大手拓次 「くちなしいろの散步馬車」
[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。
以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅰ(大正前期)』に載るものの内、基本的には、詩集「藍色の蟇」には所収されていない詩篇を選んである。私は既に、サイトHTML横書版及び縦書版(二〇一四年一月二十七日公開)、及び、ブログ・カテゴリ『大手拓次詩集「藍色の蟇」【完】」』で分割版(二〇一三年十一月四日完遂)を公開しているからである(なお、前二者は、ほぼ正規表現に仕上げてあるが(公開以後に全体に補正してある)、ブログ版の方はUnicodeを使いこなしていない頃の分離単発のものであるため、正字不全があるのは許されたい)。
原氏の底本「解説」によれば、このパートは明治四五・大正元(一九一二)年から大正六(一九一七)年の間に創作された詩篇で詩集「藍色の蟇」に所収されるものも含まれており、数えで拓次二十五歳から三十歳に当たる折りのものである。そこに、同詩集「藍色の蟇」の『もとになったのは大正一五年』(一九二六年)『の拓次みずからの手による「藍色の蟇」の自選詩稿(一八六篇)であった』。本来『ならば、生前のその時点で詩集は実現しているはずだった。が、版元のアルスの都合か仲介者』北原『白秋の思惑(おもわく)かで実現しなかった』(私は深く後者を疑っているのだが)ことから、この大正十五年という詩人にとって一つのエポックであったであろうそれと、『拓次の自選詩稿の意図を重視して』、この『『藍色の蟇』時代Ⅰ』と、後に続く第三パート『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』の区分を行った旨の記載がある。
当時の拓次については(ここでは仮に大正七年までとしておく)、同書の原氏の「年譜」によれば、明治四五・大正元(一九一二)年七月、早稲田大学英文科を卒業(『フランス語のほかは成績不振であったが、卒論「私の象徴詩論」が優秀だったため留年を免れ』たとある)、『本格的な詩作、にわかに旺盛』となり、これ以降、多くの詩誌に詩を発表し続けるが、『大学卒業』以来、『就職もせず、叔父からの仕送りも絶えて』、故郷の群馬県碓氷郡西上磯部村(現在の安中市磯部:グーグル・マップ・データ)『磯部にはたびたび帰省するが、東京での生活は質屋通いをするほどの困窮ぶりであった』とある(大正三年の原氏の附記)。大正五(一九一六)年の一月には、既に歌人として知られていた北原白秋(当時三十二歳で二歳年上)から初めて手紙を貰っている。この六月、流石に生計を立てざるを得なくなり、『ライオン歯磨本舗広告部に就職、文案係とな』っている。十一月には、萩原朔太郎から最初の手紙を受け取っている(彼の「月に吠える」は翌年二月刊)。]
くちなしいろの散步馬車
ものしづかな夜(よる)よ、
くちなしいろの散步馬車が
靑いひづめの馬にかられて、
嫉妬深いたましひの並木路を
かなしみのそよぎのなかを……
おお 灰色のひきがへるをみたまへ。
――夜よ、毒草のしめやかな愛撫をあたへよ。