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2023/04/11

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 御伽と云ふ語

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。今回は、ここ

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。]

 

     御伽と云ふ語 (大正三年七月『鄕土硏究』第二卷第五號)

 

 御伽と云ふ語は鎌倉時代に始めて現れたらしいとて、志田君は「源平盛衰記」や「增鏡」を引かれた(『鄕土硏究』第一卷第五號二六四頁[やぶちゃん注:「選集」ではここに編者注があり、『志田義秀「邦語御伽噺考」』とある。])。然《しか》るに、「寶物集《ほうぶつしふ》」卷五に、佛の本生《ほんじやう》譚とて、「羅摩延傳(ラーマーヤナ)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。以下の二箇所も同じ。]」を載せおる中に、大王(ラーマ)、其后(シーター)と、深山に居《を》る時、龍王(十頭羅刹ラヴァーナを指す)、后を奪はんとて王を紿《あざむ》く所に、「一人の梵士、出で來たりて、『御伽つかまつるべし』とて、仕へ奉る。」とある。世に傳ふる如く、「寶物集」、果たして、治承頃、平康賴が筆《ひつ》したものなら、鎌倉時代の初めより少し先に、「御伽」てふ語が、既に行はれたのだ。尤も、康賴も、賴朝幕府を創立した後、死んだ人だが、件《くだん》の例は「盛衰記」や「增鏡」より早い者だ。

追 記 (大正十五年九月記)『鄕土硏究』第二卷第十號六三四頁に、本文に對し、山田孝雄氏の敎示あり。全文を出さう。曰く、『御伽といふ語の出處として南方氏は「寶物集」を引《ひか》れたるが、其《その》、佛本生譚は、七卷本のみに在《あり》て、二卷本、三卷本の「寶物集」には、孰れもみえず。然るに、右七卷本は、他の二種の本よりは、語法上、新しく見ゆる點、多く、後世の增補ある者と思はる。隨つて、「御伽」といふ語も、其增補の中《うち》なるべしと考ふ。右、一寸御注意迄に。』と。熊楠は、謹んで、氏の厚意を謝すると同時に、氏がこの序でに語法上の考察よりして、所謂、增補分が「盛衰記」や「增鏡」より、どれほど舊《ふる》く、若くは、新しきかを、敎え[やぶちゃん注:ママ。]られざりしを遺憾とす。

[やぶちゃん注:「志田」志田義秀(しだぎしゅう 明治九(一八七六)年~昭和二一(一九四六)年)は国文学者・文学博士(昭和一二(一九三七)年授与で、学位論文は「問題の點を主としたる芭蕉の傳記の硏究」)で俳人。富山生まれ。旧姓は藤井。俳号は素琴。岡山の六高、東京の旧制成蹊高等学校教授となり、また、母校の東京帝大や、國學院大で俳諧史を教えた。俳誌『懸葵』(かけあおい)『草上』(そうじょう)などの選者を務め、昭和七(一九三二)年には『東炎』を創刊・主宰した。著作に「芭蕉前後」、句集に「山萩」などがある。

「源平盛衰記」私は「げんぺいじやうすいき」と読むのを常としている。「平家物語」を誰かが増補改修した特殊な一異本。鎌倉中・末期の成立かと考えられている。

「增鏡」南北朝時代に書かれた歴史物語。作者未詳。当該ウィキでは、『成立年代については、確実な上限は』鎌倉幕府滅亡の『元弘』三(一三三三)六月で、『確実な下限は天授』二/永和二(一三七六)年四『月である』とある。

「寶物集」鎌倉初期の仏教説話集。元は後白河法皇の近習であった平康頼の作。治承年間 (一一七七年~一七八一年)の成立か。鬼界ヶ島から赦免されて京に帰った康頼が、嵯峨の釈迦堂(清凉寺)に詣でて、参籠の人々との語らいを記録したという結構を持つ。世の中の真の宝は何かについて語り合われ、まず「隠れ蓑」、次いで「打ち出の小槌」・「金(こがね)」と,順次に、これこそ第一の宝であるとするものがもち出されるものの、最後に、僧によって、仏法が第一の宝であると主張され、その僧が例話を挙げて、そのことを説明する構成となっている。康頼は、後、東山雙林寺(そうりんじ)に籠居して本書を著したとされる。彼は、その後、文治二(一一八六)年に、嘗つて尾張国にあった際、野間荘にある源義朝の墓に水田三十町を寄進して小堂を建てた功によって、阿波国麻殖保(おえのほ)の保司(ほし/ほうじ:これは中世の地域行政的単位である「保」の管理責任者を指す)になっている。法語的説話集の先駆けとなり、「撰集抄」・「発心集」などに影響を与えた。熊楠の略述したものは、国立国会図書館デジタルコレクションの昭和二(一九二七)年富山房刊のここで視認でき、右ページの後ろから二行目下方に問題の台詞が出る。また、所持する「新日本古典文学大系」版(吉川泰雄氏蔵本)は第二種七巻本で七巻本で最も保存度が高い伝本でとされるが、その二四一ページの十行目に『「大王のかくて行ひ給ふ事、希代(きたい)の事也。我、御伽つかまつるべし」』と出ている。

「山田孝雄」(よしお 明治八(一八七五)年~昭和三三(一九五八)年)は国語学者。論理学を採り入れて「山田文法」を構築し、「日本文法論」を著わした。更に「平安朝文法史」・「五十音図の歴史」で独創的な研究を行い、また、「平家物語考」・「国学の本義」など、国文学・国史学にも業績を残した。東北帝大教授・神宮皇学館大学長・国史編修院長などを歴任した。彼は熊楠より、八つ年下である。

「後世の增補ある者と思はる」山田氏には悪いが、「新日本古典文学大系」版の山田昭全(しょうぜん)氏の解説によれば、現在、七巻本も「後世」ではなく、康頼自身が増補したものと推定されている。よっかったスね、熊楠先生!

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