日の午後であつた」芥川龍之介自死の四カ月前。芥川龍之介新全集の宮坂覺氏の年譜を見るに、鵠沼から帰ったのは、四月二日で、その後の同年譜では、まず、四月六日に下島が来訪しているが、この時は甥の連(むらじ:後に勳が養子とした)を連れであり、ちょっとこのシークエンスとは合わないように思われる。その後では、四月十四日の午後二時頃に来訪、室生犀星も来て(同行ではないように思われる)、『夕方まで俳談などをする』とあり、これも合わない感じがする。その後の四月二十七日の条を見ると、『夕方、下島勲が来訪する。』とあって、続けて、『所蔵の陶磁器を見るため、平松麻素子が下島宅を訪れている』とあることから、この日がその日のように見える。とすれば、ほぼ自死三ヶ月前となる。なお、この四月七日には、芥川龍之介は『「歯車」の最終章「飛行機」を脱稿した後、田端の自宅から帝国ホテルに向かう。この日、帝国ホテルで平松麻素子と心中することを計画していたとされる』が、『平松は、芥川の気持ちを静め、自殺を食い止めようとしていたものと考えられ』、『平松が』、急遽、ホテルから場を外して、『小穴隆一の下宿を訪ね、文、小穴、葛巻義敏の三人が』ホテルに『駆けつけて、未遂に終わる』とある。この自殺未遂事件は別説では、この時でないとするものもあるが、私はこの宮坂氏の時期指定を正当と考えている。

「ご老父」言わずもがな、養父芥川道章。

「おばあさん」「母堂」後者から道章の妻で、龍之介の養母芥川儔(とも)である。前者は龍之介の子らが生まれてからの芥川家内での呼び名として違和感がない。なお、龍之介が最も愛した同居している伯母フキのことは、龍之介は、決して、「おばあさん」とは呼ばない。そのような記載は一度も見たことがない。

「團子坂」現在の東京都文京区千駄木のここ(グーグル・マップ・データ)。この「古道具屋」は、芥川龍之介がかなりの骨董物を購入していることが、彼自身や知人らの記事で確認出来るが、後に、龍之介は、この店の信用性を疑う発言もしている。

『佐藤春夫編「おもかけ」』「おもかげ」が正しい。昭和四(一九二九)年座右宝刊行会刊。限定百五十部で和綴じで布張帙入り。芥川龍之介の一周忌に合わせて、佐藤が編んだ記念冊子。故人を偲ぶ種々の写真と、その解説が載る。

「わが家の古玩」遺稿。旧全集では末尾に編者による『(昭和二年)』のクレジットがある。「ワコ」調べて見たが、よく判らない。所持する筑摩全種類聚版「芥川龍之介全集」の注でも『不詳』とある。「青空文庫」のこちらで新字であるが、全集類聚版底本のものが読める。]

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