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2023/04/08

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 影の神祕

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。今回は、ここ

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。]

 

     影 の 神 祕 (大正三年三月『鄕土硏究』第二卷第一號)

 

 「影の神祕」(『鄕土硏究』第一卷第十號の五九九頁[やぶちゃん注:「選集」の編者割注に、『桜井秀「俗信雑記」中の一節』とある。最後に附した私の注も参照。])に似た事、後印度に在つたと覺へる[やぶちゃん注:ママ。]が、今、確かな證を見出《みいだせ》ぬ。但し、數年前、『文藝俱樂部』で見たは、某の、夜(よる)、未嫁(みか)の女が、自分の月水(げつすゐ)に汚(けが)れた湯具(ゆぐ)を、深更、厠中《かはやうち》に持ち入りて、燒くと、焰中《ほのほのなか》に自分の夫《をつと》たるべき人の、姿を現《げん》ず。曾て、或娼妓が此方(このはう)を驗《ため》せしに、焰中に現れた男が、日々、妓樓の門を通る下駄直しの穢多《えた》男だつたので、「此世に存命するも、面白き事無し。」とて、自殺した、と有つた。櫻井君が引《ひい》た中古の例二つ〔「小右記」や「今昔物語」に出た、春宮《とうぐう》の尊影が御不在中の宮中の灯火にうつり、若い官女の形ちが、本人の出仕しおらぬ女御殿《にようごどの》の、灯火《ともしび》にうつりしといふ〕の外に、「續世繼(ぞくよつぎ)」敷島の打聞(うちき)きの卷に、『中頃、男ありけり。女を思ひて、時々、通ひけるに、男、或所にて、灯火《ともしび》の焰《ほのほ》の上に、彼《かの》女の見えければ、「是は、忌むなる者を。火の燃《もゆ》る所を搔落《かきおと》してこそ、其人に飮ますなれ。」とて、紙に包みて持《も》たりける程に、事繁《ことしげ》くして、紛《まぎ》るゝ事の有《あり》ければ、忘れて、一日、二日、過ぎて、思ひ出ける儘に、往《ゆ》けりければ、「惱みて、程なく、女、かくれぬ。」と云《いひ》ければ、「いつしか、往《ゆき》て、彼《かの》燈火の搔落したりし物を見せで。」と、吾《わが》過ちに、哀しく覺えて、『「常なき鬼に一口に食《くは》れければ、心憂き蹉跎(あしずり)をしつべく歎きなきける程に、ご覽ぜさせよ。」とにや、此御文を見付て侍る。』とて、取り出だしたるを見れば、「鳥部山《とりべやま》谷《たに》に烟《けぶり》の見えたらばはかなく消《きえ》し我と知らなん」』云々と有る。

[やぶちゃん注:「影の神祕」文中に注した桜井秀(しげる 明治一八(一八八五)年~昭和一八(一九四二)年)は風俗史家。当該ウィキによれば、東京出身で國學院大卒。明治三九(一九〇六)年、『関保之助・宮本勢助らと、風俗史の研究会を結成』、昭和二(一九二八)年、『「平安朝女装ノ史的研究」で京都帝国大学文学博士』を授与され、『東京帝国大学史料編纂所員、宮内省図書寮御用掛など』を歴任、『日本女子大学でも教えた』とあり、『「俗信」という単語を初めて使用した研究者の』一『人と見られる』とある。また、ウィキの「俗信」によれば、『「俗信」という熟語は』「大漢和辞典」にも『記載が無く、中国では使用が確認できず、鈴木棠三は、「俗間信仰」などの縮約であり、近代の造語と見る』。『「民間」信仰ではなく、「俗間」なのは、江戸時代に「俗神道」などの語があることから、俗信という語感が受け入れられたのではないかとし』、『少なくとも大正』二(一九二七)『年に創刊された雑誌『郷土研究』に掲載された南方熊楠の「紀州俗伝」に倣ったものと見られ、この中に今でいう俗信の意も含まれているとされる』とあり、更に『同誌の第一巻十号に掲載された』、まさに、ここで熊楠が指示した桜井の論考『「俗信雑記」が俗信という語の最初見とされる』とあり、さらに『桜井秀は風俗史研究家で民俗学者ではなかった』から、「俗信」という『表記使用例の最初は民俗学論』文『ではなかった』とあった。残念ながら、桜井の当該論考はネットでは見当たらない。

「文藝俱樂部」当該ウィキによれば、明治二八(一八九五)年一月から昭和八(一九三三)年一月まで、『博文館が出版した文芸雑誌』で、当初は『純文学誌として出発したが、大正期以降、大衆化した』とあり、『泉鏡花はこの雑誌から世に出』、『幸田露伴・田山花袋・国木田独歩・樋口一葉らも小説を書いた。一葉は』、『文学界』に『連載した』「たけくらべ」を、『この雑誌に一括掲載して、文名を確かにした』などとある。

「小右記」平安中期の公卿藤原実資(さねすけ 天徳元(九五七)年~永承元(一〇四六)年)の日記。

『「今昔物語」に出た、春宮《とうぐう》の尊影が御不在中の宮中の灯火にうつり、若い官女の形ちが、本人の出仕しおらぬ女御殿《にようごどの》の、灯火《ともしび》にうつりしといふ』不詳。識者の御教授を乞う。

『「續世繼(ぞくよつぎ)」敷島の打聞(うちき)きの卷』「續世繼」は「今鏡」の別名。「今鏡」が平安末期の歴史物語。全十巻。「小鏡」とも呼ばれる。嘉応二(一一七〇)年成立。作者未詳。「大鏡」の後を継ぐ書として、「大鏡」の記事が終わる後一条天皇の万寿二(一〇二五)年から高倉天皇の嘉応二(一一七〇)年までの十三代、百四十五年間を扱っている。叙述は「大鏡」の語り手である大宅世継(おおやけのよつぎ)の孫で、百五十歳を越える老女が語るという体裁をとっている(以上は平凡社「世界百科事典」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの新訂増補『国史大系』 第二十一巻下(黒板勝美編・昭和一五(一九四〇)年国史大系刊行会刊)のここから「うちぎき第十」が視認でき、熊楠の引用部は、その冒頭である。一応、それと校合したが(殆んどひらがな)、それ自体の歴史的仮名遣の誤りがあるので、読みは、それには従ってはいない(私は「今鏡」の活字本を持たない)。但し、底本にも、また「選集」にも従うことなく、黒板氏の頭注を参考に本文を確定しておいた。]

追 加 (大正十五年九月記) ロシア人がまだ基督敎に化せざる時、火を、社《やしろ》に祀り、神官、守りて、絕えず、燃えしめた。病人の成行きを知りたい友達が、夜分其火を見おると、病人の影が、うつる。其樣子で、死ぬとか、治るとかを、翌朝、報じた(一六〇一年、ペサノ板、オルビニの「スラヴヰ國記」、五五頁)。較《や》や之に似た迷信が、英國北部に存し、三年つゞけて、マーク尊者忌(四月廿五日)の夜、十一時から一時迄、寺の車寄せで見て居ると、三年めの其夜から、來《きた》る十二月内に、其寺に葬らるべき人が、つゞいて入り來《きた》る。其間だ、見て居《を》る人が、眠らば、年内に、其人、自分も死ぬ、といふ。或寺の穴掘り爺は、每年、その夜の事を、怠らず、年内の穴掘り賃の予算を立てたとか。(一八七二年、依丁堡《エジンバラ》板、チャムバースの「日次書《ひつぎがき》」、一卷五四九頁。一八七九年板、ヘンダーソンの「北英民俗記」、五一頁)。

[やぶちゃん注:「一六〇一年、ペサノ板、オルビニの「スラヴヰ國記」、五五頁」マヴロ・オルビーニ(Mavro Orbini 一五六三年~一六一四年)はアドリア海の東岸に位置したスラブ系商人の都市国家ラグーザ共和国の首都ラグーザ(現在のドゥブロヴニク。グーグル・マップ・データ)で生まれ、ハンガリー王国でベネディクト会修道院長を務め、その後、ラグーザに戻り、余生を過ごした。年代記作家でスラヴ諸国に精通していたことで知られ、ここに言うのも最も知られている一六〇一年にイタリア語でイタリアのペーザロ(グーグル・マップ・データ。熊楠の言う「ペサノ」)で刊行された英訳で‘The Realm of the Slavs’(「スラヴ王国」)を指す(以上は英文の彼のウィキに拠った)。

「マーク尊者」「新約聖書」の「マルコによる福音書」の著者とされる聖マルコ(英語:Saint Mark)のこと。カトリック教会・正教会での彼の記念日(記憶日・聖名祝日)は四月二十五日(ユリウス暦を使用する正教会では五月八日に相当する)。

『一八七二年、依丁堡《エジンバラ》板、チャムバースの「日次書《ひつぎがき》」、一卷五四九頁』十九世紀半中葉、科学と政治の世界で非常に影響力があったスコットランドのロバート・チェンバース(Robert Chambers 一八〇二年~一八七一年:出版業者であると同時に地質学者・法学博士・進化論学者・雑誌編集者にして作家でもあった)の‘The Book of Days’。「Internet archive」の一八六三年版の同じページで確認出来た。

『一八七九年板、ヘンダーソンの「北英民俗記」、五一頁』イギリスのウィリアム・ヘンダーソン(William Henderson 一八一三年~一八九一年)なる人物が書いたNotes on the Folk-lore of the Northern Counties of England and the Borders(「イングランド北部の郡と国境域の民間伝承に関するノート」)。「Internet archive」の原本で当該ページはここ。]

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